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歴代大管長の教えジョージ・アルバート・スミス

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歴代大管長の教え

ジョージ・アルバート・スミス

歴代大管長の教え

 

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歴代大管長の教え

ジョージ・アルバート・スミス

発行

末日聖徒イエス・キリスト教会

ユタ州ソルトレーク・シティー

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『歴代大管長の教え』 シリーズの書籍 『歴代大管長の教え ―ジョセフ・スミス』(アイテム番号 36481 300) 『歴代大管長の教え ―ブリガム・ヤング』(35554 300),191 『歴代大管長の教え ―ジョン・テーラー』(35969 300) 『歴代大管長の教え ―ウィルフォード・ウッドラフ』(36315 300) 『歴代大管長の教え ―ジョセフ・F・スミス』(35744 300) 『歴代大管長の教え ―ヒーバー・J・グラント』(35970 300) 『歴代大管長の教え ―ジョージ・アルバート・スミス』(36786 300) 『歴代大管長の教え ―デビッド・O・マッケイ』(36492 300) 『歴代大管長の教え ―ハロルド・B・リー』(35892 300) 『歴代大管長の教え ―スペンサー・W・キンボール』(36500 300)  これらの書籍を注文するには,地元の配送センターで購入するか, store.lds. org にアクセスしてください(訳注 ― store.lds.org での日本語版書籍の入手 可能時期は未定)。  本書に関するご意見,ご提案をお寄せください。あて先は以下のとおりです。 Curriculum Development, 50 East North Temple Street, Room 2404, Salt Lake City, UT 84150-3220 USA

 またはご意見,ご提案を cur-development@ldschurch.org に電子メールでお 寄せください。

 お名前,ご住所,所属ステーク名,ワード名を明記してください。また本書の題 名も忘れずにお書きください。ご意見やご提案には,本書の良い点や改善できる と思われる点についてお書きください。

© 2011年 Intellectual Reserve, Inc. 版権所有

印刷 : 日本 英語版承認:2002年8月

翻訳承認:2002年8月

原題:Teachings of Presidents of the Church: George Albert Smith Japanese

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目 次

タイトル

ページ

序 . . . v 経歴のまとめ . . . ix ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 . . . xii 1 信じていることに従って生活する . . . .1 2 「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」 . . . .11 3 イエス・キリストについてのわたしたちの証あかし . . . .21 4 預言者ジョセフ・スミス,神の御み手てに使われて真理を回復した人 . . . .33 5 神の子供たちに祝福をもたらす聖なる神権 . . . .45 6 主が支持される人々を支持する . . . .57 7 人の不死不滅 . . . .67 8 わたしたち自身と先祖に神殿がもたらす祝福 . . . .81 9 主に心を開いて祈る . . . .93 10 聖典―世界で最も貴重な蔵書 . . . .103 11 神から子らへの啓示 . . . .111 12 福音を分かち合う熱意 . . . .123 13 福音を分かち合う務めを果たす . . . .135 14 福音を効果的に分かち合う方法 . . . .147 15 主の業を推し進める . . . .157 16 「わたしの聖日に……聖式をささげなければならない」 . . . .169 17 人を強める信仰の力 . . . .179 18 主の側にとどまる . . . .191 19 知恵の言葉がもたらす物質的および霊的な祝福 . . . .201 20 自分自身と人々の物質的な救い . . . .211 21 思いやりの力 . . . .223 22 子供たちを光と真理の中で育てる . . . .233 23 「あなたがたには,……赦すことが求められる」 . . . .247 24 苦難の時代にあって義にかなった生活をする . . . .255 絵画・写真リスト . . . .266 索引 . . . .267

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管長会ならびに十二使徒定員会は,教会員が末日の預言者たちの教えを通 して回復された福音への理解を深め,主にさらに近づけるように,『歴代大管長 の教え』シリーズを作成した。本シリーズに新たな書籍が追加されるにつれ,家 庭に福音の参考図書のコレクションを増やしていくことができるであろう。本シ リーズの書籍は,個人学習と,日曜日のレッスンの両方における使用を目的として 作成されている。また,そのほかのレッスンや話を準備する際,および教会の教 義についての質問に答える際にも役立つであろう。  本書では 1945 年 5 月 21 日から 1951 年 4 月 4 日まで末日聖徒イエス・キリス ト教会の大管長を務めたジョージ・アルバート・スミス大管長の教えを採り上げ ている。

個人学習

 ジョージ・アルバート・スミス大管長の教えを研究しながら,祈りをもって御み霊たま の導きを求める。各章の最後に載っている質問は,スミス大管長の教えを理解 し,生活の中で応用するうえで助けとなるであろう。これらの教えを研究しなが ら,それを家族や友人にどのように教えることができるかについて考えるとよい。 そうすることで,読んだ事柄についての理解が深まるであろう。

本書から教える

 本書は家庭または教会で教える際に利用することができる。以下の指針を参 考にするとよい。

教える準備をする

 教える準備をするときには,聖霊の導きを求める。該当する章を祈りをもって

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序 研究し,その章で採り上げられているスミス大管長の教えに対してよく理解でき ているという自信を持てるようにする。あなた自身がスミス大管長の言葉から影 響を受けるとき,あなたはよりいっそう心から,力強く教えることになるであろう (教義と聖約 11:21 参照)。  メルキゼデク神権や扶助協会のレッスンを教える場合には,本書をわきに置い て別の資料からレッスンを準備するべきではない。該当する章から,自分が教え る人々にとって最も役立つと感じる教えを,祈りをもって選ぶ。章によってはクラ スの時間内に十分話し合えない量の内容が含まれている。すべての教えを採り 上げようとするよりも,有意義な話し合いを続けてもらうようにする。  参加者には,レッスンの前に該当する章を研究しておくように,また本書を携え て来るように勧める。そうすることによって,話し合いに参加して互いに教化し合 うためのより良い備えをすることができる。

レッスンの導入を行う

 該当する章についての導入を行うとき,またレッスン全体を通じて,御霊が参加 者の心と思いに触れることのできる雰囲気を作るように努める。レッスンを始め るために,参加者がその章で採り上げられている教えに注意を向けるように助け る。その方法として,以下を行うことができる。 • 章の冒頭にある「ジョージ・アルバート・スミスの生涯から」の項を読み,話 し合う。 • 章に掲載されている写真や絵,引用されている聖句について話し合う。 • 関連のある賛美歌を歌う。 • テーマに関する個人的な経験を簡単に紹介する。

スミス大管長の教えについての話し合いを進める

 本書から教えるときには,自分の考えを話し,質問をし,互いに教え合うように 人々に勧める。彼らが最もよく学ぶのは,積極的に参加するときである。これは また,彼らが個人の啓示を受けられるように助ける良い方法でもある。話し合い を促すために,章の最後にある質問を利用する。これらの質問には章の中の参 照箇所が記載されており,どの項の教えに関係したものであるかが示されてい

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序 例えば,スミス大管長の教えを,親としての責任またはホームティーチャーや訪問 教師としての責任において,どのように応用できるかを参加者に尋ねることがで きる。  ほかにも以下のような方法が考えられる。 • 参加者に,その章について個人学習で学んだことを紹介してもらう。1週間の うちに数人の参加者に連絡を取り,学んだことを紹介する準備をしておくよう に依頼するとよいであろう。 • 章の最後にある質問を幾つか選び,それを読むように参加者に割り当てる(個 人または小さなグループで行わせる)。質問に関連のある教えを章の中から 探すように言う。その後,自分の考えや理解したことをグループの人たちに話 すように勧める。 • 章の中から選んだスミス大管長の言葉を一緒に読む。参加者に,スミス大管 長が教えていることを示している例を,聖文や自分自身の経験から紹介しても らう。 • 参加者に,興味がある項を選んで黙読するように言う。同じ項を選んだ者同 士で 2 ,3 人のグループを作り,学んだことを話し合うように勧める。

話し合いを終える

 あなたがレッスンを簡単に要約するか,または一人か二人の参加者に要約して もらう。スミス大管長の教えから学んだことをほかの人と分かち合うように参加 者に勧める。話し合ってきた教えについて証あかしする。証を述べるようにほかの人に 勧めてもよい

本書で引用されている資料に関する情報

 本書に収められているスミス大管長の教えは,様々な出典から直接引用したも のである。これらの抜粋は,読みやすくするために編集上または印刷上必要な 場合を除いて,原文で使われている句読点,語のつづり,大文字の使用,段落分 けをそのまま使用している。このため,読者は本文に多少統一を欠く点があるこ とに気づくかもしれない。例えば, “gospel ” という語は大文字で始められてい る場合とそうでない場合とがある。

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 また,スミス大管長は度々,男性と女性の両方に対して “men”,“man”, “mankind ” などの用語を使用している。また男女両方を指す代名詞として頻繁

に “ he”,“ his” ,“ him” を使用している。これは当時の言葉遣いにおいて一般 的なことであった。当時の言語慣習と現在の用法には相違があるものの,スミス 大管長の教えは女性と男性の両方に当てはまるものである。

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経歴のまとめ

 以下の年表は,本書で紹介されているジョージ・アルバート・スミス大管長の 教えの歴史的な背景を簡単に紹介するものである。 1870年4月4日 ユタ州ソルトレーク・シティーで,ジョン・ヘンリ ー・スミスとサラ・ファー・スミスのもとに誕生 する。 1874-1875年 父のジョン・ヘンリー・スミスがイギリスで伝道 する。父が出発したとき,ジョージ・アルバートは 4歳であった。 1880年10月27日 ジョン・ヘンリー・スミスが使徒に聖任される。 1882-1885年 ジョン・ヘンリー・スミスがヨーロッパ伝道部会 長を務める。 1883年 ジョージ・アルバート・スミス,13歳のときに縫製 工場で働き始める。 1888年 鉄道会社で働き始める。仕事で目を痛め,生涯 にわたって後遺症が残ることになる。 1891年9-11月 ユタ州南部で若い男性相互発達協会の宣教師 として働く。 1892年5月25日 ルーシー・エミリー・ウッドラフとユタ州マンタイ 神殿で結婚する。 1892-1894年 結婚のわずか数週間後から,合衆国南部で伝 道する。4か月後にルーシーも召されてともに働 く。 1903年10月8日 ジョセフ・F・スミス大管長によって使徒に聖任 される。 1904年 自らが人生の指針とする11の理念を述べた「個 人の信条」を書く(本書1-2ページ参照)。 1909-1912年 深刻な健康問題に苦しむ。 1919-1921年 ヨーロッパ伝道部を管理する。 1921-1935年 中央若い男性相互発達協会会長を務める。

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経 歴 のまとめ

1922年 アメリカ独立戦争出征者全国協議会(National Society of the Sons of the American Revolu-tion)の副議長に選出される。1925年まで務めた 後,1944年から1946年にかけて再び同職を務め る。

1930年9月 教会の史跡について場所の特定および表示を 行うユタ開拓者トレイル・アンド・ランドマーク協 会(Utah Pioneer Trails and Landmarks As-sociation)の設立を助ける。同協会の初代会長 に選出される。

1933年7月27日 ユタ盲人支援協会(Society for the Aid of the Sightless in Utah)会長に就任する。 1934年5月31日 アメリカボーイスカウト連盟から授与される最高 の章であるシルバーバッファロー章を受章する。 1935-1936年 モルモン書の点字訳の出版を管理する。 1937年11月5日 ルーシーが長い闘病の後,68歳で死去する。 1938年1-7月 南太平洋にある教会の伝道部を訪問し,ハワイ, サモア,トンガ,タヒチ,ニュージーランド,オースト ラリアなどに立ち寄る。 1943年7月 十二使徒定員会会長に任命される。 1945年5月21日 末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長に任命さ れる。 1945年9月23日 アイダホ州アイダホフォールズ神殿を奉献する。 1945年11月2日 合衆国のハリー・S・トルーマン大統領と会見し, 第二次世界大戦後のヨーロッパに救援物資を送 る取り組みについて話し合う。 1946年5月 大管長として初めてメキシコの教会員を訪問す る。メキシコのマヌエル・カマーチョ大統領にモ ルモン書を贈る。 1947年7月24日 ディス・イズ・ザ・プレース記念碑を奉献し,開拓 者のソルトレーク盆地到着100周年を祝う。 1947年 教会員数が100万人に達する。 1949年9月30日-10月2日 テレビ中継された最初の総大会に出席する。 1951年4月4日 81歳の誕生日にユタ州ソルトレーク・シティーで 死去。

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ジョージ・アルバート・スミスの

生涯と教導の業

  管長の任にあったある日のこと,ジョージ・アルバート・スミスに 1 枚の写真 とメモが送られてきた。メモには「あなたのひととなりがよく表れているので,こ の写真をお送りします」と書かれていた。写真には,ある母親とその 4 人の幼い 子供に話しかけているスミス大管長の姿が写っていた。その日,スミス大管長は 汽車に乗ろうと急いでいるところを,子供たちに神の預言者と握手させてやりた いと思った母親に呼び止められたのだった。それを見ていた人がその場面を写 真に収めたのだ。  メモには続けてこう記されていた。「わたしたちが〔この写真〕を大事にしてい るのは,車を降りて汽車に乗り継ごうと急いでいた多忙なあなたが,時間を取って この家族の子供一人一人と握手してくださったからです。」1  このような思いやりに満ちた行いは,ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教 導の業をよく表している。信仰について悩んでいる隣人に愛と励ましを与えたり, 何千人もの人々に食物を与える大規模な福祉事業を組織したりと,ジョージ・アル バート・スミスは「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という救い主の 戒めに従って生きた人であった(マルコ 12:31)。

幼少期から青年期,1870 年-1890 年

ジョージ・アルバート・スミスは 1870 年 4 月 4 日,ジョ ン・ヘンリー・スミスと妻サラ・ファー・スミスの息子とし て,ソルトレーク・シティーのつましい家庭に生まれた。ス ミス家族は神の王国における奉仕という偉大な受け継ぎ を持っていた。ジョージ・アルバートの父親は後に十二使 徒定員会と大管長会に召されて奉 仕した人であった。 ジョージ・アルバートがその名を取って名付けられた祖父 のジョージ・A・スミスは預言者ジョセフ・スミスのいとこ 4 歳のころ

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 で,1847 年に末日聖徒の開拓者の第一陣としてソルトレーク盆地に到着した一人 であった。ジョージ・A・スミスもまた,十二使徒であり,ブリガム・ヤング大管長 の顧問であった。ジョージ・アルバートの曾祖父ジョン・スミスは,教会の祝福 師として,またソルトレーク・シティーにおける最初のステーク会長として奉仕して いる。母方の祖父ローリン・ファーは,ユタ州オグデン市の最初の市長であり,同 市で最初のステーク会長も務めた。 ジョージ・アルバート・スミスは両親を愛し,尊敬してい た。助けを必要としている人に手を差し伸べるよう教えて くれた父親に感謝し,2 福音の教えの中で子供たちを育て るために犠牲を払った母親を称賛した。彼は昔をこのよう に思い出している。「家族はとても貧しかったし,わたし が 5 歳のときに父が伝道に出ていましたが,母が不平を言 うのを聞いたことがありませんでしたし,置かれた境遇を 嘆いて涙を流す姿を一度も見たことがありません。だれよ りもやり繰り上手の母でした。……  ……父が伝道で家にいなかったとき,母は父の代わりをし,父の留守中に,ま さに家長の役割を担いました。わたしたちは家族の祈りに集まり,食べ物を祝福 し,だれかが病気のときには母が長老たちを呼びました。福音の儀式を信じる 強い信仰があったからです。いつも厳密に什じゅう分ぶんの一を納める人でした。そして, わたしの知るかぎり,『モルモニズム』が何かの間違いで,真実でないかもしれな いなどといった考えは一度も頭に浮かんだことがないと思います。母は心の底か ら信じていたのです。」3 ジョージ・アルバート・スミスは,特に母親から祈ること と,神がこたえてくださると信頼することを教えられたと次 のように回想している。「子供のころ母から受けた影響に ついて思うと,敬けい虔けんになり,涙が出てきます。……まるで昨 日のように覚えています。母がわたしの手を取り,階段を 昇って 2 階へ行きました。そこで母の前にひざまずき,母 の手を握りながら,祈るよう教えてもらいました。福音の 精神と祝福したいという願いを心に抱いている母親たちに 感謝します。母に祈りを教えてもらってから随分年月がた ちましたが,あのときの祈りを今そのまま繰り返すことができます。その祈りは, 自分には天の御父がいてくださるという確信をわたしに与え,御父が祈りを聞い てこたえてくださることを教えてくれました。わたしがもっと大きくなっても家族 は 2 階建ての木造住宅に住んでいたので,風が強い日はまるで吹き飛ばされてし ジョン・ヘンリー・スミス サラ・ファー・スミス

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 ジョン・ヘンリー・スミスとサラ・ファー・スミス夫妻の子供たち。 左はジョージ・アルバート・スミス。 まいそうに揺れました。時には怖くて眠れないほどでした。わたしのベッドは小 さな個室にあったので,そんな晩はよく,ベッドから抜け出してひざまずき,家が 粉々になってしまわないように守ってくださるよう天の御父にお願いしました。す ると,まるで御父の手を握っているかのように思われ,邪悪なものから守られると 確信してベッドに戻ったものでした。」4  少年時代を振り返り,ジョージ・アルバート・スミスはこう言っている。 「両親はとても質素な暮らしをしていましたが,わたしを彼らの家に送ってくだ さったことを造り主に心から感謝し,御み名なをほめたたえます。  ……わたしは子供のときに,この業が主の業であることを学びました。地上に 生ける預言者がいることを学びました。全能の主の霊感が,生活の中で喜んでそ の導きに従う人々に影響を与えることを学びました。  ……自分の生得権に感謝すると同時に,家庭でイエス・キリストの福音を教 え,模範を示してくれた両親に感謝します。」5  ジョージ・アルバートは明るく陽気な少年として知られていた。友人たちはそ の快活な人柄を好んだ。ハーモニカやバンジョー,ギターを弾き,滑こっ稽けいな歌を 歌って友人を楽しませた。しかし,年齢の割に驚くほど強い責任感をはぐくむ経

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 験もした。 12 歳のとき,ブリガム・ヤング・アカデミーに入学し,人生に計り知れ ない影響を与えた助言を受けた。後にこう述懐している。  「幸運だったのはカール・G・メーザー博士に指導を受けたことでした。教 会の立派な学校を創設した,傑出した教育者でした。……学校に在籍中,メー ザー博士から聞いた言葉の内容についてあまりよく覚えていないのですが,決し て忘れられないであろうことが一つあります。これまで何度も繰り返してきた言 葉です。……ある日,メーザー博士は立ち上がってこう言いました。  『あなたがたは自分が行ったことに対して責任を問われるだけでなく,思いにつ いても,責任を問われることになるでしょう。』  自分の思いを制御する習慣などあまりなかった少年時代のわたしには,どうし たらよいかまったく分からずに,悩みました。その言葉が頭から離れませんでし た。それから 1 週間か 10 日が過ぎたころ,突然メーザー博士の言葉の意味が分 かりました。その考え方を理解できたのです。博士の言葉をどう解釈したらよい か突然分かったのです。つまり,この世の生活を終えるとき,自分の思いに対し て責任を問われるのです。なぜなら人生は自分の思いを結集したものだからで す。この助言がわたしの生涯を通じて大きな祝福となってきました。おかげで, 不適切な考えを幾度となく遠ざけることができました。この世の働きを終えると きに向き合う自分とは,まさしく自分の考えが作り出したものであるということを 知っているからです。」6  1882 年,それまで 2 年間十二使徒定員会で奉仕していた父親がヨーロッパ伝 道部会長に召されたとき,少年ジョージ・アルバートは家庭で大きな責任を担う ことになった。ジョン・ヘンリーの不在に伴い,ジョージ・アルバートは家族を養 わなくてはならなくなったのである。 13 歳のとき,教会が所有するソルトレーク・ シティーの衣料工場とデパートで働く仕事に応募したが,マネージャーは人を雇う 余裕はないと断った。それに対して,ジョージ・アルバートは給料ではなく,仕事 をくれるようお願いしているのだと言い,こう付け加えた。「わたしにその価値が あれば,給料を払ってくださると知っていますから。」7 その積極性が認められ, 週給 2ドル 50 セントで工場で働く仕事に就いたが,その強い労働意欲で,すぐ に社内のいっそう良い職に昇格できたのだった。  18 歳になると,鉄道測量会社に就職した。この仕事をしている間,砂漠の砂 に照り返す太陽の光で目を傷めることになった。このため,ジョージ・アルバー トの目は回復不能な損傷を受け,生涯,字を読むのが困難で,不快感に悩まされ た。

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業

伝道と結婚,1891 -1894 年

 1891 年 9 月,ウィルフォード・ウッドラフ大管長はジョージ・アルバート・スミ スをユタ州南部へ短期間の伝道に召した。具体的には,その地域の青少年とと もに働くことであった。それから 4 か月間,同僚とステークやワードに青少年の 組織を作る手伝いをし,数々の集会で話し,教会の標準を守って生活するよう青 少年を励ました。  伝道から戻ると,ジョージ・アルバートは,幼いころから思いを寄せていたウィ ルフォード・ウッドラフ大管長の孫娘,ルーシー・ウッドラフと交際を続けた。近 所で育った二人だったが,ルーシーはジョージ・アルバートの性格に望ましい特 性が育ちつつあるのに気づいていた。彼に対する尊敬の気持ちを日記にこう記し ている。「今晩,神への感謝の思いを胸に床に就く。……そして,地上に送られ た最高の若者の一人であると,わたしが心から信じる人が寄せてくれる愛に対し て,もっとふさわしくなる強さを頂けるように祈る。彼の善良さと思いやりに涙が 流れる。」8  しかし,ルーシーに思いを寄せる人 は多く,中には非常に裕福で,高価な 贈り物をする人たちもいた。それに 引き換え,ジョージ・アルバートは主 への献身の深さでルーシーを引きつ けたのである。彼はルーシーへの手 紙でこう書いている。「もしあなたが お金のためにだれかと結婚したいな ら,あなたにふさわしい相手はわたし ではありません。なぜなら,わたしは ずっと以前から,自分と自分の人生を 金儲けではなく,主とこの世にいる主 の子らを助けるためにささげると決め ているからです。」9ルーシーは自ら選 択し,1892 年 5 月 25 日,二人はユタ 州マンタイ神殿で結婚した。ジョージ・アルバートの父親が式を執行した。その 日,ルーシーは自分の写真を入れた小さなロケットを夫に贈っている。彼はその ロケットを懐中時計の鎖に付け,心臓に近いところに下げて,亡くなるまでほぼ毎 日身に付けていた。10 ルーシー・エミリー・ウッドラフ・スミス

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業  1 か月足らずの新婚生活の後,ジョージ・アルバートは次の伝道に出発した。 今度はアメリカ合衆国南部で宣教活動に従事する伝道であった。結婚の 3 週前 に召しを受けていたため,彼の出発が差し迫っていることを知ってはいたが,二 人にとって別れは楽ではなかった。4か月後,スミス長老が伝道本部の書記とし て奉仕する割り当てを受けたのに伴い,ルーシーが伝道本部で夫と一緒に奉仕 するよう召されたとき,二人は大喜びしたのだった。  南部諸州伝道部の会長は七十人定員会会員を兼任していた J・ゴールデン・キ ンボールであった。スミス長老が書記を務めていた間に 2 度,キンボール会長は ソルトレークで重要な案件を処理するために伝道地を離れなければならなかっ た。最初はスミス長老が伝道部書記に召されてすぐ,そして 2 度目はそれから約 1 年後のことだった。どちらの場合も,伝道部の指導と管理の重責をスミス長 老に託したキンボール会長は,数々の手紙を通じて支援と助言を与えた。スミス 長老が伝道部会長代理を務めた期間は合計約 16 か月に上る。キンボール会長 はそれほど長期間伝道部を留守にすることを心配したが,若い書記を信頼してい た。スミス長老あての手紙にこう記している。「たとえ限りあるとは言え,わたし の識別力と知性により,あなたの誠実さとふさわしさの価値を認めることができ ます。ほんとうに認めています。」11 別な手紙にはこう書かれている。「わたしが あなたの働きと熱意と明朗さに感謝していることだけは常に忘れないでいてほし い。」12  キンボール会長にはスミス長老の熱意と明朗さを目にする機会が何度もあっ た。あるとき,二人で旅をしていて,招かれて小さな丸太作りの家に泊まることに なった。ジョージ・アルバート・スミスは後にこう回想している。  「真夜中ごろ,わたしたちは外から聞こえてくる恐ろしい叫び声と怒鳴り声で目 が覚めました。ベッドに起き上がったとき,耳に入った汚らわしい言葉から,自 分たちがどういう状況に置かれているのかを悟りました。夜空に輝く月の明かり で,大勢の人が外を取り囲んでいるのが見えました。キンボール会長は飛び起き ると,身支度を始めました。男たちは扉をたたき,モルモンは出て来い,撃ち殺し てやると口汚くののしっていました。キンボール会長はわたしに,起きて服を着な いのかと尋ねましたが,きっと主が守ってくださるから,ベッドを離れないとわた しは言いました。数秒後,大量の銃弾が部屋に撃ち込まれました。明らかに,暴 徒たちは 4 つの集団に分かれ,四方から銃弾を浴びせていました。わたしたちの 頭上を木の破片が部屋中に飛び交いました。そして,少しの間銃撃の音がやみ ました。それから再び銃撃が始まり,さらに多くの破片が飛び交いました。わた しはまったく恐怖を感じませんでした。人生で最も恐ろしい事件の一つを経験し

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 ているというのに,心穏やかに体を横たえていました。……主が守ってくださる と確信していました。そして,そのとおりになりました。  暴徒たちはあきらめて,去って行きました。翌朝,扉を開けてみると,そこには 南部で暴徒が宣教師を殴打したときに使ったと同じような,太いヒッコリーの枝 を束ねて作った大きなこん棒が残されていました。」13  それから何年もたってから,ジョージ・アルバート・スミスは孫たちにこのとき の経験を話し,主を信頼することの大切さを教えた。「しっかり覚えておきなさ い。危険にさらされたときに主は助けてくださる。ただし,主にその機会を差し 上げないといけないのだよ。」14 南部諸州伝道部の宣教師たち。新婚のルーシー(左から3人目)と ジョージ・アルバート・スミス(ルーシーの隣に座っている)は 伝道本部でともに奉仕した。

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業

家族生活

 1894 年 6 月,ジョージ・アルバートとルーシーは伝道から解任された。ソルト レーク・シティーに戻って数か月後,ルーシーは祖父ウィルフォード・ウッドラフ 大管長から祝福を受け,子供を授かると約束された。 1895 年 11 月 19 日,ルー シーは娘を出産してエミリーと名づけ,それから 4 年後には次女エディスが生ま れた。末っ子のジョージ・アルバート・ジュニアは 1905 年に生まれた。  ジョージ・アルバート・スミスは愛情深い父親で,子供たちに敬愛された。エ ディスは父親についてこう書き記している。「わたしにとって父は,娘に慕われる 父親としてのすべての資質を備えていました。父親に対するわたしの期待をすべ て満たしてくれたのです。」子供たちにとって特に印象深かったのが,愛する妻へ の接し方であった。「父が母に示した愛情と思いやりはすばらしいものでした」 とエディスは記している。「母へ感謝の気持ちを表す機会を逃すことは一度もあ りませんでした。二人は周到な計画とチームワークで,何でも一緒にしていまし た。母は父にとって大切な存在でした。……わたしたち子供はみんな,母をとて も愛していましたが,父の母に対する思いやりと優しさのおかげで,もっと母を愛 するようになったと確信しています。」15  ジョージ・アルバート・スミスは父親として,福音に従って生きることによって感 じた喜びを子供たちにも経験させたいと熱心に努力した。あるクリスマスの日, プレゼントを開け終わったとき,クリスマスプレゼントをもらえなかった子供たち に,おもちゃの一部をあげてはどうかと幼い娘たちに尋ねた。娘たちは,新しい おもちゃをもらったばかりなので,古いおもちゃを幾つか貧しい子供たちにあげ てもいいと言った。  「新しいおもちゃからも幾つかあげようとは思わないかい」とジョージ・アル バートは優しく提案した。  娘たちはためらったが,最終的に新しいおもちゃの中から一つか二つを返上 することに同意した。ジョージ・アルバートは娘たちを連れ,心当たりの子供た ちの家まで行き,一緒にプレゼントを届けた。それは大変心が高められる経験 だったため,帰りがけに娘の一人が興奮した声で言った。「これから帰って,残り のおもちゃを全部あの子たちに持って来てあげましょう。」16

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業

十二使徒定員会,1903 -1945 年

 1903 年 10 月 6 日火曜日,ジョージ・アルバート・スミスは職場で忙しい一日を 過ごし,総大会の部会に出席することができなかった。オフイスを出るころには 午後の部会が終わろうとしていたので,子供たちをステート・フェアに連れて行こ うと考えながら帰路に就いた。  家に着くと,大勢の人が彼の帰りを待っていたので驚いた。その一人の女性が 進み出て,心を込めた祝いの言葉を述べた。  「一体どういうことですか」と彼は尋ねた。  「知らないのですか」とその女性が答えた。  「何のことですか。」  「あなたは十二使徒定員会の会員に支持されたのですよ」とその人は大声で叫 んだ。  「そんなはずはありません。何かの間違いでしょう」とジョージ・アルバートは 言った。  「ちゃんとこの耳で聞きましたよ」と彼女は反論した。  ジョージ・アルバートは言った。「スミス違いでしょう。わたしはそんなことは 一 ひと 言 こと も聞いていません。ほんとうだとは信じられません。」  その訪問者は訳が分からず,ほんとうに間違いかどうか確かめようとタバナク ルへ戻って来た。そこで自分が正しいことを知らされた。ジョージ・アルバート・ スミスは十二使徒定員会の最も新しい会員となったのである。17  娘のエミリーが後に,その日のスミス宅の状況をこう回想している。「まるでタ バナクルにいた人がみんな芝生を横切って我が家に流れ込んで来たかのようで した。人々は泣きながら母にキスしていました。みんな父が使徒になったと言っ ていました。わたしたちは,使徒になるなんて最悪のことに違いないと思いまし た。」  知らせが真実であると確認されても,ジョージ・アルバートは約束どおり娘た ちをステート・フェアに連れて行く決意を変えなかった。エミリーの記憶によると 「父はフェアをほとんど見られなかったのですけど。フェアにいる間ずっと,壁を 背に人々と話し続けていましたから。」18

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業  2 日後の 1903 年 10 月 8 日,ジョージ・アルバート・スミスはソルトレーク神殿 の上階の部屋で,ジョセフ・F・スミス大管長によって使徒に聖任された。聖任 後,彼は出席した十二使徒定員会の会員に感想を述べるよう勧められ,こう言っ た。「年配の方々に比べ,わたしは弱く,判断力に欠ける人間ですが,わたしの心 はまっすぐで,主の業が進むよう誠心誠意願っています。……この業が神のもの であるという生きた証あかしがあります。福音が主御自身の指示と導きによって地上に もたらされ,今も昔も管理者として選ばれた人は確かに主の僕しもべであることを知っ ています。清くへりくだって生きることにより,御み霊たまの促しと勧告を受ける資格に あずかり,生涯を通じて導きを得られるよう願い,祈ります。」19  ジョージ・アルバート・スミスは十二使徒定員会でほぼ 42 年にわたって奉仕し た。そのうち 2 年間は定員会会長を務めている。この間,多くの責任を果たし, 様々な方法で世界中の人々を祝福した。 1921 年の十二使徒定員会。後列左からジョセフ・フィールディング・スミス,ジェームズ・E・ タルメージ,スティーブン・L・リチャーズ,リチャード・R・ライマン,メルビン・J・バラード, ジョン・A・ウイッツオー。前列左からラジャー・クローソン,リード・スムート,ジョージ・アル バート・スミス,ジョージ・F・リチャーズ,オルソン・F・ホィットニー,デビッド・O・マッケイ。 ジョージ・アルバート・スミス長老は点字版モルモン書の発行を監督した。

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福音を分かち合い,教会の味方を作る

 スミス長老には人を安心させ,敵を味方に変える天性があった。教会員でない ある地元の実業家が後に大管長の葬儀でこう語った。「親しみやすい人でした。 知り合いになりたいと思わせる人でした。彼の親しみのこもったほほえみ,心か らの握手,それに温かいあいさつの言葉は,相手と同はら胞からに対する偽りのない友情 を実感させてくれました。」20  教会がまだ世界であまり知られておらず,多くの人から疑いの目で見られていた 時期,この才能は貴重であった。あるとき,スミス長老はウェストバージニア州で 割り当てを果たしていると,市の役人がモルモン教徒の教えを布教している人を 見つけたら逮捕すると脅かしていることを耳にした。スミス長老はその政策を変 えてもらおうと,市の事務職員のイーグル氏を訪問した。長老は後に日記にこう 記している。「最初に訪ねたとき,イーグル氏は非常に厳しい態度でわたしたち に応対し,その市ではモルモンは容赦のない扱いを受けるだろうとそっけなく言 い渡した。……わたしは彼が誤ったことを吹き込まれていると思うので,座って じっくり話をしたいと言った。……二人でしばらくわたしたちが信じている教えに ついて話し合った。別れを告げるころには,彼の態度はかなり軟化し,わたしと 握手を交わして,名刺をくれた。偏見を少し取り除くことができたと確信してその 場を去ることができた。」21 それから 3 日後,スミス長老は再び彼を訪問し,モル モン書を 1 冊贈呈したのだった。22  スミス長老は常に教会について話す機会を探していた。割り当てを受けて旅 行するときはいつでも,だれかに渡したいと思って,モルモン書,教会の機関誌, その他の教会の出版物を携えて行った。モルモン書にはイエス・キリストを証す る強い力があることから,スミス長老はそれを理想的なクリスマス・プレゼントと 考え,ほかの教会の友人や面識のない著名人にまで郵送することがしばしばあっ た。23 そのようなクリスマ・スプレゼントに添えられた手紙の 1 通にはこう書かれ ていた。「あと数日でキリスト教徒が救い主の降誕を祝う日がやって来ます。そ の時期には友人のことを思う習慣があります。ですから,わたしからモルモン書 を受け取っていただけるものと思います。……あなたの書棚にこれを喜んで置い ていただけるものと信じ,クリスマス・プレゼントとして贈ります。」  それに対し,次のような返信が届いた。「この本を我が家の書棚に置き,偏見 なく〔最初から終わりまで〕読ませていただきます。深く考えながら読む人は,必 ずやその視野が広がり,寛容の精神を増し加えることができるでしょう。」24

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市民活動への参加

 スミス長老は教会員に,地域社会の問題にかかわって,世の中の状況を改善す るために影響力を行使するよう勧めた。中央幹部という多忙な召しにもかかわら ず,自身も幾つかの市民団体に参加していた。国際灌がい会議(International

Irrigation Congress)と乾地農法会議(Dry Farming Congress)の議長に 選出され,アメリカ独立戦争出征者全国協議会(National Society of the Sons

of the American Revolution)の副議長を 6 期務めた。中央幹部がより効率よ く旅行の割り当てを果たす一つの方法として,航空業を支援したスミス長老は, ウエスタン航空(Western Airlines)の取締役会に名を連ねていた。また,アメ リカボーイスカウト連盟(Boy Scouts of America)にも積極的に関与し,1934 年,スカウト活動の指導者に与えられる最高の章であるシルバーバッファロー章 (Silver Buffalo)を授与された。第一世界大戦後の数年間は,アルメニアおよび シリア救済事業のユタ州会長,そして戦争で家を失った人々に住まいを提供する ことを目的とした国際住宅会議(International Housing Convention)の州代 表も務めている。25  使徒に召されるまで,ジョージ・アルバートは政治活動に積極的に参加し,社 会の改善に役立つと感じた大義や候補者のために熱心に運動した。中央幹部に なってからは政治への関与は減ったが,自分の信じる大義については支持を続 けた。例えば,1923 年,結核患者のための療養所建設につながる法案をユタ州 議会に提出するのを支援した。26  スミス長老の人への思いやりは,1933 年から 1949 年まで会長を務めた Soci-ety for the Aid of the Sightless(盲人支援協会)の奉仕に特に顕著に現れてい る。自身も視力を損傷していたスミス長老は,目の見えない人々に特別の同情を 寄せていた。モルモン書の点字版の出版を監督し,目の見えない人々への点字教 育やその他の方法で障がいに適応できるよう助けるプログラムを始めた。その努 力により,奉仕を受けた人々から慕われるようになった。前述の協会の会員の一 人が感謝の気持ちを表した詩が,スミス長老の 70 歳の誕生日に贈られている。 人生の嵐あらしに打たれ つらい涙をこぼすとき 孤独の冬が心を冷やし 空虚なこだまが響くとき 希望を求めて振り返る

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 この足もとは不確かでも 思いやりある人がいて 友情の炎を燃やしてくれる 穏やかな知恵にあふれ 思いやり深く,親切な心 神と人を信じる信仰により ……目の不自由な者たちに信仰のようなものを教えてくれた その優しい,愛深い顔は わたしたちには見えないけれど わたしたちにも分かる その人の思いやり深い心 彼の心に平安を感じ 自らの平安を知るようになる その人の声に出さない祈りが聞こえ 自分は独りではないと知る 彼の信頼がわたしたちを強め 見えない道を歩ませる わたしたちの魂は高められる 神と歩む人により。27

病気とその他の試練

 ジョージ・アルバート・スミスは生涯を通して,あまり健康に恵まれなかった。 水泳,乗馬,その他の活動を楽しみはしたが,体は虚弱で,丈夫ではないことが 多かった。慢性的な目の問題以外にも,スミス長老は胃と腰の痛み,慢性疲労, 心臓の問題など,生涯を通じて多くの病気を抱えていた。責任の多さから来るス トレスと苦悩も体に負担をかけていたが,長老は初めのうち,健康上の理由で多 忙なペースを落とそうとはしなかった。その結果,1909 年から 1912 年まで,重 い病気で病床に就き,十二使徒定員会の責任を果たすことができなかった。そ れはスミス長老にとって非常に苦しい時期であった。何としても奉仕を続けたい

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 と望んでいたからである。 1911 年,父親が亡くなり,妻も重症のインフルエンザ にかかったことから,スミス長老の回復はさらに難しくなった。  それから何年もしてから,この時期の経験を次のように述べている。  「何年も前,わたしは深刻な病気を抱えていました。実際,妻以外の人はみん な,わたしの生存をあきらめていたと思います。……わたしの体は衰弱し切って ほとんど動けなくなってしまいました。ベッドで寝返りを打つだけでも,非常に時 間がかかり,疲れ果てるほどでした。  ……ある日,このような状況の下,わたしは意識を失い,死んで霊界に行ってし まったかと思いました。気がつくと,大きな美しい湖を背に,巨大な森に向かって 立っていました。周りにはだれもおらず,湖には船一つ浮かんでいませんし,どの ようにしてそこにたどり着いたのかを示す物は何も見えませんでした。そこで気 づいたのは,いや気づいたと思ったのは,自分は地上の業を終えて,ふるさとへ 戻ったのだということでした。…… ジョージ・アルバート・スミス長老は点字版モルモン書の発行を監督した。

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業  探索を始めると,すぐに森の中を通る道が見つかりました。その道はあまり通 る人もいないようで,草に覆われていました。その道をたどってしばらくすると, 森の中をかなりの距離を歩いたところで,わたしの方に向かって来る人が見えま した。かなり大柄な人だということが分かり,わたしはその人に向かって歩みを 速めました。なぜなら,それが祖父〔ジョージ・A・スミス〕だと気がついたから です。生きていたとき,祖父は体重が 136 キロ以上ありましたから,かなり体格 がよかったことが分かるでしょう。祖父がやって来るのを見て,どれほどうれし かったことでしょう。わたしは祖父の名をもらい,常にそれを誇りにしていたから です。 祖父はわたしから 1 メートルほど前に来ると立ち止まり ました。それはわたしにも立ち止まれという合図でした。 それから,非常に真剣にわたしを見詰めてこう言いました。 これは子供や若い人たちには決して忘れてほしくないこと です。  『わたしは,おまえがわたしの名前を受け継いで何をして きたのか知りたいのだ。』  すると,それまでわたしがしてきたことがすべて,走馬灯 のように目の前に現れては消えていきました。あっという間にそこに立っているそ の瞬間に至り,この鮮やかな回想は終わりました。自分の一生涯が目の前に映し 出されたのです。わたしはほほえんで祖父を見上げてこう言いました。  『わたしはあなたが恥ずかしく思うようなことは何もしませんでした。』  すると祖父は歩み寄ってわたしをしっかりと抱き締めました。ちょうどそのと き,わたしの意識が戻り,目を覚ましました。枕まくらはまるで水をかけられたように ぐっしょりぬれていました。祖父の質問に恥じることなく答えられたことへの感 謝の涙でぬれていたのです。  このときのことを何度となく考えてきました。あれ以来,自分の名前を以前にも 増して大切にするように努めてきたと述べたいと思います。ですから,少年少女, 若い男性,若い女性,そして教会内外の若者たちにこう言いたいと思います。両 親を敬いなさい。自分の名前を大切にしなさい。」28  やがてスミス長老は体力を回復し,この試練を克服することによって真理の証 に対する感謝の思いを新たにした。次の総大会では聖徒たちにこう述べている。 「わたしはここ数年,死の陰の谷を歩んできました。幕の向こう側にあまりに近づ きすぎて,天の御父の特別な祝福がなかったなら,きっとこちら側にとどまること ジョージ・A・スミス

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 ることは一瞬たりとありませんでした。死に近づけば近づくほど,この福音が真 実であるという確信が深まりました。命を長らえた今,福音が真実であると知っ ていると喜んで証します。そして,それを教えてくださった天の御父に心の底から 感謝します。」29  その後も,様々な病気や苦難がスミス長老を悩ました。恐らく,最大の試練 は,妻ルーシーが関節炎と神経痛を患った 1932 年から 1937 年にかけてだったと 思われる。彼女はひどい痛みに悩まされ,1937 年にはほぼ常時,介護を必要と するようになった。そして,1937 年 4 月,心臓発作を患い,かろうじて命を取り留 めたものの,体力はさらに弱まった。  常にルーシーのことを心配しながら,スミス長老は最善を尽くして務めを果た し続けた。 1937 年 11 月 5 日,友人の葬儀で弔辞を述べて腰を下ろしたスミス 長老に,すぐ帰宅するようにと書かれたメモが手渡された。後に日記にこのよう に記している。「すぐに集会所を出て家に向かったが,愛する妻はわたしの帰宅 を待たず息を引き取った。わたしが葬儀で弔辞を述べている間に亡くなったので ある。献身的な伴侶を失ってしまった。彼女のいない生活は寂しいものになるだ ろう。」  ルーシーが亡くなったとき,二人の結婚生活は 45 年と少しを数えていた。享 年 68 歳であった。妻を失った寂しさは大きかったが,スミス長老は二人の別離 は一時的なものにすぎないことを知っていたので,強められた。彼はこう書き記 している。「わたしたち家族は悲しみに暮れているが,忠実であり続ければ,妻 にまた会えると確信しているので,慰められている。献身的で,人の役に立ち,思 慮深い妻であり母親であった。 6 年間も,彼女は様々な苦しみに耐えてきたのだ から,きっと向こうで自分の母親やほかの家族と会い,喜んでいるだろう。…… 主は思いやり深い御方で,死にまつわるあらゆる悲しい思いを取り去ってくださっ た。そのことに深く感謝している。」30

ヨーロッパ伝道部会長時代

 1919 年,大管長に支持されたばかりのヒーバー・J・グラント大管長は,スミ ス長老をヨーロッパ伝道部会長に召した。出発を数日後に控えた総大会の説教 で,スミス長老は次のように述べている。   「兄弟姉妹の皆さんに申し上げます。わたしは少し前まで弱々しい状態でした が,中央幹部の兄弟たちがわたしに海外の伝道が可能だと感じるまでに,主が健

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 康を回復させてくださったことを名誉,いや名誉以上に非常に大きな祝福である 感じています。……  ……次の水曜日,わたしは汽車で東海岸に向かい,大西洋を渡って,伝道地に 赴きます。伝道に出る機会を神に感謝しています。この真理を知り,心から受け 入れることができたことを感謝します。」31  当時,ヨーロッパは第一次世界大戦から復旧半ばにあった。わずか数か月前 に終戦を迎えたばかりであった。戦争のため,ヨーロッパの宣教師の数は非常に 少なく,スミス長老の任務の一つはその数を増やすことにあった。しかし,戦後 のヨーロッパの切迫した経済状態のため,各国政府は宣教師に必要なビザの発 行を渋っていた。さらに悪いことに,末日聖徒に対する誤解や偏見がまだ多かっ た。教会のイメージの改善を目指し,スミス長老は数多くの政府の高官や著名人 と面会した。ヨーロッパをはじめ,世界各国における宣教師の目的を説明し,よく 次のように述べた。「皆さんが持っておられる良いものはすべて持ち続けてくだ さい。皆さんの生活を豊かにするために神から与えられたものをすべて持ち続け てください。そのうえで,皆さんの幸福感と充足感をさらに高めるようなものをお 伝えしたいと思います。」32スミス長老の下,伝道部で奉仕した宣教師の一人はこ う言っている。「長老はその優れた能力と優しさで,人々の敬意と友情を勝ち取 り,それまで宣教師に許されなかった譲歩を確保しました。」33  1921 年に伝道を終えるころには,スミス長老はヨーロッパで伝道する宣教師の 数を増やし,末日聖徒に関する幾つかの誤解を変えることに成功した。また,教 会の擁護者となる友人を作り,長年の間,文通による交流を続けた。

教会史跡の保存

 スミス長老は教会と教会史における偉大な出来事について話すのが大変好き だった。中央幹部としての任期中,記念碑の建設や,教会史上重要な場所への 標識の設置など,歴史の保存に大きく尽力した。知人の一人はこう書いている。 「長老は,若い世代に先祖の偉業に注目してもらうことで重要な奉仕をしていると 信じていました。」34  まだ若い十二使徒のころ,ニューヨーク州のパルマイラへ行き,教会の代理人 としてジョセフ・スミス・シニアの農場の購入について交渉した。またニューヨー ク滞在中,ジョセフ・スミスが金版を入手したクモラの丘の所有者プリニー・セク ストンとも会っている。セクストン氏は土地を教会に譲渡することに同意しなかっ たが,スミス長老と懇意になった。スミス長老がセクストン氏と良好な関係を維

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業

持していたこともあり,教会は最終的にその土地を手に入れ,そこに記念碑を建 て,奉献することができたのである。

 1930 年,教会の創立 100 周年に当たり,スミス長老はユタ開拓者史跡協会 (Utah Pioneer Trails and Landmarks Association)の設立に尽力し,初代会 長に選任された。それから 20 年間,協会は 100 以上の記念碑と標識を設置し たが,その多くはソルトレーク盆地へ至る開拓者の旅を記念するものであった。 スミス長老はこれらの記念碑のほとんどで奉献式を執行している。35  長老は次のように書き記し,なぜ教会が史跡に関心を持つのか説明している。 「個人についてはその思い出を忘れることのないように記念碑を建てる慣習があ る。同様に偉大な出来事も記念碑を建てることによって恒久的に人々の記憶に 残される。……多くの重要な地点が忘れられている現状をかんがみて,重要な 出来事について後に続く人の注意を喚起するために,実体的な形で残すことが望 ましいと感じるようになった。」36 天使モロナイがジョセフ・スミスに金版を渡したクモラの丘の記念碑。

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業  ユタまでの道のりを開拓者たちと一緒に歩いた祖父を持つスミス長老は,信仰 のために多くを犠牲にした初期の教会員に深い敬意を感じていた。扶助協会へ の説教の中で,手車隊の開拓者の歩いた道をたどっていたときに経験したことを 次のように述べている。  「わたしたちはマーティン手車隊の多くの命が失われた所に差しかかりました。 彼らが野営したと思われる場所を見つけました。手車隊員の子孫たちは,そこ に標識を建てる手伝いをするために参加していました。それから,わたしたちは ロック・クリークに到着しました。そこは 1 年前にわたしたちが臨時の標識を建 てた場所でした。その時期は,美しい野草が至る所に咲き誇り,野生のアヤメも たくさん生えていました。わたしたちは花を摘み,前の年に積み上げた石塚の上 にそっと手向けました。……そこには 15 人の教会員が一つの墓に葬られていま した。飢えと寒さのために亡くなった人たちです。  御存じのように,ほかよりも天の御父をいっそう近く感じられる時と場所という ものがあります。夏の暑さと冬の寒さの中,大平原を横断した開拓者の子孫であ るわたしたちは,ウィリー手車隊が災難に遭ったロック・クリークの小さな渓谷で キャンプファイヤーを囲み,先祖の経験を語り合いました。……楽しいひととき でした。わたしたちのために,歴史が繰り返されていたのです。  ……わたしたちが福音の祝福を得られるようにすべてを犠牲にした人々が実 際そこにいるように感じられました。また,主がおられるかのように思えました。  ……わたしたちは涙を流しました。その小さな集まりに感動し,30 人か 40 人 の中で涙を流さなかった人はいなかったと思います。その場を立ち去るとき,一 人の善良な姉妹がわたしの腕を取り,言いました。「スミス兄弟,これからもっと 善い女性になれるように努力します。」その女性は……最高の女性の一人だと思 われるのですが,わたしたちの大部分が感じたように,幾つかの点で自分が達す べき理想の域に達していないと心に感じたのではないでしょうか。そこに葬られ た人たちは,単に人生の何日かを犠牲にしたのではありません。この業の神性を 信じる信仰の証として,命そのものを犠牲にしたのです。……  この組織〔扶助協会〕の会員が,大平原に葬られた,主を信じる信仰をもって 問題に立ち向かった人々と同じくらい忠実であれば,これまでの多くの業績をさら に増し加え,自身と家族のうえに愛ある御父から豊かな恵みを受けるでしょう。」37

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業

大管長,1945 年-1951 年

 1945 年 5 月 15 日の早朝,アメリカ東部を列車で移動中,スミス長老は伝言を 届けに来た鉄道職員に起こされて目を覚ました。当時大管長だったヒーバー・J・ グラント大管長が亡くなったのだ。スミス長老はできるだけ早く着けるよう列車 を乗り継ぎ,ソルトレーク・シティーへ戻った。それからわずか数日後,十二使徒 定員会の先任会員のジョージ・アルバート・スミスは末日聖徒イエス・キリスト教 会の第 8 代大管長に任命された。  大管長となって最初の総大会で,自分を支持したばかりの聖徒たちに向かって 次のように述べている。「ここにいる皆さんの中で,わたしと同じくらい,自分の ことを弱く,取るに足りない者と感じている人はいるでしょうか。」38 家族に対して も同じような心情を述べている。「この職を望んではいなかったし,自分にそれだ けの力量があるとも思えなかった。でも,召された今となっては,全力を尽くして その務めを果たすつもりだ。みんなに知っておいてほしいことがある。教会の責 任が何であろうと,ホームティーチャーでもステーク会長でも,全力を尽くして果 たしていれば,その責任はわたしの職と同じように重要なのだ。」39  スミス大管長の才能がこの召しに大変適していると感じた人は大勢いた。あ る中央幹部はスミス大管長が支持されて間もなく,彼に対する信頼の言葉を次の ように述べている。「主はある特別な使命を果たすために特別な人を召すとよく 言われます。わたしはジョージ・アルバート・スミス大管長にどんな特別な使命 があるか述べる立場にはありません。しかし,世界の歴史の中で特にこの時代ほ ど,兄弟愛が今ほど切実に必要とされている時代はほかにありませんでした。そ して,わたしの知人の中で,ジョージ・アルバート・スミス大管長ほど人類を全体 的にも個別にも,深く愛している人はいません。わたしはこのことを確かに知って います。」40

第二次世界大戦後の貧しい人々への援助

 ジョージ・アルバート・スミスが大管長に就任してわずか数か月後に第二次世 界大戦は終結した。ヨーロッパには戦争で家を失い,貧窮した人々が大勢いた。 スミス大管長は速やかに教会の福祉プログラムを稼動させ,救援物資を送った。 この取り組みについて,ゴードン・B・ヒンクレー大管長は後に次のように語って いる。「わたしもそのとき, 毎晩のようにこのソルトレーク・シティーのウェルフェ

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 アスクウェアへ来て,積み出し作業に携わりました。食糧は貨車に積み込まれて 港まで輸送され, さらにそこから海上を船で運ばれました。〔1955 年の〕 スイス 神殿の奉献式のときには, ドイツからたくさんの聖徒がやって来て,頬ほおを涙でぬ らしながら, あの食糧のおかげで生き延びることができたと感謝しながら語って いたのを思い出します。」41  そのような悲惨な戦争の直後,世界の人々の中に霊的な必要が高まっているこ ともスミス大管長は知っていた。その必要にこたえるため,大管長は戦争によっ て伝道活動が中断していた国々における伝道部の再組織に着手した。また,聖 徒たちに自分の生活の中で平安の福音に従って生活するよう勧告した。大管長 は戦後間もなく,このように述べている。「現時点で感謝を表す最も良い方法は, この悲しみに満ちた世に幸せをもたらすために最善を尽くすことです。なぜなら ば,わたしたちは皆,御父の子供であり,自分が生きてきたことによってこの世界 がより幸福な場所となるようにする義務を負っているからです。 スミス大管長と顧問のJ・ルーベン・クラーク・ジュニア(左)と デビッド・O・マッケイ(右)

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業  ……困っている人々を心に留め,必要としているすべての人に優しさと思いやり の手を差し伸べましょう。平和を喜ぶときに,その平和の代償として,愛する人を 失った戦没者の遺族のことを忘れないようにしましょう。……  人々が心を神に向け,神に従順になり,それによって世がさらなる紛争や破壊 から救われるように祈ります。死者を悼むすべての人の心と家庭に,天の御父だ けがお与えになれる平安があるように祈ります。」42

福音を分かち合う機会の増加

 スミス大管長は機会があるごとに福音を紹介していたが,新たな召しによって その機会はさらに増えた。 1946 年 5 月,メキシコの聖徒たちを訪問した。教 会の大管長がメキシコを訪問するのはこれが初めてであった。スミス大管長は 教会員と会い,大きな大会で説教しただけでなく,メキシコ政府の数人の高官を 表敬訪問し,回復された福音について語った。メキシコのマヌエル・カマーチョ 大統領を訪問したとき,スミス大管長一行は次のように説明した。「わたしたち は閣下と国民のために特別なメッセージを携えて来ました。皆さんの祖先とイエ ス・キリストの回復された福音についてお話しするためです。……わたしたちに は……キリスト降誕の 600 年前,家族を連れてエルサレムを離れた偉大な預言 者が,『約束の地,……ほかのあらゆる地に勝ったえり抜きの地』として知られた この大いなるアメリカの地にやって来たことを記した書物があります。このモルモ ン書にはイエス・キリストがこの大陸を訪れ,御自身の教会を設立して十二使徒を お選びになったことも記されています。」  カマーチョ大統領は,自国に住む末日聖徒に対して敬意と称賛を表明し,モル モン書について大いに興味をそそられて尋ねた。「モルモン書を手に入れること ができるでしょうか。これまで耳にしたことがありませんでした。」そこで,スミス 大管長は皮表紙のスペイン語のモルモン書を大統領に進呈した。そのモルモン 書には特に興味深い聖句のリストが添えられていた。カマーチョ大統領は,「全 部を読み通します。わたしにも,国民にも,大いに興味深いものですから」と言っ た。43

開拓者の到着100周年を祝う

 ジョージ・アルバート・スミスの 6 年に及ぶ大管長任期中で最大の出来事の 一つは,1947 年,教会が開拓者のソルトレーク盆地到着 100 周年を祝ったこと

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ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業 だった。スミス大管長が監督の任に当たった一連の祝賀行事は全国から注目を 集めた。その行事が最高潮に達したのは,ディス・イズ・ザ・プレース(訳注 ― 「まさにこの地である」の意)記念碑の奉献であった。ソルトレーク・シティーの 中で,開拓者が初めて盆地に足を踏み入れた場所に近い所に建てられたもので ある。 1930 年以来,スミス大管長は開拓者の偉業と信仰をたたえる記念碑を建 てる計画にかかわっていた。しかし,大管長はその記念碑が,それ以前の探検者 やほかの教会の宣教師,そして当時のアメリカインディアンの重要な指導者をも 記念するものとなるよう,心を砕いたのだった。  ディス・イズ・ザ・プレース記念碑の奉献に当たり,当時東部諸州伝道部の会 長だったジョージ・Q・モリスは,善意の精神が強く感じられたのはスミス大管 長の努力によるところが大きいと次のように述べている。「兄弟愛と寛容の精神 が広まったのはスミス大管長の貢献によるものであり,それが奉献式にもよく表 れていた。……記念碑そのものはでき得るかぎり個人の肖像の彫刻で表現しな がら,人種や宗教の別なく,モルモンの開拓者に先立って西部山岳地帯で歴史的 ディス・イズ・ザ・プレース記念碑。開拓者のソルトレーク盆地到着を 記念するこの碑は1947年,スミス大管長により奉献された。

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