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古 賀 勝 次 郎

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(1)

比較社会思想史研究︵四︶

一日本思想の典型外来思想受容のパターンー 古賀勝次郎

 目次はじめに

日口 外来思想受容の特徴−問題の所在一

﹁憲法十七条﹂と﹃神皇正統記﹄︵以上本号︶

日本思想の典型騨その思想構造︵以下次号︶

 ω 石田梅岩の思想

 ω 二宮尊徳の思想

中間的結論

はじめに

 本研究のe⇔において︑日本思想の原型を本居宣長の思想を手懸りとして論じたが︑

思想の原型を構成している中心的カテゴリーは︑ ﹁生成﹂であるということであった︒

考様式︵uo昌困≦oδΦ●認識論と言ってもよい︶をなしている点で︑日本思想の原型は︑ そこでの重要な結論は︑日本この﹁生成﹂を中心とする思近代以前の西洋思想−具体

早稲田社会科学研究 第33号(S61.10)

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(2)

的には︑ギリシア思想やキリスト教一とも︑また︑儒教を主流とする中国思想とも異なっていた︒ギリシア思想も

キリスト教も自然−作為という二分法的思考様式をしており︑この点では儒教も概ね同じだといってよい︒もっと

も︑その様式の強度においてはそれ等の間にはかなりの距りがある一この問題については何れ触れる機会があろ

う︒それ故に︑日本の思想史は︑西洋とも中国とも異なった﹁姿﹂を呈することになった︒

 日本思想の原型と類似した思考様式を有しているのは︑イギリス経験論であろう︒A︒ファーガソンやD.ヒュー

ム︑A・スミスなどによって確立されたイギリス経験論は︑ ﹁生成﹂のカテゴリーを中心とした思考様式をしている

点で︑日本思想の原型に似ている︒それは︑自然−作為という二分法的思考様式をしている近代思想のいま一つの大

きな思潮である大陸合理論とは明らかに異なる︒日本の近代化が︑大陸合理論ではなく︑専らイギリス経験論に沿っ

て推進され1一時︑逆になったこともあるが一︑それがかなりの程度︑成功し得た原因にそうした思考様式にお

ける類似性があったことは容易に想像できる︒このことは︑中国の近代化が日本と違って︑大陸合理論に従って推進

されたことと比較して考えると︑もっとハッキリ理解できるかもしれない〜しかし︑筆者は︑中国の近代化につい

て知るところ少ないので︑ここでは単なる仮説としてそう言っておくに止める︒だが︑日本思想の原型とイギリス経

験論の間には次のような重要な違いがある︒即ち︑両者の思考様式は︑共に︑生成を中心とする自然−生成−作為の

三分法から成っているが︑しかし︑前者において︑作為のウェイトが自然のそれに比べ遙かに軽いのに対し︑後者に

おいては︑自然のウェイトよりも作為のウェイトの方がかなり重い︑という点に両者の重要な相違を見出すことがで

きるであろう︒

 籾て︑本稿の課題は︑先の日本思想の原型を受け︑日本思想の典型を明らかにすることにあるが︑いま少し説明す

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(3)

比較社会思想史研究(四)

ると次のようなことであるQ確かに︑日本思想の原型は︑それが生まれて以来︑今日まで絶えることなく生き続けて

きた︒このことは他国に見られぬ一つの驚異ではある︒だが︑日本の思想史の中で︑そのような日本思想の原型が優

位を占めているのは︑江戸時代の国学を除いて殆ど認められない︒少なくとも文献の上︑思想家の意識の上では︑そ

う言うことができる︒つまり︑日本思想史上の殆どの文献︑また思想家の意識を専ら領してきたのは外来思想だった

し︑現に今もそうであって︑恐らくこの点に異議を狭む者はいないであろう︒しかし︑日本が外来思想を受容する際

に︑そこに自ら独特のものがあったことも認められねばならない︒そしてこれに関して︑色々異なった理解が存する

のも事実である︒本稿が試みようとするのも︑この問題についての一つの仮説を提供することである︒

 本稿で扱うのは︑江戸末期までの外来思想であるので︑従って︑中国思想と仏教が専らその対象となる︒しかし日

本の外来思想の受容の仕方は︑明治以前と以後と姶ど変るところのないというのが私の考えである︒日本では明治以

前も以後も同じ仕方で︑外来思想は受容されている︒本稿︵次号︶では︑明治以前の思想家の中で︑特に石田試適と

二宮尊徳を取り挙げるが︑両者に日本における外来思想受容の仕方の典型を見るからである︒そしてそのことは︑両

者の思想が日本思想の典型を示しているということでもある︒上述した如く︑そのことを明らかに示すことが本稿の

課題だが︑しかしその前に︑日本思想史をめぐってなされてきた議論のうち︑本稿と関連をもつものを若干取り挙

げ︑それに対する私見を述べておくことは︑後の論述を明確にする上で︑有意義であろう︒

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(4)

(一)

外来思想受容の特徴

 一問題の所在一

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 日本思想史をめぐっては色々の議論があるが︑ここでは後の論述との関係で重要と思われるものを二つほど取り挙

げることにする︒一つは︑丸山真男の日本には﹁思想史的座標軸﹂が欠如しているという議論︑いま一つは︑加藤周

一などのいう日本文化の﹁雑種性﹂︑あるいは﹁多元主義﹂の議論である︒しかし︑ここで問題としたいのは︑ これ

等の議論が日本思想の特徴を能く把えているかどうかということではない︒何れの議論も︑少なくとも表層的に見れ

ば︑日本の思想の特徴を言い当てていると言えようからである︒問題はその理由づけであって︑その点で彼等の議論

は再吟味されねぽならない︒

 丸山真男が日本における﹁思想史的座標軸の欠如﹂を論じたのは︑﹃日本の思想﹄においてである︒﹃日本の思想﹄

は︑丸山の日本︵政治︶思想論としては︑﹃日本政治思想史研究﹄と﹁歴史意識の﹃裏層﹄﹂の中間に位置するものと

いえる︒それ故︑これには︑過渡的といってよい考えが散見される︒例えば︑我が国の神道における﹁神﹂がキリス

・教の︒gと異なり・羅対者しではない・とい・た解釈がそれであ・寵従・て・丸崇現在も・呆における

思想史的座標軸の欠如という考えを持ち続けているとしても︑その理由づけを変更していないという保証はないかも

しれない︒ ︵が︑その理由づけを変更したという丸山の明確な言明もないので︑ともかく議論を進めることにする︶︒

 丸山は﹃日本の思想﹄の中で次のようにいう︒ ﹁あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互連関性を与え︑すべて

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比較社会思想史研究(四)

       ヘ   ヘ   ヘ   への思想的立場がそれとの関係で一否定を通じてでも−自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当       ︵2︶る思想史的伝統はわが国には形成されなかった︒L丸山はこの文章の少し後に﹁基軸﹂i正確には﹁強靭な基軸﹂

iという言葉を使っているが︑これが﹁座標軸﹂と同じ意味だとすれぽ︑中国にも思想的﹁座標軸﹂があったとい

うことになる一その場合︑儒教がその軸となることは丸山自身記している︒恐らくそう理解してよいと思うが︑だ

とすれぽ︑西洋︑中国︑日本の三地域だけに限定すると︑日本のみが思想的座標軸を欠いていたということになる︒

 問題は︑何故日本において思想的座標軸が欠如しているのか︑ということである︒丸山はその根本的理由を神道の

性格に求め次のようにいう︒ ﹁神道の﹃無限抱擁﹄性と思想的雑居性が⁝⁝日本の思想的﹃伝統﹄を集約的に表現し

てい.酔と・そし三神道のそうした性格が如何なるところに由来するかというと・絶対者が存していないからだと

いう︒神道においては︑ ﹁人格神の形にせよ︑理とか形相とかいった非人格的な形にせよ︑究極の絶対者というもの    ︵4︶は存在しない︒﹂人格神と理︑形相を同列に扱うことには些か疑問なしとしないがここでは問わない︒しかし︑神道に

﹁究極の絶対者﹂が存しないことはその通りであって︑神道の神を﹁絶対的人格﹂︑即ち﹁絶対者﹂としていた﹃日

本政治思想史研究﹄の議論は﹃日本の思想﹄では否定されている︒丸山が﹁歴史意識の﹃古層﹄﹂を書き得たのも︑

このように彼の神道観−神の理解1一の一八○度転換があってはじめて可能だったのである︒

 それはまた後述することにして︑丸山は︑﹁絶対者﹂の不在が﹁独自の仕方で世界を論理的規範的に整序する﹃道﹄﹂

の形成を拒んだところがら︑日本における外来思想受容の基本的特徴が現われることになった︑という︒即ち︑絶対

者が欠如すれぽ︑当然︑外来思想の﹁感染に対して無装備﹂となり︑すべての外来思想が﹁無限抱擁﹂されることに

なる︑しかもその場合︑神道︑外来思想を含めすべての思想が﹁みな雑然と同居し︑相互の論理的な関係を占めるべ

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(6)

き位置とが一向判然としていない﹂といった思想的雑居性が見られる︒これが丸山のいう日本における外来思想受容

の基本的特徴である︒

 これと同じような議論は︑丸山よりも少し前に︑加藤周一が行なっていた︒加藤は︑思想よりもっと広い文化とい

う次元で論じている訳だが︑日本文化の特徴をその﹁雑種性﹂に求めている︒彼は︑例えば︑ ﹁日本文化の雑種性﹂

の中で︑ヨーロッパの文化を日本文化と比較して︑ ﹁英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれぽ︑日本の文化      ︵5︶は雑種の文化の典型ではないか﹂と述べている︒加藤はこの議論に誤解がないよう︑次のような注を付している︒       ︵6︶﹁雑種とは根本が雑種だという意味で︑枝葉の話ではない﹂︑﹁枝葉についてならぽ︑英仏の文化も外国の影響を﹂大

いに受けており︑ ﹁インドや中国の場合にはなおさらで﹂ある︑と︒このような加藤の議論は︑つきつめると丸山と

同じ議論になると思われる︒根本が雑種ということは︑つまり日本固有の思想である神道そのものが雑種性を帯びて

いる︑ということだからである︒しかし︑丸山と加藤は︑そうした日本思想のもつ雑種性︵目雑居性︶に対する評価

については微妙な食い違いを見せている︒

 丸山は︑ ﹁日本の思想﹂のおわりのところで︑加藤は﹁日本文化を本質的に雑種文化と規定し︑・・⁝雑種性から積

極的な意味をひきだすよう提示されている︒傾聴すべき意見であり︑大方の趣旨は賛成であるが︑こと思想に関して

は若干の補いを要する﹂と言い︑その一つとして次の点を指摘している︒日本思想の雑居性の﹁問題はむしろ異質的

な思想が奎に﹃交﹄わらずにただ窩的に同時存在している占︷にあ︒︒多様な田心置が内面的に交わ︒ならぽそ録

ら文字通り軸笹という新たな個性が生まれることも期待できるが︑ただ︑いちゃついたり喧嘩したりしているのでは﹂

そこから創造的な思想は生まれてこない︒問題意識からいえぽ︑明らかに丸山の方が鋭い︒だが問題は︑上のような

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(7)

比較社会思想史研究(四)

丸山の議論が果たして妥当性を持っているか︑ということである︒

 日本固有の思想︑即ち神道における神が﹁絶対者﹂でないことは明白であり︑従ってそこに﹁無限抱擁性﹂ ︵筆老

は﹁包容主義﹂という用語を使っている︶と﹁思想的雑居性﹂といった特徴を見ることは恐らく妥当であろう︒ま

た︑神道のそうした性格から︑日本の外来思想受容の仕方において︑すべての外来思想が無限抱擁され︑しかもそれ

らが雑然と同居している︑という丸山の議論も妥当であろう︒だがそうした議論が妥当性を持ち得るのも︑思想の構

造をただ抽象化して見せるといった段階までのことであり︑思想構造の内部に立ち入ってくると丸山の議論は大いに

疑問とされねぽならない︒即ち︑その疑問とは︑上に引用した文章を使えば︑日本においては︑多様な﹁異質的な思

想が本当に﹃交﹄わらずにただ空間的に同時存在して﹂いただけだったか︑ということである︒寧ろ︑日本の外来思       ヘ  ヘ  へ想受容の仕方には一定のパターンがあったのではないか︑日本固有の思想とそれとは異質の多くの外来思想は意外に

ヘ      ヘ  ヘ       ヘ  へも相交わり︑そこから雑種ではあるが個性を持った新たな思想を生み出してきたのではなかったか︒以下本稿で論じ

ようとするのはそのことである︒

 日本の思想史に座標軸が見られないということは専ら事実−文献上iの問題といってよかろう︒丸山はその理

由を神道における無限抱擁性と思想的雑居性に求めているが果たしてそれで十分であろうか︒問題をもっと直戴に述

べると︑日本の思想史に座標軸が欠如しているということは事実の問題ではあるが︑そのことを逆の角度からいう

と︑日本思想史には︑何故︑座標軸が存在していなくてもよかったのか︑と問うことも可能なのである︒座標軸の不

在が︑日本思想の発展を拒んだということならぽ問題であろうが︑寧ろ歴史の示すところは︑座標軸が存在しなかっ

たということが︑日本思想の発展を容易にしてきたともいえるからである︒ここのところが丸山と見解を異にすると

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(8)

ころだと思うが︑日本において思想史的座標軸が欠けていたにも拘らず︑その発展が拒まれなかったということ︑ま

た︑その発展パターソー外来思想受容の仕方1が決して雑然と行なわれたのではなかったということ︑これ等の

ことが明らかにされるならぽ︑それは丸山の見解に対する反論となり得るだろう︒予め述べておけば︑それ等の問題

を解く鍵は︑日本思想の原型である神道の思考様式が﹁生成﹂のカテゴリーを中心としていた︑というところにある

と思う︒その生成のカテゴリーが日本思想の発展一従って社会の発展一を容易に推し進めることを可能にしたの

であるが︑しかし他方︑日本思想の原型における思考様式において︑ ﹁作為﹂のウェイトがかなり低かったこと1

同じく﹁生成﹂のカテゴリーを中心とする西洋近代のイギリス経験論と比べて見ても一が︑日本における外来思想

の受容に一定のパターンを取らせることになったのではないか︒

 以下で論じたいのは︑大体以上のような諸点である︒

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(二)

﹁憲法十七条﹂と﹃神皇正統記﹄

 明治以前の外来思想の代表は儒教と仏教である︒最初に入ってきたのは儒教で﹃古事記﹄によれぽ︑応神智の時代

で︑五世紀の初め頃である︒その後︑仏教が伝わり︑仏教相伝は︑﹃日本書紀﹄によると欽明天皇十三年︵五五二年︶

とされているが︑今日では︑ ﹃上宮聖徳法王論説﹄や﹃元興寺伽藍流記資財帳﹄などによって︑宣言天皇三年︵五三

八年︶が定説になっている︒以下︑江戸末期までの外来思想の代表と濫読してよい儒教と仏教が日本においてどのよ

うに受容されてきたか︑その特徴︑パターンを明らかにしたい︒

(9)

比較社会思想史研究(四)

 ところで︑以下に取り挙げる思想家は︑聖徳太子︑北畠親房︑石田梅毒︑二宮尊徳の四人であるが︑この四人を二

節に分け論ずることにしたのには理由がある︒以下に論ずるように︑私は石田梅岩と二宮尊徳の思想を日本思想の典

型と考える訳だが︑それと較べると聖徳太子︑北畠親房の思想は︑必ずしも−私のいうような意味での1日本思

想の典型とはいえない︒それは︑外来思想としての儒教と仏教と︑日本固有の思想11神道の関係が前者に在っては明

示されているが︑後者においては明示されていないからである︒しかし︑梅岩や尊徳の思想は日本思想の典型という

ことであって︑日本思想上に彼等の如き思想が多く見られたということではない︒寧ろ歴史の事実は︑彼等のような

思想が少数であり︑稀であったことを示しているつ日本思想の主流を形成し︑日本の思想界を支配してきたのは︑聖

徳太子に見られるような︑その思想を構成している主要部分が外来思想によって形作られているような思想であっ

た︒その意味では︑聖徳太子の思想はその後の日本の思想家の原型となった︑ということができる︒それを裏返えし

ていえば︑彼等は日本固有の思想を積極的に論じなかったということである︒だがそのことは︑彼等の思想が日本固

有の思想から免れているということではない︒思うに彼等の思想の根底には︑日本固有の思想が根を張っていたので

ある︒そのことを日本最初の思想家である聖徳太子の﹁憲法十七条﹂を見ることによって先ず明らかにしよう︒

 聖徳太子の思想を構成している主要部分は︑殆どすべて外来思想によって形作られており︑日本固有の思想は少な

くとも表面には出ていない︒それは︑上述したように︑その後の日本における有力な主流を形成し︑時代をリードし

た思想家の思想の在り方を決定することになったといってもよいのである︒扱て︑聖徳太子の思想を﹁憲法十七条﹂

のみで論ずるのは不十分の諺を免れ得ないが︑しかし︑太子の社会思想となるとこれ以上の資料はない︒周知のよう

に︑ ﹃古事記﹄は推古朝で終っているが︑聖徳太子については一事も記されていない︒太子の事蹟を最初に︑しかも

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(10)

かなり詳しく記した文献は﹃日本書紀﹄である︒このようなことからも︑外来思想への﹃古事記﹄と﹃日本書紀﹄の

対応の相違を読みとることもあるいは可能かもしれない︒それはとも角︑ ﹃日本書紀﹄にはじめて出てくる太子の制

定した﹁憲法十七条﹂に︑日本固有の思想が殆ど見られないということは注意されてよい︒

 第一条の﹁和を以て貴しと為し⁝⁝﹂が︑ ﹃論語﹄の﹁礼之用︑和為貴﹂から出ていることは明らかである︒第二

条の﹁篤く三宝を敬へ︒三宝とは仏法僧なり︒⁝⁝﹂は︑まさに仏教を称えたもので︑太子の思想の中心をなすもの

が仏教であることを示している︒第三条の﹁詔を承りては必ず謹め︑君をば則ち天とし︑臣をぽ則ち地とす︒・.:.﹂

も法家の影響が認められる︒例えば︑管子︑君臣の分を説いて︑ ﹁君臣相与に高下処を異にするは天と地の如し︒

⁝⁝﹂と言っている︒その他の条文も︑その典拠を求めるならぽ︑その多くが︑儒教︑法家︑仏教の典籍に依ってい

ることが分かる︵しかしこのことは勿論︑聖徳太子の思想に独自性がなかったということではない︒いや︑独自の理

解︑解釈に満ちくているのであるが︑ここでは外来思想受容のパターンのみを問題としているので︑そのようなパ

ターンを超えた質の問題は扱わない︶︒

 このように二・三の例からも明らかなように︑ ﹁憲法十七条﹂を構成している主要部分は外来思想によって形作ら

れているのである︒だがこのことは︑聖徳太子が日本固有の思想を無視していたとか︑否定していたということでは      あまつかみくにつかみいは無論ない︒それは︑ ﹃日本書紀﹄の推古天皇十五年の詔に︑ ﹁今朕が世に当りて︑神祇を祭ひ謬ること︑宣怠ること

     かれ       みやびまつ   ︵8︶有らむや︒故︑群臣︑共に為に心を署して︑神祇を疑るべし⁝⁝﹂とあることからも容易に窺れる︒問題は︑このよ

うに一方で︑日本固有の思想を尊崇しながらも︑ ﹁憲法十七条﹂が何故︑外来思想によってその主要部分が構成され

たのかということ︑そして︑日本固有の思想と外来思想との関係︑更に︑外来思想間の関係︑はどうであったかとい

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(11)

比較社会思想史研究(四)

うことである︒しかし︑これ等の問題に対する解答を直接憲法十七条に求めることは不可能のように思われる︒

 ところで︑ ﹃石面正統記﹄は︑これ等の問題に対するヒントを与えてはいないだろうか︒ ﹃寿齢正統記﹄には︑聖

徳太子に関して記したところがいくつかあるが︑次の二つの文章は︑これ等の問題を考える上で重要なヒントを与・比      ︵ホ︶ているように思える︒ ﹁四国︵日本1筆者︶ニ兄山ヨリ人スナヲニシテ法令ナンドモサダマラズ︒十二年甲子ニハジメ

テ冠位ト云コトヲサダメ︑十七年己巳二憲法十七条ヲツクリテ奏シ給フ︒内外典ノフカキ道ヲサグリテ︑ムネヨツゴ

マヤカニシテツクリ給ヘル範﹂︵推裏皇道︶いま;は・天津彦灸蓼三尊の条に出てくる文章で︑﹁応神天皇ノ

御代ヨリ儒書ヲヒロメラレ︑聖徳太子ノ御壁ヨリ︑釈教ヲサカリニシ給シ︑是皆権化ノ神ニマシマセバ︑天照大神ノ       ︵10︶御心ヲウケテ我国ノ道ヲヒロメフカクシ給ナルベシ︒﹂       ︵ホ︶ 最初の引用文の前半の﹁此国防ハ昔ヨリ人スナヲニシテ⁝⁝﹂というところの解釈は後に浄めすが︑後半部分︑

﹁⁝⁝憲法十七条ヲツクリテ⁝⁝ムネツゴマヤカニシテツクリ給ヘル也︒﹂は︑事実を記したもので︑特に注意すべ

きところはないのだが︑しかしそれを︑後の引用文の中で読む時︑そこには自ら一つの解釈が出てくる︒つまり︑次

のような解釈になるのではないだろうか︒聖徳太子の製作した﹁憲法十七条﹂は︑儒教や仏教などの外来思想の深奥

を究め︑その主旨を簡明に述べたものである︵前の引用文︶だが︑儒教や仏教といった外来思想は︑仮の姿として現

われた神であって︑天照太神の御心を受けて我が国固有の道を拡め深くしたものである︵後の引用文︶︒従って︑﹁憲

法十七条﹂は︑我が国固有の道︵11神道︶を儒教や仏教などの外来思想を煙りて拡めようとして作ったものである︑

とこのように解釈してよいであろう︒しかし︑これは既に︑北畠親房の聖徳太子論になっているかもしれない︒私自

身は︑聖徳太子の仏教に対する主体性をもっと重視し︑仏教のもつ寛容性と神道の﹁無限抱擁性﹂との類似から︑太

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(12)

子における固有の思想と外来思想の関係を明らかにしてもよいかと思う︒しかし︑先にも述べた如く︑両者の関係を

明示するような資料は見出せない︒それ故︑北畠親房のような聖徳太子解釈も尊重されるべきであっても否定されて

はならないであろう︒

 しかしここで︑北畠親房の﹃神皇正統記﹄を持ち出したのは︑親房の聖徳太子解釈を述べるためぽかりでなく︑

﹃神皇正統記﹄が日本思想の典型に近いパターンを示していることを論じたいためでもある−親房の太子解釈も実

はそこから出てきているのである︒日本思想の典型は︑上でも述べたように一そして︑早撃で詳しく論ずるが一︑

       おおやまとはかみのくになり石田梅岩や二宮尊徳に見られる︒だが︑ ﹁大日本国老神国也﹂という文章で始まる﹃神皇正統記﹄に日本思想の典型

に近いパターンが見られることは注意されてよいのである︒ ﹃神品正統記﹄は決して我が国固有の思想のみを正当と

したものではなかったのである︒

 言うまでもなく︑ ﹃神皇正統記﹄は︑歴代天皇の事蹟を綴ることによって︑南朝の正統性を擁護したものだが︑し       ヘ  へかし注意せられるべきは︑そこには︑日本固有の思想と外来思想の統合の合理性を説く政治思想が展開されていると      みたまいうことである︒先ず︑この点を最もよく示しているところを引用しておこう︒ ﹁我神︑大日ノ霊ニマシマセバ︑明

徳ヲモテ照臨シ給コト陰陽二︵財.きアバカリガタシ・冥顕ニツキテタノミアリ・君モ臣重三・光胤・ウケ︑或ハマサ

シク勅ヲウケシ下達ノ苗高也︒招餌是ヲアフギタケマツラザルベキ︒此理ヲサトリ︑其道ニタガハズハ︑内外典ノ学

問モコ・ニキハマルベキニコソ︒サレド︑晶帯ノヒロマルベキ事ハ内外典流布ノカナリト云フベシ︒魚ヲゥルコトハ       ︵11︶網ノ一目ニヨルナレド︑衆目ノカナケレバ是ヲウルコトカタキが如シ﹂︒そしてこの後︑上に引用した︑﹁応神天皇ノ       ヘ  へ御代ヨリ儒書ヲヒβメラレ︑⁝⁝我国ノ道ヲヒロメフカクシ給ナルベシ︒﹂が続く︒しかし︑以上の引用文を政治思

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(13)

比較社会思想史研究(四)

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ想の面からのみ見る必要はあるまい︒明らかにそこには思想的多元主義が認められるのである︒このことをもう少し      ととわり明瞭にするため︑次の文章を引用しておこう︒コ道ヲウケ︑一芸二携ラソ人︑本ヲアキラメ︑理ヲサトル志アラバ︑

コレヨリ理︹世︺ノ要トモナリ︑出離ノバカリコトトモナリナム︒一気一心ニモトヅケ︑五大五行ニヨリ相剋.相生       ︵12︶ヲシリ自モサトリ他ニモサトラシメン事︑三尉ヅノ道其理一ナルベシL︒︵嵯峨天皇条︶

 上の引用文を約めて言えば︑神道も仏教も儒教も︑その根本の理においては同じであって︑仏教︑儒教などの外来

思想は神道の道を普及︑深化するのに大いに益がある︑ということになろう︒繰り論えすが︑親房の聖徳太子解釈も

そうした文脈の中でなされているのである︒しかし︑儒教や仏教が神道の道を普及︑深化するのに益があると言った

だけでは十分ではない︒その理由︑何故益があるのか︑またどんな益があるのか︑更に︑それ以前の問題として︑何

故︑神道だけでは不十分で儒教や仏教などの外来思想を受容しなくてはならなかったのか︑という理由が明らかにさ

れる必要があろう︒これ等の問題に答え得た時︑はじめて日本における外来思想受容の特徴が明らかになるものと思      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へう︒結論を先に言えば︑これ等の問題に対する答えは︑ ﹃神職正統記﹄の中にかなりの程度見出し得るが︑しかし︑

石田梅岩や二宮尊徳の思想ほど明瞭な形では示されてはいないということである︒それは︑ ﹃神皇正統記﹄が思想書

というより︑歴史書というところに一つまり︑思想的な厳密性に欠けるという意味で〜起因しているとも思われ

るが︑それはとも角︑以下︑上の問題に対して﹃神皇正統記﹄に読みとれる考えを明らかにしてみよう︒

 そこで最初に︑北畠親房が外来思想に対して如何に考えていたかを見てみよう︒先ず儒教に対しであるが︑緩靖天

皇の条に次のような文章がある︒儒教は︑ ﹁昔ノ賢王︑唐尭︑虞舜︑夏ノ初ノ禺︑毅ノハジメノ湯︑周ノハジメノ文      ︵オ︶      ︵オ︶王︒画定・主公ノ国ヲ治メ︑民ヲナデ給シ道ナレバ︑心ヲ正シク︑身ヲナヲクシ︑家ヲ治メ︑国ヲ心霊テ︑天下ニヲ

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(14)

      ︵エ︶      ︵ヲ︶ヨボスヲ宗トス︒サレパコトナル道学アラネドモ︑末代トナリテ︑人不正ニナリシユヘニ︑其道ヲオサメテ儒教ヲタ

    ︵13︶テラル・也︒L﹃大学﹄の﹁修身・斉家・治国・平天下﹂を思わせるような文章である︒一般に親房の儒教理解が宗学的

といわれる理由もそこにあるのだが︑親房が儒教の成立と特徴を的確に把えていたことはこの短い文章からも十分認

められる︒次に仏教に対してだが︑親房が仏教に造詣が深かったこと︑また︑ ﹁人ノ機根モシナぐナレバ教法モ無

尽ナリ︒﹂と言って︑仏教諸宗派に優劣はないとしたこと︑は明らかであるが︑彼が仏教の特徴をどう解していたかに

なると必ずしも判然としない︒言い得るならぽ︑﹃神皇正統記﹄においては︑仏教はどちらかというと政治を助ける教

義として尊重されてはいないだろうか︒例えば︑次のような文章からそう推測するのである︒ ﹁仏教ニカギラズ︑儒

     ないし・道ノ五教乃至モロくノ道︑イヤシキ芸マデモオコシモチヰルヲ聖代ト云ベキ也︒⁝⁝古酒ハ詩・書・礼・学ヲモ

テ国ヲ治ル四丁トス︒本朝ハ四丁ノ学ヲタテラル・コトタシカナラザレド︑紀伝・明経・明法ノ三道二詩・書・礼ヲ       ︵14︶摂スベキニコソ︒:・⁝医・陰陽ノ両道又コレ国ノ至要也︒金石糸竹ノ学ハ歯学ノーニシテ︑モハラ政ヲスル本也﹂︵嵯

峨天皇条︶

 この文章から︑﹃神皇正統記﹄においては︑仏教は︑他の儒教などと同じく︑﹁モハラ政スル本﹂として把えられてい       ︵15︶たとしても決して誤りでないことが知られよう︒この点では︑親房の仏教観は聖徳太子と著しく異なる︒太子は仏教

をより内面から理解し︑人生の真実を仏教に求めていたことは︑ ﹁憲法十七条﹂の第二条からも明らかである︒しか       ︵16︶し︑﹁憲法十七条﹂の第一条が︑仏教用語を避け︑﹁和﹂という儒教用語を用いていることは注意されてよい︒即ち︑そ

こには政治に関する問題には︑仏教よりも︑儒教の考えを採用した方がよいという姿勢が見られるからである︒このこ

とは︑太子が儒教の特質を仏教よりも政治的側面にあると理解していたことを示すものと言ってよい︒﹁憲法十七条﹂

62

(15)

比較社会思想史研究(四)

が修身に触れず︑専ら治国平天下のみを説いているのもそのことと関係があるだろう︒だが︑﹁篤く三宝を敬へ︒⁝⁝﹂

ということが﹁憲法十七条﹂に出てくるということは︑太子が仏教を人間の心︑人生の真実を説いたものとしたぽか

りではなく︑仏教が政治のレベルでも大いに益があると考えていたことは疑問の余地がない︒従ってそれは︑親房が

仏教を﹁モハラ政ヲスル本﹂と把えたのと程度は著しく異なるが︑基本的には同じだったといってよいのである︒

 神道︑仏教︑儒教の三教に限っていえば︑ ﹃神皇正統記﹄においては︑上の引用文︑特に嵯峨天皇の条にあった︑

﹁一道ヲウケ⁝⁝ヨロヅノ道其理一ナルベシ﹂からも推測し得るように︑三教一致の考えが示されているといえる︒

この点で︑親房は︑石田梅岩︑二宮尊徳と同様の考えを持っていた︒だが︑後者の二人と違って︑親房はこれ等三教

の関係についてはこれを明らかにしていない︒次節で論ずるように︑梅岩と尊徳がこれ等三教を極めて独特の仕方で

明示していることを以って︑彼等の思想を日本思想の典型とする筆者の考えからすれぽ︑親房の思想を日本思想の典

型とする訳にはいかない︒しかし︑彼が︑歴史の発展に伴い︑神道のみで事は足りず︑儒教や仏教などの外来思想が

必要となったと考えていたことは上の二・三の引用文からも容易に想像される︒そして親房が何故︑外来思想の受容

を必要と考えたか︑その理由を推測することはある程度可能なのである︒      ︵ホ︶ 上に引用した推古天皇の条をいま一度思い出してみよう︒そこには︑ ﹁此国樹ハ昔ヨリスナヲニシテ法令ナンドモ

サダマ﹂ってはいなかった︒しかし後聖徳太子が出てきて︑冠位十二階や﹁憲法十七条﹂を定めた︑と書いてある︒       ︵ホ︶この箇処をそのまま読むと太子が冠位十二階や﹁憲法十七条﹂を定めたのは︑日本人が次第に﹁スナヲ﹂でなくなっ

てきたからだということになる︒それは歴史的事件︵当時起こった様々な政治事件︶から認められる︒また︑孔子が

儒教を確立した理由について︑ ﹁サレバコトナル道ニハアラネドモ︑末代トナリテ︑人不正ニナリシユヘニ︑其道

63

(16)

 ︵ヲ︶ヲオサメテ儒教ヲタテラル・也﹂と述べている箇処も上の推測を強めるかもしれない︒しかし︑歴史的事件−この

場合には︑親房の時代の政治事件も含め一からだけで︑外来思想受容の必要性を説明することは無理であろう︒例

えば︑儒教を生んだ中国についての記述の中に次のようなところがある︒ ﹁震旦又コトサラミダリガハシキ国ナリ︒      ものをや︵17︶⁝⁝伏犠氏ノ後︑天子ノ氏姓ヲカヘタル事三十六︒乱ノハナハダシサ云ニタラザル者哉﹂中国においては︑儒教を以

ってしても乱逆は収まらなかったのである︒それ故︑歴史的事件からのみで︑外来思想受容の必要性を理解すること

は不十分で︑別のより重要な原因が考えられねぽならない︒

 その別のより重要原因として︑私が推測するのは︑次のような原因である︒日本思想の原型の思考様式は﹁生成﹂

のカテゴリーを中心とするものであるが︑しかしそこでは﹁作為﹂のカテゴリーのウェイトが極めて稀薄であった︒

もとより古代においてはそれでよかったかもしれない︒だが︑社会が発展し複雑になってくると︑作為︑即ち政治11

政策がどうしても必要となる︒特に︑社会の動きを急がねばならなかったり︑改めなければならない時には︑ ︵目的

意識な︶作為は不可避となる︒作為のウェイトが低い日本思想は︑ここに外来思想受容の必要性があったのではない

か︒これが私の推測である︒この推測は︑二宮尊徳においては実証できるが︑ ﹃神皇正統記﹄においてもこの推測を

裏付けるものを見出すことは必ずしも不可能ではない︒

 既に述べたように︑ ﹃神皇正統記﹄には︑思想的多元主義が明白に見られるが︑それが︑同軸の思考様式に微妙な

影響を与えていることが認められる︒例えば︑天地開開論︑天神生成・国土生成論などが︑中国の﹁易﹂思想の影響

を受けているが︑そのことによって︑﹃神里正統記﹄においては︑﹁なる﹂よりも強い目的意識性を持つ﹁うむ﹂論理

が色濃く出ており︑国土生成論のところに︑﹁ツクル﹂という﹁うむ﹂より更に強い目的意識性を表わす言葉が使われて

64

(17)

比較社会思想史研究(四)

       ︵オ︶いることは注目される︒そのところを一部引用しよう︒﹁大日本豊秋津洲ヲウミマス︒⁝⁝後二海山ノ神︑木ノヲヤ︑

  ︵オ︶       しま       ︑ ︑ ︑    ︵18︶草ノヲヤマデ悉ウミマシテケリ︒何レモ二幅マセバ生ミ給ヘル神ノ洲ヲモ山ヲモツクリ給ヘルカ︒﹂︵傍点筆者︶このよ

うに︑ ﹃神館正統記﹄は︑外来思想の影響を受け︑目的意識性が強く出ているが︑しかしそれを裏返して言えば︑日

本思想の原型は目的意識性︑つまり作為︵性︶が希薄であるので︑それを補うために外来思想を受け入れる必要があ

ったのだ︑となるのではないだろうか︒社会の発展は︑不可避的に程度その他の問題はあるが︑作為︵性︶を要請し

てくるのではないだろうか︒

 北畠親房が︑上述したように儒教や仏教などの外来思想を﹁モハラ政ヲスル本﹂としたのは︑単に親房自身の理

解・解釈というより︑日本では専らそういうものとして外来思想が受け入れられ︑また外来思想をそういうものとし

て受け入れたことが︑日本社会にとって大いに益があったことを認めたものと考えてよいのである︒しかし︑推測し

得ることはここまでで︑ ﹃神皇正統記﹄から外来思想受容のパターンi梅岩や尊徳に見られるような一を見出す

ことは難しい︒

﹁憲法十七条﹂や﹃神皇正統記﹄について︑まだ論じたいこともあるが︑梅岩と尊徳を三雲って︑また戻ることにし

よう︒

︵−︶

︵2︶

︵3︶ 丸山真男﹃日本の思想﹄︵岩波新書︶同右︑五頁︒

同右︑二一頁︒ ごOI一頁︒

65

(18)

︵4︶ 同右︑二〇頁︒

︵5︶ 加藤周一﹁日本文化の雑種性﹂﹃加藤周一著作集﹄⑦︵河出書店︶九頁︒

︵6︶同右︒

︵7︶ 丸山真男﹃日本の思想﹄六四頁︒

︵8︶ ﹃日本書紀﹄下︵﹃日本古典文学大系﹄68巻︑岩波書店︶一八八頁︒

︵9︶ 北畠親房﹃神皇正統記﹄︵﹃日本古典文学大系﹄87巻︑岩波書店︶九五頁︒

︵10︶ 同右︑六一頁︒

︵11︶同右︒

︵12︶ 同右︑一一七頁︒市井三郎は﹁文化的多元主義﹂という用語を使っている︒市井三郎﹃近世革新思想の系譜﹄ ︵日本放送

  出版︶二二頁︒

︵13︶ 同右︑六九−七〇頁︒

︵14︶ 同右︑一一六一七頁︒

︵15︶ 例えば我妻建治も次のように論じている︒﹁﹃神皇正統記﹄においては︑基本的には︑仏教一般も﹃政ノ本﹄として位置つ

  けられている﹂︵﹃神皇正統記論考﹄古川弘文館︑昭和五十六年︑三二七頁︒︶

︵16︶ これについては既に和辻哲郎が指摘していた︒和辻哲郎﹃日本倫理思想史﹄上巻︵岩波書店︶︑二二八−九頁︒

︵17︶ 北畠親房﹃神皇正統記﹄四八頁︒

︵18︶ 同右︑五二頁︒

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