第二部 本論
4.1. 先行研究
4.1.1. 日本語の人称代名詞に関する先行研究
4.1.1.2. 現代日本語における人称代名詞の運用
人称代名詞の運用に関しては、鈴木(1973、1982)、芝(1974)、セぺフリバディ(2012)のよ うな社会言語学的観点からの考察や金水(1989)、金丸(1993)のような語彙的研究などが挙げら れる。これらの研究において、人称代名詞の共時的バリエーションの多さや、年齢の上下や性別、
親疎関係などによって使い分けなければならない複雑さなどが指摘されてきた。
他に、人称代名詞と敬語との関りについて他言語との対照的観点から論じた井出(1982)、三輪
(2000)などがあり、敬語の側面から人称代名詞の多様性や使いにくさについて検討している。
また、日本語の人称代名詞の特徴の一つとして、人称代名詞の使用頻度の低さや人称代名詞以外 の他形式(「お父さん」や「課長」「先生」などの親族語や役職名、役割名など)が人称代名詞の代 わりによく用いられることが指摘されている(鈴木(1973)、田窪(1997)、王(2008)など)。
以下、日本語の人称代名詞をめぐるこられの問題について簡潔に紹介していきたい。
日本語には、目上の人に対する人称代名詞がないと言われている。永田(2015:
4)では、現代日
本語の共通語の対称詞の体系として、「上下(うえした)対称詞」14の体系が確立しているとし、年 齢や地位の上位者に対しては二人称代名詞で言及することができないが、反対に、下位者に対して はできると述べている。上位者に対しては二人称代名詞を使うことができないので、「すみません、ちょっと」のように対称詞を省略したり、「先生はどこにお行きになるのですか」のように、「先生」
という役割上の対称詞で言及したりする必要があると指摘している。
日本語では、目上の人に対して、あえて二人称代名詞の使用を避けている傾向にあると言える。
目上の人を相手に、二人称代名詞を使わなければならないような状況におかれると、選択肢として 丁寧で品の良い言葉とされる「あなた」を使うこともないわけではないが、それが何かよそよそし さを感じさせる場合が多い。下谷(
2012:64)によると、
「あなた」は、元々空間的遠称を表す指 示代名詞「彼方」であったという。そして「彼方」の照応機能はしだいに時間軸へと転用され、「過 去」や「未来」を表すようになる。その後、同等以上の第三者を婉曲的に指し示す人称代名詞へと 転じ、その婉曲表現が敬意を含意するものとなり、三人称代名詞「貴方」が使われるようになる。さらに、その変化は近世以降も進み、目上や同輩に対して敬意を示す二人称代名詞へと発展してい ったと述べている。しかし、現代語では、「あなた」に含まれる敬意がだんだん薄れてきて、実際に は、目上の人に対して使いにくいだけでなく、不自然ささえ感じさせる場合がある。「あなた」を含 む二人称代名詞が目上に対して用いると失礼になる理由として、田窪(1997:18-19)は、聞き手 という役割を話し手が発話によって直接聞き手に与えるという人称名詞の「直示性」から来ている と説明している。とはいえ、話し相手が同い年や年下だからと言って、「あなた」を自由に使えるわ けでもない。大石(
1975)は、この表現の不自然さについて次のように指摘している。
__________________
14 永田(2015:4)は、目上に対して二人称代名詞で言及することができないが、目下に対してはできる対称詞の体系を「上下対称 詞」と呼び、目上や目下に関係なく単一の二人称代名詞で言及することができる対称の体系を「単一対称詞」と呼んでいる。
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「アナタ」はもと尊敬表現の程度の高い代名詞で、江戸中期から程度の落ちてきた「オマエ」
のあとつぎをしてきたが、これもしだいに尊敬表現の程度がさがってきた。今日でも「アナタ」
は相手によびかける尊敬語ではある。だが、子が親に対して使いにくいばかりでなく、一般に、
目上の人に対しては使いにくい。部下が上役に対しては使えない。学生が教授に対しては使え ない。また、売り手が客に対しては使いにくい。(中略)
「アナタ」は、今日では、大体、同輩あるいは目下に呼びかける尊敬語ということに、用法が 限られる。目上に呼びかける尊敬語の代名詞がないのは、どうも不便である。
(
pp. 129-130)
確かに、日本語では親に対して二人称代名詞は使いにくく、代わりに親族語を用いて呼びかけた り言及したりする場合が多いと思われる。廣田(1998)によると、「日本語では普通、父親や母親を
「あなた」と呼ばないように、「彼」または「彼女」とも呼ばない(p.12)」とあり、二人称代名詞 だけでなく三人称代名詞も使えないという。親族内における人称代名詞の使用について、鈴木(1973) には興味深い指摘がある。鈴木(1973)は、親族内の自称詞と対称詞の仕組みを分析し、そこにみ られる上下の人間関係を図
2
を用いて論じている。図
2. 鈴木(1973:150)より
祖父
祖母
おじ
おば 父 母
兄
姉 自己
妻 弟 妹
姪 甥
娘
息子
孫
この図に於いて、上の世代に属する者は全て「目上」として捉え、自分と同じ世代の者との間で は、年齢の上下が目上目下を決定するとし、親族成員間の対話にみられる自称詞と対称詞の用法と して次の五つの原則を提示している。
① 話し手は、目上目下の分割線の上に位置する親族に人称代名詞を使って呼びかけたり言及し たりすることはできない。反対に、分割線より下の親族には、全て人称代名詞で呼びかけた り言及したりできる。例えば、自分の父に向かって「あなた」と呼びかけることもできなけ れば、「この本あなたの?」と聞くこともできない。兄やおばに対しても全く同様である。
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② 話し手は、分割線より上の者を普通は親族名称で呼ぶ。しかし分割線より下の者に親族名称 で呼びかけることはできない。例えば、自分の母親を「お母さん」と言ったり、祖父に対し て「おじいさんのひげは長いね」などと言えるが、自分の弟に「おい弟」と言えないし、「娘 はどこに行くの?」などとも言えない。
③ 話し手は、分割線より上の者を名前だけで直接呼ぶことはできない。しかし、分割線の下に 位置する者は、名前だけで呼ぶことができる。
④ 話し手は、分割線より上の者に対して自分を名前で称することは可能であるが、分割線より 下の者に対しては通例これを行わない。例えば、娘が母親に向かって「良子これきらいよ」
などと言うことはあるが、母親が娘に向かってこれを行うことはない。
⑤ 話し手は、分割線より下に位置する者を相手にする時は、自分を相手の立場から見た親族名 称で言うことができるが、分割線より上の者に対してはそれができない。例えば、兄が弟と 話をする時、自分を「兄さん」などと称することはできるが、弟は兄に対して自分を「弟ち ゃん」とは言わない。 (鈴木 1973:150-154 による要約)
さらに、日本人の対話は、たとえそれが社会的なコンテクストのものでも究極的には親族間の対 話のパターンの拡張とみなすことができると指摘している。次の図
3
は、鈴木(1973:148)があ る40
代の小学校の先生をモデルに調査したものである。図
3. 鈴木(1973)の挙げる日本語の自称詞と対称詞の使い分け
校長先生 先生
にいさん
お父さん おじいさん 私
ぼく ぼく
あなた ぼく おれ おまえ きみ 名前 兄さん おじさん
おまえ 先生 お父さん
きみ ぼうや 名前
名前+ちゃん
名前/代名詞 おまえ/名前
自己
校長
父
妻
隣の息子
生徒 息子 弟
同僚
兄
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この図に於いて、家庭内では父や兄など目上と見なす相手に対しては、人称代名詞を使って呼び かけたり言及したりすることができないが、弟や息子に対してはそれができることが見て取れる。
同様に、職場においても、目上の人には代名詞を使って呼びかけたり言及したりすることができな いが、同僚や生徒に対しては代名詞を用いることができる。自分について話すときは、話し相手が 目上の人である場合はもっぱら人称代名詞を用いるが、相手が目下である場合は親族語や役割名な どを用いている。
このように、日本語では話し相手に言及する時だけでなく、自分について話す際にも親族語や役 割名などを用いることが多い。親族語や役割名などの自称詞としての用法については、田窪(1997:
21)は、本質的に子供の文体あるいは子供を対象とした文体であるとし、成人を相手に固有名詞・
定記述を自称詞として使用することは基本的に許容されないと主張している。固有名詞・定記述の 文内対称詞用法(=代名詞的用法)については、呼びかけと文内対称詞の関係は、(文内の名詞間に かかわる)同一指示(coreference)に関する制約15の拡張であるという考えを示している。両者の 違いは、先行詞が題目よりもさらに高い位置にあること、そして、呼びかけという性質上、先行詞 に聞き手という対話の役割が割り当てられることであると論じている。
井出(1982)は、日本語の人称代名詞について、敬遠表現、親密表現の見地から見直して、
1
人称代名詞では、(共通語の場合)男が使う最も敬遠を表わす形は「わたくし」であり、つい で、「わたし」、そして一番普通に用いられるのが「ぼく」である。「おれ」は最もインフォーマ ルな形であるので、男の仲間意識を表現する親密表現であるといえる。(中略)女が使う
1
人称代名詞は「わたくし」、「わたし」、「あたし」などの形がある。「わたくし」は敬 遠のために用いられ、一方「あたし」が親密の表現として用いられる。2
人称代名詞では、男が使う最も敬遠を表わす形は「あなた」であり、ついで「きみ」がある。「おまえ」は「おれ」と同様、男同士の仲間で使われる親密表現であると同時に、上位者の威 厳を表わす敬遠表現でもある。2人称代名詞の形としては「あなた」「きみ」「おまえ」の順で 敬遠度が下るが、日本語で、相手を代名詞で指すことは、それ自体相手に直接的に接触するこ とになる。最もフォーマルで敬遠表現として使われる「あなた」でさえ、同等、あるいは下位 者に使えても、上位者に使うことができないのは、上位者との距離を保つには、代名詞は直接 的すぎるからである。上位者に対し距離を保ちたいとき、あるいは他の相手との距離を引き離 したいときには、「あなた」の代りに「姓+敬称」「姓+称号」が使われる。
なお、恋人間、夫婦間で使われる「あなた」「きみ」「おまえ」については、いずれも特殊な親 密表現である。
女が使う
2
人称代名詞には「あなた」「あんた」がある。前者は後者より距離をおいたときに使 われるが、それ以上に注意しなければならないのは、男が使う場合と同様、2人称代名詞はそ れを使うこと自体、直接的表現で親密表現であるということである。(
pp. 123-124)
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15 同一指示の制約は、「束縛条件D」と呼ばれており、指示的名詞は、より指示性の少ない名詞を先行詞としてはいけない。同一指 示が許されるのは、一番構造的に高い位置にある名詞句が一番情報量が多い場合であり、逆の場合は同一指示が成り立たない。
例えば、「田中課長、課長はこの案件に賛成ですか」という文では、「田中課長」と「課長」はどちらも同じ聞き手を指すが、「課 長、田中課長はこの案件に賛成ですか」という文では、同じ聞き手を指すという解釈は不適切である。
(田窪 1997:22-23による)