奈良教育大学学術リポジトリNEAR
A・リヒトヴァルクの視座と実践[上] −ドイツ改 革教育運動の通奏低音−
著者 岡本 定男
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 46
号 1
ページ 191‑203
発行年 1997‑11‑10
その他のタイトル The Viewpoint and the Practice of A・Lichtwark [I] −The General Bass of German
Reformpedagogical Movement−
URL http://hdl.handle.net/10105/1546
I.:良frfi W紀蝣」 ・?,蝣い;>v .'、蝣f‑‑1 、トfI >、 ・い'し'.''1‑
Hnil. Nar;ltTlll\. fiduc., Vol.46. No.1 (Cult. & Soc). 1997
A・リヒトヴァルクの視座と実践[上]
‑ドイツ改革教育運動の通奏低音‑
岡 本 定 男 (奈良教育大学教育学教室)
(・成9年4月18日受理)
は じ め に
前世紀末から今世紀20年代を中心に世界的高揚をみたいわゆる国際新教育運動は、ドイツに あっては、主としてその帝国主義的後発性の故に、教育の目標・内容・方法・制度、なかんずく 理念において、多様かつ広範な実態的影響を教育界全体に及ぼした。こうした持続性と一貫性を 顕著に示したドイツに於ける新教育としての改革教育運動は、 1960年代以降、主として旧西ドイ ツのいわゆる精神科学的教育学者たちによる歴史的評価と再検討の開始を皮切りに、わけても80 年代以降になって、その国際的連関のもとでの体系的学問的検討の対象となって今日に及んでい
る小。
ドイツにあっての、こうした60年代以降の再検討の最初のまとまった成果とみられる『Die ReformpadagogischeBewegung 改革教育運動)』 (1969年)の中で、ヴォルフガング・シャイベは、
この著作をなすに当たっての意図を以下のように述べていた。
「改革教育運動の全体叙述を行い、その本質を浮き彫りにし、その内的統一の明瞭化‑の諸連 関を示すことが、ここに示した著作の意図であるO こうした広い視野には、個々への制約が生 まれ、今日の歴史的位置から不可欠な詳細かつ批判的検討は困難となる。 (そこで、ここでは、) 運動の評価と限界とが暗示される」12'
ドイツ改革教育運動に対するシャイベのこうした検討方法は、この著作の丁度10年後に共同研 究の形で出された改革教育運動関連書目の注釈書のなかでは、その運動全体の評filliに当たっての、
シャイベとの明らかな質的相違ないし研究の進展を反映することになる。 1979年に出された、こ のE・ベッカース及びE・リヒクーの共同著作の視点は、ドイツ新教育を国際新教育の中で積極 的に評価し位置づけようとする概ね80年代以降に始まる新たな視点を含みつつそれ以前にはみら れなかった評価の質的転換の始まりを明確に映し出していたといえよう。
むろんここでも、ドイツ改革教育運動の今日的意義に触れての以下のような把握は、 10年前の 先述のシャイベと共通する視点ではあった。即ち、
「改革教育運動の成果を概観すると、極めて積極的な結論を出す傾向を有している。何にしても、
当時のいくつかの学校実験は、今日尚生きているし、今日尚ますます好評を博している。 (例 えば、モンテッソリ学校とかヴァルドルフ学校など。)加えて、その多くの根本原理は、現代 の自明な教育学的常識になっているし(例えば、自発性、年齢や子どもへの適合性、作業原理、
生徒の共同管理など)、遂には新しい学校改革に於ける今日的諸問題を古くからの諸提案によっ て処理する試みもなされている。 (例えば、教科基準や分化した学校系統の修正、総合学校な ど(〕月lい
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岡 本 定 男しかし、ベッカース及びリヒタ‑の評価の力点は、改革教育運動のこうした今日的意義や成果 にではなく、むしろその意義の批判的限定にこそあった。上記引用に続けて彼らは、こう指摘す る。
「しかし、まさにこうした例は、改革教育運動が、その日的設定において破産したことを証し ている。改革学校は、多くの努力の払われた正規の学校ではなく例外であり、その根本原理は、
同じくヘルバルト派の教育学から導かれ得る方法的示唆に該当し、ついには、今日の同様な諸 問題が不可欠に学校改革を生み出させているという事実は、 20世紀初頭のこの改革教育運動の 不十分さを極めて明瞭に証しているわけである。」(lJ
こうして、シャイベによって1969年にその「評価と限界が暗示された」改革教育運動は、 10年 後の1979年に至って、その運動が内に秘めていた「否定主義」 (Negativismus ‑ 「現状の一括し た断罪や批判」)、 「分派教育」 (Bildungvon Fraktion ‑ 「統一見解の欠如」)、 「過剰廃棄」
(Overkill ‑極めて短期間に於ける急激な変化)、 「教育能力」不足(Padagogische Befahigung ‑ 教員大衆への理念的育成の怠慢)151といった限定的批判的評価に遭遇することとなる。
そしてこれは全くの偶然ではあるが、そのまた丁度10年後の1989年、ユルゲン・エルカース (Jurgen Oelkers、ベルン大学教授、 『教育学雑誌』編集主任)の『Reformpadagogik. Eine kr主 tischeDogmengeschichte (改革教育学. 1批判的教条の歴史‑)』が出ることで、ドイツにおけ
る改革教育運動の検討は、改革教育運動をめぐるより包括的多面的な批判的検討の対象となりつ つ、今日に及んでいる絹)。
概ね60年代に、その今日的影響の持続性・規定性‑の認識から、主として肯定的積極的評価の もとに始まった改革教育運動へのドイツに於ける検討は、こうして、丁度10年おきに、その視点 を質的に変更させつつ、その国際的位置づけの深化とともに、より学際的視点にたった史実の発 掘や研究方法の創造を模索している、と言って良いだろう。
ところで、知られるように、このドイツに於ける新教育運動としての改革教育運動の初発の局 面を担ったのは、芸術教育運動である(7‑。
そしてその「旺盛で、とりわけ鼓舞的な著作活動における人格的調べを適して、大人や子ども に目の芸術的教育への希求を深め、活動的なハンブルクの教師達の支持を急速に得」'8‑、この運 動の一大高揚を象徴する3回の「芸術教育会議」 (1901年‑ドレスデン、 1903年‑ワイマール、
1905年‑ハンブルク)を適してドイツ全土にその名を知られ、それ以降今日までのドイツにあっ て、 「芸術教育運動の真の先導者」‑!jl、 「芸術教育運動の第1局面の主導者」とされる人物、そし てわが国の教育史にあっても、「芸術教育運動の中心人物」(Illとして知られているのが、アルフレッ
ド・リヒトヴァルク(Alfred Lichtwark, 1852‑1914)である。
さて、ここで注目すべきは、ドイツにあっての改革教育運動全体に対する前述の評価の質的変 化が、最初の表れを示した芸術教育運動に対して、どう反映しているかという点であろう。これ を、改革教育運動の第1段階としての「芸術教育運動全体の指導的精神に対して‑ (略) ‑、運 動‑のプログラムを与えたJlZlとされるリヒトヴァルク‑の評価に絞って、端的にみてみる。
結論的に言って、現段階では、リヒトヴァルクを、とりわけ初期の芸術教育運動の主導者と見 る通史的視点は、今日にあっても貫かれていると言って良い。しかし、 70年代以降、その位置づ けと評価は、かなりの変化の兆しを見せつつあるのも事実である。
その端的な例を、文献的に2点だけ挙げておこう。一つは、
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○ テオ・ディートリヒ『教育史18‑20世紀』 (1970年)
である。この一般教育史の叙述では、 20世紀の改革教育運動の根源として、 「青年運動」や「田 園教育舎」の運動と並べて芸術教育運動について8ページ強をあてつつ、そのどこにも、リヒト ヴァルクの名と業績には触れられていないのである113)
もう一つの端的な例は、先ほど、改革教育運動全体のドイツでの評価の質的展開の開始を示す ものとして位置づけた
○ ベッカース/リヒダー『改革教育学 書籍解題』 (1979年) である。
ベッカースとりヒタ‑は、まず、未曾有の教育的著作となったユリウス・ラングベーンの『敬 育者としてのレンブラント』(14)によって改革教育運動の「第1局面」が開かれたとし、ここに盛 られた「個人主義」ないし「非合理主義」を「生活原理」とする根本理念が、 「ラングベーンの 後継者達によって強度に保持され、殆ど極端な様相にまでいたる。」り5'と位置づけ、それをリヒト
ヴァルクの理念に集約する。こ、までの位置づけは、概ね他の教育史家と重なるが、この書の際 だつ評価の転回を特徴づけるのは、リヒトヴァルクに関する以下のような把握である。
ベッカースとリヒタ‑は、この書の2ページ半を実質的なリヒトヴァルク評価に割いて、次の ように指摘する。
「リヒトヴアルクに関して言えば、 (恐らく余りにも過大に)芸術教育運動の決定的な指導者で あり促進者であるとされている1907年に設立された『ドイ辛丁二作連盟』は、ドイツへのアー ツ・アンド・クラフツ運動の移植を求めたし、グロピウスによって基礎づけられた『バウハウ ス』もこの伝統の中にとらえられるのである。」
「第1回芸術教育会議にあっては、芸術はまだ『生活の欠かすことのできない補完物』 (ランゲ) として示され、かつ求められており、 『直観と思考、知識と認識を相互に生き生きとした関係 へともたらすこと』 (ゲッツェ)が、芸術教育運動の目標であるべきだ、とされた。ここでは まだ、芸術へのではなく、芸術による教育が求められている一方で、リヒトヴァルクは、 『気 高きものは、科学でも、専門でも、教材でもなく、精神である。』と言って、求められた統一 を既に放棄した。 『古い学校』の伝統的で敵対的な内容から離れて、リヒトヴァルクは、人間 をではなく、精神を中心に据えるのであって、従って、理解の直接的把握から離れた単なる部 分域(Teilbereich)を置くのである。」
「リヒトヴァルクにとって問題なのは、増大する決定事項に対処し得る人間的個性ということ ではなく、もっぱら芸術を可能とし、それを養うという目的を伴った個性の限られた刻印づけ
(Pragung)ということである」r肘
として、最後に、リヒトヴァルクへの結論的評価として、以下のように結んでいる。
「ここに、ほんの大ぎっぱに概観したリヒトヴァルクの機構は、同時代の全てによって模範的 に達成されたものではなく、芸術教育運動の一つにすぎない。そのことから、芸術教育運動の 多面性が明らかになるとともに、他方でまた特に教育学的観点からみて、リヒトヴァルクが、
芸術教育運動の最も本質的な代表者とはみなされない、ということも明らかとなるのであ
る,J一
本稿は、ドイツにおける60年代以降の改革教育運動の質的評価の転回とその深化の過程にあっ て、その初発の運動としての芸術教育運動の主たる推進者であり、今日なお改革教育運動全体の 理念や精神を規定する際に多く引き合いにだされるアルフレッド・リヒトヴァルクり8'を、以下の
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w 本 定 リlような問題意識のもとに新たに評価し直すことを意図している。
1.今日ドイツにおける芸術教育運動の、わけてもリヒトヴアルク評価は、例えば、上記ベッ カース、リビターのそれにみる如く、芸術教育運動を余りに教育(学)的視点において限定
した、やや一面的評価に陥る傾向を内包している。
2.一方、わが国にあってのドイツ芸術教育運動の評価ないしリヒトヴァルク把握は、本質的 に戦前の同時代的紹介の段階に今なお留まっている。
その際、筆者のとる主要な立場と意図は、
1. (ドイツにおけるリヒトヴァルクの教育史的位置づ1ナにも根本的に欠けていると思われる ところの)リヒトヴァルクの全体としての視座と実践の核心部を明らかにし、そのうえにたっ て、従来の余りに教育史的に偏向したリヒトヴァルク像とその芸術教育運動に果たした役割 評価を一定修正すること、
2.その視座と実践の広さ・確かさに於ける影響力の理念的凝集性をもって、リヒトヴァルク の中にドイツ改革教育運動の、いわば通奏低音をみいだし、わが国に於けるドイツ芸術教育 運動の究明状況を一歩進め、ひいては、改革教育運動全体の研究に貢献すること、
の2点である。
尚、こ、で予め、論文の構成を示しておく。
はじめに
第I章.リヒトヴァルク把握の段階と特質 1.我が国に於けるリヒトヴァルク把握
2.ドイツに於けるリヒトヴアルク把握の段階と特質 一以上本巻、以下次巻(予定) 第I章. A・リヒトヴァルクの視座と実践
1.近代芸術とドイツ博物館の開拓 2.ディレッタント養成の組織と実践 おわりに
第I章.リヒトヴァルク把握の段階と特質
1.我が国に於けるリヒトヴァルク把握
翻って、我が国における一般的教育通史にあって、総じて子どもの体験や生活実感に即し、個 性の創造的表現に重きをおく教育上のI一一大革新運動の展開期は、いわゆる大正自由教育期の芸術 教育運動とされている。鈴木三重吉の雑誌『赤い烏』の綴方を中心とした児童文芸、山本鼎の「自 由画」、北原白秋の「童謡・自由詩」の運動を典型とする芸術教育運動は、 「自学主義」 I r全人教 育論」 ・ 「創造教育」など、教育一般の改造の主張や実践とならぶ大正期自由教育の具体的成果を 象徴的に生み出した主領域の一つであり、子どもの創造や表現の瑞々しいあり方を意図的組織的 に刺激し引き出す主張と実践の追求は、芸術的手法が初めてまとまった形でわが国の教育の中に
‑・つの原理的位置づけを得て取り入れられた最初の運動である。そこには、明治期の教育理論の 移入的性格を脱する自前の理論と独自の実践の形成があり、芸術と教育の動的歴史的相互関係を 考察する際の中心的対象と素材が今なお込められている。
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しかし、私見によれば、一口に大正期の芸術教育運動といっても、少し子細にこれをながめる とき、そこには、大きく3つの性格や立場の違うグループが存在していたものと思われる。
第1は、例えば、 『赤い烏』的児童文芸運動の立場、
第2は、北原白秋・山本鼎らの童謡・自由面の運動
であり、これら二つには、主として依拠した芸術領域の相違を含んだ児童観や教育方法に於け る立場の質的相違がみられるように思われる。
第3のグループは、第1や第2のような、いわば芸術家のイニシアチブによるものではなく、
例えば成城小学校の学校劇の組織的取り組みにみられるような学校を拠点とした教師主導の芸術 教育運動であり、これらを芸術教育運動全体の中で構造的に把握する必要があるものと考えられ る。
さらに、
第4のグループとして、この時期、まとまった雑誌や組織による実践や運動の展開こそしなかっ たものの、芸術教育運動の動向を学説的理論的立場を中心として積極的に紹介・批判した主とし て講壇教育学者たちによるグループがあり、彼らの芸術教育‑の顕著でまとまった関心の存在と 背景をぬきにしては、大正期の芸術教育運動の高揚とその性格・限界を歴史的事実として総合的 に捉えることはできない。
大正期に初めて総体としての教育革新の主たる担い手として姿を現す芸術教育運動は、この主 として講壇教育学者たちのグループの存在という間接的な運動関与を視野に含めた、結局4つの 異なるグループの役割や主張の直接間接の表れに他ならなかった、と捉えることが出来るのでは
BaraE荒
そして、これら4つのグループの存在と関わって言えば、わが国に於けるドイツ芸術教育運動、
わけてもリヒトヴァルクの紹介や扱いは、大正期芸術教育運動の、上記第4グループによる積極 的摂取の主たる対象を構成するものの一つであった、と言って良いだろう。このことは、ドイツ 芸術教育運動、わけてもリヒトヴァルク‑の言及をなすわが国戦前の主たる文献の殆ど全てが大 正期に集中していた、という事実によっても有力な根拠を得ている。
以下、わが国に於けるドイツ芸術教育運動の研究を、リヒトヴァルク‑の言及の力点と特質を 摘出する立場に絞って概観してみよう 。
先ず第‑ ・に確認し得ることは、今日までのわが国に於て、ドイツ芸術教育運動やリヒトヴァル クに言及した ものは、大正期を中心に相当数存在するが、
したH本人による純然たる著作ないし論文は、存在
両者各々を全体として単独のテーマと ないということである120‑。
次に、わが国で、今日までリヒトヴァルク‑の言及をなした主要な著作は、いわゆる訳述もの や翻案的研究を除いて、 8点あるとみることができるL2ト。そして、その全てが事実上戦前の刊行 になるものである、と言って良い。
その8点を刊行年順に並べれば以下の通りである。
(力 西宮藤朝『子供の感情教育』、実業之日本社、 1919年 (② 関衛『普通教子自こ於ける芸術的陶冶』、同文館、 1921年
③ 小林澄兄、大多和顕『芸術教育論』、内外出版、 1923年
④ 関衛『芸術教育思想史』、厚生閣出版、 1925年
⑤ 教育学研究会編『教育新学説の体系的研究』、啓文社、 1926年
⑥ 烏村民蔵『子供の生活と芸術』、高陽社、 1927年
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岡 本 定 男⑦ 佐々木秀一、白根孝之『最近ドイツ教育思想史』中和書院、 1936年
⑧ 篠原助市『独逸教育思想史』創元社、 1947年
さらに、この8点の主要な文献によるリヒトヴァルクへの言及の力点と特質を内容的に分類す ると、大きく4つに分けられる。以下、このA‑Dの4分類に、上述の8点の文献が一定程度触 れていれば、その著作番号を入れる形で類別してみる。
A.リヒトヴァルクの芸術教育の主張が、主として経済的社会的観点からなされたとし、その 方法的理論化の中核にディレッタンティズム(素人芸術主義)をおいているもの。 ‑①、
②、③、④、⑤、⑥、⑦、(む
B.自ら館長を務める美術館で、教師や子ども達に行った芸術作品鑑賞指導をきっかけに、そ の視点と主張によって、やがてハンブルク教師間への決定的影響を与えるようになるリヒト
ヴァルクの実践的組織的活動面を紹介ないし強調しているもの。 ‑②、 ④、 ⑥
C.ドイツ芸術教育運動の初期の高揚を象徴する計3回に互る「芸術教育会議」での主導的役 割にみられるような主張や理念をもって、リヒトヴァルクを芸術教育運動全体のそれをほぼ 代表するものとして紹介ないし把握しているもの。 ‑(彰、 (参、 ⑦、 ⑧
D.リヒトヴァルクにあっての芸術と教育の関係把握や具体的な芸術教育の方法にまで言及し ているもの。 ‑②、④、⑤
さて、これら、わが国に於ける代表的なリヒトヴァルク把握の仕方に関わる文献を内容的に分 類してみて、どのようなことが言えるであろうか?
結論的に言えば、以下の2点に集約されるものと考えられる。
1.わが国における戦前のリヒトヴァルク把握の力点は、そのままドイツ芸術教育運動全体の 摂取や把握の根拠や特質を反映し、芸術教育運動におけるリヒトヴァルクの理論的理念的指 導性を前提とした、いわゆる「ディレッタンティズム(素人芸術主義)論」の紹介・検討に おかれている。
2.その反面、リヒトヴァルクの視座や実践をトータルとして検討把握する姿勢は欠如してお り、例えば、その立論の中核とみなしたディレッタンティズムの実践的組織的具体化がどの ような方油日二亙り、どのような観点でなされたのかという立ち入った把握や追求の視点は 殆どみられない。
これらを、上記文献を中心に若干例証してみると、
① リヒトヴアルクの芸術教育論に、これら全てが触れていること、
② その全てが例外なく、芸術の経済的社会的効用とその推進方法であるディレッタンティズ ム論にその重点を帰着させていること、
が分かる。
例えば、上記文献②及び④の著者である関衛は、戦前戦後を通じてわが国にあっての欧米芸術 教育(思想・運動)史研究の第一人者とみなして良い存在であるが、関は次のように、このリヒ
トヴァルクのディレッタンティズムを把握している。
「独逸の芸術的生産品が他国のそれと同位に達し得ないのは、決して直接に独逸の芸術工芸家 の棄蝋の不足に依るのではなく、第二義的に作品の美醜を判別し、美的作品を愛し醜悪品を排 斥する能力ある国民の少ないのに依る。国民の美的眼識の有無高下は全て一国の芸術工芸の発 達を左右する力がある。 ・‑ (略) ‑故に素人芸術主義はドイツ芸術の経済的不振を挽回する使
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命を持って屠ると見るのが、リヒトワルクの根本的信条であった。 ‑・ (略) ‑彼は、芸術を感 受し了解する公衆を養成することを以て、素人芸術主義の主要使命となしているが、しかし決 してこれに局限する意はなかった。乃ち他方に於ては、その聡明なる批評に依って国の生産能 率を増進するような芸術批評家の養成と、一般公衆と芸術との仲介者として一般公衆に芸術心
を注入するような芸術教育家の養成とに努力したのである。J'23'
こうして一般に、 「リヒトヴァルクの芸術教育観は... (略) ‑素人芸術主義に志きる。」(2一)とい う把握になるのである。
しかし、こうしたリヒトヴァルク把握の一般的な共通傾l如二対し、その素人芸術主義(ディレッ タンティズム)の具体的な浸透や組織面など‑の解明となると、例えば、次のような概括的把握 に留まってしまうのである。
「健全な真面目な芸術愛好は、独逸芸術の経済的不振を挽回する任務を帯びているというのが、
リヒトワルクの確信でありました。 ‑ (略) ‑斯様な目的に到達するために、リヒトワルクは 如何なる方法をとったでありませうか。高級の芸術を自由に理解し、探くその本質を把促する ために、図画や絵画や彫刻に於て芸術的性質を掴むことに努め、美術工芸の進歩を促すために 実際問題の解決に力をつくしました。この目的は芸術愛好家が互に協力して、秩序的に目的を 目ざして努力する場合に、はじめて到達されるのであります。組織といふことがなくては芸術 愛好は急速に効果を収めることは出来ません。彼が今日まで博大な実績を挙げたのは、よく目 的を意識して成りたった組織の結果であります。」
こうして、リヒトヴアルク把握とほぼ一体化されるとみられる我が国のドイツ芸術教育運動の 把握の段階は、事実上戦前にあっての同時代的紹介の段階に今なお留まっており、リヒトヴアル クの視座と実践を全体としてとらえ、その理論や理念の影響力・浸透性の根拠に迫る段階に到っ てはいない、と言わねばならない。
2.ドイツに於けるリヒトヴァルク把握の段階と特質
既に述べたように、ドイツにあっての改革教育運動全体に対する1960年代以降の再評価と、概 ね80年代以降に始まったとみられるその限定的ないし批判的検討の過程で、当然のことながら、
芸術教育運動、とりわけリヒトヴァルク‑の評価も微妙な変化に直面しているとみて良いだろう。
むろん今日にあっても、芸術教育運動を、 「改革教育運動の霊感的中心」126)と規定し、わけても
「第1期芸術教育運動は、一美術館から始まった(リヒトヴァルク)」Lご7'「ハンブルク美術館長と して、彼は、 1887年の『学校における芸術』という講演によって、芸術教育に対する極めて重要 な原動力を与えた」(28iといった60年代以降のリヒトヴァルクの、主として学校や教師に関わる固 有な芸術教育実践への評価や主導者としての位置づけは、不変である。これらの評価が、芸術教 育運動とリヒトヴァルクに関わる、今日尚最も広く流布した研究的テキスト的位置づけである、
と言っても誤りはないであろう。そして、この「第1期芸術教育運動」とされている前世紀末か ら今世紀初頭の時期こそ、芸術教育運動が改革教育運動全体に対し蕨も根底的かつ強力な影響力 を発揮した、いわば芸術教育運動の全盛期と言っても良い時期であり、その故をもっても、リヒ
トヴァルクの評価が、ドイツにあっても、ほぼそのまま芸術教育運動全体の評価と概ね一致する とみても良いのである。
しかし、このような、 60年代以降の改革教育運動全体‑の再評価と限定的批判的検討によって も尚変わらないいわば定着した教育史的評価を含みつつ、ドイツにおける芸術教育運動全体、わ
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I*1本 定 LJlけてもリヒトヴァルク評価は、既に述べた70年代以降の顕著な評価の転回を経て、今日一定の方 向性をもとうとしているように思われる。
一定の方向性、とは何か? ここでも、それを結論的に要約すれば、以下の2点に絞ることが できよう。
1.芸術教育運動の、なかんずくリヒトヴァルクの果たした改革教育運動上の努力を、その経 済的社会改革的意図と、民族的ないしエリート(貴族)的国家体制への誘導意識という点で 集約的に評価しようとする方向。
2.リヒトヴァルクの改革努力を、あくまでも教育的影響範囲に限定して評価しようとする方 垣。
このうち、前者については、例えば、既に度々論究したベッカース及びリビターの、「リヒトヴァ ルクは、一つの貴族的な社会秩序を目ざしている。」(コリーといった規定を端的な例として、ごく最近 の以下のような類別や評価が、こうした方向性の顕著な事例である。
「『理念凝集体』 (エルカ‑ス)としての改革教育学は、こうした展望、なかんずく概念的に独 自な方lhJ‑と集束する。即ち、
(1)教育の社会政策的改革(デューィ、ケィ、リヒトヴァルク) (2)愛国的国家主義的教育(ラガルデ、ラングベーン)
(3)革命的実践の教育学(ベルンフェルト)、わけても生産の教育学(ブロンスキー) (4)子ども順応(Kindgema/?heit)の教育学(モンテッソリ)、及び
(5)精神科学的陶冶概念(ケルシェンシュタイナー、ガウディヒ)」'.'ill)
「ハンブルク美術館長であり、既に80年代に成人への美的な素人教育のために尽力し、芸術教 育運動の推進者として正当な敬意を得ていたアルフレッド・リヒトヴァルクは、徹底して『ド
イツの学校』を『ドイツの本質』の養成へと向け、民族のエリートによって初めて正当なもの となる国民的同I一一一性の生成を促した。」.!!蝣
・一方、後者2の、リヒトヴアルク評価に関わる教育史に限定された評価方向については、例え ば、ワイマール期の一大芸術運動である「バウハウス」をも視野にいれたより広義の芸術教育運 動への視点も一定芽生えつつあるとみられるが、改革教育運動史と結びついたリヒトヴァルク把 握に関わっては、依然としてその理念や理論の教育史的検討に限定された範囲を越え出ていない、
と言える。
こうした近年ドイツにおけるリヒトヴァルク把握の段階と特質の中にあって、 1991年に出版さ れたクラウス・プラーケ『改革教育学. ‑パラダイム変換の知識社会学‑」は、従来の、いわ ば教育史の範囲に局限される傾向にあった改革教育運動の検討を、より広い視野から一一歩を深め る確かな方向性を示すものの一つとして注目すべきであるL、L"O
プラーケは、 「1)ヒトヴァルクとともに教育的なパラダイム変換が始まった」iXiと規定しつつ、
以下のような把握においては、前述の顕著な方向性「1」との基本的連続性を示す。
プラーケは、こう述べている。
「彼によって成された国民的な芸術教育会議は、今もなお一つの新たな『全体的』概念や直観、
調和的教育の知覚的ミューズ的能力の道程にあって、重要な段階としての重みをもっている。」
「ドイツ人の芸術理解の向上‑のリヒトヴァルクの努力は、わけても経済的な考察に起因して いる。 ‑ (略) ‑まさに彼には、故郷の町と国全体の経済的繁栄を促すことが問題なのである。
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この二つの目的の結合が、彼の理念に運命づけられていた成果を明かしている。」
「リヒトヴァルクにとって、趣味の発達とそれに伴う美的水準の向上は、一つの国家的経済的 任務なのである。彼自身によって始められ、相乗効果を生み、結局広範な教育運動に流れ込む ことになる教育的指導性は、単に芸術への新たな理解だけではなく、需要の活性化をも生むこ とになる。十111
しかし、プラーケのリヒトヴァルク評価が、従来の教育的視野に局限された観点から、 ‑一歩抜 けでる方向性を萌芽的ではあるが示しているのは、以下のような把握である。
「時代の芸術の営みにあって、最も興味深く人目をひく人物の一人は、収集家、エッセイスト にして国民級の文化支配人(Kulturmanager)アルフレッド・リヒトヴァルクであった。」(3S
こ、に、プラーケのリヒトヴァルク評価が、従来の教育史家のそれを一歩深めたと言える決定 的理由がある。なぜなら、プラーケは、リヒトヴァルクを、初めから芸術教育史的視点でとらえ
ヽノヽノ̀ヽノ̀ヽノ̀ヽノヽノ'
ず、何よりもまず芸術史・文化史・なかんずく社会史的視点から把握しようとするからである。
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そしてこのような視点からリヒトヴァルクをとらえてこそ初めて可能な、以下のような指摘が続 くのである。
「リヒトヴアルクの格別の努力は、素人の芸術活動による美的感覚の教育に向けられた。彼は、
非専門的芸術家の作品展を組織し、関連同体の設立を促進した。公衆の写真活動も美術館が面 倒をみた。リヒトヴァルクは、さらに、教師達の芸術鑑賞を教える講座を設けた。」
「芸術は、リヒトヴァルクにとって、実際、 H常生活の中で始まるものなのであり、服装にあっ て、日々の必要物にあって、そして人間によって造られた環境にあって始まるものなのであ
る。」r・肘
従来のリヒトヴァルク評価においては、その実践への・致した.L出た点として、例えば、 「1)ヒ トヴァルクは、ハンブルク美術館の原画の美術鑑賞への導入を初めて企てた」 といった、プラー ケも言う「教師達の芸術鑑J賞を教える講座」を挙げ、 「非*門的芸術家の作品展」や「公衆の写 真活動」といった、リヒトヴァルクのより広い実践には、殆ど触れることはなかった、と言える からである。こ、には、リヒトヴァルクの芸術教育論を、その立論の背景としての経済的社会改 革的意図や推進方法としてのディレッタンティズム‑の集束に留めたり、リヒトヴァルクが今世 紀初頭におけるドイツ全土の芸術教育運動の主導者であり得た理念的指導性の強調のみに終わら ぬ、リヒトヴァルク自身の視座に身を置いたより深い本質把握‑の端緒が込められている。
とはいえ、プラーケにみられるのは、あくまでこうした本質解明‑の端緒であり、今日ドイツ における芸術教育の解明方向に、先述した特質と不十分さが全体として大きく残されている点に に、変わりはない。
それでは、我が国のw究にあっては言うまでもなく、今日までのドイツにあっての改革教育運 動における芸術教育運動の、わけてもリヒトヴアルク把握にも残されていると思われる本質的欠 陥を克服するためには、より具体的にどのような検討が必要なのか? それは、大きく、以Tの
5点に絞られると考えて良いだろう。
① リヒトヴァルクの理論的実践的活動を、広く芸術運動全体や芸術運動史の中に据えて計fitli
200 岡 本 定 男
すること。
② リヒトヴァルクの果たしたドイツの博物館史ないしは博物館教育史上の意義を明らかにす ること。
(彰1)ヒトヴァルクの芸術教育運動史上の決定的貢献の中核となる広範なディレッタント養成
‑の組織的実践を究明すること。
④ リヒトヴァルクの傑出した能力の根底にあり、その甚大な理念的影響力を支えたジャーナ リストないし文筆家としての資質を、これまで殆ど未解明な彼の生い立ちや活動歴における ベルリン時代を中心に明らかにすること。
⑤ リヒトヴァルクのトータルとしての評価を決定づけているのは、芸術教育運動の範囲内で のそれではなく、歴史上の大学者にのみ与えられるプレツェプトルゲルマ一二エ(Praeceptor Germaniae‑ 「ドイツの教師」 「ゲルマン民族の先導者」)であると言って良く、同時代人に
このような第一義的評価を生んだ、主として人格的理由を探ること。
これがリヒトヴァルクの全体構造を構成するものであり、同時に、今日なおドイツでの改革教 育運動史上のリヒトヴァルク把握に欠けている諸点である、と言えるだろう。このような点での 研究解明がなされることで、リヒトヴァルクのドイツ芸術教育運動における、そして改革教育運 動における位置が、新たな意義をもって M.ち現れてくるであろう。
次巻では、わけても今日迄のドイツにおける改革教育運動史にあって、根本的に欠落ないし極 めて不明瞭にしか捉えられてこなかった①から③迄の主要な内容を、その視座と実践の総体に立 ち返って概観することとしたい。
[f]へ続く
註
(1)例えば、こうしたドイツ教育学昇にあっての改革教育運動への持続的検討関心の一典型として、城代 ドイツの代表的教育学者の・人ヘルマン・レールスが、 1980年に出した体系的著作『DieReformpada‑
gogik 改革教育学)』の副題が、 「ヨーロッパに於ける起源と展開」 (tIrsprungundVerlaufinEuropa) となっていたものが、 1991年の「第3校正版」では、内容の変更は全くなく、最後に実質わずか2ペー ジを加えただけで、そのまま「国際的視野のもとに於ける起源と展開」 (ursprungundVerlaufunter internationalem Aspekt)として新たな研究的需要に1,6えで間JJ・された点を指摘することができようo
さらには、現代ドイツの代表的教育学雑誌としての地位を保持している『Zeitschrift fiir Padagogik』
の1990年第6冊版が、この改革教育運動‑の複数の包括的かつ間韻提起的検討論文を掲載し、読者の 研究関心の要請と深化に応えようとしている点も、こうした今口に及ぶ関心の ‑酎サ」.持続性の確か な例証となろう。,
( 2 ) Wolfgang Scheibe, Die Reformp台dagogische王iewegung. 1969. Vorwort.
( 3 ) Beckers/Richter, Kommentierte Bibliographie zur Reformpadagogik. 1979. S. 17.
4 ibid.
(5) ibid.
(6)このエルカースの問題提起の著作をもとに、ここ20年間の改革教育運動に関するドイツに於ける諸論 考を史料史的に性格づけるHeiner Ullrich, Die Reformpadagogik.‑‑Modernisierung der Erziehung oder Weg aus der Moderne? in. Zeitschrift fiir Padagogik. Heft 6/1990. SS. 893‑918.は、今Hのドイツにおけ
A・リヒトヴアルクの視座と実践[上]
201
る改革教育運動の検討が、歴史的に新しい段階に入ったことの・証左と言えよう。
(7)こうした見解は、今日にあってもまず異論のないところであるが、 「改革教育運動」というドイツ固有 の名称付与とともに、この運動に最初のまとまった評価と位置づけを与えたHerman Nohl,Diepadago一 gische Bewegung in Deutschland und ihre Theorie. 2. Aufl. 1935.及び、第2次大戦後に於けるまとまっ た検討による最初の成果とみられるWolfgangScheibeの(註2)前掲書は、その代表的なものといえる。
8) Heinrich Spiero. Detlef von Liliencron. 1913. S. 333.
( 9 )王I. Groothoff, M. Stallmann (hrsg.), Padagogisches Lexikon. 1961. S. 530.
(10) Hermann Rohrs, Die Reformp云dagogik. 3., durchgesehene Auflage. 1991. S. 73.
(ll)篠原助市『欧州教育思想史』 (下)、玉川大学出版部、 1972. P.382.
(12) F"litner/Kudritzki (hrg.), Die Deutsche Reformp云dagogik. Band. I. 1962. S. 331.
(13) Theo Dietrich, Geshichte der Erziehung. 18‑20.Jahrhundert. 1970. SS. 203‑211.
(14)この著作が、ドイツの世紀転換期にあって、如何にセンセーショナルな未曾有のベストセラーであっ たかは、例えば、以下の指摘によっても明らかである。
「『教育者としてのレンブラント』は、 1889年のその出版以来、 1936年までに丁度90版を出していた。
この本は、従って100万人の人々に読まれたのであり、仝ドイツの教育者達の殆ど必読文献であったC,」
(Miroslaw S. Szymanski, Die Deutsche Reformpadagogik und Peter Petersen aus der polinischen Sicht. in.
Padagogische Rundschau 4. 6/1992. S. 580.
(15) Beckers/Richter. Kommentierte Bibliographie zur Reformpadagogik. a.a.0. SS. 14‑15.
(16) 】bid.引用は、順に、 S.251, S.252, S.253.
(17) a.a.O.S.253.
(18月別えば、 christa Berg, FVagwtirdige Zusammenhange. Das Problem der Kontinuitaterl in der Bildungsge‑
schichte des 20. Jahrhundert. in. Zeitschrift fur Padagogik. Heft 6/1992. S. 815.の位置づけ参照。, (19)わが国にあってのドイツ芸術教育運動の研究は、そのままリヒトヴァルクの研究と殆どイコールと言っ
ても良い段階に留まっており、この意味に於いて、以トの概観がリヒトヴァルクへの言及に絞られる ことで、現段階ではそのまま芸術教育運動全体の研究の特質をhf川寺に示すことになると言ってもあな がち過言ではないであろう。ノ
(20)ただし、全体的な形でドイツ芸術教育運動をテーマとしてはいないが、そのある局tfllやある部分を扱っ た論文として、筆者のもの以外に、鈴木幹雄「ハンブルクにおける芸術教ft運動の展開‑ハンブル ク民衆学校教師川の教育思想と教If改*:‑夫践の展11射二ついての 一考察」 (『広島大学教子汚:部紀要』第 1部第32号、 1983年)があるo また、やはり、リヒトヴアルクの芸術教育の ‑ft野をテーマとして扱っ た論文には、これも筆者のもの以外に、金沢大十「リヒトヴァルクの美的教育論」 (W関西教育学会紀要』
創刊片)がある,,
(21)訳述ものとみなされるものに、尾高豊作『独逸の新教ff運動』刀江書院、 1932年n (Th.Alexanderand B. Parker,TheNew Education intheGerman R叩ublic. 1929.によるo)翻案ものとしての色彩の強いも のに、阿部軒孝『芸術教育論』教¥J<研究会、 1923年(Johaness Richter. Die Entwicklung des kunster‑
zieherischen Gedankens. 1909.による。)があるr,
因に、わが国で初めてドイツ芸術教育運動とリヒトヴァルクの存在を、そのドイツ滞在中のw.接間 接の見聞をもとに紹介したのは、戦前わが国の代表的教IfPII:者で、京都帝国大学の総長も務めた小西
・勘在である(つ射ま、 1906年(明tf?39年) 1月29口、ドイツ帰軌後着仕した広島高等師範学校の教育研 究会で、 「趣味教f自二ついて」と題する処女講演を行った。そこで、 「1896年ハンブルクのリヒトヴァ ルク教授などが刷与者となりて初めて趣味教ftの研究会なるものを起し・・・」といった導入に続けて、
ドイツにおける第2[。はでの「芸術教育会議」開催について、わが国で初めての言及をなしている,, (「広島高等師範学校教育研究会講演集 第 ‑集」所裁)しかし、これは、広義の芸術教育運動を口木 的「趣味教IT」という視点でとらえ、極めて簡単な紹介の域を出ないものであるため、この8点の著 作からは除外する。‑,
(22) ノは、形の上では1947年の刊行であるが、原稿化は戦前であるため、全てが事実上戦前のものとみな
202
luVj 本 定 リlし得る。
(23)関衛『芸術教育思想史』、摩̲/l二閣出版、 1925年、 P.187.
(24)佐々木秀‑一一、白根孝之『最近ドイツ教育思想史』中和剤完、 1936年、 P.105.
(25)島村民蔵『子供の生活と芸術』、高陽社、 1927年、 PP.65‑66.
(26) Hermann Rohrs. Die ReformpAdagogik. 3., durchgesehene Auflage. a.a.O. S.
(27) Lexikon der Padagogik. Verlag Herder. 1960. S. 111.
(28) Padagogisches I‑exikon. Bertelsmann Fachverlag. 1970. S. 143.
(29) Beckers/Richter, a.a.O. S. 253.
(30) Heiner Ullrich, Die Reformp畠dagogik. (註6). S. 904.波線部は、筆者によるo (31) Hermann Rohrs, Kommentierte Bib】iographie zur Reformpad独ogik. a.a.O. SS. 87‑」
(32)もっとも、この著作も、既述のユルゲン・エルカース『改革教育学. ‑批判的教条の歴史一一」 (1989年) を‑ ・つの起点に転回しつつあるとみられる改革教育運動の学説批判的方向と事実上欄呼応した成果の 一つとみても差し支えないであろう。, vgl. Zeitschrift fur Padagogik. Heft 4/92. SS. 638‑(
(33) Klaus Plake. Reformpadagogik. Wissenssoziologie eines Paradigmenwechsels. 1991. S. 170.
(34)引用は順に、 S. 169.SS. 169‑170.S. 171.
(35) ibid.S. 169.
(36) ibid.順に、 S.169.S. 174.
(37) Lexikon der Padagogik II. Verlag A. Francke AG. S. 103.
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The Viewpoint and the Practice of A・Lichtwark [I]
The General Bass of German Reformpedagogical Movement‑
Sadao Okamoto
(Department of Pedagog;I; Nam Uniivrsitl of EditH蝣itiwi. N,〃γ〟 630, Ja♪un)
(Received April 18, 1997)
It is well known that the artistic educational movement was the origion of german new educa‑
tion. It is also well known that Alfred Lichtwark (1852‑1914) was the leader and the one of the initiators in German artistic educational movement. These matters were introduced already earlv time in the prewar days of our country.
But the process of the systematic and the academical studies with reference to German re‑
formpedagogical movement has presented a new understanding especially after 1980's in Germany.
Firstly I am going to try to describe these results of studies during about twenty years in Germany in this volume.
Secondly I will take an original approach to the study of the GeI一man artistic educational
movement especially regarding the position and the role of A・Lichtwark.
(to be continued)