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異宗連合事曾研究紀要
一一第十四輯一一
腎醤釆” 44s手 11I=弓
︵ 日 絵 解 説 ︶ 口 I司 凶 専 修 寺 球 国 宝
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抄
両方指南抄が新国宝に指定されたのは、昭和二十八年十一月十四日であった。専修十寸に伝わるなタくの聖人 盲目蹟の中から、三帖和讃とならんでこれが選ばれたのは、聖人編集にかかるもののうち最大で主要な作品で あることと、筆跡とその保存の優秀さの放である、と聞いている。 正にその筆跡は、現存する聖人真蹟の中での白眉であること、衆H
の 一 致 す る と こ ろ で あ ん 一 う 。 聖 人 狗 特 の個性豊かな、それでいて全く嫌味のない枯淡そのもの、といった味は、いつ拝しても飽きることがない。 ただ指南抄の編者を親驚とするについては、その後亦松俊秀先生の反論もあったりして、必ずしも学界の 忘説とはなっていない。先に生桑完明先生は﹃親驚聖人全集輯録篇﹄の解説で、﹁専修寺に蔵する真筆木は 聖 人 の 自 筆 稿 本 と 認 定 し た い ﹂ と 提 案 せ ら れ た が 、 原 木 に 加 除 一 訂 正 な ど ’H
筆 E 柄本としての一般的特徴が少な いために、残念ながら賛成の声は小さいようである。しかし昭和四十一年の真宗連合学会大会での霊山氏の 研究発表もあって、消極的ながらやはり親驚編集と考えておきたい、という人が大部分なのではないだろう か。それはあながち高間派関係者の希望的観測でもあるまい。 附和四十凶年六月一日、真宗連合学会第十六同大会、か高田本山で開催され、真宗関係学界の最高頭脳が参 集されることとなったので、この機会にこれらの面についての研究が少しでも前進すれば、という則待もあ って、附和二十九年の第一回大会以米十五年ぶりにこれを展観し、大会参加記念品もその﹁上末﹂大足を原 色で複製配布せられるニとになった次第である。 なお従来の解説では、真仏上人の伝持を一不す表紙の文字は、すべて別筆であるかのように三口われている が 、 ﹁ 卜 一 末 ﹂ ︵ 現 在 は ﹁ 上 木 ﹂ に 綴 じ ら れ て い る ︶ の 原 表 紙 は 聖 人 真 筆 と 一 認 め ら れ る の で 、 ニ の 一 際 あ わ せ て 先 生 方 の 御 検 分 を 得 た い 。 ︵ 平 松 令 一 二 ︶真
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現代の青年像と宗教教育について
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I l a − 両 校 生 を 対 象 と し て | |真宗に於ける布教と今後の課題についての一考察:
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古写本から見た﹁三帖和讃﹂の問題::
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宗祖の法体大行説の思想背景
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本願寺歴代の葬礼について
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我が国の往生思想について
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現代の青年像と宗教教育について
ー l 高校生を対象として!|片
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︵ 仏 光 寺 派 ︶ は じ め に 現今、わが国における青少年に関する問題は、極めて深刻になって来ていることは、周知のところである。 現実の高校では、知識偏重から、受験準備教育が重視され、人格の陶冶も十分になされず、生活行動の指導も不徹 底になっているような実状にある。従って、多くの生徒が学習意欲を失い、思春期だけに悩みも大きく、反発心が強 く 出 て 来 て 、 いろいろと問題を起している。 このような問題を解明するために、高校三年生を対象にして実態調査をし、問題点をあげ、実例により検討を加え、 今後のあり方について考察してみることにした。本
主怠企、 面開 まず、昭和四十四年五月に実施した、K
高校の実態調査について述べよう。 現 代 の 青 年 像 と 宗 教 教 育 に つ い て現 代 の 青 年 像 と 宗 教 教 育 に つ い て ﹂ れ は 、 対 象 生 徒 、 。 普 通 科 。 農 業 科 男 男 子 子
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名 名 女 女 子 子 37 Jl2 名 名 A 口 計m
名 (A) 勉強に関して 好 き で ある
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好 理 き 解 な し 科 や 目 す の い 場 時 I』 日 嫌 で ある
71 % 勉 理 強 解 方 困 法 難 が な 不 た 明 め な た め また、家庭での学習時聞が、 一 日 平 均 三O
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一時間が幻%あり、受験生徒でも四時間という者は、 わずか3%
と い う 実 状 で あ っ た 。 しかも、勉強する時には、音楽を聞いたり、ラジオをかけたりするという﹁ナガラ族﹂になって いるのがお%となっていた。 まとめてみると、真剣に学習に取りくむ気持が不十分で、安易に考え、単純に表面を整え、学習はエチケットのよ うに、身につけるものの如く考えている生徒が、 かなり多くあるように感じとられる。 な お 、 (B) 余暇・趣味に関して 。テレどを見るのが好きである・:回% 一 日 平 均 二J
三 時 間 ・ : 羽 % ︵ 品 % ︵ 男 子 ︶ 。 映 画 を 見 る の が 好 き で あ る ・ : + ︵ 担 % ︵ 女 子 ︶。漫画・週刊誌を読む:・6% 。 流 行 歌 が 好 き で 、 ︵ 侃 % ︵ 男 子 ︶ よ く 口 ず さ む : ・ + ︵ 団 % ︵ 女 子 ︶ とかく刺戟を好み、娯楽的な内容には非常な関心をもち、その雰囲気に浸って、人生を謡歌しているように観察で きる。この中で、欲求不満を解消しているようでは、青少年も悪化する恐れが十分にあると思われる。 以上のことから、学習と余暇には、強くアンバランスが出ていることが感じとられ、従って、現代っ子には、視覚 型・感覚振が多くなり、浅く広くいろいろのことを知ってはいるが、人間として持っている知恵を、どのように伸ば し、生かせばよいかを知らないように考えられる。 しかも、無思考型が多く、困った時には、条件反射的に逃避する傾向が強くなって来ている現状であるように感じ られるのも、当然の結果であるようである。 一 方 、 (C) 家庭生活に関して 。親子で話し合いを殆んどしない・:お% その理由づけとして、年代のずれから起る意見の対立や、親の期待が大き過、ぎることに対する反発心、親と子の生 活内容の相違から、ということがあがっていた。 親は生活程度をあげるために、多忙な職業をもつことから、親子のすれ違い生活が始まり、ゆっくりと団らんした り、話し合う時間もないことは、相互にちぐはぐの生活を展開していることになっている。 たとえ、テレビを一緒に 見ていても、それだけのことで対話にはなっていないのである。 現 代 の 青 年 像 と 宗 教 教 育 に つ い て
現 代 の 青 年 像 と 宗 教 教 育 に つ い て 四 な お 、 。親に望みたいことがある:−m% その内容としては、子供を信頼してほしい、意見を聞いて自分をもっと知ってほしいとか、話し合ってお互に親し く し た い 、 という希望が強くなっていた。 更 に 、 倒人生に関して、どのように考えているか。 。 生 き 甲 斐 が あ る ・ : 日 % 。生き甲斐がないと解答しているのが圧倒的に多かった。 ﹁ 友 達 ・ ・ ・ お % 。悩みの相談相手にはト親:::日% 一 ひ と り で 解 決 す る ・ : 却 % 経験の乏しい者が自分一人で、 または、友人同志でうまく解決出来るであろうかと、考えさせられた。また、 将 来 希 望 ぢ 、 も て
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44 33 % % r、' r「、 女 男 子 子 ¥ J ¥ J ︵ 能 力 に 自 信 が な い か ら : − m % それはよ ︵ 生 活 目 標 が な い か ら : − m % と 出 て い る 。 そのような生徒は、現代は、政治や社会機構・秩序・管理体制・対人関係の面において、矛盾が多いので、進路に関しても不安な気持ちがすると、 ﹂ の よ う な 問 題 は 、 複 雑 で 、 意 見 を 出 し て い た 。 先ず、根本的なガイダンスが必要であることを痛感させられる。 こ こ で 、 (E) 宗教に関して 。 家 の 宗 教 ・ : 仏 教 : ・ 臼 % その他、天理教、キリスト教、神道が見られる。なお、 。 自 分 が 信 じ て い る 宗 教 : ・ 仏 教 : ・ 8 % キリスト教・創価学会・世界メシヤ教等が極く少数あり、 。宗教は嫌いですと言っている者も、数名出ていた。 これから見て、仏教は、家の宗教であって、青年個人の信仰にまで及んでいない、形式的なものに過ぎないと言え マ 心 。 そ の 他 、 アンケートに示された意見から考察してみると、彼等は、単純で打算的にして、物質至上主義に落ち入つ ていて、忍耐力が乏しく、安易な享楽を好む傾向が強く、思索力が弱く、都合のいい感情をもって衝動的に行動する 傾向が伺われる。だから、 H −
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や学校行事等の集団活動においても、自主性に欠け、無責任である者が多く、協力 性が著しく不足していると推察できる。 好ましくない面のみが、顕著に出されて来たわけであるが、 一方、体育クラブの活動面においては、積極的・意欲 的に活躍し、高校生活をエンジョイしている者も、 かなり多く出ている現状で、彼等にとっては、健康的なエネルギ ーの発散をしていると言える。従って、自主的に高校生活の計画を立て、生活の目標を確実にもって、楽しく有意義 現 代 の 青 年 像 と 宗 教 教 育 に つ い てヨ
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一 ノ に送って来ている生徒には、白ら開拓し、伸ぼしていく実力が認められるが、問題生徒を如何に指導していくかが、 現 代 の 青 年 像 と 宗 教 教 育 に つ い て 大きな課題となって残っているわけである。 次 に 、 いろいろな指奪事例をあげると、 ①座談会の事例︵女子生徒加名︶ 両親とよく話すという者は少数で、その理由は、意見が違い、自分の考えが間違っていると一言われるから、何とな く 話 し に く い 、 というように、実態調査と同じような発言であった。 また、進路に関する悩みが多く、その解決として、家族の者に強く当ったり、 ノートに書くことで欲求不満を解消 するというような、衝動的で単純な行動をしていることがわかった。 従って、何かにすがりついてみたいという要求が、宗教的雰囲気にひたりたいという気持を起して来ているように 感 じ 取 ら れ た 。 ②非行生徒の指導例 次 に 、 カンニングや公共物破壊で、家庭謹慎になっていた非行生徒の指導例を示す。 問題点は、両親が農業を営み、多忙であったことと、家族との対話がほとんどなかったことや、弱い性格で、将来 の希望を持っていないようなことであった。 毎 晩 一J
二時間話し合い、学習を見てやることから始め、 日常茶飯事の内容を気楽に話しながら、彼の立場をよく 理解し、同情していくことで安心感を与えてやった結果、数日後には反応を示し、二十日程たつと活気を持ち、素直 に自分の行動の軽卒を認め、 ﹁誤った無責任なことをしたことを反省している L等と口ばしるようになって来た。 その後、明朗な気分で何でも話すようになって来たし、進路についての決め方など、相談にのってやり、二カ月の 指導期聞を終えて、就職もやっと決まり、立ち直って来たことを報告する。 ③
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− R での指導 毎週の水曜日のL
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・ R の 時 に 、 いろいろ形を変えて指導を進めてみた。 。 全 体 指 導 で は 、 一年時に、高校生活の音、覇、人生の意義や目的をみつけ出すように、三年時では、充実したやり 甲 斐 の あ る 学 習 や 、 クラブ活動を展開するように努力させ、三年時で、志望進路の達成をめざして、相互に努力 さ せ る よ う に し た 。 。 そ の 他 、 H − R 活動の推進について、討論会を自主的に開催させたり、小グループで討議をさせたりしてみた。 しかし、保護者の協力も必要なので、次のような懇談会を実施した。 A 個別懇談会︵H
・R
− T と 保 護 者 ︶ B 相互懇談会︵保護者同志︶ 各学期末に実施した結果、保護者とは密接なつながりもできて、気楽に相談するようになり、困った事も、早期に 対策を考えるようになっていきました。 また、進路相談では、生徒・保護者・教師との一二者懇談を行い、自信を Jぬって目的が達成できるように進めていっ 7こ 結局、高校三年間に、こうした系統的な指導を行うことが、良い成果を生むことは、確信できるが、 高校生の自覚と、自主性と、実行力をつけるためのアドバイスに、重要な意義があるように思われる。 しっかりした 現 代 の 青 年 像 と 宗 教 教 育 に つ い て 七現 代 の 青 年 像 と 宗 教 教 育 に つ い て 八 ここに、宗教の必要性を認め、どのように具体的に進めて行けばよいかを、考えていきたいと思う。 現代人は、忙しいあせりのために、表面は充実しているように見えていながら、健康な生命を失った、うつろな一 大空白感があるようである。殊に世相に敏感なのは青少年であり、大人の姿勢を反映し、環境の影響を受けないとい うことは、あり得ないことである。 よく考え、地道に歩む若人が如何に少いことであろう。 中流以上の家庭の青少年の犯罪がふえ、心のよりどころを失って、自殺する者が数多いことを、全国統計は示して い る 。 中央教育審議会の最終答申で、期待される人間像、日本人に特に期待される人間像第一章、個人として︵チ︶ の と こ ろ で 、 ﹁われわれには精神的な生命がある。このような生命の根源、すなわち聖なるものに対する長敬の念が真の宗教的 情操であり、人間の尊厳と愛もそれに基づき、深い感謝の念も、そこからわき、真の幸福もそれに基づく﹂ と 言 わ れ て い る 。 ﹂ の 人 間 像 の 発 想 に は 、 ﹁物を軽視することになってはいけない﹂という批判もあるが、卒直に見て、そのような 精神面の手ぬかりが、現代社会組織の中には見られる。同時に、 マス・コミによる悪影響が、青少年の非行化の大き な原因となっているようにも考えられる。 現代人は、宗教に無知識な者が多く、外面の絢欄たる科学の発達のかげにかくれて、人間性の進歩をおろそかにし て来た欠陥を、認めざるを得ない時期に当面している。 現代の社会機構の中において、没個性的に、機械的に、自己喪失の状態に落ち入っていて、生の深い感激・感動の 体験に極めて乏しくなっているから、彼等、が、白分をごまかして、現実に妥協せず、人生を真剣に考え、菩提心を発
すように、仏教を、現代の日常語、庶民の言葉で語る機会をつくり、白他の仏性にめざめ、人間の生命の尊さを向覚 さ せ な け れ ば な ら な い 。 それと併行して、普因善果・悪因悪果の因果の道理を、宇宙の法則等と共に話し、物事の成り行きが、 こ の よ う に なっていることを、十分に理解させることによって、 ままならぬ世の中であることを知らせたいものである。 戦 後 、 アメリカの自由主義の教育を取り入れて来た過程において、 わ が 国 民 性 か ら し で も 、 かなり無理のある不十 分な、適切なものではなかったことを反省しなければならず、もっとわが国民の生活態度や、慣習などにマッチした ものを打ち出していかねばならない。 現在の小・中学校においては、道徳教育を取り入れたカリキュラムの改訂がなされているが、高校においては、 四 十八年度に、教育課程の改訂がなされる。その際に、特別教育活動として、その中に、宗教的情操教育をするための 指導体制を整え、制度化する必要がある。 従って、学校教育の中にも、人生の価値観を知らせるような修養講座を毎週もうけたり、個人のガイダンスにおい ても、人生の意義をしっかりと教える人生相談を実施したりして、積極的な方向へ実際に歩んでいくべきであると思 う 結 ひ 王 以 上 るる述べて来たが、今後に与えられる課題は多く、非常な困難を予測する。教育の現場の中で、或は、地域 団体・保護者の方達の協力を得て、実現出来るように努力を傾注したいと思う。 現 代 の 青 年 像 と 宗 教 教 育 に つ い て 九
真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察
。
真宗に於ける布教と
今後の課題についての
一
考
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私は若くして父を失い自動的に高田涯一末寺の住職となって既に二十年以上の年月を過してしまいました。この間 自 分 自 身 、 一 体 何 を ど の よ う に な す べ き か 。 一体何をしてきたというのであろうか、という疑問をもちつつ、今なお その疑問は解消されないまま持ち続けている問題でもあります。それは真宗の寺院に生活する者の一生活内容が如何に あるべきかという自分自身への問いかけと同時に、 日々の寺務を行いつつ特に過去の寺院生活への疑問であり、今後 のあり方に対する模索の一端を出ないものであります。その点で現今宗教教化学とか真宗教化学といわれる学聞が問 題とされ、研究がその緒につこうとしていることは私にとって大いに注目すべきことだと感じている次第であります。 いつもそうでありますように真宗に於いて一番大きい信仰という問題にかかわって教化活動とか布教という点でよ く云われる言葉に﹁自信教入信﹂ ﹁ 非 僧 非 俗 ﹂ ﹁同行同朋﹂という言葉があり、特にその中の﹁自信教人信﹂という 言葉が中心になろうかと思うのであります。真宗に於ける﹁自信教人信﹂の関係を時間的前後から考えたり、自信と いう確固たる固定した信仰内容であるべきものとして、その後に教人信という立場があるという考え方でなくて自信のよろこびが他をして同時に同じき信のよろこびを生み味わうというべき意識、所謂同行同朋としての意識を持たし めることになるのであって、真宗に於ける信仰生活そのものが自信と教人信とを分つものでは決してないように思う のであります。真宗にあっては念仏生活ということがそのものの全体を含んでいると考えるべきであります。 そこに親驚聖人が法然上人に会われて、如来の本願に気づかれたその時から九十才の最後まで同行同朋としての念 仏教化の御生涯であったと思われるのであります。決して自己への深い反省が宗祖をして宗祖をとりまく有縁の人々 への教化を鈍らせる如きことはなかったと云わなければなりません。 然るに宗祖聖人以後の真宗教団が常にかかる宗祖の歓びにかえる純化運動の中にあって、教団自身の持っその時代 時代を正しく把握することにおいて正しい教団であり得たかどうか、 と い う こ と を 思 う と き 、 いろいろの問題点に逢 着せざるをえません。只単に宗祖の時代にいつの時代に於いてもそのまま帰るということは不可能なことであって、 その時代時代に於いて如何に宗祖の祖意を汲みつつ、 より正しい意味でどのように教団自体があるべきかということ への深い留意が必要であるということであります。それは特に江戸時代に組織教団となり、更には明治以後の政治と その宗教政策を見るとき、凡そ宗祖の時代に於ける同朋教団とは次第にほど遠いものになっていったように思うので あ り ま す 。 かかる意味で現実に本山という組織教団があり、その組織の中の末寺寺院がある以上、この組織教団を抜いて宗祖 にかえるということは出来得ないことであろうかと思うのであります。だから現実の問題として真宗教団は教団を持 ちながら宗祖をとりまく同朋教団としての在り方に留意しなければならないと思うのであります。それは一つには真 宗に於ける教団としてその内部にあくまでも各人各人が深い個的な自覚を持ちつつ、第二に普遍的教理の研究という 真宗学的性格を具備し、第三には更にそれが同朋教団という一つの歓びの集りとしての教団であるということ、 の 真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察
青 空 − r 引 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 遁 己 つ い て の 一 考 察 三つの性格を忘れない教団づくりというものに真剣な努力が払われなけれぽならないと思うのであります。そこで今 回は教団の性格の第一の点では仏教カウンセラーの問題につな、かるものがあると存じますが、これは演題からはぶい て、この中で第二、第三の性格についてふれてみたいと思います。 特に第二の教団における真宗学的性格という点で、従来の方向に一つの問題点を発見することが出来るのではない か、それは真宗門子が本山の組織教団としての学問の性格を持ち、真宗教団が宗祖の同朋教団の性格を失えば失うほど 宗祇根生に捕われた組織のための教団となり下っていったことも間違いがないように思うのであります。所謂、真宗 学というものによってフルイ分け、選別するという形で真宗学そのものの性格がより厳しいもの、 より冷たいものと なっていった一面はありや否やという反省がなされるのであります。 ﹂ の 点 で 現 代 社 会 に あ っ て は 、 より正しいも の、より現代的なるものを選びとってゆくべき学問の方向としての学、あらゆるものを受け入れ、あらゆる試みを包 合して温かく指導助言すべき真宗学となってゆくべき時代に来ているのではないか。真宗学があくまでも自信に厳し く、自己内省をくりかえしつつ教入信的な動きの中にあっては、あらゆる試みをなし、現代社会の中に解け入ってゆ くべき積極的な構えを忘れない学問であると同時に、教化布教という実践活動に直結した学問でなければならないよ う に 思 う の で あ り ま す 。 かかる点で今日発足された宗教教化学とか真宗教化学といわれる学問の研究の一部を拝見するとき、何か新らしい 分野、忘れられていた研究であり乍ら一沫の不安を抱くことも又事実であります。それは実践教化学と云われていな がら現実の問題として現にある教団又は教団を構成する末寺自体の動きと一体どこで具体的な行動としてそれが噛み 合っていこうとしているのかという疑問であります。 やはり学問のみの分野で語られる高い次点の研究でしかあり得 ないのではないかというきらいを持つものであります。
そこで私は真宗教団と第三の同朋教団づくりとしての教化布教活動の実践面についての問題に入ってみたいと思う の で あ り ま す 。 私は高田涯に於ける極く少数の説教といわれるものしか聞いておりませんのでそれが総てではありませんが、折角 現在生かされている布教活動の場をもう一度再確認し生かしてゆくべき必要はなきゃということであります。その布 教活動の現在の場とは色々な機会がありますが、その中特に今、教団を問題にし組織を中心として見る時、各末寺の 年中の諸法要の場が上げられると思うのであります。 たとえば末寺では、報思議なり、永代経、修正会、彼岸会、降 誕会とか追弔会等々、少くとも年に数回の法要が定例の如く持たれ、読経儀式の後には必ず説教といわれるものが行 われるのが通例となっています。 しかしこれらの会座には習慣的な行事のみが行われ、百年一率の如き高座による節 つ き の 美 声 の 説 教 、 しかもそれは対話形式はどこにも見られない一方交通のごときもので凡そ現代とはかけはなれた こ と が 平 然 と 行 わ れ 、 しかもその語り手は自己の話し易い内容に流れ、その場、その時の雰囲気を作って終わること が間々あるように思うのであります。特に昔の方々が聞法に心がけ、昼夜の別なく会座に会われてゆく中から一つの 真宗の御安心を体得された時代と異って、開法の機会はあったとしても、事実上その法を聞くということが非常にむ っかしくなり、法を求める人々の少くなっている現代人にあって、どのような教化実践をなすべきか、ということを 考える必要はないものでしょうか。叉、同時にこれらを依頼する寺院側住職にあっても先づ話しの内容に取捨を加え、 年間の計画を立てた上で教師を選択依頼するということが行われているかどうかということであります。凡そ年間カ リキュラム的なことに配慮されている寺院がどれだけあるでしょうか。若しかかる住職があったとしても、それに答 え得る教団自体の教化活動の側にその構えありや否やということであります。只それは末寺の諸法要のみをお話しし た だ け で 、 かかる目で上は教団の中心である本山から下は各住職一人々々の諸活動に注目する時深い現況に対する一 真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察
真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察 四 考をせざるを得ないのであります。 私はそこで先づ、真宗教団が今日組織されている以上、教団自体の持つ使命感というものに今一度、すなおに目を 見開くということが大切であると思うのであります。その意味で新らしい立場の真宗教団のあり方として宗汲宗門を 越えて、同朋教団としての共同の目的と活動を持った教団守つくりを再検討すべき時に来ていると思うのであります。 この点教団自体の中心である各祇本山が教理的な真宗教学の研究に力を注がれるのは勿論非常に大切なことといわな ければなりませんが、各末寺の実態を踏まえた実際の教化活動の研究のみでなく、具体的方法としての布教活動の交 換交流を行い、実践計画に就いての年間のカリキュラム化ということに着手されてはどうかということであります。 かかる役割をになっているものが組織教団としての本山ではなく、 組織を生かした同朋教団としての本山当局のな すべき当面の仕事ではなかろうかと思うのであります。この本山当局の示した、真の真宗教団としての指向する所た 充分汲み取り各末寺が従来の布教活動の場を生かしてこれに答えて行くべき姿勢が大切なように思われるのでありま す。更にその目的のための真宗学というものの在り方にも一考を加えてみたいのであります。所謂それは同時に真宗 学と布教活動との関係にも云えるのであって、従来の真宗学の在り方がややもすると学的方向に走って布教活動、叉 は実践的教化ときり離れて、学はゆゆしきことであるというようなことから特に教化活動家にとっては非常に手のと ど か な い 学 問 と な り 、 一方真宗学者にとっては学的研究に没頭するのあまり、布教そのものへの疑問と同時に軽視的 観念を生みつつそれが相互にその一意志の疎通を欠くというが如き傾きはなかったかどうかということであります。 カ ミ かる点で私は本山教団が真宗学そのものを含めて各末寺へのよりよき指導と、又各末寺住職一人々々の本山への真の 理解と協力態勢とを整え真宗学と布教活動の一体化を計り、本山が単に組織のための教団でなく真に組織をもった同 朋教団となるべきことに努める可き時ではないかということを痛感するものであります。
そこで私は各末寺の一住職としてどのようなことをなすべきでありましょうか。 ささやかな一つの提案を行なってこの発表を結び度いと思います。それは﹁開法﹂ということが聞法という言葉に 捕われて常に動きつつある現代社会への注目を怠り迫力を欠いた静かに法要のム l ドに浸るというのではなくて、若 い青年壮年の人々への布教活動の積極的な意欲を持つべき使命が住職にあって然るべきではないかという点でありま す。それは特に現代の若い人々がうけている教育というものを理解すべきであって布教教化活動にあっては視聴覚的 な面に於ける理論体系を一市すということ、布教そのもののカリキュラムをもっということだと思うのであります。更 にその為にはカリキュラムの図式化という方法がよいのではないかと思うのであります。 ︵既に過去の先徳が七高祖 の配列図式を行ない宗祖伝絵の如き具体的なことを行なっておられることを思いあわせるとき︶。 それでは一体それ がどのように、どんな形で行われるのであるかを申しあげてみたいと思います。私は一つのこころみとして小さなサ ークルを持っています。そのサークルの一人々々がその研究分野を分担し釈尊伝ならば釈尊伝を話すにふさわしい一 つ の 掲 示 的 な も の を 作 る 、 叉仏教伝来ならば仏教伝来を地図の上に図式化して具体的に示すとか、親驚聖人の信仰の 内容の上で三願転入というものが真宗の教えを頂くものの側からどのような理論体系の上にあるかということを押え てお話しを聞いて頂けるということが出来るのではないでしょうか。このようにサークルに属する一人一人が真宗の 御安心の問題であるとか、宗祖の伝記であるとか、更には現代の社会学と真宗、経済学と真宗、青年心理学と親驚教 学というもののかかわりあいに於いて研究を積み重ね専門の方々がその分野を分担されるということによって、その サークルの一人一人を各末寺住職が自分の寺の年間カリキュラムの上で順次依頼し、批判し、取捨を加えつつ育てな がら一般の方々と共に法を聞くということが大切なことのように思えるのであります。そしてお話を聞く方々も一つ の体系の中で理解を深め、味わいを深めて頂くという方法、静かに高座から流れる説教師のム l ド作りの中に酔うと 真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察 五
真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察 一 六 いうことではなくて、なるほどと現代の人々が先づ頭で理解し体験全体に結びつけて味わうべきことだなあ! と う掲示布教の提案を行ないたいのであります。所調同朋教団の在り方として、その中には常に真宗学的自己への深い 反省と申しますか、深まりと申しますか、それが単なる学的方向のみに終わることなく教人信としてのよろこびを互 に深めあうという教化実践、布教活動とのつながりにおいて他の異った学問でない真宗学の真の力というものが生ま れてくるのではないでしょうか、 しかもそれを現在組織をもっ教団が真に組織を生かし過去の習慣儀式を真に生かし める形に於いて同朋教団の動きとなってあらわれるのではないか、その組織を同朋教団たらしめる中心的使命をもっ ものが本山であり、本山の使命が各末寺の使命であり各末寺住職の使命であろうかと思うのであります。
古写本から見た
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二
帖
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讃
﹂
の問題
安
藤
智
純
︵ 龍 谷 大 学 ︶ 三帖和讃の問題として文明版の底本の究明、御草稿和讃の検討、さらに和讃の本文批判などを挙げることができる。 しかしどの問題にも困難な側面が予想されるのである。そのようななかで、親驚聖人全集︵和讃篇︶、続日本歌謡集成 ︵ 中 古 編 ︶ 、 日 本 古 典 文 学 大 系 親 驚 集 が 公 刊 さ れ た こ と 、 とりわけ専修寺の国宝本が影印刊行された意義は大きく、 手 さぐりの状況におかれていた研究に光明をなげかけるものであろう。ところで文明版の成立については、直接その底 本として考えられるものが見当らず、本願寺に伝承された一本であろうと推劃されているが、それ以上の追究は、現 在 、 困 難 な よ う で あ る 。 文明版の底本が問題とされ、本文批判の必要性が指摘されるのは、三帖和讃には聖人の白筆本が現存していないこ とによるのであって、国宝本も、題筆・称讃浄土経の文、首拐厳経の文・正像末法和讃の九首以外は真蹟ではない。 ここに古写本の検討ということが重要な意味をになってくるのである。さらに、初稿本と呼ばれる国宝本にも校異が 古 写 本 か ら 見 た ﹁ 三 帖 和 讃 ﹂ の 問 題 七古 写 本 か ら 見 た コ 二 帖 和 議 ﹂ の 問 題 見られること、文明版と顕智本の構成上の相違、本文や左訓のかなづかいの不統一などということから、本文批判を 八 通 し て つ 一 帖 和 讃 の ﹁ 定 本 ﹂ を 考 え ね ば な ら な い 、 という方向も指摘されてくるのであろう。 と い う 宮 崎 先 生 の ご 指 摘 ︵ ﹁ 三 帖 和 讃 の ﹁御草稿和讃﹂といわれる一群の和讃は今後さらに検討されねばならない、 成 立 に 関 す る 諸 問 題 ﹂ 宗 学 院 論 集 第 三 九 号 ︶ に 促 さ れ 、 古 写 本 の 整 理 、 検 討 を 試 み た い 、 と 思 っ て い る 。 M い 宝治二年一月二十一日 七十六才 三帖和讃の成立に関係すると思われる年紀として、次のものが知られている。 専 修 寺 蔵 国 宝 本 仲建長六年十二月 入十二才 十 守 八十三才 建長七年四月二十六日 康元二年二月九日 八十五才 仲 (村 八十五才 正嘉元年三月一日 付 正嘉二年九月二十四日 入十六才 ( ト) 文応元年 入十八才 七種の年次によって、浄土・高僧和讃は宝治二年に稿がなり︵注︶、七年後の建長七年に顕智書写の底本ができてい 文明版 浄土高僧和讃 浄土和讃 浄土和讃 正像末和讃︵夢告︶ 正像末法和讃 正像末法和讃 正像末和讃 反故裏書 専修寺蔵 顕智書写本 専 修 寺 蔵 国 宝 本 顕 智 本 文 明 版 専 修 寺 蔵 国 宝 本 専 修 寺 蔵 顕 智 本 い る o M W ・ 川 に つ い て は 、 る。正像末和讃については、正嘉元年頃草稿がなり、翌正嘉二年には、大幅なそしてより整えられた初稿本ができて しばらくは考慮の外におかねばならないものであろう。 ところで、右のような浄土・高僧和讃と正像末和讃との成立年次の違いから、三帖一具として扱われているものの にしても、聖人の和讃の補訂については、 資料としての取り扱いに関しては同じ性格のものとして用いることには注意を要するのではないかと思われる。それ しばしばこれが行なわれたといわれ、士口写本の状態はその事を如実に示し
ている。それ故、本文、左訓などから補訂の経過や底本の成立を究明する試みがみられる。ここでは、全体にわたっ ての見通しをもっているわけではないが、ごく限られた一、二の点について、和讃の構成上の問題を部分的にとりあ げ、古写本の底本成立の前後関係を考えてみたい。 そ う し て 、 構 成 上 、 基本的なものとそうでないものを指摘し、 φ 定本。を考定する場合の基準ないし定点的立場を見つけ出したい。 注 宝 治 二 年 の 国 宝 本 に つ い て 、 宮 崎 先 生 の ご 指 摘 に 注 意 し て お き た い 。 ﹁ 庁 孟 治 の 聖 人 の 識 語 が あ る が 、 そ の 本 文 が 宝 治 当 初 の も の で あ る か 、 ど う か 、 多 少 問 題 が な い で も な い よ ﹁ こ の 国 宝 本 は 初 稿 本 と い わ れ る こ と が あ る が 、 果 し て そ う で あ る か ど う か 、 な お 考 う べ き も の が あ ろ う 。 し か し そ れ に し て も 、 こ の 本 が 現 存 す る 最 古 の 本 で あ る こ と に は 問 題 は な い 。 ﹂ ︵ 前 掲 論 文 ︶
ω
誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ この一首は三帖和讃の中にあって、特異な性格をもっといえるものの一つである。それは、文明版では巻首に位置 して、冠頭讃と呼ばれ、教義上誠疑を示すと解釈されているが、顕智本︵正応三年書写﹀では大経讃の中に見出される 和讃であるからである。ところが、右のような特異な在り方を示す点に、冠頭讃と大経讃との関係が底本の前後関係 を 示 す の で は な い か 、 という問題を指摘できるのである。 ﹂ れ に つ い て 、 まず多屋博士の説明を引用してみたい。 古 写 本 か ら 見 た ﹁ 三 帖 和 讃 ﹂ の 問 題 九古 写 本 か ら 見 た コ ニ 帖 和 讃 ﹂ の 問 題
。
﹁文明版系統の古写本としてわ、永享九年存如上人筆本︵金沢の専光寺蔵﹀が挙げられるが、この本にわ文明版浄土 和讃の冠頭の﹁弥陀ノ名号トナへツツ﹂ ﹁ 誓 願 不 思 議 ヲ ウ タ ガ ヒ テ ﹂ の 二 首 が 無 い ︵ 国 宝 木 に も 、 羽 州 本 に も 顕 智 本 に も 無 い こ と は 先 に 記 し て お い た ﹀ 。 そうすると、このこ首わ勧信と誠疑との意お示すもので三帖和讃全体の大綱お示された も の で あ る 、 とゅう本願寺側の伝説わ成立しうるか否かお考え直してみなければならないであろうに と 指 摘 さ れ 、 ﹁一体この二首わどのような過程で冠頭におかれたのであろうか﹂と冠頭讃としての性格に疑義を示され、ご首の成 立 過 程 に 注 意 を 向 け ら れ て い る ︵ ﹁ 三 帖 和 讃 の 本 文 に つ い て ﹂ 大 谷 学 報 第 三 十 五 巻 第 四 号 ︶ 。 宮崎先生は﹁文明版の﹃浄土和讃﹄の巻頭に二首の和讃があり、古来それは総讃的なものと解釈されている。この 和讃の意味からいうと、こうした解釈も相応しいものである。しかしこの種の巻首や巻尾の何首かの和讃を記してい る例は外にもあり、顕智書写の﹃浄土和讃﹄にはこれを﹁別和讃﹂と記している。 ﹁ 別 和 讃 ﹂ と は ﹁ 別 々 の 和 讃 で 、 独立した一首﹂といわれている︵親驚聖人全集和讃篇 生桑完明氏解説︶。そしてこれ等は後に成立した和讃の中に加えら れ た も の も あ り 、 またそのままになっているものもある。恐らくこれはもともと聖人が思い浮ぶに従って表紙裏等に 書きつけたものであったであろうか。文明版その他の別和讃は一冗来こうした性格のもの﹂と、明解な説明を下されて い る ︵ 前 掲 論 文 ︶ 。 冠頭讃誠疑の意を示すという解釈を一往総讃的なものと認められつつ、その成立の事情に注意されて、 ﹁ 別 和 讃 ﹂ は﹁思い浮ぶに従って書きつけられたもの﹂との考えを示されている。すなわち 凶は他の一首とともに、本来三帖 和讃とは別の性格のもので、 いまだ和讃中に定着しえない状態にあるものと考えられる。 ところで、顕智本を見ると、ω
は大経讃第十八首に配されており、大経讃が文明版にくらべて一首ふえて︿二十三 首 V となっている。未定着な別和讃が大経讃に定着したと考えられる。和讃の補訂ということからは、 ︿ 二 十 二 首 ﹀の一本を整備、充実しようという考えから、別和讃の一首凶を加えて八二十三首﹀の一本がっくりだされたと考える のが自然な見かたであろう。大経讃︿二十三首﹀という構成の一本がまずあって、後に冠頭讃という形が発想され、 その形を整える必要から、大経讃の一首をとりだし、八二十二首﹀の構成に改められたとは考えられない。顕智本の 仏智不思議をうたがひて辺地僻慢にとまるなり﹂の第十七首と ﹁ 安 楽 浄 土 を ね が ひ っ つ 他力の信をえぬひとは の意味的関連性からも八二十三首﹀の中から第十八首を抜き出して、冠頭讃に配したとはいえないであろう。この事を 証 明 す る の が 、 次 の 古 写 本 で あ る 。 す な わ ち 本 浄 寺 ︵ 石 川 県 中 島 町 ︶ の 一 本 と 本 念 寺 ︵ 石 川 県 羽 咋 町 、 正 像 末 和 讃 を 欠 く ︶ の 一 本 で あ る 。 こ の 二 本 は 、 ともに大経讃は︿二十二首﹀で、それぞれ別和讃を書き留めている。本浄寺本では浄土和讃の巻首に 凶の一首があり、本念寺本では﹁弥陀の名号﹂讃と凶とのこ首が﹁端牧云﹂として浄土和讃の巻尾にある。この状況 は別和讃の未定着性を示すものであり、巻頭に別和讃のない古写本の存在をも考え合わすと、次のような補訂の移行 過 程 が 想 定 さ れ る の で あ る 。 ︿大経讃二十二首の本|←大経讃二十二首・別和讃のある本
l
←大経讃二十三首の本﹀ このことから、文明版の別和讃と大経讃二十二首という構成は、本浄寺本・本念寺本とともに、 ︿ 二 十 二 首 ﹀ の 大 経讃が︿二十三首﹀に増補されてくる際に生じる中間的な形態を示しているものであるといえる。 文明版について、聖人が再治され、清書された系統のものである、 という見解も存するようであるが、右に述べた か 、 ぎ り に お い て は 、 顕 智 本 よ り も 文 明 版 の 方 が よ り 古 い 形 、 つまりより早く成立した底本の形をとどめているといえ L よ A ノ 。 また、三帖和讃の定本の性格としては、ω
が大経讃に定着することによって冠頭讃としての意味を消失するのであ 古 写 本 か ら 見 た ﹁ コ 一 帖 和 讃 し の 問 題士 口 写 本 か ら 見 た ﹁ 一 二 帖 和 讃 ﹂ の 問 題 っ て 、 ﹁大経讃二十三首﹂という構成、が、定本としての資格をもつものであると考えられよう。 な お 、 凶が国宝本正像末法和讃の第十二首におかれている事に全く言及しなかった。それは、次の三点から、右の 考察に影響するものではないと思うからである。利国宝本はあくまでも聖人の手控え的な草稿であったこと。判 顕智本浄土和讃は建長七年にできているが、正像末法和讃はそれ以後か、浄土和讃成立の前後頃のものであろうこと。 十す 正嘉二年の再治本正像末法和讃には凶が加えられていないこと。 (B) 弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏思報ずるおもひあり
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五渇悪世の衆生の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり 文明版を見ると岡は巻頭と正像末和讃第二十九首に出ており、 仰は高僧和讃の源空讃に次いで配され、 しかも正像 末和讃第三十首としても見られるのである。ゴ一帖和讃は一具のものと扱われていることからすれば、同じ和讃が重ね て三帖の中に見られるのは、何か不自然のように思われる。もっとも、この不自然さは、文明版本が聖人の自筆を底本 と し 、 盗意的な改変を行なっていないという聖教書写の態度を告げるものであるうが ︵ 削 に つ い て 専 光 寺 本 ・ 慈 願 寺 本 の 正 像 末 和 讃 第 三 十 一 二 首 に ﹁ 御 臼 筆 浄 土 和 讃 下 巻 奥 被 載 此 一 首 件 本 如 此 ﹂ と あ る こ と に よ っ て も 知 ら れ る と こ ろ で あ る ︶ 、 そ れ は ともかく、この不自然さを解消することができないだろうか。ところで、 不自然さの原因は、顕智書写の浄土和讃と 正像末法和讃にも倒・仰が見られるので、その不自然さをまず考え、次いで文明版の問題にもその考えを及ぼすこと と し た い 。 親驚齢﹂と識語があり、その第二十九首、第三十首に同・
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が入っている。正応三年九月に書写した浄土和讃の巻首別和讃の一首自に倒が、巻尾別和讃の三首目に附が見出され 正像末法和讃には﹁草本云、正嘉二歳九月廿四日 る。これは次のような底本の成立および補筆了補訂の事情に起因するものであろうと思う。 識語によると、浄土和讃は建長七年四月廿六日にできあがっている。 しかし、その後聖人が思い浮べられるままに 書き留められたのが別和讃であって、それが入首の時点で書写したのが正応三年の浄土和讃であると考えてみよう。 そ の 後 、 康 元 ・ 正 嘉 の 頃 ︵ 或 は も う 少 し 以 前 を 想 定 し て も い い か も し れ な い が ﹀ 、 正像末法和讃をまとめられようとして草 稿に手をつけられた。その際、 いくつかできていた別和讃をその草稿の中にくみこまれた。すなわち、草稿本の第五 首と第六首がそれである。その後、 より整った正像末法和讃の構想で執筆を始められた時、倒を第二十九首に、ω
を 第三十首におかれたのである。 つまり、倒もω
も別和讃としての性格を消失して、換言すれば、浄土和讃とは切り離 されて、正像末和讃に定着したのである。 正応三年に書写された浄土和讃の底本は別和讃をもっていたが、その後、その別和讃は正像末法和讃へと吸収され たのであって、浄土和讃とは無縁のものとなるのである。 しかし、別和讃を書き留めていた底本はその形のままで残 さ れ て い た の で あ ろ う 。 一方正像末法和讃は別和讃を中心に発展してきた性格で、それぞれの別和讃がここに定着す 古 写 本 か ら 見 た ﹁ 二 一 帖 和 讃 ﹂ の 問 題古 写 本 か ら 見 た ﹁ コ 一 帖 和 讃 ﹂ の 問 題 四 るのである。このような底本の性格や成立の事情が考えられないままに書写された結果、 倒 ・
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が重出するという不 自然きが生じたのであろう。 文明版の場合も、右と同様に、浄土・高僧和讃と正像末和讃の底本とが、それぞれ異なる時期に成立したものであ り、それ故に顕智本で指摘したような底本の性格の相違に基づくものと考えられる。 先に大経讃について、文明版が︿二十二首﹀であって︿二十三首﹀の本よりも先に成立したものであると考えたが、 愚禿述懐讃の首数についても前後関係を考えねばならない点に気づくのである。文明版の愚禿述懐讃は︿二十三首﹀ であり、顕智本が八二十二首﹀である。この前後関係は、大経讃の推論をあてはめれば、 ︿二十二首﹀の方が︿二十 三首﹀の本よりもより早く成立した底本の構成であると考えられる。 とすれば、文明版の底本は顕智本の底本が成立 した正嘉二年九月以降の成立を想定しなければならなくなる。 大経讃と愚禿述懐讃の首数にかぎってみると、浄土・高僧和讃では文明版の底本は建長七年より早い時期に成立し た構成であると認められる。 しかし、正像末和讃では文明版の底本が正嘉二年よりも後に成立した構成を止めている とみなさなければならない。ここに同じ和讃が重出されている事情が諒解されると思う。さらにいえば、ω
は大経讃 の構成として、倒・ω
は正像末和讃の構成として、それぞれ定着したのであって、 川 開 ・ 倒 の 浄 土 和 讃 に お け る 冠 頭 讃 の 意 味 は 否 定 さ れ 、 似もまた浄土和讃中における存在理由は全く認められるものではないのである。 以上、三種の和讃をとりあげ、構成上から底本の性格と三種の位置を考えてみたが、それに対して否定的な性格を もっている古写本がある。十五世紀中頃の写本といわれる慈願寺本︵大阪府八尾市︶がそれで、冠頭讃があり、大経讃 が 八 二 十 コ 一 首 ﹀ で あ る 。 しかし、このような自筆本が存在したのではなく、他の本を校合した結果生じた構成である と思われる。それは、愚禿述懐讃の結文を二種並記している点からも考えられるのであって、 ﹁己上二十三首仏不思議﹂の結文︵文明版と同じ︶を載せ、続いて﹁己上疑惑罪過二十二首 仏智うたかふ﹂と顕智本と同じ結文を引いて いる。讃数が八二十三首﹀であるから、 ︿二十二首﹀の結文は校合を示すものであろう。 したがって、冠頭讃もあり 大経讃が二十コ一首であるという特異な構成も、校合によってできあがった構成とみておきたい。 なお、これに関連して、龍谷大学図書館所蔵の﹁阪東和讃﹂の結文にふれておきたい。この本の愚禿述懐讃の首数 は︿二十三首﹀であるが、慈願寺本同様、二種の結文を並記している。ところが、本来︿二十二首﹀の結文であるは ず の も の を 、 ︿ 二 十 三 首 ﹀ と 訂 記 し て 、 ︿二十一二首﹀の結文が二種あるような並記である。これはおそらく、讃数が 二十三首であるから、それに合わせて︿二﹀を︿一二﹀と改めたのであろう。それにしても底本の性格、構成のちがい を無視した校合の結果であるといえよう。 構成上の問題は以上のほかに、勢至讃の位置・現益讃の位置、その他重要なものもあるが、今は三種の和讃の考察 に 止 め た い 。 な お 、 一部分を切り取っての考察では不充分なものであり、妥当性を欠く憾がないではなく、左訓の増 減、本文批判などとも関連した古写本の全体的検証を今後の課題としなければならないであろう。 古 写 本 か ら 見 た ﹁ 三 帖 和 讃 ﹂ の 問 題 二 五
宗 祖 の 法 体 大 行 説 の 思 想 背 景 一 一 六
宗祖の法体大行説の思想背景
西
宋信
辺邑 明
一
、
緒
言
前田慧雲博士は﹁曇驚大師の法門、即ち論註の教義を知らんと欲せば、必ずや其当時の思想界の傾向を知らざるべ からず、則ち当時の学者は如何なる疑念を抱き居りしか、亦如何なる解釈をなしつつありしか等の事を明かにせずん ば、以て驚師の法門を知るに難かるべし、蓋し驚師の当時は学者の胸中に諸法皆空てふ一思想を土台として、法門を 研究するの傾向ありしを以て、融問師も亦時代思想の影響を蒙りて往生てふ事を解するにも、 又浄土の三種荘厳を説く にも、空有不二の義を応用して之が解釈を試みられたり、吾人は其当時の傾向を考察して以て驚師の辛労を知らざる べからず。﹂︵正論酔瑚︶と言っているが、之は其憧今宗祖顕真の意に燃え心血を糊られて著わされた本典一部を貫く思 想も、唯字句の解釈のみでは其本意を探知味得する事は出来ないと言ったものとも思われる。其時代背景を見ると共 に宗祖思想の根拠たるべきものに注目して、本意奈辺にありやを考察しなければ親驚教徒たるの真面目を発揮する事 は 難 事 で あ る 。蓋し妙音院了祥師は﹁五日祖広木等に七祖で仰せられるに宗家宗師と殊更にお挙げなされたは曇驚・善導の二師也。﹂ ︵時一忠清上︶と言ぃ、善導は往生行に就て正雑朋と正を選び立てて観念を棄て称名念仏とし、之が末法濁世の下凡夫 に相応の本願の正意で曇驚は註の建めに他力と言い終に増上縁と名けて﹁他力増上縁﹂を論註一部の骨子とする、と 註解している事に三思する所が多分に在ると思う。 然し師法然は偏依善導一師を立てたものを継承された宗祖は、其法然教学の依って来った処は之に加えて曇驚の論 註思想にあると看破して、以て其教学を敷伺したものが今の本典六軸に顕わされて居ると思われるのである。即ち之 は師法然の教義を純粋に票受し市も加えて宗祖自身の自替を以て選択集を開顕する書としたものと言われる所以であ る 因みに浄土論と往生論の題名の扱い方や使い分けに就て、了祥師は﹁願う処に従えば浄土論、求むる処に従えば往 生論也、一つにしたれば往生浄土論也 OL ︵
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八 ・ 刊 ︶ と 銑 言 し て い る 。 市り、今万人共許される本典中の多くの抄文に於て論註の占める位置は、宗祖の思想の中核を形成するものである と同時に、宗祖と曇驚の交渉を示すものであり、曇驚に於て完全に成育されたとは言われない他力の廻向説を、宗祖 は之を見事に完壁なものとして自家薬龍中のものとしている事を我々は既に認識しているのである。尤も福原亮厳師 によれば﹁曇驚は論註の始めに龍樹の易行品を挙げて他力易往の意を顕わされたが、之は論を窺ったものである。然 るに今二尊大悲は釈を以て経意を伺い、 他力の本意を控わされたものと見てよいであろう。 其 処 で 易 行 口 聞 に 他 力 の 先駆思想が見られない事はないが、 ︵忠一大干唯一碍一則︶と言っているが、之は神子上恵龍博士の﹁他力往生説は、浄土の経典や龍樹・天親に依って其意味 が述べられたと考えられているが、正しく他力往生説の理論を組織したのは、全く曇驚の論註にありと言っても過言 其他力を明瞭に打出して徹底的に解釈した初めの人は曇驚を於て外にはない。﹂ 宗 祖 の 法 体 大 行 説 の 思 想 背 景 七宗 祖 の 法 体 大 行 説 の 思 想 背 景 ではないよ︵醒
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加司君というのと軌を同じくするものであると思う。即ち組織化はしたが完成したとは言い得 な い と 言 う も の で あ ろ う 。 之 に 就 て は 神 子 上 博 士 の 説 に 詳 し い ︵ 噴 京 地 同 唯 一 論 一 賜 ︶ 。 而して今、大行思想の背景の淵源を論註に求め討ねてみようとするのであるが、之は宗祖教学の解明には是非試み 八 いるであろうと思われる個所を借文して論じてみようとするのである。 ル ニ ハ ナ リ 誓願﹁往還廻向由ニ他力﹁正定之因唯信心﹂と宜われた所以を此処に味い知る事が出来るのである。 なければならぬ処であると考えるからである。先哲諸匠の苦心の後を辿りつつ今試みに其法体大行説の背景を釈して ﹁ 天 親 菩 薩 論 註 解 、 報 土 因 果 顕 ニ 蓋し宗祖が二、論註讃嘆門の称名破満説
宗 祖 は 本 典 行 文 類 初 め に ﹁ 謹 按 一 一 往 相 廻 向 一 有 一 一 大 行 一 有 一 一 大 信 − 大 行 者 則 称 一 一 無 碍 光 如 来 名 一 斯 行 即 是 摂 一 一 諸 善 法 一 目 六 一 一 諸 徳本一極速円満真如一実功徳宝海故名ニ大行こと示して、大行とは一体何か、 と言う 事 の 青 義 付 け を さ れ て あ る が 、 此 文 中 の ﹁ 称 一 一 無 碍 光 如 来 名 一 ﹂ は 七 祖 聖 教 中 に て は 、 浄 土 論 の 起 観 生 信 章 中 に は ﹁ 称 − 一 位如来s
T
﹂ ︵ 主 位 一F
︶とあり、論註にては其﹁称彼如来名﹂を註釈して可動札一ト無碍光如来ι
一 ﹂ と 示 さ れ て あ る 。 此二文中の何れから採られたかと言えば、恐らくは浄土論から直接に採られたのではなくて、論註からの引抄であろ うと思うのである。所以は如何とならば、宗祖は同文類に於て﹁爾者称レ名能破−一衆生一切無明一能満ニ衆生一切志 札一﹂︵哩一信︶と称名破満の働らきがあるのが称名であると示しておられる事により窺い知られる。尤も浄土論にも之 に似た文は見る事が出来る o 即ち偏煩の中に﹁仏恵明注目除ニt
摸 闇 晃 一 ﹂ ︵ 望 地 ’r
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︶﹁衆ι
所 − 一 願 楽 づ 一 切 能 府 足 ︺ ︵聖全﹂ノノ︶が之であるが、今直接には命註によるものと解していく方が適切であり当然の見方であると思うので其方 F 二 七O
頁 ﹂ 1 に 依 る 。 其大行の意味するものは何か、此処に於て、今此小論の章を建てるに当っては其論註の中から此文を採り用いられた起観生信章中の讃嘆文釈から 筆を起す事が此﹁法体大行説の思想背景﹂を論攻し考察する第一の源泉であると思われるので、讃嘆門釈中殊に宗祖 教学に対して最も大きく影響を及ぼしたと見られる﹁称名破満説﹂から始める。 先づ仏教大辞実から法体大行の解説を討ねてみる事にしたい。然し法体大行としての辞句は無く法体名号という項 日 で 載 っ て い る 。 即ち﹁法体とは所信の法の体という意味、換言せば信じられる対象の事、南無阿弥陀仏の名号は所信の対象なるが 故に之を称して法体名号という、蓋し小乗薩婆多部に三世実有法体恒有と談じ︵近く八宗綱要上者倶舎宗の下に出づ﹀浄 土宗西山祇に念仏を離三業の法体と言えるに倣って真宗の或る学者の案出したる名目であろう。善譲の﹃真宗論要後 編﹄巻上大行名体の題下に、行巻初めに称名大行なる事を指示して五経十文を引いて法体名号の具徳を顕し、等と言 えるの如きは其例である。或は法体大行とも称する。﹂とある。 大江淳誠博士は﹁宗祖教義に於て其最も特色の見られるのは行信の解釈である。蓋し其理想とし目的とする所は転 迷開悟の果であるが、之を得しめる因法は行信である。七祖撰述の如きも行信に就て夫々顕す所はあるが之らは何れ も行業の駄を衆生の上に置き衆生自らなす所を行とする。善導、源空の言う所の念仏の如き即ち此意である。然るに 宗祖の解釈は行業の駄を名号とし名号夫自体の中に、衆生をして転迷開悟せしむべき力を具している。之を以て衆生 の動作を待たず名号本然の性格として行なりとするのである。然るに七祖が何れも衆生の行業の上に行の名を立て、 宗祖は仏の名号を直ちに行とするならば其所論が話角し、七祖伝承の意義がなくなる。此処に於て名号と称名との聞 に融即を談じ、此両者相即不二なる事を論定するものが行巻一部の所述である OL ︵一時臨時︶と言う。亦元祖を伝承 且其是を顕すに曇驚・善導の釈義を用い真仮行信の解釈も善導を票けてはいるが、 される宗祖は夫を本兵に示され、 宗 祖 の 法 体 大 行 説 の 思 想 背 景 二 九
宗 祖 の 法 体 大 行 説 の 思 想 背 景
。
更に念仏と名号との融和を語るには曇驚の解釈を用いている。夫は宗祖の解釈は他力廻向を教学の根幹としているか らで、其他力廻向が曇驚の解釈を本とする以上行信釈義の中、之を用いる意のあるのは勿論であると続けている。即 ち元祖の偏依善導を票けられた宗祖は善導の言う五正行としての読諦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養を見ていく上に、 天親の五念門たる礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向から之を討ねなければならぬと考えられたのではあるまいか。実は 此処に法然教学の発展的展開としての親驚教学の特質たる性格を窺い知る事が出来ると思うのである。 五正行に於ては称名と讃嘆供養が二つに分けられているが、五念門行は之を一つに見て讃嘆とされてあると見られ たのであろう。勿論史実的に眺めれば五念門行から五正行となるのであるが、今宗祖は信仰上から見られたのであっ て、即ち五正行にては称名とはとなえるという事であって、讃嘆とはほめるという別な事のように見られるが、然し 五念門行は是を一つとしてあるのである。此処を了祥師は﹁名を呼ぶは徳をほめるに当る、従って称名即ち讃嘆、讃嘆 即 ち 称 名 と い う が 論 か ら 註 の 義 也 。 所 讃 は 尽 十 方 無 レ 障 放 一 一 光 明 一 摂 一 一 取 衆 生 一 仏 と 御 名 を 称 え る 讃 嘆 な る 事 は 論 を 不 侯 。 ﹂ ︵一謹一時一︶と言う。依って讃嘆するとは広く言えば仏徳を讃嘆する事であり、略しては仏名を称する事の二通りがあ る。﹁此広略相入の理論的根拠は二諦相即、現象即本体論である。真諦は色即是空なる故に広入レ略であり、俗諦は 空 即 是 色 で あ る か ら 略 入 レ 広 で あ る 。 ﹂ ︵J
J
珪賦︶と稲葉円成師は説いている。 宗祖銘文︵理唯一﹂むに﹁称仏六字といふは南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。即嘆仏といふは、すなわち南無阿 弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになると也中略l
一切善根荘厳浄土といふは、阿弥陀の三字に一切善根を おさめたまへるゆへに、名号をとなふるはすなわち浄土を荘厳するになるとしるべし﹂と言っておられるのが、此処 に 述 べ た 意 に 当 る と 思 う 。 然者論註上巻には ﹁ 帰 命 尽 十 方 無 碍 光 如 来 者 帰 命 即 是 礼 拝 問 山 川 尽 十 方 無 碍 光 如 来 即 五 讃 嘆 凡 い ︵ 叩 一 泊 一 一 ト ︶ と 言 い 、ス ル ヲ シ テ シ タ マ ヒ キ パ パ レ パ ユ ズ ユ イ フ ト 下巻には之を承けて﹁云何讃嘆口業讃嘆、讃者讃揚也、嘆者歌嘆也、讃嘆非レ口不レ宣故日二 μ 業 一 也 、 称 ニ 彼 如 来