第五章 音楽科の授業方法
第1節 授業過程の類型とその特徴
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授業が、教師の指導する活動と、子どもの学習する活動が平行して行われ るものである限り、「教授・学習過程」あるいは「指導・学習過程」あるい は「学習指導過程」などという名称が適切なのかもしれないが、常用化しに くいきらいがあるので、ここでは「授業過程」という言葉を使うことにした
い。
前章までに、音楽教育の目的、小学校音楽科の目標・授業構造などについ て私見を述べてきた。これらは、:大きな見方をすれば、教材をめぐる諸問題 と言えるかもしれない。
小学校音楽科の授業づくりについて考察するためには、これら教材に関す る事柄を、実際にどのような「授業過程」の中で、どのような「授業形態」
のもとに指導していくか、ということについて述べなければならない。教師 の活動と子どもの活動が綿密にからみ合った状態を授業のあり方とするなら ば、この二つのことへのアプローチは、是非必要なことであろう。そして、
そこから、小学校音楽科の授業はどうあるべきかを模索していきたい。
まず、「授業過程」について考える前に、言葉について吟味してみよう。
これと似た言葉には、学習過程、教授過程、教授・学習過程、指導過程など があるが、それぞれ若=F違ったニュアンスでとらえられているようである。
「学習過程」という言葉から受ける感じは、子どもの側の主体性が感じられ る反面、教師の指導性が軽んじられている印象を受けるし、「教授過程」や
「指導過程」からは、教師の指導性を強調しているものの、子どもの側の主 体的な活動を軽視している印象を受ける。
授業過程は、一つのまとまった教材(時として題材とか主題とか言われる)
の授業を展開していく順序や段階を示すものであるが、ただ単に順序や段階 を示すだけでなく、そこには、何らかの認識を獲得させるための、具体的な 手立てが示されていなければならない。つまり、認識がどのような順序や段 階で形成されていくかを明らかにした上で、授業のどの段階でどのような認
識活動が行われるべきかを明確にしなければならない。
ここでいう「認識」という言葉は、普通は「知的に知る」ことを指してい る。しかし、ここでは、広く芸術、身体運動などの技能的・情操的な学習ま でも含めたものとして使温していきたい。それは、認識というものは、単な る知的な理解をこえて、それを使いこなす実践性が身についた時に初めて成 立する、という基本的考え方に立つからである。
ところで、教育の現場では、「導入→展開→整理」という授業過程が 用いられているのが普通であるが、その三つの段階において、認識がどのよ うに形成されていくかについては、あまりに無関心であるようである。授業 の最初の準備的な時間を導入といい、本格的な授業の部分を展開といい、最 後の方を整理と称していることが多いようである。このような授業過程は、
形式的な段階を定めてあるだけであり、各段階での教師の活動とか、子ども
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授業の流れというものは、子どもの認識の進行に応ずるものでなければな らないから、授業過程は、子どもの認識過程を追求してこそ、明確になって くるものであろう。そこで、授業過程を論ずるためには、何らかの認識につ いての理論を想定し、それを基礎としなければならないと思われる。
認識についての考えかたは、大まかに言って、伝統的な教育哲学と、進歩 的な教育哲学との二つの基礎的な立場に分けられる。前者は、科学を絶対の 真理とし、これを教師が注入伝達しようとする、言わゆる科学主義と呼ばれ ているものであり、後者は、生活の問題を子どもが主体的に解決することを 重視する経験主義である。前者の授業過程が「系統学習」と呼ばれ、後者の 授業過程が「問題解決学習」と呼ばれるものである。
系統学習においては、祖先から我々のところにもたらされている学問、芸 術、道徳、技術や社会そのものなどの「社会的遺産」を、若い世代に伝達し 継承させることこそ、教育の使命と考えられている。特に、学問の伝達をも って教育の中心的役割と解する傾向が強いことから、いきおい、社会的遺産 としての科学体系に従う、伝統的教科カリキュラムを尊重することになる。
そこでは、子どもの能力は低く評価され、教師の伝達してくれる知識を受 容的に受け入れれば、学習は成立したと判断される。このような伝統的な教 育哲学では、子ども自身の積極的・主体的な活動による真理の創造とか発見 とかを認めようとせず、むしろ、科学を伝達するための、教師の高圧的な注 入的授業を正当化しようとする結果になる。
こういう授業の授業過程が、科学の系統を重視するという意味から、系統
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学習と言われているのである。その代表的例は、ヘルバルト派の形式的教授 段階説であろう。
これに対して、問題解決学習においては、古くはルソーの自然主義、主と してデューイらのプラグマチズムの教育哲学が基礎に置かれ、学悶上の知識 を絶対的な真理とは考えず、その知識が、人間の生活経験の中の問題解決の 道具として有用であることが判明した時、知識が真理と成り得るのである。
つまり、そこでは、人間の問題解決という主体的な操作活動こそが重要視さ れるのである。
従って、問題解決学習では、「科学」をそのまま教える教科カリキュラム は否定され、それに代わって経験カリキュラムが尊重されることになる。
そして、このような考え方から、学問上の知識を絶対の真理として教師が教 え込む注入的な授業が姿を消し、子どもの主体的な活動を尊重する授業が導 かれてくる。
このような授業過程が、問題解決学習と呼ばれるものであり、その代表的 な例は、次のようなデューイの問題解決法の授業過程にその典型を見ること
ができる。
1.問題把握 2.仮説の定立
3.検: 証
4.仮説の肯定=問題の解決
169 以上のようにして見てくると、系統学習と問題解決学習とでは、その哲学
的基礎において対立するものであり、実践上の長短も全く正反対である。も ちろん、授業過程論の中には、この両者のいずれにも関わる考え方があるこ とを否定はしないが、わが国の教育界の流れを通観する時、この二つの立場 のいずれかに組みするものと判断せざるを得ない。
事実、わが国の教育界は、「系統学習か、問題解決学習か。」という二者 択一的な発想の論争が、長い間行われてきている。
明治20年ごろより支配的であったヘルバルト主義は、第二次世界大戦後の 教育において、系統学習の欠点とも言える教師申心主義、つめ込み主義を非 難された。その結果、戦後の新教育運動は、問題解決学習を推進し、それと
ともにコア・カリキュラム運動が全国的に広まっていった。
ところが、やがてこの運動も、学力低下という批判の矢面に立たされるこ とになり、再び系統学習が提唱された。
このような論争は、歴史上の事実としてだけではなく、今後の教育界にお いても、形を変え、品を変えて起こり得るものである。そこには、単に授業 過程だけの問題ではなく、教材というものをどう考え、どう編成するかとい うカリキュラムの問題、また、学力というものをどのように考えるかという 学力観の問題、さらに、知識や真理をどうとらえるのかという、教育の根源 に関わる重要な問題を含んでいるからである。
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「系統学習」
O長所=科学知識を体系的に、しかも能率的に教えられる。
○ 短 所 = 教師の一方的な注入的指導に陥いりやすい。
「問題解決学習」
O長所=子どもの主体的な活動が重視され、創造的な思考
が働きやすい。
O 短 所 = 知識や技能の体系が軽視され、系統的な指導がで きにくい。
このようにして見てくると、一一方の長所は他方の短所となり、一・一方の短所 が他方の長所になっているという関係に気づくであろう。この両者の融合が 図られた時、すぐれた授業づくりをめざす授業過程が実現したと言えるので はあるまいか。
そこで、大切なことは、系統学習か、問題解決学習かという二者択一の論 理ではなく、両者の長所・短所をよく見極めた上で、最善の授業過程を組織 しようとすることではなかろうか。ここで、系統学習と問題解決学習の長所 と短所を整理してみよう。