本章で扱う事例の多くが,パラナ州ロンドリーナ市から訳 100km ほど離れたアサイとい う町で収集した事例である。アサイは,ブラジル拓殖組合によってパラナ州に 1932 年設置 された。当初この移住地はトレスバラス移住地という地名で呼ばれたが,日本的な響きをも つアサイという名前に改称された。当時の人口は10,000人だったが3,000人以上の日本人 がここに入植している(進藤1983)。
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表1-4 アサイの子どもたちの概要
アサイやバストスは,日本から居住者を呼び寄せるのではなく,サンパウロ州を中心に自 営農者や小作農業従事者を集めた。1929 年の世界恐慌の影響から,コーヒー価格が下落,サ ンパウロはコーヒー作付けの制限政策を推し進めており,コーヒー農業者と自立し始めてい た日本移民らは経済的な打撃を被ることになった。そこで,経営者らはコーヒー以外の農業 を行うか,農業形態を変えるか,もしくは新天地を目指すか選択せざるを得なくなった。アサ
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イは新天地を求めたサンパウロの農業従事者を受け入れる中で発展していく。ただし多く の日本移民の歴史を飾る出来事はサンパウロを舞台としたこと,ブラジル拓殖組合が設置し た移住地としては小規模だったことから,移民史としては日陰の移住地である。
本章では帰国した子どもたちの事例のうち,2010 年~2013 年に収集したパラナ州のアサ イ町で収集したデータを扱う。3,4,5章で扱ってきた基本データと違い,本データの特徴は継 続的にインタビューデータを収集できた事例群であることにある。また,それぞれ累計する と4時間から最大で20時間近くのインタビューを実施できた。以下で説明するように,アサ イは中心部に舗装された目抜き通りがあり,そこから町が広がっている。広がっているとい っても,5〜6ブロック前後の小さな町である。そのため,子どもたちは互いに顔見知りとなっ ている。インタビューデータは町のレストランや日本語学校,町に一件だけのホテルで行っ た。今回は子どもたちのデータを分析の対象とするが,アサイの教育委員会や学校教員,日系 人協会,日本語学校といった諸機関にもインタビューを行っている。インタビューデータの うち,ミカ,アリサ,チアキ,トモ,については両親へのインタビューを行っている。
日本語学校「あゆみ」で日本語を教える2世のヨシエ先生によると,アサイの場合,農業経 済から工業化への切り替えが遅れたことで,比較的日本移民だけのコミュニティが維持され てきたという。アサイの主要産業はコーヒーから綿花,そして製造と推移していくが,多くの 日系人は都市近郊農業に切り替えたため, 1次産業主体の経済生活が成り立っていた。 1次 産業から2 次・ 3次産業への切り替えは 2世から 3世にかけて生じ,都市への人口流出は
1960 年~1970 年頃にみられるようになった。また,日本の国策移住地であったことから,戦
中以降,日本人比率を下げるために多数のブラジル人が流入し,2 世以降の家族構成における 日系人同士の婚姻比率は低くなり,1 世が引退をはじめると堰を切ったように日系人コミュ ニティの活動が「薄まった」という。
ヨシエ先生も「自分の母国はブラジルだと思います。ブラジルで生きていくものだと思 っていたので。そういう意味では,日本への気持ちは両親とは違いますよね。日本語の環境 で育ちましたが,それでも日本をブラジルのようには思えない」「いりくんでいると思います。
私は日本語の家で育ちました。ですが,日本はすでに遠い国で,親もブラジルで生きると決め ていたので」という。こうした語りは,日本人移民が多数集住した移住地では多数聞くこと ができる。移民第2世の典型的な語りである。こうした「2世」の典型的な語りが,「3世」
になるとさらに典型化する。ブラジル社会へと統合され,そのエスニック・アイデンティテ ィが「日系ブラジル人」もしくは「ブラジル人」へと変化する。
しかし,時代の変化が,日本移民の境遇をいっそう複雑なものとしていく。ブラジルは軍政 から民政への移行期の債務の不履行からデフォルトに追い込まれ,インフレの抑制に失敗す る。アサイに限っていえば,綿花の価格下落を通じて冷えきった農業経済にとって,大規模農 業企業の参入による小規模農家の淘汰に対応できなかった。経済不況と産業構造の変化は 瞬く間にアサイから仕事を奪った。農業従事者だった日本移民・日系人のなかには切迫し
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た生活状況から日本のデカセギに活路を見出す者が現れた。当時の様子を,ヨシエ71先生は 次のように話す。
ヨ:80 年代から徐々に日本へ渡る人が増えました。何度もお見送りをしました。何十組も 日本へと行きました。
*:旅行会社ですか?
ヨ:サンパウロの会社を通じて。それも最初は実家に戻るついでとか・・・そういう理由 だった。それが大勢,日本に。デカセギが(給与が)いいってわかってきたんですね。ロン ドリーナから,時々「働きに行かないか」という人もいたんですよ。ちょうど不況だったん ですね。
*:農家の方ですよね
ヨ:アサイからもう少し,田舎の方にみなさん土地をもってたんです。でも駄目だったんで すね。
*:それで
ヨ:みなさんときどき帰ってきたりしてたんですよ。お金がある人はロンドリーナに出ま したね。
*:なるほど
ヨ:先生(=筆者)も知っての通り,2008 年頃からたくさんの人が帰ってきたんですね。
子どもたちも。私たちはびっくりしました。
*:レダ先生もおっしゃってましたね
ヨ:みんな私より日本語が上手なの(笑)だからポルトガル語を教えることになったんで すね
アサイには日本移民として町として「日本語」や「日本文化」が息づいている。商店や 通りが日本人の名前であることや日本式の寺院もある。日本移民の共助組合もある。町の 入口には巨大な鳥居が鎮座している。最近はブラジル育ちの日系三世が「日本の城」を模 した博物館を建築している。いわゆる日本移民の末裔らが日本的な文化を残している一方 で,デカセギマネーが還流し,日本式の美容院や商店もみかけるようになった。アサイは日本 移民とその末裔が形作る日系文化と,デカセギから帰国した人々が形作り日系文化が交錯し た町である。
ここで確認しておきたいのは,日本移民における「祖国」とは日本のことであり,「母国」
としてのブラジルとの別が存在していたことである。本章で紹介する子どもたちの祖父母 世代は日本に郷愁を覚え,二世である親世代の「母国」はブラジルとなる。日系ブラジル人 の子どもたちが「帰国」したのはそうした「いりくんだ」土地なのである。微妙な言い回 しが続くが,こうした議論を踏まえるのも,ブラジル日本移民とニューカマー外国人として
71 ヨシエ、女性、42歳、ブラジルで大卒、日本語でインタビュー
128 の日系ブラジル人の微細な繋がりを示すためである。
*:子どもたちは日本移民二世と似ていると感じられますか?
ヨ:似ていると思います。少し違いますけどね。両親と私は日本語で話します。周囲のブ ラジル人とはブラジル語です。こうした日系人は多いと思います。ですが日本人だと 思っているわけではありません。
子どもたちも同じでしょうね。自分が日本人だとは思っていないでしょう。でもブラ ジル人かと言われると難しいですね。私よりも日本を知っている子どもたちですから。
でも先生(筆者)は日本人ですよね。先生と子どもたちはやはり違いますよね。
ヨシエ先生がいう「少しの違い」とはいったいどのような違いなのだろうか。そしてそ れは,以下でも見ていくように,日本育ちの子どもたちのトランスナショナルな生存戦略の 現代的な様相を際立たせるものである。
3.日本との繋がりを維持する意味
さて,まずはこのアサイという片田舎において子どもたちがどのように日本との繋がりを 維持しているかについて見ていきたい。ロンドリーナ生まれのアリサ72は生後すぐに両親と ともに日本へと渡った。日本の保育園へと入学。小学校 3 年生まで日本で過ごした。日本 での教育経験に関してあまりいい思い出はないという。
ア:私は・・・(日本での教育経験については)悪い思い出しか・・・4歳以上からは憶え てますけど,日本の保育園にはいって,すごくいじめられてたんですよね。
*:いじめられてたんですね
ア:ブラジル人で肌の色とか,日本語が話せなかったこととか。すごく仲間はずれにされた り。友達になりたくないとか,一緒にそばにいたくないとか。学校から出て行けとか。
本当にゴミみたいにされて。そして,給食のときも,なんか,私はいつも30回くらい噛ん でから食べるんですが,日本人ははやく食べて,給食とか食べて,そして先生いつもおこ ってはやく食べなさいとか。はやく食べて息ができなかったこともあったし,本当にい ろいろいじめられた。
学校には馴染めなかったが,友人関係には恵まれ「私のクラスが絶対また日本に帰ってき てねといってくれて。でももう4年も5年もたって忘れてるよねと思って手紙を書いたら, みんなが待ってるからって返事があって」嬉しかったという。
両親は静岡県の車の部品工場で働いていた。家族はアリサにいつかブラジルに帰ると話
72 アリサ、女性、14歳、日本の公立小学校を経て、ブラジルの公立中学校へ、日本語でイ ンタビュー