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本章では,「日系ブラジル人」の歴史に注目することから,その変遷を概観してきた。戦前 は日本の不況の打開策として身一つで送り出され,日本でデカセギ労働力が必要とされれば 労働力の調節弁とされてきた。こうした日系ブラジル人の不安定性は,市場媒介型移動シス テムを背景とする日本へのデカセギに当初から内包されていたものであり,それゆえに政 治・市場の論理によって日本・ブラジルでの生活が大きく左右されることとなった。

2 節で戦前移民の歴史を概観してきたように,日本からブラジルへの人の移動は「人口問 題」と「経済問題」の解決策としてである。そしてブラジルにおいては「奴隷の代替労働 力」として受け入れられてきた。その後,ブラジルから日本への日系ブラジル人の移動は「日, 本人の代替当動力」であり都合の良い「雇用の調節弁」として利用されている。そして,経 済危機以降のは安価な労働力への切り替えが進み雇い止めされていった。

それでは法的状況はどうか。戦前の人の移動は,日伯間で設定された「移民枠内での移動」

であり,日本人移住地の設定などは国家レベルでの「事業」であった。他方でブラジルの政 治状況によって,日本移民は制限・抑圧されることにもなった。1990年を前後するニューカ マー外国人としての「日系ブラジル人」の移動も,経済的理由に後押しされた「入管法改正」

が背景にあり,「定住者ビザ」による自由な就労と移動が保障された。しかし,経済危機以降 は日系人の「再渡日の禁止」といった一方的な打ち切り策が行われている。

このように,ブラジル日本移民と日系ブラジル人を取り巻く国際移動は「法制度の整備と 後ろ立てによる流動性の高さ」と「経済的論理による都合の良い労働力」という点に特徴 がある。そして,「流動性の高さ」は経済的要因と法的要因によって促進されることもあれ ば抑制されることもあった。ポジティブな要素を挙げるとすれば,流動性の結果,常に日本と ブラジルの間に人の移動が生じており,ブラジルにおいても日本人移民や日系コミュニティ が存続してきたことである。そして,日本のの情報は様々な形でブラジルに届けられ,日系ブ ラジル人コミュニティにおいても,日本就労の厳しさや日本での子育ての難しさが共有され てきた。

それでは,日本にやってきた日系ブラジル人が,「日本定住」を進めてきたにも関わらず, 雇用喪失による「帰国」をどのように捉えればよいのだろうか。まずは雇用を喪失した結 果,「帰国」をしなければならないほど,日系ブラジル人の就労状況や生活状況が不安定だっ たことが理由となろう。それでも,一部の日系ブラジル人は平時の就労時から生活が不安定 だったこともあり,ある程度の蓄えを持っていた。蓄えが尽きた人から帰国する場合もあれ

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ば,働き手だけを残して帰国する場合もある。それでも,今回の大量帰国帰国が生じたのは, 日本へ見切りをつける人が帰国したからである。したがってブラジルにおいて親世代にイ ンタビューしたとき,様々な帰国に向けての「準備」が語られることになる。もちろん,こう した「準備」を行っていた多くの親は,帰国に向けた教育戦略を行使してきたのである。

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3 章 日本からブラジルへの移動を支える教育―ブラジル人学校の事例から

1. はじめに

短期的なデカセギを目的に日本へ移動した日系ブラジル人にとって,子どもたちを日本の 公立学校に通わせることは消極的な選択であった(小内・酒井 2001)。日本の学校におい ては教師にとっても,子どもたちにとっても様々なコンフリクトが生じていた。したがって, ニューカマー外国人の流入と日系ブラジル人に関する教育研究は,主に公立学校での事例研 究が多かった(例えば 児島 2006, 森田 2007)。いわば日本の教育と日系ブラジル人のカ ルチャーショックの大きさが教育社会学の課題として浮かび上がったからである。

こうしたなか,ブラジルへの日本移民と同じように,自助的な教育組織も日本各地で作ら れていった。ブラジル人学校は,1990 年代に日系ブラジル人とその配偶者(以下,両者をあ わせて日系ブラジル人とする)が大量渡日したことをきっかけとして,各地に子どもたちを 預かる自助的な託児所や私塾的な学校が設立されたことに由来する。

校舎を構え,カリキュラムを設定し,教師が常駐するいわゆる「学校」としては,1995 年に 創設された大泉日伯学園が第一号といわれる。以来,ブラジル人学校は,他の外国人学校に比 べて歴史は浅いものの,学校数は最多で 90 校を超え,日本で最大規模の数をほこる外国人学 校となった。急速に日本で広まりを見せたのはニーズが存在したからである。

しかしながら,ブラジル人学校は日本の外国人教育問題のなかでも目立たない存在であっ た。それは,各学校の規模が小さいことや,日本社会との接点をほとんどもっていなかったこ とによる。また,単なる帰国準備の学校として表面的にしか理解されていなかったため,日本 社会の問題というよりブラジル人社会の問題とされてきた。こうしたなかで,2008年末の経 済危機以降,ブラジル人学校は一躍注目をあつめることになった。

経済危機の影響によって製造業を中心に業績が悪化し,多くのブラジル人が職を失った。

その結果,日系ブラジル人家族は転居や帰国を余儀なくされ,子どもたちは通っていた学校 をやめざるをえなくなる。日本に留まったとしても,親が失職したため学費を支払えず,帰国 した人びととおなじく学校に通えないケースも各地でみられるようになる。こうして,各地 のブラジル人学校は生徒を失い,廃校・休校せざるをえない状況となった。

こうした苦境にありながらも,ブラジル人学校が果たしてきた役割は大きいと筆者は考え る。特に,本研究が対象とする「ブラジルに帰国した人々」が日本での教育を考えたとき,も っとも有力な選択肢が「ブラジルの教育を行うブラジル人学校」である。そして,ブラジル 人学校は以下でみていくように,日本で定住する人にとっていかなる意義を有するかといっ た議論と,ブラジルに帰る人にとっていかなる意義を有するかという2つの議論が行われて きた。もちろん,「定住」と「移動」といった日系ブラジル人のライフスタイルに関しては, 当該のブラジル人学校も充分認識している課題である。次章では日系ブラジル人の親の教 育戦略を検討していくが,教育戦略の柱となるのが学校選択であり,ブラジルに帰国する

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人々に取ってはブラジル人学校に子どもを通わせることが最もポピュラーで効果的な教育 戦略となる。そこで本章では浜松にあるブラジル人学校を事例とし,いかなる教育が行われ ているのか,そしてそれがどのような教育理念によって行われているのかを検討していく。

2. ブラジル人学校の位置づけとその役割