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雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

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A・リヒトヴァルクの視座と実践[下] −ドイツ改 革教育運動の通奏低音−

著者 岡本 定男

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 47

号 1

ページ 157‑166

発行年 1998‑11‑10

その他のタイトル The Viewpoint and Practice of A・Lichtwark [?]

 −The General Bass of German Reform‑pedagogical Movement−

URL http://hdl.handle.net/10105/1493

(2)

奈良教育大学紀要 第47巻 第1号(人文・社会)平成10年

Bull. Nara Univ. Educ, Vol. 47, No. 1 (Cult. & Soc), 1998

A・リ ヒトヴァルクの視座と実践[下]

‑ドイツ改革教育運動の通奏低音‑

岡 本 定 男 (奈良教育大学教育学教室) (平成10年4月20日受理)

キーワード:ドイツ博物館の開拓、博物館教育、ディレッタントの組織化

今日的教育の目的・内容・方法・制度・理念に多大な 影響を与えた国際新教育運動にあって、その最も多重・

多彩な展開を示したドイツ改革教育運動(新教育運動) に初発の契機を提起したのが、ドイツ芸術教育運動で あった。前巻に於いて、筆者は、この芸術教育運動の リーダーの一人であったアルフレッド・リヒトヴァルク (Alfred Lichtwark, 1852‑1914)に焦点を当て、その ドイツにあっての新たな位置づけの動向及び我が国に於 けるリヒトヴァルク把握の段階と特質を捉えた。本巻で は、ドイツ近代芸術に於けるリヒトヴァルクの、わけて も博物館教育の開拓に貢献した意義を摘出し、続けて、

‑ンプルクの教師たちを核とした芸術愛好家(ディレッ タント)の広範な組織を実現したリヒトヴァルクの実践 を概観することで、これまでのリヒトヴァルク把握に欠 落してきた幾っかの視点を実証的に充填することとした

い。

因みに、前巻を含む本論文の全体構成を以下に示して おく。

はじめに

第I章.リヒトヴァルク把握の段階と特質 1.我が国に於けるリヒトヴァルク把担

2.ドイツに於けるリヒトヴァルク把握の段階と特質 一以上前巻、以下本巻

第Ⅱ章. A・リヒトヴァルクの視座と実践 1.近代芸術とドイツ博物館の開拓 2.ディレッタント養成の組織と実践 おわりに

第Ⅱ章. A・リヒトヴァルクの視座と実践 1.近代芸術とドイツ博物館の開拓

リヒトヴァルクの視座と実践のアルファでありオメガ

157

であったもの、それは、 1886年、彼が、若干33歳で、

新設された‑ンブルク美術館の館長として赴任したこと に始まり、生涯その職にあったという点にある。今日、

ドイツにあってのリヒトヴァルク評価は、むろんその中 心的なものの中に、芸術教育運動家としてのそれが確固 としてあるのは事実であるが、教育関係者の範囲を越え た国民的一般的認識の中心にあるものは、何よりも、 ‑ ンブルク美術館の名をドイツ全土に広め、かっ国際的に 高めた功績のうちにある。

今EI、例えば、 ‑ラルド・グレーザー編『博物館‑ン ドブック』 (1981年、第2新版)の「‑ンプルク美術館」

についての簡潔な紹介の冒頭は、以下のような記述に なっている。

「創立年 1863 ‑ 1869年。 1885年に拡張された旧 館と、 1917年に、リヒトヴァルクの計画に沿って建 てられた新館(1911‑1917)の2つの建物より成る。

展示室の歴史‑既に1817年に設立された芸術協 会は、 1850年に40枚の絵による第1回『公開都市画 廊』を開催し、その収集品を私的財団によって引き続 き拡張することができた。美術史家アルフレッド・リ

ヒトヴァルクのもとで、この‑ンブルク美術館は、国 際的意義をもっ美術館となった。」(38)

リヒトヴァルクが着任する以前のこの美術館は、 「芸 術協会」という組織はあったものの、肝心の所蔵品の量 的質的貧弱さによって、単なる一地方のありふれたコレ

クションにすぎなかった。当時の‑ンプルクは、既に‑

ンザ都市の雄として、ドイツ全体の代表的港湾商業地と しての地位を築きつつ、その反面、大学もアカデミーも 高等工業学校もない学問的文化的、なかんずく芸術的後 進地であった。

「ドイツや外国の王宮所在地にあって、我々は、その 偉大な画家によって評価されたり、彼らの功績を評価

(3)

することはない。その極めて盛んな商業的精神にも拘 らず、 ‑ンブルクは、一級の芸術家を育てていない。

(ここでは、)如何なる賞賛や励ましを受けることもな いために、歴史画家は、我々の門に近づくことはな い。」(39)

19世紀半ば頃までの‑ンブルクは、このような辺北 の地にすぎなかったし、 ‑ンブルク美術館の組織的母胎 であった『芸術協会』も、 「個人としても団体としても

その間有の前提に立って円らの能力を充分に展開せず、

他の芸術潮流の影響にさらされるような流派の一つもつ くることがなかった」(40)のである 1886年、従来の展 示室に加え、 2つの新しい建物と連結画廊及び正面の柱 廊玄関を加え、施設的な拡充を終えたこの美術館の停滞 が解け、新しい活気に満ちた局面が始まるのは、リヒト

ヴァルクの功績であった。 「リヒトヴァルクの活動は、

今日の芸術史にあって‑ンプルクが、地方を越えた国際 的地位を築く上での基礎を築いた。それは、芸術家に とって、この都市をとりわけ魅力的なものとさせた。あ らゆる大きな芸術センターの中でも、以後数十年間に、

傑出した人物が輩出した」(41)のであり、 「‑ンプルクに 於ける芸術生活に新しい力を与え、芸術のための広範な 領域を獲得し、他の都市の模範となる諸施策を生みだ す」(42)ことになったからである。

従来の改革教育運動史に於けるリヒトヴァルクの評価 は、ここからすぐにこの美術館で彼の指導のもとに始 まった美術作品の鑑賞指導を契機に、 ‑ンブルクの教師 集団に広く芸術への新たな接近を可能とし、それが学校 教育を含む教育全体に根本的な改革を迫る原理的示唆を 与え、やがて、今世紀初頭の3回の芸術教育会議を通じ てドイツ全土で画期的高揚をみる芸術教育運動の主導者

として彼を描き出すのを常としている。

確かに、芸術教育運動開始のきっかけとなる‑ンブル ク美術館での美術作品の鑑賞指導は、リヒトヴァルクの 改革教育運動ないしは芸術教育運動の先導者としての位 置を決定づける実践的契機として極めて重要ではある。

しかし、彼の発想は、あくまでも、 ‑ンプルク美術館を 足場とした、広義の博物館教育の開拓という点にあった のであり、教師や生徒を前に行った美術作品鑑賞指導や

‑ンブルク教師団との教育改革的連携は、多くの成果を 収めた彼の活動の一側面にすぎない。このことは、館長 就任後まもなくの1886年12月9日、市参事会員と市民 を前に行ったリヒトヴァルクの就任演説、 「美術館の任 務」の根本構想によっても明らかである。

リヒトヴァルクは、ここで、美術館(博物館)の任務 を、所蔵品の「保存」 「拡充」 「利用」の3つに分け、そ の中の最後の課題にとりわけ力点をおき、その内容の一 つとして、狭義の意味での教授活動を位置づけていたの である。 「作品についての講演は、その一部であり、さ

らに全ての学校の教師のための特別入門講座、 3番目に、

美術館長又は良く訓練された教師の指導による博物館で の基礎的な観察に学級を案内することもそうである」(43) とされていたからである。彼の提案と刺激によって生ま れ、芸術教育運動の一大高揚を象徴する「芸術教育会 議」開催の組織的原動力となった『芸術教育促進教員連 盟』の結成(1896年)に典型をみるリヒトヴァルクの

‑ンブルク教師団への甚大な影響も、彼の中では、あく までも‑ンプルク美術館の、そしてドイツの博物館の新 たな地平開拓の一ページであった、という点には、格別 の注目が必要である。以下、少し、この面での彼の主要 な功績と意義をみてみることにする。

何よりも、 ‑ンプルク美術館長として、彼は、自らそ の任務として規定した所蔵品の「保存」 「拡充」 「利用」

という3つの仕事を遥かに上回る仕事をした。

「近代芸術への感受力を持った人物」(44)であったリヒ トヴァルクは、今日、芸術史に於いて、 「20世紀の芸術 への実り豊かで価値ある貢献をなし」(45)た「近代芸術 の‑先駆者」(46)として評価されているのであり、芸術 史上に残る数々の発見をなした人物であることを忘れて はならない。その際、大切なことは、 「美術館長として の彼の公的活動範囲は、彼にとっての活動の限界ではな く、その基盤を意味するものであった」(47)という点で あろう。 「‑ンブルクにあって美しいもの、偉大なもの、

どこにもない重要なもの、唯一のもの、このことを彼以 上に深く感じ得た人は誰もいなかった」(48)とされるリ

ヒトヴァルクは、館長として固有の芸術史上の貢献をな した。例えば、

「古い‑ンプルクのマイスターであるベルトラムやフ ランケの祭壇画を‑ンザ都市に取り戻し、次に1810 年‑ンブルクで亡くなったロマン派の画家フィリッ

プ・オットー・ルンゲの殆ど全ての作品を自らの美術 館に集め、さらに、カスパール・ダヴィット・フリー ドリヒ、メンツェル、ライプル、トーマ、ペックリン、

リーハーマン、及びコリント等の多くの絵を加えた。

彼は又、 ‑ンブルクの風景を描かせるべく郷土や外国 の画家達に依頼した。同時に、外国人も忘れなかった。

このことは、フランスのクールベ、マネ、ルノアール、

ボナール、そしてヴィラ‑ルの絵が示したし、さらに オランダの17世紀の絵画が数多くこの美術館の所蔵 品に加わったことにも表れた。」(49)

こうして古い‑ンプルクと19世紀の‑ンブルクにつ いての3つの展示室、即ち、彼によって1889年以降‑

ンブルク美術館に相次いで設置された『‑ンブルクの肖 像展示室』 『‑ンプルク絵画史展示室』 『19世紀‑ンプ ルクの画家展示室』は、わけても人々に郷土と生活への 誇りや自信を生み出す上で多大な貢献をなしたのであり、

リヒトヴァルクは、 「芸術的な共同生産に携わり、自ら

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A・リヒトヴァルクの視座と実践[下]

の、即ち、彼によって募集された友人達を通して支払い をする博物館長として、新しい典型を築いた」(50)ので ある。

ここで、こうした館長としての彼の活動が、時代の状 況の中で有した意味を明らかにするために、 19世紀後 半の芸術上の中心課題についての以下の指摘に耳を傾け て見よう。

「1871年以降の時代は、殆ど全ての領域にあっての群 立時代(Grundenepoche)であり、わけても博物館 制度の領域にあってそうであった。博物館は、この 10年間にその決定的な形を獲得するに到った。従っ て、 19世紀の後半に於ける芸術史の本質的部分は、

博物館に於いて生じたと言っても過言ではなく、ここ では、大学に於いてと同様、研究と理論とが並行して 生まれたのである。」(51)

こうした中で、当時のドイツは、 「多くの博物館に あって、余りに短い開館時間や服装規定や展示物の学 術的堆積のために、よく知らない者の訪問を閉め出し ていたために、博物館は、民衆全体には、決して近づ

き易いものではなかった」(52)のである。

リヒトヴァルクが、自らの最大の課題としたのは、こ うしたいわば芸術分野の中心舞台にあって、新たな博物 館の総合的プログラムを提示し実践することであった。

「この世紀の終わり頃には、 ‑ンブルクの博物館長ア ルフレッド・リヒトヴァルクは、既に次のことを認識し ていたのである。即ち、こうした発展が、博物館には有 益でないこと、減少している訪問者達もその芸術作品の 鑑賞に於いて芸術的中味を捉えているのではないこと、

そして又彼らが、芸術作品を潜入観をもたずに見ること を忘れてしまっていること、一言で言えば、学者博物館 (Gelehrten Museum)が、息切れを起こして窒息の危 機に陥っている、ということを。ここから、リヒトヴァ

ルクの全活動は、博物館の"開放"、そして、公衆に、

享受や鑑賞を自らのものとすることへと導くことに向け られた。」(53)

こゝにこそ、他でもないリヒトヴァルクの視座と実践 の眼目があったのである。

こうした「博物館の"開放つ と並び、リヒトヴァル クが博物館長として近代芸術史に果たした貢献は、当然 のことながらそのままドイツの芸術にあっての‑ンプル

クの位置を高めるものとなった。

「19世紀全体に於ける貴重な位置を占めているのは‑

ンブルクであり、そこは‑アカデミーの名声とは異 なっている。後のリヒトヴァルクの今世紀にまで顕著 な足跡を残す尽力によって、外光派芸術(Freilicht‑

malerei)の初期の中心となったのである。」(54)

159

「『教養ある人の芸術的水準』を高めるという目的を もった施設が、全ての比較的大きな都市で整えられた。

こうした努力は、雑誌『ドイツ芸術と装飾』の論文が 述べているように、 ‑ンプルクでその最大の飛躍を遂

げたのである。」(55)

少し立ち入った把握になるが、ドイツ『芸術史雑誌』

の編者ヴィルヘルム・ヴェッッォルトは、 1930年代の 時点で、ベルリン王立博物館総裁であったヴィルヘル ム・フォン・ボーデ(1845‑1929)とベルリン・ナショ ナル・ギャラリー館長フ‑ゴ・フォン・チュディ(1884‑

1909)及びリヒトヴァルクの3人をドイツの「博物館活 動及び博物館概念の3つの典型的根本形態」(56)を生み だした「偉大な博物館人」(57)と評価し、この3人の博 物館づくりの相違を以下のように述べている。

「彼らの芸術及び学問への異なった関わりから、ボー デ、チュディ、リヒトヴァルクによって発展させられ た3つの博物館の典型が明らかとなる。先鋭化してい えば、チュディは芸術の、ボーデは芸術研究の、リヒ

トヴァルクは芸術家の最も近くに立っていた。リヒト ヴァルクの理想像は、偉大な都市設計者であり、チュ ディの理想は、誰にも依存しない収集家、ポーデの目 標は、普遍的専門知識であった。リヒトヴァルクの情 熱は、教育活動に向けられ、ボーデの熱情は、学問的 知識に、チュディの愛情は、芸術的体験に向けられた。

チュディは、その人間のうちに収集家の直覚と精神的 自由、芸術愛好者の暖かさと味わいを、官吏の冷静さ や識者の批判的意識と統一する新しい専門家の典型を 創りだした。リヒトヴァルクは、彼自らの生、彼の故 郷の町の生、彼の国全体の人々の生に形を与えようと した。芸術は、彼にとって人類の美的教育の最も優れ た手段であった。」(58)

リヒトヴァルクのこのような典型的博物館人としての 全ドイツ的活動の‑イライトは、 1906年のベルリンで の「ドイツ世紀展」であった。それは、ある意味で、郷 土ハンブルクの芸術と生活に根ざして目ざましい成果を 収めていた自らの美術館の発想と手法を全ドイツ的規模 で試みようとする大胆な企画であった。

「リヒトヴァルクは、新しいドイツ芸術の大規模な実 演としての1906年の世紀展の真の精神的創始者で あった」(59)

「この上なく重要なこの展覧会が、結局のところ広範 な活動組織の協力によって可能となったのではあるが、

それへの刺激は、リヒトヴァルクによって与えられた。

ドイツ人がイタリアやフランスを巡礼する替わりに自 らの芸術の方をより心に懸けるべきだということを、

15年もの長きに亙って一貫して主張してきたのがリ

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ヒトヴァルクであったからである。」(60)

「リヒトヴァルクの発見者気質と関わって、 1906年の ベルリン世紀展が生まれる。これは純粋に固有な意味 で彼の功績なのである。というのは、彼が、それを年 来ドイツ文化の一大デモンストレーションとして計画 し、要求していたからなのである。彼はそこに、新た な諸発見を期待したし、そこに幻滅を味わうことはな かった。印象主義の発展を提示したこの展覧会の確か な統一性といったものも、リヒトヴァルク的であっ た。」(61)

ドイツ印象派の芸術家組織である『ベルリンセセッ ション』 (分離派)の創設者であり『ドイツ芸術家連盟』

の理事でもあったマックス・リーハーマン(1847‑

1935)とは、生涯の友人でもあり、ドイツ印象派の発展 に積極的支援を与えたのも、リヒトヴァルクであった。

さらに、リヒトヴァルクは、ワイマール期の創立以来、

世界の建築・デザインを中心とする芸術様式や教育に甚 大な影響を与えた『バウ‑ウス』の「直接的先駆者とし て1907年に設立されたドイツ工作連盟」(62)の「創立者 の一人」(63)とみなされており、 「工作連盟運動の先駆者 を瞥見するとき、アルフレッド・リヒトヴァルクのもと に10年前に始まった芸術教育改革のことを顧慮しなけ ればならない」(64)、と位置づけられているのである。

そしてもうーっ、どうしても見落とせないのは、ドイ ツの博物館関係者が、初めて一同に会した1903年のマ

ン‑イム会議であり、リヒトヴァルクは、この会議の中 心的存在として、終始指導的役割を果たしたのである。

この会議の前置きで、ドイツ博物館の国際的歴史的位 置を概観しつつ、リヒトヴァルクは、博物館の直面して いる事態、それと関わってこの会議のもっ歴史的意義、

そして、ドイツの博物館の一致して目ざすべき新たな課 題に触れて、全参加者に向け以下のように訴えたのであ る。

「博物館が化石化しないためには、変化しなければな りません。全ての世代が、博物館に新しい課題を見出 し、新しい成果を得るということになるべきでしょう。

我々の願望は、ここ数年、より強力なものとなってき ました。それは何よりも、博物館がもっと広く利用で きるようになって欲しいという願望であり、広範な層 の教育に可能な限り直接的影響を与えられるより発展 した形態への願望になっています。こうした働きかけ は、博物館行政の側からも、博物館と関わっても生じ ているものなのであります。」

「このマン‑イムでの論議が、博物館を代表する人々 の考えが調整され、国民の間に貴重な財産がまだ充分 に利用され尽くしていないのだという意識が活発とな ることに役立っものとなってもらいたいものでありま す。芸術に対してドイツ国民は一致したあり方をして

います。 ‑(略)‑博物館に生じていることは、やはり 国民全体に向けられたことであります。そこには計り 知れない力が横たわっているのであって、大学やアカ デミーと並んで全く特別で不可欠な位置にあるわけで あります。我々が新しい原理を探求しようとしている 国民の教育にあって、あらゆる種類の博物館が、学校 及び大学の歴史的文献学的活動に於いて、教育の場と

しての重要な補いを成すものとなることでしょう。と いうのも、それらが事物に至り、事物に由来した活動 であるからなのであります。」(65)

そして、こうした提起は、この会議を終えてのリヒト ヴァルク自身の所感によれば、 「事実上一つのこと、即 ち、博物館の教育的機能の発展は、もはやこれを妨げる ことは出来ないという見解が得られた」(66)、という成果 を生んだのである。

まさにリヒトヴァルクは、ドイツ近代芸術史にあって、

透徹した視座のもとに、多大な実践を印した人物で あったのであり、なかんずく、今日にあってもなお、

「近代博物館の開拓者として、一般に認められている」(67) のである。

2.ディレッタント養成の組織と実践

既にみたように、リヒトヴァルクの発想の根幹に終始 一貫していたのは、今日の改革教育運動史や芸術教育運 動史が主として捉えているような固有かっ狭義の芸術 教育の範囲に収まるものではなかった。前巻「はじめ に」で紹介したベッカース(Beckers)及びリヒタ〜

(Richter)は、以下の指摘を行っていた。

「リヒトヴァルクに関して言えば、 (恐らく余りにも過 大に)芸術教育運動の決定的な指導者であり促進者で あるとされている1907年に設立された『ドイツ工 作連盟』は、ドイツへのアーツ・アンド・クラフツ運 動の移植を求めたし、グロピウスによって基礎づけら れた『バウ‑ウス』もこの伝統の中にとらえられるの である。」(68)

リヒトヴァルクの理念や視点の精神主義的ないしェ リート的把握に立った芸術教育運動への影響の指摘で あった。しかし、ここには、リヒトヴァルクが果たした 芸術上の、なかんずく博物館開拓者としての、本質的事 実把握の欠落ないし誤認が含まれている。このベッカー

ス及びリヒターの1979年の著作は、既に前巻で述べた ように1980年代以降始まったとみられるドイツに於け る改革教育運動の国際的ないし批判的検討の出発点に位 置するものとみられるだけに、この誤りはなおさら重大 である。しかも、こうした誤った、ないしは不充分極ま

る評価は、前巻第I章で述べたように、プラーケにみら れるようなここ数年の研究によって一部修復の萌芽をみ

(6)

A・リヒトヴァルクの視座と実践[下]

せつつ、新たな限定的評価の固定傾向をも含んで今日に 至っていると考えられるのである。

芸術教育は、学校や教師に与える影響の側面を見るだ けでは不充分であり、わけても社会の生きた動向と予見 的直覚的に関わる芸術そのものの動向を広く視野に収め ることが必要である。こうした点で、ドイツ芸術教育運 動の初期の高揚を生み出すうえで先導的主導的な役割を 果たしたとされるリヒトヴァルクを、教育の視野に限定 することなく、芸術と芸術をめぐる社会的動向全体の中 でまず捉えることが求められている。他方で、リヒト ヴァルク自身の視座と実践の根底にあるもののトータル な把握によって、従来の評価を改めて問い直す必要も生 まれるのである。

前節で述べたリヒトヴァルクの芸術史上の、わけても ドイツ博物館の開拓者としての側面は、少なくとも、こ れまでの改革教育運動史の叙述では、殆ど視野から欠落 している部分である。彼の視座と実践の根幹は、 ‑ンブ ルクの生活に根ざす人間の美的形成と、その拠点として の‑ンプルク美術館に始まりかっ収束した。リヒトヴァ ルクにとっては、学校や教師への関心は、教育全体や杜 会にあっての芸術そのもの、芸術に関わる人間の美的形 成、そして生活の美的向上のための有力ではあるが一部 にすぎない関心であった、といっても良いだろう。こう した意味で、学校や教科としての教育に関わる狭義の意 味での芸術の指導や組織に対してまで、リヒトヴァルク の先導性指導性を憩調し過ぎることは誤りであり、ベッ カース及びリヒクーも指摘する如く、この限りに於いて、

「リヒトヴァルクの機構は、同時代の全てによって模範 的に達成されたものではなく、芸術教育運動の一つにす ぎない。」(69)といえる。

しかし、繰り返し強調すべきことは、リヒトヴァルク にあって、博物館という社会的教育機関を通しての人間 の、そして生活の美的向上ということこそ本質的にめざ すものであった、という点である。そしてこうした博物 館把握こそ、当時のドイツの博物館そのものの歴史的転 回を促す、それ自体が芸術史上の、そして言うまでもな く教育史上の画期をなす視点であったのであり、リヒト ヴァルクにとって、 ‑ンプルク美術館が、その中心的貝 体的実践の主舞台であり得たのである。 ‑ンプルク美術 館は、ドイツ博物館史にあって、狭義の博物館(美術 鰭)教育ではなく、生活や教育の場としての博物館(美 術館)という現実的転回へのモニュメントとしての意義 を有していたことは、とりわけ改革教育運動史や芸術史 に於いて、新たに把握し直すべき第一の点であろう。

こゝで改めて、ドイツ博物館史に通暁したヴェッツオ ルトの評価を引用しておこう。

「リヒトヴァルクは、特色のない‑ンブルク美術館を 引き受けたとき、どういう方向に向かうかを心深く決

161

めねばならなかった。誘惑に駆られ、ベルリンと競合 する‑ンプルク中央博物館をつくるべく骨を折るべき なのか、それとも普遍的功名心と関わらない低地ドイ ツの文化状況を明白に映し出す特色に満ちた施設を創 るべきなのか?リヒトヴァルクは、後者の博物館タ イプをとることに決めた。この美術館は、模範的意義 を獲得した。 ・‑(略)‑港や‑ンブルクの経済的重要性 と並んで、リヒトヴァルクの博物館は、この町の第2 の生活センターとなることになるのである。国家の表 面的な飛躍や豊かさはあるが、中産階級の内的教養、

その趣味文化のいっこうに向上しなかった時代、アカ デミックな中心のない商人都市にあって、彼は美術館 の任務を『そこにあって、待っているのではなく、周 囲の生と生き生きとかかわり合う』ことにみていたの である。こうした源泉から、一つの文学的な、都市と 郷土を覆う鼓舞のネットワークが張られることとなる のである。」(70)

さて、この「そこにあって、待っているのではなく、

周囲の生と生き生きとかかわり合う」美術館長として、

「一つの文学的な、都市と郷土を覆う鼓舞のネットワー ク」づくりを、リヒトヴァルクは何によって果たそうと したのだろうか?

これを可能としたもの、それこそ、リヒトヴァルク白 身の手によって多種多様な鼓舞と転回への刺激を与えら れたディレッタント(素人芸術家)の養成と組織であっ た。先に触れた如く、近代ドイツの典型的な博物館人と されるポーデやチュディも、その博物館支援のための組 織やグループをもっていたが、それは全て本質的に収蔵 品のためのコレクターグループであった(71)リヒト ヴァルクは、自身の育てたこのディレッタントの広範な 組織(72)を、郷土‑ンブルクに根ざしたドイツ人の美的 芸術的人間形成の核として捉え、併せて広義の博物館教 育のための組織的保障としたのである。ドイツ改革教育 運動史にあっての芸術教育運動の、わけてもリヒトヴァ ルク把握に於ける過度の「社会政策的改革」 (‑イ ナ〜・ウ‑リッヒ)評価や、リヒトヴァルクの芸術教育 論に於ける経済的側面強調に片寄ったディレッタント把 握は、リヒトヴァルクの意図し果たした事実としての固 有な役割を棲小化する危険をはらんでいる。むろん、リ

ヒトヴァルクの、このディレッタントの養成と役割が、

ドイツの産業や経済に貢献するという明確な主張や観点 はあった。しかし、それは、当時のドイツ国民の中に広 くあった文化や芸術に対する軽視の風潮一般への強烈な 批判意識を背景とした、いわば戦略的芸術ないし芸術教 育観であった、という側面をもっていたとみなすのが妥

当であろう。

リヒトヴァルクは、ドイツ全土にその成果を印象づけ

(7)

ることになるディレッタントの中核組織『‑ンブルク芸 術友の会』の展覧会(1900年)に寄せた週刊誌の論考 で、 「この10年来、私達は、 ‑ンブルクにあって、造形 芸術に於けるディレッタンティズムを、経済的な力の一 つの源泉として捉え、大きな任務を負ってその本来の意 識へとたち返らせ、これを強化し、組織する試みをなし てまいりました。」(73)と、確かに述べてはいる。しかし、

これは、むしろディレッタンティズム高揚のための深慮 遠望的アピールという側面を含んでいた、と見るのが妥 当であろう。なぜなら、例えば、この同じ論考の、 ‑ン ブルクに於けるディレッタンティズムの実際的活動を概 括して、リヒトヴァルクは、以下のように述べているか

らである。

「‑ンプルクでは、ディレッタントは、当初から、自 らの教育の他に、公益上の課題というものを追求して きました。既に最初のアマチュア写真展覧会で、先ず はディレッタント達によってとられた肖像写真の、そ して次には専門家の写真の芸術的変革といったことが、

視野に入れられることになったのであります。私達の アマチュア写真を勧める会は、 7年目にして、単に‑

ンブルクだけではなく、ドイツの全ての大都市に生ま れているショーケースの転換という仕事に、目を向け るところまできています。究極に於いて、それが会の 根底にあるものなのであります。 ‑ンブルク芸術友の 会の絵画や図案のディレッタントたちは、 ‑ンブルク やその近隣の市民や農民の建物を彼らの年報に掲載し、

それによって郷土の建築の表現様式を私達市民の建築 様式の革新にとっての出発点として役立たせようとの 目標をたてました。これによって、民衆の趣向と建築 家の方向とが、この点において遠からず一致すること

を望んでいる訳なのであります。さらに彼らは、円ら のアマチュア文庫の中で、本や本の装丁に喜びを感ず る気持、文庫育成を促す試みを行い、同時に、古今の ハンブルクの著述家達の最高の作品を普及することを 通じて、唯一優れた地方的な芸術が生まれるような試 みを追求してきたのであります。女性の手仕事を芸術 的に改良するための彼らの努力は、先ず手初めの仕事 として位置づけられているのであります。素朴で実用 的な花瓶の製作を通じて、花への楽しみを深めること に取り組んだことも、大いに実のある仕事でありまし た。」(74)

この論考には、リヒトヴァルクの刺激と提起によって 多様に組織展開された‑ンブルクのディレッタント達の 活動が、決して、芸術と芸術教育の経済的意義に一義的 に向けられたものではないことが、その具体的活動と成 果のうちに生き生きと示されている。

そもそも、リヒトヴァルクにあって、ディレッタント

の養成と組織的発展は、芸術や芸術教育の経済効果を生 むための人的物的保障であったというよりも、生活に根 ざした芸術の鑑賞や芸術作品の日常的製作を通じた人間 形成の深化が、結果として芸術の経済効果をも生む、と いうものであったとみるべきであろう。

「我がディレッタント達は、その真面目な活動によっ て、単に彼ら自身の満足や幸福を促すだけではなく、

郷土の文化の高揚のために活動するのだ、ということ を自覚することになるだろう。」(75)

このような、ディレッタントへの、そしてひいては、

人々の芸術との関わりを貝体的に把握し多様に組織し得 たところにこそ、リヒトヴァルクが、 「他のどんな博物 館人以上のことを果たした」(76)と評価される根拠が

あったのである。

以下、やや細部に亙るが、従来の改革教育運動史や芸 術教育運動史では殆ど触れられることのないリヒトヴァ

ルクの養成した多様なディレッタント達の組織的活動の もつ意義を、それら組織の中でも最も初期に創られ、終 始中核的なものとして機能した『‑ンブルク芸術友の 会』と、世界の写真史に於いて今日なお注目を浴びる

『アマチュア写真を勧める会』の2つの組織に絞って言 及しておこう。

「リヒトヴァルクの設立した教育的な活動組織の中で、

最初のものは、 1893年に設立された芸術友の会で あった。指導層の男女からなるこの連盟は、彼との緊 密な会となった。彼は、この会が有意義な活動を行う 上での刺激を与えた。例えば、古い没落に瀕していた

‑ンブルクの建築物をスケッチするとか、会の印刷物 の装飾のための彫刻技術の練習といったもので、彼は そのために自らの新規購入物を提供し、そうしたこと で、自らのプランや批評を発展させた。会員自身の仕 事の特別展も又、彼の勧めで、美術館で行われた。こ の会でその時討議された事柄は、 1895年から1912年 迄18巻に亙って出された会の年報の形で示された。

これらの素晴らしい装丁の本は、当時の‑ンプルクの 精神性の注目すべき記念碑であり、その本来の領域を 遥かに越えでた意義をもっている。」(77)

次に「アマチュア写真」の活動について、前者で、こ の運動が開始された直後の時点でのリヒトヴァルク自身 の自己評価的論説を、続けて後者で、今日の専門的写真 史にあってのこの活動の有した歴史的位置づけの一例を 挙げておこう。

「1893年秋のアマチュア写真家の展覧会が我々にもた らした経験は、大いに期待できるところである。アマ チュア写真展は、地方的観点から企画されたとともに、

‑ンブルクに向けられたものであった。しかし、それ は我々の範囲を遥かに越え、極めて持続的な刺激を与 えるものであった。その成果について、専門誌はこと

(8)

A・リヒトヴァルクの視座と実践[下]

ごとく、それが‑出来事としては、遥かに大きな影響 力をもつものであることに言及した。ドイツのアマ チュア写真の決定的展開は、技術的美的にみて、そこ から始まるであろうし、そのいちばん明瞭な成果は、

‑ンプルクの展覧会の指導者達によって鼓舞され、同 様な基盤の上に組織された1895年のベルリン展で示 されるであろう。我がディレッタント達の生んだこの 組織は、同様な意味で間違いなく‑ンブルクを越えて 影響を与えるであろう。ドイツの諸都市のうちで、こ の種の改造で真っ先に役割を担うのは‑ンブルクであ ると、我々は相応の望みを抱いて主張して良い。さら にその活動は、ベルリンよりも一層しっかりと集約さ れ、我々にあっては全ての出来事が、直接に全階層の 参加を呼び起こしているのである。昔からの自治の習 慣からして、 ‑ンプルク人は、新しい目標の達成に向 かってまとまり、その極めて優れた特徴として全力を 尽くすという素晴らしい傾向をもっており、健全な仕 事には進んで力を惜しまないということが、その強力 な発展の保障となっている。」(78)

「ドイツのアマチュア運動の中心は、 90年代の初めに 設立された‑ンブルクの『アマチュア写真を勧める 会』である。会の幹事であるエルンスト・ユール及び アルフレッド・リヒトヴァルクは、 1893年に、 『アマ チュア写真国際年次展』を開く。この展示会は、 ‑ン ブルク美術館で開かれるのであるが、そのことによっ て芸術的写真を生みだす点で、アマチュアのそれが、

重要な位置を占めることが外部に示されることになる。

こうしてこの展覧会は、 1898年以降は、 『国際芸術写 真展覧会』というタイトルのもとで開かれている。こ の‑ンブルクの展覧会は、写真のアバンギャルドの国 際的合流点となるのである。」(79)

さて、こゝで改めて、改革教育運動史や芸術教育運動 史の叙述にあって、不可欠ではあるが殆ど唯一の組織で あるかの如く扱われることの多い『芸術教育促進教員連 盟』も、このように多様なディレッタント達の、強力な 一つの組織としての側面を有していた、という事実を指 摘しておこう。この点に関わっては、例えば、リヒト ヴァルク亡き後の‑ンプルク美術館長であり、その通産 を受け継ぎ、ドイツに「民衆博物館」 (Volksmuseum) の思想とモットーを広めたグスタフ・パウリの以下のよ うな言明がその有力な傍証の一つとなるであろう。

「リヒトヴァルクは、彼の古い仲間である教師達との 協同に特別な重きを置いた。彼の刺激によって、 1896 年、 ‑ンプルクの民衆学校教師達は、芸術教育促進教 員連盟を組織し、直ちに彼の意図と関わる活発な宣伝 活動を展開した。その範囲には、芸術教育会議の対象、

即ち造形芸術、文学、音楽、体育が議論され、準備さ れ、さらに矢継ぎ早やに芸術教育学的書籍や教室の壁

163

飾り用の若干の絵も出版された。リヒトヴァルクの

『(芸術作品鑑賞‑訳者)訓練』は、この連盟の依頼で 出版された。芸術教育運動の一つの中心としての‑ン ブルクを裏付けたこうした協同者達の一団は、リヒト ヴァルクの恩想の普及に極めて本質的な貢献を行った し、 ‑ンブルク美術館を最も国民的な博物館の一つに するのを助けた。」(80)

こうした事実は、逆に、当時の‑ンブルク教師団の年 長のリーダーの一人であったテオドール・ブリンクマン (Theodor Blinckmann)の以下のような証言によって、

より内在的な確証を得ることができる。

「実際リヒトヴァルクは、その講演を通して、 ‑ンブ ルクの教師達に、そしてその人間的交わりを通して多 くの小グループに、芸術に対する心と感覚を開示した し、それを通して、彼は、我が国民の文化状態に対す る彼らの目を開き、その任務の大きさを強く彼らに意 識化させたのである。そして彼らは、そのことで、

日々の仕事の制約を越えて高まったのである。これら 全てが、まさに教師や学校にとっての恵みになったと 言えるであろう。実際彼は、学校にも教師団にも直接 的貢献をした。彼は、教師達と一緒に、学校や教育へ の新しい道を探したし、学校をその教育的物質主義の 束縛から解き放ったのである。如何に鋭く彼が、学校 生活の諸々の欠陥を認識していたか、又当時の社会に あっての教師達の地位と、そうした地位の向上にとっ ての前提条件を、彼が如何に明瞭に捉えていたか」(81)

「彼は、民衆学校の教師達の仕事が、如何に重要なも のであるかを余すところなく示したし、リヒトヴァル

クが、間もなく、 ‑ンブルクの教養層に於いて高い名 声を得るようになることで、教師に対する彼の評価に よって、教師はその地位を少なからず高められたので ある。」(82)

ここで、リヒトヴァルクのこうした甚大な影響力・感 化力の一端を臨場感溢れる形で伝える記録の一つを取り 出してみよう。リヒトヴァルクの死後、最初のまとまっ た伝記的著作を著したエーリッヒ・マルクスが、教師達 を中心に行った‑ンブルク美術館でのリヒトヴァルクの 講演の模様を伝える一節である。

「彼はここに教師や学校を導き、彼ら全てを素晴らし い教育的芸術によって教育した。彼は自らの講演に招 待し、大きなホールを一杯にした。どれほど多くの愛 情、どんなに深い幸福感を彼は放射し、どんなに多く

の目を開かせ、どんなに沢山の心を豊かにしたことだ ろう!彼は、彼らを、もの自体へと導き、それを解 き明かした。彼は、奔放で自由な愛嫡半ばのおしゃべ りをよくし、その瞬間に於いても魅力的な新鮮さとと らわれのなさ、そして羨むばかりの直裁的な思想・感 覚・形をもった芸術家としての語らいをした。遥かに

(9)

遠くにあるものをも稲妻の如くに捉え、この上なく広 い空間も明るくなった。 ‑(略)‑彼は、周りにしっか りとディレッタント達を集め、彼らを導き、彼らと活 動し、彼らを形成し育てた。彼は、諸能力を磨くこと を求め、 それを喜びに変えようとしたのである。」(83)

以上の叙述によって、リヒトヴァルクの活動が、 ‑ン ブルク美術館長としてのいわば職業的使命感に貫かれつ つ、実に多様かつ歴史的意義を有するディレッタント達 の活動と組織に支えられ、 ‑ンブルクに於ける、ひいて はドイツ全土に於ける「一つの文学的な、都市と郷土を 覆う鼓舞のネットワーク」 (ヴェッツオルト)づくりに 成功した事実の大筋が捉えられるであろう。

お わ り に

歴史研究とは、一体何を明らかにする営みなのだろう か?それは、今を生きる人間の深奥に息ずく願いや意 図とどう関わりうるものなのだろうか?多くの場合、

この歴史研究の主体は、研究対象とは時間的に遠く隔て られており、その対象を現出ないし衝き動かす背後の力 や気配を実感しなかった、そこに生身をさらせなかった 人間である。もはや同時代の息吹やその担い手にさえ明 確には表現できないほどの熱く頚いマグマの如き熱情や 力に、その対象がどうさらされていたのかを実感できな いのである。事実や存在、ましてやそれが置かれていた ロケーションをより正確に復元すること、これは、様々 な"科学的"手法をもって一定果たせるであろう。しか し、これらの手法の高度化をもってしてもなお果たし得 ないもの、それが生そのものを根底に於いて貫き衝き動 かしていた、いわば「内臓感覚」ともいうべき個人や時 代の「生理」なのではあるまいか?歴史研究なるもの が、今を生きる人間に真に意味をもち得るのは、このよ うな個人や時代の生理を、内臓感覚的に体感出来る素材 を批判的にかっいきいきと提示することにこそあるので

はないだろうか?それが、人間の生きざまを総体とし て扱う教育の歴史であってみれば、なおさらである。

筆者がここにとりあげた素材としてのリヒトヴァルク は、わが国のそれは言うに及ばず、少なくとも従来のド イツでの改革教育運動史にあって、余りに狭く、かっ非 本質的姿に於いてしか捉えられてこなかった、と言って 良い。筆者の唱える個人や時代の「内臓感覚的」な生理 を措くこととはかなりの距離があると言わねばならない。

従来の教育史にあってのリヒトヴァルクの位置づけの 最大公約数は、実践的には、

① ‑ンブルク美術館で教師や生徒たちを前に行った 作品鑑賞の実際を収録し、後にその狭義の芸術教育 に関するリヒトヴァルクの主著とされる『芸術作品

鑑賞指導』(84) (1897年初版)の刊行、

② それを契機にリヒトヴァルクの刺激によって設立 された『芸術教育促進教員連盟』の設立(1896年)、

③ そして、わけても初期芸術教育運動の高揚を象徴 する計3回の「芸術教育会議」での指導的役割、

であり、理論的には、

① 芸術製品の質的向上が生み出す経済的な国家繁栄 への貢献と芸術製品への国民の購買力の憩化、

② その方途としてのディレッタンティズムの憩調、

③ そして、芸術と教育との関わりに於ける鑑賞・享 受を主とする「芸術への教育」の主張、

という把握に尽きている、と言って良い。(85)

しかし、今日、リヒトヴァルクは、「‑ンプルクに とって殆ど伝説上の人物となっている」(86)とされ、 ‑ ンブルク最高の国家賞としての『リヒトヴァルク賞』、

生まれ故郷の村にあって恒常的雑誌を発行し続けている とされる『リヒトヴァルク委員会』等の存在は、彼が、

単に狭義の芸術教育運動の貢献者であったのみでなく、

‑ンブルクはもとより、全ドイツにあっての「『国民芸 術』に骨を折る全ゆる努力」(87)の人であったことを、

何よりも雄弁に物語っている。

本稿では、その重要な教育史上の存在であり、わが国 にあっても、とりわけ大正期の芸術教育運動の高揚と関 わって盛んに紹介されたリヒトヴァルクが、その透徹し た視座と広範な実践にも拘らず、狭く歪められた形でし か評価されていない状況を5点に集約し、そのうちの3 点に限って論究した。(88)残る2点に関わるリヒトヴァ ルクの生い立ち、生涯、わけても‑ンプルク着任直前迄 の首都ベルリンにおける芸術ジャーナリスとしての活躍 と、その深い人間存在の放っ教育力の源泉を探求する作 業は、「ドイツの教師」と歴史的に尊称されるリヒト ヴァルクの秘密に迫る根幹を成すものであるが、この点 は、今後の課題としなければならない。

(38) Glaser, Harald (Red.), Handbuch der Museen. 2., neube‑

arb. Auflage. 1981. S. 153.

(39) Helmut Thomsen, Hamburg. 1962. S.245.

(40) Bernhard Meyer‑Marwitz, Das Hamburg Buch. 1981.

S.325.

(41) ibid. S.326.

(42) Albert Reble, Geschichte der Pえdagogik. Ungekurzte Ausg. 12 Aufl. S.282.

(43) W. Fries u. R. Menge (hrsg.), Lehrproben und Lehr‑

gange aus der Praxis der Gymnasien und Realschulen.

Heft 53. S.77.なお、この就任演説の内容そのものは、

Zur Organisation der Hamburger Kunsthalle. Ham‑

burg: Meiner, 1887.に収録されている。

(44) Michael Pauseback, Max Liebermann in seiner Zeit.

1979. S.60.

(10)

A・リヒトヴァルクの視座と実践[下]

(45) Heiner Knell und Hans Giinter Sperlich (hrsg.), Ulstein Kunst Lexikon. 1967. S.370.

(46) Peter Paret, Die Berliner Secession. 1981. S. 391.

(47) Gustav Pauli, Alfred Lichtwark. in. Alfred Lichtwark, Briefe an die Kommission fur die Verwaltung der Kunsthalle. 1924. S.6.

(48) ibid.

(49) Fritz Winzer, Kunstmuseen in der Bundesrepubhc Deutschland. 1980. SS.62‑63.

(50) Erich Marks, Alfred Lichtwark und sein Lebenswerk.

1914. S.42.

(51) Udo Kulturmann, Geschichte der Kunstgeschichte.

1966. S.247.

(52) Gunter Otto, Kunsterziehung. in. Wissen im Ueberbl‑

ick. Die Kunst. 1972. S.163.

(53) ibid.

(54) Hans Platte, Deutsche Impressionisten. 1971. S. 92.

(55) Carl Neumann, Der Kampf um die neue Kunst. 1896.

S.134.

(56) Wilhelm Watzoldt, Trilogie der Museumsleidenschaft.

in. Wilhelm Wえtzoldt u. Ernst Gall (hrsg.), Zeitschrift furKunstgeschichte. Bd. 1. 1932. S.5.

(57) ibid. S.6.

(58) ibid. S.9.

(59) ibid.

(60) Gustav Pauli, Alfred Lichtwark. in. Willy Andreas u.

Wilhelm von Scholz (hrsg.), Die GroBen Deutschen.

Neu deutsche Biographic 4. 1936. S.382.

(61) Gustav Pauli, Alfred Lichtwark. in. Alfred Lichtwark, Briefe an die Kommission fur die Verwaltung der Kunsthalle. a.a.O. S.60.

(62)宮島久雄「バウ‑ウス‑『芸術と技術の統合』理念‑」

『ドイツ表現主義4 表現主義の美術・音楽』河出書房新 社、 1971, p.261.

(63)ペ‑タ‑・ゲイ、川西進/岡田等雄訳『芸術を生みだす もの』、ミネルヴァ書房、 1980. p.133.

(64) Joan Campbell, Der Deutsche Werkbund. 1907 ‑ 1934.

1981. SS.34‑35.

(65) Alfred Lichtwark, Museen Als Bildungsst云tten. in.

Lichtwark, Der Deutsche der ZukunfL 1905.順に、 S.

97.及び、 SS.105‑106.

(66) Alfred Lichtwark, Briefe an die Kommission fur die Verwaltung der Kunsthalle. Band H. 1924. S.53.

(67) Fritz Winzer, Kunstmuseen in der Bundesrepubhc Deutschland. a.a.O. S.61.

(68) Beckers/Richter, Kommentierte Bibliographic zur Re‑

formpえdagogik. 1979. a.a.O. S.68.

(69) ibid. S.253.

(70) Wilhelm W云tzoldt, Trilogie der Museumsleidenschaft.

a.a.O. S.10.

(71) ibid. S.ll.

(72)そのI三なものだけでも、 『‑ンプルク芸術愛好者協会』

(1886年) 『‑ンプルク芸術友の会』 (1893年) 『‑ンブル クアマチュア文庫』 (1895年) 『アマチュア写真を勧める 会』 (1895年) 『‑ンプルク家庭文庫』 (1896年)、そして、

芸術教育運動史の記述で、必ずではあるが殆ど唯一のリ ヒトヴァルク影響下の組織として触れられることの多い

『芸術教育促進教員連盟』 (1896年)、さらに『草花擁護 振興会』 (1898年)などがある。

(73) Alfred Lichtwark, Der Dilettantismus In‑und Aus‑

165

lande. in. Alfred Lichtwark, Aus der Praxis. 1902. S.

95.

(74) ibid. SS.104‑105.

(75) Alfred Lichtwark, Das Aufleben des Dilettantismus.

in. Lichtwark, Das Bild des Deutschen. 1930. S. 40.

(76) Gustav Pauli, Alfred Lichtwark. in. Alfred Lichtwark, Briefe an die Kommission fiir die Verwaltung der Kunsthalle. a.a.O. S.57.

(77) Gustav Pauli, Alfred Lichtwark. in. Willy Andreas u.

Wilhelm von Scholz (hrsg.), Die GroBen Deutschen.

Neu deutsche Biographie. 4. a.a.O. S.380.

(78) Alfred Lichtwark, Das Aufleben des Dilettantismus.

1893. in. Lichtwark, Das Bud des Deutschen. a.a.O.

SS.39‑40.

(79) Ursula Peters, Stilgeschichte der Fotografie in Deuts‑

chland 1839‑ 1900. S.279.

(80) Gustav Pauli, Alfred Lichtwark. in. Alfred Lichtwark, Briefe an die Kommission fur die Verwaltung der Kunsthalle. a.a.O. S.49.

(81) Th. Blinckmann, Die offentliche Volksschule in Ham‑

burg in ihrer geschichtlichen Entwicklung. S. 175.

(82) ibid.

(83) Erich Marks, Alfred Lichtwark und sein Lebenswerk.

a.a.O. SS.43‑44.

(84) Alfred Lichtwark, Uebungen in der Betrachtung von Kunstwerken.一部邦訳が、アルフレッド・リヒトヴァ

ルク、岡本定男『芸術教育と学校』 (明治図書、 1985年) に収められている。

(85)いちいち例を挙げる必要のないほどであるが、その略歴 的記述でこれをみれば、ドイツのものとしては、 Flitner/

Kudritzki (hrg.), Die Deutsche Reformp云dagogik.

Band. I. 1962. a.a.O. S.331.

日本のものでは、稲富栄次郎監修『教育大名辞典』、理 想社、 1962, p.722.等。

(86) Hans Platte, Meisterwerke der Hamburger Kunst‑

halle. 1958. S.23.

(87) Theobald Ziegler, Diegeistigen und sozialen Stromung‑

en des neunzehnten Jahrhunderts. 1911. S. 653.

(88)前巻末に指示したが、この5点とは、

①リヒトヴァルクの理論的実践的活動を広く芸術運動全 体や芸術運動史の中に据えて評価すること、

②リヒトヴァルクの果たしたドイツの博物館史ないしは 博物館教育史上の意義を明らかにすること、

③リヒトヴァルクの芸術教育運動史上の決定的貢献の中 核となる広範なディレッタント養成への組織的実践を 究明すること、

④リヒトヴァルクの傑出した能力の根底にあり、その甚 大な理念的影響力を支えたジャーナリストないし文筆 家としての資質を、これまで殆ど未解明な彼の生い立 ちや活動歴におけるベルリン時代を中心に明らかにす ること、

⑤リヒトヴァルクのトータルとしての評価を決定づけて いるのは、芸術教育運動の範関内でのそれではなく、

歴史上の大学者にのみ与えられるプレツェプトル・ゲ ルマーニエ(Praeceptor Germaniae 「ドイツの教 師」 「ゲルマン民族の先導者」)であると言って良く、

同時代人にこのような第一義的評価を生んだ、主とし て人格的理由を探ること、

であり、本稿では、このうちの(D②③に限って論及 した。

(11)

The Viewpoint and Practice of A・Lichtwark [n]

The General Bass of German Reform‑pedagogical Movement

Sadao OKAMOTO

{Department of Pedagogy, Nara University of Education, Nara 630 ‑ 8528, Japan) (Received April 20, 1998)

It is well known that Alfred Lichtwark (1852‑ 1914) was the leader and one of the initiators in German ar‑

tistic educational movement. But the historical educational study about the whole process of the German re‑

form‑pedagogical movement is one of the controversial issues after the 1980's in Germany.

But these points have not been described on the historical study in our country.

I think that the essential research into the German reform‑pedagogical movement lies on the estimate of the artistic educational movement, including the examination of its leaders in this movement.

Before anything else, Lichtwark was one of the big pioneers of the modern museum in Germany. He culti‑

vated the first typical type and the field of education about museum in Germany. Lichtwark presented the per‑

suasive activities with many artistic educational viewpoints especially in the Museum of Art in Hamburg.

In order to cultivate these many activities, He made various kind of organizations. These organizations functioned around the art museum adaptably and flexibly. Lichtwark also thought that the organization of

the dilettantes.including the teachers of Hamburg, was a very important thing in his remarkable activities.

I will clarify these processes in this volume.

Key Words: pioneering of the museum in Germany, education about museum, organization of the dilettante

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