第 3 章 フェミニズム運動にとっての「慰安婦」――1970 年代を中心に
8. アジアの女たちの会の「慰安婦」言説
8.1. 資料について
アジアの女たちの会の主な発行物は1977年から1992年まで発行された機関誌『アジア と女性解放』である.創刊準備号と1号から21号までの日本語版と,1977年から1992年 まで全9号発行された英語版がある131.その他,パンフレット等が数点発行された132. 本研究では日本語版の機関誌全号を対象に,「慰安婦」に関連する箇所を中心に分析を行 った.また適宜,会のメンバーが関わってきた運動の発行物も参照した.資料の分量が少 ないので,表でのリストアップは省略する.
8.2. アジアの女たちの会の「慰安婦」テクスト
アジアの女たちの会立ち上げメンバーの一人である加地永都子は,キーセン観光に反対 する女たちの会が1974年4月に発行したパンフレット『キーセン観光 資料・性侵略を告 発する』のなかのコラム「本の紹介」を執筆している.そこで加地は千田夏光『従軍慰安 婦』を紹介しており,「八万四千人とも十万人ともいわれ」る「慰安婦」の「その大半は朝 鮮人女性だったことは公然の秘密」であるという千田の見解を基礎に,日本人の朝鮮人差 別の問題として「慰安婦」制度を解説している.
コラムのなかで加地は日本人「慰安婦」について「『こんな身体でもお役にたてるなら』
と進んで応募した女が多かったという証言がかなり聞かれる」(加地 1974: 79-82)と述べ,
それ以上掘り下げてはいない.この「本の紹介」ではキーセン観光と「慰安婦」との関連 づけに主眼が置かれているので日本人「慰安婦」に関する議論が深められることはないが,
テクストのなかで朝鮮人「慰安婦」と対比されることで,日本人「慰安婦」の被害者性は 薄れるのである.
では,機関誌の内容から,「慰安婦」と関連するものを概観しよう.1977年の2号では,
「買春観光を許すな!――韓国・台湾から東南アジアまで」と題して特集が組まれた.キー セン観光にとどまらず,東南アジア一帯に「買春観光」が広まってしまった事態に警鐘を 鳴らしている.1983年の 14号では「特集・侵略と性」が企画され,山口明子,五島昌子 により「従軍慰安婦」が問題化されている.山口が「国家による女の性の陵辱――従軍慰安 婦の問題を,男たちの手でなく,私たちの手でこれから明らかにして行けないだろうか」(山 口 1983: 10)と締め括っている様子からは,過去のこととして切り離すのではなく,実態
解明をしていこうとする姿勢が見える.五島は朝鮮人「慰安婦」とキーセン観光を結びつ け,アジア諸国への買春観光の問題と絡めて論じている(五島 1983: 11).ともに日本の性 侵略を問題としているため,日本人「慰安婦」へは焦点が当てられない.
1983年刊行の機関誌13号の特集は「8.15とアジア」である.巻頭言では,以下のよう に「慰安婦」に言及している.
台湾,朝鮮を南進の足がかりとして,「八紘一宇」のスローガンのもと,アジア統一 をめざし日本が侵略していった国々でどれだけの人々が殺されただろう.現地調達を 基本とする日本軍隊の占領で,アジアの国々では米,衣類ばかりでなく,人間の労働 力も強制的に奪われていった.また,占領地では女性を強姦することは当たり前のこ とであったし,従軍慰安婦として多くのアジアの女性が戦場に連れていかれた.(アジ アの女たちの会 1983a: 2)
日本の「侵略」とアジア諸国の被害を強調する文脈であるため,日本人「慰安婦」は語 られない.朝鮮人「慰安婦」ではなく「多くのアジアの女性」が「慰安婦」にされたと伝 えるものと読める.
同じ号に掲載された「朝鮮支配に荷担した日本の女たち」と題された論考では,日本人 女性の植民地支配への荷担について省察している.
暴虐の限りをつくした日帝支配下の朝鮮で日本の女たちの果たした役割は一体何だ ったのだろうか.
最近になって,やっと侵略戦争における女たちの加害者としての側面を,女自らの 手で掘り起こす作業が始められ,軍国主義を担っていた愛国婦人会,大日本国防婦人 会などの果たした加害性の具体的事業が明らかにされつつある.(中略)
これら朝鮮総督府の指導による女子教育方針のものと,民間組織としてのものがあ り,都市・村落を問わずに入り込んで日本の女たちは大きな役割を果たしてきたのだ.
いわゆる娘狩りといわれる女子動員から,日中戦争以後の本格的大動員,女子挺身隊 という名の従軍慰安婦動員を楽に推し進めるための下地をつくる役割を果たしたとも いわれている.
そして今…
日本の韓国における経済侵略において日本の女たちの担っている役割とは…戦争で 犯した誤ちを日本の女たちは今,再び繰り返していないと言い切れるだろうか.(斉藤 1983: 10-2)
植民地支配の暴力性を訴えるテクストでは,日本人は加害者性を帯びた国民主体として 均質的に観念される.加害責任を自覚させ,加害の文脈にあるポジショナリティを認識さ せることで現在進行形での侵略を阻止する力を生み出そうとするテクストであり,運動な ので,加害国の被害者という存在は触れられない.
会の立ち上げメンバーで画家である富山妙子は,1989年刊行の機関誌 20 号に掲載され たインタビューで,朝鮮人「慰安婦」をテーマとしたスライド作品『海の記憶』を制作し たきっかけを尋ねられ,「男は強制連行,女は従軍慰安婦にされたことを日本の戦争責任と して,これを描こうと思いました」(アジアの女たちの会 1989: 32)と答えている.そして 戦場に行った「慰安婦」がその後どうなったのかと問われ,以下のように語っている.
そうね,彼女たちは今生きていたら,六〇代か七〇代でしょう.その人たちは故郷 へ帰っていない.なぜかというと,朝鮮は儒教道徳の国で,女の貞操が尊ばれる.(中 略)日本軍からも同胞からも,二重に差別を受けることになった.そのため自殺した 人もいます.いま生きていたとしたら,その人たちの老後問題がある.せめてやすら かな老後の保障をするべきでしょう.この事実も日韓両政府が「ふれたくない」もの として,消しています.
私は誘い水のようなもので,元慰安婦だった人たちに,声をあげ,語ってもらいた い.残り少ない人生のために,あなた方の深い悲しみ「恨ハン」の声を,という思いから です.(アジアの女たちの会 1989: 32)
「慰安婦」とされた女性が生きていたら60 代か70代になっているので老後の生活保障 が必要であるという富山の現実的な視点は,被害者が息を潜めて暮らしているリアリティ への卓抜した想像力による.「誘い水」となり,被害者が現れることを望んでいる富山は,
リブやアジア婦人会議の運動家たちが「慰安婦」被害を「過去」のことと感じていた様子 と比べれば,はるかに問題に迫っている.
富山は韓国の民主化運動に共鳴し,政権風刺の詩を発表し投獄された金キム芝ジ河ハに連帯する 作品など,韓国をテーマに制作活動をしてきた.1980年代後半には「慰安婦」にされた朝 鮮人女性へのレクイエムの作品を発表し,その作品がスライド『海の記憶・朝鮮人慰安婦 に捧げる献花』に作り直された.富山は日本人「慰安婦」被害者の城田すず子さんが出演 したラジオ番組133の録音を聴いており,1987年にかにた婦人の村も訪ねているため(富山 1992: 15-8),日本人「慰安婦」がいたことは知っていたが,日本人「慰安婦」は作品の対 象にはしていない.植民地支配の傷痕の残る韓国の民衆に連帯することに全力を尽くして
きたからである.