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日本人「慰安婦」の戦後の一端

第 2 章 「慰安婦」とされた日本人女性の語り

1. 日本人「慰安婦」の戦後の一端

本章では,新聞などで大々的に報道されることのなかった,日本人「慰安婦」被害者の 戦後の語りを取り上げる.具体的には(1)「慰安婦」から解放された戦後であっても「慰安 婦」であったことによる苦悩が続いていた側面,(2)典型的な被害者像に合致しない発言,

(3)〈従軍慰安婦問題〉出現当時に当事者が発信した文言を確認する.これらの語りをみて いくのは,日本人「慰安婦」被害者の戦後も継続した被害を把握するためというより,〈従 軍慰安婦問題〉をめぐる言説空間でこれらのテクストが主要な位置を占めなかったことや,

十分に議論の対象としてこられなかったことを押さえておきたいからである.

1.1. 「慰安婦」とされた日本人女性の怒りと苦しみを表すテクスト

本節では〈従軍慰安婦問題〉出現以前に書かれたものや発信された情報を取り扱う.

城田すず子さんは,日本人「慰安婦」被害者のなかで最も知られている人と考えてよい83. 公娼,「慰安婦」,進駐軍相手の売春などを経て,1955年に偶然見た雑誌の記事で知った日 本キリスト教婦人矯風会運営の「慈愛寮」に入り,心機一転し「更正」への道を歩む(城 田 1971: 90-158).その後,1958年に婦人保護施設「いずみ寮」に入寮,1965年に婦人保 護長期収容施設「かにた婦人の村」の開設とともに移住し,1993年に亡くなるまで「かに た」で過ごした.彼女は長年の経緯から重い婦人科の病気を煩ったが,これは公娼時代か らの被害ではあるが,戦後も続いた深刻な被害であるといえるだろう.

社会福祉学者の一番ヶ瀬康子は,「売春問題と“婦人保護”」について解説するにあたり,

婦人保護に関する研究は社会福祉研究において最も遅れてきたとしている.そしてそれが 公娼制度に由来するものであり,同時に「少数者の問題として軽視あるいは無視されてき たからではないだろうか」と述べている.背景として「その制度〔公娼制度〕のもとに苦 しみ,戦後解放された人びとが現存しているにもかかわらず,それは過去のこととしてし かあつかわないような政策展開がなされていたことと関係があろう」と分析する(一番ヶ 瀬 1989: 304).

一番ヶ瀬は,公娼制度に起因する問題は「過去のこと」ではないと論じる文脈で,「かつ て公娼であった」,「従軍慰安婦」でもあった一女性からの手紙を紹介し,「日本社会の底辺 に転落した貧窮家族の犠牲者」である彼女が婦人保護施設84で暮らしていると伝えている

(一番ヶ瀬 1989: 306-7)85.一番ヶ瀬は,公娼が「“家”保持のための親権(父権)のもと における身売りそのもの」であったのと同じく,「従軍慰安婦」が「わが国の家族制度が育

んだある種の特殊な形態の売春」であったと指摘する(一番ヶ瀬 1989: 313).

福祉を利用して居場所を確保した城田さんであったが,「慰安婦」の経験について苦しみ を訴えたり,怒りを込めて語ったりすることがあった.1984年3月10日の朝,施設長の 深津文雄牧師や職員らに宛てた手紙で,彼女は以下のように伝えている.

兵隊用は一回五十銭か一円位の切符で兵隊さんの行列をうけて性器を洗うひまもな く相手をさせられたものです.マッチ箱のような小さな部屋が並んでいる慰安所です.

死ぬ苦しみですわね.私も何度兵隊の首をしめようと思った事があったかわかりませ ん.ほとんどの女が半狂乱で生きてました.

そうゆうなかで死ねばジャングルの中の穴にぽっとすてられて.親元になぞ知らせ るすべもないさまでした.私は見たんです.この眼で女の「地獄」をみたんです.(山 下英愛 2009: 276)

城田さんはこの手紙で慰霊塔の建立を求めており,それを受け第1章2.1で述べたように 鎮魂碑が建てられ,朝日新聞の取材が入った.そして朝日新聞の「天声人語」欄で紹介さ れると,翌1986年に彼女はラジオ番組「石の叫び」86に出演することになった.そのラジ オ出演で城田さんは,「その慰安婦だとか,性の提供者だとか,そんな人たちが大勢死んで るということは,一片の慰めもないし,今,40 年たって今ね,ばかやろうって言いたくな っちゃう,本当に」(特定非営利活動法人 安房文化遺産フォーラム 2009)と憤った.

最初に送られた台湾の馬公の慰安所での経験を,「砂糖に蟻がたかるみたいに,兵隊さん がむしゃぶりつくとは思わなかったの.(中略)30分刻み,1時間刻み,それでもって体の 空く暇もないの.私,もう,びっくり仰天してね,毎日泣いてたのよ」(特定非営利活動法 人 安房文化遺産フォーラム 2009)とも語っている.

城田さんは台湾に行った後に一旦帰国するが,借金のため南洋のパラオの慰安所に行く ことになった.パラオ行きの話がきたときの様子を,次のように語る.

また,内地も空襲受けるっていう噂も出てきたのね.本土襲撃だなんていう噂も出 てきたでしょう.どうせ死ぬんならね,兵隊さんのために役立ってね,死んだほうが お国のためになるというような馬鹿な気持ちを起こしちゃったの.それでね,今度は ね,南洋群島にパラオからね,トクヨウ隊87だってね,女の子を募集しにきてたの.そ れを耳にしたのよ,私が.食うに食われないでね.(特定非営利活動法人 安房文化遺 産フォーラム 2009)

「お国のため」になる,という気持ちを起こしたという.しかしそれについては「馬鹿 な気持ち」を起こしたのだと自嘲気味に振り返っている.「お国のため」という言葉が当事 者から語られているとはいえ,先に挙げたように「慰安婦だとか,性の提供者だとか,そ んな人たちが大勢死んでるということは,一片の慰めもないし」,「砂糖に蟻がたかるみた いに,兵隊さんがむしゃぶりつくとは思わなかったの」と語らざるを得ない凄惨な経験に 目を向ければ,「お国のため」だけを日本人「慰安婦」の心境として切り取るわけにはいか ないのではないだろうか.

以上のラジオでの本人の言葉とは違って第三者の編集を通したものではあるが,自伝『マ リヤの讃歌』では,「名実ともに奴隷の生活」(城田 1971: 34)だったということや,「ほん とうに人肉の市で,人情とか感情とかはまったくなく,欲望の力に圧し流されて,一人の 女に一〇人も十五人もたかるありさまは,まるで獣と獣との闘いでした」(城田 1971: 35)

という記憶を伝えている.このように城田さんは「被害」の実情を訴えてきた.

城田さんとは対照的であるが,山内馨子さんという日本人「慰安婦」被害者は,惨めさ や生活苦から自殺したとされる.山内さんは1942年,満18歳でトラック島に渡り,士官 用「慰安婦」とされた.源氏名は「菊丸」であったが,山内馨子は本名とされる.彼女は

『週刊アサヒ芸能』誌の取材に応じ,「慰安婦」であった過去を打ち明けていた88. 山内さんを取材し『証言記録 従軍慰安婦・看護婦』を著した広田和子によると,彼女の

「慰安婦」時代は将校との恋もあり,美貌もあり,食事にめぐまれ,不自由のない暮らし ぶりだった.しかし,引き揚げてきてからの生活は惨めなものに一変,ダンサー,キャバ レー・ホステス,料亭の仲居などをしてきたが,1972年4月に47歳89で自殺した.遺書に は9月から家賃が払えていないと書いてあり,財布には870円しか残っていなかった(広 田 1975: 11-55).

遺書とは別に,山内さんがトラック島での生活を語った手記があるが,そのなかで彼女 は「あのころの私達は愛国心に燃えて,若さもあり,日本の為また陛下のためと頑張りま した.今日の若き人が聞いたら笑うことと思います.また女性が話し合うことでしょう.

きたない,不潔と」と書いている(広田 1975: 26-7).あるとき広田が取材で訪ねると,山 内さんは,終戦を知らずグアム島で生き延び1972年に発見された元日本軍兵士の横井庄一 さんのニュースに対する世間の熱狂ぶりに腹を立てていた.

なにも横井さんだけに厚生大臣が金一封贈ったり,洋服作ってやったりすることない でしょう.陛下のためだなんていってるけど,なにが陛下のためよ.あたしらもそうい われて行ったんじゃないか,チクショーと思ってね.あたしは結局そのことが出てくる から,お嫁に行けないでこうしているんだって,厚生省に行っていってやりたいわ.(中

略)ジャングルで暮らすより,もっとみじめな生活をしている者がいるのよっていって やるわ.(広田 1975: 74-5)

広田は「『お国に身を捧げた』慰安婦」へは恩給もなく,「彼女らには,肉体を売ったと いう“屈辱感”だけが残った」と,彼女の戦後の苦悩を推察している(広田 1975: 74). ほかにも,怒りに満ちた日本人「慰安婦」被害者の声が雑誌記事から確認できる.1974 年の『週刊新潮』記事「撃沈された女子軍属たちが,集団慰安婦に堕ちるまでの戦争体験」

には,1970 年の千田夏光執筆の記事「特別レポート 日本陸軍慰安婦」や千田の『従軍慰 安婦』(正・続)への反響が綴られており,情報提供を受けた千田がさらなる取材へ向かっ たことが報告されている.

千田の元に手紙を寄せた日本人女性「山本さん」は,軍属の募集に応募した結果,悲惨 な目に遭ったと訴える.日本を発つと乗船した船が撃沈され,救助されたものの軍属の話 は立ち消え,軍からは「慰安婦」になるなら面倒をみてやるといわれた.彼女と 6 名の女 性たちは拒絶し死を覚悟するが,その他の23人の女性は諦めて「慰安婦」となった.山本 さんたちは逃避行の末,23 人の女性たちに再会するが,彼女たちの話を聞くと許しがたい ものだったという.それゆえ山本さんは「私のほか,みんな田舎出身の純情な娘さんばか りだったことは事実です.それだけに軍隊をうらめしく思います.国会議員などにおさま り,選挙の票集めに名刺を配る,あの厚かましき元軍人ども,平和な日本と酔いしびれる 現在,私は何か恐ろしいのです」(『週刊新潮』1974.8.22: 33-4)と手紙に書いたのだった.

記事には「慰安婦」となった 23 人のうちの生存者の一人の言葉も載っている.それは,

「慰安婦」を強要された彼女が決して「お国のため」に「慰安婦」になったわけではない ことを伝える内容である90

私たちは,すすんで偕行社の女になったわけではありません.山本さんたちが出て いかれたあと,その副官が来られ,“断るのは自由であるが,偕行社は栄誉ある帝国陸 軍将校のクラブであり,そこで働くのはジャワで働くのと同じくお国のためになる.

そこのところを考えるのだ”といわれたのです.体は弱っていましたし,もう,どうで もいいと思い始めてました…(『週刊新潮』1974.8.22: 36)

さらに「まず全員が生娘でしたから…」(『週刊新潮』1974.8.22: 36)という言葉や,妊 娠に関する知識がなかった彼女たちに将校たちが避妊せず接してきたことに対し「ずいぶ んひどい人たちだったと思います」(『週刊新潮』1974.8.22: 36)と憤りの言葉が続く.

このように,〈従軍慰安婦問題〉が現れる以前に,日本人「慰安婦」被害者は,手紙や手