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中国における葬礼の地域差と歴史的変化ー伝統の継 承と変容ー

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Academic year: 2022

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(1)中国における葬礼の地域差と歴史的変化ー伝統の継 承と変容ー 著者 著者別表示 雑誌名 学位授与番号 学位名 学位授与年月日 URL. 山本 恭子 Yamamoto Kyoko 博士論文本文Full 13301甲第4306号 博士(文学) 2015‑09‑28 http://hdl.handle.net/2297/43786. Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja.

(2) 中国における葬礼の地域差と歴史的変化 -伝統の継承と変容-. 山本. 恭子. 平成 27 年 9 月.

(3) 博 士 論 文. 中国における葬礼の地域差と歴史的変化 -伝統の継承と変容-. 金沢大学大学院人間社会環境研究科 人間社会環境学専攻. 学籍番号. 0721072714. 氏名. 山本. 恭子. 主任指導教員名. 岩田. 礼.

(4) 目次. 第一章. 序論. 1. 1.目的と手法. 1. 2.章立てと使用テキスト. 4. 3.地方志の資料的特徴. 6. 4.表記について. 8. 第二章. 文献からみる中国の葬礼-古礼から伝統葬礼まで. 1.『儀禮』における葬礼. 9 9. 2.朱熹『家禮』. 12. 3.『家禮』における葬礼. 12. 4.邱濬『文公家禮儀節』. 14. 5.地方志(旧志)にみる『家禮』、『文公家禮儀節』の影響. 17. 6.当代地方志(新志)における伝統葬礼. 22. 6.1.死亡当日(一日目). 23. 6.2.第二日目以後. 26. 6.3.出棺前日. 28. 6.4.出棺、埋葬. 28. 6.5.埋葬後. 29. 7.小結 第三章. 30 死者の清めと更衣に関わる習俗の変容. 1.「穿壽衣」・「買水」・「淨面」. 39 41. 1.1.「穿壽衣」. 41. 1.2.「買水」. 48. 1.3. 「淨面」. 57. 1.4.「穿壽衣」、「買水」、「淨面」民俗地図からの考察. 61. 2.「沐浴」と「淨面」. 63. 2.1.「沐浴」の形態. 64. 2.2.「沐浴」の変化. 69. 2.3.「沐浴」と「淨面」:民俗地図による考察. 71. 第四章. 「招魂」・「報廟」習俗の変容. 77. 1.「報廟」. 77. 2.「報廟」の行き先. 81. 3.「復」と「招魂」. 84. 4.廟で行われる「招魂」. 86.

(5) 5.近世華北における「招魂」の変容と「報廟」の起源. 91. 6.小結. 96. 第五章. 現代中国における葬礼習俗の変容と伝統継承の担い手. 100. 1.当代地方志(新志)における江蘇省北部地域の伝統葬礼. 101. 2.江蘇省北部地域における殯葬改革. 103. 3.江蘇省北部地域における葬礼の現状. 105. 3.1.死亡前、「穿壽衣」. 106. 3.2.葬礼準備. 107. 3.3.「報喪」. 112. 3.4.「報廟」. 112. 3.5.火葬. 113. 3.6.入棺. 116. 3.7.「開弔」、「辭靈」. 117. 3.8.「送盤纏」. 117. 3.9.出棺、埋葬. 118. 4.伝統葬礼の伝承とその担い手. 121. 5.小結. 124. 第六章. 結論. 130. 参考文献一覧. 136. 文献調査用当代地方志一覧. 144.

(6) 第一章. 序論. 1.目 的 と 手 法 古来より人は死者に対し礼を尽くしさまざまな儀式を行ってきた。 一連の儀式は遺された家族、親族らによって執り行われる。中国人社 会において、葬礼は子孫が死者に対して最後の孝養を尽くす機会と考 えられてきた。 葬礼はまた漢民族の死生観、霊魂観を反映している。人の魂につい て『禮記』郊特牲篇には、次のように記されている。. 魂氣歸于天,形魄歸于地。 [魂 気 は 天 に 帰 り 、 形 魄 は 地 に 帰 る 。 ]. 人は「魂気」と「形魄」という二つの魂から成っており、死後、そ れぞれが天と地に分れて帰るとされている。天に帰るという「魂気」 は陽の気であり、精神を司る魂である。地に帰るとされる「形魄」と は陰の気であり、身体を司る魂を指している。 大 形 徹 は 、死 の 瞬 間 に な に か が 離 れ て 行 き 、こ の「 離 れ て い く も の 」 を 古 代 中 国 で は 「 魂 」 と 呼 ん だ と す る (2000:12)。 魂 が 身 体 か ら 離 れ る こ と は 死 を 意 味 す る た め 、古 礼 で は 、呼 吸 停 止 後 す ぐ に「 復 」( 即 ち「 招 魂 」、 下 文 第 四 章 参 照 ) の 儀 式 を 行 っ て 、 こ の 「 離 れ て い く も の 」 を 呼 び戻し、留めようとした。大形はさらに「人が魂の存在を信じ、死後 も魂が存続すると考えたとき、埋葬の習慣がはじまり、その後の喪葬 制 度 へ と 連 な っ て い く 」 ( 大 形 徹. 2000:14) と い う 。 渡 邊 欣 雄. (1991:159-162)は 、人 は 死 ぬ と「 鬼 」と な る こ と が 原 則 で あ る が 、祭 祀 を行えば人に対して祟ることはないとする。死後、祀られることのな い霊魂は「鬼」となり、それらは人に対して祟りを及ぼし、害をもた ら す 。蜂 屋 邦 夫 も ま た 、 「死生観の問題は鬼神に対する対処法と密接に 関 わ る こ と で あ る 」 (2009:137)と 指 摘 す る 。 即 ち 、 遺 さ れ た 子 孫 が 、 供物を捧げ、祭祀を行うことは、死者の霊魂が「鬼」となって生きて 1.

(7) いる自分たちに害を及ぼすことがないようにするためなのである。 一方、 「 形 魄 」す な わ ち 身 体 に 宿 る 魂 は「 土 に 帰 る 」こ と に よ り 平 安 を得る。漢民族は、他郷で死亡した場合であっても可能な限り中国の 故郷の地に埋葬され、 「 入 土 為 安 」(故 郷 の 土 に 入 る こ と で 安 寧 を 得 る ) の思いを遂げたいと考えている。そのために棺を故郷に送ることは、 「 戦 前 の 中 国 で は 一 般 的 に 行 わ れ て い た 」 (樋 泉 克 夫 2008:39)と い う 。 遺 体 を 納 め た 棺 を 故 郷 に 送 る た め 、 専 門 業 者 (運 棺 業 者 )が 香 港 や 華 僑 居住地域及び中国各地に存在し、その業務を請け負った。子孫に経済 的 余 裕 が な い 場 合 は 、相 互 扶 助 組 織 で あ る 同 郷 会 館 、同 姓 会 館 ( 宗 親 会 館 )、 同 業 会 館 が 一 時 的 な 棺 の 保 管 、 運 棺 に 利 用 さ れ た と い う (樋 泉 克 夫 2008:39-54)。遺 さ れ た 子 孫 に と っ て は 、棺 を 故 郷 に 送 り 、そ の 地 に 埋葬することが死者の「形魄」に対して為すべきことだと認識されて いたのである。 死後の世界は、 「人間界からの資材供給と贈物によって成立している」 ( 渡 邊 欣 雄 1 9 9 1 : 1 8 6 ) と さ れ る 。二 階 堂 善 弘 ( 2 0 0 9 : 1 4 6 ) は 、死 者 に 供 物 を 捧げたり、紙銭を燃やすことについて、それらの物は消滅することに よ っ て 、あ の 世 に 転 送 さ れ る と い う 。葬 礼 の 際 に 紙 銭 や 紙 製 の 馬 や 牛 、 車、家屋、家財道具等を燃やすという習俗は現在も盛んに行われてい る (第 五 章 第 3 節 参 照 )。 燃 や す こ と に よ っ て そ れ ら は 冥 界 に 転 送 さ れ ることになり、それによって死後の世界での生活が成立していると考 えられているのである。 中国人は死によって「魂気」と「形魄」はそれぞれ天と地に分れて 帰るが、霊魂は死後も存在し、子孫からの祭祀を受ける必要があると 認 識 し て い る 。 遺 さ れ た 人 が 、「 魂 気 」 に 対 し て 祭 祀 を 行 い 、「 形 魄 」 を土に埋めることによって、死者の霊魂は平安を得る。祭祀を受けた 霊魂は、遺された者に害を及ぼすことはなく、子孫は繁栄していく。 そのために死という瞬間を挟んで子孫が一定の期間に行う祭祀が葬礼 である。逆に祭祀を受けられない霊魂は「鬼」となり、人に祟ること になる。 中国人の葬礼の形態は、 『 儀 禮 』、 『 禮 記 』に 定 め ら れ た 先 秦 の 古 礼 を 2.

(8) 源とし、南宋・朱熹『家禮』によって簡略化された規範が定められた とされる。朱熹『家禮』はその後、明・丘濬『文公家禮儀節』等によ る改編を経て、近世における士大夫の葬礼の規範となった。しかし、 民間では、必ずしもそのような規範とされた儀礼のみが行われていた わ け で は な い 。 渡 邊 欣 雄 ( 1 9 9 1 : 4 7 ) は 、「 複 雑 な 宗 教 典 範 を 知 ら な い 一 般の人びとは、自分の日常生活に密着した、独自の民俗宗教的世界観 をもっている」とする。民間では、渡邊が指摘する「独自の民俗宗教 的世界観」等の要因に依って儀礼、習俗が変容或いは形成され、独自 に地域的特徴を有する儀礼の体系を発展させていったと考えられる。 そうして各地域で発展した儀礼、習俗は一般に「地域により異なる」 とされるのみで、具体的な地域差及び歴史的変化の様相は明らかでは ない。 本論文は「伝統の継承と変容」をサブテーマとするが、ここでいう 「伝統」とは、先秦の古礼を指すのではない。上述のように、近世に おいて朱熹『家禮』は士大夫の葬礼の規範とされた。本論文はそれを 参照点とするが、主な目的はその規範からの変容ないしは逸脱の解明 にある。 「 伝 統 葬 礼 」と い う 時 、本 論 文 で は 清 末 か ら 民 国 期 に か け て 民 間で行われていた葬礼を指す。 本論文は中国における葬礼の地域差と歴史的変化の様相を、主に中 華人民共和国で出版された当代地方志に基づいて明らかにする。共産 党 政 権 下 の 中 国 で は 、土 葬 の 禁 止 、火 葬 の 推 進 等 、葬 礼 習 俗 の 改 革 (「 殯 葬 改 革 」と 称 さ れ る ) が 行 わ れ て い る 。当 代 地 方 志 は 殯 葬 改 革 以 前 に 行 われていた葬礼を、 「 伝 統 葬 礼 」、 「 伝 統 喪 礼 」、 「 伝 統 的 喪 葬 儀 式 」等 と 呼んでいる。本論文はそれに倣う。また、現代中国の関連文献は、遺 体 に 対 す る 処 置 や 、親 族 の 服 喪 、守 霊 、弔 問 に か か わ る 儀 式 を「 喪 礼 」、 出棺、埋葬にかかわる儀式を「葬礼」と呼んで区別することがある。 本論文では、 「 喪 礼 」、 「 葬 礼 」を 合 わ せ 、人 の 死 の 前 後 か ら 埋 葬 を 経 て 周年の祭祀を行う一連の儀礼を「葬礼」とする。 本論文はまた、そのような伝統葬礼が今日どのように継承され、ど のような変容を遂げているかを江蘇省北部地域で実施した現地調査に 3.

(9) 基づいて報告する。. 2.章 立 て と 使 用 テ キ ス ト 第 二 章 で は 『 儀 禮 』、『 禮 記 』、 及 び 朱 熹 『 家 禮 』、 邱 濬 『 文 公 家 禮 儀 節』の葬礼形態を概観する。これらの文献については以下のテキスト を使用した。本文中で原文を引用する際は特に断らない限り、以下に 依るものとする。. ・『 儀 禮 』 士 喪 禮 ・『 儀 禮 』 既 夕 禮 ・『 儀 禮 』 士 虞 禮 ( 漢 ) 鄭 玄 注 1 9 5 9 永 懐 堂 本 影 印 『 儀 禮 鄭 注 』, 新 興 書 局 。 ・『 禮 記 』 喪 大 記 『景印文淵閣四庫全書』第一一六冊『欽定四庫全書 禮記注疏』 巻四十四、巻四十五 喪大記,臺灣商務印書館。 ・朱熹『家禮』巻四喪禮 『景印文淵閣四庫全書』第一四二冊『欽定四庫全書 家禮』巻四 喪禮,臺灣商務印書館。 ・丘濬『文公家禮儀節』巻之四喪禮 『 文 公 家 禮 儀 節 』巻 之 四 喪 禮,萬 暦 三 十 七 年 序,常 州 府 推 官 錢 時 , 名古屋蓬左文庫所蔵。. 各テキストについて参考とした校点本、及び翻訳本は以下の通りで ある。. ・『 儀 禮 』 士 喪 禮 、『 儀 禮 』 既 夕 禮 、『 儀 禮 』 士 虞 禮 池 田 末 利 1976『 儀 禮 Ⅳ 』 , 東 海 大 学 出 版 会 。 池 田 末 利 1977『 儀 禮 V』 , 東 海 大 学 出 版 会 。 川 原 寿 市 撰 述 1975『 儀 礼 釈 攷 』 第 9 冊 , 朋 友 書 店 。 川 原 寿 市 撰 述 1975『 儀 礼 釈 攷 』 第 10 冊 , 朋 友 書 店 。 川 原 寿 市 撰 述 1976『 儀 礼 釈 攷 』 第 11 冊 , 朋 友 書 店 。. 4.

(10) 李 學 勤 主 編 1999『 儀 禮 注 疏 』 十 三 經 注 疏 標 點 本 , 十 三 經 注 疏 整 理 委員會,北京大学出版社。 楊 天 宇 2004『 儀 禮 譯 注 』 , 上 海 古 籍 出 版 社 。 ・『 禮 記 』 喪 大 記 竹 内 照 夫 1977『 礼 記 』 新 釈 漢 文 大 系 第 28 巻 , 明 治 書 院 。 楊 天 宇 2 0 0 4 『 禮 記 譯 注 』, 上 海 古 籍 出 版 社 。 ・朱熹『家禮』喪禮 朱 傑 人 ・ 嚴 佐 之 ・ 劉 永 翔 主 編 2002 『 朱 子 全 書 』 第 七 冊 , 上 海 古 籍 出版社。 Ebrey,Patricia Buckley 1991, Chu Hsi's Family Rituals : A. Twelfth-Century. Chinese. Manual. for. the. Performance. of. Cappings, Weddings, Funerals, and Ancestral Rites, Princeton University Press.. 朱 熹『 家 禮 』は 士 大 夫 が 儀 礼 を 行 う 際 の 規 範 と さ れ た 。明 代 、清 代 、 民 国 期 に 刊 行 さ れ た 地 方 志 の 記 述 に 拠 っ て 、近 世 中 国 社 会 に お け る『 家 禮』の影響力を検証する。 次に当代地方志に記載された伝統的な葬礼習俗を『家禮』を参照点 として考察する。 第三章及び第四章では当代地方志の記述に『家禮』の規範から変容 或いはそこから逸脱した形態が現れる儀式、習俗を取り上げ、民俗地 図を作成する。作成した民俗地図から各儀式、習俗の地域的広がりと 歴史的変化の過程を推定する。 本 論 文 で は 、 W. A . グ ロ ー タ ー ス 神 父 の 提 唱 に な る 「 民 俗 地 理 学 」 ( f o l k l o r e g e o g r a p h y ) の 方 法 を モ デ ル と す る ( G r o o t a e r s e t a l . , 1 9 4 8 ,1 9 5 1 ) 。 こ れ は 方 言 地 理 学 と 同 様 に 、 地 理 的 分 布 (空 間 的 変 異 )が 歴 史 を 反 映 す るという考えに基づいている。得られたデータを地図上にプロットす ることで、共時的な地理的分布から歴史を再構成しようというもので ある。方言地理学が調査で得られた方言データを必要とするように、 本来、民俗地理学も調査が必要である。しかし、現在、伝統葬礼につ 5.

(11) い て は 、全 国 的 な 現 地 調 査 を 行 う 条 件 が な い 。 「 殯 葬 改 革 」の 推 進 に よ って伝統葬礼そのものが衰退したとされているからである。そのため 本 論 文 で は 、 1949 年 以 後 に 中 華 人 民 共 和 国 で 発 行 さ れ た 県 志 、 市 志 、 地 区 志 等 、 当 代 地 方 志 (所 謂 「 新 志 」 )を 基 礎 資 料 と し た 。 第五章は、現在の中国における葬礼の実態調査の結果である。筆者 が江蘇省北部地域で実施した聞き取り調査に基づいて、当代における 葬礼の実態を継承と変容の観点から明らかにするとともに、伝統葬礼 の担い手とその役割について述べる。 最後に第六章では各章の結果を整理し、総括する。. 3.地 方 志 の 資 料 的 特 徴 第三章、第四章において地図作成の基礎資料とした地方志について その資料的特徴をまとめておく。 現存する地方志は大きく二つに分かれる。一般に中華人民共和国成 立 前 に 刊 行 さ れ た も の を 「 旧 志 」、 以 後 に 刊 行 さ れ た も の は 「 新 志 」、 「当代地方志」と称される。 地方志は宋代にはその体裁が整い、地理以外に姓氏、人物、風俗と いう項目も加えられた。地方志の編纂が最も盛んに行われたのが清代 で 、 現 存 す る 地 方 志 の 約 八 割 を 占 め る と い う (来 新 夏 1995:215)。 山 根 幸 夫 ( 1 9 9 3 : 2 - 3 ) に よ る と 、明 代 の 地 方 志 発 行 数 は 、南 直 隷 ( 現 在 の 江 蘇 ・ 安 徽 ) 1 4 4 部 、北 直 隷 ( 河 北 ) 8 2 部 、河 南 8 0 部 、浙 江 7 9 部 、山 東 7 2 部 、 福 建 58 部 、 陝 西 53 部 の 順 に 多 い 。 清 代 に 発 行 さ れ た 4655 部 (う ち 県 志 3 3 4 5 部 ) で は 、直 隷 省 ( 河 北 省 ) 4 0 3 部 、四 川 省 3 7 3 部 、安 徽 省 3 6 3 部 、 山 東 省 346 部 、 河 南 省 318 部 、 山 西 省 312 部 、 浙 江 省 302 部 、 広 東 省 298 部 の 順 と な っ て い る 。民 国 期 に 発 行 さ れ た 地 方 志 は 368 部 (う ち 県 志 3 2 4 部 ) で あ る 。民 国 期 の 地 方 志 発 行 数 に は 省 に よ る 著 し い 差 は 見 ら れないという。 旧 志 は 地 域 に よ る 発 行 数 に 差 が あ る 他 、資 料 的 な 問 題 が 指 摘 さ れ る 。 山 本 英 史 (1998:9-14)は 旧 志 の 問 題 点 と し て 、 ① 体 裁 、 内 容 に 模 倣 傾 向 がある、②政治力、資金力、文化水準、蓄積史料、編纂伝統などの差 6.

(12) によって質量ともに地域的不均衡がある、③変化を意識せず、改訂に 熱心でない場合、前代のものが引用されてしまう、④内容に偏りがあ る (今 日 的 観 点 か ら 含 ま れ る べ き 内 容 が 記 載 さ れ て い な い )、 ⑤ 数 字 デ ータは実態に即していないものが少なくない、と指摘する。実際、刊 行年代の異なる同地域の地方志を比べてみるとまったく同文であると ころや、引用された記述の一部が削除或いは付加されているところが 見られる。また、記述内容は編著者である当該地域の士大夫により恣 意的に取捨された可能性も否めない。旧志が地域の実態を正確に記録 するというよりは、上からの命により編纂されるものであるが故の美 化が施されている場合もあろう。また各地方志による情報量には差が ある。このように旧志から得られる情報を資料として用いるには留意 すべき点がある。しかし、現在のところ明代、清代、民国期の葬礼に ついて地域、年代を特定できる全国規模の資料として旧志を活用する ことは欠かせない。 酈 家 駒 (1995)に よ れ ば 、 中 華 人 民 共 和 国 成 立 後 、 1956 年 に は 国 務 院 科学企画委員会で方志編纂が重点項目の一つとされ、中国科学院哲学 社 会 科 学 学 部 (中 国 社 会 科 学 院 の 前 身 )と 国 家 檔 案 局 の 共 同 提 携 で 「 方 志 小 組 」 が 設 置 さ れ た 。1957 年 に は 全 国 人 民 代 表 大 会 、及 び 政 治 協 商 会議で、方志の編纂が国家的事業として推進された。その後、文化大 革命の時期には方志の編纂活動は中断される。文化大革命が終結し、 1980 年 代 に な る と 各 省 、 市 、 自 治 区 、 県 で は 地 方 志 編 纂 、 出 版 活 動 が 活発に行われるようになった。当代地方志編纂に当たっては前代の引 用 、書 き 写 し を 改 善 、執 筆 者 、編 纂 者 の 水 準 を 向 上 さ せ る こ と 、評 議 、 審査制度の施行が重視された。当代地方志の執筆、編纂には専門の研 究機関、研究者など専門家が参加し、多くの原稿は評議、審査された 上で、修正され、最終原稿は地方志編纂委員会に送付され、省の手配 で専門家の審査を受けて正式に出版が許可されるという。 地方志に記載される内容は各地域ともほぼ同様の形式をとっている。 山本英史によれば「 、清初の康熙年間において中央が一統志の編纂に備 えて各省に通志の作成を命じた際、その体裁を順治『河南通志』に統 7.

(13) 一する旨が通達され、その後府州県の各志もそれに準拠する傾向を持 っ た 」 (1998:7)こ と が そ の 一 因 で あ る と い う 。 こ の 形 式 は 清 代 の み な らず民国期、さらに当代地方志にも受け継がれている。 本 論 文 に 関 わ る 葬 礼 は 「 風 俗 」、 「 民 俗 」項 目 に 分 類 さ れ る 。 「 風 俗 」、 「 民 俗 」は 、 「 歳 時 習 俗 」と い う 年 中 行 事 に 関 わ る 習 俗 と 、 「禮儀習俗」 或 い は 「 人 生 儀 禮 」 と い う 「 婚 嫁 」、「 喪 葬 」、「 生 育 」、「 慶 壽 」 に 関 わ る習俗に分かれる。. 4.表 記 に つ い て 本論文では中国語文献書名、引用文、地名、習俗名称については繁 体字で表記する。引用文に訳を付す際は、[. ]で 括 り 、 原 文 の 後 に 記. す。 旧志の引用には本文の前に省名、書名、刊行年を挙げる。明代、清 代 、民 国 期 の 地 方 志 の う ち 、筆 者 が 目 睹 し 得 な か っ た も の は 、丁 世 良 ・ 趙 放『 中 国 地 方 志 民 俗 資 料 彙 編 』所 収 の も の を 参 照 し た 。以 下 で は『 民 俗資料彙編』と略称し、引用の際は参照頁数を示す。 当 代 地 方 志 の 引 用 に 際 し て は 省 名 、 書 名 、 発 行 年 (西 暦 )、 参 照 頁 数 を挙げる。. 8.

(14) 第二章. 文献からみる中国の葬礼-古礼から伝統葬礼まで. 本 章 で は ま ず 、『 儀 禮 』、『 禮 記 』 と 朱 熹 『 家 禮 』 を 中 心 に 古 代 及 び 近 世 の 葬 礼 を 概 観 す る 。 次 に 明 代 、 清 代 、 民 国 期 の 地 方 志 (旧 志 )を 資料として、地方における『家禮』の受容とそれからの変容ないし は 逸 脱 の 様 相 に つ い て 考 察 す る 。 最 後 に 当 代 地 方 志 (新 志 )の 記 載 に 基づき、伝統葬礼の諸相を『家禮』との関係に考慮しながら検討す る。ここでいう「伝統葬礼」とは、第一章で述べたように、おおよ そ清末から民国期にかけて民間で行われていた葬礼を指す。. 1.『 儀 禮 』 に お け る 葬 礼 『儀禮』本文は儀式を行う順序に従って記されている. 1. 。. (図. 1). は『儀禮』士喪禮、既夕禮、士虞禮の各篇に記された葬礼の流れを 死亡時から時間軸に沿って示したものである。. 9.

(15) (図 1)『 儀 禮 』 に お け る 葬 礼. 呼吸 停止. 復. 一日目. 二日目. 三日目. 四日目. 埋葬まで. 楔歯 綴足. 衣、絞、 衾、牀を並 べる. 斂衣を並 べる. 成服. 朝夕哭奠. 沐浴. 小斂. 肂(棺を殯. 飯含. 代哭. 朔日の奠. するため の穴) を掘. る. 葬の場所 を筮う. 襲. 棺を堂に 入れる. 槨、明器 を作る. 銘を作る. 大斂. 重を立て る. 殯(かりも がり). 埋葬前日. 埋葬日. 埋葬後. 一周年. 二周年. 殯を啓く. 重を道に寄 せる. 虞祭. 小祥. 大祥. 柩を祖廟 に遷す. 車馬、明 器、柩が墓 へ行く. 卒哭. 賓が賵奠 賻を贈る. 柩、明器を 墓穴に下す. 祔. 代哭. 反哭. 禫. 呼吸が停止すると「復」を行い死者の魂を呼び戻そうとする。復 を行っても蘇生しなければ、死亡が確定する。 そ の 後 、 遺 体 へ の 処 置 が 行 わ れ る 。「 楔 歯 」 ( 口 が 閉 じ て し ま わ な いように. 口 に 匙 を 入 れ る ) を し 、「 綴 足 」 ( 足 が 曲 が ら な い よ う に す. る ) を 行 う 。「 沐 浴 」を し て 遺 体 を 洗 っ た 後 、米 と 貝 を 口 に 入 れ る「 飯 含」を行う。次に顔や手を覆い、衣を着せる「襲」が行われる。遺 体には衾が掛けられる。 「 堂 」 ( 家 の 中 央 の 建 物 ) に は 帷 を 張 る 。「 銘 」 [ 長 さ 二 尺 、 幅 三 寸 の緇. ( く ろ ぎ ぬ ) の 幡 で あ る 。「 某 氏 某 の 柩 」 と 書 き 、 竹 竿 に さ し て. 堂 の 階 段 の 上 に 置 く ]を つ く り 、 死 者 の 魂 の 依 り 代 と し て 「 重 」 (木 製 で 左 右 に 器 を 掛 け た も の )を 庭 に 立 て る 。 10.

(16) 二日目、三日目には「斂」と称される儀式が行われる。堂には斂 に用いる衣服等を並べて準備する。二日目の「小斂」では複数枚の 衣服で遺体をくるみ、それらを束ねるために「絞」と呼ばれる布を 用いる。絞は一幅の布の両端を三つに裂いたもので、遺体に重ねて かけられた衣服を束ねて括る。小斂の後、近親者が交代で哭する。 三 日 目 の 「 大 斂 」 の 前 に は 殯 ( か り も が り ) を す る た め の 肂 (穴 ) を掘る。遺体を棺に収め、蓋をした後、その穴に埋める。側には銘 が立てられる。 翌 日 (四 日 目 )、 家 族 、 親 族 は 喪 服 を 身 に つ け る 。 こ れ を 「 成 服 」 という。喪服については『儀禮』喪服篇に詳細な規定がなされてい る 。 喪 服 の 種 類 は 「 斬 衰 」、「 齊 衰 」、「 大 功 」、「 小 功 」、「 緦 麻 」 の 五 種 (「 五 服 」 )に 分 け ら れ 、 そ れ ぞ れ 死 者 と の 関 係 に よ っ て 着 用 す る 人と着用の期間が定められている。 成 服 以 後 、出 棺 、埋 葬 ま で の 間 、朝 夕 供 物 を 捧 げ て 哭 す る 。毎 月 、 朔 日 (陰 暦 一 日 )に も 同 様 に 祭 奠 す る 。 墓 所 、 埋 葬 日 は 占 い に よ っ て 決 め る 。 ま た 、 埋 葬 の 準 備 と し て 「 槨 」 (棺 の 外 に か ぶ せ る 外 棺 )や 「 明 器 」 (埋 葬 時 に 副 葬 す る 物 品 )の 用 意 を す る 。 埋 葬 前 に は 殯 を し た 肂 (穴 )を 啓 き 、 柩 を 祖 廟 に 遷 し て 先 祖 に 埋 葬 の報告をする。埋葬前、弔問客は供物を贈る。近親者は交代で哭す る。 埋葬日、重は道の左側に寄せて立てかけられる. 2. 。車馬、明器、. 柩が墓所に運ばれる。埋葬した後、家族は家に戻り哭する。 埋葬後には「虞祭」と呼ばれる祭祀を行う。随時行っていた哭を 朝 夕 一 度 の 哭 へ と 変 え る 「 卒 哭 」 を 経 て 、 死 者 の 「 神 主 」 (位 牌 )を 先 祖 の 神 主 の 後 ろ に 加 え る 「 祔 」 を 行 う 。「 小 祥 」 ( 満 十 二 か 月 を 過 ぎ て 行 う 祭 ) 、「 大 祥 」 ( 二 十 五 か 月 目 に 行 う 祭 ) を 行 っ た 後 、「 禫 」 ( 喪 服 を 脱 ぎ 、通 常 の 生 活 に 戻 る 際 に 行 わ れ る 祭 ) を 経 て 服 喪 期 間 が 終 了 する。. 11.

(17) 2.朱 熹 『 家 禮 』 近世における士大夫の葬礼に大きな影響を与えたのは、南宋・朱 熹の著作とされる『家禮』である。 吾 妻 重 二 ( 2 0 0 8 : 1 0 0 - 1 0 1 ) に よ れ ば 、 朱 熹 は 『 儀 禮 』、 司 馬 光 『 司 馬 氏 書 儀 』や『 近 思 録 』に 収 め ら れ た 程 頤 の 言 等 に 影 響 を 受 け 、通 礼 、 冠 礼 、婚 礼 、喪 礼 、祭 礼 の「 礼 」の 規 範 を 記 し た『 家 禮 』を 著 し た 。 『 家 禮 』は 朱 熹 の 死 後 、1 2 1 1 年 に 門 人 の 寥 徳 明 に よ っ て 刊 刻 さ れ た 。 こ れ は 五 羊 本 と 称 さ れ る 。 1216 年 、 朱 熹 の 高 弟 ・ 黄 榦 黄 の 門 人 、 趙 師 恕 に よ っ て 五 羊 本 を 校 訂 し た 版 本 が 刊 刻 さ れ た 。1 2 3 1 年 頃 に は 楊 復 に よ る 附 注 本 が 刊 行 さ れ 、1 2 4 5 年 に 周 復 の 注 に よ る 刊 本 が 出 さ れ た。周復は、楊復の注を附録として巻末にまとめている. 3. 。. 『 家 禮 』の 作 者 に つ い て は 、清 代 、王 懋 竑 が 偽 書 説 を 唱 え て 以 来 、 朱 熹 で は な い と 信 じ ら れ て い た が 、上 山 春 平 ( 1 9 8 2 ) 、楊 志 剛 ( 2 0 0 1 ) 、 王 燕 均 、 王 光 照 (2002)、 吾 妻 重 二 (2003)ら は 詳 細 な 検 討 を 加 え て 王 説を否定している。 『 家 禮 』 の 成 立 に つ い て 吾 妻 重 二 ( 2 0 0 8 : 9 1 ) は 、「 朱 熹 の 『 家 禮 』 は当時の俗礼をまじえているものの、基本的発想が『儀禮』にあっ たこと、すなわち古礼への復帰という意図をもっていた」とする。 ま た 、 佐 々 木 愛 ( 2 0 0 9 : 4 6 ) は 、『 家 禮 』 の 執 筆 は 儀 礼 が 時 代 に 適 応 し なくなったためではなく、司馬光『書儀』等による儀礼に対する批 判を含んだものであったと指摘する。 『家 禮 』が 古 礼 を 踏 ま え た 上 で 、 複雑な儀式形態、儀式手順を簡略化したものといえる。. 3.『 家 禮 』 に お け る 葬 礼 『家禮』巻第四喪礼本文はそれぞれの儀式項目を記し、簡単な記 述 が な さ れ て い る の み で あ る 。周 復 の 注 に は 儀 式 を 執 り 行 う 主 人 ( 喪 主 )や 儀 式 を 進 行 す る 人 々 (祝 、 侍 人 、 執 事 者 等 )が 行 う 具 体 的 な 方 法 が 記 さ れ て い る 。 (図. 2)は 『 家 禮 』 に 記 さ れ た 儀 礼 を 死 亡 日 か ら 時. 間軸に沿って示している。. 12.

(18) (図 2)『 家 禮 』 に お け る 葬 礼. 呼吸 停止. 復. 一日目. 二日目. 三日目. 四日目. 埋葬まで. 喪主、主婦 護喪、司書 司貨を立てる. 小斂の衣 衾、牀、絞 を設ける. 大斂の衣衾 を並べる. 成服. 朝夕哭奠. 訃告. 小斂. 沐浴. 代哭. 棺を堂に 入れる. 襲. 朔日の奠. 大斂. 弔奠賻. 代哭を 止める. 墓地を開く. 飯含. 墓誌を刻む. 靈座・魂帛 を設ける. 明器、神主 を作る. 銘旌を立て る. 埋葬前日. 埋葬日. 埋葬後. 一周年. 二周年. 魂帛を車に のせる. 虞祭. 小祥. 大祥. 廳事に遷し 代哭する. 發引(出棺). 卒哭. 祖奠. 窆(埋葬). 祔. 奠、賻. 祠後土、題 主、成墳. 遷柩を告げ 柩を祖廟に 遷す. 禫. 反哭. 呼吸が停止するとすぐに「復」を行う。蘇生しなければ死が確定 することは『儀禮』と同様である。まず、葬礼を行うに際し必要な 役 割 (喪 主 、 主 婦 、 護 喪 、 司 書 、 司 貨 )に 当 た る 者 を 決 め る. 4. 。. 死 亡 後 、 遺 体 に 対 し て 「 沐 浴 」、「 襲 」、「 飯 含 」 を 行 う 。 遺 体 を 安 置 し た 広 間 に は 帷 を 張 り 、卓 と 椅 子 を 置 く 。こ れ を「 靈 座 」と い う 。 死 者 の 魂 の 依 り 代 は 『 家 禮 』 で は 「 魂 帛 」 と 称 さ れ る 。『 儀 禮 』 で は 木 を 組 ん で 器 を 懸 け た 「 重 」 が 用 い ら れ た が 、『 家 禮 』 の 「 魂 帛 」 は 白 絹 を 結 ん で 作 ら れ る 。魂 帛 は 靈 座 に 置 か れ た 椅 子 の 上 に 置 く 。「 銘 旌」には赤い絹布を用いる。布の幅は二尺、長さは官位によって異 な る が 、「 某 官 某 公 ( 無 官 の 者 は 生 前 の 名 称 ) の 柩 」 と 書 く 。「 銘 旌 」 13.

(19) は竹竿を用いて靈座の右に立て懸ける。 二日目に遺体を衣でくるみ絞で包む「小斂」を行う。三日目には 遺体を棺に納める「大斂」を行う。棺に納めた後、棺の蓋をして釘 を 打 つ 。『 儀 禮 』で は こ の 後 、堂 に 掘 ら れ た 肂 ( 穴 ) に 殯 を す る が 、『 家 禮』には殯についての記述は見られない。 四日目に「成服」を行う。喪服は基本的に『儀禮』の規範に倣っ ている。 埋葬は三か月を経た後に行われる。埋葬前には墓地の場所を選定 し、吉日を選んで墓穴を掘る。墓に入れる石に誌を刻む、明器や神 主を作る等の準備を行う. 5. 。. 埋葬前日、柩を動かすことを告げ、祖廟に遷す。その後、庭に遷 し、代わる代わる哭する。祖廟には供物を供える。弔問客は供物を 贈る。 柩を運び出すことは「發引」と称する。魂帛は祝が捧げ持って車 に乗る。主人と親族の男女は歩いてそれに従う。墓地に到着すると 柩の上に銘旌を置く。墓穴に柩を入れた後、明器、石碑を入れ、墳 墓 を 築 く 。「 題 主 」 を 行 う 。 埋 葬 後 に は 「 虞 祭 」 を 行 う 。「 柔 日 」 ( 十 干 の う ち の 乙 、 丁 、 己 、 辛 、 癸 の 日 ) に 「 再 虞 」 ( 二 度 目 の 虞 祭 ) を 行 い 、「 剛 日 」 ( 十 干 の う ち の 甲 、 丙 、 戊 、 庚 、 壬 の 日 ) に 「 三 虞 」 ( 三 度 目 の 虞 祭 ) を 行 う 。「 卒 哭 」 の 翌 日 、「 祔 」 を 行 う 。 「 小 祥 」 ( 一 周 年 祭 ) 、「 大 祥 」 ( 二 周 年 祭 ) を 行 う 。 家 族 は 飲 酒 や 肉 食 を 始 め 日 常 の 生 活 に 戻 る 。 大 祥 の 後 、 一 か 月 を 経 た 後 、「 禫 」 を 行 う。禫を行う日はその前月の下旬に卜して決める。. 4. 丘 濬 『 文 公 家 禮 儀 節 』 『家禮』はそれが刊行されただけでなく多くの注釈書や類書が出 版 さ れ 、 そ れ に よ っ て 広 く 普 及 し て い っ た と さ れ る 。『 家 禮 』 の 注 釈 書 や 類 書 が 数 多 く 発 行 さ れ た こ と に つ い て は イ ー ブ リ ー (1991a)に 詳しい. 6. 。中 で も 多 く の 版 本 が 刊 行 さ れ た の が 丘 濬『 文 公 家 禮 儀 節 』 14.

(20) である。 丘 濬 は 広 東 省 瓊 山 (現 海 南 省 )に 生 ま れ た 。 景 泰 五 年 (1454 年 )に 進 士 と な り 、 文 淵 閣 大 学 士 と な る 。 丘 濬 『 文 公 家 禮 儀 節 』 八 巻 は 1474 年、広東で初版が刊行され、その後も北京、福建、広東において再 版された。 丘 濬 が『 家 禮 』を 実 践 的 な マ ニ ュ ア ル と な る よ う 改 編 し 、 『文公家 禮 儀 節 』を 刊 行 し た 理 由 は そ の 序 文 に 著 さ れ て い る 。 『文 公 家 禮 儀 節 』 「序文」は、. 禮之在天下,不可一日無也。中國所以異於夷狄,人類所以異於 禽獸,以其有禮也。 [ 礼 は 天 下 に あ り 。一 日 と し て 無 く し て は な ら な い 。中 国 が 夷 狄 と異なり、人が禽獣と異なるのは、礼が有ることによる。]. という文に始まり、最後は以下のように結ばれている。. 濬生遐方,自少有志於禮學,有謂海内文獻所在,其於是禮,必 能家行而人習之也。及出而北仕於中朝,然後知世之行是禮者盖 亦鮮焉。詢其所以不行之故,咸曰禮文深奧而其事未易以行也。 是以不揆愚陋,竊取文公家禮本註,約為儀節而易以淺近之言, 使人易曉而可行,將以均諸窮郷淺學之士。若夫通都鉅邑明經學 古之士,自當考文公全書,又由是而上進於古儀禮云。 [ 濬 は 遠 方 に 生 を 受 け 、幼 い こ ろ よ り 礼 学 を 志 し た 。天 下 に は 至 るところに文献が有り、そこでは家で礼が行われ、人は必ず之 を習うことができると言う人がいる。家を出て北方に向かい、 朝廷に出仕してから、礼を行う者が少ないことを知った。礼を 行わない訳を訊ねると皆、礼文は深奥であり、行うことが難し いためであるという。そこで愚陋を顧みず、文公家禮の本文と 注をとりこんで儀節としてまとめ、分かりやすい言葉にかえて 人が理解しやすく、行うことができるようにし、片田舎の浅学 15.

(21) の士におし広めたい。もし都市や大きな村の経学に明るい士で あれば、自ら文公の全書を研究し、そこから上に古の儀礼につ いて研究を深めていくべきである。]. 礼に対する深い思いを持っていた丘濬は既に『家禮』に基づいて 儀礼が行われていると考えていたようである。しかし、実際に海南 島を出てみると必ずしも彼が考えていたように実践されていない状 況があった。礼に従って行うべきものであると考えていた彼はいか にすればそれを皆が実践できるのかを探った結果、 「わ か り や す い 言 葉」を用いることで、広範な人々に礼を理解し実践させることが可 能 だ と 考 え た 。『 家 禮 』の 普 及 と そ の 儀 礼 の 実 践 を 促 す こ と を 目 的 と して編まれたのが丘濬『文公家禮儀節』である. 7. 。. 『文公家禮儀節』巻四喪礼の本文は『家禮』巻四喪礼の記述に従 っている。各儀礼には『家禮』本文の後に解説、即ち「儀節」を加 え、それぞれの儀礼を行うにあたり必要な物品についてわかりやす く配列して記載する等、実際に葬礼を行う際の手引書として用いる ことができるよう配慮されている。 各礼の文末に添えられた「餘註」には『家禮』本文に付された注 の一部が入れられている。さらにその後に「考證」として『家禮』 本 文 、 及 び 注 に は な い 『 儀 禮 』、『 禮 記 』 に 依 る 儀 礼 に つ い て 説 明 を 加 え て い る 。 佐 々 木 愛 (2009: 50)に よ れ ば 、 こ れ ら 古 代 の 礼 に 基 づ く項目は実践的ではないが、 「 本 来 は 実 践 さ れ 、尊 重 さ る べ き 古 礼 で ある、という認識は、丘濬も朱熹と同様であるから、余注として残 されている」という. 8. 。. 『文公家禮儀節』の出現は『家禮』の普及に大きな役割を果たし た。明代、清代の士大夫の儀礼は『家禮』によって行うことが規範 と さ れ て い く 。 小 島 毅 (1996:55)は 、 士 大 夫 の 習 俗 の 変 化 は 朱 熹 『 家 禮 』 刊 行 後 す ぐ 起 こ っ た わ け で は な く 、『 文 公 家 禮 儀 節 』 が そ の 転 換 点であると指摘している。明代に『家禮』によって儀礼を行うこと が 規 範 と み な さ れ た こ と に つ い て 楊 志 剛 ( 2 0 1 2 : 9 7 ) は 、『 大 明 集 禮 』 16.

(22) に お い て 冠 婚 喪 祭 の 儀 礼 の 多 く を 『 家 禮 』 か ら 取 り 入 れ て お り 、「 国 家制度のレベルから『家禮』を肯定、踏襲していた」とする。吾妻 重 二 ( 2 0 0 8 : 1 0 5 ) は 、『 文 公 家 禮 儀 節 』 は 、『 家 禮 』 が 国 家 的 威 信 を 背 景に諸階層に広く受け入れられていく中、明代の社会状況に合わせ て『家禮』を改編したものであると指摘している。. 5 . 地 方 志 ( 旧 志 ) に 見 る 『 家 禮 』、『 文 公 家 禮 儀 節 』 の 影 響 明 代 、 清 代 、 民 国 期 に 刊 行 さ れ た 地 方 志 (旧 志 )の 「 喪 葬 」 に は し ば し ば 「 家 禮 に 遵 う 」、「 喪 礼 は 文 公 家 禮 に よ る 」 と い う 一 文 が 見 ら れる. 9. 。こ れ ら の 旧 志 か ら は『 家 禮 』及 び『 文 公 家 禮 儀 節 』が 明 代 、. 清 代 、民 国 期 に 広 く 普 及 し て い た 様 子 を 窺 う こ と が で き る 。無 論「『 家 禮』に遵う」という文言が用いられているとはいえ、当該地域の実 態を反映しているとは言い切れない。士大夫が『家禮』に基づいて 儀礼を行うことは規範とされたためである。また、地方志の編著者 で あ る 士 大 夫 が 地 方 志 を 編 纂 す る 際 、 そ の 権 威 を 借 り て 「『 家 禮 』 に 遵う」という一文が加えられたという可能性も否めない。これらの 点に留意する必要はあるが、地方志に『家禮』について言及がなさ れているのは、当該地域において相応の影響を受けていたとみてよ いだろう。本節では旧志の記述を確認しながら『家禮』の影響が広 汎にわたっていたことと、その様相の変化について検証する。 ま ず 「『 家 禮 』 に 遵 う 」 と す る 例 を 挙 げ る 。. 安 徽 省 『 六 安 州 志 』 (清 乾 隆 十 六 年 ) 喪禮,士大夫遵《家禮》行. 1 0. 。. [喪 礼 、 士 大 夫 は 『 家 禮 』 に 従 っ て 行 う 。 ]. 四 川 省 『 青 神 縣 志 』 (清 乾 隆 二 十 九 年 ) 喪事俱遵家禮。衣衾用布. 1 1. 。. [喪 の 事 は み な 家 禮 に 従 う 。 衣 衾 に は 布 を 用 い る 。 ]. 17.

(23) 河 北 省『 平 郷 縣 志 』( 清 同 治 七 年 ) (『 民 俗 資 料 彙 編 』 :華 北 巻 :536) 多遵《家禮》,不作浮屠事。 [多 く は 『 家 禮 』 に 従 い 、 仏 事 を 行 わ な い 。 ]. また邱濬『文公家禮儀節』に従うという記述も見られる。. 浙 江 省 『 義 烏 縣 志 』 (清 嘉 慶 七 年 ) 士大夫家及鉅室遵家禮儀節行之. 1 2. 。. [士 大 夫 や 富 豪 の 家 で は 家 禮 儀 節 に 従 っ て こ れ を 行 う 。 ]. 広 西 省『 欽 州 志 』( 清 道 光 十 四 年 ) (『 民 俗 資 料 彙 編 』中 南 巻 : 1 0 7 3 ) 士大夫悉遵邱濬儀節矣。 [士 大 夫 は 悉 く 邱 濬 儀 節 に 遵 う 。 ]. 『民俗資料彙編』所収地方志において葬礼に関して『家禮』に言 及がみられる地方志数と、 『 家 禮 』に 関 す る 記 述 の 出 現 率 は 以 下 の 通 り で あ る 。『 民 俗 資 料 彙 編 』に は 歳 時 習 俗 の み が 採 録 さ れ て い る 地 方 志も多い。表中の所収地方志数には葬礼に関する記載が採録されて いない地方志は含まない。. ( 表 1 )『 民 俗 資 料 彙 編 』 所 収 地 方 志 に お け る 『 家 禮 』 に 関 す る 記 述. 省名. 湖南 湖北 河南 安徽 海南 山西 四川 陝西 貴州 江西. 『家禮』 所収地方 『家禮』 記述出現 志数 記述有 率(%). 60 37 61 47 7 55 88 41 29 53. 46 24 35 25 3 23 36 15 10 17. 省名. 河北 江蘇 山東 広東 浙江 雲南 福建 広西 遼寧. 76.7 64.9 57.4 53.2 42.9 41.8 40.9 36.6 34.5 32.1. 18. 『家禮』 所収地方 『家禮』 記述出現 志数 記述有 率(%). 107 58 73 68 78 35 27 44 32. 32 16 20 17 19 8 6 9 5. 29.9 27.6 27.4 25.0 24.4 22.9 22.2 20.5 15.6.

(24) 『 家 禮 』に 関 わ る 記 述 の 出 現 率 が 過 半 数 を 超 え る の は 湖 南 、湖 北 、 河南、安徽の各省である。各地で地方志の編著に関わった士大夫た ちが『家禮』及び『文公家禮儀節』に従って葬礼を行うことは規範 であることを意識しており、その影響が及んでいることは明らかで ある。また、次に挙げるように『家禮』に則った儀礼を行うことは 士大夫家において重視されていただけでなく、庶民の家にも浸透し ていたことを示す記述も見られる. 1 3. 。. 河 南 省 『 獲 嘉 縣 志 』 (清 乾 隆 二 十 一 年 ) 士 庶 家 遵 文 公 家 禮,不 作 佛 事,其 用 浮 屠 者 不 過 十 之 一 二 云. 1 4. 。. [ 士 族 で も 庶 民 で も 文 公 家 禮 に 従 う 。仏 事 を 行 わ な い 。仏 教 を 用 いる者は十のうち一、二に過ぎないという。]. ところが地方志の中には『家禮』に従って行うというだけではな く 、『 家 禮 』 に 規 定 さ れ た 儀 式 か ら の 変 化 を 示 唆 す る も の も あ る 。. 浙 江 省 『 新 昌 縣 志 』 (明 萬 曆 七 年 ) 其 餘 大 率 用 文 公《 家 禮 》, 惟 不 行 小 斂 , 不 用 布 絞 之 制 稍 異 耳. 1 5. 。. [そ の ほ か は お お よ そ 文 公『 家 禮 』を 用 い て い る 。た だ 小 斂 を 行 わず、布絞の制を用いないことだけが少し違っている。]. 葬 礼 は 『 家 禮 』 に 従 う が 、 「 小 殮 」 は 行 わ れ ず 、 「 布 絞 」 (「 絞 」 を 用 い て 遺 体 を く る ん だ 衣 服 を 縛 る こ と ) は し な い と い う 。基 本 的 に は『家禮』に従って葬礼を行うとしながら、異なる部分があるとす る地方志を挙げる。. 浙 江 省 『 臨 海 縣 志 』 (清 康 熙 二 十 二 年 ) 喪禮,大概遵文公《家禮》,惟不行小殮,不用魂帛. 1 6. 。. [喪 礼 は お お よ そ 文 公『 家 禮 』に 従 う 。た だ 小 殮 は 行 わ ず 、魂 帛 は用いない。] 19.

(25) 江 蘇 省 『 江 都 縣 志 』 (清 乾 隆 八 年 刊 , 光 緒 七 年 重 刊 ) 士大夫家採用考亭《家禮》,惟大小殮制迥殊. 1 7. 。. [士 大 夫 の 家 は 考 亭『 家 禮 』を 用 い る 。た だ 大 殮 、小 殮 の 制 は 全 く異なる. 1 8. 。]. 四 川 省 『 彭 山 縣 志 』 (清 乾 隆 二 十 二 年 ) 家 禮 儀 制 , 士 大 夫 有 行 之 者 ,民 間 稱 家 有 無 。 (中 略 )大 小 殮 不 行 者 十之八九,行者十之一二焉. 1 9. 。. [ 家 禮 の 儀 制 に つ い て は 、士 大 夫 は こ れ を 行 う 者 が い る が 、民 間 は 家 産 の 状 況 に よ る 。 (中 略 )大 殮 、 小 殮 は 行 わ な い 者 が 十 の う ち八、九、行う者は十のうち一、二である。]. さらに『家禮』に従って儀礼を行うことはわずかであるとする地 方志もある。. 江 蘇 省 『 武 進 縣 誌 』 (清 乾 隆 三 十 年 ) 喪葬,視文公《家禮》僅十得二三耳. 2 0. 。. [喪 葬 で は 、文 公 『 家 禮 』に よ る も の は わ ず か に 十 の う ち 二 、 三 のみである。]. 山 西 省『 平 定 直 隷 州 志 』( 清 光 緒 八 年 ) (『 民 俗 資 料 彙 編 』華 北 巻 : 585-586) 是以朱子以古禮繁重,酌其可行者為《家禮》,而遵用者鮮。 [朱 子 は 古 礼 を わ ず ら わ し く 厄 介 な も の で あ る と 考 え 、 そ の 中 で行うべきものを酌みとって『家禮』をつくった。しかし、そ れを遵用する者は少ない。]. これらの記述は、『家禮』の規範が、地域によっては庶民のみな らず士大夫の中でも完全には遵守されていなかったことを物語る。 20.

(26) ま た 、『 家 禮 』 本 文 で は 仏 教 に よ る 儀 式 を 行 わ な い と す る 。. 不作佛事。 [仏 事 を 行 わ な い 。 ]. 付された周復の注は、仏教を葬礼に用いることを批判する宋・司馬 公の説を引いている. 2 1. 。葬 礼 で 仏 教 を 用 い る こ と に 対 し 朱 熹 、及 び. 周復は批判的であるが、実態としては既に儀礼に大きな影響力を持 っていたのであろう。以下に挙げるように『家禮』において「仏事 は行わない」とされていることを認識しながらも、葬礼では仏教に 依るとする地方志が散見される。. 四 川 省 『 江 津 縣 志 』 (清 乾 隆 三 十 三 年 ) 家禮載不作佛事,然郷俗多用之,不用則親族以為不孝. 2 2. 。. [ 家 禮 で は 仏 事 を 行 わ な い と 記 さ れ て い る 。し か し 郷 俗 で は 仏 事 を用いることが多く、用いなければ親族は不孝だとされる。]. 湖 北 省 『 谷 城 縣 志 』 ( 清 同 治 六 年 ) (『 民 俗 資 料 彙 編 』 中 南 巻 : 4 6 1 ) 士 族 多 遵 朱 子 《 家 禮 》。 ( 中 略 ) 齊 民 則 多 用 僧 道 , 誦 經 懺 悔 。 [士 族 は 朱 子 『 家 禮 』 に 遵 う 。 (中 略 )庶 民 は 僧 、 道 士 を 使 う 者 が 多 く 、 経 を あ げ て 懺 悔 す る ]。. 湖 南 省 『 武 陵 縣 志 』 ( 清 同 治 七 年 ) (『 民 俗 資 料 彙 編 』 中 南 巻 : 6 5 4 ) 喪祭,凡執親之喪,縉紳禮法家多循文公《喪禮》,其愚無知者 則 延 僧 道 殯 殮 , 誦 經 開 路 , 或 於 出 殯 徐 喪 後 作 佛 事 , 皆 謂 之 “建 道 場 ”。 [ 喪 祭 、お よ そ 親 の 喪 を 執 り 行 う に 、官 職 に あ る 者 は 文 公『 喪 禮 』 に従うことが多い。愚かで無知な者は僧道を招き殯殮し、経を あ げ て 開 路 (法 事 を 行 い 供 養 )す る 。 或 い は 出 殯 や 喪 明 け の 後 に 仏事を行う。これらを「建道場」という。] 21.

(27) 士族は『家禮』に従うが、庶民は仏教によって葬礼を行うと述べ ている. 2 3. 。地 方 志 の 編 著 者 で あ る 士 大 夫 に と っ て『 家 禮 』に 従 っ て. 葬礼を行うことは規範であり、実態はさておき、自分たちは「『家 禮』に従う」とすることが必要であったのだろう。しかし、地域内 では皆が一律に『家禮』に従い葬儀を行なっていたわけではなかっ た。『家禮』の儀礼が省略されることや、僧や道士による葬儀が行 われること等が、公の記録である地方志に記される状況であったこ とは、すでに民間では大きな広がりを見せていたことを窺わせるも のである。. 6.当 代 地 方 志 (新 志 )に お け る 伝 統 葬 礼 次に、当代地方志に記載された伝統葬礼について、その儀式形態 を朱熹『家禮』と対照しながら概観する。当代地方志における伝統 葬 礼 は 、「 旧 時 」、「 建 国 前 」、「 民 国 期 」、「 清 代 」 等 の 事 情 で あ る と 但 し書きがされているのが通例である。迷信的葬礼習俗の廃止、土葬 禁止等の「殯葬改革」が進められたためである。従って、下記は清 末から民国期に中国各地で行われていた葬礼ということになる。 (図 3)は 当 代 地 方 志 に 現 れ る 伝 統 葬 礼 の 流 れ を 時 間 軸 に 沿 っ て 図 示したものである。各地の葬礼はおおよそこのように進められる。 但し、この図は地域差がみられる習俗も最小公倍数的に取り込んで い る 。 例 え ば 、「 買 水 」 は 南 方 で し か 行 わ れ ず 、「 報 廟 」、「 淨 面 」 は 分布が北方に偏っている。また、名称は同じであっても儀式形態に 地 域 差 が み ら れ る こ と も あ る 。 例 え ば 、「 穿 壽 衣 」 は 死 者 に 「 壽 衣 」 を着せる時間について南北差がみられる。 「 招 魂 」、「 買 水 」、「 沐 浴 」、「 穿 壽 衣 」、「 報 廟 」、「 淨 面 」 に つ い て は第三章で詳しく論ずる。. 22.

(28) (図 3) 当 代 地 方 志 (新 志 )に お け る 伝 統 葬 礼 一日目. 沐浴. 招魂. 二日目以後. 買水. 死亡. 報廟. 戴孝. 淨面. 入殮 (入棺). (出棺前ま で続く). 穿壽衣. 指路. 沐浴. 出死星. 含口. 守靈 (出棺まで 続く). 蓋棺 報喪. 穿壽衣. 出棺前. 出棺前日. 弔喪. 家禮 辭靈. 埋葬準 備( 墓地 選択等). 送盤纏. 出殯・埋葬. (蓋棺) 出殯 (出棺). 送葬. 埋葬後. 復三. 七七. 百日. 一周年. 二周年. 三周年. 埋葬 三. 摔老盆. 成墳. 路祭. 6.1.死 亡 当 日 (一 日 目 ) 死 亡 前 に 沐 浴 と「 壽 衣 」、 「 送 老 衣 」、 「 殮 衣 」等 と 称 さ れ る 死 装 束 ( 以 下 、「 壽 衣 」 と す る ) へ の 着 替 え を 行 う と こ ろ が あ る 。 こ れ は 華 北 に 広 く 見 ら れ る 習 俗 で あ る が 、『 家 禮 』 の 規 定 に は 当 て は ま ら な い 。 死亡後すぐに死者の魂を呼び戻そうとする「招魂」を行う地域も ある。これは『家禮』の「復」に相当すると考えられる。山東、河 北 、遼 寧 の 各 省 で は 死 者 の 魂 が 西 方 に 向 か う よ う に 指 し 示 す「 指 路 」、 「 喊 路 」が 行 わ れ る と こ ろ も あ る. 2 4. 。ま た 四 川 省 に は 死 者 の 魂 が 天. に 上 る こ と を 助 け る た め に 屋 根 に 穴 を あ け る 「 出 死 星 」、「 戳 死 星 」、 「出煞」という習俗が行われる地域がある. 2 5. 。. 地 域 に よ っ て は 沐 浴 の 前 に 「 買 水 」、「 乞 水 」、「 請 水 」 等 と 呼 ば れ る 習 俗 を 行 う 。 死 亡 後 、「 孝 子 」 ( 死 者 の 息 子 ) 等 が 付 近 の 川 や 井 戸 へ 行き、水を汲む。この時、川や井戸に銭を投げ込む、紙銭を燃やす 等の行為を行う。そうすることにより川の神や井戸の神から水を買 うことになるとされているところもある。家に持ち帰った水は沐浴 23.

(29) に用いられることが多い。 臨終時或いは死亡後に死者の口中に物を含ませるところもある。 当 代 地 方 志 で は 「 含 口 」 、「 噙 口 」、「 含 金 」、「 飯 含 」 等 と 呼 ば れ る 習 俗 である。これは『儀禮』等の古礼における「飯含」に相当する習俗 で 、『 家 禮 』 本 文 、 及 び 注 で は 次 の よ う に 記 さ れ て い る 。. 乃飯含。. [乃 ち 飯 含 す る 。 ]. 主人哭盡哀,左袒,自前扱於腰之右,盥手,執箱以入。侍者 一人,插匙於米盌,執以從,置於尸西,以幎巾入,徹枕,覆 面。主人就尸東,由足而西,牀上坐,東面舉巾,以匙抄米, 實於尸口之右,並實一錢,又於左、於中,亦如之。主人襲所 袒衣,復位。 [主 人 は 哭 し 、哀 し み 尽 く す 。左 の 肩 を 肌 脱 ぎ 、前 か ら 腰 の 右 にはさむ。手を洗い、箱を持って入る。侍者の一人が、米碗 に 匙 を 挿 し て 、そ れ を 持 っ て 従 う. 2 6. 。遺 体 の 西 に 置 き 、幎 巾. (お お い 布 )を 持 っ て 入 り 、 枕 を 取 り 去 り 、 幎 巾 で 顔 を 覆 う 。 主人は遺体の東に近づく。足の方から西へまわり、牀の上に 座 り 、東 に 向 い て (顔 を 覆 っ て い る ) 巾 を 持 ち 上 げ る 。匙 で 米 を す く い 、遺 体 の 口 の 右 側 に 満 た す 、一 緒 に 銭 を 一 枚 入 れ る 。 又、左側、中央も同様にする。主人は肌脱ぎした衣を着て、 もとの位置に戻る。]. 『家禮』では米と銭を一枚口に含ませているが、当代地方志では 米、銭の他、金、銀、銅、珠玉、茶葉、糖等を口に入れる. 河 北 省 『 懷 安 縣 志 』 (1994:656) 氣絕後給死者口中放銅錢。 [息 を 引 き 取 っ た 後 、 死 者 の 口 の 中 に 銅 銭 を 入 れ る 。 ]. 24. 2 7. 。.

(30) 浙 江 省 『 青 田 縣 志 』 (1990:670) 含 口 銀 :將 一 點 銀 末 、 七 粒 米 、 七 片 茶 葉 用 紅 紙 包 好 放 在 死 者 口 內。 [含 口 銀 :少 量 の 銀 末 、 七 粒 の 米 、 七 片 の 茶 葉 を 赤 い 紙 に 包 ん で 死者の口の中に入れる。]. 『家禮』の儀式形態がそのまま継承されているわけではないが、 「死者の口に物を含ませる」という点では共通する。 遺 体 の 顔 は 黄 色 或 い は 白 い 紙 (「 蒙 臉 紙 」 と 称 す る )ま た は 布 で 覆 う。頭や手足を布や紙、真綿でくるむところもある。地域によって は「打狗餅子」と呼ばれる小麦粉で作ったものを壽衣の袖に入れた り、死者の手に持たせたりする. 2 8. 。. 「銘旌」を立てる。銘旌は赤い絹布の旗状で、死者の姓名、官職 名、享年等が書かれる。これは『家禮』に見られる「銘旌」と同様 の形態である。銘旌は出棺の際に墓地へ運ぶ。 以 上 の 遺 体 の 安 置 か ら 遺 体 の 沐 浴 、「 穿 壽 衣 」 等 の 儀 式 を 「 小 殮 」 と呼ぶところもある. 2 9. 。. 死亡後、廟神に家族の死を知らせに行く「報廟」が行われるとこ ろがある。報廟は『家禮』には見られない習俗である。報廟の行く 先は土地神が祀られている土地廟であるところが多い。 親族、知人に訃報を知らせることを「報喪」という。死の知らせ をする報喪は二種類に分かれる。一つは死の当日に近所や近くの親 族友人に知らせるもので、爆竹、銃、銅鼓、銅鑼等を鳴らす。もう 一つは、入棺日時を決定した後、家族が親族の家に行き、口頭で知 らせる。母方の実家、叔父伯父の家には必ず長男が行くというとこ ろもある。 報喪に行く際は喪服を着て行き、哭とともに喪を告げる、喪服は 着用せず「孝帽」のみを被っていく、必ず傘を携えていく等様々な 形態が見られる。傘を携えて行く習俗は江蘇省南部、浙江省に見ら れる. 3 0. 。孝 子 が 傘 を 携 帯 す る の は 、傘 が 父 母 を 象 徴 的 に 表 す も の で 25.

(31) あると考えられているためである。 家族、親族はそれぞれ死者と自身との関係によって定められた喪 服 を 着 る 。 喪 服 を 身 に つ け る こ と を 「 戴 孝 」、「 変 白 」、「 成 服 」 と い う。 喪 服 は 「 孝 服 」、「 孝 衣 」 と も 呼 ば れ る 。 白 い 麻 布 で 作 ら れ 、 足 に は 白 靴 或 い は 草 履 を 履 き 、 麻 縄 や 苧 (か ら む し )縄 、 藁 縄 で 腰 を く く る 。 親 疎 に よ り 斬 喪 、 齊 喪 、 大 功 、 小 功 、 緦 麻 の 五 種 類 の 喪 服 (「 五 服 」 と 称 す る )を 身 に つ け る と こ ろ も あ る. 3 1. 。名称や死者との親疎. 関係により服装が定められていることは『家禮』に定められた喪服 の制が継承されたと考えられる。. 6.2.二 日 目 以 後 遺 体 を 棺 に 入 れ る 儀 式 は 「 入 殮 」、「 入 棺 」、「 收 殮 」、「 上 材 」 等 と 呼 ば れ る 。 入 棺 の 日 時 は 「 風 水 師 」 (「 風 水 先 生 」、「 陰 陽 先 生 」 と も 呼 ば れ る )が 死 者 の 生 没 年 月 日 時 に よ っ て 決 め る と こ ろ も あ る 。 入棺前の準備として棺の中には遺体から出る体液等を吸収させる ための草木灰や石灰、茶葉、木炭等を入れる。その上に布団を敷き 遺体を入れる。そのほか棺の底に硬貨を入れるところや「七星板」 と呼ばれる板を置くところもある。七星板は薄い木板の上に北斗星 を表わす穴をあけ、それぞれを浅く刻んだ溝で繋いだ物である. 3 2. 。. 棺 の 底 に 入 れ る 「 七 星 板 」 は 『 儀 禮 』、『 家 禮 』 に も み ら れ る 。『 家 禮』では次のように本文、注に記されている。. 「 治 棺 」 [棺 を 治 め る ]. 内外皆用灰漆。内仍用瀝清溶瀉,厚半寸以上。煉熟秫米灰鋪 其底,厚四寸許。加七星版。底四隅各釘大鐵環,動則以大索 貫而舉之。 [内 外 と も に す べ て 灰 漆 を 塗 る 。内 側 に は 瀝 清 (松 や に )を 溶 か して流す。厚さは半寸以上とする。高粱を焼いた灰を底に敷 26.

(32) く。厚さ四寸ほどとする。七星板を加える。底の四隅にはそ れぞれ大きな鉄の環を取り付け、動かす時にはそこに太い綱 を通して棺を持ち上げる。]. 棺の底に灰を敷き、その上に七星板を入れるという記述は、当代 地方志にも見られる。それらの地域では七星板を棺に入れるという 『家禮』の形態が継承されている。. 山 西 省 『 交 城 縣 志 』 (1994:746) 棺 内 七 星 板 之 下 鋪 柴 灰 , 七 星 板 之 上 鋪 以 谷 草 , 撒 錫 箔 ,另 放 些 煤 和炭。 [ 棺 内 の 七 星 板 の 下 に 柴 灰 を 敷 く 。七 星 板 の 上 に 粟 殻 を 敷 き 、錫 箔 (紙 銭 )を 撒 き 、 灰 と 炭 を 入 れ る 。 ]. 広 東 省 『 平 遠 縣 志 』 (1993:674) 棺內先鋪放黃土一寸厚,也有用石灰或木它炭末,燈心草等的, 繼以加放七星板,再加鋪紙屑,然後將屍體抬入棺內。 [ 棺 内 に ま ず 一 寸 の 厚 さ に 土 を 敷 く 。石 灰 或 い は 木 炭 の 粉 、い ぐ さ等を用いることもある。そこに七星板を入れ、さらに紙屑を 入れる。その後、遺体を棺内に担ぎ入れる。]. 『家禮』と同様に七星板を入れるというのではなく、北斗星のよ うに並べた七枚の硬貨を入れるところもある。. 河 北 省 『 大 城 縣 志 』 (1995:764) 棺内用紙表糊,鋪上燒紙,放上七個銅錢擺盛北斗星狀。 [ 棺 内 に は 糊 で 紙 を 張 る 。上 に 焼 紙 を 敷 い て 七 枚 の 銅 銭 を 北 斗 星 の形状に並べる。]. これは「棺に北斗星の形状を表す物を入れる」ということのみが 27.

(33) 継承された形態であろう。硬貨によって北斗星の形状を表すように 変化したバリエーションのひとつとみられる。硬貨を用いる地域に は枚数の指示がないところや七枚以外の枚数を入れるところもある。 そ れ ら の 地 域 で は「 棺 に 北 斗 星 の 形 状 を 表 す 物 を 入 れ る 」で は な く 、 「貨幣を棺に入れる」ことのみが受け継がれたと考えられる。また 金、銀、銅等の貴金属、珠玉等、貴重な品を遺体と共に棺に納める というところや、五穀等を入れるところもある。 地域によっては入棺の前後に遺体の顔を拭く「淨面」を行う。 棺の蓋をする前に遺体と告別する時は哭してはならず、涙が棺の 中に落ちてはいけないとされる。遺体との告別後、棺に蓋をして釘 を 打 つ 。 こ れ を 「 蓋 棺 」、「 封 棺 」、「 大 殮 」 と 称 す る. 3 3. 。. 入 棺 後 、 棺 は 「 堂 屋 」、「 中 堂 」 ( 家 の 中 央 の 部 屋 ) に 安 置 さ れ る 。 そ こ に 「 靈 堂 」 ( 棺 を 安 置 す る 場 所 ) を 設 け 、「 銘 旌 」 を 立 て 、 供 物 を 置く。息子、娘等が棺の側で見守ることは「守靈」と称される。喪 家 は 親 族 、友 人 、近 隣 の 人 々 か ら 弔 問 を 受 け る 。こ れ を「 弔 喪 」、「 弔 唁」と呼ぶ。 墓 地 の 場 所 や 埋 葬 日 時 を 選 び 、墓 穴 を 掘 る. 3 4. 。場 所 や 日 時 は 占 い. に依って決めるところもある。. 6.3.出 棺 前 日 埋 葬 前 日 或 い は 埋 葬 当 日 、 家 族 親 族 は 「 家 禮 」、「 家 奠 」、「 辞 靈 」 と称される告別の儀式を行う。 遼寧、河北、山東、山西、江蘇、河南各省と安徽省北部の地域で は埋葬前夜或いは埋葬当日、死者の魂が冥界に向かうための旅費を 贈 る 「 送 盤 纏 」、「 送 盤 川 」 と 称 さ れ る 儀 式 を 行 う 。 家 族 、 親 族 は 十 字路または村はずれへ行き、そこで紙銭や紙製の馬、牛、轎等を燃 や す 。『 家 禮 』 に は 送 盤 纏 は 現 れ な い 。. 6.4.出 棺 、 埋 葬 棺 を 家 か ら 運 び 出 し 、 墓 地 へ 送 り 届 け る こ と は 「 出 棺 」、「 出 殯 」、 28.

(34) 「 發 喪 」、「 送 葬 」、「 上 山 」 等 と 称 さ れ る ( 以 下 、「 出 棺 」 と す る ) 。 出 棺 は 死 後 二 、三 日 目 に 行 わ れ る こ と が 一 般 的 で あ る 。中 に は 五 十 日 、 百日或いは一年、二年、三年後等に行われることもある。これは風 水により選ばれた埋葬によい日を待つためとするところもある。長 期間を経た後に埋葬する場合は、入棺後、外側の部屋に出棺の時ま で安置する、庭に仮埋葬する等様々な方法がとられる。一旦家から 運び出した後、墓地や田畑の外れ等に煉瓦や茣蓙で棺を覆い、仮安 置 す る こ と も あ る 。 仮 埋 葬 、 仮 安 置 す る こ と は 「 浮 厝 」、「 権 厝 」 等 と称される. 3 5. 。. 出棺の際にも様々な儀礼習俗が行われる。出棺直前に棺の蓋に釘 を打つところもある。地域によっては家から出たところで紙銭を燃 やしていた大鉢を孝子が割る「摔老盆」という習俗を行う。墓地へ の途上で供物を供え、祭をする「路祭」を行うところもある。 墓地へ向かう葬列の形態もまた様々である。紙製の家、轎、車、 童 男 童 女 、 金 山 銀 山 等 の 冥 器 (「 紙 紮 」 と 称 さ れ る )、 幡 や 幟 、 楽 隊 が先導し、その後ろに棺が続くところ、孝子が先導し、棺と葬送者 がその後ろから随って行くところ等がある。地域によっては、女性 親族は墓地まで行くことができない。路祭の場所または村外れまで 送った後、家に帰る. 3 6. 。. 墓 地 へ の 棺 の 埋 葬 は 「 埋 葬 」、「 下 葬 」、「 下 地 」 等 と 呼 ば れ る 。 棺 を穴に納めたあと、土をかぶせて墓を作る。葬送の際に運んできた 冥器は墓で燃やす。 埋葬後三日目に墓地へ行き墳墓の形を整え、祭奠を行う。これは 「復三」或いは「圓墳」等と称される。. 6.5.埋 葬 後 死 亡 後 、 七 日 ご と に 供 物 を 捧 げ て 祭 を 行 う 。 こ れ は 「 七 七 」、「 做 七 」、「 燒 七 」 等 と 称 さ れ 、 全 部 で 七 回 、 即 ち 「 七 七 」 四 十 九 日 間 行 う と こ ろ が 多 い 。遼 寧 、河 北 、山 東 、河 南 、安 徽 、湖 北 各 省 で は「 五 七 」 (三 五 日 )ま で 、 江 蘇 省 南 部 、 浙 江 省 、 福 建 省 に は 「 六 七 」 (四 二 29.

(35) 日 )ま で 行 う と い う 地 域 も あ る 。 ま た 、 山 東 省 、 河 南 省 北 部 に は 「 十 七 」( 七 十 日 ) ま で 行 う と い う 地 域 が あ る 。こ の 後 、 「 百 日 」、 「 一 周 年 」、 「 二 周 年 」、「 三 周 年 」 に 祭 奠 が 行 わ れ る が 、 一 般 に 「 七 七 」 が 終 わ ると家族は通常の生活に戻る。. 7.小 結 漢 民 族 の 葬 礼 は 、 一 般 に 『 儀 禮 』、『 禮 記 』 に 記 さ れ た 儀 礼 を 源 流 とし、近世においては宋代の朱熹『家禮』により一定の規範となる 形 態 が 作 り 上 げ ら れ た と さ れ る 。し か し 、 『 家 禮 』に 記 さ れ た 葬 礼 が 広 範 に 広 が り 実 践 さ れ て い く の は 、明 代 に 入 り 邱 濬『 文 公 家 禮 儀 節 』 が 刊 行 さ れ た 後 、即 ち 明 代 か ら 清 代 に か け て の 時 期 で あ っ た 。 『家 禮 』 刊行後も士大夫が皆、それによって儀礼を実践していたわけではな く、邱濬が礼の実践を目的とし、実用的な儀礼のマニュアルとして 『文公家禮儀節』を刊行した後、広汎に広まったためである。 『家禮』の影響が広範に及んでいたことは旧志の記述からも明ら かである。士大夫は勿論のこと、庶民の葬礼儀礼においても一定の 規 範 と さ れ 、『 家 禮 』 に 従 っ た 葬 礼 の 儀 式 、 習 俗 を 行 う こ と は 広 く 受 け入れられていた。家族の死を看取り、沐浴して遺体を清め、処置 をして死装束を着せ、棺を準備して遺体を納める。供物を供え、一 定期間を経た後、家から墓地へ運んで埋葬する。死者の家族、親族 は「五服」と呼ばれる親疎によって規定された喪服を身につける。 一つひとつの儀式形態には変化している部分もあるが、共通する儀 礼 が 広 範 に 見 ら れ る こ と に つ い て は 、『 家 禮 』 及 び 『 文 公 家 禮 儀 節 』 の普及によるところが大きいといえよう。 しかし旧志では『家禮』の儀式形態がそのまま行われているわけ で は な い と す る と こ ろ も あ る 。「 小 殮 に 絞 を 用 い な い 」、「 魂 帛 を 用 い な い 」 等 、 一 部 が 省 略 さ れ た と す る と こ ろ や 、「『 家 禮 』 の 儀 式 の 中 で 二 、 三 の 儀 式 し か 行 わ な い 」 と す る と こ ろ も あ る 。 ま た 、『 家 禮 』 では批判的に記されている仏教が用いられている地域も散見される。 『家禮』に従って儀礼を行うことは規範とされながらも一律に遵守 30.

(36) されていたというわけではなかった。規範から逸脱した葬礼が公の 記録である地方志に記されるほど大きな広がりをみせていた。 当代地方志に記載された伝統葬礼には、 「 招 魂 」や「 沐 浴 」、喪 服 、 入 棺 、 銘 旌 等 、『 家 禮 』 の 儀 礼 を 継 承 し た と 見 ら れ る 儀 礼 が あ る 。 遺 体の口に物を入れる「含口」と棺に入れる七星板も『家禮』に現れ る習俗である。地域によっては『家禮』の儀式形態が継承され、保 存 さ れ て お り 、伝 統 葬 礼 の 中 に 同 様 の 形 態 を 見 い だ す こ と が で き る 。 また伝承の過程で変化をしながら保存され、 『 家 禮 』の 形 態 か ら の バ リエーションが生みだされているところもある。 一方、伝統葬礼には『家禮』に現れない儀礼習俗もみられる。遺 体 を 清 め る 水 を 川 や 井 戸 に 汲 み に 行 く「 買 水 」、死 を 土 地 神 等 へ 知 ら せ に 行 く 「 報 廟 」、 死 者 の 顔 を 拭 き 清 め る 「 淨 面 」 等 が そ れ で あ る 。 次 章 で は 、『 家 禮 』 に は 現 れ な い 葬 礼 習 俗 と 、『 家 禮 』 の 形 態 か ら 変 容した儀礼、習俗についてその変化の様相と形成過程を探り、考察 する。. 31.

(37) (表 2)『 儀 禮 』 、 『 家 禮 』 、 当 代 地 方 志 「 伝 統 葬 礼 」 対 照 表 『儀禮』. 朱熹『家禮』. 伝統葬礼(当代地方志) 名称、行われる日時については地 域により異なる。. 第一日目 死 復 楔歯、綴足、奠. (死亡前:沐浴・穿壽衣) 送終 招魂・指路・出死星. 初終 復 喪主、主婦、護喪、司書、司貨を 立てる。 棺を治める。. 主君に訃報を告げる。 銘をつくる。 沐浴準備(坎を掘る、土のかまど、 盆や盤、瓶、重鬲等)。 襲の衣物 (明 衣裳 、笄 、布 巾、 掩、幎目、握手等)を並べる。 飯含沐浴の道具(貝、米、沐巾、浴 巾、櫛等)を並べる。 沐浴 飯含 襲 重を中庭に置く。. 訃報を告げる。. 戴孝 報喪. 沐浴準備(牀を設え、坎を掘る)。 買水 襲の衣物を並べる。 沐浴飯含の道具を並べる。 沐浴 襲 飯含. 沐浴 穿壽衣 含口. 霊座を置き、魂帛を立てる。 銘旌を立てる。. 銘旌を立てる。 報廟(出棺前まで続く). 第二日目 衣を並べ、絞を準備する。 饌を並べる。その東の盥を置く。 牀のすのこや衾を並べ、西側の盥 を東側と同様に並べる。 寝門の外に鼎を並べ、供物を並べ る。 小斂 帷を徹する。 奠を設ける。 代哭(代わる代わる哭する)。. 小斂の衣衾を並べる。 奠を設ける。 小斂の牀 、布 絞、 衾、 衣を 設け る。. 大斂の衣(三十稱)を並べる。 肂(あな)を掘る。 棺を堂に入れる。 饌を供える。. 大斂の衣衾を並べる。. 大斂 殯. 大斂. 大斂の奠を設ける。 主人は賓、兄弟を送る。 哭を止める。. 奠を設ける。. 成服. 成服. 朝夕哭、奠 朔日の奠. 朝奠、食時上食、夕奠 朔日は饌を設ける。 弔、奠、賻 開吊、弔問 聞喪、奔喪 治葬。日を撰び、塋域を開き、後 埋葬準備(墓地を選び、墓穴を掘 土(天地の神)を祠る。 る)。. 襲の奠を遷す。 小斂 屍牀を堂中に遷す。 奠を設ける。 主人以下は哭、代哭する。. 第三日目. 奠具を設える。 棺を堂(中央よ り西 寄り )に 入れ る。 淨面 入殮 (銘旌を立てる。) 主人以下は帰る。代哭を止める。 守靈(出棺まで続く). 第四日目 埋葬まで. 葬の場所を筮う。. 32.

(38) 槨、明器の材を視る。 葬日を卜う。. 壙を穿ち灰隔を作る。 石に誌を刻む。 明器等を造る。主を作る。. 冥器(紙紮)を準備する。. 埋葬前日 殯を啓く時期を訊ねる。賓に告げ る。 祖廟に饌を並べる。 殯を啓く。 柩を祖廟に遷す。 柩を飾る。 明器を並べる。. 賓が賵、奠、賻、贈を行う。 代哭する。. 遷柩を告げ、柩を奉じて祖廟に向 かう。. 廳事に遷し、代哭する。 器を並べる。 夕暮時に祖奠を設ける。 親賓が奠、賻する。. 送盤纏 家奠、辭靈. 埋葬日 門外に奠を並べる。 重を道の左に寄せる。. 柩を轝に遷す (蓋棺) 奠を設ける。 祝が魂帛を奉じて車に升り、香を 焚く。. 車、馬、明器が順に壙(墓)に向か 發引 う。柩が行く。. 出棺、出殯 摔老盆 路祭. 柩が行き、主人以下男女が哭し、 送葬 歩いて従う。 柩を壙に窆す。柩の側に明器を入 窆(埋葬)、下棺 埋葬 れる。 祠後土、題主、成墳 成墳、點主 祝が神主を奉じて車に升る。 反哭 反哭 神主を霊座に置き、主人以下は廳 事で哭する。 埋葬後 虞祭. 虞祭. 卒哭 祔. 卒哭 祔. 小祥 大祥 禫. 小祥 大祥 禫. 復三 七七. 百日祭. 1. 周年祭 二周年祭 三周年祭. 漢 の 鄭 玄 は『 儀 禮 』本 文 に 詳 細 な 注 を 施 し 、士 大 夫 の 葬 礼 に つ い て複雑な儀式手順を示した。. 2. 祖廟に遷す時も「重」が先導する。その後、再び庭に北面して置 か れ る 。 埋 葬 当 日 、 道 の 左 (門 の 東 側 )の 壁 に も た せ か け て お き 、 虞 祭 が 終 わ る ま で そ こ に 置 か れ る 。虞 祭 が 終 わ る と 祖 廟 門 外 の 東 に 埋 める。. 3. 『 家 禮 』 版 本 に つ い て は 吾 妻 重 二 (2003:14-22)に よ る 。 上 山 春 平 ( 1 9 8 2 : 2 0 1 ) は 、1 2 4 1 年 に 楊 復 に よ る 注 が 加 え ら れ た 十 巻 本 が 刊 行 さ. 33.

参照

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