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明治・大正期の新聞、雑誌に見られる女性の職業教育について

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木原貴子・依岡道子

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え、そのためには女性の健康面での強化を重要とし、一 般に、日本人女性の家事経済の知識の欠如を指摘して、

家事経済への知識を深めたいとしている。また、趣味教 養の面においては、歌文、音楽、生花、点茶、書画など の高尚で優美な趣味・技芸を奨励し、その為に必要なこ とを報じたいと言っている。

 発刊当初には、教育による女性の地位の向上や家庭生

活の改善、社会活動の展望などの啓蒙的な内容を掲載し ようという意図が明らかであるが、福島の主張の背後に は、未だ男女平等という考え方が一般化していない社会 状況のもとにあり、従来の日本婦人論から抜け出さない 状況が垣間見える。しかし、女性の職業に関わる記事が ないというわけではなかった。

 第3号(5月9日)の社説では、「女権と女子の職業と

『婦女新聞』創刊号表紙

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の関係」という見出しで、女性が職業に従事することの 利点を述べている。冒頭に「女子の権利をいかほどまで 高むべきかは一つの問題なり。……とにかく今日の如く 女権の重んぜられざるは決して社旗のために慶すべきに あらざる事、誰かまた異論あらん」と述べ、女性の権利 の尊重を主張し、その手段として、「女子に適当な職業を 与ふる事も、亦最も有力なる一手段たるべし」と、女性 にとって相応しい職業の必要性に言及している。

 従来、養蚕のような仕事については、一家の主権は妻 にあること、市中の商家などでは家業に巧みな妻は、既 に重大な権利を持っていると述べて、これは女尊男卑の 例であり、敢えて喜ぶべきことではないが、職業と女子 の権利は強い関連があることを指摘している。とは言え、

ここには新しく女性にとって相応しい職業とは何かとい う具体的なものは挙げられていない。

 第12号(7月30日)では、「看護婦」という一面記 事において、最も高尚な女子の職業として看護婦を挙げ ている。しかし、論点は家庭において病人がいる場合に は、一家の主婦こそ最も相応しい看護婦であるとみにて いるところにあり、女性はだれでもその貧富にかかわら ず、必ず一通りの看護法を心得ておかねばならないとす る。女学校でも看護法の授業を持つ必要性を述べている が、それは一般の女性に必要であるのみならず、それを 女子の職業とすることは、社会にとっても幸せなもので あるとする。そして、看護婦そのものは女子の職業とし て最も尊く、神聖なものと結んでいる。

 職業に就くための教育に必要性を認めながらも、その 一方で、第30号(12月3日)では「女子と教師」とい う一面の記事の中で、女性が受ける教育は家庭生活に必 要な事項であるべきで、それを将来子どもの養育に生か すことを重要視しているのである。その点「今の女学校 が、所謂賢母の養成という目的を忘るることなく、家庭 教育者としての女子を養成する方法に一層の注意を致さ んことを希望する」と述べている。家庭においては、父 母は元来その任務を異にしているから、家庭での子女教 育は女性の役割としている。従って、高等女学校での学 科課程においてもその内容の検討が必要とするという。

 また、小学教師の職が女性に適しているとみなす趨勢 についてある程度よしとしているものの、教育を受けた 女性の誰もが教師という職業に相応しいとはせず、職業 に就くよりも家庭にいて子女教育に相応しい人がいると 述べている。

 創刊号の年、明治33年においては、まだ、主婦は家庭 では主人の所有物と信じていた男性が多く、男性が女性 を解放し、真に女性を尊重するに到ってはいなかったの である。従って、『婦女新聞』においても、「理想の婦人」

(第27号)の中で読者に向かって、今日の我が日本に於 ける理想の婦人とは、如何なるものであるかという疑問 を投げかけている。

 理想の婦人は、徳川時代における理想と同様に消極的 で、沈静、謙遜、盲従、優柔を重んずべきか、アメリカ 女性のように男子と同様に活発、意気、不屈がいいのか、

あるいは、フランス女性のように、艶麗、円滑、快活を 理想とすべきかと問いかけ、筆者の考えは明確にはされ ないまま、この問題の解釈を世に問いたいと述べている。

 明治33年の『婦女新聞』では、女性の新しい生き方に ついて、あるいは、女性が職業につくことについての女 性を鼓舞するような積極的な記事は、まだ少ない状況で あった。

3.大正3年(1914年)の『婦女新聞』から見る「女 性と職業」

 大正3年(1914年)という年は、春子が名古屋女子学 校の創設準備を行なっていた時期である。この頃の女性 の仕事に関する世論は、明治33年と比較し、どのように 変化していたのだろうか。

 この年最初の号である1月9日に掲載された「生活問 題と婦人の位置」(第712号)という記事は、生活問題

(すなわち、経済問題)が女性の社会的地位に如何なる 影響を及ぼすかという問題を論じている。この記事の、

とりわけ「婦人と職業」という部分から、女性と職業に 関する状況を読み取ってみたいと思う。

婦人が結婚することを以て、唯一の目的として居つた時 代が、だんだん夢の如く去りつつあるものとしたならば、

茲に起るべき問題は、婦人は自ら一定の職業を求めて生 活せなければならぬ必要が生じて来るといふことである、

さうなれば婦人は先づ自己の材能に訴へ、境遇の許す限 り、種々なる職業を求めんとする努力の必要がある。茲 に於て婦人にも學者あり詩人あり實務家あるといういふ 風になつて、従つて婦人の人格位置が高まって來る。然 し唯單に之れだけのことを聞くと、生活難の問題は婦人 に福音を齎らし來る如く聞えるが、其の實は幾多の犠牲 を払はねばならぬのである。注1

「〜としたならば」という仮定の形になっているので、

まだこの時代は女性にとって「結婚」が唯一の目的であ ることは確かであるが、同時に、そうした考え方に少し ながらも「揺らぎ」が見え始めた時期でもあるというこ とがわかる。そして、「結婚」以外の選択肢として、親や 家族に養ってもらうのではなく、女性自らが働き、生活 費を得るという方法が考慮され始めたことが認められる。

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また、職業に就くためには「努力」をするように求めら れ、その結果として「学者」「詩人」「実務家」など、男 性と同じ職業に就くことも可能であると言及されている。

そうした職に就くことによって、「人格位置が高まって くる」という記述から、社会における位置づけに職業が かかわっているので、女性が仕事に就くことによって、

女性の地位向上も可能であるとされている。こうしたこ とから、女性が仕事に就くことが肯定的に捉え始められ ていると言えるのではないだろうか。

 また、「仕事の価値」(第713号1月16日)という記 事においては、「仕事」は収入で価値が決まるものではな いということが主張されている。その中で、特に「台所 の女中」を例に出し、論を展開している。当時の社会事 情の中で、女中という仕事は「一家において最も卑しめ られている」仕事であると認めた上で、しかしながら、

「米や水なしに一日も生きていられないのと同じように、

これを炊いてくれる人なしには、また一日も生きていら れないではないか」、或いは「経済的に価値の少ない仕事 であるからといって、直ちに仕事そのものを卑しいとす るのは、なお空気や水が無代であるからといって、これ を価値のも少ないものとみなすのと少しも差はない」と 述べている。

 先に述べたように、賃金と仕事の価値は比例しないと いうことであるが、ここで留意すべきは、「女中」という 日常的仕事に注目しているという点である。これまで、

『婦女新聞』の紙面で論じられてきた女性の職業は「学 者」「詩人」「実務家」、或いは「教師」という、言わば花 形とも言える職業であった。しかし、女性の就労問題を 現実的に考えるならば、現実的職業に目を向け、その価 値を認識することが不可欠である。その意味で、この記 事には女性の労働に対する実質化の動きを見て取れるの ではないだろうか。

 「若き女の行くべき道について」(第722号3月20日)の 記事は、女性の生き方に関して、女子美術学校の男性教 務主任の意見を述べたものである。ここでは、当時の正 統的考え方を否定するものではないとして、「女性の天 職は妻母たることである」と述べている。しかし、女性 の中にも学問や芸術において才能のある女性がいること 指摘した上で、そうした女性にはその道に生きることを 認めるべきである、周囲の者も理解を示し、彼女たちが 心置きなく集中できる環境に置くべきであるとさえ述べ ているのである。

 社会全体にコンセンサスがあった訳ではないが、全国 紙の紙面で男性によって「女性にも家庭に入る以外の生 き方を認めよう」と提案され、「家庭という世界の門しか 明けてやらぬということは不親切だ」という意見が堂々

と述べられている。こうした言及は時代の変化を如実に 示している。そして、何よりもここで注目したいのは、

「今日の若い女性」や「今の女」という表現である。す なわち、女性に対する考え方が、「今日」或いは「今」と いう表現で強調されているように、この時期まさに、「過 去の」或いは「昔の」と言ってもよいが、「女性」に関す る考え方が、変化しているということである。明治33年 と大正3年を比較すれば、春子の人生において自ら教壇 に立ち「職業人」となった時期から、職業人を生み出す 側になった時期という、14年という時間の流れの中で、

「女性と仕事」に対する時代風潮は確実に変化している。

この時期における最も顕著な特徴は、女性の生き方に

「結婚」だけではなく「働く」という選択肢が可能になっ たこと、社会がそれに対し少しずつ肯定し始めてきたと いうことではないだろうか。

4.大正5年(1916年)の『婦女新聞』から見る「女 性と職業」

 大正4年4月、「名古屋女学校」は名古屋市東区葵町に 創立を見たが、その翌年、春子も発起人の一人となって、

名古屋に婦人問題研究会が発足した。発起人は春子の他 に、小林清作(淑徳高女校長)、橋本越南(著述業)、森 田資孝(森田病院長)、瀬木せき子(眼科医、中京婦人会 代表)の4人であった(南部141)。この研究会で取り上 げられたテーマは「男女の貞操について」「一夫多妻論」

「婦人の職業問題」「女子教育の問題」「婦人参政権の問 題」などであり、毎月1回、主題をきめて、自由討論が 行なわれたということである。この研究会での議論を通 して春子は、婦人問題への視野を広げ、生活改良の志を 高めていったのである。「女性は主婦として家庭内に閉 じこもっているべきではない。職を持たないまでも、多 くの人と接することによって視野を広げることが、子女 の教育にも大きな力を発揮する」(南部 142)というの が春子の持論であり、学外の講演会においてもこのよう な考えを述べている。

 『婦女新聞』発刊の明治33年から15年以上経過して、

婦人に関わる様々な問題を研究する婦人問題研究会が発 足したのであるが、この年の『婦女新聞』においても女 性の職業に関する記事が増加していることを指摘できる。

記事の内容は多方面に及び、「我国の婦人と職業問題」、

「婦人の職業の可否論」というように、女性にとっての 職業、職業に就くことの是非など基本的な内容から女性 に適した具体的な職業の紹介まで広がっている。女性の 職業について直接的に論じているのではないが、ジェン ダー論の先駆けになるような記事、「『女らしく』の意義」

(第836号5月26日)とか、「学校を出た若い婦人に」

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