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NAGASE WAY

写真 10. 歯形研削品 [1]

も顧客満足の商品を作り出すことは、企業の理想とするところであり、まさにそのような 水準にある企業ということができよう。 

 

4.ナガセより官学等への希望   

 ナガセより官学への希望事項は以下の内容であった。 

「現在以上のような高精度の切削盤などを作っているが、その製品の精度を測定するナノ メーター単位の測定器が世の中にはない。そのような開発について、資金的・技術的援助 を頂きたい」というものであった。 

 

5.その他   

 ナガセをより理解するため、創業者が創業当時から、いかに努力してこのような今日の 発展の基礎を築いたかを記述した記事[2]が有ったので以下に示した。 

 

①スタートは施盤工 

 「出会いを尊び、今日を生きる。」―。ナガセインテグレックスの歴史は創業者、長瀬登 オーナーの生き方そのものの反映でもあります。 

 昭和 20 年 10 月 28 日、戦火で一面焼け野原と化した国鉄岐阜駅前の凱旋道路に呆然と佇 む長瀬オーナーが、あたかも運命の糸に引き寄せられるように果たした知人との再会から ナガセインテグレックス半世紀の歴史の 1 ページは始まります。再会したのは長瀬オーナ ーの最初の 奉公先 である伊藤製作所の番頭格だった人の父親。戦後の再興を期する同 製作所の求めに応じる格好で、長瀬オーナーの再就職話がまとまりました。 

 長瀬オーナーはもともと、昭和 13 年 4 月から 16 年 1 月まで同製作所に勤務。旋盤工と してエンジニア人生をスタートさせました。しかし、日に日に戦時色の濃くなる当時の情 勢を見て同年 2 月、名古屋陸軍造兵廠千種製造所に経験工として入所。配属先の工場では、

幾つもの実用新案をものにする一方、一段と腕に磨きをかけました。 

 昭和 20 年 5 月、広島の大竹海兵団に入り、すぐ近くの安浦海兵団に転属となりました。

信号兵として入団したものの、戦況の悪化に伴い、大峰山という高地に八九式野戦高射砲 の砲台を築く仕事を拝命。7 月に行われた広島転進希望募集から外れたおかげで、原爆に合 わずに済みました。技術者は必要だから残るようにと引き止めた少尉の判断が功を奏した のでした。 

 そして、復員。岐阜駅前での運命的な出会いを契機に、昭和 21 年 1 月 15 日付けでエン ジニアとしての再出発と再就職を果たすことになるのです。 

 

②昔取ったキネヅカ再び 

 再就職した伊藤製作所を諸般の事情で退いた長瀬オーナーは幾つかの会社に関わるもの の、社会の不安定さが影を落とし、いずれも短期間の縁にとどまりました。結局、夫人の 実家が営む青果商を拠点として事業化のネタを蓄え、時期の到来を待つことを余儀なくさ れます。戦後間もない頃の日本は、総じて食うや食わずの状態。そうした状況に変化をも たらせたのは昭和 25 年に始まる朝鮮動乱に伴う特需ブームでした。疲弊した戦後日本の多 くの産業がこのブームを復活の足がかりにしようと必死でした。 

 そんな折り、日本織機というメーカーから織機の部品試作の依頼が長瀬オーナーに持ち 込まれました。昔取った杵柄を振るえる好機です。旧知の鉄工所に部品を委ねる一方、自 宅で組み立てるという方式で、またたく間に 6 台を納品。単なる請負仕事ではなく、随所 に工夫を凝らしてこれまでの同種製品とは一線を画す織機をこしらえました。今日のナガ セインテグレックスの基本理念の 1 つである「お客様本位の製品開発」がすでに実践され ていたわけです。 

 この仕事を契機として、鉄工所経営に目鼻がついたと判断した長瀬オーナーは岐阜市菊 地町に長瀬鉄工所を個人創業。本格的な事業展開の第 1 歩を記します。時に昭和 25 年 5 月 1 日。この年の秋には旋盤を 1 台購入し、特需で舞い込む仕事を 1 人でこなしていました。

そのうちに、協力を申し出る友人たちを採用要するかたわら、設備機械を増強。翌年春に は、社員数 4 人と小規模ながらも鉄工所の体裁を整えるに至りました。 

 

③念願の法人化へ 

 特需ブームに後押しされた格好で動き出した景気回復の波は産業界総体の復調を促し、

国民生活の安定を目的とする国策と相俟って、大量消費と大量生産による急速な経済発展 に弾みを付けました。そうした時代の変化を映すように、岐阜地区では、空前の鉄工所ブ ームが到来。その後の高度成長に備えるかのように、そこかしこに製造業の礎が築かれて いきました。 

 顧客思考の実践として「頼まれれば、何でも手がける」ことを揚げていた長瀬鉄工所は 方々からの依頼を引き受け、その実績と実力を着実に固めていきました。その一方で、長 瀬オーナーらしい創意工夫を盛り込んだオリジナル商品の開発にも着手。こうして、創業 から 1 年後の昭和 26 年、当時の岐阜の鉄工所の営業を一手に引き受けていた岐阜機械商事 と共同で竪型鋸盤 GN‑360 を開発。主要機構に特許技術を凝らした同機は創業期の長瀬鉄工 所を象徴する機械でもあります。 

 戦後 10 年が経ち、復興の足並みが早まると、生産物資の国産化が強く求められるように なりました。当時、金属などの切断加工は往復運動型の鋸盤が主流で、横型の帯状鋸盤を 用いる鋸盤も輸入物が多く、いわゆる竪型鋸盤(コンターマシン)は開発途上。このため、

国内金型の必要性の高まりから、安価で対応力の広いコンターマシンの出現が何より求め られていたのです。そこで、長瀬オーナーは操作が簡単で安全性の高い鋸刃振れ止め装置 の開発に昭和 31 年に着手。3 年がかりで完成させました。そのさなかの昭和 33 年 12 月、

長瀬鉄工所を株式会社に改組。近代化に本腰を入れます。 

 

④高度経済成長の波に 

 法人化を果たしたのを機に、昭和 34 年春、岐阜市神楽町に本社と工場を移しました。5 年後に迫った東京オリンピック開催や東海道新幹線開通、名神高速道路の開業など、昭和 30 年代半ばの高度経済成長を誘引する幾つかの出来事の影響は多かれ少なかれ、地方にも 及び、若き鉄工所経営者の事業意欲を刺激したのかも知れません。 

 新築した工場は採光のために鋸型の屋根を用いた鉄骨スレート造りの本格的なもので、

主として、コンターマシンの生産を目的としました。ところが、この工場は 9 月下旬に当 地を襲った伊勢湾台風の被害で屋根を飛ばされ、使用不能に。この教訓から、翌年、鉄筋 コンクリート造りの丈夫な工場を新設。武芸川工場を新築(昭和 43 年)するまで、主力工 場として数多くの開発製品を生み出す製造拠点として機能しました。 

 この年には、第 1 回中部産業機械展に竪型フライス盤を出品し、これまでの技術的成果 を世に問うことになりました。昭和 36 年には初期のヒット製品となった形削り盤 NS‑700 や油圧平面研削盤 SGH‑400 などの開発・製造を推進。岐阜機械商事の販売力にも助けられ、

おかげさまで順調な売れ行きを示しました。これらの機種はいずれも、今日の製品群に連 なるルーツといえるものです。SGH‑400 はその後、昭和 39 年発売の SGH‑600 に発展。一連 の汎用機のほか、前年には自動水栓加工のための専用機を開発するなど、この時期の我が 国の経済的発展に歩調を合わせるように矢継ぎ早の製品開発に努めました。 

 

⑤武芸川に腰据える 

 岐阜市神楽町に新工場を建設してから 10 年の昭和 43 年、岐阜県武儀郡武芸川町に工場 を新設いたしました。岐阜県の清流・長良川の上流、武儀川沿いに用地を確保することが 出来たのです。当時、長瀬オーナーが参加していた経営セミナーや米国視察旅行などで日 本にも遠からずモータリゼーションという言葉が現実のものになると予測。郊外に広大な 敷地を有する工場を展開することが得策との判断によるものでした。 

 当地は、東名、名神、東海・北陸の各高速道路のインターチェンジに近いという地の利 ばかりでなく、自然環境にも恵まれております。春には工場入り口から武儀川に沿って数 十本の桜が一斉に花を咲かせ、夏には山々が緑に萌え、秋には、紅葉が全山を彩り、冬に は行きが華やかに舞う。澄んだ空気と水は信頼できる精度を持った製品の誕生に不可欠の 要素です。人にも製造現場にも絶好の環境は、高精度・高品質製品を育むためのゆりかご です。昭和 49 年には、同地に本社を移転。後に増設されることになるさまざまな施設や装 備と合わせ、名実ともに長瀬鉄工所の一大生産拠点として武儀川に腰を据えることになり ました。 

 この間、昭和 44 年には大型油圧平面研削盤に関する技術提携を碌々産業と結ぶなど、顧 客思考の製品開発を積極的に推進。その後に続く個別使用の製品戦略の萌芽となりました。