第3章 研究の背景
3 ワイン生産と農村地域の再生
(1)黎明期の「ワインを飲む文化」
ワインの特性については、第1章第4節で述べたところであるが、農産加工品のなかで も付加価値の高い製品である。生産地で製品化することは、原料ブドウの物理的刺激や時 間経過による品質の低下を避け、生食用ブドウ市場での需給関係による価格変動の回避が 可能となるなど、ブドウ生産者にとっての大きな利点がある。さらに、ワインには栽培地 の環境条件を反映する性質があることから、他産地との差別化を打ち出し地域特産品とす ることができるという利点もある。これらの経済的効果を期待できることが、農産物を地 域資源とする多くの付加価値向上策があるなかで、ワイン生産が各地で取り組まれてきた 主な理由と考えられる。
「ワインを飲む文化」のルーツは、1870年代後半の国内におけるワイン生産の開始に求 めることができる。日本ではブドウは長く生食用として栽培されてきたが、明治政府は殖 産興業策としてワインに加工して付加価値を高め、輸出して外貨を得ようとする取り組み を始めた。北海道においては、1876(明治 9)年、開拓使によって「札幌葡萄酒醸造所」が 開設された31。道南と道央地域で栽培したブドウを原料にワインを生産したが、輸出品を 安定的に生産できるまでに至らず、国内市場では消費者の嗜好に合わず受け入れられなか った。1886(明治19)年、北海道庁の設置とともに、民間に払い下げられて以降も、明治末 期までは生産されていたが、その後廃業した(茜会, 1984)。生食用ブドウ栽培が盛んであっ た山梨県内では、日本初の民営法人でのワイン生産をはじめるにあたり、県内のブドウ生 産地が研修費用を公費から支出することに合意して、2 人の青年をフランスに派遣して醸 造技術を学ばせた。両地域におけるワイン生産は、成り立ちにおいて官主導か民主導なの かの違いがあるが、明治年代の消費者にとってワインは馴染みのない酒類であり、その価 値を消費者に伝え理解を得ることが必要であった。
1870年代から生産が続いた山梨県でも、ワインを飲用する消費者層は限定的であり、事 業存立のため大消費地である関東圏を対象に販路を拡大する取り組みが行われた。
1903(明治 36)年、新宿と甲府間に中央線が開通し、列車による大量輸送が可能となった。
1910年代後半からの景気の浮揚にともない、勝沼地域を訪れる観光客が増え、ワインが飲 まれるようになった。1923(大正12)年には特別列車を運行し、関東圏の販売者や消費者を 招致している。この企画は単にワインを売り込むだけではなく、来訪者にブドウ栽培地の
31 国立公文書館デジタルアーカイブに開設記念写真がある。https://www.digital.archives.go.jp/
43
景観を楽しみ、土地の人々と触れ合う機会を提供する内容を含む、ルーラルツーリズムの 萌芽とも言えるものであった。しかし、消費者の多くは「甘味ぶどう酒」を好み、辛口の ワインは価格が半分であっても、支持するのはごく少数だった(山梨日日新聞社,1978)。
その後、個人にも醸造免許が与えられ、1935(昭和10)年には山梨県内に3,008カ所の製 造所があり、貴重な米を原料とする清酒に替わる「地酒」として、季節の祭事などで飲ま れ、神前にも供えられていた。1937(昭和12)年の日中戦争を機に、税制が改正され、ワイ ンもぜいたく品として課税対象とされた。ワインに含まれる成分(酒石酸)が軍事用通信機 器に必要とされたことにより、ワイン生産が奨励されという特殊事情はあったが、ワイン 生産を続け消費していたのは、この地域に固有のことであった。ワインを楽しむ文化が、
広く日本の食生活に入ってきたのは、1964(昭和 39)年の東京オリンピックや、1970(昭和
45)年の日本万国博覧会(大阪)が開催され、食事の洋風化が進んだ1970年代以降のこと
である(本章第3節第3項参照)。
(2)ワインの地域資源としての高付加価値性
地域資源としてのワインには、経済的な意味での価値の高さがある。1910年代以降、ワ イン生産が途絶えていた北海道においても生食用ブドウ栽培は行われ、積雪寒冷の気象条 件下におけるブドウ栽培技術は農業者の間に蓄積されてきた。しかし、道内でのワイン生 産はこうした生食用ブドウ栽培の延長ではなく、財政再建を迫られた自治体による、専ら 財源の確保という経済的理由から着手された。事例にあげた北海道東部に位置する池田町 は、畑作農業を主産業としているが、1940年代中頃から1950年代中頃にかけて冷害や地 震に見舞われ、被害額が嵩み「地方財政再建促進特別措置法」による財政再建団体に指定 された。そこで、厳しい気象条件下でも自生している山ブドウに着目し、これを原料にワ イン生産に取り組んだ。
池田町におけるワイン生産は開始から約半世紀を経過しているが、ブドウ栽培とワイン 生産の経験の何れもないなかでの事業着手であった。そのため、ワイン生産の先進地であ る山梨大学や国の機関からの学術的な支援に加え、関連の民間企業やブドウ栽培者などか らの技術供与を受け、ワイン生産が進められてきた。同町では職員を欧州に長期派遣しワ イン製造技術を習得させたが、新品種の開発や品質の向上などに関しては、山梨県内のワ イン産業関係者から多くの知見を得ている。こうした努力に加え、ワイン需要の開発に取 り組んだ結果、財政再建団体を脱しただけでなく、ワイン生産事業の収益をもとに先進的
44 な自治体経営を推進してきた。
次にあげるように、ワインの付加価値のなかには地域イメージや地域の誇りを形成する という、触知できない地域の価値を高める効果がある。ワイン生産者が原料用ブドウの開 発や改良、栽培技術の研究に熱心な理由は、理想とするワインを生産することが所与の環 境条件のなかで、どのようにブドウを栽培し収穫するかに左右されるからである。ワイン 生産の基盤が農業生産活動にあり、「ワインづくりは、農業である」と表現される所以であ る。ワイン生産地に広がるブドウ栽培地の景観は、長年にわたる生産活動のなかで、栽培 者が自身の技術と資本を注ぎ形成したものであり、固有の「生産文化」が反映されている。
また、ワインの品質向上を考えると収穫後は速やかに製品化する必要があるため、栽培地 において一定規模の単位で生産されていることが多い。国際的に著名な生産地の例でも、
小規模な生産地域が地域名を冠してグローバル市場にワインを出荷し正当な評価を受けて いる。このように、ワイン生産者が土地と不離不可分の関係にあるハンディをこえて、ワ インの持つ付加価値は、地域イメージや「地域の誇り」を内外に発信し、消費者が生産地 を訪問する契機をもたらす可能性をもっている。
さらなるワインの持つ高付加価値としては、世界に向けた発信力がある。事例対象地域 を含む山梨県においては、県産ブドウ原料を使用していることを、「地理的表示に関する表 示基準32」にもとづきワインに明示する取り組みや、固有種である「甲州種」を「国際ブ ドウ・ワイン機構(OIV)33」の登録品種として、認定を受けるなどの取り組みがある。これ らは小規模なワイン生産者が多い同県における、戦略的な産業振興と地域経営の取り組み である。栽培地の風土に根差したワインづくりに励む生産者にとって、産地名を製品に表 示することは消費者と地域情報を共有する契機となり、地域住民としての誇りの醸成につ ながることが期待できる。その効果は国内にとどまるものではなく、国際的な基準に合致 することをもって、世界のワイン市場への進出を可能とし、地域の名を世界に広め消費者 の来訪を促す契機となる。
加えて、地域にワイン産業があることにより、産業クラスターが形成されるという研究 成果(金井,2002 影山,2006 長村,2014)がある。それらの内容については、第4章第4節で
32 酒類の品質と社会的評価その他の特性が主として地理的原産地による場合、世界貿易機関加盟国の特 定の領域またはその領域内の地域または地方であることを、国税庁告示にもとづき示すもの。
2013(平成 25)年にぶどう酒の表示として「山梨」を指定。
33 ブドウ栽培とワイン醸造の技術的・科学的な国際標準化を担う、パリに本部を置く政府間レベルの機 関。加盟国数46カ国、日本は未加入。
45
述べるが、ワイン生産が地域内の他の産業と結びつき、産業間のネットワークの形成を促 す効果も見逃せない点である。農村と都市との人的交流では、可動性において優位にある 消費者が、製品としてのワインに対する関心に加え、多様な要因に促され農村を訪問して いるものと推察される。
(3)ワインの生産と消費
本研究では、農村と都市における生産と消費の社会的役割分担による乖離が、両者の関 係構築を阻んでいるという認識に立っている。ワインはグローバルな市場で流通し消費さ れており、国内のワイン生産者は規模の大小を問わず、グローバル市場での生産活動の影 響を受ける。また、消費者の選択肢は多数の外国産ワインを含めた広い範囲に及んでいる。
こうした状況から、国内のワイン産地におけるワインツーリズムを事例に、農村と都市の 関係構築を論じる前提として、本項では「ワインの生産と消費」について概括する。
先ず、世界のワイン生産と消費の状況については、「葡萄・ワイン国際機構」(OIV)の統 計によると、2013(平成25)年の生産量は2億7,860 ヘクトリットル、前年比+4.7%と予 測されている。国別の生産量は、イタリア、スペイン、フランスの順に多く、何れも4,000 ヘクトリットルを超えている。一方、同年のワイン消費量の予測値は2億4,680ヘクトリ ットル、前年比+0.1%である。これまで消費国として上位にあった、フランス・イタリア での消費が減少している。国別ワイン消費量は、上位からアメリカ、フランス、イタリア、
ドイツ、中国である。このうち2013(平成25)年と2010(平成22)年を比較して、消費が伸 びているのは、アメリカ、イタリア、中国である。とくに中国の伸びは 27.2%と大きく、
1 人当たりの年間消費量は 1.3リットル程度であるが、消費量は増加傾向にある。また、
中国はワイン用ブドウの栽培面積についても、2014(平成26)年の推計値ではスペインに次 ぎ世界第2位である。
日本におけるワインの生産と消費に関する統計数値は、国税庁統計の「果実酒」の数値 が、最も信頼性が高く継続性があることから、一般的にこの数値が使われている。この数 値にはブドウ以外の果実を原料として製造したフルーツワインを含むが、全体量に占める 割合が少ないため、「果実酒」の数値をもって、ワインの生産・消費状況として一般的に扱 われている。1962(昭和 37)年、国税統計年報において果実酒類が個別に分類されるようにな り、同年の果実酒の課税出荷量は、酒類全体の約 1.4%である。酒類全体の約37%を占めていた 清酒の25分の1以下の量であり、その後、大きく変動することなく推移した。