津田:
ここに波がザーッと来て、高台 になっている所にどーんとぶつかっ て、そこで亡くなった方が相当いま した。その後に特に車が流されて、
この一帯で火災が起こりました。電 気が全て止まって真っ暗な世界なの に、夜通しそこだけが火事で明る かったのでものすごく不気味だった と皆さん仰っていました。
この「がんばろう石巻」の看板は、1つの象徴的な場所で、普段は献花台とかも あり、石巻に来た皆さんが訪れる場所になっています。
Atef:
基礎が残っていますが、このあたりの家屋は木造だったのですか。
津田:
残っている家は鉄筋で、木造はそのまま取れて流されました。
Atef:
2階くらいの高さということは、津波の高さは10m以上だったのですか。
津田:
10m以上です。相当の高さだったはずです。
Atef:
津波でさらわれた方の中で、生き延びられた方もいらっしゃると思いますが、ど ういう形で生き延びたのでしょうか。
津田:
亡くなった方の多くが、溺れて亡くなるというより、流れてきた物にぶつかっ たケースが多かったそうです。助かった方は、流されている家の上に逃げたとかで す。車の中に逃げ込んでいた方は溺死してしまって、何かにしがみついていた人は 車が流れてきて圧死とか、そういう亡くなり方をされています。
Atef:
津波が発生した時の天候はどうでしたか。雪でしたか。
津田:
亡くなった方の中には、津波で濡れてしまって、そのまま家の上に登って凍死 された方も居ます。今日のように、雪の降っている日でしたね。今回の地震では、
地震自体で倒壊したところは殆どありませんでした。
Atef:
将来の悲劇を避けるため、海岸から何メートルは建物を建ててはいけないとか、
海抜何メートル以上に建てるべきだとか、そういう規制はありますか。
津田:
そこも結局、ケースバイケース というか、様々なパターンがありま す。水産の街である以上、自然と共 存しないといけないということもあ ります。また、今回分かったのは、
どれだけ強固な堤防をつくろうとも 津波の力には絶対に勝てないという ことです。ですから、物理的に防ぐ
よりも、起こった時にいかに早く逃げるかが重要だと言われるようになりました。
Tarek:
ここに住んでいた方たちは今どこに行かれているのですか。
津田:
散り散りになって、仮設住宅に移られています。どこにいらっしゃるかわかり ません。
Mehalawy:
石巻の方々は漁業に従事されていて、工場がたくさんあると思いますが、それ らは今操業を停止しているのでしょうか。そこで働く方々は今どのように生活され ていて、今後はどうされていくのでしょうか。
津田:
一概には言えませんが、再建しようにも無理だということで引っ越している方 もいます。
Muna:
震災後の石巻の社会のありようとして、ポジティブな面で人と人の関わりが近 しくなったのか、それともネガティブな変化だったのでしょうか。
津田:
いいことはありました。水産業というのは人より先に魚を取らないといけない ので、これまでは協力することがありませんでした。こういう災害があり、協力す るようになって、今までなかった横のつながりや助けあいの動きも生まれたので、
むしろよかった面も多いと思います。
僕の中学の同級生が住んでいた家はみんな無くなってしまいました。皆仕事に 出ていたり東京などに行っていたりして、同級生は亡くなりませんでしたが、ご両 親はかなり犠牲になってしまいました。
また、お寺やお墓がありましたが、遺骨とか何もかもなくなってしまいました。
先ほどのお話の中でありました、津波がこの辺に来るまでの間に逃げられなかっ たのかという質問ですが、実は逃げる時間は充分にありました。津波は第2波が大 きくて、第1波が地震の15分後くらい、第2波が40分近くたってから来たとい う話でしたから、実は逃げることは出来ました。
ただ今回、石巻で何故被害が大きかったのかというと、これまで石巻はあまり 津波被害を受けたことがなかったので、小さい頃から津波が来るから逃げろという 教育を全くされていませんでした。一方で、沿岸部、南三陸町や気仙沼といったと ころは、地形的に亡くなった人がもっと出てもおかしくないのに、石巻よりも犠牲 者が少なかったのです。それは、これまでも津波の被害を受けていて、備えがきち んとしていたからでした。教育の違いというのが今回の被害の1番の差だったのか なと思います。
2月25日