宗 心 九
其宗連合學會研究紀要
ー ー 第 七 輯 一 一
暉 和 37年 9 "
量 崇 追 合 亭 會
親 鸞 聖
人 筆
見 聞 集
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親 鸞
聖 人 筆
見 聞
集 切
藻蒙
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親 鸞 聖 人 筆 見 聞 集
⑳
親 鸞 聖 人 筆
見 聞 集 り
_ ク 白 ヽ
會宗 研
九
心
真
宗 第
連 七
輯
合 学
ノ 本
ー仏教学方法論としてー
浄 土 論 に 於 け る 一 心 と 唯 識 教 学
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⁝ ⁝ 小
宗祖に於ける名号の意義………••白
親鸞教学に於ける方便の意義………•••………普
﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 成 立 過 程 に お け る ﹁ 元 仁 元 年
﹂ ⁝
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⁝ 岩 宗 祖 の 釈 尊 出 世 本 懐 の 意 表
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⁝ ⁝ 山
慶信宛蓮位添状の文巾私見…………•••………細
の 宗 風 ⁝
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⁝ ⁝ 増
﹁ 宗 学 論
﹂ 覚 え が き ・
・ ・
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・ : 上
真 宗
真
ー六字釈を契機として1
宗 研 究 第 七 輯 目
次
田 義
山
順
J
11行 上 正
田 繁
賢 大
尊︵
四︱
‑︶
信︵写
0 )
文 信︵天︶
︵七
0 )
︱ ‑ ︵ ‑
︱ ‑ ︱ ‑
︶
円(
‑︱
‑︶
井 元 成
︵ 九
︶ 妻 道 生 (
‑ )
学 会 規 約
会 計 報
学 会 梁
八公開講演>
告
阿弥陀仏観私考:·………••……•………•…………•藤 太子への親近:·………•••………•••生
親鸞 聖 人 の 人 間 像
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⁝ 松 禅 と 真 宗 念 仏
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⁝ 羽
者:··………•••r-l-_ど
﹃見聞集﹄解説
渓 了
原
祐 桑
完 光
永
︵ 七 九
︶ 明
︵ 九 四
︶
善(‑0
九︶
諦(
‑︱
‑0 )
﹃浄土論に於ける一心と唯識教学﹄
私は大谷大学に於いてインド大乗仏教学を専攻した関係上︑真宗学を組織的に系統的に学んだことがない︒真宗学
に関しては全くの素人である︒
ける一心釈の意義﹂と題する論文を読む機会を得た︒そして︑唯識教学の立場から考察するならば︑
るのではないか︑ ところが最近︑大谷学報第一二十六巻第四号に掲載されている永田敬信氏の﹁論註に於
ああも考えられるのではないか︑
﹃浄土論に於ける一
と種々の想いが頭中をかすめた︒特別な考慮を払わずして︑論註
と唯識教学を結びつけることは︑学問上︑許されることではないであろうが︑
以下の私の所論は論文といった大袈裟
なものではないe
永田氏の論文に対するインド大乗仏教学を学んだ者の一雑感にすぎないのである︒随って︑論註と
唯識教学を結びつけるという冒険を暫らくお許し頂きたい︒そして︑永田氏の論文を読んで︑
している者もいるのかという軽い気持で一読を賜われば幸甚と思う次第である︒
さて︑永田氏の論文の中︑私の目にとまったのは次の点である︒即ち︑
心と唯識敦学﹄
小
妻
こうも考えられ
道
このようなことを連想
生
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
無碍光如来を念ずる信が相続せられるのは自督の一心に依る︒即ち︑念をして念たらしめ︑信
︑︑
︑︑
︑
をして信たらしめるものが自督の一心である︒これが上巻の一心釈の釈顕しようとするところであり︑これに対し のである︒そして あるものとするのである︒随って︑この一心釈では一心を信心として解したのではなく︑帰命を信心として解した 十方無碍光如来の帰命を念と置きかえ
﹁無碍光如来を念ずる﹂と釈している点である︒ ﹃論註の二つの一心釈︑即ち︑
上巻で偲の世尊我一心の句を註釈する下になされる一心釈と︑下巻讃嘆門に於いて
なされる一心釈とは宗学の伝統的解釈として︑
ともに一心を真実信として開顕する同じ内容のものと領解されてき
しかし︑宗祖は信巻に於いて︑下巻の一心釈は四度も引用せられるのに対して︑
れな
い︒
O
ら ︑
日ハ
.‑
f
こ ︒上巻の一心釈が引用せられるのは行巻である︒ここに︑
る事実がある︒
り︑而して︑ その事実に着目して︑
言わねばならない︒ ﹃浄土論に於ける一心と唯識教学﹄
上巻の一心釈は一度も引用せら
ともかく宗祖が両釈に差別を見ていられる厳然た
両釈が如何なる意味をもつかを見極める必要がある︒その中︑上巻の一心釈︑
世尊我一心の句を注釈する下になされる一心釈に関して︑先づ注意せねばならぬのは︑曇鸞が偏頌の帰命尽
然らば︑何故に属=鸞は帰命を念と釈したのであろうか︒その解明のために︑論註に於いて念が如何なる意味で用
いられているかを検討してみると︑論註に於ける念は真実清浄の信心を示すものであり︑十住毘婆沙論易行品に於 ける念は恒に称名と並べ用いられ︑憶念心念の義である︒曇鸞はかかる易行品の意に依って念を信とするものであ
この上巻の一心釈に於いて帰命が念と釈せられたことは︑そこに︑信心を釈顕せんがためである︑
即ち︑曇鸞は枇親が﹁無碍光如来に帰命する﹂と表白せられるところに︑
て︑下巻讃嘆門の一心釈は正しく一心を真実信として釈顕するものである
﹄
6 0
枇親の清浄のは心が永田氏の論文の詳細については︑大谷学報第一二十六巻第四号をごらん頂きたいが︑永田氏がこの論文に於いて︑ と
上巻
2 ー 註
﹃浄
土論
に於
ける
一心
と唯
識教
学﹄
真実信なり﹂と簡単に片付けてしまわずに といい︑我一心の心が一であることを説明する時に︑
﹃いう意味は︑︵一心に︶無碍光如来を念じたてまつりて安楽︵国︶に生れんと願うこと︵であり︑そのことに於
︑
︑
︑
︑ R いて︶心々相続して他の想い︵の︶間雑ということがないと︵いうことである︶こ
︑︑
︑︑
心々相続という言語が用いられているところに︑私は﹁一心は 一心の心に注目し︑それを天親菩薩のよって立つ唯識教学の立場より考察しつつ︑更に︑それを基盤にして一心とい
うことを考察してみなければならぬのではないかと思うのである︒
山口︑野沢両博士共著﹁世親唯識の原典解明﹂一丑頁︑二0頁3
山口︑横超︑安藤︑舟橋四博士共著﹁仏教学序説﹂一六じ頁c
上杉
思朗
著﹁
解読
浄士
論註
﹂︱
︱頁
︒
於いて 薩目督の詞と釈しているか とするのである︑
一心を自督の詞と釈せられたのであり︑そして︑無碍光如来を念ずる信が相続せられるの は自腎の一心に依る︒随って︑無碍光如来を念ずる信が真実となる所以は自督の一心にある︑
と領解していられるところに︑私は注意してみたいのである︒
理解を出発点として︑以下︑私の考えを少しく述べてみようと思う︒ の一心釈はつまるところ
ということを表わさん 以上のような永田氏の上巻一心釈の
①
さて︑仏教では﹁心と意と識とはシノニムである﹂というイディオムがある
J
偽の我一心に対して︑曇鸞は天親菩 一心という言葉に天親菩薩自督の詞という言語が加せられているところ︑更には論註に
﹁心と意と識とはジノニムである﹂というイディオムに随って︑先づは︑
頭に︑唯識の唯を註釈し 随って 般若中観より喩伽唯識へと展開するその動向を指示する文として︑幻の如き自性であると同様に︑ 山口博士によって度々︑指摘せられている寂天
一切世間が︑幻や陽焙の如き自性であり︑実体としては空とせられるときには︑外なるものが
その外なるものを把握する内なる知賞なるものも︑幻の如き自性として空無になる
一切世問が幻の如き自性であることを︑何によって認知し︑どうして無自性の境地へ︑悟人する
そこでそれは︑自心こそが実にあって︑それが外なる物の形相として顕現しており︑
を具して生起しているから︑
るか
ら︑
その能所の世間として顕現している心以外の如何なるものによっても︑幻の如き世間が︑幻の如き世間と
① して覚証せられるのではない︒﹄
ここでは︑能所の世間が実用せられている︑
るようになっている態であることをいうのである︒現に見られている対象物は心によって︑
って
いる
もの
︑
ある
とき
に︑
即ち
︑
心によってわれわれに顕われるようになっているもの︑R われわれの日常なる能所の世間の実用があるのである︒
心を離れては何等のものも無いことを示さんがために︑更に︑次の如くにもいう︒即ち︑唯識二十論の剪
⑧ ﹁唯とは対境を遮遣する為なり︑﹂と述べ︑これを調伏天は
﹃唯と言うのは︑識より別なる対境を遮遣する為にいうのてあって諸心所をも遮造するのではない︒対境を遮遣す
るが為なりとは︑識より別なる所取と能取との相ある対境を遮遣するが為であるとの義である︒そこでそれは次の ことになるであろうか から︑そこでは ﹃般若中観の如く の入菩提行論疏の言葉︑即ち
その心の上に具体的な︑
﹃浄
土論
に於
ける
一心
と唯
識教
学﹄
心こそが外なる対象の形相
われわれの世俗という能所の世間が実用せられている︒
というわれわれの日常の態は︑
であ
心によって対象がわれわれに経験せられ
われわれの知覚内容とな
心の顕現である︒対象が心の顕われで
四
﹃浄土論に於ける一心と唯識教学﹄ 1山口益著﹁般若思想史﹂宜八頁 註
如き所言となる︒即ち︑識より別なる所取は何等無く︑
と復釈している︒
れわれに顕われるようになっているもの︑
心心所という言葉で示されることもある︒即ち︑識転変に関しては
﹃︵世間と聖教とに於いて︑︶実に種々なる我と法との仮説起るとも︑
⑥ ﹃諸法と我とは識の転変より外には無なるが故であるこ
⑦ ﹃彼心は︑絃︵経︶には相応を具するものなりと意趣せらる︒﹄
﹃この三界は心心所のみであるけれども独り心のみではないと︒
と述
︑へ
てい
るが
︑
是の如くして︑ このようにして︑ ④ また彼識を取るところの能取なるものも無いと︒﹄
心・識がわれわれの世間的実用の根底・依事
(v
as
tu
所依としての事体︶とせら
﹁現に見られている対象物は心によってわれわれの知覚内容となっているもの︑即ち︑
心の顕現である︑﹂
これらの文締によって心の顕硯︑識転変︑
五
R
それは識の転変に於いてなり
e﹄ 心によってわ
R 心というのは教説中にはまた心所のことを言う︒﹄
心心所が同じ内容のものであることを知ることが出来る︒
心の顕現ともいわれ︑識転変ともいわれたその心の顕現︑識転変の上に︑更には心心所の上に仏教の
R
根幹である相依相待なる縁起の次第が設定せられていくのである という唯識二十論剪頭の文を︑調伏天は注釈して と註釈している︒更に︑心心所に関しては という唯識一二十頌第一偏を︑安慧は さて直前に れていったのである︒
といったがその心の顕視ということが識転変及び
ー 註 さ
て︑
一心の心が顕視したもの︑
① いか︒更に︑言葉を費やすならば︑
事である︑
如来願生安楽国なる清浄の信心を獲得することが出来るのである︒ ち 示に随いつつ眺める時︑
︐
8 7 6 5 4 3 2 ﹁大谷学報第四十巻第二号﹂三頁﹁仏教学序説﹂一六六頁
﹁仏教学序説﹂一六六し一六七頁
﹁世親唯識の原典解明﹂一五頁
﹁世親唯識の原典解明﹂ニニ頁﹁世親唯識の原典解明﹂一五七頁
﹁世親唯識の原典解明﹂一六0頁﹁世親唯識の原典解明﹂一五頁
﹁世
親唯
識の
原典
解明
﹂︱
︱︱
頁
﹁世親唯識の原典解明﹂一六四し一六五頁
﹁大谷学報第四十巻第二号﹂四頁
﹁仏
教学
序説
﹂一
八一
頁 以上のような唯識教学を立場として︑浄土論に於ける一心と帰命尽十方無碍光如来願生安楽国を︑曇鸞の指
一心の心と帰命尽十方無碍光如来云々とを心心所の関係として理解出来るのではないか︒即
一心の心が転変したものが帰命尽十方無碍光如来云々である︑
一心の心は帰命尽十方無碍光如来云々なる心の顕現が依って起る根底であり︑依
ということが出来るのではないかと思う︒即ち︑
帰命尽十方無碍光如来願生安楽国を1心の心が転変したもの︒顕現したものと領解しようとするわけてあるが︑このように領
﹃浄
土論
に於
ける
一心
と唯
識教
学﹄
と理解出来るのではな 一心の心を依事とすることによって︑帰命尽十方無碍光
六
﹃浄土論に於ける一心と唯識教学﹄
るということを了解することが出来る︒
註ー
を
︑ 以 上 の よ う に 領 解 し て く る と き
解するについては︑唯識三十頌の次の文を参考して頂きたい︒即ら︑
︑︑
︑︑
︑
境の了別となり︒﹂︵世親唯識の原典解明︱
‑0
0頁 ︶
︑︑
︑︑
︑
その中︑了別境転変は﹁如何様なる心所と相応するか︑或は︑それと相応する心所は幾許あるか︑といえば︑故に︑︑︑︑︑︑︑︑遍行と別に決定せるものと善との心所︑
同じく煩悩と随煩悩とので心所︺︑及ひ
1
一受と彼は相応す︒第九頌という︒﹂︵同渇二五一1
l ‑
.孔二
頁︶
︑︑︑︑︑︑︑︑その中︑﹁別に決定せるものに関して
欲と勝解と念とは定と慧と倶に決定せるものなり︒第十頌aIc﹂︵同書二五四頁︶その五の中、「定とは所観の事に於ける心の一境性てある。し一境性とは一所縁性てあろ。」(圃書—-IL八頁)』
心が一なる心所︑即ち一境性︑一所緑性と相応するのは識転変の中の﹇別境転変てあるということである"
I心の心は帰命尽
十方無碍光如来願生安楽国という一境性︑一所縁性と相応しているわけであるが︑こ九を先の唯識三卜頌の文と考え合せる時︑
帰命尽十方無碍光如来云々は一心の心が転変︑顕現したものてあると領解することも是認せられるのではないだろうか︒
そ し て
︑ 心 の 顕 現 で あ る 帰 命 尽 十 方 無 碍 光 如 来 云 々 と い う こ と に 於 い て
︑
R
と が な い
︑
﹂ と い う そ の こ と に よ っ て
︑ 心 が 一 心 と な る の で あ る
︒ 即 ち
︑ 心 が
︑ 心 の 顕 況 で あ る 帰 命 尽 十 方 無 碍 光 如 来 云 々 と い う 一 な る も の
︑ 即 ち
︑ 帰 命 尽 十 方 云 々 そ れ 以 外 の 他 の 想 い の 問 雑 が な い と い う こ と に よ っ て
︑
あるが︑
先に
︑
そういう一なるものと心が相応する︑
来云々という一なるものによって︑
心が動かされ︑左右されて︑
心 心 所 の 上 に 相 依 相 待 な る 縁 起 の 次 第 が 設 定 せ ら れ て い く と い っ た が
︑ 今 こ の 一 心 と 帰 命 尽 十 方 無 碍 光 如 来
上杉思朗著﹁解読浄士論註﹂︱︱頁
一 心 と 帰 命 尽 十 方 無 碍 光 如 来 願 生 安 楽 国 と は 相 依 相 待 な る 緑 起 の 道 理 の 上 に あ
一心となる ということによって︑
七 一なるもので
心 は 一 心 と な る の で あ る
︒ 帰 命 尽 十 方 無 碍 光 如
﹁心々相続して他の想いの間雑というこ
﹃識の一一一種転変は﹁異熟と︑思量と名づけらるるも0
と ︑
依相待なる縁起の道理の上にあること︑ 依所であり︑依事であること︑更には
永田氏の上巻一心釈に対する理解をもととして︑
するとき︑私は︑上巻の一心釈より︑真実信心の依所依事が一心であること︑即ち︑ 浄土論に於ける一心と唯識教学﹄
加えて︑唯識教学に立場をおきつつ︑上巻一心釈を了解しようと
一心と帰命尽十方無碍光如来願生安楽国なる信心とが︑
完
仏教の根幹である相
以上の一.一点を了解することが出来ると思うのであるが如何なものであろうか︒ 一心は真実の信心を得るための
が、
宗祖に於ける名号の怠義
浄土信仰の歴史的展開の源流となるものは︑偏えに人間の自覚に基ずく易行の開顕にあったということができる︒
その意味において︑三国に互って西方の教主を念ずる古今の願生者が称仏六字であったこと︑
ろう︒然るに南無阿弥陀仏なる名号は明らかに阿弥陀仏のみ名であり︑
呪術となり︑或はまた定心成就のひとつの手段と見倣される危険性を有つのである︒
凡そ︑こうした問題に対する般も端的な解答を我々は善導釈の上に見出すのであるが︑更にそれを一層明晰且つ論
理的に究明したのは︑自ら偏依善導一師を標榜し︑その念仏が選択本願の念仏なることを主張しつづけた元祖法然上
① 人である︒即ち﹃選択集﹄に法蔵菩薩の願意を勝・易の二徳で以って示されるのはその故であり︑ここに称名念仏が
易行であるのみならず︑弥陀の仏徳が全具成就していることに於いて往生の行たりうる保証がなされ︑本願の行とし
ての念仏であることが基礎づけられたのである︒けれども易の義が観難称易という場で語られる限りに於いて︑
ま し
>
が
き
六字釈を契機として││'
宗 祖 に 於 け る 名 号 の 意 義
臼
井
九
異議のないところであ
その実践の容易さの故に︑ともすれば単なる プじ
成
しそ
i
は相対的易行の意味しか有ち得ず︑仏名は固定化し︑膠着せるものとなり終るであろう
C
﹁棄藉行一分聾本願一﹂と建仁元年の春︑元祖法然に帰せられた祖聖親鸞により︑更にこれが徹底をみ︑
遂に称名念仏が他力廻向の念仏であることが明らかにされたのである︒即ち名号を固定化した概念扱いにせず︑願心
なり︑仏智なり︑大悲真実なりと拝し︑R ﹁斯行即是摂1一諸善法日空諸徳本﹁極速円満真如一実功徳宝悔﹂
R ﹁故知︑円融至徳嘉号転レ悪成レ徳正智︑難信金剛信楽除レ疑獲畠皿真理也﹂
と示す如く︑智慧の実践に於いて︑自ずと︑現にはたらくもの︑
また内なる道程をかえりみて︑そこに感得される久 しくもはたらききたったものであったのである︒名号の功徳を讃嘆する祖聖の言葉は︑
の述作・語録に至る処々に見出し得るが︑暫らく︑六字釈を手懸りとして柳か卑見を開陳し︑祖聖の名号観を跡づけ 周知の如く︑祖期は行に於ける願力廻向の本源を諸仏称名の願に認めて︑
諸仏称名之願麟厨立霞麟
E
と標挙︑経釈の文を正証とし︑真実の大行を明して︑
﹁溺者称レ名能破︱︱衆生一切無明﹁能満二衆生一切志願︑称名則是最勝真妙正業︑
④ 仏︑南無阿弥陀仏即是正念也︑可レ知﹂ て
みた
い︒
と嘆じ︑総序には 然るに
宗祖に於ける名号の意義
﹃教行信証﹄を始めとし︑
そ 正業則是念仏︑念仏則是南無阿弥陀
IO
宗祖に於ける名号の意義
とその領解を結ばれている︒而るに︑
そこに類棗された経文の引用怠趣は︑諸仏称名の本願とその成就を説くもので
﹃大無量寿経﹄の意を一層明らかにするものである︒然るにその本願とその成就との関係は︑曇鸞に依れば︑
⑥
﹁願
以成
レカ
カ以
就レ
願願
不︱
︱徒
然︱
力不
一
1虚設一カ願相符畢覚不レ差故日一成就一﹂
は︑本願それ自身が無限の力を有して現行することであるから︑本願の外に成就があるのではない︒成就はただ本願 の有する意味である︒従って畢寛諸仏称名の願︑即ち名乃の本質的紅義を布らかにする外ないということができるで
﹁諸仏称名﹂ということに︑如何にして行としての餘味が見出されるかについて︑
﹁諸仏称名願者是第十七願也︑是則説ぷり往生行一之名号品朗故当巻出レ之︑凡於・四十八願之中一此願杢要︑若無︱︱此
⑥ 願一名号之徳何聞・一十方﹁聞而信行此願之力︑若無二此願超世願意諸仏何証依レ証立レ信又此願恩也﹂
と︑四十八願の中第十八願が至要であるように︑第十七願も亦甚だ奎要である︒何故なら衆生往生の行たる名号が此 願で説かれており︑而もそれに十方聞信と諸仏証誠との二義を以って願の力恩を顕彰している︒殊に古来より注意さ
﹁行巻﹂に限り経論釈の引用次第・︱︱一国七祖の順序が厳守されてあることは︑真実行の普遍性と歴史
性を示したものである︒即ち往相廻向の大行は十方諸仏に依って称讃される真実行であり︑
は︑十方世界に流布する普遍の行であることを示すものである︒それ故にこそ︑ 且つ諸仏称名ということ
この真実行はまた三国七祖の伝統と
いう歴史的現実を形成し来ったのである︒而も選択本願の行において︑称名が如来選択の往生の正行であることを示 されるのである︒宗祖の名号観はかくの如き大行としての名号であるが︑我々は更に進んで名号釈によりその意味内
容を窺ってみょう︒ れて来た如く あろう︒六要紗主は あり
と解せられている︒されば本願成就と
凡そ︑善導の六字釈義は摂論家の別時意趣説に対する対外的な弁釈であったと共に︑
磨き出す対内的な宜揚として格別な意義を残している︒即ち︑当時中国教学界に於ける重鎮として︑その威勢を張っ
R ていた摂論学派が︑﹃摂大乗論﹄の別時意説を証権とし︑観経下々品の十声称仏を以って唯願無行であると貶し︑往生
は即時でなく別時であり︑方便説にすぎないとする論難があった︒かかる批難に対し︑既に道綽が宿善論の立場より︑
R その妨難に努められた︒これを継承し︑更に積極的応答を試みられたものが善導の名義釈である︒恰かもそれは︑元
祖・宗祖に於ける明恵の批判に匹敵すべき真面目な批判でありー論家の立場に立つ限りー︑
念仏の道は永遠に蔽われるような真の意味の法難となるべきものを内蔵している︒
﹁言
一固
南無
︱者
即是
帰命
︑亦
是発
願廻
向之
義︑
言︱
︱阿
弥陀
仏︱
者︑
と︑単なる仏の記号ではなく︑
門念仏の本質を開顕したものである︒勿論︑南無と阿弥陀仏とを二つにして釈義されてあるが︑重点の置き方の相違
によるもので南無阿弥陀仏について語られているのである︒曇鸞が帰命尽十方無碍光如来を解釈するに︑帰命は礼拝
であり︑尽十方無碍光如来は讃嘆であると云われるのと意を同じくするが如くである︒
ところで︑漏依善導一師を標榜された元祖法然により︑
門下は勿論︑門流の諸派のすべてに伝承せられ︑夫々の立場より本義開顕に努力が払われた︒祖聖に於いても︑もと
よりその例外ではなく︑
を通して蓮師に至るや︑
願行
具足
︑
それがそのまま一宗の本質を
即是其行︑以
1一
斯義
︱故
︑
かかる妨難に答えて︑
⑨ 必得
11往
生一
﹂
必得往生の念仏である所以を二字と四字に分釈して指摘施釈し︑
これが念仏不廻向の証文としてとり上げられてから︑
ここでは特に往相廻向の大行を裏付ける重要な証権として︑その要文を再釈し︑覚・存両師
それは御文構成の中核として縦横に駆使せられることとなった︒
然るにこの別時意会通章に於ける善導施釈の方規は︑
⑩
﹁是
故今
此論
中︑
直言
一発
願不
'レ
論レ
有レ
行︑
是故
未
. .
即得互生︑与・一遠生匹げ因者其義実也﹂
宗祖に於ける名号の意義
その闘いに敗退すれば︑
よく浄土
その
も
宗祖に於ける名号の意義
認するのである︒
﹁由
唯発
願︑
但有其顕願即虚亦無レ所レ至︑要須
⑪ 於安楽仏士得往彼受生﹂というのが別時音心であることを実義として是
けれども摂諭の徒か十声称仏を度我救我の祈りとしか受けとらず︑
作進趣の行があるとは認めないという皮相的見解に対して︑善尊はその錯誤を指摘栖定されたのである︒従って先ず
念仏が一行であることを﹃"粍厳経﹄によって論証し︑更に﹃阿弥陀経﹄を引いて︑称名が往生行であることを証して
願行具足の念仏である所以を顕彰していられる︒
﹁又来論中称孟ク点仏五戸求︐仏果叩呼是正報︑
一行
雖レ
精未
レ剋
︑
而も六字釈に続いて︑
下唯発願求レ生浄土↓即是依報︑
それに願ありとは許しても︑造
依報易レ求︑所以一願之心未レ人︑雖加溢嗜如1一辺方投レ化即易︑為レ主即難︑今時願︱往生一者並是一
⑫ 切投化衆生︑登非レ易也﹂
と示される如く︑摂論家も是諮しなければならない難易相対の明し方でなされ︑而も間答を先に設けて︑
﹁間曰願行之義有1何差別﹁答口如一経中説︑但有1其
行年
行即
孤亦
無レ
所レ
至︑
⑬
願行相扶所為皆殻﹂
と︑頴行相扶のところに目的が果されるのであるという準通の立場で反論が試入られている︒従って最後に︑
⑭ ﹁但能ヒ尽1
一形
︱
F
至十念︑以︱仏願力五戸不1砦皆往
︱故
名レ
易也
﹂
⑮
と︑浄土教独自の弘願の立場を示してはいるものの︑願行の意義はここでは明らかにされていない︒要するに碑導は 摂論家の中張を一応説めつつ︑相対的た克場に於いて成仏に対して往生を理解しているように︑願行具足ということ
一般仏教と同じように衆生が願行を具足して果を剋するという論理を用いている如くである︒
善導が﹁必得往生﹂と云う﹁必﹂は可能性の強調という域を脱し得な︑`であろう︒何故なら︑念仏往生の道は特殊的
なる道であるが故に可能性をしか現し得ないが如くである︒ とあるによって知られるように
その限りに於いて︑ 一正一依登得相似へ然正報難レ期︑
﹁諸仏所証平等是 と
ヵ ヽ
﹃礼讃﹄に 仏願カ一﹂の文︑或は 者善導の六字釈を︑善導・法然の指導と﹃論﹄
前者は今の六字釈の義で︑南無阿弥陀仏の外に本願をみないで︑南無阿弥陀仏そのものの上に願行具足する故往生
⑯ を得るという立場である︒勿論この場合の願は衆生の発願であろう︒後者は先述の如く﹁以二仏願カ一﹂と浄土教独自
⑰
⑱
又﹁順彼仏願故﹂といい︑或は﹁正由レ託仏願︱以作訟諏縁一﹂等と
ある如く︑念仏は本願相応の念仏であり︑仏の願力の故に往生は必定であると云う︒
葉の指示する処は各々相違するように入られるが︑苦禅の心情に於いては恐ちくひとつであったに相違ない︒然らば
凡そ
︑
七祖の上に於ける教に対する態度は︑曇鸞にあっては信解の道であり︑蒋導のそれは︑
者は信ずるが故に理を求め︑
を正しく把握し︑ それにより信を深めるに対し︑後者は行じてそこに証せんとする逍である︒
﹃論註﹄の他力思想の導ぎによって領受することにより︑善導の心情
そこに産み出されて来たものか祖期の名号釈であるということかてきようか︒
⑲ ﹁一切善悪凡夫得レ生者︑莫レ不此口乗詞阿弥陀仏大願業カ︱為中増上緑r
也 ﹂ 若 以 願 行 釆 収 c J I
レ無因縁︑
処 弥 陀 世 店 本 元 探 承 誉 願
︑ 以 光 明 名 号 一 摂 化 十 方
︑ 但 使 信
⑳ 心求念、上尽二形示‘〖主十声一声等、以一仏願力易レ得1往生こ この心情の一致相応とはいかなるものであろうか の弘願の立場で締めくくりされてあるように ︱‑︑弥陀の大願業力に依る︒ 一︑念仏それ自らの有する願行具足に依る︒ 然るに︑善禅が念仏すれば必ず往生を得ると云うに二つの立場が考えられる︒
宗祖に於ける名号の意義
けれども如上の二義は︑その言
行証の道である︒前
一四
即ち︑前掲の﹁以 かかる行証
宗祖に於ける名号の意義
の法であることが知られる
一五
﹁溺者南無之言帰命﹂と云って︑本来
等と示す文は願行を仏の願行として理解される無限的背屈としての意か認めらむるのてあり︑宋祖は名乃釈と照応し て見るべきものとして行巻に此笠の文を連引している
e然らは宗祖は誇導の六字釈を如何に領解されたのであろうか︒
今は宗祖の面
H
躍如たる行巻の所釈を瞥見することによりこれか考察を巡めていこう
3
先述の如く︑善消とい雲鶯の導きにより︑訴群の六字釈を再釈してその幽麻を開顧し︑帰命か純粋てあるとき必得往
生に対する心情が一致することを明らかにせられたものが祖聖親鷲の名義釈である︒即ち南無阿弥陀仏はその形式に
於いては明らかに衆生より如来へと向って行動されるものてある︒
けれどもその本鉢に於いては如来より衆生へと廻
施される阿弥陀仏の行動が同時に活動しているという深奥の意義を発揮して︑
衆生の信を意味した帰命が如何にして仏の勅命となるかの展開を字訓を以って論理づけ︑続いて
﹁是以帰命者本願招喚之勅命也︑言一発願廻向.者如来已発願廻1
脆衆
生行
.之
心也
︑言
一
1即是其行玉臼即選択本願是也﹂
と︑悉く南無から展開し︑
それが本願を以って一貫せられている︒即ち宗祖は善遠のいう帰命が如来願心の顕現に外
ならないことを明して︑﹁招喚之勅命也﹂と云われたのである︒ここでは帰命と勅命とは別なものではなくて︑帰命は
勅命の顕現であり︑勅命は帰命とあらわれるのてあって︑
ここに願信一舷の義が示されたのである︒称名は我々が如 来を呼ぶ声ではなく︑如来が業苦に流転する我々を一如の浄士へと招き喚び給う声である︑然れば帰命の信はわれか
しこくて信ずるのではなく︑全く如来悲願の廻施による信なることを示すのであり︑
しかも諸仏の称讃に依って本願 招喚の声と思い知らしめら九ることに於いて︑称名念仏は業苦の凡夫が特殊の恩恵を求むるものではなく︑万人同帰
﹁言
・一
即是
其行
一者
即選
択本
願是
也﹂
祖は﹁即是其行﹂を釈して 尋いで﹁発願廻向﹂を解しては︑浄土の思念も如来願心の賜であることを示して︑﹁言哀元願廻向一者如来己発願廻1一
施衆
生之
行一
之心
也﹂
と領会されている︒本来発願廻向は帰命と同じく衆生の側につくべき筈のものであるに拘わらず︑祖聖は逆に如来が 已に衆生の為に発願し︑衆生のために行を施さんとする恵施の心であるとしている︒薔し︑帰命の信心に浄士願生の 心が伴うことは当然であり︑従って帰命の信心が真実であれば自ら得生の想を生ぜずにはいないのであろう︒ここを
﹁亦是発願廻向之義といふは︑二諄のめしにしたがふて︑安楽浄土にむまれむとねがふこころなりとのたまへるな
⑫ り 一
L
と︑行者の願いとなって示されている︒行巻が如来の法として示されるに比較するとき︑機法の転換がなさ九︑
文﹄は衆生の道として説き︑
る︒上述の如く善導は如来の本願を自己の発願廻向の卜に行証されたのである︒従って行証するものの事実は念仏す
る処にのみ仏があり︑念仏せざる者は如来を知ることができないのであって︑如来の発願廻向心を自証するものは︑
我々の発願心の外にはないのである︒然るに帰命の帰には至の義︵仏勅が行者へ杢りとどくこと︶があるから勅命と
は廻向であり︑ ﹃銘文﹄には
両者は一見矛盾するが如くである︒思うに祖聖の領解は筈導の真意を開顕するものであ その廻施は﹁おほせ﹂の外にはなく︑如来の勅命は其の儘に我々の法であり︑道なのである︒されば
勅命は即ち我等衆生の行を廻施し給うのである︒
宗祖に於ける名号の意義
かかる念仏の外に我々の往生の行はないという処に発願廻向に於い
て必然性を顕わすのであり︑而もこのことの具体的な相が阿弥陀仏という仔在にほかならないのてある︒そ九故に宗
一六
﹃銘
宗祖に於ける名号の意義
と︑衆生の行としての念仏か︑
よってあらわれることを示されたのである︒即ち選択本願とは具さには﹁選択本願之行﹂の意味であり︑第十八願の
乃至十念の称名である︒この称名の当鉢がそのまま万行円備の名号であること︑換言すれば︑如何にしても煩悩具足
の凡夫であり︑有限者であるという大地を離れることのできない衆生をして︑能く転迷開悟せしめる不可思談の名号
が︑発願廻向という如来の悲心に動かされて︑衆生の機の上にあらわれたものこそ選択本願の行︑
名であることを顕彰せんとせられたものである︒
ここに再度衆生の行を廻施したもうの心を出されているのである︒
を願生浄土の行として用い︑
如上の考察より︑帰命も︑ わが力で称えるものでなく︑
もって浄土に進趣せしめられるのである︒
発願
廻向
も︑
不行而行の願海に帰して︑
かくして選択の本願は即ち衆生の行を廻施したもうの心即ち大悲の
即是其行もすべて如来の願心の顕現であって︑選択の願心の中から廻向は
なされるのであることが領知される︒祖聖の廻向思想が元祖の選択思想から出て来たものである限り︑
心︑廻向は願力と弁別して云われるが︑願力とは願心が働き出た力に外ならない︒即ち選択精神の中味が廻向であり︑
選択の願心こそ廻向心であると云うことかできる︒従って善尊が六字釈を結ぶに︑
R
﹁上尽二形下至千念﹁以仏願力五否不皆往一﹂
砂﹁一切善悪凡夫得圧者︑莫示止皆乗詞弥陀仏大願業力五記増上縁ゎ也﹂
函 ︸
﹁若
論衆
生垢
障実
難一
一欣
趣﹁
正由
レ託
一一
仏願
︱以
作強
縁一
致レ
使︱
一五
乗斉
入︱
﹂
と云いまた 願心に帰せられるので
一七
一応選択は願 ただ選択の願心を仰ぐことに
即ち乃至十念の称
ここに愚悪の衆生もこれ
等といって︑仏願に乗託して始めて往生し得るので︑衆生の信行で往生し得るのでないことを強調している如く︑真
実の大行が如来願心の顕現として信の上に成就することが顕著に示されていることを頷知できるのである︒さればそ
の本願を信ずると云うことも︑名号に於いて招喚の声を聞くことの外はない︒それ故に宗祖は善導の﹁以こ問義i故必
得往生一﹂を釈して︑
と︑現生不退の義を釈成し︑未来彼岸に往生できる可能性というのではなく︑
住不退転であることを示している︒更に経の﹁即得﹂を釈の﹁必定﹂に合して︑
﹁即言由レ聞願ヵ光爾報土真因決定時剋之極足・也︑必言環鱈疇氾金剛心成就之貌也﹂
と︑すべての解釈が願意を聞くということに結びつけられているのであって︑
る行の成就を強調せられたと思考される︒
上来煩を厭わず︑行巻に示された親鸞の名号釈は︑名号行の純粋他力性を語らんとせられたものであることを卿か 明らかにした︒即ちその領解は如来そのものの衆生に対する端的な事実表現であり︑如来願心の動的把握である︒故
一分の爽雑物の介在をも許さない旨趣を懇示せられるものである︒ここに称名は救いを要求する
声でなく︑それはただ無碍の光を棗嘆するものであり︑大行釈に﹁称無碍光如来名﹂と云われる所以も領解できるの
思うに︑本願に遇い得し感激は︑
は同時に普遍必然の自証を有たねばならないのであり︑斯様に普遍必然の根拠のヒに可能偶然を顕わすものが廻向で
ある︒普遍必然の仏の願いを我々はた主たま遇うことによって信知するのである︒すべての人問の救いの道は我一人 で
ある
︒
に称に称功を入ず
四
﹁言
1一
必得
往生
一者
彰レ
獲レ
至
1一
不退
位一
也﹂
宗祖に於ける名号の意義
]こに行信不離を示して︑信に離れざ その﹁必得﹂はむしろ﹁已得﹂であり︑
それは名号を正しく領解することが信であるということであろうか︒
た主たま遇う処に︑或は全く偶然なる処にこそ一入深いのである︒けれどもそれ
一八
ー 註
宗祖に於ける名号の意義 よりほかはない︒ また全人の救われる道理において︑初めて特殊の実感があるのである︒
一九
が救われると云う処に体験されるのであり︑特殊を貫いた処にすべての人が救わ九る普遍の道理がなくてはならない︒
宗祖は諒導のパ字釈を契機として︑特殊の根源に普遍の法を見出し︑衆生の卜に於ける往生の可能性の根源に如来
の法としての必然性を見出そうとして︑宗祖の名義釈がなされたものと考えられる︒
あるを開顕して︑その深奥の窓義を発揮せらたものと入ることができる︒
実人間の世界は一よろ合のこと︑
それは実に善導の上にその幽息 かくして︑善導・元祖が称名を易行となす ことも︑単に観難称易という相対的な應味に於いてではなくして︑機受無作の故に易行と云われるのである︒即ち現
みなもてそらごとたわごと実あることなき﹂顕倒虚偽の世界である︒
り︑我等衆生に先立って︑自らの名として衆生の上に名告り顕現せられたものが名号である︒
︱つで浄土に往生するということは︑永劫の修行によってであり︑ かかる世界に
あって智眼を有たず︑業報の闇地を辿りつつあり︑而も盤特の輩である我々を救済せずば止まないという大慈悲心よ
しかれば南無阿弥陀仏
そしてそれが廻向と云うことであったのである︒
⑳ ﹁明知是非1一凡聖自力之行﹁故名一.不廻向之行︱也.大小聖人菫軽悪人︑皆同斉応ら帰
1一選択大宝海.念仏成仏亡
と結ばれる如く︑名号六字が如来の願心から出生する念仏であるが故に︑凡ゆるはからいを超えた如来の名告りであ
り︑我々には何程の加うべき要もなく︑計らうべき術もなく︑
﹃選
択集
﹄本
︐︱
﹄/
!‑
エ.
に﹁
名号
者是
万徳
之所
レ帰
也﹂
とい
って
念仏
が勝
の義
を有
する
こと
を︑
主た
﹁念
仏易
レ修
諸行
難レ
修﹂
と易行である所以を夫々例ホを以って明らかにしている︒
洵に宗祖が
生涯かけて名に喚び覚され︑名の世界に帰入して行く
13 12 10
︐
87 ー
6 5 4 3 2
﹃六要会本﹄巻一五
﹃大正蔵﹄巻三︱.︱ニー頁中
て一
三︱
右 ︱
1,
. 左 ﹃安楽集﹄上
一七
左一
右 七
一じ
左
1じ右
﹃ 同 ﹃ 同 ﹃ 同
右 ﹄ 右 ﹄ 右 ﹄
﹃玄
義分
﹄
四右初右五右
一九
﹃ 論 註
﹄ 下 右
﹃ 同
右﹄
﹃ 同 右 ﹄
﹃御
自釈
﹄
宗祖に於ける名号の意義
26 25 22 21 20 9 4 1 2
18 17 15
﹃玄
義分
﹄
﹃御
自釈
﹄
散善義就行立信釈下に於いて行の意義を廻向発願心釈
下て願の意義を夫々に明示していられる如くである︒
\ 右 ﹃散善義﹄/
︱
1 0
右
﹃玄
義分
﹄ 三右 ﹃同右﹄
﹃ 礼 讃
﹄ 年
4︑ 七 左 右
﹃御自釈﹄ノ
i
﹃親鸞聖人全集﹄和文篇
︱1
0
左 9,.
︱
‑0
右し4ノ右
1 4 1 6
2 3
﹃同右﹄
左
□ [
五四頁 二0
なお
︑
いる ても
親鸞教学に於ける方便の意義
親鸞聖人の宗教は︑
真実を顕す宗教である︒そのことは真宗または浄士真宗なる宗名を見れば︑直ちに看取しうる
この真実の宗教たる真宗において︑方便というものが︑軍要なる地位を占めて
﹁真実の巻﹂であるに対し︑第六巻本末か﹁方便の巻﹂であるのは︑
してあまりがある︒真実の宗教たる真宗の中に︑方便か説かれるのは如何なる意味があるのであろうか︒この問題に
ついて一考してみたいというのが︑本論起稿の目的である︒
ここに謂ゆる方便なる用語は︑
に﹁釈迦弥陀は慈悲の父母︑種々に善巧方便し︑
われらが無上の信心を︑発起せしめたまひけり﹂とある如く︑仏が
慈悲の立場より︑真実を真実として伝える方法である︒曇鸞大師の﹃往生論註﹄に﹁正直曰レ方︑外レ已ロレ便︑依一正 ﹃教行信証﹄の前五巻が 一層明らかである︒しかるに
もちろん権仮方便であって善巧方便ではない︒善巧方便とは︑
ところである︒また真宋の根本聖典たる﹃教行信証﹄が
このことを証
﹃高
僧和
讃﹄
﹁顕浄土真実教行証文類﹂と名づけられていることによっ
序
親鸞教学に於ける方便の意義
普 賢
大
円
の要真二門の法義がそれである 囲妬咬方
便は
︑
﹃浄士和讃﹄に﹁聖道権仮の方便に ﹃本典﹄における﹃方便化身土巻﹄の いまだ真実を知らざるも
﹃ 論
生下憐淑i
一切
衆生
︱心
上︑
依
1一
外已
一故
︑遠
下離
供辛
箕恭
11一敬自身︱心上﹂とあるのは︑方便の一一字を正直と外已とに
分釈しているが︑
着する心を遠離する︵外已︶をいうものである︒
のに
対し
︑
ので
ある
︒
これは自他同体不二を知るが故に一切衆生を憐懲する心を生じ︵正直︶︑外已の慈悲によって自身にR また同じく﹃論註﹄に﹁般若者達如之恵名︑
云われているように︑実智を離れざる権智の立場より衆機を省みて教化をほどこすことを方便というのである︒
註﹄におけるこれらの方便の解釈は︑何れも善巧方便に関するものであって︑
それは仏が真如法性を党った真実の立
場より行われる衆生救済の活動を指すものということが出来る︒これに対し権仮方使とは︑
これを真実へまで導くために︑
これに相当する︒
まりて﹂とあるものが︑ かりに設けられたる方便であって︑ 方便者通レ権之智称﹂と
かの﹃信巻﹄の真仏弟子の釈にコ︱︱口真仏弟子一者︑真言対レ偽対レ仮也﹂と云い︑その仮を
説明してニ︱
9
仮者即是聖道諸機︑浄士定散機也﹂とあり︑正しくこの権仮方便なのである︒古来この権仮方便は暫用還廃を意味するものと云われてい
る︒暫用とは真実を知らざるものを尊いて真実に人らしむるまでの間︑しばらく用いることであり︑還廃とは真実に
入り終れば廃し去られるをいう︒されば権仮方便とは︑未熟の機を誘引して真実にまで人らしむる階梯となるものを
指すということになる︒これを親鸞の教学の中において︑具体的にその物柄を指すならば︑
衆生ひさしくとど
咽道門の法義および浄土
本論は顕真実の親鸞教学の中で︑権仮方便たる聖逍門および要真一一門の法義が如何なる怠義を持っているか︑更に
進んでは邪偽の宗教たる外道が如何なる謡義を持っているかという間題について︑少しばかり論じてみようとするも
親鸞教学に於ける方便の意義
親鸞教学に於ける方便の意義
簡 非 と し て の 方 便 およそ本典の法義に︑従生向仏の往生門の立場と︑従仏向生の正党門の立場とがあることは︑常に云われる通りで ある︒この中︑往生門の立場は衆生か教・行・信・証・真仏土と︑往牛浄士してゆく次第を明らかにするものであっ
て︑この場合︑本典一部六巻は大いに分って二となる︒その一は顕是であり︑
・真仏土の前五巻は︑その題号に何れも﹁顕頁実﹂の語を冠することによって知りうるように︑是を顕す﹁貫実の巻﹂
であるに対し︑第六巻たる化身土の一巻は︑
簡びすてる﹁方便の巻﹂である︒真実の巻たる前五巻に対して︑方便の巻たる第六巻が説かれてあるのは︑およそ如
何なる意味があるかというに︑
これは真実と方便とを対映することによって︑方便は廃せらるべきもの︑真実は立せ
らるべきものなることを明らかにし︑もって真実の真実なることを︑
れば方便とは︑この場合︑簡非の意味をもつものであって︑
いま往生門における顕是簡非の有様を見ると︑先づ﹃化巻﹄の題号そのものに注目せねばならぬ︒
ている︒第六巻の内容は単に化身土に限定されていないのに︑身土をもって題号が施されている所以は︑方便化身土 を捨てて真仏土に証入せよと非を簡ひ是を顕されたものである︒これけだし︑稲稗は苗においては分ち難いが︑実に 至って弁じ易きが如く︑因相に在っては真仮弁じ難いけれども︑果相に於いては真仮の得失が判然とし易い︒それ故
に果相について﹁化身土文類﹂と題し︑
その題号に﹁顕方便﹂の語を冠することによって知りうるように︑非を
もって仮を拾て真に帰すべしと簡非の意味を示されたのである︒
﹃化巻﹄の内容について︑簡非の意味を明らかすると︑ は具さには﹁顕浄土方便化身土文類﹂と題されているがこれは正しく第五巻たる﹁顕浄土真仏土文類﹂に対照され ﹃化巻﹄の題号 この立場は真仮廃立を行うものである︒﹃化巻﹄には先づ化身化士を示して︑
仏は﹃観経﹄の冥身
いよいよ明瞭ならしめようとするのである︒さ
その二は簡非である︒教・行・信・圃
うる
︒
門の真仮廃立を行ったのである︒ 観
の仏
︑
土は﹃観経﹄の九品の浄士としている︒
土の不可思談光如来・無贔光明土に対比し︑もって顕是簡非をなしている︒
つきに要門︵第十九願︶と真門︵第二十願︶
︵﹁邪定棗機﹂﹁不定緊機﹂は これは何れも数量を計量される要真二門所入の身土であって︑真仏
との教義が相ついで明かされているが︑
実の四法に対し方便の四法を示し︑もって顕是簡非をなしたのである︒行とは修諸
功徳︑信とは至心発願欲生︑証とは雙樹林下往生であり︑二十願の教とは﹃阿弥陀経﹄︑行とは植諸徳本︑信とは至心
廻向欲生︑証とは難思往生である︒このことは﹃化巻﹄の糠挙によく顕わされている︒
十九・ニ十両願の行信を含んでいる'︶この十九・ニ十両願の方便四法に対し︑前四巻は真実の四法を出し顕是をなし
ている︒各巻の楔挙を化巻の標挙に対照すると︑
て真偽廃立︑顕是簡非をなしたのである.
って顕是簡非したのである︒
親鸞教学に於ける方便の意義
このことが明瞭になるが︑今は煩をいとうてその説明を省略する︒
次に﹃化巻﹄には﹁信知聖道諸教為︱4在世正法こと云うより本巻の終りまでは︑聖道教について説かれている︒こ
れは聖道方便の一一一法と浄土真実の一二法とを相対し︑一一一時の通塞によって︑顕是簡非したのである︒即ち聖道の三法は
正像末の三時に衰変があるから仮とし︑浄土の三法は一︱一時に通入するから真とし︑一一門相対し約時被機して︑
﹃化巻﹄の末巻には外道邪偽の異執を教誡しているか︑ 聖浄二
これは前五巻の真実の法義に対し邪偽の教法を示し︑もっ
これを要するに︑往生門の場合は︑前五巻と第六巻とは︑真仮廃立と真偽廃立とによって真仮偽の批判をなし︑も
したがって権仮方便とは︑真実を顕わすための簡非の意義を持つものであることが知り 十九願の教とは﹃観無贔寿経﹄︑ これは前五巻に顕されている真
ニ四
親鸞教学に於ける方便の意義
分﹂の﹁発
1一
四十
八願
f 本典組織の中︑往生門に対する今︱つの立場は正党門である︒始終をいう︒教行信証の四法組織に対する往遠一一廻向の組織がこれである︒何なる意味を持つかというに︑それは権用ということになる︒権用とは仏がいまだ真実を知らざるもののために︑真実の立場より︑の
であ
る︒
授記経﹂を会釈する文を引用している︒それによれば を従仮入真せしめようとする立場である
権 用 と し て の 方 便
かりに方便を垂れて︑
従仮真せしめようとするものである︒ これは従仏向生の立場であり︑仏が衆生を摂化する
これを真実に誘人する作用をいう︒
いま﹃化巻﹄の内容について云えば︑ この正覚門の場合︑
したがって権用は従真垂仮して︑未熟の機
まづ化身化土は真仏真土の権用である︒
﹁授記経﹂に報身入滅を説くのは化土の相であるが︑
身入滅の当体即ち報身常住である︒化身化土は真仏真土の体上に於ける権用であって︑未熟の機に対し従真垂仮して
④ ﹁末燈紗﹄に﹁仏恩のふかきことは塀慢辺地に往生し︑疑城胎宮に往生するだ
にも︑弥陀の御ちかひのなかに︑第十九︑第二十の御あはれみにてこそ︑
要門真門の方便四法も亦︑真実体上の権用である︒
る第十九•第二十両願の願相は仮であるが、 不思議のたのしみにあふことにてさふらへ︒
その願底には真実が流れていることを.説き︑
一々願言若我得レ仏︑十方衆生︑称二我名号一等﹂の一文を引用して︑
二五 その化
仏恩のふかきこと︑そのきはもなし﹂とあるのは︑正に化身化土は如来の大慈悲の化現せるものなることを示せるも
⑤ また﹃真仏土巻﹄に﹁真仮皆是酬一競報大悲願海へ故知報仏土也﹂というのも亦同様である︒
⑥ ﹃化巻﹄に﹁按1方便之願﹁有レ仮有レ真﹂というて︑方便願た
R また﹃真仏士巻﹄に﹁玄義
四十八願全体︵この中に
第十九•第二十両願の方便願あり)に第十八願の冥実が遍満していることを示している。こ九主た真実体卜の権用で ⑧ ﹃真仏土巻﹄に﹃玄義分﹄の﹁観音 ﹃化巻﹄の方便は如
四
体上の権用ということになる︒ これを要するに あって︑従真垂仮して︑従仮入真せしめようとするものてある︒R ﹃化巻﹄に聖道を呼んで﹁利他教化地方便権門之道路也﹂というものと︑
還相廻向を指して利他教化地益也﹂と云えるものとを対照し︑
になる︒即ち聖道の法義は弥陀の浄士よりこの世界に遠来して説かれたもので︑
であ
る︒
なし
︑ またこれを﹃大無塁寿経﹄序分に於いて窺うならば︑来会の聴衆をもって修普賢徳の菩薩即ち還相の菩薩と
それに釈尊一代の八相成道の相をゆづっている︒これけだし︑
ら︑それを修普賢徳の還相廻向の相としているのである︒
して︑衆生をして従仮人真せしむるものである︒
⑩ 外道も亦﹃化巻﹄に引用せられている﹃弁正論﹄によれば︑還相に属して真実体上の権用となる︒﹃弁正論﹄に日<
興已涜之末へ玄虚沖一之旨︑ 須弥四域経云応声菩薩為︱1空寂所間経云加葉為1
一 老 子 ︱
二皇統レ化伏五吉祥菩薩為女禍︱居停風之初﹁三聖立ピ︱︱︱口儒童為孔+︱光浄為顔回︱
黄老成笠其談︱詩書礼楽之文︑周孔隆其教﹁明レ謙守レ質︑乃登レ聖之階梯゜
と︒これによれば伏義と女鍋とをもって応声菩薩と吉祥菩薩の理迩となし︑加葉と仙童と光浄とをもって老子と孔子
と顔回の本地なし︑しかもこれら儒教道教に於ける賢期の道を︑仏の聖教に登るの階梯としている︒
って真実体上の権用とせるものである︒
﹃化巻﹄所明の化身土︑要頁二門︑
方便の存在理由
聖道の法門は還相に擬する 親鸞教学に於ける方便の意義
これを関連せしめる時は︑聖道一代は還相ということ
それは真実に入らしむるための方便
八相成道して聖道の法門が説かれるのであるか
されば聖道の法門も亦真実体上の権用であって︑従真垂仮 叩道及ひ外道は︑佃れも従真華仮して従仮人真せしめる真実
二六
これは外道をも R ﹃証巻﹄に
親鸞教学に於ける方便の意義
実か明らかでないが
方便は真実ではない︒真実を顕す親鸞の宋教に於いては︑方便は当然︑廃せらるべぎものである︒若し方便と真実
﹃教行信証﹄の中に︑詳しく述べられているが︑その﹃教行偏誰﹄の総題は﹁顕浄士真実教行証文類﹂である︒
﹁顕真実の甚﹂の中に︑真実の教・行・信・証・真仏土を顕す前五巻があることは︸目肯できるが︑
る第六巻が存在するのは︑如何なる理由によるのであろうか︒
いう
こと
は︑
この方便の存在理由を充分に説明しているということか出来る︒即ち方便は簡非によって顕是し︑真仮
廃立することによって︑
真実の真実たる事実を明らかならしめようとするものである︒白は白の五では白の白たる事
様であって︑真実は方便と対比廃立することによって︑真実の真実たる事実が明らかにされる︒
る︒それは従真垂仮し︑従仮入真せしむるものであるし真実を知らざるものを放置しておいては︑何時までたっても
真実に入ることは出来ない︒
まで誘導する必要がある︒ ここに真実の立場より降り来って︑真実を知らぎるものの能力に応同し︑
ここに権用として方便の存在理由がある︒
さてこの方便の持つ簡非と権川の二義は︑
心の立場に至って︑ 両者全く無関係のものか︑
にあるのか︒この点について考察を加えて見ねばならぬ︒惟うに頁実を真実と知り︑方便を方便と知るのは︑真実信
はじめて能くこれをなしうる︒
然のことと思惟しているのである︒
われる︒簡非顕是は真仮廃立の上に成立するものであるから︑方便を簡非と見るのは︑真実信心の上に於いてはじめ
て云いうるのである︒
いよいよ白の白たる事実を明瞭にすることが出来る︒今も阿 いまだ真実信心を得ず方便の行信に停滞している間は︑方便を当
しかるに一度真実信心をうるにいたると︑
しかるにこの真実信心の立場より︑ 白は黒と対比することによって
︱ ︱七
親鸞の教学は
この
﹁顕方便の書﹂た
上来︑述べて来た方便に筒非と権用との両義があると
また方便は権用であ
これを真実に
それとも両者は切り離すことの出来ない関係
ここにはじめて真仮の廃立が分明に行
過き来し過去を回顧するとき︑過去の諸経験はすべて自已
との関係が︑単にこの廃立に止まるならば︑親鸞の教学の中に方便の存在する理由が明らかでない︒