• 検索結果がありません。

第七章 徐復観と殷海光の学問観

第一節 徐復観の学問観

一 中国伝統学問観への再解釈

中国伝統思想の性格に言及する際には、「実用性」という特徴がよく取り上げられる。例 えば、李沢厚(1930-)は中国思想の性格を「実用理性」514という言葉で概括した。彼によ ると春秋戦国時代の群雄割拠の状態が社会に大変動をもたらし、各学派はこの大変動を見 越して、とるべき道を模索するために自らの学説を展開させたのである。それゆえに、各学 派の思想は殷周の「巫文化」(筆者注: 原始宗教的文化)から解放された理性を獲得した。

このような「実用理性」を持つ中国人は「浮世離れした抽象的な思弁の道を歩む(ギリシャ

514 李沢厚の解釈によると、「実用理性」という語は倫理実践、とりわけ自覚的、意識的な道徳行為を重点 的に指す時には「実践理性」という語に代えることがある。李沢厚著・坂本ひろ子ほか訳(1989)『中 国の文化心理構造』p196,平凡社。

152

のように)ことなく、また人間界を捨てて解脱を追及する道に沈替する(インドのように)

こともなく、ひたすらこの世の道の実用的な探求に固執したのである。氏族の血縁を社会の 紐帯としたことから、人間同士の関係(社会倫理と世間の実際のことがら)を異常にきわだ たせ、思考においても最も重要視することになった。それに長期にわたる農業小生産がもた らす経験論のために、そうした実用理性はよりいっそう執拗に存続することになった」515、 と李沢厚は指摘している。

実は徐復観は李沢厚より早い時期にすでに儒家思想の実用的傾向を察知している。本稿 では既に、儒家思想が形而上学ではなく、生活の指導原理であるという徐復観の発言につい て論及しているが、ここではその趣旨を、徐復観が最も重要視する孔子の学問観に対する彼 の解釈からアプローチを試みたい。

1978年の「向孔子的思想性格回帰」(「孔子の思想性格への回帰」)では、『論語』が孔子 思想研究にとって最も信憑性の高い資料であるとし、『論語』を軽視して形而上学の面から 儒学を捉えた熊十力(1885-1968)と唐君毅(1909-1978)の研究を批判している。また、

徐復観は一部の学者が『中庸』の中の「天命」という言葉のみに着目し、その分析から中国 哲学の体系を構築しようとする手法も批判する。徐復観によると、『中庸』の思想は、上の

「天命之謂性」から出発し、下の「修道之謂教」に至るものであり、そこで示されたように、

「あらゆる民族の文化は、みな天道、天命から始まったものであるが、中国文化の特徴は、

天道、天命から一歩一歩下落し、具体的な人の生命、行為にまで降りるというものである」

という516。そして、彼は「天何言哉、四時行焉、百物生焉」517を取り上げ、孔子が「天」を 一種の「経験した現象」として捉えたため、「天」から生じる「道」のもともとの意味を「人 類行為の経験の蓄積」と規定している518。さらに、「孔子が志す道は、行為経験から模索し て練り上げたものであるがゆえに、道を学ぶ人は道を行為の中に具体化して徹底させるべ きである」519と徐復観は述べ、孔子の教えが日用に役に立つことを求めて築かれた学問であ ると主張している。『論語』が言う「成人」・「君子」とは、自分の生活に励み、経験から学

515 同上、p167。

516 原文:一切民族的文化,都从天道天命開始;但中国文化的特色,是从天道天命一步一步的向下落,落在 具体的人的生命、行為之上。徐復観(1979)「向孔子的思想性格回帰」『徐復観全集・儒家思想与現代 社会』p239)。初出:『中國人』第 1 卷第 8 期,1979 年 9 月 28 日。

517 『論語』「陽貨第十七」天何言哉、四時行焉、百物生焉。通訳:天が何かを言っているか。何も言わな い。それでも四季はめぐる、万物は生長する。前掲:平岡武夫『論語』p497。

518 同上、p243。

519 原文:孔子所志的道,是従行為経験中探索提煉而来,則学道的人,自必須求在行為中落実貫通下去。前 掲:徐復観(1979)「向孔子的思想性格回帰」『徐復観全集・儒家思想与現代社会』p243)

153

ぶことを実践によって発揚できる人を指すのである520

また、「孔子思想的性格問題」(「孔子思想の性格問題」1978)と題する論文では、孔子が 日常生活においての人間の行動の道徳性を追求し、実践の中にある真理を求めていたため、

「実践」が孔子思想の優良な伝統であるとして次のように述べている。

孔子は思弁を立脚点とする思想家ではなく、実践を立脚点とする思想家である。彼 の思想の中の理想性は実践を通して切り開かれるものであり、二千五年前に、現実政 治社会条件の下で実践を行わなければならない。そのため、孔子は常に当時の現実条 件の下で、最も合理的方法を選んで実践していた。後人は彼が現実条件を否定しない ことのみから彼が当時の封建制度を擁護する保守主義者だと判断する。しかし、彼の 実践の背後にある精神および実践によって開拓される理想を関連的に考察すれば、い わゆる保守、立ち遅れ、唯心などの観念はただ後人の理解力の不足や学術以外の要素 の制限によって生まれたものであり、孔子思想の自身とまったく関係がない521

つまり、徐復観によると、孔子の教えは生活経験に由来したため、抽象化されることなく、

思考及び行動をなす原理として存在していたという。しかし、孔子の教えは中途で実践から 乖離したことにより、「専制思想」、「封建倫理」になってしまうのである。では、孔子の思 想ないし儒家を核心とする中国文化が実践から乖離した原因は何だろうか。「五十年以来的 中国学術文化」(「五十年以来の中国学術文化」・1961)において、徐復観は次のように解釈 している。

中国の学問自体は、二千年余り以来、現実問題に対する責任によって築かれた「思 想性」を主流とするものである。中国の学問の活動は、先秦時代から、主に「思想」

の活動である。しかし、満清の統治の下に、知識人は異族と専制から二重の迫害を受 け、思想の主題――現実問題から離れざるを得ず、細々した訓詁考據に逃げ込み、中

520 同上、246 頁参照。

521 原文:孔子不是以思弁為立足点的思想家,而是以実践為立足点的思想家。他思想中的理想性,是通過実 践所開闢出来的,在二千五百年前,実践必須在現実政治社会条件之下実現;所以孔子常常是在当時現 実条件之下,選択最為合理的来実践。後人僅従他不否定現実条件的這一点上著眼,便可說他是維護当 時封建制度的保守主義者。但若把他実践後面的精神,以及用実践所開出的理想,関連在一起来了解,

則所謂保守,落後,唯心等観念,只是出自後人理解力不足或受到学術以外的因素的限制,与孔子思想 的自身,是毫不相干的。徐復観「孔子思想的性格問題」、1978 年 9 月 28 日~30 日『華僑日報』『徐復 観全集・徐家思想与現代社会』、214 頁。

154

国伝統文化を人生、社会にとって完全な無用の長物になるようにさせたのである522

ここにある「『思想』の活動」とは、現実問題の解決のための思索ということである。こ のように、徐復観は、一貫して皇権専制の圧迫によって儒学の真諦が歪められたことを非難 する他に、「虚無主義」の侵食も重要な原因として捉えている。これから、徐復観における

「虚無主義」批判について検討する。

1960 年代の台湾地域において、実存主義は一種の文学思潮として流行していた。台湾大 学の学生である王尚義523が書いた小説『従異鄉人到失落的一代』(『異郷人から喪失のジェネ レーションまで』、1964年)と『野鴿子的黃昏』(『野鳩の夕暮れ』、1966年)は台湾存在主 義文学の代表作と言われ、当時広く読まれ一世を風靡した524。しかし、徐復観は存在主義が 近代化の弊端によりもたらされた人間の疎外から生じたものと見なし、全てを否定し、社会 の基礎を動揺させる「虚無主義」の一種の新しい変形として捉えた。このように、実存主義 の流行を契機に、1960年代に徐復観は、「虚無主義」に対する警告を発した一連の文章を発 表した。以下の部分では、彼が「虚無主義」をどのように考えていたかを、「危機世紀的虚 無主義」(1962)と「中国的虚無主義」(1962)から見ることにしよう。

まず、「虚無主義」の意味について、徐復観はニーチェの『権力への意志』の中の「ニヒ リズムとは何を意味するのか?至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ、目標が 欠けている、『何のために?』への答えが欠けている」525という定義を引用した上で、ニー チェの定義に対する自分の理解を次のように説明している。

至高の諸価値が無価値になるということは即ち人生観の崩壊であり、すなわち世界 観の崩壊である。人生観・世界観を持ってない人は、生活の目標、生活の意義を失った 人である。このような人は客観世界のあらゆるものに対して『つまらない』と感じ、自

522 原文:中国学問的本身,二千余年来,本是以対現実問題負責所形成的思想性為其主流的。中国学問的 活動,自先秦以來,主要是「思想」的活動。但在滿清統治之下,知識分子受到異族与専制的雙重圧 迫,乃不得不離開思想的主題-現実問題,而逃入到零碎的訓詁考拠中去,使中国伝統文化,対人生社 会,完全成為無用的東西。徐復観(1961)「五十年来的中国学術文化」『徐復観雑文補編(二)・思想 文化巻(下)』p148)。初出:『聯合報』1961 年 1 月 1 日付。

523 王尚義(1936-1963)河南省汜水県出身。台湾大学医学部在学中に文学創作を始め、また、バイオリ ンや油画も上手で、多芸多才の才子である。卒業後まもなく肝がんで死去した。殷海光の弟子であ り、作家・評論家である李敖は彼の親友である。

524 鄭鴻生(2007)「台湾的文芸復興与年代:七十年代初期的思想狀況」『思想 4・台湾的七十年代』,p93, 聯経出版事業公司。

525 『Der Wille zur Macht』(1901)はニーチェの死後に遺稿を元に妹のエリーザベトが編集出版したも のである。ここの引用文は信太正三等編の『ニーチェ全集』(p12,理想社,1963)によるものである。