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2. 福島県伊達郡保原町の渡辺治作家の親族呼称

(1)昭隷20年代後半ごろまでの渡辺家の親族呼称

 前節で報告したことを出発点として,これから福島県{≠達郡保原町字東台後 71番地・農業・渡辺治作家の親子・祖父母:・寝たちなどの親族呼称について,

くわしく事例研究をしてみたい。事例研究にはいる前に,親族呼称と親族名称 ということばを一往次のように定義しておく。

 親族呼称(kinship term of address)一ある個入が自分と特定の親族関 係にある他の個人に呼びかける(to address)ときにだけ使用する言語形式を

その親族に対する親族呼称という。親族呼称になり得るのは,その親族がもっ ている人名(愛称・あだ名を含む)と,その親族に対して割りあてられている 親族名称の中の特定の形式だけである。

 夫が妻に対して「オイ!」と呼びかけたり,妻が夫に対して「アンタ!」と か, 「アノ」とか「チョット」とかいって呼びかけることがあるが,これらの 呼びかけの形式は,ここでは,親族呼称とは考えない。なぜなら,これらの形 式は,夫が妻に対して,また,妻が夫に対して,それぞれ呼びかけるときにだ け使用されるものではない。妻以外,夫以外の人智に呼びかける揚合にも使用 される形式であるからだ。

 親族名称(kinship term of referenc)一ある個人が自分と特定の親族 関係にある他の個入をその特定の親族関係という観点から言及(to refer)す るときに使用する言語形式,つまり血縁,または婚姻ということを契機として て,ある個人の他のある個人との問に存在する関係をさし示す言語形式を親族 名称という。

 ここで,「ある個人が自分と特定の親族関係にある他の個入をその特定の親 族関係〜」といってしまったが,親族関係,つまり血縁・婚姻関係の単位をな すものは,個人のほかに家もあるということをつ1ナ加えておきたい。つまり本 家・分家・大本家・孫分家・隠居……なども,立派な親族名称であると考え

る。

 また,家長・主婦・隠居・家督……などの単語は,血縁・婚姻関係にもとつ く親族關係だけをさし示しているのではない。家・家族という集団の中におけ るstatusとかメンバーシップそのものをさし示している単語である。しかし,

それらの単語のさし示すものが常に家とか家族,または,夫・妻,祖父・祇母

・父・母・長男などというものと相即不離の関係にあるという意昧で,これら の単語も,特殊なものではあるが,親族名称であると認定する。

 親族名称のうちある特定のものは,親族呼称にもなることができる。たとえ ば,親をさし示す親族名称のうち,チチ・ノ〉・という親族名称は,親族呼称に はならない。しかし,オトーサン・オカーサンという親族名称は,立派に親族 呼称にもなることができる,というが如きである。

 親族呼称と親族名称とを一往上のように定義した二合,後者の親族名称につ いても肴察すべき多くの問題がある。しかしこの事例研究では,主として前者 の親族呼称の問題だけをとりあげることにする。

 (a)渡辺治作象とその寅族構成

 福島県伊達郡保原町字東台後71番地。農業・渡辺家の当主渡辺治作は,渡辺 惣二郎・ミナの長子として,閉治34年に福島県伊達郡掛潤町(環霊由町掛団。

保原町の隣の町。) で生まれた。父惣工郎と祖父粂蔵は,当時この掛田町でか なり手広い規模で精米。米穀商(屋号は粂藁屋)を経営していた。治作の母ミ ナは,保原町晦目野の農業佐藤為七家(屋号は浦木屋)の娘(長女)である。

佐藤家は,灘時保有反別約4町歩の自作地主であった。ミナは,22歳のとき渡  第7図

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一 147 一

辺惣二郎と結婚して,二二町の渡辺家にはいる。その翌年ミナが23歳のとき,

長:男治{乍が生まれる。

 しかし,その後まもなく渡辺家の精米・米穀業は経営が失敗して,到産。つ づいて夫惣二郎も36歳で死亡したため,ミナは,35歳のとき子どもの治作(当 時12歳)とともに実家の佐藤家へ引きとられることになる。 (当時惣二郎の妹 ヨシは,他家の養子になって,渡辺家になく,親の粂蔵夫婦や弟惣作はすでに 病没している。)

 当時の佐藤家は,親の為七夫婦・長兄の甚兵衛夫婦とその4人の子ども・弟 の隆三夫婦とその二人の子ども,それに弟の甚三郎と,総勢13人のi系親・傍 系親からなる複合家族であった。これにミナ・治作の親子が加わったから,佐 藤家は,総数15人の大家族となったわけである。

 佐藤家は,当時は保原町でも有数の大自作農であった。そのことは,佐藤家 の農業経営が上記の家族労働力だけでは間に合わず,ほかに春の彼岸前後から

夏の盆前までは4人,それ以後12月1日までは2人の常勤の男子奉公人を傭

い,ほかに農繁期には3〜4人の女子奉公人も傭いいれていたということによ っても知ることができるだろう。

 治作は,佐藤家の扶養のもとに同家で成長,30歳で払出するまで同家の家族 の一員として家業の農業に従事する。その間治作は,大正14年26歳のとき伊達 郡粟野村(現梁川町粟野)の農業今村佐蔵。リェ央婦の4女サキ(当時22歳)

と結婚・昭面2年に長男昭治を,岡4年に二男友左をもうけている。この二男 が生まれた3か月後の昭和4年12月,治作は,はじめて渡辺姓のまま佐藤家か

ら分出し,独立した。治作・サキ夫婦と母親のミナ,それに昭治・友左の二人 のむすご,計5人の家族である。

 晶出のときに・本家佐藤家から分与されたのは,住居(建坪40坪),それに 畑1反1畝11歩だけであった。分出のときに自分たちのいわゆるホマチで兄ilに

畑1反6畝を買いとっているので,自作地は計2反7畝11歩になる。ほかに小 作地が畑2反7畝,閏が7反2畝,計9反9畝。自作地とノ1・作地を合わせれ

ば,経営面積は金体で1町2反6畝11歩。自小作…農というよりは,むしろ典型 釣な小自作農となったわけである。

       一148一

 妻サキの実家今村佐蔵家は,経営規模約2町2〜3反。村の中でも大きな自 作農家であった。サキが治作と結婚したのは,22歳のときであった。

 戦後の農地解放によって,渡辺家は,他の多くの小作農家とともに小自作農 から一挙に自作農家になった。本家佐藤家の畑の請負耕作期を合わせれば,経 鴬規模は,境在島1町7反6畝となっている。

 佐藤家から分出してのち,治作・サキの閥には,さらに4人の子どもが生ま れた。計6人の子どもの名前と生年は,次のとおりである。

獅一生年三刷生

長脚召治1昭和2年1ニ ニ雲客.左{〃4〃

生  年

女畔子才賢

長女綾子

tl 7 ft

三一卓吉 四馴友吉

〃!6年