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旧 約 聖 書 に お け る 「 創 造 」 観

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(1)89. 旧約聖書における﹁創造﹂観. □. 植. 田. 重. 雄. 奮約聖書においてもつとも目立つ特色はヘブライ人の創遇の観念である︒創世配の圏頭に﹁はじめに疎は天と地を. 創つた﹂とあるように︑世界はそのま㌧存在しているのでも︑それ自馳で存在しているのでもなくて︑榊の被遭物で. あるという僧仰をもつている︒このような世界創遣の考え方は宗致奥上ずつと後に蟹建した観念で︑奮約聖書の啓示. の副衣的原理であると読く研究家もいる︒宗教史的な観鮎からみるならぱあるいはさうであつたかもしれない︒しか. し奮約盟書に芽生えた講観念の申で創鑓観念ほど口かな内容を含むものはない︒特に哲鼻的倫理的な反省が加えちれ. るにLたがって一暦璽要な意味をもつに至つたことは疑う蝕地はない︒奮約榊鼻におけるイスラエルの思想家は疎の. 活動︑行爲︑とりわけ榊の創造行爲に紳の本質の極致を見略Lているからである︒酋くは疎の創撞について三つの形. で異る表現を行つてきた︒一︑ヤーハウエは天と地を創り︑人間を陶器のようにつくつて︑鼻に活ける簸を吹いた︒. これは古い時代の肺話の残津と考えられる︒二︑榊は天と地を創つた︵創一四ノ.一九︑二二︶︑その他イスラェル民. 族を創つた︵出エ︑一五ノニハ︑申命︑三ニノ六︶︑叉は榊の件侶︵詩七四ノニ︶パレスチナの山︵詩七八ノ五四︶. 智恵︵麓八ノニニ︶など創造の用法がある︒夫地は創造Lた疎の所有物である︒︵蒔一〇四ノニ四︶これらの個所では o o. いれづも創造が個々物に限定されている︒三︑﹁はじめに︵迂畠︷§︶脚は天と地とを創適された︵ぎ§︶︒地は形たく︑.. 6ア3.

(2) 90. むなしく︑やみが瀦のおもてにあり︑肺の鍾が水のおもてをおおつていた︒⁝⁝こうLて天と地と︑その高狡が完威. した︒⁝⁝榊はその第七目を硯繭して︑これを聖別された︒榊がこの目に︑そのすべての創艦のわざを絡つて休まれ. たからである︒これが天地創艦の由來であるL︵創一ノ一−ニノ四︶︒この個所は榊學的な思索によつて語られている. 創造活動であつて︑擬人的た榊の季による創造の表現はたい︒疎が﹁生ぜよ﹂というと﹁さうたる﹂︒それぞれの被. 蓬物の創遣に際し︑他の謙民族の宗教のように榊の﹁冒葉﹂が紳からはなれて獺立に肺的な意味を構びていない︒あ■. くまでも榊の箆接の謂りかけ︑命令の形で表現されている︒天盟︑大地︑海と陸︑植物︑励物︑人間というように順. を追つて創造される︒しかもさきに創られたものは︑後に創られる存在に必要なものとして創られてゆく︒すべては. 善であり美なものとして︵︸き︶創られたとのべている︒さらに太陽︑月︑星辰は榊の創艦の徴であり︑安息目︑ぞの. 他の祭儀は榊にたいする人間の奉仕の秩序攻第をしめす︒創造は謎のような測りがたい現象では汰く︑紳自身理性に. もとづいて創つたものであり︑明確な目的をもつことを明らかに宜青していると考える︒この創世誕の記逃は習約聖 繋においてもっとも合理的た内容をもっている個所である︒. 4 α. さらに重要な鮎は︑榊が存在するすべてのものに比ぺ勝れた存在であり︑創造が自撚によらず︑人間の力によらず︑. た父全能の榊によつてなされたということにある︒すなわち榊の超越性が厳爾に宣言さルている︒. もろもろの天は疎の榮光をあらわし︑. 大塞はみ手のわざをしめす・ この日は青葉をかの日につたえ︑. この夜は知識をかの夜につげる︒ 謡すことなく︑語ることなく︑.

(3) 91. その誰〃も聞・んないのに︑. その響きは全地にあ吏ねく︑ その言葉は世界のはてにまで及ぶ︒︵詩一九︶. 字宙が榊の榮光の徴であるという讃美は詩篇八その他奮約文戯のいたるところに散見する︒疎の創造のわざは敬虜な. 人々の驚異︵s膏ミ︐oき︶と観雌︵ §§︑s§︶であり︑創遣告知の始めであり絡りである︒. 家に重要な鱗はイスラェル民族に啓示︑葎法がたえず示されていることである︒創造は疎の啓示の最大のもの︑意. 識的に明確に示された目的である︒樂園の物語︑堕落の読語が創世記ニノ四−五ノ一にわたつて鍛述されているけれ. ども︑これは決して創遣観念を撞否するものではないし︑決して信仰の閏稜鮎ではない︒字宙︑人間が榊によって創. 撞されたという信仰は普逓的であり︑明確な冒的をもっ︒榊はモーセに﹁あなたがたの榊︑圭なるわたしは︑聖であ. るから︑あなたがた屯聖でたけれぱたらない﹂︵レピ一九ノニ︶とのべている︒これは創世記の榊の創撞活動を無爾し. ては考えられない︒榊のこのような活動は人間のすべての行爲の規範と考えられている︒無論祭司葎法には聖なる榊. に仕える民の潔めの祭骸を強調しているいれども︑同時に倫理的な潔らかさをも要求してをる︒特にこれが榊の創遣. と緒びついているという鱗が重要である︒アダムからノア︑アプラハム︑毛ーセに至る榊の契約と啓示は聖なる民が. 聖なる園土に赴いて聖なる榊のもとに一つになることである︒世界はそれ自鯉で成立つているのでは汰く︑歴史の ︑. ︑. ︑. 始源の閣始室不す榊の創撞活動より始まると考える︒冒葉をかえれば魔史の始源が肺の活動を示す字宙の創遣にまで. 遡って考えられる︒さらに逆に人間の旛史に榊の意志が示されていると考えることである︒それゆえ創造を奮約聖書. が語るときには︑決して自然科事的な成り立ちを語っているのではなく︑あくまで人間の歴史にっいての皆知であ. る︒さきにあげた創世記一ノ一−ニノ四の曽句は誠明ではなく︑音鋼であか︒たとえぱ紳が六周にして徴界を創撞. 675.

(4) 92. し︑七圓賢に休んだといテことを︑紳的に考えられる一目は人間の一目と臭るというへ−レ一ズムのフィサーンの梯○. 解縄もあるが︑人間が週圓を勢働目とし︑七圓買を安恩目︵§§︶とする祭敬祭儀にもとづく生清規篤である︒疎. 研. ■6. の創適のわざに徴つて人間の生清が規定される︒讐夜は麺に︑週は月に︑月は年に︑年はさらに安忠年をもつ七十週. 年︑七百週年となる︒この麟にっいてトiレーフ・ボーマソの﹁ヘプライ人とギリシャ人の恩惟﹂︵爵ωぽ昌■筥驚宥. b芽①目︷昌<①渇−9夢嘗津o①屋宵︸8巨8げ實︶の﹁イスラエル人の時間把握﹂の章で繍密な研究を行っているよう. に︑リズムとして把握さるぺきものである︒. 奮約聖書にあらわれている創適は自然科阜的な説明ではないから︑人間の想僚もできないような時間︑何時字宙が. 生じたかという超源を間題にするのではなく︑世界に生ずる現禦の脳超がいかに榊的内容に充されているかを聞題と. する︒歴史の始源を榊の創造清動の緒果にまで溺らせているのは右にのぺたような鰯麟から考えられる︒したがつて奮. 約榊學の創造皆鋼は絡末諭をともなう︒疎の意志の啓示は同時にその賃現を貿ざすからである︒創遣圭ヤーハウユは. あらゆる時間︑あらゆる魔史を統ぺ︑形成し︑目的を示し︑充實させる超越的存在者である︒第ニイザヤは萬箏の圭. ヤーハウェが﹁わたしは初めであり︑わたしは絡りである︒わたしのほかに脚はない﹂と宜冒していることは︑この ような榊の性格の獺自性にほかならない︒. 重た未來にも持絞するものであるという解縄がある︒これは聖書の到る虜にあらわれている世界保持の観念が創遣. た﹂︵創一ノ一︶の個所はユダヤ教榊學において榊はた父一度この世界の創遣を了えたのみならず︑この清動は現在も. 榊は世界の創蓬者であるとともに︑同時に椎界の保持者である︒さきにあげた﹁はじめに榊は天と地とを創遣され. 二.

(5) 93. と表裏一鯉をなしていることを示している︒疎は自身創った夏・参︵イスラェルではこの二季が季節を示す︶によっ. て世界に秩序を與え︵詩七四ノ一七︶︑蟄夜の秩序をさだめる︵同︑七四ノニハ︶︒疎は太陽に豊を司らせ︑夜を月と. 星に司らせる︒︵詩二三ハノ八︑九︶奮約宗教においては古代東方の宗致のように自然の講力の崇群や白然の榊格化は. 見られない︒ヤーハウェはすぺての存在を自己の意闘のもとに榊に奉仕させようとする︒イスラエルを愛し︑覗禰. し︑約束の地カナーンに佳わせ︑地の産物︑穀物︑酒︑油︑牛の子︑羊の子の藪を糟す輔であり︵申︑七ノニニ︶︑病. いを蟹すもの︵出工一五ノニ六︶であり︑生かし︑あるいは減す紳である︵サム一︑ニノ六︒︶このような仕方で疎は すべての存在を保持する︒. ルートゥイッヒ・ヶーラーによれぱ︑﹁駕約聖欝の啓示にとつて椎界の保持者としての紳を表わす固有の慨念は時間. である︒もし榊はいかにして世界﹂を保持しているかと奪ねるならぱ︑近代人は自然の法則によつてと答え︑ギ︺シャ. ︵r丙α巨①O↓ぼ. 人はコス毛ス︵丙oω目易︶によつてと答えるであろう︒︿コスモスの概念は室間表象をともなつている︑これはヘプ. ライ人と封照的であるVこれに反して蕾約聖書は時間によつてと答えるであろうLと絃べている︒. o−品寄宗ω>冒竃↓霧冨冒竃↓ωωヨ︶紳はその戒めを守るたらぱ﹁季節季飾︵時間︶に︑雨を興えるであろう︒地は. 産物を出し︑畑の木々は實を縞ぷであろう﹂︵レビニ六ノ四︶︑﹁わたしはあなた︵榊︶の下僕です︒わた﹂に智恵を與え. て︑あたたのあかしを知らせて下さい︒彼らはあなたのおきてを破りました︒今は圭が活動をなされる時です︒L︵詩. 一一九ノニ一六︶﹁わたしの時はあなたのみ手にあります︒わたしをわたしの敵の手と︑わたしを貰め立てる者から. 救い閏してください︒﹂︵詩ごニノニハ︶とあるように榊は時間の圭である︒榊がイスラェルの民を紅海においてヱジ. プトのフ7ラオの軍の遺撃から救つたいわゆる紅海の寄跡も︑普逓云われ1るようた自燃の法則を破る贈來事が突燃榊. の力によって惹き趨されたのではなく︑最も適醤な時に︑その事柄にふさわしい事態が生ずることである︒毛ーセに. 677.

(6) 94. 678. 導かれたイスラエルの民が紅海をわたり絡つたときに︑潮が浦ちてヱジプトの追讐の軍リを溺死させた︒イスラエル. のこの古い偉承はこのような事態の申で榊の超自然的な力を看取したのである︒それゆえ榊の救い︵エレ︑八■一五︶. とは救いの到る時であり︑絡りの審き︵ヘゼ︑二一ノ三〇︶は最後の時に到來する榊の審きを意昧する︒現象の威就を. イスラエル人は時間の謡で表わす︒全批界の存在は榊の保持する時間の申にあり︑その時間の秩序の申に見通され︑. 規定されている︒以上のべた時間は勿論榊學的な時間であり︑自然の時閻でないことはいうまでもたい︒イスラエ〃. の察致においてこのような時間によつて保持され持絞される椎界は︑實は世界11時間と云い直してもよいものであ る︒榊は創造の主であるとともに︑世界の保持者︑時間の保持者である︒. 奮約の思想がたんたる楴秘教や多榊教にならなかつたのは宗致を歴史として把握したからではないかとおもわれる︒. 宗教ではなく︑腿史に啓示された宗致といわなけれぱたらたい︒歴史の申で人間は不可概的な存在︑超越者を鯉駒する︒. を示す宗致思想家が榊の啓示に出あうのは構史の申である︒イスラエルの宗教を厳聯に表わすとすれぱ︑たんに啓示の. 方世界の閉來事︑人類の共同枕會︑人間生清の申において︑一腰明確に榊は白己を啓示した︒イスラエルの最商の繍榊. た方が納得できる︒さきに敷ぺたように榊の被創適物である自然は猜白た方法で榊を日夜讃えているのであるが︑他. どの一つをとりあげても鯉系的た内容をもつていない︒奮約聖書はむしろ魔史を韮な鈎銀とLても取扱つているとみ. にふさわLくたい程度である︒それゆえ奮約聖警をいわゆる一般に考えられる啓示宗教とみてはならたい︒これらの. 青書︑エレミヤの哀歌︑詩篇︑蔵言の大都分も廉奥を錫築としている︒雅歌︑傳道書︑ヨブ記位がわづかに魔史書の名網. 奮約塑書の申から魔史文蹴を取除けば︑残りの文激はきわめて僅かたものとなる︒毛ーセ五警はいうに及ばず︑預. 三.

(7) 95. ヨシ4ブがイスラェルの支族をシケムに集めブブラハムから老ーセ︑老ーセからヨシ一ブの時に室るまで梯.がいか. にしてイスラェルを導いたかについて語り︑彼らが異敢の榊々をえらぷか︑ヤーハウェをえらぶかをせまり︑これに. たいLて民は圭に仕えることを誓う︒榊と民の契約は成り︑葎法の書にしるし︑石をたて護しとなした︵ヨシ︑二四. ノ一−二八︶︒この事柄は民に誓ひを立てる歴史的行爲である︒歴史は目標をめざす行爲である︒さらにイスラェルの. 榊観は世界の騒衷が肺の意圃にあると考える︒榊は魔史の経過の申に契約を示す︒榊は講民族の歴史が自らの意志を. 饅現L︑目的の質現に向わせる︒契約の履行不雁行は審判されみ︒世界を時間と考えるイスラヱル人にとつて魔奥は. 當然械から南來し︑榊へと向つている︒奮約の榊は騰史の榊︑魔史は榊の活動であり︑意志である︒さきにも少しふ. れたように魔奥の始源を創造の始源に湖らせてこれを榊の活動の本質と見微し︑天地の由來を知ることは歴史意識が. 字宙にまでひろがつていることを意味する︒創遣と魔史は本質的には同一の観念である︒ゆえに榊は自己を現實の魔. 奥の申に啓示するという考え方からみれば︑創遣はきわめて自然な蠕緒であるといえよう︒. 預言者は榊の意志の皆知者である︒それゆえ榊が過去において行つた魔史︑現在の歴史の出來專についての審制︑. 未來の簾史の目的について語る︒超越的な存在が︑そのま㌧世界や人間をはなれて存在しているのではなく︑もっと. も現賀的な歴史のた父申に︑人間の出來事人間の内面に内在してくる光景は預膏書の到るところに見出すことができ る︒預言者の宗教的情熱︑が超越者と人間の間の深いみぞを橋わたしする︒. 預言者の観駒は榊の意志の髄験であり︑榊が腿史の圭であることを把握した鮎に重婁性がある︒ヤーハゥェの日. ︵ぎら§ミ㌻§ぎ︶とは過ぎ去つた出來事︑來るぺき未來を一つの意味に統一する総播概念である︵アモ︑五ノ一八︶︒ヤ. ーハウェの日には箪き者は飢えて死に︑商ぷる者の目は低くされる︵五ノニニー一五︶︒﹁しか﹂萬軍の圭は公卒によ. つてあがめられ︑聖たる榊は正義によつておのれを聖なる者として示される﹂︵同五ノニハ︶それゆえ預膏者はイスラ. 679.

(8) 96. ユルの民に讐音する︒. ポ. 68. ﹁彼らは圭のみわざを頼みず︑み字の潅される事に頁をとめない﹂︵岡五ノニ一︶ことを讐音す. る︒榊は世界のうえに自己が欲する事を必ず實現し︑欲しなけれぱ︑.その事は決して超さない︵同七ノ七八ノ一〇︶︒. 卿似世界の閑來事に種々さまざまた方法で配慮する︒機む者︑虜げられたる者を救い︑不正と不義︑誇り高ぷる者を. 罰する︒榊の配慮は遠い未來に及び︑また目前の間題にゆきわたる︒圭の目︑ヤーハウェの圓は榊の正義と救いの成. 就するときである︒これが魔奥の員標である︒第ニイザヤは蟹約聖番の申で特に預言醤の申でも間題の多い文繊であ. るが︑この預青者によつて把握された魔奥意識は再び疎の薪しい創撞の待窒を幻の申に見る︒. 見よ︑わたしは薪しい天と︑薪しい地とを創進する︒ さきの婁はおぽえられることなく︑ 心に思い超すことはない︒. しかし︑あなたがたはわたしの創造するものにより︑. とこしえに築しみ︑喜びを得よ︒. 見よ︑わたしはエルサレムを造つて喜びとし︑ その民を築しみとする︒. わたしはエルサレムを喜び︑わが民を築しむ︒ 泣く蟹と叫ぷ襲は再ぴその申に聞えることはない︒︵イザ六五ノ一七−一九︶. これらの皆釦は奮約の廉史観を最高度に高めたものといわなけれぱならたい︒■更に他の例をあげるならば︑ヨルグ. ンの彼方︑アラバの荒野でモーセはイスラエルの人々に衣のように謡つている︒﹁彼ら︵アそリ人︶をこわがつてはな. らない︒また恐れてはならない︒先に立つて行かれるあなたがたの榊︑主はユジプトにおいて︑あなたがたの目の前.

(9) 97. で︑すべてのことを行われたように︑あなたがたのために戦われるであろう︒あなたがたはまた策野で︑あなたの紳︑. 圭が︑人のその子を抱くように︑あなたを抱かれるのを見た︒あなたがたが︑この研に來るまで︑その道すがら︑い. つもそう■であつた﹂︵申一ノニ九bl三一︶イスラエルをエジプトの極精から救い︑約東の地カナーンに導く疎は︑第. ニィザヤにおいては薪しい天地の創遭となっている︒イスラェルの民の行爲臥申に︑榊の意志がたえず働きかけてい. .るという考え方は︑創造の榊の僧仰から申來するものともいえるし︑現實に清動する疎は字宙的な損がりにまで高揚. しているともいえるし︑創遣と廉︑史はともに榊の本質の活動の雨面と考えられる︒. 蕾約聖奮は榊の創遭と廉奥の冒的の啓示を一つのものとして皆知しているが︑特に榊の創適の活動の申で最も意義. をもつものは人間の創造である︒人間が榊の被造物であるという信仰を藩約聖警の文戯はいたるところで徹底的に究 明している︒一例をあげれぱ︑. 人は何者なので︑これをみ心にとめられるのですか︒ 人の子は何者なので︑これを顧みられるのですか︒ たぶ少しく人を榊よりも低く造つて︑ 榮えと機とをこうむらせ︑. これにみ手のわざを治めさせ︑. よろずの物をその足の下におかれました︒ すぺての羊と牛︑また野の獣︑. 681.

(10) 98. 室の鳥と海の魚︑海路を通うものまでも︒ 圭︑われらの圭よ︑あなたの名は地にあまねく︑. いかに尊いことでしよう︵詩八ノ四−九︶. 2 68. このような讃葵の典型的たものは創世調における人間創遣である︒﹁室たる紳は人を土の慶で創られた﹂︵ニノ七︶人. 間は大地︑土を材料として創られた﹂︒﹁人間は±であるから土にかえる︒これは慶はもとのように土に麟り︑簸はこれ. 漂〜じともよんでいるが︑﹁すべて肉なるもの﹂︵ぎξ㌶sは人間を含む. を授けた榊に蹄る﹂︵偉道︑ニブ七︶︒人間が大地に由來し︑土と等しく創られたということは︑人間の移ろい易さ と可死性の比楡である︒別に人間を﹁肉﹂︵. こともあるが︑一般の可死的存在を指す場含が多い︒こうした場合人間と他の存在は榊の前において等しく室しいこ. とを表わす︒肉は人間の身鶴上の素材にすぎない︒人間は肉鯉だけではたい︒肉に活ける露︵精疎︶がもたらされね. ぱ︑眞の活ける存在とはならない︒人間は二つのものから成り立つ︒すたわち魂︵き︑§畠︶と肉から威る︒身螂は肉. を素材とする人間︵動物︶の奏であり︑魂は一つの形をとつた簸の姿である︒精柳と肉醐の相剋︑乃至は肉邊を蔑鯛. したり︑これに反して精榊を腐揚する態度は蟹約には表硯されていない︒たとえぱガラテヤ番で﹁わたしは命じる︑. ・御簸によつて歩きたさい︒そうすれぱ︑決して肉の欲を蒲すことはない︒たぜなら︑肉の欲すると︐﹂ろは御簸に反. し︑また御簸の欲するところは肉に反するからである︒こうして︑二つのものは互に相さからい︑その緒果︑あなた. がたは白分でしようと思うことを︑することができないようになる﹂︵五ノ一七︶こういった精榊と肉邊の相剋はキリ. スト致︑犠にバウロ以後の間題である︒それゆえ奮約聖番における人間論はこれと全然異つた立場にある︒榊曝的立. 婁からみれぱ︑爾者に共通し類似した鮎はあるけれども︑一方は人間の内的反省として︑他方は創造の信仰とLて謡. られているといえよう︒駕約聖蓄における魂と肉の關係はこ∫で深く立ち入ることはできないが︑分裂と解さず︑.

(11) 99. ﹁圭なる榊. 爾者の統一鯛としての人間を考えていたと一般的にいえるのではないかとおもわれる︒更に他繭身饅は魂のあらわれ ともみていたようである︒. さらに間題をすiめると︑欝約聖讃では人間は自己の申に生命のいきをもっていると老えられている︒. は土のちりで人を創り︑命の息︵恵︑ぎ峯︶その鼻に吹ぎいれられた﹂︵創︑二人七︶ことによってはじめて人間は活け. る存在となる︒ヨブ記にも﹁全能者の息︵§吻ぎ§§峯S§亀︶はわたしを生かす﹂︵三三ノ四︶とあるように︑この. 息は活ける人閻の申に内在する榊の騒とみて養支えない︒すなわち人閻は土の塵を材料として︵勿論比楡をも含めて︶. ︶の問魑にっいてはすでに別の拙稿でふれたことでもあるので︑こ\では攻の鮎たけを明. 創られ︑しかも榊の騒をふき込まれた活ける存在である︒. 魂︵ミ蓬畠︶と 鐘 ︵ § s. らかにしたい︒元來風を意味する簸︵昌臣︶が訳第に息︑呼吸の意に料用され︑更に精榊的存在をあらわすようになっ. たことは︑宗教心理として一般に考えられることである︒しかし繍榊︑簸などにっいて吾々は消極的にしか表現でき. たい︒このようた慨念はあらゆる感税性を排除した慨念であり︑た∫その作用によつてしか知り得ないし︑.緊張︑氣. 分︑力としてのみ感取される︒肉総に基礎を避かない精榊は老えられないし︑また締榊のない肉鰻を奮約の人間論は. 考えてはいないようである︒これは彼らの奥象的た把握の特質ともいえるであろテ︒しかしながらさうであるからと. いって︑精榊と生命を同じであると考えるたらぱ誤りを犯す︒鷲約には生命の騒というような表瑚もあるが︑他繭そ れぞれ全然別の機能としても考えられている︒. 精榊の慨念は種々の言葉と滑︑味と結ぴついて用いられてをり︑駕約墾書の非鯛系的た態凌のもっともよく露塁して. いる圃をあらわしている︒それゆえ単たる思辮だけにをはらない力掘さをもっている鮎を看過してはならない︒. 榊は﹁われわれのかたちにかたどって︵ぎ §§§§§ミ︶人を遣らう﹂︵創一ノニ六︶とし︑﹁榊は自分のかた. 683.

(12) 100. ち︵膚. §︶に人を創遣された﹂︵同一ノニ七︶そして易性と女性を側つた︒この祭司脊料の有名汰章句は︑人蘭が榊 4 68. の像にかたどられて創遣されたという︑いわゆる﹁紳の省像性﹂︵国5目げ昌婁帽〆①5の間題として︑古くから諭記され. てきたものである︒たぶしエローヒスト費料や︑ヤハヴィスト蕎料には榊の像について何の叔述も晴示もない︒この. 祭司費料だけが奮約聖書申たぶ一回この個研で︑人間の創造に闘する紳の意圖を﹁疎の像﹂によつて明らかに示して. いる︒今日略一般に研究家によって認められている鮎は︑かたちを表わす二講ツェレェム︵急§§︶とヂムート︵ぎミ︶. が︑前者は原型との完全な同一性を意昧し︑後者は相鈎的な同一性︑類似性を表わすという解緯である︒. 人間は他の生物︑野の獣︑.室の鳥︑水の魚と同じように榊によつて創られた存在であるが︑他面︑これらの被造物. と異る意味と目的があたえられていることを知る︒その一つは人間に﹁海の魚︑窒の鳥と家畜と︑地のすべての歎と︑. 地のすぺての遣うものとを治めさせよう﹂︵同一ノニ六︶あるように︑榊は地上の統治を委ねていることである︒榊の. 像に人間が肯ていることは︑榊が字全宙︑全存在を創毯し︑これを保持しているように︑人間は地上を治めるように. 榊から命ぜられたのである︒これによって人間の創適は最大限の意味を附典された︒勿論さきにあげた詩篇八ノ七の. 冒葉のように︑榊の存在を侵審したり︑天使︵ユダヤ的な表象としての︶にまさる存在ではないけれど︑榊はすべての. 存在物を創り︑鍛後にもっとも自己に近い︑あるいはその本質の一部に照憾する人間を創ることによって︑榊は白己. の創造を善しとされた︒これにより人間は人間は他の存在と異り︑榊と一盾深い關係をもつようにもつとも光彩ある. 存在となった︒・ヒつした祭司資料の洞察は奮約聖書榊學のみならず︑後のキリスト教の人間観にも大きな影響を與え. ている︒ラピ︑アキーバが﹁榊に愛せられたる人の子︑たぜたらぱ︑この者は榊の似姿︵ 8ミ〜§.9sざ§︶に創ら. れたからである︒しかし更に大いたる愛は人の子が肺の似姿に創られたことを知らされているということであるパ⁝:.. ⁝﹂︵竃.>げ9冨︑蜆︶と眞勢た信仰の皆白を行つているのをみても明らかである︒このラビ・アキーバの皆白は駕約塾.

(13) ユ ユ. いうこと︑しかもこのことを釦つているということ︑これが宗教意識の極鮎にある︒. 以上叙べた人間の創造の意義は同時にラピ・アキーバの皆白で知られるごとく︑榊の啓示として如上の鮎が人間に. 典えられたと彼らの僑仰は思惟する︒創世記の築園の物語では人間の瞭落︑榊よりの離反が直ちに語られている︒に. もか上わらず今までのぺてきたような人間論は信仰のもとで維持されてきたし︑後期ユダヤ教に磁生した絡末思想と. いえども︑始源の人閲の椴態に﹁かえること﹂︵淳§§︶が絡末としてえがかれている︒キリスト教徒がイェスを第. 二のアダム︑アダムの罪をあがなう人の子と呼ぱれたことも同じ考えである︒ユダヤ會覚で薪年この天地創遭︑人間 創造の章句が朗喝されたといわれているのはきわめて員然なことである︒. 蕾約聖書の人間論にっいてはなほ多く旦っ詳細に論じたけれぱならないが︑今まで簡箪にふれた鮎を要約するなら. ぱ︑人間論がつねに林信仰の葛において誘られている・﹂とである︒これは貞然と膳史がつねに疎僧仰の場において語. られいるのと全く同じである︒榊は自然や人聞を超えている存在であるぱかりでなく︑これらを創遭した自南な意志︑. 正義と愛を示す倫理的な清動者である︒榊は自然を創り︑人間を創ってこれを善なるものとして肯定した︒それゆえ. 自然や人間は榊に比ぺれぱ微少な移ろい易い存在であるにもか⊥わらず︑無に踊せらるぺきものではたく︑存在の意. 義をそれそれその瞬閻にもってをるものである︒字宙のすべては榊の獺い倫理的灘術的崇致的表白にほかならない︒ こLに藺約聖書全般の基礎となつた絶㎜的現賃背定の立場がある︒. 人間は有限の存在であり︑罪を犯しやすい︒しかし巣園を遺放された後にも︑肺の意志は示される︒藤史の目擾があ. 6ε5. 警の圭流をなす宗教恩想をもっとも簡潔に表明している︒榊に創られ︑しかも人間は榊の似姿とLて創られていると. 0.

(14) 102. たえられるのはこのことである︒梯は人間を自らの似姿として創つたにもか∫わらず︑たえず書と悪を人閻にえらぱ 6 . 8 6. せる︒選揮のない︑自己の意識の決定にもとづかない誉は善ではないからである︒その意味では﹁疎の省像性﹂は人. 間に課せられた理念であり︑圃時に魔史の目標である︒﹁イスラエルよ︑今︑あなたの紳︑圭があたたに求める事は. 何か︒た父これだけである︒あなたの紳︑圭をおそれ︑そのすべての遺に歩んで︑彼を愛し︑心をっくし︑精疎をっ. く﹂てあなたの圭に仕え︑わたしが今目あなたに命ずる圭の命令と定めとを守つて︑さいわいを得ることである︒⁝. ⁝⁝⁝あなたがたの榊であるまは︑榊の榊︑圭の圭︑大いにして力ある恐るべき榊にましまし︑人をかたより見ず︑. まいないを取らず︑みなし子とやもめのために正しいさぱきを行い︑寄留の他園人を愛して︑食物と着物を興えられ. るからである︑それゆえあなたがたは寄留の他闘人を愛しなさい﹂︵申命一〇ノニ一−一九︶︒モーセ五番︒の圭要な内容. は榊と人間の密接な關係を示すことである︒人間の世界におけるすぺての行爲の選念と規範は創適圭である榊の行爲. に示されている︒圭があわれみ深いように︑人間はあわれみ深く︑圭が正義を行うように︑人間は正義を行わなけれ. ばならない︒圭がすぺての人間を愛するように︑人間は相亙に愛し含わなければならたいことを命じている︒イスラ. エルの宗敢思想家はこういつた側造の煮義に到蓮したとき︑全字街全存在を榊の意志の表白として善葵のものとして. 劔造の意義が確僑したとき︑踊貿肯定の態度︑築天ま義としての人間の生清態度があらわれた︒このような樂天圭義. は︑他繭これと異る現賃との鮒いの姿を燃史においてとる︒彼らの僧仰の確信は廉史的現賀︑襲︑民族︑世界史と. の桶剋の形をとつた︒彼らが現質を圭概的に逃避せず︑預肴者や王や賢劣が現實と闘つたのは︑彼らの彊い榊僧仰に. もとヶく︒イスラエル人は哲箪的な本慨論の展開を行うよりは︑榊の清動性によつて榊を把握してきた︒榊が創造す. るごとく︑人間の生の意義は︑創遣することにある︒行爲し︑勢働することにある︒彼らの創造観は自然科學的な事. 實としてよりも察教的信仰として︑榊の粛志の鯛駒として表白された︒シュヴァィツァーがいうような﹁生への畏敬﹂.

(15) 】. 03. ︵4①目①H. 饒oくμ蟹①︶. の信仰もキリスト教の申に奮約に根ざす現貿肯定の創造観として生きノ﹂いるのである︒. ︵拙稿は欧珊文化の史的交渉の研究礫魍にもとずく︶. 687.

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