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徐復観の民本主義における「民」の意味

第六章 徐復観の知識人論――殷海光の比較を手がかりに

第一節 徐復観の民本主義における「民」の意味

徐復観の「知識人論」を考察する前に、まず彼にとって「知識人」とは如何なるものかに ついて説明しておきたい。徐復観は知識を用いて社会に影響を与える人は「知識人」である と規定し460、そして、その知識が「正確な知識」でなければならないという。ここでの「正 確」の意味は、高尚な人格に立脚して、知識を研鑽し正々堂々とした態度で社会に接するこ とである。権勢に迎合して事実を歪曲する輩に対して、真の知識人は「先憂後楽」の精神を 持ち、理想主義を堅持するとしている。しかし、今日の多く知識人が本来の役割を放棄し、

現実的利益の獲得のみを追求するようになってしまった、と徐復観は批判している461。 今日の堕落した知識人に対して、古代の知識人はどうだろうか。徐復観は古代の知識人が

「昔の『士』、『士大夫』、『士人』および一般的に『読書人』と呼ばれる集団の中の最大多数 を指すのである」462と述べている。しかし、「我が国は二千年の専制の歴史と千年の科挙の 歴史がある。この二つの歴史的な要素は共に直接中国の読書人の身の上に圧しかかってい た。そのため、士、農、工、商の四民の中に知識人の人格が最も破綻していた。中国の歴史 において、知識人が果たした悪い役割はよい役割より遥かに大きい」463と彼は批判している。

とはいえ、知識人の可能性に期待を見出した徐復観は、あくまでも知識人の堕落が君主専制

460 徐復観(1986)「中国知識分子的責任」『徐復観全集・論智識分子』p264)。初出:『大学雑誌』1986 年 12 月号。

461 同上,p266。

462 徐復観(1954)「中国知識分子的歴史性格及其歴史運命」『徐復観全集・学術与政治之間』p149)。初 出:『民主評論』第 5 巻 8 期,1954 年 4 月 16 日号。

463 原文:但我国有両千年的專制歴史,有前多年的科挙歷史。這両種歷史因素,一起直接圧在中国「読書 人」身上,於是在士農工商的四名中,以士的人格最為破產,在歷史中,由知識分子所発出的壞的作 用,絶対大於好的作用。同上、p265。

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によって変質させられたと考え、中国文化の精神の担い手として本来の「士大夫」の姿を追 求している。

徐復観が「士大夫」を追及する方法は、「士大夫」が「民」から誕生するに至る経緯を考 察することであった。彼は『両漢思想史』(1975)464で、「民」の本質を西周時代にまで遡っ て考察している。周は紀元前 11 世紀から始まった王朝であり、紀元前 771 年の洛邑遷都を 境に、前半を西周、後半を東周に分ける。徐復観はまずヨーロッパ古代史のモデルを機械的 に中国には援用できないと指摘し、西周社会が決して一部の学者によって考えられている ようなギリシャ・ローマ時期の奴隷制社会ではないと次のように主張している。

私が言ったのは周代に奴隷がないという意味ではない。周代初期以降の三千年の中 に、中国社会にはずっと奴隷が存在していた。〔中略〕周代は奴隷があったとしても、

全体の状況から見れば、奴隷は周代の政治の基礎ではないし、当時の社会生産の主力で もない。周代を奴隷社会と見なされるのは歴史の事実を反することである465

徐復観による周代の非奴隷社会の強調は古代ヨーロッパと比べ、古代中国社会がより高 い自由度を有することを主張するためであり、社会の構成から中国伝統文化の独自性を説 明するためでもあると考えられる。

では、周代社会はどのような階級によって構成されたのか。徐復観は、「西周から春秋時 代まで、政治社会を構成するものは大まかに言うと、一が宗法制を規則とする貴族であり、

二が都市と近郊に住む国人であり、三が田野にいる農民である」466と述べ、中国社会の独自 的なあり方を言及し、そして各階級の在り方を次のように分析している。

まず、西周の「国人」階級は政治・軍事・税収など多くの面から国家を支えると同時に、

464 『両漢思想史』の創作経緯は、二つの重要的な点がある。まず、徐復観は、中国の安定的な伝統社会 が形成したのは漢代だと考え、それを形成する思想的要素を追求すべきと主張するのである。(徐復 観〔1972〕「自序」『両漢思想史・第一巻』p13,華東師範大学出版社,2001。初出: 徐復観〔1972〕

『両漢思想史・第一巻』,香港新亜研究所)。また、1972 年に郭沫若が発表した「中国古代史的分期 問題」という論文は殷代から秋春末期までの中国社会制度が奴隷制社会だと論断した。徐復観から見 れば、郭沫若の結論がマルクス主義歴史学の公式的見解にすぎず、西欧歴史の発展過程を中国歴史に 機械的に対応できない。そのため、漢代思想の背景研究の一環として、徐復観は漢代まで中国社会の 形態を考察したからである。(徐復観「有関中国周代社会性格的補充意見―台湾版代序」、同上p7)

465 我不是説周代沒有奴隷;周初以後的三千多年中,中国社会都有奴隸。〔中略〕周代雖有奴隸,但従全般 的情形来看,奴隸不是周代政権的基礎,也不是當時社会生産的主要成分;稱周代為奴隸社会,是違法 歴史事実的。同上、p13。

466 原文:従西周到春秋時代,構成政治社会構造者,大概而之,一是以宗為中心的貴族,二是住在都邑及近 郊的國人,三則是在鄙野的農民。同上、p35。

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貴族支配を抵抗し、貴族の肥大化を制限していたのであると徐復観は言う467。そして、彼は

『春秋左氏伝』から「国人」について記された八十余の記録を見つけ出した上で、「国」、「人」、

「衆」という語彙も「国人」を指すと判断している。また、これらの記録に対する考察を通 じて、徐復観は「国人」が都市の近郊に住む独立自営農民、商工業者、士から構成され、「ギ リシャ自由民と類似した階級である」と断言している468。そして、「厉王虐、国人謗王」、「鄭 人遊於鄉校、以論執政」469からわかるように、「国民」は政治的な発言力を持っているので あると彼は推測している470

続けて、徐復観は『詩経』の記載により「士」の起源を次のように推測している。

「士」はもともと「国人」の中の農民である。鉄が使用される前に、器で土を挿す には農民の中の屈強な人が必要であり、それゆえに、士は元々農民の中の屈強な人に 対する呼称であった。当時、このような屈強な士はよく甲士に選ばれたため、甲士も 士と呼ばれる。ただ、普段は依然として農作業を主たる職業とする。さらに、甲士か ら貴族の臣属として選出した人はいわゆる上士、中士、下士であり、次第に農作から 離れているが、相変わらず軍隊の下部組織の中核であり、しかも農作から脱して貴族 に仕える人は士の中のほんの一部分だけである471

そして、春秋の末期になると、軍事・政治を志向として治術を専門とする「士」が現れた。

さらに、貴族階級の崩壊により、もともと貴族に独占された知識は社会に流出し、政治を専 門とする「士」階級の発展に資したという472。では、賦税の大部分の担い手である田野にい る「農民」階級は奴隷といえるのだろうか。徐復観は土地使用権や私有財産の持つことを『詩 経』から解読し、当時の農民が決して奴隷ではなく、自給自足の「半自耕農」であると主張

467 同上、p20。

468 同上、p24。

469『国語』「周語」厲王虐国人謗王。通訳: 厲王が暴虐で、国民が王の悪口をいった。(大野峻著〔1975〕

『国語』,p67,新釈漢文大系,明治書院)『左伝』「襄公三十一年」鄭人遊於鄉校、以論執政。通訳:鄭の 人々は村里の学校に集まって、子産の行う政治の得失を批判した。(鎌田正著『左伝』,p1185, 新釈漢文 大系,明治書院)

470 前掲:徐復観『両漢思想史』p21。

471 原文:士本是“国人”中的农民。在未使用铁以前,以器插土,必须農民中指精壯者,故士原系農民中指 特為精壯者之称。当時常選擇此種精壯之農民為甲士,故士原系農民中之特為精壯者之称。故亦称甲士為 士。但其平時職業依然是以農耕為主。再由甲士中被選択而為貴族的下級臣属,即所謂上士,中士,下士,

始漸与農耕脱離,但依然為軍隊組成的基層骨幹,且服務於貴族中而脱離農耕者仍為士中的一下部分。同 上、p52。

472 同上、p53。

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する473。要するに、徐復観は、欧米の学者による文明発展段階論は中国の歴史を理解する尺 度としては役に立たないと考え、上古時代においてすでに中国の庶民が自由を享受してい たと説明している。

こうした考察を踏まえて、徐復観は、「『民』の範囲は『国人』より広い、だが、時には『民』

が『国人』を指すのである」474と結論付けている。つまり、徐復観が設定した「民」の範囲 は「農民」のみならず、「国人」も包括し、「国人」の一部である「士」も含んでいる。

また、徐復観は孟子の思想が発生した時代背景を次のように解釈している。春秋末期から 戦国初期にかけての封建制の解体は社会の流動性をもたらすとともに、「国人」階級は都市 支配者たる貴族の束縛から解放し、「農」、「工」、「商」、「士」が大きな発展を遂げ、国造り の重要な力となった475。更に、流動性のある社会の下に、人民は悪政を施す君主から離れ、

善政を施す君主のもとに集まることとなり、「民」の支持を獲得しようとするのは孟子の仁 政思想の原点であると徐復観は述べている476。そして、徐復観は更に儒家以外の諸子まで視 野に入れ、「中国的政治思想は法家を除いて、すべて民本主義と言え、つまり、民を政治の 主体とする。しかし、中国数千年の実際政治は専治政治であった」477と指摘している。その ため、古代の中国政治には「政治の理念においては民が主体であるが、現実政治においては 君が主体である」478という矛盾があるという。このような矛盾の中において、君主をどのよ うに位置づけるか、これが知識人にとって最も重要な課題であった。そのため、「中国の政 治思想はいつも政治にける君主の主体性を解消しようとし、天下の主体性を際立たせる」の だと彼は考えている479

加えて彼は、「中国の歴史の中には天下(すなわち人民)の政治主体性に対する自覚が足 りなかったが、天下は客観的で偉大な存在である」480と述べている。君主が人民を圧迫する ことは君主と天下の対立を深めさせ、必ず動乱を招くことになる481。従って、「政治上にお

473 同上、p34。

474 原文:“民”的范围,較“国人”為広;然有的称“民”時,亦指的是“国人”。同上、p21。

475 同上、p48。

476 同上、p70-71。

477 原文:中国的政治思想,除法家外,都可説是民本主義,即認定民是政治主体。但中国幾千年的実際政 治,卻是専制政治。徐復観(1953)「中国的治道―読陸宣公伝集書後」『徐復観全集・学術与政治之 間』p88)初出:『民主評論』第四巻第九期,1953 年 5 月 1 日号。

478 原文:政治的理念,民才是主体;而政治的現実,則君又是主体。同上、p88。

479 原文:中国的政治思想,総是想消解人君在政治中的主体性,以凸顕出天下的主体性。同上、p88。

480 原文:虽然在中国歴史中的天下(亦即人民)的政治主体性的自覚并不够,可是天下乃是一種客観的偉大 存在。同上、p88。

481 同上、p88。