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社に関する先行研究と問題の所在

ドキュメント内 京都女子大学大学院 (ページ 43-49)

中国の伝統的村落社会において,地縁集団は血縁集団と同様に村落の自律自治という点 で重要な役割を果たしてきたことは,第1章で論及した通りである。中国の地縁集団を指 す場合には,「会」と「社」のどちらかを使用するのが一般的であるが,会と社の意味が異 なると指摘をする研究者もいる。車文明は次のように述べている(車2014)。

社とは土地の神様,すなわち「土地神」である。民間では,決まった世帯数で社を作 る場合もあるが,場所はどこでもよく,比較的自由に土地廟を作ることができる。会は 会合,聚合,聚会,集会の意味で,人,物が集まるところである。語源学から見ると,

社は会より早い時代に出てきた言葉で,社と会がそれぞれ違う意味を表す。具体的な違 いは次の通りである。

①社は純粋な民間組織である。宗教信仰,社地域内,業界の共通利益のために自発的 に組織した自律的な集団であり,所属する党派がなく,行政から命令,束縛されないの が特徴である。会は政権側の末端組織で,行政と民間集団の中間に位置する立場である。

中央政権が直接,間接的に郷村を管理する主要な媒介とルートで,地縁ごとに設定した 制度の一つである。

②社は民間祭祀および寺・廟の修繕維持が主要な役割で,同時に郷村民の道徳教育,

郷村の規定・民約の制定と実行など社会的な役割も担う。会は郷村のすべての公共事業,

徭役の派遣・分配,税金の徴収,治安維持,学校,救済などの責務がある。

③社への参加は自由意志によるもので,会への参加は強制的である。

④社結合の紐帯は地縁以外に,信仰・業縁もあるが,会は完全に地縁的である。

しかし,史五一の論文で言及した例えば陳宝良は,明代の会と社を考察し,当時の会と 社の集団が「講学会」,「文人結社」,「民間的結会」,「善会」,「都市遊民結社」,そして「遊 劇怡老之会」の六種類あると考え,明清時代の会と社を性質ごとに「政治性会社」,「経済 性会社」,「軍事性会社」,「宗教性会社」と「文化性会社」の五つに分類した。卞利も徽州 の会と社を「文会」,「祭祀性会社」,「経済性会社」,「慈善和公益性会社」,「宗教性会社」

の五つに分類した。さらに,邵鸿も同じである(史2014)。これらの論文内容から見ると,

彼らは会と社を区別せずに使用している。従って,中国では会と社という言葉は,地縁集 団に限らず,一つの集まりを意味する時に使用されることが多い。このような様々な会と 社について,車文明は,「宋代以降に,結社,結会という現象が社会生活のあらゆる分野に 現われ,普遍化しはじめた」(車2014)とし,また,史五一は,「中国民間の会・社集団は 戦国・漢代に新興し,その後発展し,明清時代に盛んになった」(史2014)と述べた。

実際に会と社という言葉に関しては地域的な言葉使いの差異もあって,車文明のように,

文字だけでこの両者を区別することが適切かどうかについて検討する余地があると思われ る。筆者は,会と社という言葉の意味に言及するつもりはないが,その集団としての性質 に注目することで,社会学における集団の分類基準に基づき分類する必要があると考える。

というのも,従来の会や社の研究を見ると,残念ながらこのような理論の枠組を設けて,

分析する論文は皆無に等しいからである。なお,本論文ではすべての会や社を包括的に分 析することを目的とはしていないので,村落社会にある会と社に限定したい。

第1節 先行研究

地縁集団とは土地の共同を地盤とする集団のことであるが,これまで中国の地縁集団に 関する研究はそれほど多くなかった。邵鸿は,学界では明清時代の都市・鎮の業会(ギルト), 商会などに関する研究が盛んで,村落社会にある会や社についての研究が欠如している。

また,農村経済,宗族などの問題に注目してきたが,会や社に関しては,記述的なものが 多く,その特徴や変遷に関する研究が不十分なゆえ,その機能と村落社会に与えた影響に ついての検証も少ない(邵1997)と指摘している。近年になって中国国内外の研究が進み,

その対象も中国全土に広がり,成果も徐々に増えてきた。

社がいつ頃形成されたかについては諸説がある。一説では,周代には社稷の祭礼は宗廟 における祖先の祭礼と並ぶ重要な国家祭祀とされ,穀神の稷は周王朝の祖先とされるに至 り,社稷が国家自体をも意味するようになったとのことである。

清水盛光は,「中国では古くから郷村における土神の共同崇拝となって形象化されていた ということである。社に対する農耕儀礼としての春祈秋報の祭がそれであって,郷村の社 は,置社,里社,民社或いは単に社の名の下に周から清の時代まで伝えられた」(清水1983: 654)と語る。

王日根は,「中国封建社会において基層行政体制を構築する以前に,すでに基層自治の要 素が多く存在していた。周,秦時代にすでに 20 戸を社にする慣習があり,元代になると 50戸ごとに社を設置する制度ができて,地方によっては一族を一つの社にするところもあ る。……社には家屋があり,宗族には祠堂がある。宗族構成員も社を所有していたことを 表す」(王1997:13)と述べた。

一般的に,社とは本来原始集落の中心となる標象をいい(やがては土地神ともなる),そ こでは播種や収穫の農耕儀礼,集落の集会などが行われ,その標象には樹木,封土,石な どが用いられ,会より早い時期にできたといわれているが,上述の研究からみると,社集 団はその意味が時代とともに変化しつつ,清代にまで存在していたことが分かる。

このような村落の地縁的結合は如何にして可能であるか。その理由として清水盛光が挙 げているのは,①聚落せる家居の近隣関係である。②村落民と土地との密接不可離の関係 である。それは,土地に対する結着感情と,この感情における相属及び共属の自覚である

と同時に,祖先の土地と彼らの氏族の組織の祖廟のある誕生地に対し,従って自己の出身 地たる村落に対し,祭祀上或いは人格上の重要な関係をもち続けることを意味する(清水 1947:182-6)という二つである。

具体的な地縁結合の社に関する研究としては,次のようなものがある。上田信は「明代 には里甲制の対応するかたちで,この「社」が再編され,有力リニージが輪番で祭祀を運 営する「社戸」に充当された。社戸は「賦役黄冊」の改定を担当し,世襲である。「戸」は 世帯ではなく,リニージの分枝である「房」である。珠江デルタでは里甲制に起源を持つ 図甲制が清末まで存続した。この制度下,実在の土地所有者は「戸」に帰属する「丁」と して位置づけられ,「戸」は地域リニージに相当する。税糧の納付は「戸」を通じて行なわ れ,土地の所有権はリニージによって保証されていた」(上田1995:190)と語る。

山本真は,「福建省南西部龍巖県における村落の領域と社会紐帯」中で次のように述べた。

当該地域の最大の寺廟は白雲堂(適中鎮中心村敦古,南宋時代建立)である。主神は 聖王公と呼ばれ,東晋の宰相謝安とされる。白雲堂の神事であり,神像が鎮内各地を巡 行する蘭盆盛会(15 世紀に開始)では適中の四大姓が連合して祭を挙行した。その挙行 組織は四姓七団(陳家隆戸,林芳高戸,頼朝英戸,頼万良戸,頼明高戸,謝陽高戸,謝 陽明戸)であり,祭祀にあたっては各姓・戸から費用を徴収した。「戸」はすなわち里甲 戸籍を起源とする宗族の分枝である。適中社の背景には,蘭盆盛会の挙行組織である四 姓七団など,地域における自生的な社会的繋がりが存在していたことは指摘できるであ ろう。

「社」と保との相関関係については,その数と地名とが概ね一致することから「社」

の範囲と保の範囲との間には密接な関係が見出される。さらに先に考察したように「社」

は自生的な社会関係に裏打ちされた範囲であるとすれば,保の範囲と「社」の範囲とは 意図的に重複させられていたと判断できるように思われる。以上から清代から民国初期 にかけて保甲と「社」とが融合し,統治の受け皿及び地域自治の単位として機能してい たことを窺い知ることができる。

龍巌県適中鎮では,地縁(「片」・「社」)と神縁(信仰圏)そして血縁(宗族)が多少 のずれを含みながらも重層的に積み上げられることにより,地域社会が編成されていた と結論付けられる。こうした社会編成の在り方は,社会紐帯が地縁=自然村に収斂され る日本農村の社会編成とは異なるものである。しかし,地縁・血縁・神縁から重層的に 形成される地域は明らかに一定の社会的凝集力と自治的機能とを有していた。清代の里 社・保甲制度はそうした地域の自生的な社会関係を背景として機能していたように思わ れる。その一方,国民政府の保甲制度の下では,地域の自律性・一体性を意図的に分断 し,これに権力が介入・監視する形式で保の境界が設定されたと推測される(山本2008:

62-64)。

ドキュメント内 京都女子大学大学院 (ページ 43-49)