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実践家としてのあゆみ

ドキュメント内 中学校国語科における実践個体史研究 (ページ 44-79)

第2章 個体史研究的視点からみた実践家佐藤きむ 第1節 略歴と主な業績

第4節 実践家としてのあゆみ

1 模索期:昭和30年度~昭和39年度(23歳~32歳)

採用から弘前大学教育学部附属駒越小・中学校勤務の10年間を「奮闘期」とした。

(1)弘前市立三省小学校時代

初めての勤務校は、米とりんごの純農村地帯にあった弘前市立三省小学校である。3年生の担 任であった。わずか1年間の勤務であったが、後の教員生活に大きな影響を及ぼす貴重な体験を する。佐藤はこう回想している。

その子供たちの一人が、冬休みの日のことを作文に書いてくれたことがあった。兄弟三人で 遊んだことを書いたもので、最後が 「それからとろずのめにずめをつくりました」で終わっ、 ている。はて、いったいこれは、何のことを書いたのだろう。初めの「それから」と終わりの

「をつくりました」はわかるが 「とろずのめにずめ」というのは難解である。、

、 〈 〉 。

根堀り葉堀り子供に聞いて 家の入り口のことを トロズ ということを私は初めて知った

〈メ〉は〈前〉、〈ズメ〉は〈ぜんまい〉だという。家の前の畑の雪を、渦巻き型に踏み固め て遊んだことを書いたのである。

なんとそれは素晴らしい光景ではないか。一面真っ白に降り積もって、全く足跡の付いてい ない畑の雪の上を、三人の兄弟が大きく円を描きながら一列になって遊んでいる様子が目に浮 かぶようである。あのころの三省の子供たちは、自分の家の前に大きな「ぜんまい」をいくつ も作れるほどのすばらしい大自然の遊び場を持っていた。その中で得た感動を 「とろずのめ、 にずめをつくりました」としか表現させられなかった自分の指導力の未熟さが、思い出すごと

に悔しく恥ずかしい。

私は、子供に国語の力をつけるには、作文の指導が最も有力な手段であって、国語教師が身 につけるべき最も大切な指導法は作文指導であると思っているのだが、その主張の根底には、

三省時代のこの「とろずのめにずめをつくりました」のことがあるような気がするのである。

(注10)

「話すこと 「聞くこと 「読むこと」は〈国語教育〉で学べる部分が多いが 「書くこと」だ」 」 、 けは〈国語科教育〉で指導しなければ追いつかないということを、佐藤は教員生活1年目に痛感 したのである。

(2)弘前大学教育学部附属駒越小・中学校時代

翌年、弘前大学教育学部附属駒越小・中学校に転任する。弘前大学教育学部の附属学校が、ま だ弘前中学校、駒越中学校、野辺地中学校と三つに分かれていたころで、駒越中学校は弘前市の 郊外にある小・中併設校であり、佐藤の教育実習校でもあった。

中学校は各学年1クラスだったので、全学年の国語を担当するだけでなく、小学校の国語も受 け持つことになった。特に、9年間の勤務のうち、初めの4年間は小学校低学年を担任した。最 後の3年間で中学校の担任となってからも、小学校高学年の国語を続けて受け持った。当時、駒 越小・中学校の国語科担当教員は佐藤一人であった。国語科の先輩教師がいなかったため、指導 技術の未熟さの大部分は自分で克服しなければならなかった。

初めて小学校1年生を担任したときのことである。佐藤は、毎日のように放課後になると黒板 に向かい、ひらがなの練習に励んだ。

小学校の教師を長くした人に悪筆の人はほとんどいない。特にひらがなをきれいに書けるの は、低学年を担当した人が多い。私自身のことを振り返ってみても、小さい子供にあてたひら がなだけの手紙を、今もかなり正確な字で書けるのは、生涯のうちで一度だけだったが小学校 一年生を担任する機会に恵まれたからだと思う。まだ教育設備も貧しい時代で、画鋲の穴だら けの古い黒板で放課後ひらがなの練習に励んだことが懐かしい。そのうち、どうせ練習するな らと、朝子供たちが登校したら読めるように、物語を黒板に少しずつ書いておくことにした。

、 。 、

これが意外と好評で 子供たちは続きを読みたがった それを翌日の楽しみに待たせるのだが 時にはよく勉強したごほうびにそのあとの話をおしまいまで読んでやったりもした。

(注11)

児童の読書意欲を喚起する役割も兼ね備えた、佐藤の自己修養である。

また、教科書の挿絵を模造紙に拡大模写する作業も、小学校の国語を担当していたころの大切 な授業の準備であった。黒板の板書と教科書の挿絵とを代わる代わる見比べながら教師の話を聞 くというのは、小学生にとって難しい活動である。そのことを実感した佐藤が、黒板で挿絵を見 ながら学習できるようにと思いついた教具が、挿絵の拡大模写であった。

(3)小学校の現場を経験した意義

、 、

9年間にわたり小学校の国語を担当したことは 中学校の国語教師を志していた佐藤にとって

予期せぬ教員生活のスタートであった。しかし 「小学校における〈国語科教育 」を一通り自、 〉 らの手で行うことは、国語教師に必要な指導技術の基盤を築くと同時に、学習者の発達段階に即 した〈国語科教育〉のあり方について考える貴重な機会となったのである。また、小学校の現場 を経験したことが、大学へ転じたあとも教員養成の教官としての手腕を支え、中学校だけでなく 小学校の現職教員との幅広い交流をもたらすことになる。

さらに、附属駒越小・中学校時代は頻繁に研究授業を行った。大学の附属学校という性質上、

、 。

要請されて県内の小学校へ出張授業に出かけることも多く 国語教師として徹底的に鍛えられる 初めて出会う生徒とであっても、和やかな雰囲気の中で楽しく授業するにはどうしたらよいか。

この意識が、佐藤の授業づくりの原動力の一つであったと言えるだろう。

2 基本的力量の獲得期:昭和40年度~昭和46年度(33歳~39歳)

昭和40年4月、附属学校の統合により、弘前大学教育学部附属中学校へ転任する。そこで、

当時全国的に作文指導で名を馳せていた渋谷正民、読解指導において生徒自身に学習課題をつく らせる方法をとっていた花田要一に出会う。

渋谷、花田のもとで研鑽を積んだ7年間を「修行期」とする。

(1)作文指導

渋谷先生の指導法で私がまず学んだのは、国語の授業で毎時間最初に作文を発表させるとい うことだった。生徒の書いた作文を指導者だけが読んでいるのではもったいない。折角書いた ものを学級の生徒全員にも聞かせたい。お互いに発表し合うことで仲間のものの考え方もわか って、次第に考える内容も表現の仕方も向上していくし、指導の手間も省けるという、大変効 率的な方法であることをまず知ることができた。これは、附中国語科経営の伝統的な一本の柱 として絶えることなく続いてきている。

(注12)

実際に書かせ、書いたものを発表させることで、生徒同士が切磋琢磨しながら力を身につけて いく 「書くこと」だけは〈国語科教育〉で指導しなければ追いつかないということを痛感して。 いた佐藤は、集団を活用する渋谷の指導法に感銘を受ける。

以降、渋谷が転任する昭和 47 年3月まで7年間教えを請い、作文コンクール等にも積極的に 応募することになる。

「修行期」の佐藤が指導したもので、作文コンクールの主な入賞作品は以下の通りである。

昭和40年度 小学館作品コンクール 全国大会 特選 1年 佐々木泰明 「 (調査中) 」

昭和41年度 読売新聞社小・中学校つづり方コンクール 全国大会 佳作 2年 岡本幸彦 「ぼくはかぎっ子」

昭和42年度 読売新聞社小・中学校つづり方コンクール 全国大会 佳作 3年 佐々木大明 「選挙戦参謀敗北の記」

昭和45年度 読売新聞社小中学校つづり方コンクール 全国大会 第1位文部大臣賞

3年 今泉昌一 「小さな魂のドキュメント」

(注13)

(2)大村はまとの出会い

佐藤に大村はまを紹介したのも渋谷であった 「大村はまを目指せ 」という渋谷の言葉で、。 。 佐藤は初めて大村の存在を知る。渋谷は、大村がどのような実践を行っているかということを詳 しく説明することはなかったし、この言葉の真意も「管理職を目指さずに、定年まで授業屋とし て暮らすのが、教師の幸せな生き方だ 」というところにあった。しかし、佐藤が大村の実践に。 興味をもったのも 『大村はま国語教室』を刊行と同時に購入したのも、渋谷の影響が大きかっ、 たと言えるだろう。

(3)学習課題づくりの方法

渋谷とは別の方面から佐藤の授業づくりに影響を与えた人物に、花田要一がいる。

生徒たちが教材を読んで感じた素朴な疑問や印象をもとに、生徒自身に学習課題を作らせ るというのが、読解の授業での私の基本的な姿勢なのですが、この方法は、かつて附属中に 在職された花田要一先生から教えていただきました。

(注14)

指導目標と学習課題は同じにすべきでないという理念の原点はここにあると思われる。一次感 想をもとに生徒と一緒に学習課題をつくることで 〈教えたいこと〉を生徒に押しつけるのでは、 なく 〈学びたいこと〉と統合させて主体的に学習させようとする方法である。、

井上敏夫が「生活読み」に関する論考を発表し始めるのが昭和45年 《授業研究のレベル》に、 おいて学習課題づくりの方法が活発に論じられるのは昭和 50 年代であるから、それより早い時 期に、佐藤は、生徒を主体的に学習に取り組ませる手段の一つとして、生徒とともに学習課題を つくる方法を花田から学んでいたことになる。

(4)教科書教材の検討

、 、 「 」

また 昭和42年度は 国語科の研究テーマが 小説教材の検討―教科書掲載作品の問題点―

であった。1968(昭和43)年3月に研究報告の冊子が発刊されている(注15)。学習効果は、指 導方法の適否や、指導技術の巧拙だけではなく、教材の適否にも大きく影響される。そこで、よ りよい教材を与えることが、生徒の学習意欲や態度、ひいては学習効果を高めることにつながる と考えた。教科書に掲載されている教材は、編集者が中学生の学習に最適であると判断したもの であるから、研究の第一段階として12種類(当時は12の出版社から教科書が出版されていた)

の現行教科書(昭和42年度版)に掲載された小説教材を検討の対象とした。

研究の内容は以下の三つである。一つめは、各教科書ごとに行うもので、小説・物語教材の掲 載数と掲載の仕方 全文 部分 一部省略 一部要約 の調査・比較である 二つめは 昭和( 、 、 、 ) 。 、 37 年度版と昭和 42 年度版の教科書について、日本の部と外国の部とに分け、作家ごとに掲載作品 と掲載回数とを調査した。三つめは、当時附属小・中学校で使用していた教科書(学校図書株式

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