はじめに
清水盛光は,血縁的村落が解体すると地縁的村落に発展し,北方村落は,地縁結合の上 に成立している。ただし,地縁的結合の組織単位はつねに中国的家族であって,村落結合 を全体として観察する時に,それは明らかに地縁結合以上のものである(清水1947:182-6)
と指摘する。
費孝通は『郷土中国』の中で,「安定した社会の中において,地縁が血縁の投影に過ぎず,
両者が決して分離できない関係にある。地縁社会の中において血縁関係は安定の根源であ り,人々の関係を計る座標である」(費 1998:70)と述べている。費は,地縁村落社会に おいても,血縁が人々の社会関係を左右するきわめて重要な関係であるとの見解を示して いた。清水と費の両氏の指摘から,村落社会において血縁と地縁のどちらも人々を結ぶ重 要な関係であることが理解できる。本論文の第二部では,血縁と地縁をキーワードに,従 来,研究が手薄になっている華北に位置する山西省のある村の事例から,村落社会におけ る人々の血縁と地縁の結合関係の実態と変遷に迫りたい。
第1節 研究背景
山西省は地理的に華北に位置しているが,従来の日本における華北研究では河北省と山 東省を例にするものが圧倒的に多く,山西省に触れるものは微弱である。したがって本稿 で華北という場合も山西省を含まず,山西省をいう場合は明確に書くことを最初に断わっ ておきたい。
華北農村の研究に関しては,1952年から1958年に刊行された『中国農村慣行調査』(全 六巻。以下『慣調』と記す)が1940年代に華北地区の河北省と山東省の六つの村のあらゆ る生活規範を詳細に記録した調査資料として知られている。三谷孝が述べているように,
この資料は,「調査のおかれた時代の制約ともいえる問題点がみられるが,しかし,詳細な 記録と資料を残したことで,革命以前の中国農村社会の実情を検討する上で他に類を見な い貴重な文献資料である」(三谷2000:8)として華北農村を研究する人々に利用されてき た。
その六つの村での調査結果を利用し,中国の村落社会の特質について研究した平野義太 郎と戒能通孝は中国の村落は共同体であるかどうかをめぐって論争を起こした。この論争 は決着がつかず,現在においても議論が継続している。中国農村研究の指導的な役割を果 たした研究者たちが,華北の村落社会をどうみているのか。それぞれの主張をまず見てい きたい。
平野義太郎と戒能通孝との間に展開した論争について,旗田巍が的確に纏めている。そ れによると,
「平野氏は中国における村民の集会,村役人の会合をはじめ,農耕,治安,防衛,祭 祀,信仰,雨乞い,行事,娯楽,婚葬などの農村生活の諸方面における協力,相互扶助,
集団的行為について資料を集め,さらに農民の意識,道徳の中にある共通的規範をも探 った。これらの事実の上に立って,中国村落を「生活協同体」である考えを強化した」。
「戒能氏の目に,中国の村落は著しくバラバラな個人集合体で,力がものをいう支派団 体である。それは,第1に中国の村には境界がなく,従って固定的,定着的地域団体と しての村は成立しない。第2に村長や会首(村役人)は村民に奉仕するものではなく,
ただ官との関係の事項を処理するために,いやいや引きだされた連中である。第3に村 長,会首は有閑有産の地主層であって,村民の内面的支持をうけていない。第4に家柄 とか名門の意識がなく,純粋に実力関係が支配する」(旗田1995:44-6)。
平野義太郎の目には華北農村が共同体に映ったが,戒能通孝にはまったく反対のイメー ジが抱かれたのである。
奥村哲は,マイヤーズの研究を引用し,華北農村の組織や機能が,以下の点において明 らかであると述べた。
「(1)元来華北の村にはたいした問題がなく,従って村の組織も未熟であり,村の境 界もない状態であったこと,(2)清末・民国初年以降,村にたいする政府の要求が増大 し,その要求を処理させるために政府が村に「青苗会」その他の組織をつくらせたこと,
(3)政府の要求は徴税・治安維持・学校建設などであったが,その主たるものは徴税で あり,徴税の要求は時代とともに増大したこと,(4)村は要求された税を農民に割り当 て徴収することに追われており,村の指導者の主たる任務はこれであること,(5)雨乞 や『看青』(作物の盗難防止のための監視)を除いては,井戸の建設,農地の潅漑,肥料 生産,家畜の増産など,農業の発展に関する事項について村は関与せず,それは個々の 農家の処理にまかされており,せいぜい少人数農家の相互扶助があるにすぎない。村の 組織が主として政府の要求する税を処理するためにつくられ,その中心機能は村が農民 から税を取って政府に提供することであったということである。旗田氏が指摘するよう に,ここでの徴税は通常の田賦やその付加税ではなく,「攤款」といわれるものであり,
地方政府が臨時に賦課し,村を単位に徴収したものである。金銭や現物(薪・草・車な ど)だけでなく,橋や道路の修理・鉄道の監視などの力役も含まれる」(奥村2004:19)。
従って,奥村もまた近現代中国における社会結合が弱いとの見方を示した。華北農村の 性格について,内山雅生も関心を持ち続けており,自身の研究について,「共同関係」とし て看青,打更,搭套を取り上げ「共同労働」「共同慣行」「共同組織」などの社会関係の分
析を続け,「共同体」のあり方について模索をつづけ,結論はいまだに提示していない(内
山2003:26)と述べている。近年の中国農村における社会結合に関する研究の新たな動向に
ついて,祁建民は,
「それは,権力と社会結合との関係についての研究である。まず,ドアラが提唱した
「権力的文化ネクサス論」をあげたい。ドアラによれば,ネクサスは農村社会の中にお ける各組織システムと権力の動きについての規範からなっており,宗族や市場などの方 面に形成された家父長制のような等級組織と蜂の巣のような横断的な組織ばかりではな く,強制的な義務組織も,自発的な連合体も,更には非正式的人間関係をもその中には 含まれる,という。ネクサスは権力の存在と作用の基礎であり,郷村社会の権力はネク サスの交差点に集中している。また,二〇世紀以前の国家は完全にネクサスに依拠した が,二〇世紀以降,ネクサスを排除しようとした,とされる。ドアラの研究史上の主要 な貢献は,村落内の権力の来源はネクサスに根ざしていたと提唱した点にある。
一方,内山雅生は「村落統治の二重構造論」を提起された。内山は華北農村における 社会結合(内山はこれを「共同関係」と呼ばれる)と村落統治との関係を注目している。
内山によれば,村公会中心の村落統治機構は,「むき出しの暴力的装置のみでは維持され 得ず,ここに従来より村民の多くを結集して実施された『団体的協同事業』という外衣 をまとい,村民に協同関係によって存立しえるのだというコンセンサスを授与してこそ,
その役割を果たしえたと考えられる。内山は村落における「共同関係」の構造を解明し ようとする同時に,村落統治構造との関係にも大いに関心をはらっていて,社会結合に ついての研究に新たなヒントを与えた」(祁2011:240)と述べていて,多くの学者が多 様な角度からアポローチし,中国社会を探究しょうとすることがわかる。
祁が言及しているドアラ(Prasenjit Duara)は,早くから『慣調』の資料的価値を認め,
それを利用し,1988年にCulture, Power and The State―Rural North China,1900-1942
(ただし,筆者は王福明訳の中国語版を参考にしている)発表したことは第1部の中に触 れたとおりである。ドアラは中国社会の特有な文化と権力,統治などの概念を連結し,「権 力の文化的ネットワーク」をキーワードに主に村落の権力構造の変遷について論じ,また 各村にある宗族と会についても論考した。
華北農村の宗族について,ドアラは,「北方の宗族は規模が小さく,巨額の族産はないが,
蒼白無力ではなく,同族意識が強く,郷村社会では具体的かつ重要な役割を果した。…華 北農村の大多数の村落において,宗族が伝統的な政治システムを制御し,村落管理,公共 活動及び「村公会」成員枠の分配は,すべて宗族或いは亜家族を基準にしている。…寺北 柴村では,族長は宗族の中の最高の権力者である。仮に裕福な人も族長に従わなければな らない。また,族内の人が養子をもらう時,財産を分割する時など多くの場面において族