第 1 章 〈従軍慰安婦問題〉の諸相
2.3. 戦後補償運動の展開
〈従軍慰安婦問題〉の出現を可能にした背景として,戦後補償運動という形で民衆の運 動が展開してこられたという要素は大きい.戦争被害者である個人や特定の集団が国家に 補償を要求するという行動が日韓の市民の間で正当化され支持されたことが,金キム学ハク順スンさん をはじめとする「慰安婦」被害者の名乗り出や提訴を後押ししたのである.戦後補償の要 求の高まりと,前節までにみた「慰安婦」制度の問題化が相互に影響しつつ,〈従軍慰安婦 問題〉を社会問題化させたといえよう.以下,簡単に戦後補償運動の経緯を追ってみたい.
日本の戦後処理は極めて不充分であった.戦後,米ソの冷戦構造下,米国の対アジア政 策に組み込まれた日本は,東京裁判で一部戦争犯罪人が裁かれただけで,天皇制や戦前か らの支配層と官僚体制を温存させた.東京裁判では朝鮮への植民地支配は裁かれなかった.
日本人がみずから戦時中の加害行為について明らかにしようする試みは大々的にはなされ なかったこともあり,過去の清算が未完のままであった.
サンフランシスコ講和条約は,日本が国交を回復するために1951年9月8日に調印され たが,日本社会党や知識人らが実現を求めた「全面講和」とはならず,甚大な被害を被っ た中華人民共和国,中華民国,朝鮮民主主義人民共和国,大韓民国が講和会議に招請され ないままの「片面講和」であった.条約の草案はアメリカ主導で作られ,日本の経済復興 が遅れるとアメリカの負担ともなるため,日本が多額の賠償をせずに済むよう進められた.
結果として賠償をめぐり,アジアの諸外国に禍根を残した.
韓国との関係でいえば,1951年10月の予備会談に始まる日韓国交正常化交渉が,李イ承スン晩マン 政権期だけでも1952年の第一次会談から1960年4月に終わる第四次会談まで行われてい たが,李承晩は「反日を生きた“国父”」として「日本との交渉にのぞむ姿勢はきわめて硬」
く,「日本側も植民地支配の反省は,保守政権の歴史認識についてはもちろん,国民の歴史 感覚という面でもいまだ希薄な時代であった」(文 2005: 111).そして1961年に軍事クー デターを起こし登場した朴正煕政権は日韓会談を再開,韓国では学生を中心に激しい反対 運動が展開されていたが,朴正煕軍事政権は経済開発を急ぎ,1963年には戒厳令を宣布し 反対勢力を抑え,1964年の第七次会談で妥結した.
こうして日韓条約は1965年6月22日に締結され,同時に「日韓請求権協定」すなわち
「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の 協定」も締結された.請求権協定では「両締約国及びこの国民(法人を含む)の財産,権 利及び利益並びにその国民の間の請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されること を確認する」と両国が財産権,請求権について,外交保護権の行使を放棄する内容となっ ており,その代わりとして日本が韓国に一〇八〇億円(3億ドル)の生産物と役務を向こう 10年で無償供与し,七二〇億円(2億ドル)の生産物と役務を向こう10年の有償供与で支 払うという経済協力金について取り決めされている.日韓条約の条文には植民地支配への 謝罪はなく,請求権協定に基づき供与された 5 億ドルもあくまで経済協力金であり,日本 は一切「補償」はしていない.韓国政府は時限立法により 5 億ドルの経済協力金の一部で 個人補償をしたが,元軍人・軍属あるいは労務者の死亡者の遺族に対象が限られ,一人あ たり三〇万ウォン(約19万円)と小額に留まり遺族の不満は解消されず,生存者たちは取 り残された(内海 2002: 57-60).
個人の請求権までもが「完全かつ最終的に解決」され消滅したのかどうかについては,
日韓で論争が続いている.日韓条約締結時に韓国の大統領主席補佐官であった閔ミンチュン忠植シクは,
1991年8月に戦後補償問題に取り組んできた市民運動関係者により開催された「アジア・
太平洋地域 戦後補償フォーラム」で,条約締結反対のデモが続き政権の根底が揺らいでい た朴正煕政権は,条約内容をあげつらう余裕もなく,少ない金額ではあれそれで国交正常 化をするかしないかという決断を迫られた状況で踏み切らざるを得なかったと証言してい る.また,韓国政府を代表して条約の調印をした李元外務長官に閔が聞いたところによれ ば,韓国側と椎名外相(当時)には個人の補償請求権に国が関与できないことは暗黙のう ちに了解されていたという(閔 1992: 140-1).
賠償・経済協力で支払われた資金は,受領国のインフラ整備などに使われ,独裁政権の 利権につながり不正な処理がなされるなどして,被害者個人へはほとんど支給されていな
い.よって戦争被害者たちは,裁判を通じての補償要求や立法運動へと向かうようになっ た.
原爆症治療を求めて日本に「密入国」して入国管理法違反となり服役していた孫ソン振ジン斗ドウさ んの被爆者健康手帳交付を求める訴訟は,1972年に提訴された,戦後補償訴訟の先駆けで ある.1978年に最高裁が「日本政府は朝鮮人被爆者に対しても補償責任を有する」という 判決を出した.
訴訟という形をとらずとも,国内の原爆被害者たちの運動は1956年の「日本原水爆被害 者団体協議会」(以下,「被団協」)結成から大々的に展開されており,日本人の戦後補償運 動として他に類を見ない規模のものである.社会学者の直野章子は,被団協運動が「被害 を引き起こす原因となった国が,死者も含めた原爆被害者に対して『償い』をするという 意味合いで,原爆被害に対する国家補償法制定を要求し」てきたことは,「国家補償」の概 念に「法律用語の枠を超えた意味が付与されてきた」ことであると運動の意義を汲みとっ ている.そうした被爆者たちの運動は「戦争被害受忍論を許さない制度と思想を創り出す 運動」である(直野 2009: 75).
韓国で最も大きな組織を形成した戦後補償を求める運動体は「太平洋戦争犠牲者遺族会」
(以下,「遺族会」)である.遺族会は1973年に釜山で結成された「太平洋戦争遺族会」が 全国規模の組織となり1988年に再建された,元軍人・軍属や強制連行の被害者とその遺族 で結成された団体である.遺族会が日本政府に戦後補償を求める運動は1980年代の終わり から一層活発化し,1991年には会員の元軍人・軍属と朴末子パクマルジャさん(仮名),金順子キムスンジャさん(仮 名),金学順さんら「慰安婦」被害者3名の全35 名が日本政府を相手取って東京地裁に提 訴した.この「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求」訴訟は初の「慰安婦」訴訟とし て注目を浴びた.弁護団長を務めた高木健一によると,遺族会に入会した元軍人・軍属が
「慰安婦」の存在について語り出したのが,「慰安婦」の存在に光を当てられる発端であっ たという(髙木 1992: 17).
日本でもアジア諸国の戦争被害者の声を聴こうとする運動が起こった.「アジア・太平洋 地域の戦争犠牲者に思いを馳せ,心に刻む集会」は海外から戦争被害者を招き,1986年か ら証言を聴いてきた会である.被害者と直接向き合っていく運動は,戦時中の日本の加害
/アジア諸外国の被害の構造をとらえようとした 1970 年代までの新左翼やフェミニズム など革新陣営の運動とは一線を画する.被害者と直接つながる場を持とうとする運動は,
いまだ傷の癒えることのない「被害者」との出会いを経験している.
2.4. 〈従軍慰安婦問題〉の出現
〈従軍慰安婦問題〉は日韓の政治問題となる前に,先に韓国国内で問題化された.韓国
の梨花女子大学教授であった尹貞玉は1980年から「慰安婦」制度の調査を始めていた.1988 年には韓国教会女性連合会が「挺身隊研究委員会」を設置する.韓国では当時,「慰安婦」
はもっぱら「挺身隊」と呼ばれていた65.1989年1月,韓国女性団体連合が昭和天皇の葬 儀への弔問使節派遣に反対する声明書を発表した際に「挺身隊」の問題にも言及,日本に 謝罪を要求した.そのように女性研究者や女性団体で問題意識が徐々に共有されていき,
さらに1990年1月,尹貞玉の調査報告である「挺身隊取材記」がハンギョレ新聞に連載さ れることで,韓国社会への大々的な問題提起となった.この取材記が日本語文献に収録さ れる際に翻訳を担った山下英ヨン愛エの解説では,「『挺身隊』の存在は日帝の蛮行として知られ てはいても,その実態に関する調査・研究が日本以上に少ない韓国では,『取材記』の連載 は少なからぬ衝撃を与えたようである」(山下英愛 1992a: 12)とされ,取材記は韓国の女 性界がこの問題に取り組み始める「導火線の役割を果たしたともいえる」(山下英愛 1992a:
12-3)と,社会問題化の契機となったことを伝えている.こうしてまずは韓国で〈挺身隊 問題〉が構築された.
そして事態は日韓の政治問題として加速する.1990年5月,韓国の 26の女性団体が謝 罪と補償を求める声明「盧泰愚大統領の訪日および挺身隊に対する女性界の立場」を発表 した.日本でも呼応するように,参議院予算委員会で竹村泰子議員が「従軍慰安婦」の調 査をおこなうよう政府に要望した.6月には参議院予算委員会で本岡昭次議員が朝鮮人の強 制連行を問題化する文脈で「従軍慰安婦」が強制連行された事実があるか質問し,調査の 実施を求めた.すると,労働省職業安定局長であった清水傳雄政府委員が「従軍慰安婦な るもの」は「民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか,そういうふ うな状況のようでございまして」と述べ,調査して結果を出すことはできないと答弁した
(国立国会図書館 1990: 6).このことが政府の責任を認めないものとして運動体などで問 題視され,10 月に韓国女性団体連合,韓国教会女性連合会など 37 の女性団体が以下の要 求を記した公開書簡を日韓政府に送付した.
一,日本政府は朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること 二,そのことについて公式に謝罪すること
三,蛮行のすべてを自ら明らかにすること
四,犠牲となった人々のために慰霊碑を建てること 五,生存者や遺族たちに補償すること
六,こうした過ちを再び繰り返さないために,歴史教育の中でこの事実を語り続けるこ と(尹貞玉ほか 1992: 255)