羽澄直子
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となった松川甲子(かしこ)は、若松賤子というペンネー ムで翻訳を手掛けていた。なかでも有名なのは、フラン シス・ホジソン・バーネット(Frances Hodgson Burnett)
の
L i t t l e Lo r d Faun t l e r o y
(1886)の翻訳である。これ は1890年から92年にかけて『女學雑誌』に連載された ものだが、アメリカで出版されてベストセラーになった わずか4年後に翻訳が出るという反応の早さにまず驚か される。日本語のタイトルは『小公子』である。この作 品は現在、訳者の違う10種類近い翻訳が出ているが、タ イトルだけはすべて若松訳が使われ、定着している。原 題の「小さなフォントルロイ伯爵」を「小公子」とした 訳語の卓越さをよく示すものであろう。若松訳は、坪内逍遥といった当時の翻訳の大家たちか らも絶賛された(鴻巣 33−36)。会話文の訳し方、人 称代名詞や固有名詞の処理、文化的背景の的確な把握
(たとえば「ニューポート」をアメリカの有名な避暑地 と認識したうえでの補足的な訳)などから、若松には相 当な英語力と外国文化の知識があったことがうかがわれ る。26歳の若さで留学の経験もなく、辞書や参考資料も 乏しいなかでこれほど優れた翻訳を生み出すことができ たのは、若松自身の才能もさることながら、このような 人材を育てた学校の教育の質の高さによるところも大き いと思われる。
(2)正式な女子高等教育機関
前にも記したように、1883年(明治16年)に男女別 学の方針が政府から打ち出され、女子の中等学校進学は 事実上不可能となった。漢文のような男子向きの学問を 女子が受けることは「実用に遠サカリ(女子)固有ノ美 徳ヲ損壊スル」(今田40)とされ、男子と女子の教育目 的は異なるということが明確にされたのである。1899 年(明治32年)に高等女学校令が発令され、師範学校以 外の女子の高等教育機関が正式に認可された。これは高 等小学校卒業後に進学する3年または4年制の公立学校 で、男子の中等学校に相当するものであった。愛知県で は、1902年(明治35年)に豊橋市立高等女学校、1903 年(明治36年)に愛知県立第一高等女学校が開校された。
本学の前身である名古屋女学校が創立された1915年(大 正4年)までには、愛知県内には11の公立高等女学校が 存在していた。毎年ほぼ1校の割合で女学校が開校され たことになる。高等女学校令が下される前年の女学校生 は8000人ほどであったが、10年後には5万、20年後に は10万人にのぼっている(斎藤 20)。高等教育機関へ 進む女子は着実に増えていった。
政府が正式な女子高等教育機関を認めたことで、一旦 は閉ざされていた高度な教育を、女子が受けられる機会 は飛躍的に増した。しかし一方で、ミッションスクール
に代表される私立の学校にもこの法令は及んだ。単なる 私塾ではなく正規の教育機関として認められたことと引 き換えに、カリキュラムが官の指導要領の管理下に置か れることになったのである。これまでのような、宗教に 基づく個性的で自由な教育のみを続けることは困難に なっていった。
(3)私立の高等女学校の特徴
ミッション系以外の私立の学校は、もともとは裁縫教 室など実践的な家事技術を身につけることを目的に開か れたものが多かった。これらの学校が女学校へと発展す るとき、従来の実務的な教育の必要性はもちろん踏襲さ れていたが、それに加えて、いわゆる高等教育にふさわ しい教育目的もかかげられるようになった。それは花嫁 修業的な家事技術の向上とともに、読み書き算術などの 基礎学力と、人間としての教養を重視するものであった。
この教育目的を世に知らしめることに各学校は腐心する。
公立と違い、私立は生徒を集めるためにも、宣伝となる キャッチコピー的な特性が必要であった。
ここで明治期に設立された女子教育機関のうち、現在 女子大学として存続している学校の建学時の精神、目的 をいくつかみておきたい。
・跡見学園女子大学 1875年(明治8年)創立
知育のみにかたよらない情操教育をつうじて、豊か な教養と高い人格を持ち、自由で批判力に富んだ精 神をそなえた近代的な女性を養成する。(跡見学園 女子大学ホームページ)
・東京家政大学 1881年(明治14年)創立
封建社会から脱し、明治という新しい時代をつくる には、女性も立派に独り立ちができ、社会に貢献が できるものとしなければと考え、「女性の自主自律」
を願い「新しい時代に即応した学問技芸に秀でた女 性」の育成を志す。(東京家政大学ホームページ)
・相模女子大学 1900年(明治33年)創立
日本女学校として発足。自立した女性の育成を目指 す。(相模女子大学ホームページ)
・日本女子大学 1901年(明治34年)創立 建学の精神はヒューマニズムによる女子教育 理念は 1.女子を人間として教育する 2.女子を婦人として教育する 3.女子を国民として教育する (日本女子大学ホームページ)
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・上野学園大学 1908年(明治37年)創立
人間としての自覚を持つことを建学の精神とする。
(上野学園大学ホームページ)
各校の建学の理念が個性的な文言で語られているが、共 通しているのは、女性に三従を強いる封建時代の女性観 と決別し、女性を一人の人格としてとらえようとする全 人教育の重視である。
実業校との違いをカリキュラムで強調する学校もあっ た。1905年(明治38年)に創立された愛知淑徳女学校(現 愛知淑徳大学)は、翌年愛知県初の私立高等女学校とな る。「自覚したる女子は一個の人間であらねばならぬ」と いう精神のもと、家事や裁縫を主流とする学校とは一線 を画し、心身を鍛えるためにスポーツを奨励し、英語や 理科に力を入れる教育をおこなった(愛知淑徳大学ホー ムページ)。
(4)卒業後の進路―進学
では、新しい時代の女学校で、人間性豊かな自立した 女性になるよう教育された女学生の卒業後には、どのよ うな進路があったのであろうか。まずさらに勉強を続け るのであれば、高等師範学校や専門学校への進学が可能 であった。初期の専門学校は、文字どおり専門的な職に 就く人材を育成する学校で、高等女学校を卒業していな ければ入学できず、アメリカのメディカルスクールや ロースクールのような機能を持つ教育機関であった。
1900年(明治33年)にスタートした女子英学塾(現 津田塾大学)は、1904年(明治37年)に英語教員養成 の専門学校として認可された。All−round woman(円満 な女性)の育成をかかげ、女性の自立と地位向上を目指 した女子英学塾の創立者、津田梅子は、1871年(明治4 年)に政府がアメリカに派遣した女子留学生の一人だっ た。6歳から14歳までの5人の少女をアメリカへ留学 させた目的は、アメリカの家庭生活を知り、アメリカの 教育を受けた近代的な「賢母」を育成することであり、
「よき母の育成は国づくりの基礎」という西洋の思想に 基づくものであった。この派遣は、渡米した折にアメリ カ女性の教養と地位の高さに感銘を受けた、黒田清隆の 発案によるものであった(『歴史をつくった先人たち―日 本の100人 津田梅子』 5)。しかし教育のほぼすべて をアメリカで受け、帰国後21歳で華族女学校の教師に なった津田は、日本の女性の置かれた立場や女子教育の 現状に失望し、自分自身の学校を開く。卒業生たちは津 田の期待に答え、英語教師として全国各地に赴任した。
女子英学塾の教育理念には、いわゆる良妻賢母の概念は ない。女子教育という観点からみれば、津田は自分をア メリカに派遣した政府の思惑や期待に背くようなかたち
で自分の信念を貫いたのである。
女子英学塾開設と同じ年、吉岡弥生が東京女医学校
(現東京女子医科大学)を創立した。日本で初めての女 子のための医学専門学校である。吉岡もまた、女性の地 位向上と自立を目的に、専門職教育に取り組んだのであ る。
(女医学校開設は)当時いかにも低かった婦人の社会 的地位を向上せしめようとしたのが動機であります。
婦人の地位を向上せしめるには、まず婦人に経済的 能力をあたえなければならず、それには自分が医師で もあるし、また、医学医術は婦人に適している立派な 職業でもありますから、 これを専門に教育する機関 を創立することを考えたわけであります。(「女子医科 大学創立と存在の意義」 東京女子医科大学ホーム ページ)
前述の日本女学校は、女子にも大学教育も授けるべき だとして1908年(明治41年)に大学設立願いを政府に 申請した。しかし当時の時代背景から許可されなかった ため、翌年帝国女子専門学校を設立した(相模女子大学 ホームページ)。
ただし専門学校の位置づけはその後何度か変更され、
実務的なことを専門的に教える裁縫専門学校なども創ら れていった。
(5)卒業後の進路―就職
上級学校への道が開かれていたとはいえ、進学を選ぶ 生徒はやはり少数だった。多くは卒業後、結婚準備のた めに家事手伝いをしていたが、進学率の上昇につれて増 えてきたのが、職業婦人という選択であった。
一個の人間としての自立には、経済的能力という要素 が含まれる。専門職へ進まない生徒でも、社会体験や経 済的基盤を求めて家庭の外で職業を持つことを希望する ようになってきた。そのような生徒が増えるのであれば、
彼女たちのニーズに合わせて学校も何らかの職業人教育 を提供することになるであろう。
ただし自立といっても、結婚せず一人で自活すること を学校は奨励していたわけではない。高等女学校の存在 意義に対する認識は、たとえば1908年(明治41年)の 全国高等女学校長会議にて、女子教育の目的は良妻賢母 育成にあると述べた当時の文相の言葉に代表される(友 野 61)。つまり高等女学校の役目とは、国家のため将 来を支える子どもを正しく教育できる母親の育成、子ど もを健全に育てられる家庭を正しく運営できる妻の育成 に他ならなかったのである。良妻賢母のための基礎学力 であり、教養であり、自主自律であった。家事教育と教