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雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

教授原理としての「視点」について(?)−W.ポッ プの「多視点的思考」の検討−

著者 小野 擴男

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 50

号 1

ページ 183‑192

発行年 2001‑10‑15

その他のタイトル A Study on Perspective as an Instructional Principle(II):A Critical Appraisal of Multiple−Perspective  by W.Popp

URL http://hdl.handle.net/10105/389

(2)

奈良教育大学紀要 第50巻 第1号(人文・社会)平成13年  

Bull.Nara Univ.Educ.,Vol.50,No.1(Cult&Soc.),2001   183  

教授原理としての「視点」について(Ⅱ)  

−W.ポップの「多視点的思考」の検討−   

小 野 接 男   奈良教育大学学校教育講座  

(平成13年4月27日受理)  

キーワード: 視点、異文化学習、芸術  

ついての解釈があるだけで,世界それ自体は存在しない   とした.直接的な確かさなどは存在せず,「人間の真実   とは人間の否定しようのない過ちである」(4−と極言し   た.   

確かに,世界の秩序,事柄の本質は認識し難く,絶対   的な客観的認識といったことは不可能なのであって,  

「現実」がますますメディアに媒介される今日,この主   張は一層真実味を帯びる.解釈の過程が尽きぬものであ   るが故に,現実は解釈とその視点とによる多元的なもの   となり,現実は一つのシステムに還元し得ない様々な視   点の給体として捉えられる.そこには統一的な世界像な  

どは存在しない.   

しかしこの対極に,「世界はわれわれの観念とは独立   した対象の総体からなる」という極端なリアリズムの立   場がある.このことは,科学的な教育や研究あるいは宗   教的な啓示によって,世界について客観的に「正しい」  

像をもつことを意味する.認識における「客観」性は,  

客観論者に絶えず正当性を与えるとともに,彼らを他の   立場に対して不寛容にし,果ては制裁や抹殺に至らしめ   る.全体主義や原理主義者,宗教,政治,学問における   教条主義者にとって,そのことはまた権力保持の手段と   なる.   

こうした二つの極論をさけ,W.シュルツやH.プット   ナムの次のような思考が重要であろう.  

「現実というのは,所与の客観的な世界でもなければ,  

主観が設定するものでもない.現実というのはむしろ,  

そこにおいて主観と客観とが相互に条件づけ合いなが   ら,絡まり合った事象関連である.主観が客観を規定す   るように,主観は客観によって規定される.生起してい   るものは,その基本的指標が弁証法であるところの過程   なのである.」(5)   

また,H.プットナムは基本となる二つの視点を区別す   る.一つは外からの視点であり,「それによると世界は,   

1.は じ め に  

前稿(1)においては,G.G.ヒラーの『構成的教授学』  

(1973)における多視点的思考を検討した.ヒラーがそ   の著作で理論的・実践的に論究した「視点」の問題は,  

その後全面的に展開された「多視点的授業」の基礎づけ   となったものである.70年代,K.ギールやヒラーととも   に「多視点的授業」の構想と実践に参画したW.ポップ  

(Z)は,当時そのグループが提起した「視点」の問題を,  

今日的な教育状況において,更に発展的に意義づけよう   としている.本論文では,ポップの「事物科の課題とし   ての視点性と多元性」(3)という論文を対象として,前   稿に引き続き,教授原理としての「視点」の問題を検討   するものである.  

2.基底としての「視点」の意味  

視点という概念は,本来的には地理学や光学に由来す   るものであるが,絵画,文学,哲学においてもテーマと   されてきたし,今日の認識論的論議の中  心的概念ともな   っている.ポップは,教授原理としての「視点」の意味   を,とりわけ以下の二点に関連づけて基礎づけている.  

2.1.現実は多様な解釈の総体ではない.   

「視点」は何故様々に問題とされてきたのか.認識,  

世界観,「真実」,判断は,認識主体と関連づけられ,生   活史,情動,言語,社会的文脈,現在の状況といったこ  

とは,主体の立脚点を規定する.現実はそうした特定の   視点から把握されるのである.   

特にラディカルな視点主義を主張した哲学者として,  

F.ニーチェがあげられる.視点ということが彼にとって   は「あらゆる生活の基礎条件」であった.ニーチェは,  

われわれの見方とは独立に,客観的世界が存在するとい   う哲学に異を唱え,ただそこに尽きることのない世界に  

(3)

184   小 野 摸 男   精神から独立した対象の確乎たる総体から構成される.  

それによれば,世界はどのように見えるかについての,  

真実で完璧な記述を得ることができる.」もう一つは内   的な視点であって,世界はただ一つの「真の」記述があ   るのではないというところから出発する.「真実」とい   うのは,内的な視点からみると(理想化されて)合理的   にとらえられたものであり,たとえば,精神とは独立し   た「事象」との合致ではなく,われわれの信念や経験の   一貫した叙述が問題とされる(6).   

多視点主義(Perspektivismus)に立つということは,  

現実を極端に主体と独立に考るのでもなければ,主観が   現実を素朴に設定するのでもなく,また自然科学におけ   るように一つの世界を写し取るものでもなく,現実を精   神の純粋な構成物とするのでもない.端的に言えば,ま   さに「精神と世界が共に精神と世界を創り出す.」(H.プ   ットナム)という立場である.  

2.2.視点主義は素朴な相対主義ではない.   

現在(Gegenwart)は,科学の領域においても歴史   的・社会的生活の領域においても,「その特色づけが事   象の弁証法」という思考によって規定され,しかもそれ   は,共生と事象の理性的考察という人間の責任性を基底   とする.つまり「こうした現実に対しては,倫理的な関   与によって規定される態度だけが適切なものである」  

(W.シュルツ)というのである.従って,どのような視   点,どのようなグループ,どんな状況下で,どのような   世界像が適切なものとして見えるか,そこからどんな行   動が生ずるかという問題は,間主観的な協調とそこから   生じてくる合意の問題となる.   

主観とは独立した客観的現実の受け取りを断念して,  

現実像の多元性から出発するという弁証法的理解は,恋  

意性や相対主義に陥るものであったり,責務  

(Verbindlichkeit)や倫理性の放棄につながるものでは   ない.責務というのは決して普遍的なものではなく,制   約された文脈と関連づけられるものである(特定の文化,  

特定の社会階層やグループ,特定の社会問題といったよ   うに).責務はそのように制約を受けることで,より具   体的で日常とより強い関連性をもつことになる.多元性   というのは責任性の放棄や否認ではなく,皮相な「なん   でもあり」でもなく,また基準の喪失を意味するもので   もなく,特別な文脈への制約と責務の高度な具体性とを   意味するものである.  

3.学校教育における多視点性  

「生活現実を解き明かす」ということ,つまり多文化   的な状況下で様々な生活世界や様々な現実像そしてまた   様々な視点を明らかにすることは,学校教育,とりわけ   基礎学校の事物科の課題である,とポップはいう.   

今日においても「不寛容さ」(Unbesheidenheit)と   いう問題は,ほとんど全くと言ってよいほど克服されて   いない.一つ二つあるいは三つの通があるだけではなく,  

もっと多数の異なった道があり,状況に応じて幾度も道   や道筋を変え得ることが重要なのである.定式や一元的  

な思考は見かけ上の確かさを与えてくれるだけで,容易   に独断的な思考や行為へと導びく.「世界をよくすると   いう人ほど容易にドグマ化する」ということになる.   

そうした「不寛容さ」やドグマ化を招くのは,学校と   いう教育システムが,多かれ少なかれ,潜在的にか顕在   的にか,「支配的な定説」への同化圧力として存在して   いるからである.一つの見方から新たなドグマが生じ,  

また成功しよとする者は,たとえ口先だけにしろ,それ   に合わさなくてはならないという危険性を含みもってい  

る.   

ポップは今日の学校教育をこのように捉え,そうした   不寛容さやドグマ化を克服するために,多視点的立場を   獲得することが必要であるとする.もっとも,こうした  

「多視点的思考」は,新奇な提案であるわけではなく,  

これまでにも,学校教育で意図的にしろ無意図的にせよ,  

実践されてきたことでもある.ポップは,これまでの典   型的な実践事例を抽出しながら,基礎学校(とりわけ事   物科)で問題としてきた「視点」を改めて整理する.  

3.1.科学や教科の視点的性格   

物理学の教育に大きな貢献を残したM.ヴァーゲンシ   ャインは,教科の視点的性格とその特別な制約の問題を   論じた.例えば月を例に取れば,そこには二つの月があ   るというのである.つまり,一方に我々を驚かせ物思い   に耽らせる,詩人や恋人同士や小説家の捉える月があり,  

他方に物理学者や天文学者や宇宙飛行士にとっての月が   ある.   

物理学者にとっての月とは?   

「地球からどんな高さで運行しているのか,星との位   置関係は,太陽より近いのか遠いのか.それらは共に考   察し検証できるものであり,正しい答えが存在する.地   球からは地球の直径の30倍の距離.ほぼ一ケ月で地球を   公転,秒速約1キロメートル.太陽よりずっと近くて,  

約1/400の距離.他の星(一握りの惑星を除けば)より   ずっと近くにある.そして,こうしたことは全て『確か』  

であることから,我々にとってではなく,『それ自体』  

本当であることを知っているという感情を抱くことにな   る.」   

「けれども」,とヴァーゲンシャインはいう.「『本当』  

とか『実際』,また『それ自体』,あるいは『存在する』  

という謎めいた言い方(「ただ一つの月が存在するだけ」  

と言うような)は,一体何を意味するのか.我々にとっ   てではなく,我々がいなくて,月それ自体が何であるか   を知ろうとすることはできるのだろうか.人間が人間を   

(4)

教授原理としての「視点」について(Ⅱ)   185   閉め出すことができるのだろうか.空間や時間の測定や  

計算はまた我々の財産であり,そこに依拠するというこ   とはまた一つの決断ということではないのか.従って月   それ自体が何であるかを問うなどということは,意味を   為さない.我々が常に関与しており,しかもいつも同じ  

『体制』でいる訳では決してない.」(7)   

このように考えると物理学にしても,それはその特別   な「制約を加えた視点」に過ぎず,物理学者自らがいう   ように,我々を取り巻いている現象を,地図が景観を,  

譜面がシンフォニーを,影が対象を映し出すように,物   理学の視点から映し出しているに過ぎない.確かにそれ   は非常に鋭く正確にではあるが.   

事物科ではテーマとして「私たちの感覚器官」が取り   上げられる.視覚,つまり眼は光の屈折という物理学的   な視点の制約において取り扱われる.拡大されたモデル   によって,さまざまな器官とその機能を分類する.ただ,  

この「みる」ということが物理学的な視点にのみ限定さ   れるならば,生来眼の不自由な者は除外され,彼らには  

「みる」ということが経験できないことになる.うれし   かったり,反発したり,不安になったりという「みる経   験」,眼や眼差しの社会的で美的な影響,色彩や形や光   に対しての気分や感情,動機や健康状態がもつ作用が排   除されるのである.ヴァーゲンシャインは感覚を測定的   にのみ理解することを「物理学的な自己解体」と名付け  

た.   

個別学問の視点,また個々の教科の視点だけでは不十   分であり,それらはものをある視点から明らかにしてい   るに過ぎない.事物科の授業で,こうしたことを解明し   意識化させることが重要となる.  

3.2.文化的に条件づけらた行為規範や倫理的原理   J.S.ブルーナーは「知識の人格化」と関連づけて,エ   スキモーの生活を記録した映画に対するアメリカの子ど   もの反応を記述している.そこでは,エスキモーの青年   が父親の援助のもとに輪をつくり,それでカモメを捕ま   え,次いで石で殺すというものであった.「カモメで何   かをつくるというのは人間的ではない.」という発言.  

しかし,よく考えた後で次のような声も挙がった.「彼   は狩人になるように教育されているのだ.」「そこで生き   ていかなければならないとしたら,一体どうするのか.」  

「そこの人たちのように運命づけられていたらどうする   か.」(B)   

対話を通して,文化的に条件づけられた全く異なった   視点を子どもたちが受け入れることによって,彼らは意   識下にあった自らの感情や偏見を越えて何事かを学ん   だ.異なる文化圏,異なる生活状況という視点から考え   ると,残虐で非人間的であると思っていたことが異なっ   た価値をもつものとなり,子どもたちは次のように考え   るようになる.たとえば狩りや動物を殺すというやり方   

は,エスキモーの青年から見れば少しも残虐なことでは   ないということである.他の文化や生活を条件づけてい   る異なる視点の正当性の洞察は,自己自身のこれまでの   方向づけを相対化し,その背後にある事柄を意識化させ   る.奇異感を与える,よそよそしいものとの論議によっ   て,信頼性と自明性が新たに異なった形で認識される.  

3.3.利害・関心で操作される現実像   

D.ウルバンは,基礎学校の4年生に,一度は自分たち   の村を肯定的(「珠玉」)に,もう一皮は否定的(「不名   誉なものとして」)に記述させたことを報告している(9).  

村の相対立する像は,偽りの論述をすることなく,一方   的に強調された異なる視点とそれに基づく事実の抽出に   よって生じたものである.実際,関心事に従って,ある   像が全くの「真実」と称される.遠隔地への交通の便が   一つの像であり,地方行政への批判は他の像を作り出す.  

重要なことは子どもたちが自分たちの行動を通して,  

「現実というのは視角の問題」であり,それは利害や主   体の生活状況,情動や先行経験,社会的な影響や言語的   慣習に依存しているという認識をもち得たということで   ある.   

U.ダネンベルクは,3年生の授業で「情報と論議」と   いうテーマを扱った(10).情報という概念を検証性や一   義性という基準によって詳細に見た後,こうした基準を  

さまざまな事例に適用することで精教化していった.例   えば自転車を取り上げて明らかしたことは,興味関心の   状態によって,異なった情報が選び取られるということ   である.子どもは父親に今の自転車の欠陥と新たな必要   性から,新しい自転車の購入を確信させようとし,購入   者としての父親の問題関心は,自転車がまだ十分利用で   きるということにある.その際事実は何も偽造されては   ならないが,ある利害の促進は特定の情報を強調し,利   害に反するものは隠されるということである.   

こうした例は,メディアや消費世界,また異なる利害   関心や政治的な論議の構造や戦略を考えさせるものとな  

る.  

3.4.対立する視点による自己の視点の相対化    学校やクラスでの子どもたちのモメ事は,学校の日常   茶飯事である.そうした事柄は通常妨害要因として,無   視されたり,排除されたり,できるだけ速やかな処罰に   よって処理され,計画された授業の進行を妨げないよう   に取り扱われる.H.J.フィッシャーは2年生の子どもの   争いを対話としてテーマ化した(11).   

子どもたちは争っている行為について,さまざまな視   点と評価をもった.「踏んづけて悪口を言うユズカンが   問題です.」「ろくでなしの家族などと言うのです.」「い   つもそんなことを言うんです.」「全くひどく許せないこ  

とです.」「ユズカンは逆の立場になって,誰かにそう言   われたときのことを一度考えてみてください.」ユズカ   

(5)

186   小 野 擁 男   ンは,実際何を言っているか自覚していないことが推測  

されたのである.他の子どもたちも自己批判的に意見を   述べた.「私も間違っていた.だって悪い言葉づかいを   したことがあるもの」「踏みつけるのではなくて,たと   えばフィッシャー先生のところに行って話すこともでき   る.」しかし反対意見もある.「妹だったら,踏んづけて   もいいとお父さんは言ったよ.」   

この部分だけからでも明らかなことは,他者の見方を   考えてみて,自己の立場を相対化し新たな判断を試みて   いることである.他者と共に思考の道筋をたどり,争い   を越える間主観的な立場を獲得しようとしている.  

3.5.視点の転換による意志の疎通   

ある女の子が算数の問題を自分は解いてしまったが,  

まだ出来ていない仲間を援助しなかった.「そういうこ   とには興味がないの.石器時代の本を眺めていたいの.  

カッカしなくていいから.」J.カーレルトは,この過程   を子どもの個性とエゴイズムとを考えさせる契機とした  

(12).まず,教師には児童の視点を確認することが重要と   なる.石器時代に関する本への関心がこの状況下で,こ   の女の子にとっての,一般的な意に反しての,正当な要   求なのである.援助ないし非援助の決定には多様な解釈   がある.   

この女の子は,援助を必要としている仲間に対する援   助を拒み,教師の要請に従わないという,学校で自明と  

されている規範に,二重に抵触している.だから当然,  

叱責されたり罰せられるべし,とされる.けれども,  

「こうした態度はエゴイスティックで非道義的なもので   ある」という自然な判断,素早い判決は,この状況にお   いて,「石器時代に対する個人的な事物的関心が,この   子にとっては優位を占めてもよいのではないか」という   考えを許さなくしてしまう.こうした例が示すことは,  

日常的な実践場面で教師が「笑うべき不寛容性」に陥っ   てしまう危険性,つまりはわれわれの視角から指示し,  

その視角からしか考えてはならないとしてしまうことで   ある.大事なことは,生徒たちに相互作用的風土を提示   することである.  

一生徒が他者に対する自らの作用を知るということ   一自己の不十分さ,また逆に他者の不十分さから学ぶと   いうこと  

−他者の態度の評価や判断に際しては,立ち止まってよ   く考えること   

他者の視点を知ろうとする者が,慎重なる思慮を獲得   できる.こうしたことは自己自身に対しても,また子ど  

もに対する態度についてもいえることである.  

3.6.固定化された自己の視点の相対化と拡大    U.シュトルテンベルクは,「路」という交通手段や安   全教育の対象として制約されているものを,教科を越え   たものとして考察し,そこにさまざまな機能を見て取る  

(地理的,社会的,経済的,美的,交通技術的に)(13)  

子どもはそうした仕方で路という空間を我がものとす   る.路は遊びの平面ともなり得るし,他者を観察する野   外舞台,いたずらや落書きの場ともなる.自らと見知ら   ぬ人との間にある規則,つまり交通形式や権力と所有関   係について知ったり,意志表示,身振り,騒音,臭い等   を解釈することを学ぶこともできる.探索や観察は,子   どもたちが既に見知っていることの単なる再生となって   はならない.日常経験を越える新たな視点の認識が重要   なのである.買い物路,居住路,遊ぶ路,交通路は様々   な経験を可能にする.その場の変遷への注目は,歴史的   な視点を開示する.   

また,「買い物の今と昔」の授業例では,昔(市場)  

と今(スパーマーケット)との比較において買い物のあ   り方を小学生たちが論議し合う.こうしたことと関連し   て更に宣伝と包装への関心が広がる(14J.   

包装というのは,購買者によって,全く異なった視点   から評価される.  

−それは販売援助の機能をもつ.美的にせよ見かけだけ   のものにせよ,商品に注目させ購買を刺激する  

−それは内容に関する情報を与え,含有物(たとえば,  

脂肪,糖分,保存料等),重さ(構成物質の量),賞味期   限,調理法等について,購買者に比較の可能性を与える  

−それは衛生学的な機能をもっていて,長い運搬過程で   も,中味を腐敗や有害小動物から守る  

−それは,環境との親和的機能をもつ(リサイクル可能  

な包装)  

−もちろんその美的な機能は,販売援助機能を支えると   ともに,独自の価値をもつ   

学校において包装が購買促進効果という一面でのみ扱   われるなら,それは不十分であり誤りでもある.包装に   はさまざまな機能があり,問題とすべき多数の視点があ   る.そのことを意識した上で,固有の視点を問題とする   とき,自己の立脚点・関心が確認される.  

4.多視点的思考の更なる必要性と可能性  

子どもに対して,「多視点的思考」への要求は過大に   過ぎるという批判がしばしばなされるが,上に見てきた   例はその反論となるだろう.更に子ども性(Kindheit)  

あるいは「子どもに合った」ということも,つまるとこ   ろ一つの社会的な構成物に過ぎない,とポップはいう.  

子ども性の構成のし方に応じて,子どもの可能性や必要   性についてさまざまな視点が生ずる.行動主義かピアジ   ェか精神分析的教育論かゲシュタルト心理学か子どもの   人間学か学習心理学か,そうしたものに従って子どもに  

「合わす」ということについての異なった構成がなされ   る.一つの理論学派への教条的眠り込みにおいてのみ,   

(6)

教授原理としての「視点」について(Ⅱ)   187   

「真の子ども性」を見出し得ると信じることができるの   である.   

上に見たような典型事例を認識の刺激とし,所与の関   係のもとで何が可能であるかを絶えず探究することが必   要なのである.そのために敦師には「自己の視角の絶対   化から抜け出す」という視点の転換が要請される.既に   ある実践事例とも関連づけながら,教育(教授)的原理   としての「視点」の更なる必要性と,その深化の観点を   ポップは以下のように提起している.  

4.1.異文化学習への示唆   

A.フリットナーは,多文化社会におけるジレンマをつ   ぎのように示唆している(15).   

「われわれが他の世界のことを十分考えることができ   たとして,次のようなジレンマを回避することはできな   い.他の文化の特定の信仰や宗教の契機が,学校で義務   づけられている宗教や倫理や民主主義と矛盾するという   こと.女性が低く評価されたり学校制度から締め出され   ているといった文化圏,ある人間集団を差別したり,多   様性の承認や寛容を文化的伝統として抑圧したり,人権   の問題ある取り扱いやそれを歪めているところでは,見   方や文化の多様性を考えてみることすら行われにくい.  

ヨーロッパ的な啓蒙の思想を全世界にとって自明とする  

『普遍主義』の立場も,他の文化はまた違った発想をす   るのだから,中心をなす人権もまたどのようにも扱える   という『文化相対主義』的な立場も,今日『多面性の教   育学』の具体的課題に答えを与えることができない.」   

フリットナーの言及するジレンマは,そもそも学校の   授業で解決できるものではなく,極めて困難な政治的な   問題なのである.とは言うものの子どもたちに,文化の   違いに条件づけられた異なった視点,感覚,感情,行動   パターンを対置的に認識させる努力を教育として怠るこ   とはできない.   

H.キッパーは,80年代以降,移民してきた子どもたち  

の経験を調査し,とくにべルリンのクロイツベルクの基   礎学校にいるトルコ人の子どもたちに,外国人に対する   排斥的な体験やドイツ人の子どもたちと交流した時の気   持ちを授業で考えさせ発表させた(16).   

子どもたちは次のようなテーマを考えることになった  

−トルコ人をよく知るために,ドイツ人は彼らについて   どんなことを知らなくてはならないのか  

−なぜ,トルコ人はドイツに来ることになったのか   一将来のことを考えてみよう.私が30歳になったときの   ことを  

−われわれはトルコ人で,回教徒  

−ドイツ人との意義ある経験とは   

ここからは,拒絶,憎しみ,差別の経験とともに,異   なる文化,社会,宗教に方向づけられた,子どもたちの   視点が伺える.  

とりわけ注目すべきことは,多くのトルコ人の子ども   は彼らが受けた拒絶や差別を自分自身の態度と結びつ   け,自分にも責任を感じているということである.とり   わけ女生徒は行動のための処方箋への期待を述べる.  

「われわれが間違っているときには,ドイツ人ははっき   りとそれを言うべきです.トルコ人が間違ったことをす   ることを見たことがあります.」時として彼女らは一括   した一般化された判断に苦しめられる.最も大きな違い   は婦人の役割像と宗教の領域である.異なる視角を互い   に知ることにおいて,異質性,固有性,共通性を知るこ   と,偏見や誤解を語り合うこと,固有の立場を説明し,  

その差異を解消できなくても,葛藤に耐えることを学ぶ   ことが重要なのである.   

他方,ドイツ人の子どもたちはトルコ人の級友との交   わりを振り返り,異なる経験や視角や意味づけを洞察す   ることで,感情移入しながら,よりよい理解や接近が可   能となるであろう.具体的な状況や経験と係わって視点   の転換を教えるということは,相互に尊敬し合う念と異   なる生活様式の固有の価値とを承認することにつなが   る.しかし異なった生活様式や倫理的な原理は決して矛   盾のないものではないから,こうしたことが「みんな抱   き合おう」という意味で機能するのではないことを認識   しておく必要がある.  

4.2.社会的で情動的な耐性   

多視点的な見方というのは基礎学校の子どもたちにと   って妥当であろうか,と問われることがある.相対化し   たり,役割を離れてみたり,異なった現実の像を受け取   ったりする以前に,「正しい」判断や行為,一義的な方   向づけや相応の確実さが,伝えられなくてもよいのかと   いう疑問である.   

見通しのきかない社会的な生活,急激な社会変化と予   測できない副次作用をともなった急速な技術革新,予測   しがたい将来的展望,その中に生きて自己の生活計画を   実現しなくてはならないということが,多くの者に重た   くのしかかってきている.不確実性が支配するところで   透明性を装ったり,多義性が支配しているところで一義   性を主張したり,主観的で間人間的,文化的,言語的,  

歴史的前提とは独立に統一的な世界像が存在しないとこ   ろで,現実把握の客観的な可能性を公準化したとしても,  

こうした居心地の悪さに対峠することはできない.不確   実さと交わりそれと切り結ぶこと,公私の領域で危険と   向き合い耐える能力は,「市民の鍵的資質」となってお   り,「そうした能力の形成は,制度的な教育が成し遂げ   るべき本質的課題となっている.」(17)のである.   

だから,学校とりわけ基礎学校においては,現実像の   多視点性の開示と熟知や確実性の必要さを考慮すること   のバランスが重要となる.後者については教育者と子ど   もの関係及び子どもが経験している社会的な環境,つま   

(7)

小 野 横 男   188  

的な意識として,「さまざまな社会階層との自由な交流,  

社会的な関係の規制要因としての相互的な関心の承認」  

を位置づけ,「民主主義というのは統制形式以上のもの   であって,なによりも,共生の様式であり,共同の,互   いに経験を分かち合う形式である」(19)とし,そのこと   を学校で,子どもたちがプロジェクト的に学ぶことが重   要であるとした.   

多元性の社会構造においては,さまざまな生活形式,  

信念,要求の承認や正当化が存在しているが,意見の違   いということが民主的なプロセスの原動力であり,「民   主主義はその基本的な信念として,社会には異なった同   等の権利をもった,一つにはなり得ない主張があること   を承認する.そうした主張の共存が民主的であるという   ことである.」(W.ヴュルシュ)それはやっかいでいら   だつものであるが,命令された合意こそ基本的な権利を   侵害するものである.   

こうした民主主義理解に同意するならば,「対立とい   うことが現実の基本構造である」という多視点的な思考   への導きが緊要となり,そのことについての事物科での   扱いが求められることになる.   

そうした際に,多元性と多視点性を学ばせる事例は,  

子どもの一連の経験から引き出して,単純でわかりやす   い状況において認識したものを,同様のもっと複雑な関   係においても認識できるようにすることが重要である.  

例えば,「マスメディアにおいて絶えず仮借なく用いら   れているその媒体を子どもが用いていることに注目する   こと.こうした方法を用いることで,その媒体を特定の   作用の原因として認識し,絶えずそれによって攻撃され   ている武器を,違った形で,自ら用いることができるよ  

うにする.」(20)   

また,自己の視野の狭さを越え出ることは,異文化理   解学習の領域で可能であるというだけでなく,同一の文   化内にも異なる生活形式,政治,社会,倫理,宗教に方   向づけられた多元主義があることを知る.こうしたこと   が学校内での葛藤,たとえば,好みの問題,生活観,信   念,価値観といったことに反映する.そこでテーマとし   て,「さまざまな家族の生活形式」「住居」「衣服」「余暇」  

「休暇」「虚偽」「私の願い」「将来のこと」等は,異なる   方向性や生活状況や傾向によって,多様な視点から論議  

しうるものとなる.その際,繰り返せば,一つの視点が   唯一の解法として公準化されてはならない.   

あるいは,居住地や街の一角をフィールドとして,地   域的政治的な論議を考えることもできるノiイパス建設,  

歩行者専用ゾーン,自転車専用道路,時速制限,公共の   交通手段といった問題は,さまざまな論争的立場ととも   に,その背後に異なった価値観や利害(環境保護,騒音,  

節約,諸グループのエゴ,経済的利害,快適性といった   こと)の衝突があることを明らかにする.「開かれた実    り信頼性,期待のもてること,被抱性といった風土づく  

りが課題となる.   

挑発と現状の維持,また自由・解放と統制という二者   の弁証法的な関係は一方に解消されてはならず,確実性   や被抱性を伝えることと社会的に条件づけられた葛藤,  

危機,不確実さ,不安といったことにリアルに理性的に   向き合う思考や意識を促進することとは,ただ表面的に   矛盾するに過ぎない.現実の像や立脚点,また思考や判   断についての多視点的思考は,とりわけ自己の思考や行   為から生ずるときには確乎たるものとして作用する.つ   まり自己意識が,利害に導かれた一元的なイデオロギー   による刻印づけや誘惑から自らを守ることになるのであ   る.ただし,これまでの生活実践の特定の視点が確固た   るもので,ある視点が意識的に選ばれている場合には,  

他者の視点を強要してはならない.それらは心に留めら   れ,どんな条件下において,それが自分にとって問題と   なるかを考えることは重要ではあるが.  

4.3.価値多元社会における基礎的能力   4.3.1.価値多元性と民主主義   

多元性というのは倫理的で政治的な価値であり,「ポ   ストモダンな倫理の規範カタログ」であるとされる.そ   こには異なることの承認や「自己の制約性の知覚」とい   うことがあり,それはまさに,他者の視点から見てみる   ということから生じてくる.またそこには,他の論理や   相応の表現形式を理解し,自己の基準からのみ価値判断   しない構えが含まれる.差異や多元性によって規定され   た世界での基本的過ちは,一つの生活形式とその表現形   式を絶対的な規範とすることである.「一つの特殊なも   のを名目的に普遍的なものとすることは,思い上がりや   幻想を表しているだけではない.それは多元的な社会に   あって,基本的には犯罪ですらある.」(18)   

この間,民主主義のための敦育としての政治教育は,  

もっぱら内容の観点(社会と政治制度,社会問題と衝突,  

近隣の政治や環境問題)及び生徒の自己決定や共同決定   や自己責任の意味での学校生括の形成に関わって説明さ   れてきた.その際,絶えず責任意識,批判能力,共同へ   の構え,寛容さ,連帯,行為能力といった徳性が指示さ   れる.しかし,そうした扱いは,割り切って言えば,内   容及び学校や年齢段階に応じてのその配分が問題とされ   ているだけである.どんな認知構造や思考方略,どんな   シンボル的な再提示,内容や社会的現象とどんな論議を   介して,どんな秩序基準を促すのか,そうしたことはし   ばしば付随的にしか凍われていない.   

そうしたことに対して,J.デューイは,学校とは「知   的で道徳的な気質への感化」のための,教育的意図のも  

とに構成された環境であるとし,その機能的特質として  

「単純化」「保護と悪影響への抵抗」「相互作用と社会的   経験の拡大」をあげた.とりわけデューイは,民主主義  

(8)

教授原理としての「視点」について(Ⅲ)   189   践」という意味での,利害グループの代表者へのインタ  

ビュー,役割演技,独自の調査活動は,自己の立場に対   して新たな視野を開くものとなる.  

4.3.2.社会的で対人的知性   

授業において知的性向を形成しようとするならば,内   容や問題をめっぐての論議の仕方が重要となる.つまり   その授業過程において,どんな意識,どんな認知的社会   的能力が伝えられ,それがどう行動力へと転化するのか   という問題である.例えばデューイは,日常や科学にお   ける思考の意味を,生活実践の具体問題の解決の中にみ   た.彼は,「社会生活の現実」「政治的経済的構造」「社   会に作用している諸力」を探索し,そのことによって  

「社会的知性」を開化させることに,とりわけ価値を置   いた.そして彼が嘆いたのは,学校システムが社会的な   知性の価値を評価しない(今日もほとんど変わっていな   い現実)ということである.ただ知識を伝達するという   のではなく,そのことが知的性向の形成に開かれなくて   はならないのである.   

こうした点で,今日の重要な知性の一つとして「対人   的知性」あげられる.それは,「他者を理解する一何が   彼を動機づけているのか,彼とどのようにうまく共同作   業ができるか,他者をどう導き,どう従い,どうケアす   るかといった一能力」(21)である.こうした能力という   のは,基本的には生涯を通しての,終わることのないプ   ロセスにおいて発達させられる.学校教育においては,  

その原初的な形式において,こうした経験や洞察に向け   て,最初の一歩がどのように形成されるかということで   ある.対人的な知性が生まれてくるのは,子どもたちが   その社会的期待,固執や偏見,失望や葛藤を交換し合っ   て,他者の視点を知り,それを共に思考し捉え直すこと   によってである.   

「社会的知性」というのは,一義的には,社会的な構   造や関連について教授したり知識を伝えたりすることに  

よって育てられるものではない.このことと関わって,  

デューイは「新教育の実践」が基礎とする原理を次のよ   うに定式化した.  

−上からの押しつけに対して個性の表現と育成を   一外的な規律に対して自由な活動を  

一致科書や教師からの学習に対して経験を通した学習を  

−ドリルによる孤立した技能や技術の獲得に対して,生   きた目標達成の手段としての能力の獲得を  

−「いずれにしても遠い未来への準備」に代えて,現在   あることから最善のものを作ることを  

一静的な目標や内容に代えて,絶えず前進する世界との   出合いを   

社会的変容を背景として,個性,活動,経験,行為,  

問題解決,生活世界などへの方向づけという視点の転換,  

これらは教授学的な原理であり,「新たなるものの永遠   

の繰り返し」として,今日に至るまで,授業改革のスロ   ーガンにおいて繰り返し定式化される.  

4.4.創造性の促進   

学校は子どもに自分で生産的に,意味ある秩序づけを   行う活動の機会をあまり提供しない.そこで支配的なこ   とは,通常,学習者に拘束的,目的的に作用するところ   の所与の内容,構造,秩序,視点である.確かに,学校   においても,創造性,感覚性,美的経験,遊び的実験的   活動が広範囲に位置づけられなくてはならない,とスロ   ーガン的には主張される.しかし物的組織的な条件は,  

こうした要請を部分的にしか支援しておらず,学校の学   習の伝統はそんなに簡単に代替的な方策と取って代わら   れはしない.   

分析的で論理直線的思考が相変わらず支配的で,直感   や創造性は,癖のある主観的で非学問的なものと見なさ   れる.だから逆に,実践的な学習による感覚的で直接的   経験が一方的に強調されることにもなる.合理性と感覚   的な経験の二極が繰り返し一面的に主張される.   

直感や創造性が学習されたりトレーニング可能かとい   うことについては,さまざまな仮説があるが,立場の違   いを越えて次のような合意はあるといってよい.「直感   や創造的な過程や達成を刺激するために有効な条件を備   えた社会的な環境をつくる」ということが重要であると   いうこと.そこでは,単に認知的な達成が問題とされる   だけではなく,それはいつも情動的で美的な次元をもっ   ており,直感ヤフアンタジーによって刺激され支えられ   る.認識過程においてアナロジー(類比)という感覚は   決定的な役割をもつし,その対極としてのコントラスト  

(対照)は認識を補助する.全く異質なもの,よそよそ   しいもの,期待しなかったこと,混乱,認知的な不→致   といったことは,新しい光の中で見かけ上の信憑性を暴   き,これまで認識されなかった層や選択的な視点を明ら   かにする.   

多視点的思考によって事柄の多様な見方や解釈が意識   化されると,その挑発性が視野を拡大し,新たな視角の   選択を迫り,そこからまた新しい解決や発見の可能性が   生まれる.創造的な達成というのは,幅広い知識と方法   的な能力とを前提とし,さらには多様な可能性を自由に   結びつけたり変えてみたり,また事物や問題を新しい視   角から考察する構えや能力を必要とする.好奇心,問題   意識,多元的な可能性を自由に楽しむということが,創   造的な行為を推進する.   

視点転換の能力は認識や理解の分化に役立つだけでは   なく,これまでの固定化された思考形式を抜けだし,こ   れまでの経験を絶対化することなく,新しい経験に自ら   を開く手段となる.そらは創造性の二つのカテゴリーに   もつながっている.つまり,「天真爛漫な創造性」(=  

「古いものを知らないが故に全く新しい仕方で何かを行   

(9)

小 野 摸 男   190  

手元にある材料の遊び的で実験的扱い,多様な結びつ   けの試み,構造転換や独自な秩序づけ,そうしたことの   感覚的で知的な楽しさは,惰性的な退屈な繰り返しに一   片の自由を与え,また異なるリアリティーを主体的に創  

り出す可能性を感じさせるものとなる.  

5.おわりに  

以上,ポップの「多視点的思考」に関する主張をみて   きた.最後に,こうした「多視点的思考」の意義を,日   本の教育実践と重ね合わせながら,以下の三つの点から  

簡単に論述しておきたい(24)   

第一は,一つの視点の絶対化や一元的な見方の克服と   いうことである.「多視点性」の主張は,何よりも「異   なった目」で物事を見る力の育成にある.ポップの提示   した例に従うまでもなく,本来的に学校の学習というの   は,「日常経験」とは異なる「科学」や「芸術」の視角   から物事を捉えることが出来ることを目指している.日   常の慣れ親しんだ生活では,「見れども見えない」自然   科学的な現象を予想を立てて実験で確かめてみるとか,  

日常的にごく自然に思われていた生活の営みが,文学的   な問いかけによって,より深い次元で問い返されたり,  

慣れ親しんできた風景や空間が美術造形的に表現される   ことで,より鮮明かつ意表をついた形で学習者に迫って   くるのである.そうした意味でも,日常的な,いわば社   会的に既に汚染されたと言ってもよい,見方や考え方か  

らの視点の転換を迫る場としての学校(教科)の役割の   再認である.社会への単純な適応を教えることが,究極   の目的ではなく,何の疑いもなく常識とされてきたこと   や明らかな「偏見」に対して,疑問や異なる思考が出来   るようになることが,学校教育の基本課題なのである,   

第二は,諸教科の独自性の確認とその相対化というこ   と.総合的学習の意義が主張される今日,こうした「視   点」の強調は,改めて諸教科が蓄積してきたそれぞれの   教科学習の方法や見方・考え方の重要性を確認させる.  

総合的学習の意義の一つは,諸教科の関連づけや協同化   にある.例えば,環境学習は国語の論説文でも扱われる   し,理科の様々な学習とも関係するし,社会科が扱わな   くてはならない問題でもある.   

しかし,こうした総合的学習の意義の強調が,個別教   科の独自性や意義の燻小化をもたらすものとなってはな  

らない.それぞれの教科は,その独自な視角から,現実   に対して,また子どもたちの見方や考え方に対して偉大   な教育力を発揮してきたのである.教科の独自な価値は,  

他教科や総合学習の中に融解されたり,またそこに解消   されるものではない.ただ,その際,「多視点的思考」  

から学ぶべき点は,一教科,一ジャンル,更にはいわゆ   る「学校的価値」の絶対化を克服し,諸教科の相対化と    う」)と「分離的な創造性」(=「古いものから分かれる  

ことで,新たな何かを行う」)(22)ということにである.   

多視点的思考は創造的であることと同値ではないが,  

創造的な思考の前段階一予備教育−となる.  

4.5.多元性感覚を育てる芸術   

芸術というのは現実に対してモデル的な性格をもって   いる,現代の芸術というのは「多元性の工房であり学校」  

であり,「芸術の領域において,社会生活にとって切実   な問題である多元性ということを,他のどの領域以上に   学ぶことができる.芸術というのは,多元性の基礎を教   えるモデル的機能をもつ.それを手がかりに,異なるも   のの承認,不当な干渉の禁止,隠された支配の暴露,構   造的な単一性への抵抗,個性的に越えていく力,といっ   たことを類比的に学ぶことができる.」(W.ヴュルシュ)   

モンタージュやコラージュといた美的技術は,多元性   や多視点性に対する一種の予備教育機能を備えている.  

さまざまな材料や絵やその一部分が,慣れ親しんだ目的   や意味関連から解き放たれ,新たな像や対象を再構成す   る.美術史的に見るとブラックやピカソやグリスの「貼   り絵」は有名であるし,ダダイストのコラージュ,文学   や芸術におけるモンタージュ手法,写真モンタージュや   さまざまな材料を使った芸術作品等々.今まで信じてき   た狭い機能から抜き出され,隔絶され,新たな視野と秩   序づけにおいて,また対立的なコントラストにおいて諸   部分が組み合わされる.アナロジーの意味での想起−イ   ガからのぞいている栗やボタンが眼と見なされたりす   る−が解放の契機とされる.そこでは,慣れ親しんだ簸   り返しや自明性を遊び的にかつ大胆に越え出た,新たな   結びつけによって,新しい関連,構造,秩序へと至る   カー選択的な意味や秩序を促す態度−が問題とされる.   

70年代の多視点的授業において,「人間の形をしたコ   ラージュ」がさまざまに使用できる媒体として用いられ,  

次のことが構想された.「イラストやカタログから絵を   切り取って貼り付けることができる,子どもの輪郭をし   た貼り付け用紙を準備する.そこに出来上がるコラージ   ュは,子どもにとって意味があると同時に特定の社会的   産物として構成され,体験や対象や活動領域を明瞭に描   き出す.そうした作品づくりを通して,子どもたちは社   会環境の影響の多元性や彼らの傾向や望みや性向につい   て,多面的な意識をもつことになる.」(お)   

学校ではコラージュにさまざまな材料が用いられる.  

はぎれ,皮の切れ端,印刷された紙,瓶のコルク,木材,  

金属片,色の付いたガラス板,リノリウムの切れ端,ね   じ,釘,歯車,ボタン,バネ,そしてまた自然の草,根,  

穂,実,鳥の羽,石等々,これらは通常くずかごに集め   られたモノである.そうしたモノを用いて,数字や文字   や言葉をコラージュによって表現し,具体的な事柄が詩   的に思考される.  

(10)

教授原理としての「視点」について(Ⅱ)   191   相互承認ということである.学校は,たった一つの視点  

から子どもたちを価値づけ評価する場となってはならな  

い.   

第三は,物事を固定的にではなく,変革可能なものと   して見ること.ポップが繰り返し,いわば自戒を込めな   がら,強調していることは,「多視点主義」は,いわゆ   る相対主義(「何でもありの,無責任主義」)ではなく,  

現実を固定的に,変革不可能なものとして,極めて常識   論的に捉えることへの批判であり,まさに現実変革の可   能性への絶えざる挑戦を提起しているのである.そのこ   とは,既成の教科だけではなく,例えば,コラージュ等   を例としての芸術教育への新たな期待,その捉え直しに   端的に示される(25).   

総合的学習のキーワードとして位置づけられている  

「情報」「国際理解」「環境」「健康・福祉」といった問題   も,それについての単純な解決策を教え込むというので   はなく(それは可能でもないが),また単に体験させる   ということでもなく,そのことをめぐって様々な思考や   活動や問題が存在する中で,問題の所在を探り,問題解   決に向けての粘り強い思考や論議を通して,探究的で行   動的な知を形成することが総合的学習での課題となる.  

次のように集約される多視点的思考の主張は,そうした   現代的な課題を学ぶ際の基本的な視点となるのではない   だろうか.   

「学校教育の一つの課題は,子どもたちがその社会的   環境において,どこで『背負っているとともに解放され   得る』ということを感じ経験できるかを明らかにするこ   と,そうしたことが学校において知的に情動的に論議さ   れることである.攻撃的にならずまた思うこともなく,  

不一致や分裂を受け入れ,それに対応することは決して   容易ではないが,欠くことの出来ない学習課題となって   いる.   

多元性において生きるということは,困難を背負うも   のであるが同時に好機ともなる.」(W.ポップ)  

注  

(1)「教授原理としての『視点』について」『奈良教育大    学紀要第48巻第1号』1999年p,117−1弧  

(Z)ポップは,ヒラーと共に次の書物に掲載された論文に    おいて,多視点的授業の総括と展望を語っている.   

Hiller,G.G.:Popp,W.:Unterrichit als produktiveIrritation.  

In:Duncker,L;Popp.W.(Hrsg.):Kind und Sach.Juventa   1994.これにっては,拙稿「ドイツの事物科の現状と課題」  

『奈良教育大学教育研究所紀要29巻』1993年で,考察を加え   

た.  

(3)Popp,W.:Perspektivitat und Pluralitat als Aufgabe des   

Sachunterricht.In:Kohnlein,W.u.a(Hrsg.):VielperspektivischesF    Denkenim Sachunterricht.Klinkhardt1999.S.60−87.なお,   

以下の注(4)−(23)は,このポップの論文からの引用   

である.  

(4)Nietzsche,F.:NietzscheWerke.2,Bd.S.196.   

(5)Schulz,W.:Philosophiein der veranderten Welt.G.Nesk    1980,S.841.  

(6)Putnam.H.:Vernunft,Wahrheit und Geschichte,Suhrkamp    1982,S.75.  

(7)Wagenschein,M.:Erinnerungen fur morgen.Beltz1983,   

S.158.  

(8)Bruner,J.S.:Relevanz der Erziehung.Otto Maier1973,S.94−  

96  

(9)UrbanD.:Wirklichkeit und Tendenz.N.D.Schule1972.S.41r   61  

(10)Dannenberg,U.:Information und Argument.In:Popp.W.u.a.   

(Hrsg.):Reflektierte Schulepraxis,Loseblattwerk zur    Unterrichtvorbereitung.Neckarverlag1970  

(11)Fischer H.).:Aus Konfliktenlernen.In:DinckerL.,Popp,W.   

(Hrsg.):Uber Fachgrenzen hinaus.BandⅡA.Dieck    1998,S.106−119.  

(12)Kahlert,).:HauptsacheIch?Gratwanderungen zwischen    IndividualitatundEgoismus.In:Sache−Wort−Zahl.24(1996)   

1,S.39−43.  

(13)Stoltenberg,U.:Umwelt Strasse,In:Dincker,LりPopp,W,  

(Hrsg.):tJber Fachgrenzen hinaus.BandⅡ,A.Dieck    1998,.S.44−67.  

(14)Hager,H.:Einkaufenheute undfrtlherln:DinckerL.Popp,W.  

(Hrsg.):t]ber Fachgrenzen hinaus.BandII,A.Dieck   

1998,.S.68−77.  

(15)Flitner.A.:Zukunft fur Kinder.In:Zukunft ftlr Kinder−   

Grundschule2000.Bonn1996,S,272−288.  

(16)Kiper.H,:1 Die Turken sind doch ganz nette Leute   l .Turkische Kinder verarbeitenihre Erfahrungenim    Unterricht.In:Informationsdienst zur Auslanderarbeit    Nr.2/85.S.74−78  

(17)Beck,U.:Risikogesellschaft.Auf dem Wegin eine andere    Moderne.Suhrkamp1986,S.101.  

(18)Welsch,W.:Unsere postmoderne Moderne.Weinheim    1988,S.49.  

(19)Dewey,).:Demokratie und Erziehung.Braunshweig    1964,S,121.  

(20)Urban,Dりebd.S.42.  

(21)GolemammD.:Kreativitat entdecken.CarlHanser1997,S,91,  

(22)de Bono,E.:Laterales Denken.ETB Econ Praxis1985,S.173.  

(23)Giel,K..Hiller,G.G.,Kramer.H.(Hrsg.):Stucke zu einem    mehrperspektivischen Unterricht.Aufsatze zurKonzeption   

l.Klett1974,S.25.  

(24)多視点的授業構想の総合的学習への示唆について,これま    での日本での検討(幾つかの拙論を含む)を要約しながら,   

久田が次の書物の中で考察を試みている.久田敏彦編『共    同でつくる総合学習の理論』 フォーラム・A.1999年    pp.31−32  

(25)コラージュ的手法による教材構成論の意義にっては,ド    ゥンカー(Duncker.L.)が,より詳細に述べており,拙論   

「教科を越えた教授・学習の構想(Ⅰ)」『奈良教育大学紀要    第49巻第1号』2000年pp.115−124において考察した.   

(11)

192   小 野 摸 男  

AStudyonPersectiveasanInstructionalPrinciple(II)   

:ACriticalAppralSalof Multiple−Perspective byW.Popp  

Hiroo ONO  

のepaれme扉扉5c血)OJEduc∂血几♪ねm L加ルers壇′OfEduc∂fわ刀,∧b用630−β餓鬼p∂刀ノ  

(ReceivedApri127,2001)  

Itis argued by Popp that welivein a society of multiple values,Which are socia11y and culturally  

COnditioned.Therefore,1earnlng multiple−perSpeCtivenessin schooleducation means tolearn various perspectives   possessedbyothers.Thishelpschildrennotonlytounderstandthatmultiplevaluesarethefundamentalcomponents  

Ofthe reality butalsotorealize thelimitoftheirown perspectives.However,inordertomake thishappen,the   learnlngprOCeSSShouldbeorganizedtobecollaborativeincorporatlngdialoguesanddiscussions.  

Poppfurtheraddressesthatitisnecessarynowtosucceedandadvancethe Multiple−perSpeCtiveinstruction   proposedin1970 sbyaccommodatingthefollowingchal1engesintoitsconcept.  

1.Interculturalunderstanding  

2.Socialtolerance  

3.Correspondencetothesocietyofmultiplevalues   4.Promotingcreativity  

5.Newpossibilityofart   

Interpretingtheideaof MultiplePerspectiveness byPoppinthecontextofJapaneseeducationalpractices,  

itsslgnificanceliesinthefo1lowlngthreepoints.  

Firstly,itsuggeststoovercomeabsolutizingonesingleperspective.Itisthetaskofschoolingtoliberatechildrenls   WayOfthinkingandbehaviorsfromthe commonsense polntOfvieworthinking,Whichisordinaryandisalready  

SOCiallycontaminated.  

Secondly.itencouragesustorecognizeandrelativizetheuniquenessofvariousdisciplines.Whenthesignificance   Of theintegratedstudiesisstressed,theemphasisonperspectivesrecognlZeSaneWtheimportanceoftheinqulry  

methodandthewaysofthinkingwhichvariousdisciplineshavedevelopedoverthecenturies.Atthesametime,it   remindstheschooIsnottoassessorlabelthestudentsfromoneslnglepolntOfview.  

Thirdly,it advocates the viewpoint to understand the things are not static but changeable. Multiple  

Perspectiveness byPoppisnotsomethinglikerelativism(itallowseverythingandanything),butaimsatpursuing  

thepossibilityofchangingthepresentconditions.WhenPoppwritesthat livinglnthemultiplevaluesmaybea  

Challengebutalsoanopportunity(tous) ,thetasksandchal1engesheseesinGermanschooIsoverlapwiththose  

OfJapaneseschooIswhichareoftencharacterizedbythekeywordssuchas difEerence,COllaborationandsymbiosis .  

KeyWords:perSpeCtives,interculturalunderstanding,art   

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