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わが国の音楽教育観の変遷

第二章  音楽教育の目的

第4節  わが国の音楽教育観の変遷

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 わが国の音楽教育の歴史も、数々の変遷を経て今日に至ったものであろう。

その中には、諸外国の音楽教育の歴史においても見られた様相、あるいは、

わが国独特の様相と、様々な面を含んでいるものと推測される。

 これから、わが国の音楽教育観の変遷をたどるにあたり、まず、時代の区 分を、次の十区分としてとらえてみたい。 (36)

(/)原始時代・古代初頭(?〜4世紀)

(2)古代前期(大和・飛鳥・奈良時代)

(3)古代後期(平安時代)

(4)中世前期(鎌倉・南北朝時代)

(5)中世後期(室町時代)

(6)前近世(安土・lililtii,山時代)

(7)近世(江戸時代)

(8)近代前期(明治時代)

(9)近代後期(大正・昭和時代前期)

(/0)現代(第二次世界大戦後)

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(/) 原始時代・古代初頭(?〜4世紀)

 わが国においても、人間と音楽の結び付きば、その音楽の程度や形態はど うであれ、人間社会が形成された時期から何らかの形で存在していたものと 推測される。

 この時代の音楽がどういうものであったかを正確に知ることはできないが、

「古事記」 (37)や「日本書紀」 (38)、F魏志倭人伝」 (39)などの文献、

あ.るいは、楽器を演奏している姿の埴輪や遺品として発掘された楽器などの 考古学的資料から、ある程度の想像をめぐらすことは不司能ではない。また、

日本及び日本周辺の音楽として、沖縄の音楽、アイヌの音楽、南洋諸島や西 南アジアの民族の音楽などから、この時代の音楽を想像させるものがある。

 おそらく、原始時代・古代初頭の音楽は、世界のどの国々もそうであった ように、歌謡が中心であっただろう。その内容の一端を、我々は「記紀歌謡」

の中に見ることができる。このころの日本民族は、何の束縛や抵抗もなく自 分の音楽として自らの感情をおおらかに歌いあげ、それは聞く人々を感動さ せる、純粋で素朴な美しさをもっていたものと思われる。そういうことから、

意図的な音楽教育が行われていたとは考えにくく、あったとしても、儀式や 祭礼に関する音楽について、長老者から初歩者への伝達が中心であったと考

えられる。

(。2)古代前期(大和・飛鳥・奈良時代)

 古代前期に入ると、大陸から仏教や儒教が伝えられた。これとほぼ前後し て、様々の文化とともに音楽も大陸から伝えられ、554年に百済より楽人4人

67 が来日したという記録がある。また、百済人味摩之が帰化して、大和桜井の 地で、少年たちに伎楽舞を教授したという記録がある。 (40)おそらく、こ れがわが国における音楽教育のさきがけと言えるかもしれない。

 わが国における組織的な音楽教育が最初に行われたのは、雅楽寮において である。雅楽寮は、わが国古来の音楽に加えて、大陸から輸入された外来音 楽を、宮廷音楽として存続させるための施設として、大宝律令(701年制定)

に基づいて設置された。雅楽寮では、.和楽・三韓楽・唐楽その他の指導が行 われ、設置当時の楽生は360名にものぼり、その中の大部分が和楽を習って いたという記録がある。 (41)このことは、庶民の子弟も入学が許可された ということとも相まって、このころは、外来音楽よりも伝統音楽が一般民衆 の間では中心であったことを示す資料といえるであろう。

 このころの音楽理論は、遣唐使がもたらした「楽書要録」 (42)に基づい ている。この理論は非常に観念的なものであるが、わが国においては、少な

くとも江戸時代までは、日本人自らが考え出した音楽理論はほとんどなかっ たと言ってよい。

 また、音楽の思想も、中国の「礼楽思想」に基づくものであり、その影響 により、日本の音楽は、急激な音楽、感情的な音楽、技巧的な音楽、変化の 多い音楽が敬遠され、静かな落ちついた音楽が好まれるようになった。この 音楽理論と音楽思想の影響は、わが国の伝統的な音楽観や音楽教育観の根源 に関わる重大な問題である。

(3)古代後期(平安時代)

平安時代に入ると、雅楽寮は廃止され、楽所(外来音楽の教習所)・大歌

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所(和楽の教習所)・内教坊(女子の音楽教習所)がこれにかわって設置さ

れた。

 また、この時代になると、貴族の勢力が増大し、上達の立身出世主義・功 利主義的目的のために音楽教育が利用されるようになってきた。すなわち、

貴族の一般教養として、音楽が文学とともに重視され、その学習は家庭でな されるのが普通であった。男子は管弦、女子は琴を主に学んだが、このよう な傾向から、音楽の専門家は、その家芸を秘伝としてとらえるようになり、

ここに、流派意識や秘伝の慣習が生まれ、その後のわが国の音楽教育の発展 にとって大きな支障となった。

(4)中世前期(鎌倉・南北朝時代)

 中世前期の鎌倉・南北朝の時代の特色は、武士階級の台頭である。武士の 教育は、文武両道に通ずることが理想とされ、武道、読書、書道が重視され たほか、音楽教育にも力を入れていた。ただしこれは、貴族の文化的なたし なみの模倣が中心であったように思われる。

 貴族は雅楽の教習が音楽教育の中心でありk対象が女子教育に重きが置か れるようになり、女子の音楽教育では、琴のeまかに瀦孫も教養として課

せられた。

 この時代の音楽教育は、貴族や婦女子、一部の武士階級が中心であり、た しなみとしての音楽教育がいちおう行われていたものの、一般民衆とはおよ そ関わりのないことであり、「男子は音楽などたしなむべきではない。」と するわが国伝来の考え方の発端が、この時代に見られるのではないかと推測

される。

(5)中世後期(室町時代)

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 室町時代になると、庶民の芸能が能楽として完成し、新たに武士の教養と して注目をあびた。その教育法としては、世阿弥の「風姿花伝」 (43)が貴 重な資料となろう。

 また、仏教が広まるにつれて、寺院が教育機関としての性格を帯びてきて、

江戸時代の寺小屋の内容に近づいてきた。庶民もここで学び、能楽などを鑑 賞したらしい。

(6)前近世(安土・追山時代)

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が固定化した。また、鎖国により海外との交流が絶え、いっぽう長期にわた って平和が続いたので、独特の国風文化が生まれ、産業の発達により町人階 級がしだいに実力を持ち姶めた。

この時代になって大きく発展した三味線音楽や茅野は、個人対個人の伝授 が中心であり、師匠と弟子という非合理的な人間関係をもとに、その音楽教 育と内容も、個性をいっさい無視して一つの流派の型にはめ込むようなやり 方であった。

 女子を中心に教養や娯楽のための音楽教育も行われていたが、上流家庭の 子女は穿を、中流以下の家庭の子女は三味線を主に学んだ。このような女子 中心の音楽教育、さらに階級により学ぶ楽器が違うということも、わが国の 音楽教育観の特色といえるであろう。

 安土・わも山時代は、織田信長・:豊臣秀吉の両雄によって封建制度の基礎が 築かれ、武士の絶対支配が行われ始めた時代であったが、彼達は、中世にお いて仏教が持っていた権威を失わせ、その弾圧を行なった。このころ、キリ スト教を中心とする西洋文化が伝来し、キリスト教徒が伝道のために音楽を 宗教的教化の手段として利用したこともあって、西洋音楽は、またたく間に わが国に広まった。キリスト教信奉の大名の中には、藩士・庶民の子弟にキ リスト教的教育をさずけるための学校を建てたものもある。こうした学校で は、もちろん音楽教育が重視された。この傾向は、キリスト教禁止とともに 消滅した一時的な現象とはいえ、わが国の音楽教育史上、特筆に値する。

(7)近世(江戸時代)

江戸時代は、武士階級による絶対支配が行われ、士農工商という階級制度

(8)近代前期(明治時代)

 明治維新によって長期にわたる鎖国は解かれ、「文明開化」の声とともに わが国は近代国家への道を歩き始めた。教育の面でも、明治4年に文部省が 設置され、翌5年に学制が頒布された。その中で、小学校では「唱歌」、中 学校では「奏楽」として音楽科が設置されたが、実態は教える教材も教えら れる教師もなかったことから、「当分之を欠く」と付記が付けられていた。

 このような状況のもとで、音楽教育実現のためにおおいに力を発揮したの は、伊沢修二く44)であった。彼は、明治8年、師範学科取り調べのために アメリカに留学し、音楽教育家メーソン(45)について音楽教育を学んだ。

その際、音楽教育の必要性を痛感した彼は、明治11年に帰国するやいなや、

留学生の監督官であった目賀田種太郎(46)と連名で、 「音楽取調べに関す る上申書」を文部大臣に提出した。その中で、 「音楽の教育的効用」 「西洋