ラトはカイザリヤに戻って行ったようです。
しかしキリストはゲツセマネとカルバリに 赴き,苦悶
く も ん
を伴うけれども人を自由にする,
普遍的な贖
あがな
いを達成されました。それに よって,何十億という人が復活にあずかれ るようになったのです。
今日
こんにち
,あちらこちらで,義人と悪人の別を 問わず,戦雲が頭上に垂れ込めています が,偉大な復活というキリストの輝かしい 賜物
たまもの
は万人に等しく,惜しみなく注がれま す。白い波頭を見て深海で起こりつつあ る変動を知るのは不可能ですが,贖罪
しょくざい
の 場合も同様でした。地球全体に影響を与 え,永遠の重要性を持つ出来事が,小さ な庭園と人目につかない丘で起きていた のです。
多くの場合,神の業はひそやかに展開 します。例えば,ジョセフ・スミス・シニア の家族がニューイングランドからニューヨ ーク州北部に引っ越したことに,どんな 差し迫った経済的理由があったにせよ,
彼らは知らず知らずのうちに,聖なる金 版に導かれて行ったのです。この金版は クモラの丘に埋められ,「大地のあるかぎ り代々伝わる」「キリストについてのもう 一つの証
あかし
」となる時を待っていました(2ニ
ーファイ25:22)。
ですから,この騒乱の時代にあっても,
ひそやかに「霊の命」を心にかけることが やはり最も重要なのです。将来を左右す る決定的瞬間になり,時に義にかなった 行いを際立たせることがありますが,いか なる外的混乱も,内的決心を揺るがす言 い訳にはなりません。たとえプレッシャー に簡単に屈する人がいる場合も,そうで す。方々で争いが始まっても,聖約を破 る必要はありません。例を挙げれば,単 に戦争で夫婦が別居を余儀なくされてい るからといって,姦淫
かんいん
が正当化されること はありません。「あなたは姦淫してはなら ない」という第7の戒めには,「戦争のとき を除いて」という補足事項はないのです
(出エジプト20:14参照)。
昔の戦争の時代に,デビッド・O・マッケ イ大管長は従軍中の会員に対し,「野蛮 な戦争」のさなかでも「道徳的な清さを保 つ」ように教えました(Conference Report, 1969年4月,153)。
国々が互いに敵対して立ち上がっても,
その混乱の中で盗みを働いたり偽証した りして,経営者が仲間や株主に敵対すれ ば,それは第8と第9の戒めの双方を破る
ことであり,正当化されることはありませ ん。そこには容認できる例外規定がない からです(出エジプト20:15−16参照)。
世界情勢が不確かだからといって道徳 上の不確かさを正当化できませんし,心 を乱す激動が人の罪を覆い隠すことも,
すべてを見通す神の目を曇らせることもで きません。さらに,戦争に勝利したとして も,自制という個人レベルの戦いで勝利 を収める必要性はなくなりません。燃え 盛る人の憎しみが,神の子すべてに与え られる神の完全な贖いの愛を弱めること もありません。同様に,現在,人の目を覆 っている暗黒の霧も,キリストが世の光で あるという現実を変えることはできない のです。
したがって,エリシャとともに山にいた あの若者のようになりましょう。敵の戦車 に取り囲まれて初めは恐れをなした若者 でしたが,主の憐
あわ
れみによって目を開かれ て「火の馬と火の戦車」を見,「われわれ と共にいる者は彼らと共にいる者よりも 多い」ことを確認しました(列王下6:16,
17)。兄弟姉妹の皆さん,霊的な意味で,
数におけるこの優勢は今も変わっていま せん。
人の知性の不足や困惑が,神には驚異 的な先見の明があるという事実を変えは しません。そこにはわたしたちが責任を 持つ個人の選択が考慮に入れられていま す。人間の様々な騒乱の一日を報告する 恐ろしい断片的な声明や速報のただ中に あっても,神は過去,現在,未来が常にそ の前にある永遠の現在に住んでおられま す(教義と聖約130:7参照)。主の神聖な 決断は確実に実現します。それは主が行 おうと決心されたことで行われないこと はないからです(アブラハム3:17参照)。 主は初めから終わりを知っておられます
(アブラハム2:8参照)。神には「〔御自身 の〕業を行う能力」と,その目的をすべて 達する能力が十分にあります。わたした ちは選択の自由を誤って使うことが多い ため,人の計画はいかに綿密に練られた ものでもそうはいきません(2ニーファイ 27:20参照)。
神はこう約束しておられます。
「わたしがあなたがたを導いて行く…
…。」(教義と聖約78:18)
「わたしはあなたがたの中に〔いる。〕」
(教義と聖約49:27)
兄弟姉妹の皆さん,神は「苦難のときに は,……〔わたしたち〕とともに」いてくだ さいます(教義と聖約3:8)。生ける預言 者,ゴードン・B・ヒンクレー大管長から与 えられる導きもその一つです。
一方,「霊の命」の決定的瞬間は引き続 き,日々の個人的な決断で放縦を選ぶか 自制を選ぶかにかかっています。例えば,
思いやりと怒り,憐れみと不正,寛大さと 意地の悪さのどちらを選ぶかということ です。
戦争によって第2の戒めが無効になるこ とはありません。隣人を愛するという戒 めに国境はありません。この戒めを守る 人に国籍や肌の色の違いはありません。
例えばわたしたちは空腹を経験するか もしれませんが,その場合にはエリヤに 最後の食物を与えたやもめの模範に従う ことができます(列王上17:8−16参照)。
ほんとうにひどい欠乏と貧しさの中にあ って,人と分かち合おうとする姿はいつ の時代にも感動的です。わたしの少年時
代に監督を務めたM・サール・マーシュ は,若かった大恐慌時代に,炭坑の仕事 に何度も応募しました。未成年でも体の 大きかったサールは,あきらめずに応募 し続けて採用されましたが,何人かの友 人は雇われませんでした。どうやら,一 日のきつい労働が終わった後で何度も,
心の広い若きサールは賃金を友人と均等 に分かち合ったようです。それは友人も 採用されるまで続きました。サールがそ の後も羊の群れを心にかける羊飼いであ ったことは,少しも驚くに当たりません。
「霊の命」について深く考えるとき,自分 自身の完全な改心を目指して努力するこ とが助けになりますが,その訳は福音の 種はまず「良い地」,すなわちイエスの定 義された「正しい良い心」を持った人々に 落ちるからです(ルカ8:15)。その結果,
そのような人は「喜んで」「御言
みことば
を聞いて 悟〔り〕」,「実を結び」,「堪え忍び」ます。
そして最後には,「義のために飢え乾く」
とはどのようなことかを学ぶのです(マタ
イ13:20,23;ジョセフ・スミス訳マタイ 13:21〔英文〕;マタイ5:6)。これが「大き な変化」なのです(モーサヤ5:2)。改心 とは基本的に,「生まれながらの人」から
「キリストの人」になる変化を指すもので す(モーサヤ3:19;ヒラマン3:29。2コリ ント5:17も参照)。この変化は一朝一夕 に起こるものではありません。
改心という継続的な過程によって生ま れる結果の一つは,「悪を行う性癖をもう 二度と持つことなく,絶えず善を行う望み を持つ」ようになることです(モーサヤ5:
2)。ですから当然なことに,この過程を 経てこのように改心した人たちは「兄弟た ちを力づけて」あげられるようになり(ル カ22:32),「あなたがたのうちにある望 みについて説明を求める人には,いつで も弁明のできる用意をして」いることによ って人を引き上げることができるようにな ります(1ペテロ3:15)。このような義人は もう一つ,人類のためにきわめて重要な がら目立たない奉仕を行います。それは,
人類全体が大いに必要とする神の祝福を 願い求めるために,最低限必要な義人の 一人となることです。
真に改心した弟子たちはまだ完全では ありませんが,いつの日も,いつの時代で も,どんな退廃と破壊のさなかでも,「霊 の命」を求め続けます。この過程が「御父 の業」を果たすということなのです(ルカ 2:49。モーセ1:39も参照)。
このような完全な改心はいずれ起こる ものと考えられるため,困難な出来事や 動乱が実際にはむしろわたしたちを改心 の過程に立ち戻らせたり,改心を速めた りする助けとなるかもしれません。
兄弟姉妹の皆さん,不安定でいらだた せる世の煩いの中でも,教えられている ように「霊の命」を心にかけるようにしまし ょう。イエスの栄光に満ちた贖いのおか げで,不滅の霊の命はどんな星の寿命よ りも長く,それゆえこの世の出来事はたと え恐ろしいものでも,ほんのつかの間の 出来事にすぎないのです。
これらのことをイエス・キリストの聖な る御名
み な
により証します。アーメン。