交城県誌によると,交城県において郷社が区画されはじめたのは,宋代のことである。
大きな村では「家族」(宗族)を単位に社を設置した。元代の初期には宋代の区画制を継承 し,各村において50戸を単位に「勧農立社」の組織が設置された。清代になると,社は「家 族」隣里の組織となった(交城県誌編写委員会1994:第2章7)と書いてある。この記録 は交城県全体のことを述べていて,段村のことについて明確に触れたわけではないが,段 村が交城県の管轄下にあるため,段村も同じ時期に社を設置したと考えられる。
第1節 調査村の社の概要
調査村概要で紹介したように,段村には閻家街,任家街,馬家街,鉄門李家街,康家街,
李家街,大宋家街,小宋家街,段家街と呼ばれる古い街(通り)があり,『段村鎮志』には,
「これらの街は同じ一族が住んでいるという理由からそれぞれの族の名前がつけられ,清 の時代には既に形成されていた」(山西省史志研究院編1994:4)との記述がある。筆者の 聞き取り調査から,ほぼこれらの街と同じように族の名前で名付けられた社があったこと が判明した。名前はそれぞれ,閻家社,任家社,西任家社,馬家社,鉄門李社,康家社,
李家社,宋家社,段家社である。これらの社がいつごろ形成されたかは不明であるが,鉄 門李氏宗族が所持している歴史資料から,社が新中国成立以降も存在していたことが明ら かになった。そして,鉄門李氏が現在でも,金銭の出納帳に「鉄門社」と書いてある。
写真40(左)1991年鉄門社人員名簿 2012年8月23日 写真41(右)1994年鉄門社募金者名簿 2012年8月23日
上記の社以外にも,かつて自興社,火社,面社,金銭社,文昌社,太陽社,新生十王社,
三官社があった。長老の話から,これらの社が廟や宮のような宗教的要素にめぐって成立 し,社の名前からも分かるように,社がほぼ同じ宗族の成員から構成されている。規模的
に大きな社の下位組織に置かれたものもあり,とても複雑で,同じ基準で論じるのがきわ めて困難だと考える。現在は三官社だけの活動が残っているが,他の社はすべてなくなっ たと村の長老から聞いた。次に社の活動を具体的に見ていきたい。
第2節 社の活動と規模 2-1 元宵節
「元宵節」は中国の伝統的な年中行事の一つである。旧暦の新年春節が過ぎ,初めての 満月を迎えるので,盛大に祝うのが慣習である。この旧暦の1月15日に元宵(もち米で作 った団子。地方によって「湯元」と呼ばれる)を食べる習慣から「元宵節」と呼ぶように なったが,地方によっては「上元節」と呼ぶところもある。また,ランタンを飾る習慣が あるので,「灯節」と呼ぶこともある。
元宵節の縁起には諸説があるが,一説では古代中国の漢文帝(紀元前179年―紀元前157 年)が周勃氏により諸呂の乱を平定した正月15日を記念してこの日を元宵節と定めたとい われる。元宵節の夜には,色とりどりの灯篭を掛け,元宵を食べたり,飾り提灯に書き張 られたなぞなぞを解き明かしたり,花火を楽しんだりする習わしが一般的に知られている。
調査地の段村が所属する交城県の『交城県誌』によると,解放前の正月13日から5日間 の間に,各社は社首1)の指導,管理のもとで「十王棚」2)を作る。「十王棚」内には「十王 下界」の図を掛け,全社の各家が「十王棚」に行き,線香をあげ,供え物を捧げ,神を祭 祀する。各村に20戸から30戸の家が一社となり,一つの村に数社がある村もある(交城 県誌編著委員会 1994:740)との記述があった。この記述から,村に社という組織があっ て,「元宵節」に社ごとに組織され,神を祭祀する習慣があったことが分かった。しかし,
多くの人は昔に「元宵節」を主催するのが「社」と呼ばれる集団で,そして,「元宵節」前 後に「神」を祭祀する慣習があることはあまり知られていなかった。
『段村鎮誌』にも,明清時代から民国時代まで毎年の正月15日になると,村民たちは各 村の街頭に「十王棚」を作り,提灯を飾り,「塔塔火」3)を積み,「閙社火」4)をする。当 日に村民は「鉄槓」5)を担ぎ,村中を回り,多くの村民が見物にきて,とても賑やかであ る。村民たちは朝食に肉の入ったスープ料理を食べ,昼食に水餃子を食べ,夜に元宵を食 べる。しかし,1960年代中期から,伝統的な民間芸能は「復古」・「四旧」だと批判の対象 となり,このイベントは全面的に禁止された。1977年から「十王棚」を飾り,神に祈る儀 式を除いて,すべて復活した(山西省史志研究院編1994:234)との記述がある。
イベントの時に「鉄槓」を担ぐ慣習は,元々雨乞いに由来するだそうである(山西省史 志研究院編 1994:178)。始まる時期は不明であるが,現在は,旱船 6),獅子舞,高跷 7) などの踊りも加わり,行事がより盛大に,賑やかに開催するようになった。従って,社の 活動は古来の祭祀に由来し,その後に娯楽的な意味が加わり,村民たちにとって重要な地 域イベントとなって,現在まで継承されてきた。
調査地の段村でも県誌と鎮志が示した通り,このイベントは開催されている。いつの時 代から「灯節祭」が行われるようになったのかは不明であるが,鉄門李氏宗族の1898年の 帳簿に「灯節祭」に関する支出記録があるため,当時すでに「元宵節」があったことは確 認できる。文化大革命中に中断した時期があって,そして,1977年以降,政府から再開の 許可がおりてから,復活している。それ以降,常に毎年に開催してはいないが,現在まで 継続されている。筆者は2005年に現地に行って,このイベントの様子を観察した。イベン トの詳細は第5節で紹介する。
2-2 三官社8)
同じく正月15日に開催される元宵節と同時に,段村の李家街には祭壇が作られている。
「三官大帝」・「送子観音」・「地蔵王菩薩」とインフォーマントからは別々の名前があがっ たが,祭っているのはいずれも民間信仰の対象であり,子授けの神様とされている。伝統 的にこの「三官社」を主催しているのは李家街に住む人々で,毎年輪番で祭場作り,出費,
収入の管理をする。祭壇はこの日のために作られ,行事が終わると,祭壇を建てる時に使 用する部材などは保管庫に保存し,李家街の人々がその管理をしている。この街は李家街 だが,住んでいるのは全員李姓の人ではない。ちなみに筆者が調査した 2005 年には,74 歳になる田という老人が責任者であった。2014年調査時には,李家街に住む李という村民 が「三官社」行事の責任者である。そして,李家街に住んでいる李姓の人々は,調査した 鉄門李氏と同じ祖先ではないので,それと区別するために,二甲李と呼ばれている。
正月15日の当日に,日が暮れると,一部の人が「糕灯」9)を持ってきて,捧げ,一部の 人が「糕灯」を自分の家に持ち帰る。「糕灯」を持ってくるのは子どもが生まれた家の人で,
神に感謝の気持ちを表し,捧げる。持ち帰るのは新婚の男性で,持って帰った「糕灯」を 家に飾り,男の子が生まれるよう祈る。「糕灯」を持って帰る時に,責任者にお金を渡す。
金額は決まっていない。もし,男の子が生まれたら,翌年の正月15日から三年連続で「糕 灯」を神様に捧げに来る。他の新婚夫婦がそれを持ち帰って飾り,男の子が生まれるよう 祈り,年々これが繰り返される。また,十歳前後の男の子が「糕灯」を新婚男性の家へ届 けに行き,そこの家から小遣いをもらうこともある。そして,男の子が12歳になった年に も「糕灯」を捧げにきて,成人したことを報告する。この祈りに参加できるのは村民のみ ならず,隣村住民たちや,親戚や友人でも自由に参加できる。筆者が調査した年には,大 勢の参加者がいて,「糕灯」を奪いあう様子を見られ,とても賑わっていた。
このような神への祭祀活動は文化大革命の間に中断され,現在でも公式には禁止の対象 となっているが,黙認され,強制的に止めさせられることはなく,毎年行っている。
祭壇の両側にこのような対の言葉が書いてある。
A.虔誠敬神事業興旺・得子還願永保泰平
(誠心誠意に神に祈願すれば,事業は繁栄する。男子が授ければ,神に恩返しをすべし,
安泰を永遠に保障されよう。筆者訳)。 B.子繁孫続蒙神祐・香火燎绕灯火旺
(子孫が繁栄するのはすべて神様の加護のお蔭で,だから神様に線香を捧げ続けよう,
その線香が絶えることなく永遠に捧げよう。筆者訳)
これらの言葉や信者の多さから人々の信仰心が強さ,男の子が生まれてくる願望がきわ めて強いと理解できる。そしてこの社が祭祀行事を行う集団であることが分かった。
写真42(左)供えてくる「糕灯」2005年1月23日 写真43(右)祭壇2005年1月23日
2-3 その他の社
聞き取り調査によると,昔の文昌社は「文昌宮」という廟の付近の任家街に住んでいる 人々が中心になって作られた「功名,知識」の神に祈願するための組織であった。この神 は日本でいう学問の神様に相当する。文昌社は文化大革命以降になくなったが,文昌宮の 建物だけが残っていた。調査村の概要で述べたように,筆者が2001年に調査し始めた頃は,
この文昌宮はかなり老朽化していて,倒れそうであったが,中には何かを祭っている様子 があった。その後2004年に再度村へ行った時には,文昌宮はすでに新しく建てなおされて いた。建てなおされた後,筆者が調査した時点でも,宮を管理する組織はまだなかったが,
任家街に住んでいる,ある家族が管理している。
建てなおしの理由について村の元村長に聞いてみた。彼によると,宮の再建を促したの は,任家街に住む任という老人である。詳しく聞きたいと頼んだところ,老人の家に案内 してもらい,直接話を聞くことができた。老人によると,ある日,宮を建てなおすように 神様から託される夢を見た。夢の中で神様は次のように告げられたという。この宮を建て なおしてくれるならば,村の人々にご利益がある。ただし,建て直しただけではだめで,
最初の三年間に毎年劇を見せること。でなければ,ここに住む続けることができない。そ こで老人は,村民や村の企業家たちから募金をあつめ,宮を建てなおした。以上が建てな おしの経緯である。神様にいわれた通りに,県の劇団を招き,三年間村で劇を公演したそ うである。文昌宮の中に石碑があり,文昌宮の歴史と出資した人々の名前が刻まれている。