松島町産業観光課 太田雄氏/ フリーカメラマン福田沙織氏
司会:
今日は仙台からバスで塩竈へ、そこからフェリーで松島に来ましたが、みなさん がご覧になったとおり、津波で甚大な被害を受けた地域もありました。その中でも、
松島は今日フェリーでの説明にもあったとおり、津波はきたものの他の島々に守ら れて、他の地域比べて物理的には少ない被害で済みました。観光業が盛んなこの地 域も、震災後には多い時と比べて8割くらい観光客が減ってしまいました。来月11 日で震災から丸1年を迎えますが、現在、観光の街である松島の現状、課題、取り 組みについて松島町の産業観光課の太田さんにお話を伺いたいと思います。それで は太田さんよろしくおねがいします。
太田:
皆さんようこそ松島にお越しくだ さいました。ただ今ご紹介いただいた、
松島町産業観光課の太田です。
本日はまず松島の紹介、それから 震災当初の状況、次に震災後の松島観 光の動き、最後に松島の震災復興につ いてお話を申し上げます。
松島は首都の東京から350kmの距 離にあります。太平洋側に位置してい て、年間平均気温は11℃から12℃と 東北地方では比較的暖かい地域です。
松島は年間350万人ほどの観光客が
訪れる日本でも有数の観光地です。
震災当初の状況についてご説明します。松島では地震の際に3.8mの津波が押し 寄せました。沿岸は2kmに渡って浸水しました。多くの店舗が浸水して、道路に は亀裂が入り、ブロック塀は倒壊しています。水が引いたあとには、大量の泥や瓦 礫が道路に散乱しました。観光地松島の風光明媚な姿は一瞬にして姿を変えました。
震災当日には1200人の観光客が滞在中でした。街全体で取り組んでいた避難訓 練の成果も発揮され、1人のけが人もなく震災から4日目には全員が帰宅すること が出来ました。震災以降、泥と瓦礫の山と化した松島ですが、全国各地、そして世 界各地からボランティアさんが駆けつけてくださいまして、このような復旧活動を 行なってくださいました。津波の被害を受けつつも、松島に浮かぶ260の島々にも 守られて、他の沿岸地域よりも被害が少なかったこともあり、観光施設などの復旧 に向けた迅速な動きができたのも松島町の特徴でした。その結果、日本の5月のゴー ルデンウィークの前には様々な観光施設が再開出来ました。
また、ホテルや旅館は県内の復興支援関係者向けの宿泊施設となっていました が、9月には一般のお客さんも受け入れられるようになっております。これは松島 の冬の味覚の牡蠣です。当初、養殖棚の流失による被害を受けたと思われましたが、
1部の漁場で奇跡的に稚貝が生き残っていました。また漁業関係者の懸命な作業に よりまして、例年の半分ではありますが10月末に出荷をすることができました。
街では町民が一丸となって、震災からの復旧復興に向かって前進するため、絆と共 同を強調した復興、単なる復旧ではなく、新しい松島の創造、そして他の被災地域 への貢献を3つの柱とした松島町の震災復興計画を策定しております。この中で観 光を基幹産業とする松島として、災害時に観光客を確実に守る防災機能、サービス の整備と共に安全で魅力的な観光地松島をアピールすることがうたわれています。
現在、観光客の数は6割程度しか戻っていない状況です。皆様にお願いがあり ます。お国に戻られましたら、松島の素晴らしさを身近な方にお話ください。
そしてまた機会がありましたら、ぜひ松島においでください。
以上簡単ではございますが、松島の紹介とさせていただきます。
〜質疑応答〜
Ghada:
先ほど説明の中でたくさんのボランティアが日本や世界から集まったとおっ しゃいましたが、具体的にどのようにボランティアを集めたのでしょうか。その方 法があれば教えていただきたいと思います。
太田:
まずボランティアの件ですが、特に募集はしていません。全国各地、あるいは 世界各国から多くの方が集まったので、例えば「泥かきをしてください」、「ここで 瓦礫の片付けをしてください」というような集約する1種のボランティアセンター というものを立ち上げました。ですから、「来てください」という募集はしていま せん。ただ、来ていただいた方に「これをやってください」という集約は行いました。
福田:
ボランティアがどういうふうに集まったかという話ですが、阪神大震災が17年 前、もうひとつ新潟の中越地震という大きな地震の被害もありまして、阪神大震災 を経験されている関西地方の方々の動きが今回特にとても早かったです。大きな地 震の経験をしている地域の人達は、何が必要でどのようなことに困っているか予想 できるので、震災の次の日には呼びかけをしないにも関わらず関西やいろいろな地 域の方が来てくださいました。twitterとfacebookで情報が飛び交っていて、どこ で何が必要かとか、どこでどのような支援をするという情報がSNSを通して広まっ ていました。今回大変だったのは、市役所とか町の役場自体も被害の大きかった地 域が多く、役場の職員の方もご自宅が津波に流されていたり、ご家族が怪我をされ ていたりという状態だったということです。最初の数日間の支援活動はそのような 中で行われました。松島の役場も避難所になっていて、大変だったと聞いています。
Tamar:
エジプトにおいては、治安の空白ということが起こりました。ソーシャルメディ アなどを通じて、市民が救援を行うといった努力がなされたのですが、こちらでも SNSを活用した努力や行政の努力があったということを伺いました。混乱した状況 に対応するにあたって、行政に司令室のようなものが設けられて、そこから指示や SNSの活用についての指令を出したのでしょうか。また、活動における市民との連 携や協力がどういったものだったかついてお伺いしたいと思います。
太田:
一言で説明するのはなかなか難しいのですが、松島の場合、毎年総合防災訓練 というものをやっていて、連絡網がしっかりしていました。その1つとして、司令 となるのは私達が属する松島町役場であって、司令先が地域住民のリーダーとなる 区長さんや行政委員さんでした。情報には縦の流れがあって、行政委員さんから班 長さんへという情報の流れが訓練を通してしっかり整備されていたからこそ、今回 の震災において効果を発揮したのだと思います。
ただ、訓練とは違いました。私たち自身もこのような地震は想定していました が、これほどまでに大きな津波が来るというのは正直認識していない部分がありま した。私達役場職員自体も震災当初はフリーズしていたという状況でした。しかし、
周りの混乱を鎮めるのはやはり私達役場職員だということで、上の方からも檄を飛 ばされました。避難訓練の想定通り100%とは行きませんでしたが、今振り返れば、
それなりの対処はできたのではないかと思います。
福田:
太田さんから人を通しての連絡網という話がありましたが、今回はそれが多分 重要だったのです。というのは、まず、携帯電話が全く使えませんでした。要する に沿岸部の携帯電話のアンテナが壊れている、あるいは流されて電波が通じない状 態でした。それから各役場や会社関係のパソコンも壊れてしまっていたので、通信 がほとんど機能していませんでした。そういう状況でしたので、先ほどのような人 を介しての連絡網というのは今回すごく重要だったと思っています。逆に、外側に いる人達、ここで言えば仙台市内とか県外の皆さんは携帯電話が使えるので、そこ での情報交換はソーシャルメディアを通じて活発に行われました。
Tarek:
美しい街はいろいろなところにありますが、松島の町は目を見張るばかりの美 しさでした。遺跡や文化財の再建には通常の施設以上に大変な努力が必要なものだ と思います。松島はそのような文化財が豊富にあるところだと思いますが、そのよ うな文化財の復興のために特別な取り組みは行なっていますか。また、もう取り戻 すことができなくなった、破壊された文化財というものはありますか。
太田:
文化財関係で言うと、1つの松島の観光の売りとして、260余りの島々というも のがあります。松島湾自体は県立自然公園になっていますので、島々も1つの文化