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宗族・地域活動における女性の地位の変遷

ドキュメント内 京都女子大学大学院 (ページ 183-200)

中国社会において,女性がどのような立場にあったか,まずその全体像を見ていたい。

旧中国社会において人々は「男尊女卑」思想の影響を強く受け,女性の地位は低いまま,

ほとんど変化することなかった。だが,1840年代初期の阿片戦争以降,西洋の思想が徐々 に中国社会に浸透しはじめた。清政府の「洋務運動」(西洋の思想と先進技術の導入をする 運動)をきっかけに西洋の自然科学技術と社会科学学説が中国社会に入ってきた。婚姻の 自由,一夫一婦制など男女平等に関する討論も新聞や雑誌などを通じて行われはじめた。

維新派の人々は,女性の解放を提唱し,「不纏足運動」を推進し,中国最初の女権運動を起 こした。維新派女性が創刊した『女学報』は男性中心の「夫為妻網」・「三従四徳」1)など の封建的な思想を強く批判した。

1911 年に起こった辛亥革命で清王朝が倒れると,伝統的な社会関係が変化しはじめた。

1919年の「五・四新文化運動」時期に女権問題が注目され,「毎週評論」,「少年中国」,「覚 悟」,「婦女雑誌」などの雑誌や新聞で討論が行われた。この影響を受け都市部の青年らは 男女の不平等を認める法律に反対し,封建的な道徳,宗教,社会風習,家族制度,婚姻形 態を批判し,女性の教育権,婚姻の自由,職業解放を要求し,家族婚姻生活,社会生活に 変化をもたらした。

その後も男女の教育の平等,男女の職業の平等,男女の給料の平等,また女性は財産権 と継承権を有するなど,女性を保護する提言が出され,人々の女性に対する意識を改善さ せた。しかし,当時は封建的勢力も強く,女性の権利を実現したのは都市部のわずか少数 のインテリ階層にとどまった2)

1921年に誕生した中国共産党も女性問題をきわめて重視した。毛沢東によれば,中国の 男子は三つの体系的な権力の支配を受けている。一つは政権であり,一つは族権であり,

もう一つは神権である。だが,女性の場合は,さらに夫権すなわち男子からの支配を受け ていた。この四つの権力は,封建的同族支配体系の思想と制度のすべてを代表するもので あり,中国人民,とくに女性を縛りつけている四つの太い綱であった。女性が解放されな いかぎり,全中国人民が解放されたとは言えない。女性の解放は中国共産党の重要な任務 であった。女性を解放するため,ソビエト政権域内(共産党政権の地域)では,包辨婚(親 の言いなりで結婚する),売買婚,童養媳(女の子を小さい時から養子として出し,成人後 養父母の家の男性と結婚させる習慣)を禁止し,男女結婚・離婚の自由,一夫一妻制,女 性参政権,社会活動への参加を認める法律が制定された3)

1949年に中華人民共和国が成立し,新しい婚姻法には,婚姻は男女双方の自由意志によ るものであり,男女それぞれの主体的な行為として規定された。いかなる第三者の干渉も 許すことができないと男女が平等であることを明記したのである。この婚姻法のねらいは,

家父長的家族制度による男尊女卑を廃止し,結婚と離婚の自由ならびに男女の権利の平等

といった新民主主義家族制度を作ることであった。福島によると,その狙いは社会主義的 家族制度の創造と平等で同志的な家族員の関係,同志的な夫婦関係の婚姻観という新しい 社会主義的な家風を作ることであった(福島 1976:228-32)。その後,女性の地位が向上 しはじめ,多くの女性が社会進出するようになった。

しかし,特に農村部では家父長制と伝統的な婚姻形態の影響が根強いため,新婚姻法が 難航するケースも多数あった。男女平等の思想を普及するために,婚姻と家庭は男女個人 と家庭の私事ではなく,社会と国家はつねにその健全ぶりを見守っているのだと農村部で 宣伝をした。そのために女性の地位が徐々に改善しはじめた。しかし,伝統的な女性に対 する考え方が根強く残る農村社会に,女性の地位が男性とまったく平等になることはでき なかった。例えば,「同工同酬」(同一労働同一賃金)は基本な方針であるが,筆者の調査 によると,人民公社時代に男女の賃金は必ずしも同じではなかった4)

文化大革命を経て,1978年に中国は経済システムの改革開放を決定し,それ以降,社会 的・文化的領域において中国社会は大きく変化した。「婚姻法」は,30 年ぶりに改正され 1980年に発布された。そこでは従来の同志的な夫婦関係の婚姻観,同志的な家族関係によ って社会主義的な家風を作るという家族観から脱して,男女の愛情・個人の意志の尊重に 基づく近代的な家族を目指されることとなった。これ以降,中国では,離婚が増加し,ま た第三者5)問題が社会問題になった。このような社会的な背景があるゆえに,2001年に「婚 姻法」は再度改正された。今回の「婚姻法」は従来の男女の愛情・個人の意志の尊重に基 づく近代的な家族を目指すのに加え,道徳観,倫理観の喚起と遵守を呼びかけるものであ る。また法律を強化することで,社会安定の基礎である婚姻関係,家族関係を維持するこ とが最大の目的とされた。

人々の考えと社会が大きく変化する中で,女性のあり方について多様な意見が生まれた。

その中に女性の社会進出に反対し,従来の「男は外,女は内」を提唱する人々も出現して いる。各学界でも女性問題は熱い注目を集めている。2005年出版された『中国婦女研究十 年(1995~2005 年)』6)は改革開放後の女性に関する研究成果を集約した論文集であり,

女性の貧困,教育,健康,経済,参政,人権など多分野にわたって論考が収められている。

しかし,中国研究の中に女性について,特に農村女性に関する研究がきわめて少ない。

日本における中国女性の研究成果の発表は,中国女性史研究会が1989年に創刊した『中 国女性史研究』がある。また,関西中国女性史研究会編『ジェンダーからみた中国の家と 女』(東方書店 2004 年)や,関西中国女性史研究会編『中国女性史入門』(人文書院 2005 年)がある。その内容は婚姻・生育,教育,女性解放,労働,身体,文芸,政治・ヒエラ ルキー,信仰など多岐に渡って論じているが,農村女性に関する内容は少ない。その中に 末次玲子が書いた華北農村女性に関するものは貴重である。その内容は,1940 年代初期,

革命から文化大革命まで,改革・開放政策以降と三つの段階を設け,出生,婚姻・家族制 度,性別役割,計画生育など,中国農村女性に関する問題を論じている。本章では調査村

の段村での聞き取り調査と,入手した資料に基づき,宗族活動と地域活動の中における女 性の地位の実態を明らかにし,彼女らの社会的地位の歴史的変遷について考察するもので ある。

第1節 宗族からみる変遷

中国では長い歴史の中で,男性は宗族の一員としてのみ意味をもち,全面的にこれに帰 属していた。結婚も離婚も個人ではなく,あくまでも宗法家族のためのもので,宗法家族 の利益が最優先され,「礼」に基づいておこなわれなければならなかった。

女性は生まれながらにして他の宗族に帰属し,かつそれによってのみ人生の完結を見る ものと定められていた。つまり,女性は結婚すべきで,嫁いだ女性は男性の宗族のものに なり,実家とは無関係の人になるとされた。結婚した女性は礼制の「三従」7)に基づいて,

男性に従わなければならなかった。

しかし,結婚した女性は生涯夫の宗法家族に帰すことを保障されておらず,夫に「休」

(離縁する)「棄」(遺棄する)されることもあった。離婚は男性の特権であり,女性の一 方的な意志による離婚は認められなかったのである。また,「女性は二夫をふまえず」の貞 操思想の影響で,離婚された女性は再婚できないのが基本的な考えであった。漢代以後に 離婚される理由として「七出」の制限が設けられ,長年人々に影響を与えた。

「七出」とは①無子,②淫,③舅姑につかえず,④妬む,⑤口舌,⑥盗窃,⑦悪病の七 つをいい,妻はこのうちのどれかひとつに該当するとき,夫に離婚されても仕方がなかっ た。①の無子とは,男の子を生まなかったという意味で,結婚の目的は宗法家族の後継者 づくりにあるから,無子であることは離婚される一番の理由となる。女性は男性の都合の 良いように生きなければならなかったのである。このような点を踏まえ,段村の女性の宗 族における地位を見ていきたい。

1-1 族譜から見た場合

族譜は宗族構成員を記載するものであり,男性族人はこの族譜から自分の血統の由来と 親族の範囲を明らかにし,親族との遠近を区別し,族内での位置関係をはっきりさせるこ とができる。先ほど述べた通り,女性は嫁いだ男性の宗族の一員になり,族譜に記載され るのが一般的である。

第4章で触れたように,馬氏宗族は三つの分派に分れ,その内馬氏A支派に族譜がある。

この三枚の写真は馬氏族譜を撮影したものである。写真56は10代目「応科」という男 性の族譜の記載内容である。彼は「徳」の三男で,康熙10(1671年)年に生れ,乾隆40

(1775)年5月11日に83歳で死亡した8)。同月20日に村の北西の新しい墓地に埋葬さ れた。妻の李氏には「無出」9)の記録しかなく,「継室」10)の褚氏は男の子一人を生んだ が,「少亡」11)し,その子は父と同じ場所に埋葬された。次の「継室」徐氏は鄭屯の出身

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