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年にはじまるブラジル日本移民である。当時のブラジルは,サンパウロ州をはじめ南部地域 の開拓に着手しており労働力の確保が急務であった。一方,日本は日露戦争以後の経済の冷 え込みが著しく,ハワイをはじめ各地に移民を送出していた。ブラジルもまた移民の送り出 し先のひとつであった。ブラジルへと渡った日本移民の多くは,サンパウロ州を中心に契約 労働者として厳しい農作業に従事した。多くの日本移民は「出稼ぎ」として働き,「故郷に 錦を飾る」ことを目的としていた。なかには契約労働者では充分な収入が得られないとし, ブラジル各地に日本人植民地をつくるなど自立していった場合もある。本研究の調査地と なったのは,第二次世界大戦以前につくられた日本人入植地である。

2章で概観したように,ブラジル日本移民の歴史には,大きく2つの転換点がある。第1の 転換点は,第二次世界大戦である。太平洋戦争によって日本と分断された移民の多くは,敗戦 国である日本への帰国を断念し,ブラジル永住を選択する。その後,日本移民らは農作業に従 事しながら子どもたちを近郊都市部の学校に進学させた。そして,日本移民の 2 世,3 世は, 日系ブラジル人として社会的上昇を遂げていく17。第2の転換点は,1980年代にの南米を襲 ったインフレである。南米の経済不況は,日系ブラジル人らの生活に甚大な影響を与えた。

一方で,バブル景気に湧いていた日本は,国内ブルーカラー労働者の不足問題を抱えていた。

そこでブルーカラー労働力の代替を日系ブラジル人に求めたのである。

南米の不況と生活苦。日本の好況と労働者不足。それぞれの事情と思惑が合致し,89年の 入管法改正と 90 年の定住者告示によって日系ブラジル人の日本在留資格が定められ,以降 急速に日系ブラジル人が日本に流入することとなった。それから約20年が経過し,デカセギ の人々の中には在留資格を永住者に変更する者が増える一方,2008 年のサブプライムショ ックで大量帰国が生じた。こうした経緯のもとに,日本とブラジルの間では,日本人・日系ブ ラジル人・ブラジル人の往還が100年にわたって続いてきたのである。

それでは,日系ブラジル人家族はいかなる理由で日本へと渡ることになったのだろうか。

本研究で扱う事例も,これまで日系ブラジル人家族について語られてきたことと同じく「経 済資本」の獲得を理由に渡日したと語っている。日本滞在時における家族の物語の基本的 なパターンは,日本での貯蓄を増やし帰国したブラジルで「より良い生活をめざす」ことで ある。

18:毎日物の値段がかわる。なんだっけ。えっと…

*:インフレ?

コ:そうそう。びっくりするぐらい。どうしようもなかった。

17 前山(1996)や宮尾(2002)。

18 コウジ、男性、40歳、ブラジルで高卒、日本語とポルトガル語でインタビュー

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*:そうなんですか

コ:生活なんて無理。良くなるかなと思ってもちっとも良くならない。娘も学校に行かせ られない。だから日本へ行った。

*:じゃあそのまま日本で生活すると考えてましたか?

コ:それはない。長く日本で生活したけど,いつかは帰るって決めてた。(ブラジルが)安定 したらね。(家族)みんなにも帰るって。じゃないと,どうしていいかわからなくなる。将来 とかね。

コウジの話によれば,「貯金がたまり」「ブラジル経済が安定」すれば帰国するつもりだっ た。家族にも帰国のための心づもりをするよう話してきた。「経済資本」の貯蓄と「一時的 滞在」の語りは,本調査で対象となったすべての保護者に共通する。

それでは,ブラジルに帰国した家族はその後どのような状況にあり,家族の物語はいかな る変化を遂げたのであろうか。ブラジルは90年代まで続いたインフレと経済不況を乗り切

り,2000 年代に入り好景気に転じた。多くの家族は好景気に沸くブラジルに帰国している。

しかし,ブラジル社会の変容は家族にとって予想以上だった。コウジさんの言葉を借りれば

「景気が良くて安定しているけど,別の国に帰ってきたと思うくらい」ブラジルは様変わり していた。

ヘナト19は,デカセギ以前はブラジルで高校を卒業し,郵便局員をしていたが,経済不況の 影響から経済的な負債を抱えたため,家族を連れて日本へと渡った。その後,一定の貯蓄を作 り,子どもたちの大学進学を前にブラジルへと帰国した。

*:ブラジルに帰国してから…仕事はどうされてますか?

ヘ:ありません。17 年間ブラジルと離れたのでいろいろ変わりました。いま仕事を探そう としても資格が必要。日本でも溶接の仕事をしていましたが,ブラジルでは(ブラジルの)

資格が必要。コースを受けて。運転手とかはできるけど,資格がないからブラジルでは通じ ない。そういうことが残念。大学を卒業しても長い間日本にいて,ブラジルにもどっても知 識が古くなっていて,就職できない状況です。

ブラジルでの空白期間が長く,帰国後すぐに希望の職に就職することは難しいという。日 本で学んだ技術的な資格も通用しない。大学を卒業していても,経歴の空白期間があり,以前 のようなホワイトカラーにはなれない。そこで,貯金を切り崩して生活しながら,ブラジルの 親類や友人,知人を頼って仕事を探している。さきほど取り上げたコウジ,そしてサトミ20も 帰国後の就職に苦労を語っている。

19 ヘナト、男性、40歳、ブラジルで高卒、ポルトガル語でインタビュー(通訳)

20 サトミ、女性、46歳、ブラジルで大卒、日本語とポルトガル語でインタビュー

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*:帰国後仕事はどうされているんですか?

コ:日本にいる人に機械を送ってもらってね,それで仕事をはじめました。こっち(ブラジ ル)で仕事に就くのはいま難しいからね。知り合いに声をかけて,いろいろ教えてもらいま した。

*:仕事はうまくいきそうですか?

コ:まだこれからかな。でも頑張らないと。子どもたちを大学に行かせたいし。

サ:(日本での)仕事の不安定さからブラジルへと渡った。日本では老後の生活がどうなる かわからなかった。戻るならいましかないと思った。

*:ブラジルでの生活の見通しはあったのですか?

サ:ブラジルで成功するかはわからない。仕事を探しています。いまは貯金があるから大 丈夫ですが…家族が安定しているとは言いがたい状態にある。仕事は知り合いを頼って探 しています。いまは子どもが小さい。これからどんどん大きくなってくる。だから子ども たちが生活しやすい環境をつくってあげたい。

コウジやサトミのように,帰国した家族は,ブラジル帰国後の環境の変化を乗り越え「もう 2度と日本へデカセギしなくてもよい」よう生活の立て直しを進めていく。以上のような親 の語りに共通して見られるのが,ブラジルでの生活を安定させ「再出発」するという家族の 物語である。

「再出発」のために,一部の家族は日本滞在時から帰国後を見据えた準備をしている。次 にみるフェリペ21やミナコ22は,日本滞在時から帰国後を見据えて情報収集をおこない,帰国 後の生活が円滑に進むよう備えをしていると語る。

フ:帰国してから仕事を始めました。日本で生活していたので,ブラジルの生活に慣れるか 心配でしたが,いまは元気にやっています。田舎に引っ越してきたのが良かったのかもしれ ません。

*:どうして田舎に?

フ:向こう(日本)で生活していたときから,ブラジルに帰った子どもたちの話はきいてい たので。だから(息子が)高校進学前に戻らないといけないなと。

*:家族で話してたんですか?

フ:ええ。みんな帰るのが嫌だった。でも先のこと考えたらしかたがない。

ミ:帰ってきたときは親が住んでいるところ,アサイに帰ってきました。小さな町で,私の子 どもと同じ状況の子どもがいるところ,アサイが良いと思った。薬剤師としてはあまりいい

21 フェリペ、男性、42歳、ブラジルで中卒、日本語でインタビュー

22 ミナコ、女性、NA、NA、ポルトガル語でインタビュー(通訳)

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街ではなかった。子どもたちにとっては,一番いい街だと思った。私は子どもにいいところ を考えて,(アサイに)帰ってきた。昼間仕事をしている間は,おじいちゃん,おばあちゃんが なんとかしてくれる。自分としては子どものことを一生懸命考えてやってきた。

ミナコは薬剤師の資格をもっていたので,ブラジル帰国後は薬剤師として働くことが出来 る都市部で生活をしようと考えていたが,子どもたちの生活を考え田舎へ帰ることにした。

日本語を話せる両親や日本から帰国した子どもたちが多く生活しているので,子どもたちが 生活しやすいと考えたためである。

ブラジルへと帰国した家族の語りには「子どもたちの将来」への配慮が節々でみられる。, デカセギは「経済資本」獲得のために行われるが,だからといって子どもたちの教育がおざ なりにされてきたわけではない。ミナコのように「子どもたちに悪いことをした…」とデ カセギを総括し,ブラジル帰国後は子どもたちに対してより良い教育を与えようとする場合 もある。

デカセギはブラジル帰国後の「より良い生活」のために行われるが,その「より良い生活」

には子どもたちにとっての「より良い生活・教育」も含まれている。そして,帰国した後の 生活の「再建」を円滑にすすめるため,日本滞在時から計画的な準備がおこなわれる場合が ある。それでは保護者は日本滞在時,そして帰国後の生活にどのような計画・戦略をたてて いたのだろうか。