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文化進化論と文化相対主義の間にある殷海光の文化観

第四章 徐復観と殷海光における中国伝統文化に関する論争

第一節 文化とは何かをめぐる共通点と相違点

二 文化進化論と文化相対主義の間にある殷海光の文化観

299 同上、p474。

300 前掲:徐復観「中国の伝統と外来文化」『綜合文化』2 巻 12 期,p17。

301 徐復観、「徐復観先生談中国文化」、原文の出所は不明であるが、1979 年ごろに徐復観が受けたインタビ ューによる記録と推測される。『徐復観全集・論文化(二)、3 頁。

302 前掲:徐復観(1952)「儒家精神之基本性格及其限定与新生」『徐復観全集・儒家思想与現代社会』p

73-74。

303 同上、p65-70。

91 2.1 文化の定義

まず、文化とは何か、殷海光は1959年の論文の中でやや複雑な表現で次のように定義し ている。

文化は一種の実在的存在である。この種の存在はコミュニティ全体により獲得され、

そしてコミュニティにより種々の符号・特徴で伝播されるすべての行動モデルである。

そのため、文化とは一つのコミュニティが持つ全ての成果である。そのため、一種の玄 学的観点によって作られた単純な価値観念ではない304

このように、殷海光は文化に対する形而上学的解釈を否定している。また、ここに示され た「成果」は、人間が与えられた環境のもとで、環境へ適応するために形成した人間関係や 製造した生産物を指すのである305。そして、「もし環境と人間関係が変われば、それに伴っ て文化も変わるべきだ。もし本来の文化が部分的ないし全体的に不適当になれば、我々は文 化を部分的ないし全体的に変えなければならない」306。このように、この時期の殷海光は文 化進化論の観点から文化への定義を行ったが、後に殷海光の文化論の骨格たる仕事である

『中国文化的展望』を執筆した際、彼は欧米学者の理論を吸収したことによって文化の定義 に文化相対主義の要素を加えたのである。

『中国文化的展望』の第二章「什麼是文化」(「文化とは何か」)で殷海光は、直接的に文 化の定義を下さず、欧米学者数十人が用いる文化の概念を列挙し検討した上で、そこから幾 つかの文化の最も基本的な要素を導き出した。それを試みに要約すれば、以下の通りである。

①文化は物質と精神を全て包括する。

②あらゆる文化は異なるスピードで常に変化している。

③各々の文化は、物事に対する価値判断の基準がそれぞれ異なっている。つまり、相 対的価値観が含まれる。

304 原文:文化是一種実際的存在。這一種実際的存在,係由整個社群所獲得並由社群籍種種符徽所伝播的一 切行為模式。殷海光(1959)「中国文化発展的新取向」『殷海光全集 14・学術与思想』p979)。初出:

1959 年 7 月 16 日付『自由中国』巻 21 期 2。

305 同上、p979。

306 原文:如果環境和人際関係有所改変,那末文化也得跟着有所改変。如果原来的文化是部分地甚至或全部 地不適用,那末我們必须部分地或全部地改変它。同上、p979。

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④各々の文化は、共通性を持つとともに特殊性を有する307

また、彼は文化発展が異文化間の接触による文化変容(acculturation)により発生し、維 持されるものと指摘している308。さらに、人間社会が生物としての欲望だけを満足させる未 開社会から、精神の追求を満足させる文化的社会に向けて進化していると殷海光は指摘す る309

以上の殷海光の文化の定義を前節で見た徐復観と比較して見ると、両者は共に文化の形 成・変化・発展における人間の自由意志を決定的な要因として強調し、無形的な精神を有形 的な物質の上位に位置づけていることが理解できる。

2.2 殷海光による中西文化の比較

「文化定義」の議論のもとに、殷海光は中国文化と西洋文化の優劣という問題について分 析を行い、中国文化が衰退した原因を探っている。殷海光は文化の優劣の判断が極めて困難、

ないし不可能であると考え、それぞれの文化がそれぞれの文化の中で生活する人にとって 必ず価値を有するものであり、異文化は自らの価値観を外部から測ることはできない、と文 化相対主義の立場から示唆している310。しかし、同時に、殷海光は、現在のグローバル化し た世界には、文化相対主義の適応範囲が個人の生活のみになり、人は自分好みのスタイルで 生活できるが、国家、民族のレベルから考えると、競争激化に伴う環境変化への適応の程度 が文化の優劣として反映される、と指摘する311。彼は、中国の伝統文化は明らかに環境変化 への適応能力が乏しい文化であると断言し、西洋文化の侵入による近代の激変への適応障 害(maladjustment)が近代の中国文化の苦境をよく表していると考えている312。こしうた 歴史発展の考えた方は、明らかに近代の中国思想界において流行した進化論の影響を受け たものであろう。

では、中国文化の適応能力が発達しなかった理由は何だろうか。殷海光は「中国の社会構 造」と「儒教的倫理観」という二つの側面から理解を試みている。「儒教的倫理観」につい

307 前掲:殷海光(1964)『中国文化的展望』(『殷海光全集 1・中国文化的展望(上)』p51-53)。

308 同上、p55。

309 前掲:殷海光(1965)『中国文化的展望』『殷海光全集 2・中国文化的展望(下)』p589)。殷海光の文化 進化論については拙稿「殷海光における進化論について」『比較文化研究』第 121 号、2016)を参照で きる。

310 前掲:殷海光(1965)『中国文化的展望』『殷海光全集 1・中国文化的展望(上)』p95)

311 同上、p31。

312 同上、p32。

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て、彼は家父長制を維持する儒教的倫理の重圧によって、個人の発達と個性の発展が達成で きなかったと指摘する313。こうした指摘は「新文化運動」以来の伝統文化批判の主旨とほぼ 同じなので、これ以上言及しない。

一方、「中国の社会構造」についての殷海光の所説において新しい知見の拡充に向けた取 り組みが見られたため、重点的に検討したい。殷海光はドイツの社会学者・レッドフィール

ド(R・Redfield,1897-1958)が主張した「大伝統・小伝統」314という理論を引用しながら、

中国古代の社会構造と文化の状況に対する分析を行っている。

すなわち、清末までの中国において、「皇族」・「貴族」・「士大夫」・「農民」・「流民」とい う5つの階層によって閉鎖性が強い二元的な社会構造が形づくられた。すなわち、上層の

「皇族」・「貴族」・「士大夫」と、下層の「農民」・「流民」とである。「階層」を移動するル ートは、科挙か反乱しかない。そして、そのルートは大多数の庶民と無関係である。何故か と言うと、経済成長の時期があったものの、増加した人口に防げられたため、中国の庶民は いつも貧困の状態が続いたからである。庶民は貧困のため、殆どが教育を受けることができ ない文盲であり、さらに、自由に移動や職業選択さえできないがゆえに、農村から都市への 流入を阻止され、村の「小伝統」のみで生活する「愚民」であったという315

このように上層階層が大部分の財産を所有しているのみならず、中国文化の「大伝統」を も独占した。従って、上流の貴族階層と下流の庶民階層の間に、大きな文化的障壁があった ので、庶民は中国「大伝統」の神髄に接する機会さえも奪われた。「大伝統」と「小伝統」

からそれぞれ生まれたエリート文化と庶民文化が対立する枠組みで、殷海光は中国伝統文 化を捉えている。

さらに彼は、上層階層に属する知識人が持つ「大伝統」こそが中国文化の根本であり、中

313 同上、p107-118 の内容を参照できる。

314 R・Redfield(1897-1958)文化人類学者、シカゴ大学出身。当時隆盛だった機能主義に立脚しながら も、ウェーバー(M・Weber)、テンニース(F・Tonnies)などドイツ社会学の成果も吸収して、メキシコ 村落研究を中心に、民族社会への都市文明の影響による文化変容の理論を展開する。その中で、道徳的 秩序が技術的秩序によって侵蝕され、新しい秩序が形成されると指摘する。「大伝統・小伝統(Great Tr adition・Little Tradition):社会は民族社会と、対置する都市社会によって構成される。民族社会は、

小規模、孤立的,同質的で、家族関係中心の集団的連帯性強く、無文字、自給自足的である。そこでの 人々の行動様式は慣習を規範とし、宗教に左右される。そしてこれら諸要素が相互に関連しあって、意 識化されない「小伝統」を形成する。一方、知識人・エリート、意識的・自省的・学問的に培われたのは

「大伝統」である。大伝統と小伝統はお互いに相互依存関係にあり、相互に影響し合うのである。(レド フィールド著・安藤慶一郎訳『文明の文化人類学 : 農村社会と文化』(誠信書房,1960)より参照。森 岡清美ほか編『新社会学辞典』(有斐閣,1993)「民族社会」「ドフィールド」より参照。石川栄吉『文化 人類学辞典』(弘文堂、1994)「ドフィールド」より参照。

315 前掲:殷海光(1965)『中国文化的展望』『殷海光全集 1・中国文化的展望(上)、p122-124)

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国文化が長期間にわたって存続できた原因であると指摘する。「中国の伝統においてはいつ も知識人が社会の指南針と見なされる。是非は知識人によって守られ、真の知識人は是非を 何よりも重視している。だからこそ、動乱があっても中華文明は一命を取り留めることがで きる」316。しかし、問題となるのは、大部分の知識人にとって、学問の習得が「大伝統」を 発達させるためではなく、利益と地位を獲得するためであるところにある、と殷海光は指摘 する317

無教養の庶民、功利的な知識人により、中国の「大伝統」は進歩もなく、ただ破壊された ため、階層を超えて普遍的・共通的に認識されて継承されるものとはならなかった。これは 殷海光が考え出した中国の「大伝統」が発揚されない要因の一つである。

それでは、知識人に守られた「是非」すなわち中国文化の大伝統は、具体的にいかなるも のであろうか。殷海光から見れば、中国文化と西洋文化の「大伝統」はいずれも「道徳」に 属するものである。彼は中国の大伝統の核心が孔子の「仁」と孟子「義」、欧米の大伝統の 核心がキリスト教の「博愛」であると指摘し、それを「道徳原理」と呼ぶ。しかし、「道徳 原理」が確立されても、世の中は常に変化しているから、善悪の判断としての正しい「道徳 規範」が確立されることを意味するのではない。

そのため、殷海光は「大伝統」の核心の地位の確立にとどまらず、「中西文化」の融合の 発想からそれぞれの「大伝統」を互いに調合させる「東西道徳整合(integration)」論を生 み出すに至るのである。ここで、その概要について説明したい。

彼によると、私たちが直面する問題は常に変化するため、「民主」を用いて問題となる対 象を明確化し、その問題に基づいて、「科学」を用いて問題の原因を解明するとともに、「孔 仁孟義」・「キリスト教の博愛」・「仏教の慈悲」(筆者注:インドの大伝統)という三つの「道 徳原理」から問題解決するための新しい「道徳規範」を導き出すというのである318。殷海光 は中国伝統道徳が価値あることを認めても、直接に現代的道徳へと転用することができな いと考えているのである。そして、『中国文化的展望』の最後に、殷海光は新文化の実現に 向けて知識人の不断の努力が必要と結論付ける319

316 原文:中国的伝統一向是知識份子乃社会的南針。是非被保持在知識份子那裡,而且真正的知識分子把是 非之分際看得非常厳重。正因此故,每次大乱過後総可保持一点命脈。前掲:殷海光(1965)『中国文化的 展望』『殷海光全集 2・中国文化的展望(下)』,p634)

317 前掲、殷海光(1965)『中国文化的展望』『殷海光全集 1・中国文化的展望(上)』,p155-156)。この 点については拙稿「殷海光の知識人について」『国際文化研究』第 22 号、2015)で詳しく論じている。

318 前掲:殷海光(1965)『中国文化的展望』の第十四章「道徳的重建」(『殷海光全集 2・中国文化的展望

(下)』,p561-598)の内容を参照した。

319『中国文化的展望』の終章「知識份子的責任」『殷海光全集 2・中国文化的展望(下)』,p603-632)に