奈良教育大学学術リポジトリNEAR
戦前京都市における「特別学級」の成立・展開とそ の実態 −京都市立養正尋常高等小学校「特別学級
」を中心に−
著者 玉村 公二彦
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 49
号 1
ページ 179‑190
発行年 2000‑11‑10
その他のタイトル Historical Case Study of Special Class in Prewar Kyoto
URL http://hdl.handle.net/10105/1424
奈良教育大学紀要 第49巻 第1号(人文・社会)平成12年
Bull. Nara LIniv. Educ, Vol. 49, No. 1 (Cult. & Soc), 2000
戦前京都市における「特別学級」の成立・展開とその実態
‑京都市立養正尋常高等小学校「特別学級」を中心に‑
玉 村 公二彦 (奈良教育大学障害児教育教室)
(平成12年4H28 1受理) キーワード: 京都市、 「特別学級」、教育実態
L は じ め に
戦前において、障害児、特に知的障害児の教育につい ては、 「特別学級」の存在が知られている,,戦前の「特 別学級」と呼ばれてきた学級の動向と特徴は、先行研究 の検討を適して整理した戸崎敬子・清水寛によれば、次 のような傾向がうかがえる(1)
・1、)単摘'Iの「特別学級」開設は、 1900年代半ば以降のFFl 治末期、 1920年代の大正後半期の二つの時期に多く、
特に、 1922年から大正末期に学級の開設が集中して いるL
受1 「特別学級」の形態は多様で、特定の教科ないし・
定時間のみ「特別学級」へ連綿するという辿級制学 級が少なくない
3:在籍u童は、 「低能」 「精神薄弱児」とされる蝣Id童 も存在したが、そればかりではなく「成績不艮児」
も入級していた.I
寸設置期間が、特別な場合をmき短期間のものが多い 多くは1‑2年で廃JLされたものも含めて、 10年11 両で消滅していた′‑
戦前、 「特別学級」といわれていた{細々の成立の時期、
対象児童、学級の形態・特徴、設置期間等の実態は多様 であり、個別事例の詳細な検討が不可欠の課題となって いるといえようJその際、 10年以L存在したり、大都市 において地域r廟二一一定の計画に堕づいて開設された学級 群、担任教師の組織的な動き(特に、研究・実践交流)
などに注H+ることが重要であると考えられる1なぜな ら、 「特別学級」は「原則として通常の授業時間帯に、
‑宜の場所で、学業成績や知能指数を基準として選出さ れた児童集団を対象に、特別な教育活動が行われた事例」
であったとしても、発達の遅れや発達障雷をもつ児童に 対する教育の場となっていくという側面が重要であり、
「優良児」の特別学級や「能力別学級編成」による「成
179
績不良!fc組」からは原則としてLi別されなければならな いからであるE=,その意味では、教育問題として把握され て「特別学級」が計画的に設置され、特別な教育活動の 経験のもとに対象児童・学級の形態等が略味され精選さ れていったところが重要であると考えられるからであるn 本稿は、 「特別学級」の多様性を考慮しつつも,以上 の観点から京都市の「特別学級」を対象としてその実態 を事例的に取りヒげて解明しようとするものである(2) 京都市は、東京、大阪と並んで障害児教育史上、先導的 な試みがなされてきた都市であり、 「特別学級」に即し て言えば、 1920年代にかけて行政的支援の下で‑一定計画 的に設置されようとした経過を持つ,‑,しかも、その「特 別学級」の実践の蓄積は、川村I‑二等に代表されるよう
に、戦後京都・滋賀などにおける障害児教育・福祉の取 り組みに継承されて行く経緯があり、歴史的に看過し得 ない重要性を持っているからである。
本稿では、まず、京都市における「特別学級」の成立 と展開について、太lL期における「特別学級」の設置、
そして昭和期における「特別学級」の実践的な進展を確 認するL,その上で、 「特別学級」の歴史的事例として、
京都市養止尋常高等小学校の事例を示したい̲.具体的に は、そこでの「特別学級」の日常的な教育活動について 実態を明らかにするとともに、室戸台風という危機的な 状況の中で「特別学級」がどのように対処したのかにつ いて、史料を示し、昭和期における「特別学級」のJ̲甜菜 的な進展を事例的に確認していきたい
汀.京都市における「特別学級」の成立と展開
京都市の「特別学級」の設置状況を表1に、京都車 用鍋IJ学級」関連年表として示した.ニ 京都市の「特別学 級」の成立過程は、 (I)前史‑1900年代、 (さ1模索期‑1920 年代初頭、母,計画的設置期‑1920年代半ば、 '」'実践的展
ISO l.;.トj :蝣こ 十三
間期‑1930年代前半、しき一変零期‑1940年代初頭に‑一応時 期区分することができる′I.教育上li"d題がある蝣M童を選%.
して、小人数で特別の配慮をおこなう学級編成をとる公 立小学校に併設された「特別学級」の成立という観点か らは、模索期から計画的設置期にあたる1920年代が、ま た実践の展開という観点からは、実践的展開期としての 1930年代前半がそれぞれ注目される.
(1)大正期の「特殊児童」把堰と「特別学級」の設置 東都寸i(D 「特別学級」が本格的に開設されて行くのは、
1920年代の‑大正半ばである‑.この時欄、昭和の初頭まで に、 「特別学級」のおおよその枠組みが形成された̲ そ の特徴は、第一に、それぞれの時期における教育問題・
社会問題と関連した障害児調査がなされたことであり、
第一二に、障害児の実数把握に基づいた「特別学級j の設 置構想とその一定の実現である、
障害児童の全数把握
大止期、 「特殊児童」の教育の必要性について先鞭を つけたのが藤井高 価であったニ,京都市視学となった藤 井は、米蘭動J)影響から社会事業を進展させる必要に迫
られて設置された京都市社会課から委嘱され、特別市政 が敷かれた京都市に限定して、 「特殊児童」の全数を把 握すべく、 1921 人itlO)牢から1922 大正11)年にか
けて「京都市に於ける特殊児童調」をおこなっている(3‑
この調査は、京都市の小学校在籍児童総てを対象とし て、その中の「特殊児童」の実数とその比率を算山する ことこそ、課題であり.内容であった,‑ 調査の母数とな った学齢児童は、 65.013人(学齢児童総数の75.7?の で あl上 調査で把握された「特殊児童」は、 「天才児童」
「優良児童」を含めて、全体として27.202人(41.8% で あった̲,従って、おおよそ京都市小学校在籍児童の5人 に2人が「特殊'tt毒」となる,この内、 「天才LHL童一日‑優 良児童」 「劣等%壷」 r精神低格児」 「身体薄弱児竜」 「貧 窮児童」を除く、知的障害児と見られる「特殊児童」は、
2.400人(3.7% となるL一 二の結果について、調査者の 藤仕白身は「mr#各回の研究調査と諸先輩の研究発表と 暗 受Lkする」と述べていた̲,藤井は、欧米の特殊教育制 度を範にとり、 「特殊児童」数に基づいて「実際分別の 実数より見たる最低限度の特設希望」として、これらの
「特殊児童」のための「特殊機関の充実的建設」を訴え たL ここでの相帯構想の特徴は、 r特殊児童」の'>}類に 基づいて、障害とその程度に即対応した保誰ないし教育 機関を設定している点であるし,この「特殊機関」構想は、
次の京都市褐学城野亀吉にも受け継がれ全国的にも発表 されたものの(41、 「補助学校」等の単独の施設は実現せ ず. 「低能児学級」 (「特別学級月 も、 1923 太iH12)午 には京都市の6各地域区分ごとに1校ずつ計画設置され
る予定であったが、実際は、大正末年まで持ち越された (1922年から1926年まてで小学校7校と師範付属小学校に 作用rJ学級」として設置).I,しかし、京都市の「特別学級」
の基礎が敷かれた点で、この調査とそこでの対策提言の 意味は少なくない
「特別学級」の設置
大lE末年までの時期に「特別学級」を設置した小学校 は、成徳小学校、 IL条小学校、桃園小学校、弥栄小学校、
黄TT.‑ト学校、竜野小学校,崇L小学校、師範付属小学校 の8校である‑ 京都市社会課が対策として提起したこと から「特別学級一日設置にあたっては行財政的援助があっ たといわれているが、しかし、各小学校において「特別 学級」の意義が理解されなければ設置される所まで行か ないであろう..例えば、京都市において最初に「特別学 級」が詔mされた成徳小学校は、当時斉藤千ノ栄治校長で あった‑ 斉藤は、奈良女高等師範付属小学校「特別学級」
の担任という締艇を持ち、その意義を積極r柚二受けとめ、
「特別学級」を詔置した′‑ しかしながら、斉藤が成徳小 学校から転任となると「特別学級」も廃止されてしまい、
・方、斉藤の転仕先の滋野小学校では「特別学級」が設 置されることとなった。,まずは、校長の姿勢が設置要件 の第‑ ・であり、担任となる教師の姿勢と理解が次にそろ っていなければならなかった一.従って、 「特殊'ia壷」の 把捉に基づいてttされた「特別学級」設置構想は、京都
市の各地域区分ごとにセンター的に設置するというもの であったが.必ずしもそうはならなかった̲I
では、設置されたところでの「特別学級」の意義はど のようなものとみなされたのか̲,京都IIで最初の「特別 学級」設置となった成徳小学校校長斉藤千栄治は次の5 点からその意義を述べている(f.1
甘人道Lより一止常兄と平等に大柿を認めること/吾 人と同様の幸福を得しめんとす
2;J国事上より一社会の犯罪行為を減少せんとす/′社会 の犯ヨ円f為を未然に妨滅せんとす
L3)社会政策士より‑fl三食して家庭の厄介者とならしめ ざらんとす/適当な職業に就かしむ
、享.凍羊清政策上より一社会の被る物質的棺害を減少せん とす
亘J教育能率増進上より一個性と能力に適応したる教育 を徹底せんとす/普通学級に於ける負拍力を軽減せ んとす
「特別学級」設置は、人道上の課越でありながら、純 粋に教育的な課題において捉えられたというより、社会 政策や刑事上の課題をも包摂していた,‑,社会防衛論ない し国家防衛論的見地から意味づけがなされているのであ る'h'
i日航iJ京都苗における r特別学級」の成立.展開とその実態
表1京都市「特別学級」関連年表
181
午 特別学級の成立過程 関連事項 (調査 . 相帯 .親任の動 き)
1902 明治35ー
1〜ー06 (Hfl冶:1削
1907 ー輔自40)
1909 明泊42)
1918 天正7 )
1920 大正9 )
192二2 (大正11ー
1923 天iK 12j
1925 人汀蝣14)
二の前後、京都itT淳風小学校で 「成績不良 児組」 「無落第主義組」が組織されたl=l 脇田良六によって 「昔風倶楽部」が組織さ れ、11 名程度cO 'M 童に rl特殊教育1 が 試み られたl
藤井高l一郎 ‥知恵遅れ児教育 . 夜間 二部 教 育tO 重要性を強調 (懸賞論文に入選) 京都市成徳小学校 . L 条小学校等で特別学 級謂置の動き
成徳小学校で特別学級設置
L 条′ト学校、桃一計」、学校で特別学級謂躍
作美小学校、養正小学校に特別学級設置
京都府教育含 「不完全な心意を有する児童につきての調勘
文部古訓令第6号 「盲人、唖人又′、心身発育不完全十FPL童‑7 教育セン為、特別学級ヲ謂ナテコノ方法ヲ研覚センコト」
京都府教育会 「白川学園」を設 立 (脇田が七導的な役割を 果たす) .. n 的は⊥蝣IT のものl
「心身 ノ発達不十,Jナナルカ又)、疾病及ヒ感覚機関ノ障害等 ニヨリ国民教育ヲ受ケ染佳キ児童ノIJ メ二特殊ノ方法ヲ施シ ソノ方法ヲ功究スJL ヲ⊥1 テH 的 トス)L」 (設立時の白川学 i 酎 駆 りつ
藤井高一郎 巨相 川月二おける特殊K 童調」を京都市社会課 の依託て実施l
二の前後1 文部省学校衛生課、杜J‑;教育課の双方から実態 調査をお二ない、行政的対応を促した 仲 心となったのは青 木誠m 井上ー青木の特殊教育論は京都 IJCO 特別学級担任の指 釘とな/)たようであるl=l
192(i (大正15)
1927 昭和2 ) 1929 (好捕T4 ー
1930 昭和5 )
滋野小学校、崇L 小学校、価範附属小学に 崇仁小学校で有馬良治が中心となって入学前蝣M 童の知能検 特別学級設置 (崇「小は1 年で閉縄)
聖楽小学校、招致小学校に持別学級設置
出雲路小学校に特別学級設置
崇上小学校特別学級再開
一橋小学校に特別学級設置
鋸FT汀小学校、太秦小学校、南浜小学校に特
査間他ll
五都市教育部社会謂 「学齢蝣M 童に関する調査」として p f<
就学児童」 「居所不明児童」 「長期欠席児童」 「低能児童] 「性 格異常児童」 I病弓別J童」 I身体異常児童」等の統計調査と 「狭 義の異常児童」の個人別調査を行うl
こW Lfi、京都市特別'M 童教育用'」会発足 日寺別学級の担任 中心の研究会)
1931 昭利6 )
1932 昭和7 ) 1933 配持し18 ー
1934 昭和こ0
1941 昭和1G)
1942 昭和17ー
1945 昭利20ー
京都市教育部社会謀 p/i童保護に関する調査』において 「異 T
C P. 童1 イこ良少年発生防止、並びに保護に閥する方策」か示 される1
京都市児童院開設
京都市特別児童教育研栗会 [r異常児教育』 (研究会機関誌、
棉年発行ー発行
京都市蝣ft 童院 「膏都市の]省等K 低脳K </)調音」開始、1935 年には 「京都市の省等'M 低脳児の教育調査」を実施
国民学校令 別学縄設置
特別学級の間組があいつぐ 全「田柄り学級解散指令
京都市特別児童教育冊発会 「全車精神滞弓別⊥放調査」実施 京都市特別児童教育研究会機関誌 『翼苗児教育il を 『勿忘草」
と改称
182
ト ト・J ‑'・蝣: ..十この時期、設置された「特別学級」の担任になった教 帥の経歴や教育観などの詳細は末だ明確になってはいな い,‑,誰が「特別学級」の担任になったのかさえわかって いない,場合もあるL.今後の研究の課題ではあるが、教師 が、この種の教育に担任になってからはじめて取り組ん だことは容易に推察し得る。 「特別学級」での取り組み も個々の教師の試行錯誤に任されていたものと思われ る。各担任は、東京高等師範什属小学校の見学やこの期 全国的な日昌適者であった青木誠四郎ともIB.接連綿をとっ て実践を進めていたようである.̲,また、出仕同Lの交流 も推察され、それが1929年頃に組織された京都「間寺別児 童教育研究会へと発展して行ったものと思われる̲. 「特 別学級」設置当初の教育実践とそれを支える担任の教育 観の検討は今後の課題と言わざるを得ない
(2) 「特別学級」の担任を中心とした実践の主体の形成 と組織化‑1930年代「特別学級」での実践上の強調点
「特別学級」における教育実践が明確になってくるの は、おおよそ「特別学級」す=任の2代目以降であり、
1930年寸亡になってからである..中心メンノーは、川中寿 賀男(養止小学校:1929年から担任)、高宮文雄(崇仁 小学校:1932年から抑仕上 田村 二(滋野小学校:
1933年から折任)等であったL‑
「特別学級」拍任の交流を発屈させ、 1929年頃京都市 の各小学校から会員を募り、 「特別学級」の拍任によっ て構成する京都市特別児童教育研究会が組織された(拍 代会長斉藤千栄泊主 当時、斉藤は、京都市教育部社会 課による「学齢児童に関する調査」を踏まえ「異常児童 を収容する京都市立の特殊学校を設置し、かつ京都r一回、
学校に特別学級を増設せられんことを市長に建議するこ と」という「京都市小学校校長会議」決議の提案者とな っており、 「特別学級」の推進を積極的に取り組んでい た(丁)京都市特別児童教育研究会は、 「特別学級」での 実践を交流しあい教材軒先や児童鑑別法の研究、講演会 の開催等をはじめとして、概関誌『異帝児教育』の発行、
普通学級担任による普通学級における「劣等兄」の取り 扱い方法のf軒先、 「精神薄弱児童養護展覧会」の開催、
全車精神薄弱児調査の実施等、広範な活動を展開した 研究会の活動は、それまでの個々の学校の「特別学級」
の試行錯誤に留まっていた取り組みを結び合いつつ、よ り高次の段階へと発展させる契機となったものと評価で
きる(二
この時期の「特別学級」担任の主張は、例えば「児童 白身が、学校生活を楽しむようになり、交友と遊び、 h:
口々々を無駄に過ごさぬようになってここにはじめて、
この学級の使命が達せられる」 (日中寿賀男¥ (8)、 「特別 児童を自然に還せ!と叫びたい ‑白「Hな立場にある特 別教室こそ、普通児教育と何等変わることない貞似事を
廃して被等の性情に合致した学習法を採用したいものだ」
(高宮文雄) (別、 「大冊童潜児教育の目標の第一投階はま ず彼らを楽しませ朗らかにしてやることだ.それにはま ず彼らを難しい学科から解放してやることだ」 (LL圧す 一 二) (1り)というものであった,̲i 「特別学級」に編入された
%童の実態から、教育的な取り組みが現実的になされて きていることを伺わせる主張となっている,I.
yl. 「特別学級」の実態一京都市義正尋常高等小学 校「特別学級」の場合
これまで天̲fL期半ば以降に設置されて、 I昭和期に実践 を本椿化させてきた京都市の「特別学級」を歴史的に概 観し、その概要を指摘してきた,二,
京都市の「特別学級」の代表事例としては、先に述べ たように「特別学級」二代目以降の担任が長期にわたっ て教育実践を担っていく養正小学校、滋野小学校、崇L 小学校等があげられる,‑,これらの「特別学級」の実践に ついては、担任の教育観や各学校・学級での特徴があり、
個々の学級について事例検討を行い、実態や実践を障害 児教育史上に位置づける必要がある.ここでは京都市立 養正尋常高等小学校の「特別学級」の実態と実践に視点 をあてて検討してみたい1
(1)京都市立養正尋常高等小学校「特別学級」
京都市の「特別学級」の成立過程において、模索朋を 経て設置され、以後「特別学級」として1945年「特別学 級解散指令」が出されるまで鼻も長期にわたって継続し た学級が、京都市養止尋常岳等小学校「特別学級」であ るニ,養Jl二尋常高等小学校の「特別学級」は、 1925 大正 14)年設置されたが、実践が本格化するのは円中寿買男 がfllfT:についた、 1929年からであろうと推察される,:
養JJ二尋常高等小学校の「特別学級」は、開設当初は
「個別学級」と称されていた、開設当初の学級担任は池 m修I一一(1925年 ‑1927^日 であり、その後、 H卜部11三史 と植村諒侃(1927年1929年)が出仕となっていた.田 中寿賀男は、正確に言えば,その4代E仲〕担任というこ
とになる.I
Ⅲ中は、明治27年鳥取県に生まれ、鳥取中学校を卒業 後、鳥取の小学校で代用教員生活(1913年1918年)、
兵庫県での教員生活(1918年 ‑1927年)を経て、 1927年 から京都市養iL尋常高等小学校の訓導とな古上 以後、敗 戦を経て1956年に退職するまで真正小学校に勤務してい る‑,単輔狛こおいては、 1929年より一貫して「 特別学級」
を継続して担任しているこ,
養止尋常岳等小学校の「特別学級」の記録は、 『個別 学級日誌』 (1929年 ‑1937年3日)、 『特別学級日誌』
(1937年4日 ‑1945年5日1日主『室戸台風特別学級避
戟前京都市における「特別学級」の成立・矧調とその実態
雑記録』 (1934年9 H)、 『養Jli特WI学級概況』 (1935年7 月)などが残されている(ll)そこでは、 「'lr一々十八名内外 の精神薄弱児を厳選して収零し、 『素質及び能力に適応 する様な教育を施し、学校生活を肯意義且つ愉快に終始 せしめたい』との趣旨の日二」、学級が運営されていた二, ここでは、この養止尋常高等小学校を・事例として、
「特別学級」の実態を、第つ二、 「特別学級」の編成方法と 児童の実態について、第一工二、 「特別学級」における教育 実践の特徴について、それぞれ見ておくことにする(12)
(2)学級編成の方法と児童の実態 児童の組織化の原則と手順
「特別学級」に編入する児童は、 2牛生から4年生を
「本体」とし、それ以IJまそれまで「特別学級」にいた 者で特別な事情があり家庭からの要請のあるものに限っ ている̲,従って、 5年牛以上は原HrJとして新しく編入L ていない,また、各年度1年毎に児童は再編入させてい た,ー 従って、学年末には所属学級に返し、新学期に改め て組織する方針であった,̲ 各年度、おおよそ20名弱で学 緋を構成していた.̲,
福大リidをの「選定」については、以トのような「選定 標準」によるものとされていた‑ すなわち、児童の「選 定標準」は、巾「低能児階級に属する者を大部分とり 部劣等児もいれている上(‡、, 「身体的欠陥、病気等の為 に学業の停滞を来し著しく成績不良の者は考慮して入れ ることを得」というものであった̲.なお手続きは、以下 のようなものである,
第一次選考‑各学級拍任による選考‑ 「劣等′上」
約2割を「Tj等」の順に一覧とする.普 通学級で救済可能と見なされる者は削除,・,
J
第二次選考‑知能検査と学業成積考査一知能指数 80以上のもの79以卜なるも学習の進む
可能とみなされるものは除外
1
第二次選考‑各種の事情調査
J
第四次選考‑父母の承諾‑,ただし、感覚障害、腰体 障害のあるもの、伝染性疾患のあるもの、
素行不良、兄弟・姉妹、長期欠席児童、
海外ィ・女、その他は「なるべく入れない 方針」である。
児童の実態
『Iは志』に記載された1929年度より1935年度までの児 童を・覧したのが、岡i<r> 「糞止小学校『特別学級』編
入児童の概要(1929牛度 ‑1935年度)」である
特徴の第 一は、児童は2'r「′t以上の編入であることで ある̲ また、高学年(5‑6年生)は少なくなっている,
183
第 T二、日中が出仕になった1929年度に編入された児童 は大半が次の年度は編入されていないことである,また、
学年が上がるにつれて編入からはずれる児童が存在して いるということである,̲ しかし、 ‑方で年々継続して編 入される児童は多くなっていることである̲,このことに ついて、川中自身次のように説明していた、
「進l'l<の見込みある者は全部毎学年末に元の普通学級へ かえしてしまっておりますので(卒業生もあり)結局学 年始めに残った者は個々にみて到底恒廿‑かかっても進*
しない稀の中でも稀にみる事情のある児童のみの集まり であるからです」
従って、この「特別学級」には成績不振児も在籍して おり、その凶復措置も課題としていた実態があるL二 しか し、そのような児童は普通学級へ戻って行き、 「事情の ある児童」が継続して教育を受けていたことになる=,
では、 「事情のある」とは何かが次のIILq題となる1935 年度の各児童の実態は、知能検査の結果と読方・算術の 到達状況を示している二. 「知能年齢」で2歳10カH〜6歳 8カ月、 I()で34‑79までの児童が編入されていることが わかる,̲ 要するに、 「特別の事情」とは「精神薄弱」のこ
とを指していたと推察し得る,̲ 中には、当時の水準と剛度 では就学免除に相当する児童も編入されていたとみられ る,̲ 児童の状況の 一端を、田中は次のように述べていたこ.
「+F揖二なっていても未だに独りで登校できないt㍗つゆ る小学校令第三十三条(就学免除)に近い様に思われる ものもあれば、十 │/q歳で毎日の自分の教室、自'J上の 机、朝会の集合場所がハ、ソキリせなかったり、何年も学 校に適っていながら、仮名どころか、自分の名前の読み 書きが不「分なのや、一つ二つの数え方すら満足にゆか ず、ただニヤニヤ笑ってばかりいたり、ム、ソツリしてす
ぐ喧嘩を始め、何かするとすぐに教室を飛び出していこ うとするようなものがありますから、それらに対しての 取扱は特に苦心と努力を要します」と,
(3) 「特別学級」における教育の実際
廿捕り学級」における基本方針は、これまでに触れて きたように「素質及び能力に適応する様な教育を施し、
学校生活を斤意義かつ愉快に終始せしめたい」 「児童白 身が、学校生活を楽しむようになり、交々と遊び、 ll;
日々々を無駄に過ごさぬようになってここにはじめて、
この学級の使命が達せられる」ということであった.I, では、具体的に毎「1の学級実践はいかなるものであっ たのか,I, 『日誌lj には、口々の時間割が示されているだ けであったが、 l実際はとの様な工夫がなされていたの
が.二
教科教授
教授上においては、 「特に白山な立場にあって、児童
184
1929 'ト度 日HM
l
(5年′壬二) A.
(4年′f ) FT 1930年宴
?Y.
M.H tl'A S.N.
?H.
Y.L
(2年′ト) S.T
?,T T.S.
16人
(4年′tO1931申1932'「度 K.T15人18人
Y.N.lJ K.F(5年l) K.I.S.K.二S.KUK.I上) K.H.‑‑K.H一一一→K.H (3年‑1‑)
H.I‑,
・‑‑4:H.I F.OS.Kと(5%‑'fc) H.IS.K
玉 村 公二彦
王買:王S.K A.NT.U.≡S.K A.NT.U.工(忠)
(2<¥ ′t;.) (4年′蝣) (5<1:‑/上) S.I (3年′1 ) M.S ‑ト M.S
?A.I.T.
S.Y.
S.Y.一蠎S.
K.H.一蠎K.
Y.I.一蠎Y桟S.Y Y.IK.Hと(6i:Y:) (2>l′t‑)
V忘告一一‑1(5軌) Y.KF.N:‑w*F.N
‑A*Y.K‑i(4't L>F,一㌦M.I.
(21円一)(3年/I) HKK.S
HIH‑H.H‑,(4*│:‑'l S.SuH.H‑)
T.M ‑yK^
一蠎H.KUS.M
Y.K(2年′I蝣:)(3<招̲) Y.S‑→Y.S
H..‑‑H.I H.M.U.Y.了「.・r K.M.M.T I"!'!・;
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.1935年tl 19人
↓ 芥rJl接 のl}さ態 (1935:
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一 H.H 知能 年齢
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図1 養正小学校「特別学級」編入児童の概要(1929年度 ‑1935年度)
の素質及び能力に適応せしめる」とされた。具体的には、
時間割の工夫、教材を児童本位にとり、あくまで児童本 位で進む、教授目標を下げ進むことより変化のある学習 を課す、反復練習の機会を多くする、無理をさせない等 が指摘されている。また、各教科は、全体として教授目 標が下げられ、より基礎的なもの、生活に密着したもの があげられていること、女子の裁縫科、作業料の設定が あることが特徴である。また、 「特別学級」独自のもの として「話し方科」を設定していることも特徴である。
田中は、次のように説明している。
「これまで普通学級にいて、 I‑‑度も口を開いたことが ないこの学級の児童に、他人の前で少しでも話の出来 る様にしてやったらどんなに幸福なことであろうか。
特に、仮名の読み書きが出来ない大部分の子供には、
織方に対しての 一種の応急策とも考え、余程以前から 話方科として特にこの時間をおき、また機会ある毎に 練習させています」
話し方科においては、具体的に教科書の中から、各教 科の中から、童話・連続物語から、訓話から、そして児 童の日常の見聞・体験した事項から、 「児童の「分自信 をもつ材料」で発表を行うというものであった。
●
養護
「この学級の児童は幼少の時に幾回とも無く病魔に犯 され、奇跡的に生命をとり止め漸く保護者が愁眉を開い て就学せしめてゐるのが大部分を占め」ており、児童は
「低抗力が弱く、すぐに疲労し易い体質を持っている」
と捉えられている。医学的な配慮は難しいが、学校医の 診察、学校看護婦の処置と同時に、病弱児および発育不
戟前京都[出二おける「特別学級」の成立・展開とその実態
「分の児童の取(日加ゝに「最善の考慮」をおこなうとと もに、 「発作的病気」をもつ児童に対しての留意をはじ めとして日常的な注意と保護が必要であるとしている,:
訓練
「この学級の児童には教授というよりも、訓練が必要 であり、訓練することによって教授は進められ、この種 の教育の大半は達成せられるものでありますから、日常 の取扱は総てI‑塞・歩訓練づけられてゆかなくてはなら ない」として、日常生活の整頓から、礼儀、人との関係、
道徳的訓練がなされている
「いざ授業を始めるとなると毎日事故の起こらぬ様に 世話をする事だけでも仲々容易な仕事でありません」
「毎日の世話のみが容易ならぬ任務であり、発展さすと いう標準は難しいことであります」と田中は述べている が、それが「特別学級」のR常であったものと推察され る.‑ しかしながら、その「毎日のIttHS」が、危機的限界 状況におかれた知的障害や困難をもった児童にとって は言欠に示すように非常に重大な意味をもつ場合もあ
gn‑′
Ⅳ.危機的限界状況における「特別学級」 ‑ 『室 戸台風特別学級避難記録』 (1934年9月)を 中心として‑
「特別学級」の口常的な教育活動を把握すること自体 が意義をもっているが、しかし非H帯においてそれがど の様な機能を果たしたのかについての史料の紹1「はこれ までなされてこなかった.:,ここでは、その・端を示すも のとして1934年9日の室戸台風下における養正小学校
「特別学級」およびその担任間中寿賀雄の対応について の史料を示して、危機的限界状況における「特別学級」
の状況を示しておきたl¥‑
1934 昭利9)午9月21R南太平洋に発生した台風は、
四国の室戸l岬から上陸して、近畿一帯を襲ったL̲,史L有 名な「室戸台風」の襲撃である 1934年91122日廿の
『京都日出新聞。l‖まその被害を以下のように報じている二,
「暁過ぎから近畿地方を襲った空の天魔上 猛台風は 狂ひに狂ひ暴れに暴れ、募る凶暴さは午前JL時、臣二至 って風連二十八メートル,‑ 京都付近を突いて当地未曾 有の烈風となり、百板を吹き、電柱を倒し、屋根を剥 ぎ、家を飛ばし、倒壊家屋は無数、死者、負傷者続出、
殊に淳和、西陣、八幡、朱鮭第IL等々小学校の倒壊は、
授業開始の間際のこととして、動き者の死亡者はl′自二 たらんとして、悲惨根も当てられずL.」
京都測候所の記録によれば、この室戸台風は、気圧 965ミT)バール、瞬間最大風速42.1メートルであった, その被害は、さらに両洋中学の台風Fの火災による焼宛
185
者「約二十缶」をはじめとして、京都農林、府立̀.中、
女子師範、桃山中学、萄柁女学校、府立一女、平安中学、
府立女尋、堀川高女等の建物倒壊や一部破損があり、小 学校では淳和、西陣、朱雀第七小学校のほかにも卜鳥羽 小学校、大内第二小学校、上鳥Jl羽、学校、 ・橋第二小学 校、同第二小学校、醒泉小学校、梅津小学校等の校舎が 全壊もしくはn衷しており、しかも'M童や生徒をrTl心と した死傷者は、時間が経過するにつれて増大し、人身の 被害は、死者は185名、負傷者849となった,‑,その天、臣ま 百風下での適切な処置を欠いた結果、犠粧となった児 童・生徒たちであったといわれている,̲、
1934年度、暴風警報の制度はなく、児童は強風の中登 校し、通常は鞘会がはじまり、 fl二前8時半に1時間Uが はじまる時間であるが、その3時間にわたって暴風雨に さらされることになったノ当時の黄l」:̲尋常高等小学校は、
児童数1301人(男子694人、女子607人主 学級数は高等 科および「特別学級」を含めて31学級あった.二 木造二階 建ての校舎の台風被害は、児童および教師の死傷者はな かったが、新築の北校舎を除き、二階部分の屋根は飛び、
その天井部分は落卜したといわれている[ニ 被害の後、二 部授業はおよそ二週間続き、その後も校舎の補修などが 継続されたこ 校舎二階に位置していたと推定される「特 別学級」の教室も例外ではなく、拍什の田中は、その際 の状況を次に示す「避難記録」等の中に記しているEJ
(1) 「昭和九年九月二十一日 室戸台風特別学級避難記 録 田中訓導」
川中は、室戸台風被害のあったHの夜に、避難の様J′‑
を記し、 「精神薄弱児を引率して危難を逃れるまで」と 出して、以トのような記述を残している,
私の教室も遂に悲惨な状況になりました,
今数分遅かりせば、機官の処置を誤ったら受持児童と 共に取り返しのつかない運命に遭遇してゐたことは火を みるより明らかであります,どうして難を逃れたか?辛 と不幸の境はJtL達とは云へ貝‑瞬時の私の決断のil二しか ったと見る外ありません,‑,
Pl土二tOAII 「 I)私が拝校したし′t)は′l叫M'M 「>]蝣 で教室に入ったのは六時五「五分でしたり 学校は朝会が 八時始まりですが、いつもの過り‑時間前に出動して直 ちに教室に入って授業の準備やら登校児童の世話をして いますが、とてもの暴風雨ですつ廊下の窓も教室の窓も 絶対に聞けることはm来ません:しかし子供は鞘は窓を あけるものとしてゐますので、すぐ開けようとLますか ら、廊下の側は全部経で開けぬようにし、先着の子供を 入りHに立ち番させて、次々に出席する児童へ開けない ように一人一人に伝達させておきました,
そのうちに、 I‑つ教室をへだてた六年に組の廊トの窓
186
玉 村 公二彦ガラスがI一寸k吹き飛ばされましたLl絶対窓を開けてはな らぬので、高等科の生徒を使って全校へ堅く伝達させま
I fz.
かくして、八時になり授業は始まりましたが、暗い上 に風雨がはげしく、ものすごい風のうなり、瓦の落ちる 音など増す一方ですn Lか、生まれてl明舎幾年こんな暴 風雨に出会った覚えはありませんが、いくらはげしくふ ってもそのうちにはおさまるであらう?としか考えませ んので、子供をなだめて話をしてゐましたl。
八時十五分となり、二十分となりましたが、益々風は 加はり‑‑t窓を開けてもすぐ風が教室に入って教室が吹 き倒されそうです。泣くもの、顔色のあるものは一人も ありません。そうこうしてゐるうちに隣の教室のガラス の壊れる音などすばらしい響きです1すぐに全児童をつ れて避難しようと思いますが、とても長い途中が危険で すから、 ‑一歩も室外に出されそうにありません:少しで も風がゆるんだすきを見てと思ひながらも危難が一刻一 刻と身に迫って来る様に感じます.こ,とても、全部の児童 を引率して安全に避稚することはだめかとも考えまし た。強い者だけ勝手に避難さすことも出来兼ねますr,こ んな場合に教師が少しでもあはてた気味をしたり、恐が る風をしたら児童はただ戦博するばかりですから、大い に元気をつけ「みんな心配はないO この屋根には滞山の 瓦があがってあるからこの学校は決して心配はない。そ れより先生の周囲にみんな集まりなさIK」といって教 室の中央に私の丸い椅子を置いて全児童を私のまわりに 集め「先生がゐるから大丈夫」といって平気を見せては ゐますが、上の瓦は見る見るうちに飛び散り、この分で はとてもこの侭もつまいと思ひました。努めて平然とし ようとしても心臓の高まる一方ですし,平素から地震の時 は壁が落ちたらだめ、風の時は屋根の瓦が落ちだしたら 危険ということをいつも頭に持っていますので、一刻も 猶予は出来ない、逃げるだけ全児童をつれて逃げようと 一一大決断をはかりました。時に八時二十五分でした。安 全な場所としては当校では北側の新校舎と雨天体操場と
しか考えられません。新校舎へ逃れていくことは絶対不 可能のことですので、愈々雨天体操場へ決心しました二.
しかし雨天体操場へ行くにしても少なくとも廊下づたい で五六分はかかります。
といって子供に早く早くと急ぎ立てるとかえって子供 は恐がってへたばりますG 走れというと、我れ‑がちに くもの子を散らすようになり、何れも危険ですので、
「心配することはないが、先生について静かに乗なさい 自分勝手に走ってはいけません」といって教室の入り日 の所にならべて、なるべく時間のかからぬ様、廊下へ出 させ、すぐ教室の戸をしめ、また、防火壁の鉄の扉をし めました。、その時には、隣の教室の廊下ではガラスの破 片で‑ばtlです。教室も大井が落ちかかってゐますO ど
こを適って雨天体樺場へ避難しようかと鳳の方向を見さ だめ、たとへ遠まはりとしても途中の危険の少ない方を と、ぐるぐる高等科の方をまはりました。何分暴風は増 し、ものすごい音とうなりと瓦の落ちる音で子供は私の 身体にへばりついて動きませんQ といって、私が先頭に 立って走っては弱い子供を置き去りにしなければなりま せん̲.平生よく走る子供がこんな時にはさっぱり歩きま せんので、私が列の中央になり前を見、後を見、児童を 叱ったり励ましたりして、万葉任を排して目的の雨天体操 場へ避難することが出来ました.全児童を連れて階段を 滑る様にして降りたときの事、 ‑一名も残らず安全であっ
たことを喜ぶと共に、思い出しますと夢の如く、ゾツと します。,途中の教室の子供は全部避難してゐましたので 安心しました〕両雨天体操場へついてすぐに人員点呼を
してふりかへって二階の私の教室を見たときには屋根は 全部吹き飛ばされ、天井は墜落し、見るもあはれな状態 となっていました。,よくもこんなに、よt弓央断をしたの かと追憶する毎に自分に感謝をつづけてゐます.‑.
(昭和九年九日二「‑日夜 蝋燭の燈をたよりにしるす) 特別学級担任 日中訓導
付記、四、五日して壊れた中から時計を探し山して、時 計屋へ持って行き共々止まった針を見ましたら八時:/千 分過ぎでしたこ. (天井の墜落時刻でせう)
(2)室戸台風以後の『特別学級日誌』の記載
田中は、室戸台風当日の様子を、 『特別学級日誌』に も以トのように記載している(口は判読不可の文字上
九月 」一一一一日(金曜日)大暴風雨
本日午前九時未曾有の大強風襲来し南側校舎二階側壊西 側二教室二階墜落新校舎を除き被害甚大を蒙る。.
危くも避難し当学級児童全部異常なし:,全校児童 人も 異常なLL 午前「時半過ぎ□□無事帰宅せしむ,。職員は 一時帰宅し、午後三時帰校す。 (欠席児童の記載有り) 見物客引きも切らず。
その後、被害から復旧していく過程を『特別学級日誌』
に即して、見ておけば、翌口は「危険につき子どもは教 室へ入れず道真□口にて□物を取り出す」 (9日22P土 曜口上 翌週には、 「応急教室移動二部教授の準備物をな す。,実に悲惨の事なり,J」 (9月25日火曜日)と、応急教 室での二部授業が準備され、 26日に「特別学級」の仮教 室として二階集会場に移動しているが、 「雨洩りにて到 底勉強出来ず」という状況であった。 27日には、再び教 室移動がなされ、ミシン室にて授業がなされている。学 校全体の屋根の修理がこの目から行われ、応急丁事が続 けられていく。 「特別学級」は再び集会場を仮教室とし
戦前京都市における「特別学級」の成立・展開とその実態
て移動、 29日から授業が行われていく。学校全体では、
「五年を除いて各教室の移動を行い来週より二部教授を 全廃せん」 (10月6日土曜日)とあり、平常授業まで二 週間余かかっていることがわかる。
(3) 「特別学級状況 昭和九年九月二十一日」 (13) 田中による物的被害の状況のまとめは次のようなもの である。
当教室は倒壊を逃れLも屋根全部吹き飛ばされ天井墜落 周囲の上側の壁落ち建物は大破し危険状態となりLも数 分前児童全部を引率し雨天体操場へ避難の措置を取りし 為め危うくも遭難を逃れることを得たり。
被害状況
建物 天井墜落 屋根飛散 周囲の上側の壁落ち 建物は大破し危険状態なり 備品の損傷
オルガン 大破損
時計 ′′
書方用ツボ 破壊
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掛図類五種類 児童机 戸棚ガラス
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187
(4)危機的限界状況下における「特別学級」の役割
「特別学級」は、日常的には「学校生活を有意義かつ 愉快に終始せしめ」るという教育方針で運営されていた ことは、先に見たところである。その一方、災害などの 危機的限界状況においては相対的に少人数の子どもたち に対して、緊急の対応を行いうるものとなっていたこと が、上記の史料から了解されるであろう。 「室戸台風特 別学級避難記録」によれば、危機的状況にあって、特に 障害が重いというわけではない児童によって学級が編成
されていたこともあり、子どもたちは、パニックになっ たりということはなかったが、状況が非常に悪いことは 察知し、萎縮してしまっている姿が読みとれる。この史 料では、子どもを守る担任日中の判断と先導する指導が 全面に出ていることがわかる。
昭和9年当時の養正小学校の校舎平面図を、図2に示 した(14)。この平面図には、二階部分の記載がないが、
校舎は2階建てであった。 「特別学級」の教室は、二階 に位置していたが、避難にあたって北校舎ないし雨天体 操場のいずれかの選択肢のうち、雨天体操場を選択して いるという記述から、南校舎の2階であろうと推察され る。防火扉の位置は不明であるが、西校舎との間にあっ たとすると、南校舎の西であろうと想定しえよう。いず れにしても、二階から南校舎中央の階段を下り、南校舎 内側の廊下をったい、児童用便所横を通り、高等科の方 をまわったとの記述から理科教室へゆく廊下を適って、
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図2 京都市養正尋常高等小学校平面図(1Fのみ)
188 田iii 司fm呂
雨天体操場へ避難したと考えられるリこの間、ガラスの 破片や天井が落ちかかっていたり、屋根瓦の飛ぶ状況の 中を担任H何Iは児童を叱畦激励して避難させていたので ある‑,平素の指導とILJ
7L童との関係を前提として、児童の
安全を第‑11二、早めのl朋机二基づいて、避難がなされた ことを示しているという点では貴重である,メ
室戸台風の被害は、̀」借にあった「特別学級」の教室 をもまきこんで甚大なるものをもたらした,̲,養止小学校 では室戸台風の被害によって二階部分を中心に教室が使 用できなくなり、その後の上躍口(9月22日)は後片づ けにおわれ.習火曜n(9n25日)は二部教授の準備、
全校的に二部教授が開始されていく,こH誌で確認する限 りでは、10月6Flまでの二週間余りの聞、二部教授は続 いている,ニこの間、「特別学級」は、場所を集会場や、
ミシン室などを経て、最終的に集会所を仮教室として、
国lJ̀の場所で授業を行っていったことがわかる 危機的限界状況にあっても、「特制学級」としてまと まって危機を回避できた姿をこれらの史料は示してお り、貫重なものといえよう,Jしかし、「特別学級」の避 難と復旧の様子はうかがうことができるものの、そのI‑‑i 方、地域や家庭での被害の状況などの把握、欠席児童 (宇戸台風被害の時点での欠席IH童の有無については不 明である)の状況把握などのための家庭訪問の記述はII 誌などにはみあたらない‑。あくまで、室戸台風被害が児 童が学校にいる時間であり、学校の被害が大きかったた めに、家庭での状況把握については視野の外にあったと も考えられるが、現在のところその詳細はわからない いずれにしても、このような危機的限界状況にあって
「特別学級」の担任の存在が大きな役割を果たしたと言 えるであろう。,また、児童にあっても、近くで励まして くれる担任の存在が心の支えとなって危機的な状況を脱 却しえたものと考えられる。,
Ⅳ.おわりに
本稿では、京都市の「特別学級」の実態を明らかにす べく、一大Jl二期末から昭利期においてうiI計画的に設置さ れてきた経緯を概括した上で、「特別学級」の中でも長 期にわたって設置されてきた軽正尋常高等小学校の「特 別学級」を対象として、その編成と教育活動の特徴点を 示すとともに、室戸台風という災宮下での危機的限界状 況における「特別学級」の実態を史料を示してきたrl 特に、京都市の川鍋り学級」の実態を示す事例として 示した養lL尋常岳等小学校の「特別学級」は、1929年に 田中寿賀雄が4代目担任となって以後、1945年、第二次 Lu界大戦のi酎ヒによる「特別学級解散指令」にいたるま で継続してHI出二よって教育活動が展開されてきたとい う意味で貴重なものである,̲,また、その記録として、
F個別学級口話二『特別学級口話』 『養正特別学級概況』
TI垢,1‑/丁摘要LH 等が残されており、 H帯的な「特別学級」
の編成、教育方針、教育活動、その成果などを総合的に 捉えることが出来た、さらに、圃時に『室戸台風特別学 級避難記録』など、 10数年にわたる r特別学級」での教 育活動の中で、特に災害などの非日常的な危機的状況の [軸距の状況を推しはかることができる史料がのこされて いた̲.これらの史料にもとづいて、本稿では、 「特別学 級」とその出仕の存在は、口常的な教授と学習の状況の みならず限界状況においても児童の友えとなっていたこ とを明らかにしてきたといえるであろう
本稿での「特別学級」の概要についての記述は『黄正 特別学級概況』によったものであるが、さらに、今後、
『口誌』等の詳細な検討を行っていく中で、その日常的 な教育活動の歴史的実態をつまびらかにしていくこと、
また、危機的限界状況としての単抹旨体制下での「特別学 級」の実態等を明らかにしていくことなどを今後の課題 としていきたいと考える,ノ 京都市の「特別学級」の代表 事例は、養iK小学校のみならず、すでに述べてきたよう に滋野小学校、崇仁小学校等があげられる。これらの
「特別学級」の実践については、担任の教育観や各学 校・学級での特徴があり、個々の学級について事例検討 を行いつつ、実態や実践を障害児教育史日二位置づける 必要がある,‑,また、各担任などの戦中・戦後における障 害児教育・福祉への展開なども歴史的には重要な意味を もっていると考える‑.これらの詔課題の検討については 他日を期したい‑
謝辞
本論文を作成するにあたり、史料収集にご協力いただ いた京都市立養正小学校の河井義墳校長はじめ関係者の 方々に深く感謝いたします,,.
注
(1)戸崎敬子・清水電「大正期における特別学級(学業不良 児・精神薄弱児等)の実態」 (『特殊教育学研究』第25巻第 2号、 1987年9日上 なお、同論文は、戸崎敬子 r特別学 級史研究」1 (多貫出版、 Pp.59‑78)の第2章として丁射冒さ れ一日、る1
(2)京都における障害児教育の通史的な素描は、藤波高『とり のこされた子らの京都の教育史‑明治・大ii‑:・昭和の実 践El (文理間、 1988牢)がある,:.なお、筆者らのこれまで
の個別研究としては、菅EEl洋一・邸・玉村公二彦「単航fjの京 一帖二.しける障‑吉V敢if成、hT〕誹11I]‑I!十一川Iinaoq一代::.fjHる
『特殊教育』の模索と提案を中心に‑」 (『京都教育大学教 育実践研究牛報J第4冒∴ 1988年3日、 pp.197‑209主 下 村公一̲彦「戦前京都における障害児調査と児童保護・教育 事業」 (『京都大学教育学部紀要』第34号、 1988年3日、
pp,254‑265)、上付公二彦「戦前『特別学級」]の実態に関 するI一一・考察‑京都市の場合(その1)」 (『関西教育学会紀 要』第13号、 1989年7 H、 pp.164‑168)、玉村公二彦川品 田良吉の『帆能』教育論の形成とその具体化‑明治40年
戦前京都H五二おける「特別学級」の成立.展開とその実態
代初頭をrl.心に‑J L[」良教育大学紀要』第42巻第1号、
1993年11円、 pp.43‑55上 王付公丁妄r白川学剛(藤本文 朗・膝升克美『京都障害者歴史酌i<」文理闇、 1994年、
pp.135‑144)として発表してきた‑ また、 1司‑piで対象とす る京都の「特別学級」については、大島IE徳「京都市にお : ^i l打v:'M#了J汗)l^ J′〕辻射.V (.精神J頼j開山l上州'加し'.').上:
第5号、 1967^一主「特別学級」の事例的楯覚としては、清 水寵「滋野小学校の特別学級と田村一一一.先I‑日(前掲『京 都障害者歴史酌'‑];』、 pp.163‑181)なとがあるL=.
(31調査報告は、京都市社会課『京都市に於ける特殊rJJ童調Ji {1922年)であるが、二の調査については、拙稿J戦前京 都における障害児調査と児童保護・教育事業」紺京都大学 教育学部紀要』第34号、 1988年3日、 pp.254‑265)で詳し
くIt析した,
(4)城野亀吉「特殊教育について( ‑) (つ」 『学校教育rU第 10巻第112号、 1923'ト1‑2 Fl
( 51正徳尋苗′」、学校編『精神薄弱蝣Mの教育概要』 (1923年)に よるが、この史榔ま未見である.‑,前掲(藤波高) 『とりの
こされJ‑‑ 1'蝣(",し・r)京ill'し'JftiV'U 川Jin・ 大Il.・昭fill')一印し1
(、p.29‑31)より引肝
(6)この支脈かL工 夫解放部活を校区に持った小学校にも「特 別学級」が設置されていることもL'解されるであろうL 昭 和期の太解放部落を含む学校での教育活動および「融和教 育」の側からの検討は、拙稿「京都における融和教育の形
189
戊と展開丁京都市部・萱仁小学校、養止小学校を中心に」
(MOT川蝣fill帖hU高畑)部落l甘山近代京品し!>iik;‑i演 落聞酎汗究所、1986年、pp.271‑300)で拝丁描)史料紹1「を 行っているので参照されたい‑
(7)京都市報f拍脱会課『児童保講に関する調査(1931<日.
r異苗ILI壷に持する施設設備の必要、新市部をも合算すれ ば其故実に1‑万Ji.千」『大阪刺日新聞京都版』(1931年11月 21I>
(出田中寿貫男F養IJ二小特別学級概況上1935年、p.15.ニ (9)高宮文雄「特別学級経営への反省」F異甘Ihi
/Li教育』別川号、
1933年、p.45,
(10)田村・̲『石に咲く花皿北天路書房、194;年、
(ll)史柚ま,帥l別学扱日誌ゴ(1929年4H‑1937年3月上「特 別学級日誌」(1937年4月‑1945年5円1日上『室戸台風 特別学級避難記録』(1934年9日上F養」特別学級概況J (1935隼7H)、『座談会摘要』(1936年2JJ24「l)などが, 京都II立養止小学校に所蔵されている
(12)以トの「特別号糾」の概要についての言己述は、『養IL特別 学級概況」(1935年7日)による,
(is)m中寿賀夫による付惰会などの綴りである『昭和十年二 I「蝣j'lillMvrJL';頼朝川中言伸某日(由仁小芋校wt>り 中のII仲の室戸台風の記録メモである‑,
(14)この平面図は、『黄正特別学級概況』に綴じられていたも のであり、従って、1935年当時のものと推定される.I,
en
Historical Case Study of Special Class in Prewar Kyoto
TAMAMURA Kunihiko