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侵略=差別と闘うアジア婦人会議について

第 3 章 フェミニズム運動にとっての「慰安婦」――1970 年代を中心に

5. 侵略=差別と闘うアジア婦人会議について

リブ関係者には,性暴力被害を打ち明けている人々がいる.田中美津自身,幼少時に実 家の店で雇っていた従業員から「イタズラをされた」(田中 [1972] 2010: 94)体験を綴っ ている(田中 [1972] 2010: 93-105).評論家でリブに共感的であった吉武輝子も,性暴力 被害を開示している.そして「わたしは強姦体験をのり越えるためにも,エロスをこの身 にしかと体現したい.だからこそ役割りとしての女から逃れるべく,内に向かっては女ら しくあろうとする自己への告発,外へは男性中心社会への告発を怠りなくつづけているの です」(吉武 [1972] 2008: 3)と述べている.田中と吉武が書いたものからは,被害による 苦悩が伝わりつつも,回復へ向かおうとする力強さにあふれている.田中の被害は幼少時,

吉武の被害は敗戦直後とすでにかなりの年月が経っており,加害者を糾弾したり謝罪や賠 償を求めたりする運動を起こしているわけではない.

大学時代に学生運動仲間から被害に遭い,リブの活動家たちに励まされ加害者を糾弾し,

いくらか立ち直った経験をした活動家もいた(渡辺 1996: 131-3).しかし 1970年代前半 のリブなどフェミニズム運動において,性暴力被害者が受けるダメージや,被害が及ぼす 長期的な心身への影響などについては,まだ関心が高まっておらず,解明されていない.

娼婦性や性暴力被害は「おんな」一般にもたらされる性抑圧としてとらえられた.

被抑圧による痛みの自覚とそこから解放されようとする思考,女が差別の再生産をして しまう構造をあえて娼婦の側に足を踏み入れることで撹乱しようとする試み,このような リブの運動は,痛みのなかに留まるのではなく,解放された女の主体を形成しようとする ものである.しかしそれは似たような経験を持つ同世代の女同士で解放を目指そうとする 集合行動であり,逆説的にも共感できる者同士の内輪の運動となる面があったといえる.

過去の性抑圧の象徴であり,世代も階層も違う「慰安婦」被害者は,たとえ同時代を生き ていてもリブの運動家たちには身近に感じられる存在ではない.共感できる者同士の刺激 的な運動を展開し,新しいおんなの生き方を確立することが関心事であったため,現実に 生きている「慰安婦」被害者への関心は薄かった.

落や沖縄県民や在日朝鮮人のそれと同質のものとして明らかにしたいと思います.

第二に――アジア的視点で今後の斗いのあり方を考えたいと思います.それは日米帝 国主義のアジア侵略を私たちへの侵略としてとらえ,私たちじしんの個別の斗いを追及 し,同時に運動の先進国としてのアジアから学ぶということです.(侵略=差別と斗うア ジア婦人会議 [1970a] 侵略=差別と闘うアジア婦人会議資料集刊行会編 2006a: 5)

このような姿勢は,日本の帝国主義的侵略戦争の被害者の苦悩を想像する力を秘めてい るだろう.

会の呼びかけ人であり,会の運動が下火になるまで議論を牽引し続けたのは,松岡洋子 と飯島愛子である.両者はともに社会党系の婦人組織である日本婦人会議に所属していた が,アジア婦人会議の立ち上げとともに組織を離れた118.アジア婦人会議の運動に関わっ た人々は幅広い年齢層にまたがっているが119,運動を展開する過程で多くの論文を書いた 飯島愛子が1970年時点で38歳であり,会のメンバーであった宮地佳子氏によると,「全共 闘や反戦系の労働運動,リブ運動に触発された20代,30代」の若い層や70代の年長者も いたが,日本婦人会議と決別した女性たちが始めた運動であるため,リブの女性たちに比 べると総じて年齢層が高かった(宮地 2011: 140).

加納実紀代は,アジア婦人会議は「一九七〇年代のリブ運動,日本における第二波フェ ミニズムをひらいた」と評価している(加納 2006: 333).「第二波」たるゆえんは,アジア 婦人会議が「真の女性解放は社会主義革命成立にあるとする」戦後の婦人運動の「階級一 元論」に批判的であり(加納 2006: 334),「女性差別」の発見,「ジェンダーの発見」をも たらしたという点に見て取ることができる(加納 1996).実態としての女性差別はそれま でもあったが,女性が被る抑圧は「差別」ではなく「従属」,「隷属」,「搾取」などの「前 近代的身分関係や階級用語でとらえられていた」(加納 2006: 342-3).

ただし,アジア婦人会議の運動は「ジェンダーの発見」だけにその特徴が集約されうる ものでも,「日本における第二波フェミニズム」という時期区分上に整然と収まるものでも ない.アジア婦人会議を発足させた人々は,1969年の「四・二八沖縄闘争に連帯する婦人 連絡会」120(後に「安保を闘う婦人連絡会」へと改称)や「救援ノート」作成に関わって おり,1969年10月10-11日に婦人民主クラブ121の呼びかけで開催された「反安保婦人集 会」で「’70 年安保の情況を通して婦人運動そのものを見直そうという気運が盛りあがり,

その延長線上に,組織の枠組みをこえた形で’70年アジア婦人会議の大会の相談がはじめら れた」という経緯の下に運動を展開している(侵略=差別と闘うアジア婦人会議 [1975] 侵 略=差別と闘うアジア婦人会議資料集刊行会編 2006c: 299).冨山一郎が指摘するように,

沖縄闘争,三里塚闘争,入管闘争,劉彩品支援闘争などさまざまな闘争へ関わりを持つア

ジア婦人会議の運動は,婦人民主クラブの人々が合流したことにもみられるように「『第二 波フェミニズム』という時期区分的な認識では到底汲み取れないような複合的な水脈」(冨 山 2009: 292)をもつものとしてあった.

結成大会ともいえる8月の会議には,「全体会特別報告」の報告者として,在日ベトナム 留学生・ダオ・チ・ミン,在日中国人留学生・劉彩品,在日マラヤ留学生・劉素華,東京 華僑総会婦女連合会・周冬梅,セイロン代表・テージャ・グナワルダーナ,カネミライス オイル被害者を守る会・藤井エミ子,富士市公害対策市民協議会・芦川照江,部落解放同 盟・村越良子,三里塚芝山連合空港反対同盟婦人行動隊・長谷川たけ,沖縄全軍労牧港支 部・新城房子,十月十一月斗争被告団・佐竹みよ122,忍草母の会・天野美恵らが招請され,

報告を行った.また招請されたが会議への参加が叶わなかった,南ベトナム解放婦人同盟 国際部,中華人民共和国・中日友好協会,泉州センイ女子労働者らが会議へメッセージを 寄せた(侵略=差別と闘うアジア婦人会議 [1970e] 侵略=差別と闘うアジア婦人会議資料集 刊行会編 2006a: 102-37).

これらの人々の顔ぶれから,主催者であるアジア婦人会議が,帝国主義あるいは資本主 義に抑圧された民衆の立場から反権力の闘争を繰り広げている人々の運動を,女性/婦人 運動の名の下に結集させ,新たな運動勢力として連帯を図ろうとした様子がわかる.劉彩 品は入管闘争のキーパーソンである.在日華僑や在日朝鮮人は入国管理体制に抑圧される 存在であった.他に食品や公害による健康被害への取り組みや,軍事目的で奪われた土地 を取り戻すための忍草や三里塚の闘争などの住民運動,沖縄闘争,部落解放運動,労働運 動などが確認できる.これらはどれも第一義的に「女性」であることが抑圧の標的となっ た問題ではない.一見すると,それぞれの運動は関連性を持っていないようでもある.

しかしこれらの個別の闘争に関連性をみるのが新左翼運動に共鳴した運動の特徴である.

アジア婦人会議の理論的支柱であった飯島は,アジア婦人会議を始める前から,既成組織 の枠を超えて「べ平連や新左翼潮流(反戦青年委員会や全共闘の)と共同に行動すべきだ という思い」(飯島 2006: 120)を抱いていた.つまり日本人が「加害者」としてあるとい う新左翼の視点がアジア婦人会議にもある.日本人は加害者でありながら,国家に抑圧さ れる存在でもある.具体的には「日帝」は,資本の発展のために「合理化」をおこなう日 本の企業と結託して労働者を抑圧し,沖縄県民を差別し沖縄を軍事基地とし,入管体制に より在日朝鮮人や在日中国人を抑圧することなどを通じて侵略体制を築いており,それに より国外での経済侵略,軍事侵略を進めていっているという認識が新左翼運動にはある.

そこからさらに踏み込んだアジア婦人会議の視点の新しさは,抑圧体制がジェンダーを 通して構築されているとみなした点と,諸外国への「侵略」を「私たちへの侵略」ととら えた点にある.飯島も,「全共闘,べ平連,反戦青年委員会は己れの加害性と主体性(自己

否定・自己変革)の創出を共通項としていたのに対し,アジア婦人会議は『自己変革とし て差別問題、、、、

をとらえること』を提起していた」(飯島 2006: 129-30)(傍点原文)と回想し ている.「侵略」はあらゆる差別によって遂行されるがゆえに,性差別によっても成り立っ ている.会の名称には性差別を女性に対する侵略としてとらえる視点が打ち出されており,

性差別と闘いながら抑圧体制に対抗することで侵略全体を阻止するという,弁証法の発想 が読み取れる.以下は「性による差別について」と題するア婦の座談会での参加者「G」さ んの発言である.

家=一夫一婦制度を支える環として女というものが,女の性を抑圧することによって 体制を支えている.(中略)家がどういうかたちで体制にくみこまれているのか,家と いうものが,もっとも小さな差別構造であるし,それゆえ,体制の最も小さな単位であ る以上,入管法の排外主義にまでかかわってゆくと思います.家を守る―企業を守る―

国を守る―で排外主義がつらぬかれている.(侵略=差別と闘うアジア婦人会議 [1970d]

侵略=差別と闘うアジア婦人会議資料集刊行会編 2006a: 58)

このように,女性の性が抑圧されている状態が排外主義までつながっていくという分析 がなされる.

性差別と闘いながら日帝の再侵略に抗するという運動方針はリブ運動と同様であるが,

リブとの違いは年齢層や運動を始める背景の他に,どのような点に見出されるだろうか.

アジア婦人会議はみずからとリブとの違いを次のように説明している.「アジア婦人会議は,

旧左翼=革新婦人団体を母体としつつ,主にオキナワ闘争への参加を通して既成革新婦人運 動への批判的立場を鮮明にしていった.それに対して,10.21123への結集を起点としたいく つかのリブグループの女たちは,べ平連・入管闘争等の中から登場しながらも,新左翼運 動自身の中にぬき難く存在する女性べっ視や政治課題優先主義への告発を背景にし,女の 感性に根ざした主体形成を主張していった」(侵略=差別と闘うアジア婦人会議 [1975] 侵 略=差別と闘うアジア婦人会議資料集刊行会編 2006c: 290)ということだ.

実際に,アジア婦人会議は既成革新婦人運動の総括をたびたび行い,新たな運動の方向 性についての確認を重ねている.既成革新婦人運動とされるものは,政党の影響下にある 運動,組合などである.1970 年には夏の大会の前に座談会「戦後婦人運動の総括――母親 運動を中心に」が組まれ,母親大会運動の問題について意見が交わされた.座談会の出席 者たちは,1961年あるいは1962年頃に共産党から母親大会への介入傾向が強まったと振 り返る.政党の介入が問題なのは,「路線」の持ち込みにより参加者が主体的に考え抜く場