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宗族・社及び村との関係

ドキュメント内 京都女子大学大学院 (ページ 172-183)

第1節 閻錫山と村治

前述した通り,中国のどの王朝政権も行政組織を村に設置することはなかった。民国政 府になってから,一部の地域ではそれを変えようとする動きがあった。交城県誌によると,

中華民国17年(1928年)に山西省に県,区,村,閭,隣の行政システムが設置され,行 政村がはじめてできた(交城県誌編写委員会1994:巻一7-9)。行政村ができたきっかけに ついて,李景漢は,「民国5年(1916年)に孫氏が山西省長に就任してから,農村自治に 力をいれ,一年後,退任されたが,すでに村落自治(以下村治と書く)の種を全山西省に 播いた。それは後任の閻錫山省長が孫氏の政策を持続したからである」(李1933:118)と 論じた。では,閻錫山はどのような人物で,なぜ村治に力を入れ,村を変えるといった政 策を実施するようになったのかを検証する。

史料によると,閻錫山は1883年10月10日に山西省五台県河辺村の地主の家に生まれ,

1904年に日本の東京振武学校へ留学し,卒業後第6期日本陸軍士官学校に入学した。1909 年に帰国し,1912年に太原市で都督の名義で山西省の軍事権力を握る。1917年山西省省長 を兼任し,政治,軍事権力を入手する(閻錫山史料専輯より)。1911 年に清王朝が滅びた 後,中華民国が成立したが,北洋軍閥内部の派閥闘争が激しく,国内政局は混乱状態に陥 った。軍閥の一人として,閻は「強力な軍隊を維持するためには,政治的社会的な基盤が 重要であることを理解していた」(滝田 1999:33)ので,自分の政治,経済,軍事など各 方面の力を蓄えるため,「保境安民」(山西省内の安全,民衆の生活の安泰を守る)のスロ ーガンの下,村治政策を打ち出した。

閻錫山の村治政策は,1917 年10月に公布された『各県村制簡章』から始まった。その 主な内容は,戸籍の調査,行政村の編成,村の境界線の区画整理であり,そして行政村に 村長,村副を置き,村内に閭と隣を設置し,閭長と隣長も置いたことである。さらに同年 に「六政宣言」が発表され,後に「三事」も加えて,両方を合わせて「六政三事」1)と公 示したことである。この「六政三事」を推行するため,閻錫山は官の力という行政手段を 使用し,強固に実施させた(孟・肖2003:2-3)。

実際に,「六政三事」は村政 2)の初期段階であり,村政ということばが正式に公表され,

村政の制度が整えられるようになり,農村から着手し政治の起点は村にあるとする,対村 政策を至上とする「村本政治」理論を提唱し,村制3)が確立されたのは1922年であったと いわれている(萩原2001:12-4)。

「六政三事」から,村制制度を整える必要性について,閻錫山はこれまでの村政はがあ くまでも官による「粗治」であり,これからは「村民自弁村政之時代」(村民が自ら村の管 理をする時代。筆者訳)でなければならないと考えていた。従って,1922年に村制を改正 し,「村民自弁村政」の過程の中,山西省の村の各制度,体制を整備していく方向へと発展

した(孟・肖2003:2)としている。

この間,閻は近代的な国家管理の手段である統計の重要性を認識し,山西公署内に省内 の各統計を専属する統計処を設置し,「用民政治」を促すために,1918年に山西省第1次 人口統計を実施した(山西省長公署統計署編製1919:1-2)。こうして閻錫山は,農村の制 度,体制を変えることから,近代的な統治を目指していた。

第2節 村治による村の再編と閭の設置

閻錫山は,村制を推進する際に,あくまでも村が政治の基本単位であると主張する。そ の理由は「村以下家族主義失之狭,村以上之地方団体失之泛,唯村則有人群共同之関係,

又為切身生活之根据,行政之村舎此莫由」4)からである。つまり,閻は,共通の生活基盤 をもち,共同の利益を有する村が統治者にとってきわめて重要な存在であると認識したの である。その具体策とは,300戸を一つの行政村に編村にし,25戸を閭にすることである。

ただし,県誌によると,300 戸を編村するのは,交城県においてはあくまでも目安であ り,実際に106の編村の中に34戸しかない村もあれば,1000戸に達する村もある。閭の 状況も同じで,25戸は目安であった(交城県誌編著委員会1994:巻一11-2)。せっかく編 村する政策を打ち出したにもかかわらず,このような規模のバラつきの行政村になった理 由について,「一省以内依土地之区划与人民之集合,而天然形成政治単位者村而已矣」5) とあり,閻はこの「天然」の村落を大事にするという思いがあった。

行政村だけでなく,閭と隣を設置も「天然」を重視した。交城県誌によると,交城県が 村政を実施したのは 1923 年である。同年には閭と隣を設置した(交城県誌編写委員会編 1994:大事記15)。隣接する25戸が閭として設置されたが,従来の村に20戸から30戸が すでに社として結合していた(交城県誌編著委員会 1994:740)と書いてある。こうした 実情があることから,孟は,閭隣の設置は中国伝統的な郷里制度を借用したものである

(孟・肖 2003:6)と指摘する。滝田もまた,山本秀夫の研究を引用し,閭隣制は自然発

生的組織であったものを,県政府の行政的下位組織の中に組み入れたものである(滝田 1999:34)と述べた。

周知の通り,これまで,村は行政組織ではなかったので,村長という役職もなかった。

村制が実施され,村長がおかれるようになったが,村長は行政命令を各家庭へ「上伝下達」

する時に,中間組織が必要であった。この中間組織の役割を果たすことができるのは何か を考えるときに,思い当たるのはやはり村にある伝統的な社集団であろう。その思いが「閭 長の責務」からも読み取れる。

「閭長は,村長,村副の指示に従って閭内の仕事をし,村長,村副に協力すること。閭 長は近隣の25戸の管理をするので,常に閭内の状況を把握しなければならないこと。閭長 は閭の代表として村の会議に出席し,会議の内容を閭内の人々に伝達すること。閭内に事 件が起こった時,隣長を召集し討論し解決する。あるいは村長に報告すること。閭内の各

戸の意見を忠実に村長らに報告する」(沈1973:860-1)ことがその責務である。

以上の内容,並びに従来の村に20戸から30戸がすでに社として結合していた(交城県 誌編著委員会 1994:740)から,閭・隣を設置したのは,既存集団の存在を無視するので はなく,依存することで,行政の意志がより早く伝わり,より円滑的に執行されるために あったと思われる。

調査村のことについていうと,当時の段村は12の閭があり,閭は従来の社のブロック範 囲とほとんど同じであったと村の老人が語ってくれた。従って,閭は基本的に村の既存集 団の状況に応じて設置し,結果的には「社」集団を温存し,継承する形になったものと思 われる。

さらに,鉄門李社の帳簿からも社を温存したと推測できる。つまり,もし,既存集団の

「社」の存在が無視され,強制的に25戸を閭に編制したならば,鉄門李社の帳簿が村治を 実施した後になくなるはずである。そして帳簿の記載も継続できなかったであろう。逆に いうと,「社」の組織が存続しているからこそ,社の帳簿があり,収支もあったのである。

村民によると,かつて村に「一閭三个毛鬼神,提着篓筐拿着秤,到了谁家谁倒运」とい う「順口溜」(即興の流行り言葉)が流行っていた。直訳すると,「一つの閭に三人の「毛 鬼神」がいて,彼らは籠と秤を持って村民の家に訪れ,彼らが訪れた家は不運になる」と いう意味である。もともと「毛鬼神」とは,他人の財産を運ぶ神様のことであるが,ここ での「毛鬼神」とは徴税に来る閭の責任者のことを指す。つまり,一つの閭に村民から税 を徴収する人が三人もいて,彼らは村民から財を奪うので,嫌われる存在であった。従っ て,閭と社が同時に存在し,それぞれ異なる役割を果たしたといえる。

以上から,「閻錫山自身も,自らが実施した村政を山西省の村落を歴史的に組織力が高か ったことと結びつけている。少なくとも,村政の背景として完全に無視することはできな いだろう」(滝田 1999:32)と滝田が分析したように,近代的な制度を取り入れ,統治を 試みといわれる閻錫山も永続性のある基層レベルのメカニズムを活用する点において例外 ではなかろう。

第3節 「元宵節」からみる村と社の関係 3-1 村治による変化

繰り返しになるが,清王朝までの中国では,県は政権構造の末端組織であり,村は自主 自治に任されていた。しかし,閻錫山が村治を実施して以来,とくに村制が改善された1922 年以降には,村治制度が徐々に完備されることによって,行政組織としての役割が強化さ れ,その権力が村の内部まで浸透し,そこに伝統とは異なる新たな関係が派生したと思わ れる。

従来,村民は自分の意志で村の行事や会議への参加,不参加を判断したが,孟・肖の研 究によると,1927年8月18日の山西省村民会議簡章に,20歳以上の村民は村民会議に参

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