AMDA(the Association of Medical Doctors of Asia)の津曲です。私は救急医ではありませんで,
救急医の先生方の前で講演するのは釈迦に説法だ と思いますので,こまかいところはご容赦いただ きたいと思います。本来は私でなく,代表の菅波 茂がこの場でお話しするはずでしたが,現在彼は 沖縄におります。2年に1回,沖縄平和賞という のがあるのですが,第1回目は先生方ご存じのア フガニスタンで活躍されている中村哲先生のペシ ャワール会に受賞が決まりまして,1,000万円が 授与されました。そして今年,私どもAMDAに 授与されることが決まり,昨日,授賞式が沖縄で行 われたために代表の菅波が行っているところです。
AMDAの概要
政府の組織は先ほどの説明によりますと非常に よく整備されていて物資もお金も潤沢にあるので すが,私どもはNGO,民間団体のためにそのよう なことはありません。
AMDAをご存じない方も多いかと思いますの でスライドをご覧いただきますが,私どもAMDA が非常にプライドを持っているのは,ここ岡山で 生まれ,現在でも岡山に本部があり,世界28カ国 に支部があることです。指揮系統は岡山から発せ られています。現在14の国でいろいろなプロジェ クトを行っています。岡山発の世界に広がった運 動です。
JMTDR(日本国際緊急医療チーム)は1982年の 発足ということですが,私どもは1984年です。
2004年8月で20周年を迎えました。民間のNGO
の活動を見ていただくということで,スライドで 私どものすべての活動を知るのは無理だと思いま す。私,個人的に阪神・淡路大震災の初日に長田 に入り活動しておりました。長田の経験と,そし てアフリカが私の専門です。と申しますのは,私 は21歳のときに2年間アフリカに住み,そのとき ナイロビ大学の学生でした。25歳のときに医学部 に入り直したのですが,アフリカに思い入れが深 いのです。そういった意味でアフリカの事例を説 明いたします。
GO と NGO の違いGOとNGOの違いについて説明します。JMTDR,
国のほうからJICA,今は独立行政法人になって いますが,私ども現場では一緒にやっております。
しかし,やはり政府組織か民間組織かによって活 動も違ってきます。NGOでは人材,お金,物資と いったものが非常に限られてきますので,重点的 に配分しなければならないところに集中すること が違います。
もう1つ,JMTDRの場合は大きな原則として 要請主義ということがあります。これは国連で定 められているのです。私どもの1つのポリシーと して,国境も宗教も民族も壁はないということが あります。私どもは要請があって行くこともあり ますが,要請がなくても行かなければいけないこ ともあります。例えば1995年のサハリンの地震 のときです。サハリンはロシアです。ニーズはあ るのにロシアは大国でプライドが高いということ で海外に絶対要請しません。そういったところに 我々がすぐに出かけて行って,現地のニーズを汲
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み,日本から人材や物資を運ぶということもあり ます。中国,インドも同じです。
そういった要請主義でないということが1つの 違いです。もう1つは私ども日本の活動,岡山か らの活動ですが,実際に日本のNGOとしては初 めて日本の壁を越えて世界28の国に支部を持って います。「国境なき医師団」とか「オックスファム」
とか「ワールドビジョン」といった大きなNGOが ありますが,日本から出たNGOで海外に多数支 部を持つというのは私どもだけです。
そういったことで海外でも1991年から活動し ており,例えば,2004年9月のハイチの洪水の緊 急救援プロジェクトでは,JMTDRで物資を送ら れたのですが,その配給などを我々が担いました。
現地に人を送って被災された方,そして政府関係 の方,NGOの方と協調して人間対人間の活動が できる,現地のニーズを直接汲み上げることがで きるというのが非常に違うところです。
活動の初まり私どもAMDAというのは「ア,ムダ(AMDA)」 というような団体と見られていたのですが,いち ばん初めは1979年に1人の岡山大学の医師と2 人の医学生がタイの難民キャンプに入ったのです。
ところが現地で何をどうしていいか分からない,
熱帯病の知識もない,資材も何もないということ で,「アジアの医学生の会議を立ちあげようでは ないか」「アジアでこういったことに関心を持っ ている方々で会議を立ちあげようではないか」と いうことになりました。つまり,これが設立の趣 旨です。と申しますのは,現地の難民キャンプに 入ると,難民を助けているのが大体肌の白い方,
ヨーロッパとかアメリカの方が主なのです。我々 はそれを見て非常に変だなと思いました。ここは アジア人が住む地域なのに,なぜ我々アジア人以 外の方がアジア人を助けているのか,我々アジア 人が自分たちで困った方々の助けになろう,とい うことから始まったのがAMDAです。
阪神・淡路大震災緊急救援活動の体験 1979年に医学生会議が始まり,1984年にAMDA
が設立され,今年(2004年)8月で20周年を迎え ました。最初に申しましたように,AMDAとい うのは主に海外で活動を行っていますが,緊急救 援活動や開発援助活動なども,幅広く行っており ます。
なかでも,1995年の阪神・淡路大震災の初日に 長田区に入ったのが私にとって大きな出来事にな っております。
本日は救急の先生方が多いですが,私が現地に 入ったときのことを聞いていただき何かのヒント にしていただければと思います。私どもは海外で ずっと活動してきました。そして1995年1月17 日の朝5時46分に,グアッと岡山も震度4の揺れ でした。我々が病院に行ってもどこで地震が起こ ったのか全く分からなかった。ようやく神戸で地 震が起こったことが分かりました。我々の海外支 部からどんどん電話がかかってきて,「日本に人 を,医師を出すから」と言われました。「早く出発 しよう」ということで,2台のワゴンを連れ立っ て13時半に岡山の本部を飛び出しました。その前 に神戸西病院に電話をかけましたが通じませんで した。どこに電話をかけても通じません。我々の 世界では電話は通じないというのが常識で,つま り地震が起きたり天災が起こったりしたときに電 話をかけても絶対に連絡が取れないのです。です からこのときも神戸で地震が起きたのが分かった わけですから,それならばまず現地に入ってそこ でニーズを見極め,あとで本部から物資とか人を 送ってもらう。これが我々海外での常套手段でし て,自分の目で見て,被災者の方,難民の方の ニーズを見極めてきめこまかく対処することが方 針です。
13時半に岡山を出発し,国道2号線は混雑する のが分かっていましたから瀬戸内側を回りました。
そちらは混んでいませんでしたので,被害は大き くなさそうだと思いました。しかし,2号線に入 ったら全く動かなくなってしまいました。そのと きにすぐに入ればいろいろなことに対処できるの にと地団駄を踏んだのです。
すると後ろから,「普通車はどいてください」と
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アナウンスがありました。消防車17台が神戸に向 かうところだったのです。我々はその後ろにバッ クライトをつけて,そして白衣に着替え,その一 団のなかに入っていくことができました。そうい う機転の利かせ方というのは,海外の現場でも日 本の現場でも大切です。
と申しますのは,難民キャンプや被災地はほと んど首都で起こりません。首都から離れたところ で起こります。そこでトラックを確保したり,国 連で飛行機の席を確保したりといった機転をどん どん利かせていかないと,早く現地に入って活動 することはできないのです。
神戸に近づくと,傾いているビルなどが見えて きて,これは大変な地震だということが分かりま した。神戸市内に入りましたが,神戸の地理は全 然知りません。そのとき,突然明るくなったんで す。あの大火事の長田に入ってしまっていたわけ です。あの夜は消防隊の方もいたのですが,ホー スをつないで消火している人もいれば,自分たち の荷物を運び出している人,そして逃げ惑う人も 大勢いました。
22時頃,現地に入りどうしたかと言いますと,
現場では電話などの通信手段は使えません。10年 前に使えたのは無線なのです。無線を持っている ところは警察とか消防です。そこで1人の交通整 理をしていた警察官に,「我々は神戸西病院に呼 ばれて岡山から来た」と嘘をついたのです。こう いう機転が重要で,我々 NGO はそのような機転 で動いているのがほとんどです。
すると警官の方が「長田区役所の4階か5階に 保健所がありますからそこに行きましょう」と,
白バイで先導してくれワゴン2台で向かいました。
途中の道路は波打っているような感じでした。着 いてみると,新築の長田区役所の建物にヒビが入 っているのです。内部はすべて停電していて水は 出ません。階段で5階まで上がって保健所に入り ました。保健所のなかもすべての棚が倒れていて 足の踏み場もないのです。そこに4人くらい保健 師さんがいました。いつもは数10人いると思いま すが,その方々は家族に怪我もないということで
いらしたわけです。
保健師さんに避難所の地図を出してもらい,非 難所ごとに我々のワゴンに1人ずつ乗せて避難所 周りをしました。避難所はほとんどが学校でした。
外に出るとすごい匂いがするのです。ガス漏れで す。しかしながらその学校を見ると,ものすごい 火の手が揚がっているのです。これは何かという と,その日はものすごく寒い日で,校庭の真ん中 で焚き火をしていたのです。しょうがないという ことで校内に入りました。ずっと行くと学校のな かは真っ暗です。たくさんの方がいました。教室 に入りましたら全く周囲が見えません。じっと見 ていると,点々と明かりが見えるのです。何かと 思ったら被災者の方の目なんです。
トリアージなどはそこではできない状態でした ので,そこに立って「皆さん,少し明るい廊下に 出てください」と私が言いました。そうしたら非 常にきつい言葉が返ってきました。「廊下に出ら れる方はいい。廊下に出られない,動けない方が いますから,その方から診てください」と。皆さ んほとんどが外傷の方でした。
私はそのとき,クラッシュシンドロームも知ら なかったのですが,教室に入るとみんな怪我をし ていて,懐中電灯を持ってきて局所麻酔薬などは 少ししか持っていなかったのですが,応急処置を したのです。皆さんガラスなどで腕とか足を切ら れているのです。どうしているかというと,近く にあった布切れでぐっと押さえて圧迫処置をして いるのです。そうしたらその布がびたっと傷にく っついているわけです。それを消毒液で洗い流し て,縫える場合は局所麻酔を少しだけ使って縫う わけです。縫うのですが,すごく痛いのではない かと思いました。
そこである中年の女性が私に対して頭を下げる わけです。「本当にありがとうございます。どこ から来られましたか」と言うので,「岡山です」と 言ったら,本当に深く頭を下げられるのです。私 はその方に心のなかで頭を下げていたのです。な ぜかというと,私のつたない技術が活かされる場 所がある,大変喜んでいただけるということは,
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