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それでは最後に,日本とブラジルどちらでも違和感なく生活出来たと語った事例について みてみよう。本研究で扱うデータの中では,このグループが多くを占め,39事例中17事例が

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これに該当する。日本とブラジル,どちらの生活についてもポジティブな回答がなされ,ほぼ すべての子どもたちが高等教育進学を将来の目標と語っている。実際に有名私立高校や大 学へ進学したケースも少なくない。こうした事例の中から,高等学校進学者や有名私立校進 学者について取り上げてみよう。

リカの生活史から46

リカは幼稚園に通っていたころ,両親のデカセギに伴って日本へと渡った。渡日前の生活 についてはほとんど覚えていない。両親は日本での滞在を 3 年間と決めていた。日本での 生活が長くなると,ブラジル帰国後の生活に支障があると考えたからである。リカにも3年 後は帰国すると伝えていた。日本では「いつか帰国することになる」と思いながら生活し ていたという。

日本のことを知ってほしいという意向から,リカは公立小学校に入学,3 年生まで通った。

両親はリカの学校生活が短い期間ならば,日本の学校に馴染み過ぎず,ポルトガル語を忘れ ることもないだろうと考えていた。学校ではブラジル人という理由でいじめられることも あった。仕事で忙しい両親と生活時間がすれ違い,さびしい思いもした。しかし日本での生 活は,ブラジルで体験できないことが多かったので楽しかったという。日本語の勉強にもあ まり苦労を感じず,家庭でも日本語を使うようになっていった。

家族は計画通り3年後にブラジルへ帰国した。両親が驚いたのは,リカが日本語ばかり使 っていたからか,ポルトガル語を喋れなくなったことである。心配した母親は,地元私立学校 へ入学するまで毎日ポルトガル語を教えた。リカによると「お母さんはとても厳しかった」

という。母親はポルトガル語以外の教科についても,独自にテキストを用意し入学後に困ら ないよう教えた。それでも入学後の勉強は苦労した。両親はリカのペースで勉強すれば良 いと考えていたが,勉強の進捗についてはいつも気にかけていた。「家に帰るといつも勉強の ことを聞かれた」という。小学校を卒業する頃には学校にも慣れ,勉強がわかるようになっ てきた。

リカは勉強を続けられたのは「お母さんがいつもみてくれたから」だと語る。ブラジル の勉強は苦しいものだったが,家族の支えがあることで努力を重ねることができた。高校卒 業後,地元の名門大学に進学し,獣医学を専攻している。将来は獣医学が発展しているアメリ カか日本への留学を考えている。帰国時,リカにポルトガル語を教えた母は,現在日本語を教 えている。ブラジル帰国時のポルトガル語ほど日本語を忘れてしまったわけではないが,難 しい単語はわからない。言葉の勉強は大変だが,日本での経験を無駄にしないためにも,改め て日本語を勉強しようと考えている。

アヤの生活史から47

46 リカ、女性、20歳、ブラジル生まれ、日本の公立学校を経て、ブラジルの公立高校へ、

日本語でインタビュー

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アヤは生後すぐに日本へ渡った。日本語のみで生活し,公立学校に進学した。ブラジルへ 帰国したのは小学校卒業時である。中学校入学後,どの部活に入ろうか考えていたとき,両親 からブラジルへの帰国を告げられた。

自分がブラジル人であることは知っていた。だからといってブラジルに帰国するとは考 えていなかった。アヤの両親も経済的に安定した日本で永住するつもりだった。しかし家 族の事情から帰国せざるを得なくなった。アヤはブラジルへ行きたくなかったが,家族を困 らせてはいけないという気持ちから帰国に反対しなかった。

帰国時のアヤは,ポルトガル語をほとんど理解することが出来なかった。日本では両親と の会話で簡単なポルトガル語を使う以外,日本語で生活していたからである。両親はアヤを 心配し,帰国後すぐに家庭教師をつけて勉強させた。両親としては公立学校よりも手厚い教 育が期待できる私立学校に進学させたかった。アヤは猛勉強の結果,私立中学へと進学する ことができた。

学校での勉強は難しかったが,家庭教師と勉強することでついていくことができた。両親 は家計が厳しいにもかかわらず家庭教師をつけるなど,アヤの教育をなにより優先してくれ た。アヤは両親からの期待を感じながら生活することができたので,ブラジルで勉強を続け ていくことができたという。高校を卒業し,現在はデザイン系の大学に在籍している。ポル トガル語で喋ることに支障はないが,文章を書いたりするのは今でも苦手で,大学のレポー トに苦労しているという。

ブラジルでの生活に慣れてきたころ,アヤは日本のことを忘れようとしていた時期があっ た。日本へ帰ることができないのだから,日本のことを考えないように「努力していた」と いう。他方で,母親はアヤに日本語を忘れてはいけないと言って聞かせた。母親が日本語を 勉強したほうが良いというのが疎ましく「ブラジルに帰りたかったわけじゃない」「お母さ んは自分勝手だと思う」こともあった。しかし大学へ進学し,ポルトガル語での生活が日常 になると「日本語の勉強をしたい」気持ちが強くなっていった。

アヤ:やっぱせっかく日本で育ってきたんだからちゃんと覚えていたいなって思っていま す。去年から・・・きっかけはないんですけど,日本語を喋れることはいいなと思うときが あるんですよ。誰かと話すときとか,日本で過ごしていた人と話すと懐かしいなと思うんで す

最近,日本語学校の先生の勧めで,日本語検定1級を受験し合格した。日本語検定を合格し たことは,アヤにとって勉強の励みになった。また,アヤが日本語を維持するのも,インターネ ットを通じて日本のテレビドラマをみるうえで「都合が良い」からである。ブラジルのド ラマはアヤの趣味にはあわないというのだ。

47 アヤ、女性、28歳、ブラジル生まれ、日本の公立学校を経て、ブラジルの私立高校へ、

日本語でインタビュー

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アヤ:あと,テレビを見るなら日本のドラマです。そのためにも日本語が必要で。ブラジル のはどこか自分にあわないんですよね。いまは日本のドラマみれるじゃないですか。イン ターネットとかで。だから普段は日本と関わることが多いですよね

このように日本のテレビ番組などを通じて,言語力はいまでも維持されている。そして日 本語学校の先生になろうと考えたこともあるが,日本語教師の給与は低く生活していけない ことから諦めたという。このまま日本語を忘れないように努力しながら,ブラジルでの就職 活動を頑張りたいと語った。

レアンドルの生活史から48

両親のデカセギを理由に,レアンドルは2歳半で日本へと渡った。渡日前のブラジルにつ いては覚えていない。幼稚園を経て小学校 3 年生まで日本の公立学校に在籍した。運動会 や夏祭りなどのイベント,友達と一緒に遊んだことなど,日本の学校のことが一番の思い出 である。「楽しかったですね。ブラジルとは違いますからね」というように,レアンドルはブ ラジルと日本の良さを比較しながら語ることが多い。

小学校3年生を終えるころ,母親の意向でブラジル人学校へと転校することになった。レ アンドルは転校したくなかったが,母親からブラジルに帰るための準備だと言われたので納 得するほかなかった。ポルトガル語ができなかったため,ブラジル人学校に通うことは嫌だ ったが,一生懸命勉強を続けた。レアンドルの中学校進学にあわせて,家族はブラジルへと帰 国した。

レアンドル:うれしくもなかったんだけど,なんていうの,どんなふうかわからなかったから ね。ドキドキはしていたけど,あまりうわーうれしいなって感じでしたね

と語るように,ブラジルの生活がイメージできないという不安はあったが,帰国に驚くこ とではなかった。ブラジルに帰国後,地元の私立中学校へと入学した。学校生活全般で苦労 することはなかった。ブラジル人学校に 3年間通っていたこともあり,ポルトガル語を充分 話すことができたからである。強いて言えば「ルールの違いに戸惑う」ことはあったが,ブ ラジルにはブラジルのやり方があると思えば違和感なく過ごせた。

私立中学を経て,地域で一番の進学校である私立高校へと入学した。学年があがるにつれ 勉強は難しくなっていったが,高校進学までは教師である母親が勉強を厳しく教えた。レア ンドルは「厳しいくらいが好きなんです」という。レアンドルは自身が勉強について「怠 けてしまう」性格であるという。

48 レアンドル、男性、18歳、ブラジル生まれ、日本の公立学校、ブラジル人学校を経て、

ブラジルの私立高校へ、日本語でインタビュー