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山西省および調査村の概況

ドキュメント内 京都女子大学大学院 (ページ 110-118)

は河東道と称された。宋代には河東路とされたが,大同周辺は燕雲十六州の一部として遼 朝の支配地域となった。元代になると山西地区は中書省直轄とされ山西道宣慰司が設置さ れ,これ以降明代では1369年(洪武2年)に山西行中書省(1348年に山西布政使司と改 称),清代では山西省と「山西」の名称が使用される。

中華民国成立後も山西省が設置されたが,1914年(民国3年)に省北部に察哈爾特別区 域(後の察哈爾省)が設置され,1952年まで山西省から別行政区画とされていた。行政区 画は11地級市(地区クラスの市)を設置し,下級行政単位である23市区,11県級市(県 クラスの市),85県を管轄する。

沿海部の省に比べると,かなり貧しい地域だが,大同や大原には大型の炭鉱がある。中 国経済史上,山西商人(晋商)は全国に勢力を延ばし,中国の金融を支配した。近年では 経済発達に伴い,山西資本が沿岸大都市部の不動産投資を積極的に行っているといわれる。

主な産業は鉄鋼,重機,自動車,化学工業である。主要な農作物は麦,トウモロコシ,

高粱(モロコシ),柿,葡萄である。観光地としては世界遺産登録物件である雲崗石窟(大 同)と平遥古城が有名である。

山西商人は中国の山西省出身の商人・金融業者の総称である。山西は古くから鉄の産地 として知られ,五代以降商人の勢力が形成されはじめたが,最も活躍したのは明清時代で ある。明代には北辺防衛の糧餉を確保するため開中法を施行したが,地の利を得ていた山 西商人は米穀商と塩商をかねて巨利を得た。さらにその資金をもとに金融業にも進出し,

活動範囲を全国に拡げ,新安商人(安徽商人)とともに経済界を支配した。明代には塩商を 典型とする政商として利益を得ていたが,清代には票号(為替)・銭舗(両替)・炉房(貨 幣銭造)・当舖(質屋)の経営など金融業を主とするようになり,その富で官界に影響力を もち,土地に対しても積極的に投資した。山西商人は徒弟制度を通じて同郷性を固守し,

組合組織を固め祭祀や取引を共同にして,各地に山西会館を建てて活動の根拠地とした。

19世紀後半には全国の為替業務をほとんど独占するほどであったが,新式銀行の発達や国 際経済の中国浸透とともに衰退した。

三国志に出てくる同郷の関羽を信仰し始めたのはこの山西商人であり,現在では中国全 土はおろか,華僑のいる世界各地に,関帝廟が祭られるようになっている1)

第2節 調査村概況

調査地の段村は呂梁市に所属する。呂梁市は山西省中部の西側に位置し,名前の由来は 呂梁山脈が境域を貫通しているところにある。1971 年に行政区域として設置され,2003 年に市となった。総人口は347万人で,面積は21095平方キロである。現在は2市(県級 市)10県1区を管轄し,全部で161の郷鎮があり,郷鎮の下に3109の行政村がある2)。 段村は行政村の内に一つである。

『段村鎮志』によると,段村は東経112°16′,北緯 37°33′に位置し,海抜は752m

ほど,村は清徐県と文水県に隣接していて,交城県城から西10キロの地点に位置している。

2本の道路が村を貫通しており,交通の便もきわめて良好である。

村の総面積は1万1394.6ム-(約760ヘクタール)で,土地は平坦かつ肥沃である。耕 地面積は全面積の80%,おもな農作物は小麦,トウモロコシ,高粱,粟と綿花である。村 民の多くは農業のほかに工業,商業と運輸業に従事する兼業農家である(山西省史志研究 院編1994:5)。

2011年には村民の精神活動と文化素養を高めるために政府,村及び村民は50万元を共 同で出資し,「村民文化活動広場」を建設した。また村民の生活環境を改善するために幅5 メートル以上の道路を全部アスファルトにする計画がある。

3:段村略図

注:本地図は村民委員会が提供してくれた地図と民国時期段村古建示意図(段村鎮志,P183)を参考に現地協力者 と筆者が共同で作成したものである。

2012年7月の最新統計によると,村の戸数は1262戸で,在籍している農業人口は4003 人,その他非農業人口は300から400人前後である3)。村には村民委員会があり,最高責 任者は村長で,村民投票で選出される。現職の村長馬WXは2008年12月に選出,2011年 に再任されて,現在2期目である。

2-1 行政区画と村内組織の沿革

『段村鎮志』によると,現在の段村は西漢文帝元年(179 年)には印駒城とよばれ,後 年,黄河の支流である汾河の氾濫によって印駒城が東城と西城に分断された。以降,印駒 城は廃墟になって,民居に変わり,段村の村名はそれに由来している(山西省史志研究院 編1994:1)。

漢代,唐代,元代はそれぞれ晋陽県,清源県,交城県の管轄下にあった。明清時代は交 城県鄭段都の管轄下になり,民国6年(1917年)は一区二段,民国29年(1940年)は五 区,民国30年(1941年)は一区に管轄されていた(山西省史志研究院編1994:2)。民国 時期に段村は山西省政府が実施した「村本政治」4)に従い,段村の内部に「閭」と「隣」

を設置した。「閭」と「隣」は政府の行政命令下に設置した行政末端組織である。

1949年に新中国が成立した後,1950年に八区に所轄され,1952年に「互助組」が組織 され,1953 年から所属が段村郷に変わり,段村が段村郷政府の所在地となった。その後,

「初級合作社」,「高級合作社」を経て,1958年に段村は東方紅人民公社が管轄下に置かれ,

1961年に公社の名前が東方紅人民公社から段村公社に変わり,段村がその下の生産大隊の 一つで,大隊の下に8つの生産小隊が組織された。この生産小隊は人民公社が解体される まで1つの集体所有制単位として存在した。1984年に人民公社が解体され,段村公社から 段村鎮に変わり,段村は鎮政府の所在地となっていた(山西省史志研究院編 1994:3-4,

197-8)。2001年に夏家営鎮の管轄下の行政村となり,現在に至っている。1984年から従来 の生産小隊は,村民委員会下の「区」となり存続している。現在でも村の多くの活動はこ の「区」を単位に行われている。

写真1 段村の入り口 2012823

写真2(左) 旧村民委員会2005222日 写真3(右) 新村民委員会2012823

2-2 経済

『段村鎮志』によると,清代の光緒から民国26年(1936年)までに,段村内には多く の商業施設があった。飲食店から酒蔵,薬局,生地屋,質屋,散髪屋など13の業界で,23 軒の店があった。民国26年(1937年)に日本軍の侵攻によって半数以上の店が閉店し,1945 年に一軒の酒蔵だけが残り,他の店がすべて閉店した。この最後の店も翌年に閉店した。

新中国以降から文化大革命まで国の制限があったために店がなかったが,1979年以降に商 業が再び繁栄しはじめ,1990年に26軒の個人経営の店が開店していた(山西省史志研究院

編1994:145-7)。ごく一部の人が商業を従事していた以外に,村の人々は殆ど農業労働を

し,生計を立てていた。

1980 年代から郷鎮企業の創設が盛んになり,段村にも工場が建てられた。『段村鎮志』

によると,個人と村の共同経営の工場が三つ,村営工場が二つ,鎮営工場が一つあった。

個人と村の共同経営の工場の従業員数はいずれも10人から40人に満たない小規模なもの で,村営工場の従業員は80人から110人までとなっている。鎮営企業は30人前後で比較 的小さいといえる。鎮営工場が1990年代に倒産し(山西省史志研究院編1994:125-136), その他の共同経営の工場や村営工場もほとんど個人に売却され,私営工場となった。

2014年8月に調査した時点には,村に私営工場は16軒があり,業種は活性炭,耐火建 材,鋳物,加工などである。商業店舗は38軒で,食品,日用雑貨,地元土産などを販売し ている。

2-3 教育

『段村鎮志』によると,段村に教育施設の私塾が創設されたのは,光緒11年(1885年)

であり,民国の初期まで継続していた。当時,村に5つの塾があり,120名余の学生が教 育を受けていた。民国8年(1919年)に武海川が義務学校を開設し,貧しい農民の子どもが 無料で勉強できた。民国9年(1920年)に国民女子学校が開設され,校舎は李家宗祠内に 置き,後任家宗祠に移した。民国19年(1930年)に初級国民学校が成立し,6クラス,200

名余の学生がいた。翌年の1931年秋に初・高級クラスに分け,民国37年(1948年)まで 続いた。1948年秋に交城県が解放され,段村の学校が正式に小学校となった。1958年には 幼稚園から中学校までの一貫性教育施設となり,1973年に高校ができた(山西省史志研究

院編1994:165-8)。その後高校が移転され,現在の村に幼稚園1つ,小学校と中学校が1

校ずつある。幼稚園と小学校が村営で,中学校は夏家営鎮鎮営である。2014年8月に在園 児童は126名で,小学校と中学校の在校生はそれぞれ195人と256人である。

写真4(左)幼稚園 012823 写真5(中)小学校 012823 写真6(右)中学校 2012823

2-4 特性

段村には,寺や廟などの宗教的な建物が多い。古くから真武廟,関帝廟,文昌廟,財神 廟,狐神廟,白衣廟,閻王廟,観音堂,観音寺,文昌宮,魁星閣があったが,文化大革命 の時に壊され,残存しているのは観音寺,文昌宮と白衣廟のみである。観音寺は小学校と して利用されていたが,小学校が新校舎に移ってからは幼稚園として今も利用されている。

文昌宮は筆者が調査し始めた2001年にほとんど形がなくなっていたが,2004年に村人の 寄付によって新しく建てなおされた。白衣廟の敷地内に小さな飼料を作る作業場があるが,

建物は老朽化が進み,一部を留めているだけである。

段村のもう1つの特徴は姓の種類が多いことである。現在は馬,張,李,閻,任,王,

梁,曹,陳,賀,劉,康,宋,武,賈,牛,趙,田,呉,翼,韓,何,成,潘,鄭,呂,

周,楊,尹,高,喬,孟,杜,路,薛,左,霍,郝,温などの姓の村民が住んでいる(山 西省史志研究院編1994:39-41)。姓の多さから,この村は典型的な復姓村であるといえる。

村には閻家街,任家街,馬家街,鉄門李家街,康家街,李家街,大宋家街,小宋家街,

段家街と呼ばれる古い街(通り)があり,これらの姓の村民は古くからこの村に住んでい たといわれている。これらの古い街以外に,新開北街と新開南路,桃園路と康寧路の3つ の「路」があり,これらは1970年代と1980年代に村の拡大によって新しくできた通りで ある。従って清の時代から1970年代ごろまで村の規模と居住スタイルはほとんど変わらな かったといえる。

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