古 賀 勝 次 郎
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(2) 別かれた。次いで敬字は息軒の人と学問に触れている。これは、直. 百家の古書については'生涯をかけて専心研究する者はそれほど多. 接的には清国の学者に知ってもらうためだが、また'敬字自身の息 ‑は見られないようである。それ故、息軒の ﹃管予算話﹄も、晴国. 末嘗不以先生長者視之也。」息軒の人と学問については'﹃管子纂. 善為務。絶無党同伐異之見。余甚慕之。錐嚢為同僚。農夕共事。而. ある。そして事情は、幕末の日本においても似ていたのではないだ. 百家については余‑学ばれていなかった、といわれているところで. 注目されるのは、活末期の中国の学問が儒学に偏っていて、諸子. の学者が捨てて顧みないということもないであろう。敬字の書面の. 請﹄ に寄せている息軒の友人・塩谷岩陰の 「叙」を見れば、おおよ. ろうか。もっとも、中国には、数字も言うように、科挙制度があっ. 軒理解と受け取ってもよいだろう。「仲平名衛。安井氏。号息軒。. そのところは分かるだろう。「鳴呼伸平年巳七十臭。尚能従事編纂。. たので儒学と諸子百家との対立は'日本の比ではなかったであろ. 最後のところを日本語に直すとこうなるだろう。. 蛍窓雪案。未嘗暫廃。」しかし、知人、友人に会うことが難しくな. う。息軒の ﹃管子茶話﹄ のような優れた ﹃管子﹄ の注釈書が日本で. 住江戸。以経連行修。久授名干せ。其学以実事求是為主。以虚心察. ‑、また、学問を解する人が甚だ少ない。そのため息軒は'﹃管子. 書かれたのも、そうした事情を反映しているといえなくもない。け. 1」. 纂請﹄を外国の学者に読んでもらいたいと望んでいるのである。そ. 而四子五経。末注紛多。人各有成書。至如諸子古書。其畢生致精. 敬字は次のように締め括る。「余意者清国学士如林。然自科挙盛。. ‑として、息軒と対座しているようで、旅の慰めとなった。そして. で、行李を開けて見ると ﹃管子纂請﹄ が無事そこにあった。うっと. した時、西洋の社会科学に対抗できなかった最大の原因となったの. の儒家思想と法家思想の対立こそが、中国や日本が近代西洋と遭遇. 家思想は対立するものとして理解されていたからである。だが、こ. た、儒学が支配的だった日本の江戸時代においても、儒家思想と法. 立は、中国では春秋戦国時代以来ずっと続いていたことであり'ま. の志を思うと何と悲しいことであろうか。舟が揚子江に停泊したの れどもそれは程度の差に過ぎない。というのは'儒家と法家との対. 者。不甚多見。然別如仲平是書。或亦治国学士之所不棄也。」. た学者が林のごと‑数多存在する。しかし、科挙が盛大になって以. の中で特に注目されるのが、最後のところであろう。清国には優れ. 家とが対立していたため、儒学の中に法は含められず、道徳は専ら. 有するものであったからである。これに対し、東洋では、儒家と法. の下に政治と経済があ‑、そして法と道徳とが密接不可分の関係を. まことに筒にして要を得た息軒と ﹃管子碁請﹄ の紹介文だが、こ である。何故なら、西洋の社会科学は、法を中心としたもので、法. 来'学問をする者は、専ら四書・五経を学んで、四書五経について. 道徳は排除されていたのである。もっとも'諸子百家の中で'法家. は、それこそ重箱の隅をほじくったような注釈書が数限りなく出て 政治と結び付き、政治の下に経済があったし、法家思想の中からは いる。そして学者もそれぞれ書物を書き上げている。けれども諸子.
(3) 安井息軒と中村数字. に及ぼした影響力は、その深い哲理にも拘らず限定的だったといえ. やは‑'儒家思想と法家思想であって、老荘思想が東洋の社会科学. たことは疑い得ない。しかし、東洋の社会科学を担ってきたのは、. その影響力という点では、儒家思想'法家思想に劣るものでなかっ. 思想のみを取り挙げるのも問題があるかもしれない。老荘思想も'. キリスト教を中心として形成されたものであることを誰よ‑も正し. 解せしめることを可能にしたともいえる。即ち敬字は、西洋文明が. なる。そしてそのことが、敬字をして、西洋文明の特質を正確に理. 捨てることはなかった。この点で'敬字は明らかに福沢諭吉とは異. キリスト教を厳しく批判した。しかし1万の敬字も最後まで儒学を. 西洋の共和政治に向かう弟子達に警告を発し、﹃弁妄﹄ を著して、. ‑把捉していたのである。要するに、敬字が目指したのは、西洋文. る。 さて、中村敬字ら1行は、その後、香港、セイロン、スエズ、カ. つ誠実に学んだ。数字らが帰国したのは、慶応四 (明治元)年六月. 洋の宗教、習慣、道徳、政治、経済などあらゆるものを、懸命に且. 地ロンドンに到着した。それから約l年半、敬字はイギリスで、西. の社会科学を全面的に受け入れてい‑ようになるのである。. を示すことなく亡った。結局、数字以後の日本の社会科学は、西洋. 社会科学になるのであろうか。残念ながら、敬字はその明確な構想. ろうか。社会科学の領域に限ってみるとしても、それはどのような. イ ロ 、 ア レ キ サ ン ド リ ア な ど を 経 て 、 同 年 十 二 月 二 十 八 日 に 、 目 的 明と儒学との調和であった。だがそれはいかにして可能になるのだ. 二十一日であった。既に徳川幕府は崩壊し'新政府ができていた。. 訳述は、現在でも高‑評価され読まれている。また、敬字は、福沢. S・ミルの ﹃自由之理﹄ やS・スマイルズの ﹃西国立志編﹄ などの. たが、両者の思想は著しく異なるものであった。儒家思想において. も述べたように、東洋の社会科学は儒家と法家によって担われてき. 来'儒家思想と法家思想とが激し‑対立してきたからである。上に. 何故そういうことになったのか。その最大の理由は、東洋では古. 諭吉などと同じ‑、啓蒙思想家として、﹃明六雑誌﹄をはじめ種々. は、道徳が中心にあり、政治も重要な地位に置かれ、経済について. 帰国後の敬字は、西洋文明の紹介とその普及に力を尽した。1・. の雑誌で健筆を揮った。そして、敬字の影響力は、少なくとも明治. れてお‑、経済についても論じられるが、道徳は排除されている。. も論ぜられるが'法はその占めるべき場所を有していない。これに. 敬字は近代西洋の学問を日本に持ち帰り、その普及と実現に努. このように、儒家思想と法家思想とは大いに異なるのであるけれど. 十年代の半ば頃までは、福沢諭吉のそれに比肩し得るものがあっ. め、自らもキリスト教徒となった。そうした敬字の思想と行動が、. も、政治が重視されている点は、両思想に共通している。そのため. 対して、法家思想においては、法が重んじられるが、政治も強調さ. 息軒の受け容れ難いものであったことは容易に想像できる。息軒は. もあって'古くから'儒家思想と法家思想との違いを、政治の面か. た。明治二十四年六月七日死去。六十歳であった。. 最後まで儒学を信じ'晩年には'「与某生論共和政事書」を書いて'.
(4) 家思想と法家思想の対立に現れているように、道徳と法とが別々の. 解にとっては根本的なものではない。東洋の社会科学の問題は、儒. それぞれの特徴を知る上では重要ではあるが、東洋の社会科学の理. たこれと同じである。勿論'こうした区別も、儒家思想、法家思想. として、それぞれ特徴づけられてきた。王道、覇道という区別もま. チ)'礼治主義(萄子) として、法家思想は法治主義(商軟、韓非). ら区別することがなされてきた。即ち'儒家思想は、徳治主義 (孟. ち現われて‑るからである。たとえ、道徳の方がよ‑根本的な問題. 動時代には、政治や法'経済などの制度がよ‑重要な問題として立. はともかく'激動の時代には余り有効性を持ち得ないであろう。激. 立軸とされてきたのである。だがこうした対立軸は、平時において. 治主義・礼治主義と法治主義というのが、儒家思想と法家思想の対. るものと理解されてきていたのである。即ち、上述したように'徳. 日本においても、それまでは儒学と法家思想とは区別され相対立す. して説かれてきた。実にここに、穂積陳重がいうように、法学が東. 洋では古代ギリシア以来、道徳と法は、密接な関係を有するものと. ところにある。これが西洋の社会科学と著し‑異なるところで、西. から明治にかけて活躍した啓蒙思想家達が最も苦悩したのもそこに. は、非現実的、非実用的に見られるようになるのは避け難い。幕末. ‑根本的な道徳の問題をよ‑捉えているにしても、社会的側面から. のように思われるようになる。それ故、激動の時代には、儒学はよ. も の と し て 扱 わ れ 、 重 な る と こ ろ が な い も の と し て 論 じ ら れ て き た だとしても、直接的には、政治、法、経済などの制度が重要な問題. 洋では停滞し、西洋において発展した最も大きな原因が存するので. あった。中村敬字もその一人であった。. ra. ある。しかし、東洋に、道徳と法とを統合的に論じた思想が全‑な. において、﹃管子﹄ の中に、道徳と法とが統合的に論じられている. れている殆ど唯一の 「古書」 である。そして息軒は、﹃管子纂請﹄. れる。﹃管子﹄ こそ、東洋において、道徳と法とが統合的に論じら. わけ朱子学においては、儒学は法家思想とは区別された'法家思想. ある。それは正しく画期的な儒学であった。それまでの儒学、とり. ち、道徳の問題を制度の問題と統合的に把捉するものだったからで. うに、息軒の儒学は、儒家思想と法家思想とを架橋したもの、即. しかし、安井息軒にあっては、事情は些か異っていた。何故とい. 思想が存在していることを実証した。しかしそれは'先ず儒学の経. とは相容れないものと解釈されてきたからである。かような息軒の. いかといえば、必ずしもそうではない。それは ﹃管子﹄ の中に見ら. 典を徹底的に研究し'その延長上に ﹃管子﹄ の研究を行い、儒学と. を架橋した、東洋では例外的な儒学者だったといえる。そうした儒. ということである。こうした意味で、息軒は儒家思想と法家思想と. 人の塩谷宕陰と清国の応宝時は、息軒の儒学の特徴をよ‑理解して. おうとしたのもそうした事情があったからに違いない。しかし、友. た。息軒が敬字に托して、﹃管子纂話﹄ を清国の学者に読んでもら. ﹃管子﹄ の思想が決して対立するものではないことを明らかにした、 儒学の持つ画期的意義を理解していた者は'当時、極めて少なかっ. 学の理解は、明らかにそれまでのものとは異なる.中国においても.
(5) 安井息軒と中村敬字. いた。. 読仲平之注。平心和気。接挙衆説。互相印証。而以請求文字者。請. 非之也。其謂之器小者。蓋惜之爾。‑‑夫子之論管仲。為周婁惜之. いる。「管子敬仲之為人。後備多以為聖賢所不取。然我夫子則末敢. 致諸用。可以参周官。而匹孟萄寓。」、とある。宕陰も応宝時も、儒. と同様の考えを宕陰も述べている。即ち「叙」 に、「善読者。択而. 経。緯之以孔孟之訓。其有神子世。語浅鮮平。」 この後半のところ. 宕陰は ﹃管子纂話﹄ に寄せた 「叙」 において、次のように述べて 求典章制度。礼楽輪鈴。政則法律。両側其繁華。接其育英。経之以. 也。」 この文章は、孔子の管仲評についての息軒の解釈を正し‑逮. べている。しかしまたそれは宕陰の解釈でもあったであろう。宕陰 学の敦と ﹃管子﹄、﹃周官﹄ などとは、補完的な関係にあって、両者. である。しかし息軒は、儒学の教と ﹃管子誓 ﹃周官﹄ とを補完的関. の儒学が従来のものとは違っていたことから、そう推測するのだ が補完し合えば、世を稗益するところ大であろう、と言っているの がt Lかしこれは、後述するように、宕陰の儒学と息軒の儒学が同. か。上に、息軒について儒家思想と法家思想とを統合的に把捉した. じだったということではない。そして、数字の儒学は宕陰の儒学の 係 と い う よ り 、 同 1 の 性 格 の も の と 理 解 し て い た の で は な い だ ろ う 延長上に展開されたのである。更に「叙」 の車で'宕陰は'息軒の. 儒学が制度を強調しているところにその特徴があることを認め、以 といったのは'そういう意味でである。それはまた、息軒の学問的. 言。求観聖人之遺著。必自孟子始。余謂求観三代制作之意者。必日. 法 (制度) とを一体のものとして捉えていたので、幕末から明治に. それはともか‑、このように、息軒は儒学を、道徳 (徳、礼) と. 立場、即ち、古注学、考証学と呼ばれる立場とも密接な関係を持っ. 管子始。尊者制度者。観意於法外。唐虞夏股之制作。周公善約両裁. かけての激動時代においても、儒学を非現実的、非実用的なものと. 下のように述べている。「安井仲平。識高天下。其於諸子。最好管. 之。周公之制作。管子又変而通之。遡其流而討其源。審損益之故。. 見倣きず、寧ろ'儒学をもって西洋の社会科学に対抗しようとした. ていた。. 而知繁簡之宜。於治平之道。豊恩過半夷。仲平於周官儀礼等書。亦. のは当然のことであったOしかし息軒のこうした態度を1概に保守. 子。研鐙数年。終作纂話一書。管子之言。由此而昭夷。韓昌泰有. 嘗有撰述。周公之所裁宜。管子之所応時。必有所洞観而通悟。」 こ. こにもあるように、注目されるべきは、息軒の攻究が'四書・五経 的と片付けてしまうことはできない。というのは、西洋の主流を形. うに書いている。「甚哉仲平之有功子此書也。且夫管子1番。与周. いたことである。また、応宝時も、「管子纂請序」 の中で以下のよ. は避け得なかったであろう。だが'その摩擦の中から'東洋的社会. が西洋の社会科学とまともに対抗したとするならば、かな‑の摩擦. と考えられていたからである。確かに、息軒の理解するような儒学. に止まらず、専ら制度を記述した ﹃周官﹄、﹃儀礼﹄ などにも及んで 成してきた社会科学においては、道徳と法(制度) とは一体のもの. 官相表裏。善用之。管昔日可致治。不善用之。周官亦足病民。世有.
(6) 檀‑限られていたので、幕末以後の歴史は、そのように展開しなか. 学観を持っていた者はいなかったし、息軒の儒学を理解できた者も. までも否定することはできないであろう。しかし、息軒のごとき儒. 鎗桃。具三不朽。」とあるように、陽明学も重んじていた。更に数. ていたけれども、「自叙千字文」 にも「亦喜震川。簡古醇厚。尤重. で、敬字の儒学も一斎に似ていた。敬字は基本的には朱子学に立っ. た陽明学にも強く心を惹かれ、「陽栄陰王」とも言われた。その点. 科学ともいうべきものが形成されたかもしれなかったという可能性 は模範生として称揚されもした。一斎は朱子学を奉じていたが'ま. った。実際の歴史は、儒学を徳治・礼治主義として捉え、法などの. の社会科学が代ったに過ぎないものだったともいえな‑もない。敬. 開していった。それは従来の儒学の立場であって、法家思想に西洋. かった。そうした態度が、息軒の学問にも親近性を持たせたのであ. のように、敬字は朱子学に拠りながらも、学派にこだわることはな. 互有得失。而各羽翼経。」と言っていることから明らかである。こ. 制 度 は 西 洋 を 受 け 容 れ て い く べ き だ と す る 思 想 が 主 導 す る よ う に 展 字が漢学も認めていたことは'「論経学」 に「漠儒主事。宋儒主理0. 字もそうした思想を持っていた啓蒙主義者であった。では、敬字. ろう。上にも引いたが、「記安井仲平托著書事」 に、「其学以実事求. しかし'息軒と敬字の儒学は、かな‑基本的なところで違いがあ. は、徳治主義の儒学と西洋の社会科学とをどのように結びつけてい. 敬字の儒学の師というべき者としては、佐藤一斎、安井息軒、塩. ったことも否定できない。例えば、「送鹿島侯序」という敬字の文. 是為主。以虚心察善為務。絶無党同伐異之見。余甚慕之。」、とあ. 谷宕陰'佐久間象山などが挙げられよう。「自叙千字文」に以下の. 章に対し、息軒は以下のように手厳し‑批判している。「此所謂六. ったのだろうか。そのためには先ず、敬字の儒学について見ておか. ようにある。「追十七齢。寄宿薯嚢。胴庵梢館。一斎主盟。‑‑宕. 経我之注脚。其源発於天上天下。唯我独尊。聖人則不然。日多識前. る。. 陰息軒。桑陶受益。門有嘉客。趨仰倒履。‑‑象山銀儒。識量超. 言往行。以畜其徳。日我嘗終日不食。終夜不寝。以恩。無益。不苦. ねばならない。. 卓。旅亭訪尋。継燭更僕。惜哉被刺。発乎道側。経書蒙我。殆罷災. 学也。此古今学術之大関鍵。苛不達此義。所謂鋭敏字者。反為了倣. 中村敬字が佐藤1斎に会ったのは極めて早‑、五歳の時であっ. 字の文章のどこを'そしてどんな考えを批判したのであろうか。. 字。」、と。これが息軒の加えた批評の全文である。息軒は一体、敬. (6). 厄。」、と。 た。「続愛目標文詩序」 に、「余少一斎先生六十歳。同以壬辰生。甫. 「送鹿島侯序」 において、敬字は、「儒生之学」あるいは 「儒生之. 読書」と 「英雄之心」あるいは 「英雄之読書」とを対比して、後者. 五歳。先考携。謁先生干場子溝之居。」とある。故事が十七歳で、 昌平坂学問所の寄宿寮に入った時は、古賀精里の次男・個庵は既に. 死去していて'一斎が盟友の中心となっていた。その一斎から敬字 によ‑高い評価を下している。日‑、「儒生之学。治章句。析文義。.
(7) 安井息軒と中村数字. 「英雄之読書」とをこう比較した後、次に敬字は、鹿島侯 (鍋島直. 了。片言隻字。足為終身之用者。英雄之読書也。」「儒生之読書」と. 桑。故尋行数墨。文字自累著。儒生之読書也。卓識妙悟。大意了. 遜字句影響之際。便一遇如石動 (北条) 長氏者。則曙然不能置対. 擢賢清肝'乾乾窮年。藩論之精。考証之確。自謂無遺憾寓。然究不. が反論するなどということはあり得ない。しかし敬字の議論には、. まう、と孔子はいわれたというのである。この孔子の言葉に、息軒. であれば政治は立派になるけれども、そうでないと政治は亡んでし. ている、それを読めばよいのだが、しかしそれを活用する人が賢者. る。即ち、周の文王や武王の政治は、書物の上に詳しく書き残され. 侯伯供藩犀之職。生任教養之責。非若儒生自首蓬撃。埋頭書冊者. らの文章が引かれている。「六経我之注脚」は、陸象山の説、「天上. 息軒の批評文には、陸象山や釈尊などの説、﹃易経﹄'﹃論語﹄ か. 彬) の人君としての学問の在‑方についての考えを述べる。「今夫 手厳しい批判を加えている。一体その理由は何なのか。 比。惟務識其大著而己臭。所謂大著匪他。大学之道是也。布在方. 策。日月並懸。無煩乎噂噴多説夷。」 つまり、こういうことである。 天下。唯我独尊。」は、釈尊の言葉である。「多識前言径行。以畜其. 人君たるものの学問は、細事にばかりかかずらう学者の学問であっ 徳。」は、﹃易経﹄ の 「周易上経 大畜」 に出ている。君子は、音の. う意味である。「我嘗終日不食。終夜不寝。以思。不苦学也。」は孔. てはならず、大きな重要なところを知ることが大切である。そうす 聖賢の言行を多‑知って'その徳を畜養することに努力する、とい ることが大学の道であって、それは方策、即ち書物・文献の中に詳 敬字は説‑のである。しかしここでも、君子たる者の学問にも、古. 息軒が問題にしているのは、六経などの「方策」あるいは「古人之. 以上から、息軒が何を問題にしているか、略々明らかであろう。. し‑記述されているので、色々な議論に煩わされることがない、と 子の言葉で、﹃論語﹄衛霊公篇に出ている。 人の書物が重要であると説かれている。だがこの後'敬字はこのよ. 人之書。以古人之書。験我心之所得。学而思蔦。恩而学葦。則方策. 之子我心。則影響摸索。愈求而愈不得夷。必也。以我心之理。読古. する。「雑然。方策之所載。我心之理也。若徒求之子方策。而不求. さし‑そこに向けられている。勿論'息軒は「思」を軽視するので. め、両者の緊張した関係を重視する。敬字に対する息軒の批判はま. 値を認める。これに対して、敬字は、前者と後者に同等の価値を認. ば、「学」と「恩」 の問題であって、息軒は'前者により大きな価. うな考えに対して、いささか疑問を呈し、そして自己の見解を披涯 書」と 「我心」あるいは 「我心之理」 の問題、よ‑1般的に言え. 所述。曾我意中事。而古人之言。不過起予也己。」ここでの数字の. 議論は、例えば ﹃中庸﹄ に見られる孔子の以下のような議論とは覗はない。学と恩が等し‑重要であると説いたのは外ならぬ孔子であ 8. ). った。即ち、「学而不恩則岡。恩而不学則殆。」 (﹃論語﹄為政篇)t (. らかに異なる。「文武之政。布衣方策。英人存'則其政挙。英人亡。 ヱ. と孔子が言っている。そして、息軒はこのところを、﹃論語集説﹄. (. 則其政息。」息軒は、﹃中庸説﹄ で「英人」を「賢者」と注釈してい.
(8) 学也。」、の文章を引用した所以である。息軒はこの箇処をこう注釈. 重視する。息軒が、「吾嘗終日不食。終夜不寝。以恩。無益。不若. に息軒は恩も重んずるのである。だが、息軒は恩より学の方をよ‑. で、「思学兼勤。姶可以行聖人之道央。」tと解釈している。かよう. 問の益な‑、又恩ふに'是を古人に照さゞれば一己の私智になるこ. 時に是を古人に照し其理を求むるとみえ候。‑‑己に恩はざれば学. 下のように語っている。「古の学問は'第一己に恩ひ恩ふてえざる. 井小楯もそうで、井上毅との対話(﹃沼山対話﹄) の中で、小楯は以. 張の重要性を説いたのは'必ずしも敬字だけではない。例えば'横. (9). する。「聖人生知。謂英知通神。如礼楽制度。亦必学雨後知之。特. ともござ侯。故に ﹃恩而不学則殆﹄ とも有之侯。」 このように、. l‖\. 其所諸学。不如常人所為耳。」、と。神にも通ずるような知を持つ孔. 子のごとき聖人ですら学をより重んじたのであるから、常人におい 「恩」を「学」と同等に重視したのは、敬字も小楯も同じであった。. ては尚更、学を重んじなければならない、というのである。ここで そして、小楯も敬字も基本的には朱子学を奉じていたのである。. 聖王'聖人を、予断を雑えることな‑、それぞれの言動をそのまま. 学を理解する上で極めて重要である。息軒は、尭舜や孔子といった. 労するのは当然であると息軒は解釈するのである。これは息軒の儒. 百姓を安ずることに病んだのであるから、普通の君主や政治家が苦. だが、息軒は非常に重視する。尭舜のような聖王ですら己を修めて. 百姓。轟舜其病諸。」 (薙也篇'憲問篇) とある。これは孔子の言葉. 代の聖王に対しても、同じように向き合う。﹃論語﹄ に、「修己以安. ぶ必要はないであろう。息軒は、孔子だけでな‑桑や舜といった古. る。もし、孔子が全知全能の聖人であるならば、恩だけでよ‑、学. 吾心之常道也。‑‑六経者。吾心之記籍也。而六経之実。則具於吾. 山書院尊経閣記」 の中で、陽明はこう言っている。「六経者非他。. 之注脚」という考えは、王陽明にもそのまま継承されている。「稽. いう心と同じものと理解したのであろう。事実、陸象山の 「六経我. だが、恐ら‑息軒は'敬字の「我心」、「我心之理」 の心を陽明学で. は、「卓識妙悟」、「大意了了」といった仏教的な表現が見られる。. 用しているのはこのためである。確かに'敬字の「送鹿島侯序」 に. 同じことを言っている。息軒が釈尊の 「唯我独尊」という言葉を引. また、「六経注我。我注六経。」とも言っているが、殆ど仏家の説と. 之注脚」という言葉を引いて、敬字の議論を批判している。象山は. だが息軒は'敬字を陽明学者のごと‑見倣Lt陸象山の「六経我. 受け取り、決して絶対化することをしない。そしてそこから、礼楽. 心。‑‑而世之学者。不知求六経之実於吾心。而徒者索於影響之. 注意されなければならないのは'孔子を絶対視していないことであ. 制度を重んずる考えも導かれるのである。上の息軒の注釈にもあっ. 間。牽於文義之末。」 この陽明の文の前半も後半も敬字の 「送鹿島. ( S ). たように'その礼楽制度も、孔子は'必ず学んでその後に知り得た. 侯序」によ‑似ていることは疑い得ない。勿論、象山の「六経我之. 注脚」も陽明の 「六経者。吾心之記籍也。」も'「心即理」という防. ( S ). のである。 しかし、当時'「恩」に「学」と同等の価値を認め、学と恩の緊.
(9) 安井息軒と中村数字. てい‑可能性に危機を感じとっていたのである。ただ'敬字が後に. 学、即ち、尭舜や孔子などの言葉の蓄積からなる世界、を掘り崩し. 「我心」、「思」を重視する学問的態度が、何れ自己を倣憶にし、儒. 請﹄) こそ息軒の古注学・考証学の根本的立場であった。それ故. ら批判したのである。「王者之道。布在方策。非有廃也」 (﹃管子纂. は、あくまでも、息軒の学問的立場'即ち古注学・考証学の立場か. しても批判的だったことは間違いない。しかしここでの数字批判. ‑批判したのは、「理」を強調する朱子学であったが、陽明学に対. 学者から激しく攻撃されたことはl亨っまでもない。息軒が最も激し. 明学の教義に拠った議論である。そのため、「性即理」を説‑栄子. では、敬字は当時の非現実的な儒学をどのようにして克服しょう. げ得よう、というのである。. 代におけるごとき儒学に立って政治を行えば、西洋以上の成果を挙. 学は「思」を欠いているので'「思」を十全に活用していた亮舜三. (1 3) 性・命・道徳とは意味自ら別なる所あるに似た‑。」要するに'宋. こと、西洋の及ぶ可さに非ず。是れ轟舜三代の畏天経国と宋儒の. 精、技術の功疾‑其の功用を尽して'当世を経冷し天工を広め玉ふ. ず。‑‑亮舜をして当世に生ぜしめば、西洋の砲艦・器械・百工の. るゝこと無し。‑‑宋儒治道を論ずるに三代の経輪の如きを開か. る事なし。水・火・木・金・土・穀各其効用を尽して天地の土漏. キ リ ス ト 教 に 惹 か れ 、 ク リ ス チ ャ ン に な っ て い っ た こ と を 考 え るとしたのであろうか。敬字は確かに、佐藤一斎や安井息軒からも. た時の記録 ﹃沼山閑話﹄ の冒頭に次のようにある。「宋の大儒'天. と働かせる必要があると考えたのである。小橋が元田永学と対話し. た儒学の非現実性を痛感し、それから脱け出すには、「恩」をもっ. い。従来の儒学は激し‑動‑時代に十分対応できていない、そうし. の時代にあって、伝統的な儒学への批判があったことは間違いな. しかし、小柄や数字などが「恩」を重視したことの背景に、激動. 後の時代の激変はこの企てを再開させる時間を敬字に与えなかっ. しようとの企ては'敬字の留学によって中断を余儀な‑され、その. 学理解はかなり違っているけれども。だが'儒学と法家思想を結合. は'息軒の企てと似ている。もっとも'息軒の儒学理解と敬字の儒. したのである。儒家思想と法家思想とを結び付けようとした点で. て、その現実的・実用主義的な儒学と、法家思想とを結合しょうと. 明らかに宕陰の現実的・実用主義的な儒学を継承している。そし. ‑一斎からは陽明学'息軒からは漢学を‑学んだが、しかし敬. 人一体の理を発明し其説諭を持す。然ども専ら性・命・道理の上を. た。しかしこの企ては、息軒のそれとの関係の上からも、大変興味. と'やは‑留学前の敬字の儒学が、一斎などの陽明学の影響下にあ. 説て'天人現在の形体上に就きて思惟を欠に似たり。‑‑亮舜三代. 深いものがあるので、以下少し‑詳し‑見ることにしよう。. 字が最も影響を受けたのは、塩谷宕陰であったと思われる。数字は. の工夫とは意味自然に別なるに似たり。尭舜三代の心を用ゆるを見. 先ず、宕陰の儒学と敬字の儒学との連続性を見てみよう。両者の. ったことは否めないところであろう。. るに、‑‑格物の用を尽して、地を開き野を経し、厚生利用至らざ.
(10) 儒学の連続性は、宕陰の「六芸論」と敬字の「論学弊疏」を読むだ. である。後に敬字は'儒学の道徳と西洋の道徳との一致を説くに到 いってよいであろう。. けでも明らかであろう。前者は、宕陰の儒学が比較的よくまとめら るが、その起源を潮れば、このような宕陰の思想に肱胎していたと れている論考'後者は安政年間、敬字がまだ二十代の若い頃に書か. 者。雄大而有迂之失。雄快而有疎之失。此篇。則大而不迂。快而不. とになるが、先ず、その宕陰の批評文を引用しよう。「書生談経絡. ている。その理由は、今日の学問あるいは学問を教えている学者に. た。しかし今日は、学校はそれこそ数多‑あるのに、人材は払底し. に関係している。昔は学校は少なかったものの人材は豊富であっ. 次に敬字の「論学弊疏」である。国家の強弱は人材の盛衰と密接. 疎。論時弊処。剰骨擢髄。着着可施実用。敬服。」宕陰が若い敬字. 問題があるO「士務虚文。面疎実用。其能当世之務者。百不二1有. れたもので、宕陰の批評が付されている。時間の順序を無視するこ. にいかに敬服しているかが分かる。ここに「実用」という言葉が用. 寓。是何也。登人材之遂不如古哉。今之教学。骨兼其方也。‑‑今. 単に述べる。古代の本来の学問は六芸で、日用に役立つ礼楽射御番. る。宕陰が敬字のこの文を上述のように「着着可施実用。敬服。」. 敬字の儒学が実用的なものであったことはこれだけでも明らかであ. 之所謂学者。徒疲思倭精於文字章句之末節。而不複其実用如何。」. いられていることに注意しておこう。 宕陰の 「六芸論」は六つの論考からなるがここではその要点を簡. 数の六つの術であって'易書詩春秋礼(塞) といった経典の学では. と評したのも宜なるかなである。. ( 3 ). なかった。しかし儒学は、漠以降'次第に実用性を失い'非現実的. 教材之術失。天下終亡議論。」 これに懲‑て明人はそれを正そうと. 書。而付之以仏理。於是性命之説高。而経給之美味、諌心之深。而. も見られる。それは、当今の学問の弊害の三で述べられているとこ. 思想との接近を試みることになる。それは既に「論学弊疏」 の中に. 学をよ‑現実的なものにし時代に対応できるようにするため、法家. さて、このような実用的な儒学観を持っていた敬字は、当今の儒. したが'結局は衰退を後押ししただけだった。では復活への道はあ. ろに、子産の言葉が引かれていることからも窺える。「子夏日。仕. なものになり、宋学に到って衰退してしまった。「至宋則壱専於読. るのか。ある。それは、諸葛孔明のごとき人物が現われるならば可. 有一種儒者平。」といった思想と結び付‑とどうなるだろうか。そ. 底にあった思想、即ち、「儒学人道者也。人貌不為儒。‑‑世登別. に、子産の言葉は、﹃春秋左氏伝﹄嚢公三十一年のところに'それ. 細面銭穀算数。莫不暁暢面詰歴」。子夏の言葉は、﹃論語﹄ 子張篇. 也。古着学校所教者。莫非美事也。故士之入学者。大而礼楽刑法。. 能だ、と宕陰はいうのである。こうした考えが、いま一つ宕陰の根 而優別学。学而優則仕。子産日。吾聞学而後入政。未聞以政学者. れは、儒学という枠組を超えて'他の枠組を有する思想と'具体的. に言えば、西洋の道徳論や社会科学と結び付‑道を開‑ということ ぞれ出ている。要するに'そこで敬字は、当今の学問が「仕」と.
(11) 安井息軒と中村数字. その意味では管仲に近い思想家だった。しかし敬字は、子産‑そ. 人物で、法家思想家ともいわれるが、儒学的思想をも持っていて、. た法律を、鼎に鋳て民衆に示した'つまり成文法を公布した最初の. しているのである。周知のように子産は、中国史上、自分が制定し. 仕と学は一つであったことを示すために、子夏と子産の言葉を引用. 「学」 が二つに分かれてしまっているのを批判し、古代においては. のである。恐らく、このことを確認したいがために'息軒は﹃管. 治と法は排除し合うものではな‑、互いに関り合っていた、という. そこには息軒自身の思想が窺われ、子産より前の時代も、道徳と政. くして統治したといっているのではない、と息軒は注釈している。. が子産を批判したのは'刑書を鼎に鋳込んだからで、聖王が刑書な. (1 5) 鼓之、非謂聖王無刑書也。」注視したいのは最後のところで、叔向. 藩論」を書いているが、そこにはまだ'徳治主義の考えが抜き難‑. よ り も 管 伸 の 方 を よ ‑ 高 ‑ 評 価 し て い た よ う で あ 子﹄の研究に専心していったのであろう。1万㌧敬字も「子産鋳刑. る.これは孔子の評価を受け入れたものである。「祭姐棟先生文」. 現われている。即ち叔向が刑書を批判したのは、国民が姦に長じ、. して滅文伸⁝. の中で敬字は以下のように書いている。「余日。亦開夫子論管仲平。. 官吏が法に頼ることを憂えたからであ‑、子産が刑書を鋳たのは、. 敬字が法家思想、殊に﹃韓非子﹄に関心を寄せたのは、その現実. 日微管仲.吾其被髪左裾夷。日如其仁。試着一部論語。其准尊有至. 中国において、儒家的思想 (徳・礼治主義) と法家思想(法治主. 主義のためであったが、また、荻生姐殊の影響もあったかもしれな. 国民が罪を犯し、官吏が私利を計ることを思えたからで'何れも仁. 義) との最初の争いは、叔向と子産の間でなされたといわれてい. い。周知のように、江戸時代の儒学者の中で、法家思想に大いに関. 此者平。子産鄭之賢大夫也。戚文伸魯之賢大夫也。論其心術学問。. る。それは、﹃春秋左氏伝﹄昭公六年三月に、叔向が子産に与えた. 心を持っていたのは'荻生狙裸や太宰春台など'所謂古文辞学派の. (2) の心から出たものだ、というのである。このように敬字は子産につ. 書簡に見られる。同書筒中の「周有乱政。而作九刑」 の後に、息軒. 人々であった。荻生阻殊には﹃読韓非子﹄という優れた著述があ. 登管伸比哉。然而夫子於伸也。独拳拳蔦。是何故。夫子之意。蓋日. は以下のような「案」を付している。「刑以輔政、雄聖王明主、必. る。朱子学の立場からいえば確かに姐殊は異端者である。しかるに. いては論じたが、法家思想家としては韓非子を論じている。﹃管子﹄. 不能廃之、既己不廃、為士師者不得率意用之'亦必有成法、故五刑. 数字は'上の「祭狙殊先生文」にも窺えるように、狙株の学問を非. 管伸尊王援夷。万世之功也。雄亡子産等百数。何欠於中国。此其所. 有服、著手兵典、是其証也、然古之用刑者、度情与事、上比下比'. 常に尊重していた。その理由を数字は'上に引用した文に続けて以. については論じていないようである。. 拠成法以断之、而不便民知之、所謂議事以制是也、及商周有乱政、. 下のように述べている。「吾邦至子株翁。而文数大開。土子読書作. 以重罪伸欺。」. 特詳其法'不復随情軽重之、今子産又鋳刑書、以明示於民'故叔向.
(12) の狙殊を称えた文章が、この文章の前の、管伸、子産、戚文伸に言. 沢之意.則除翁之外。其貌能与乎是。此余之所以独亜種翁也。」 こ. 醇。錐或不及憧寓羅山諸先輩。而至千億人起日出手限。不襲前人脚. 文。自是而始無大悦子西土。其功崖不偉哉。若其操行之正。学術之. このように、敬字は、韓非を高‑評価した。そして敬字をして ﹃韓. ように結んでいる。「世之学者。憤勿為之意。而為韓非所珊笑哉。」. 貧弱。至子破滅者。職是之由。」そして敬字は「論韓非」を、次の. 国在農。強国を兵。而徒知覚文学之士。而不知重農与兵。自富国之. 葛孔明であった。とするとここでも敬字は塩谷宕陰の影響を受けて. 及 し た 文 章 に 続 け て 書 か れ て い る こ と は 注 目 さ れ て よ い だ ろ う 。 非子﹄を読ましめ、そうした評価に導いたのは、上述のように、諸 父・鎗洲の思想を受け継いだ息軒が、我が国の儒者中、荻生狙棟と. いたのであろうか。宕陰は、上にも述べたように'当今の学問を救. ないと説いていたからである。. い'学問を復権させるには孔明のごとき人物の出現を得たねばなら. 伊藤仁斎を最も尊重していたことは改めて述べるまでもない。 しかし、「韓非論」によると、敬字をして韓非を重んじせしめた のは、諸葛孔明であった。もっとも初めは、他の儒学者と同じよう. 書。以彼其才。乃以此卑卑者。勧其主。何哉。」周知のように、﹃三. だがここに次のような疑問が起った。「独怪諸葛孔明勧後主読韓非. 使韓非得志於天下。其禍決不在李斯之下。」tと故事は書いている。. た。「巌秦焚書坑儒。其説出子李斯。而李斯之学。与韓非無以異。. り事実に行はる可らず。当時を以て孔子の事業を見るに、彼の管伸. を主張し、無形の徳義を以て天下を化するの説を唱ふれども、固よ. 概略﹄ の中に次のような文章が見られる。「孔子は独り轟舜の治風. 吉もそうした考えを持っていたかもしれない。例えば、﹃文明論之. には、法家思想の積極的見直しが必要と考えたのであるが、福沢諭. 以上のように、敬字は'儒学の非現実性を補完あるいは克服する. 国史﹄ に、劉備が子の劉禅に残した遺詔の中に、孔明は ﹃韓非子﹄. の輩が時勢に順ふの功なるに及ぼざること達し。孟子に至ては其事. に'韓非は李斯と共に、秦の所謂焚書坑儒を導いた学者と認めてい. ﹃管子﹄、﹃六碍﹄などを書写し、劉禅に送ろうとしたが、途中で死. 益難し。」福沢が、﹃管子﹄ や﹃韓非子﹄をどれ程読んでいたかは分. < U j. んでしまった'とある。何故、諸葛孔明は、後主劉禅に ﹃韓非子﹄. などを読むように勧めたのか、と数字は問うのである。しかしその らないが'当時の儒学者と同程度の知識は持っていたのではないだ. 而孔明之勧後主著。果不為過也。」結局、周末以後の学問が非現実. とを知‑得た。「及後博参経伝子史。然後知韓非之言。未必無可取。. ったが、この方向を決定的にしたのは、勿論洋学であった。敬字が. ども取り入れながら、自らの儒学をよ‑現実的な方向へと導いてい. 敬字は朱子学を基本にしつつも'陽明学からも学び、法家思想な. ろうか。. 的になっていったのに比し、韓非はよ‑現実的な議論を行ってい. オランダ語を学び始めたのは意外に早‑、弘化四年頃で、幕府侍医. 後'博‑様々な書物を渉猟した結果'孔明の言が誤‑でなかったこ. る、というのである。「患在乎徒尚文学之士。而不之以功実也。富.
(13) 安井息軒と中村数字 >M. 日器械'日航海、日医術、是六者、精赦工妙、出天出地、漢土之所. のように聞いた。「蓋洋夷所長著者六、日天文、日地理、日算数、. 有可取'亦聖人之所不棄也。」また'洋学者から洋学の要旨を以下. 吾不如老農老固、夫洋学者、技芸寓耳、猶之治稼圃之類也。便其少. 技芸を棄てることはなかった。「昔者契遅諸学稼学為固、孔子日、. る。西洋の学問は、「技芸」を中心としたものではあるが、孔子も. (1 8) ような考えを持っていたかは、「洋学論」によって知ることができ. 安政二年には英語にも接していた。当時'敬字が洋学についてどの. で蘭学者・桂川甫周について'隠れるようにして学んだ。そして、. 守マ) 也。故亦皆不常其所、而太陽中処為之心所以激転'而使日新不己. 生隔日多、而成於厄勤西亜、謂天止而地動'月之与五星'管地類. に適ったもので、積極的に取‑入れてよいとしている。「地動之説、. る。その中で息軒は、西洋の地動説を説明し、それが極めて「理」. (1 9) が最も心服したものであろうか'「地動説」という文章を書いてい. に、「天文地理者西洋説ヲ乗用仕儀」、とある。特に地動説は、息軒. とある。実際、明治五年十一月に'その筋に届出た三計塾明細表. 「安井息軒先生碑銘」にも'「至天文地理工技算数。則参取浮説。」. 当時支配的であったそうした洋学観は、息軒も共有していた。. 十有六転、則周於規而成歳臭。」地球に住んでいる人間は何故そう. 也、‑‑・地球之転於空、猶率之轍於地'東1転則為一昼夜、三百六. ある。西洋人の優れたところを学んで利用することがどうしていけ. した運動が分からないのか。これには、西洋の巨舶の説を以って答. 不及也。」しかし西洋人も、中国人、日本人などと同じ‑、人間で. ないことであろうか。「今洋夷亦人耳、我収其所長雨用之何為不. と略々同じであった。佐久間象山の「東洋道徳、西洋芸(技)術」. しかし'敬字の以上のような洋学観は、当時支配的だった洋学観. て斥けたため、儒者もそれに従い、地動説の「由来」を究めること. ている。ところで清国では、国王が地動説を国民を惑わす妖言とし. 又安能大地之為動哉。」このような西洋の地動説はよ‑理が尽され. える。「乗巨舶於江、唯見岸於彼而不党舶行於此、舶行且猶不覚、. という言葉に示されているように、道徳は東洋の方が優れている. をしなかった。これに対し自分は、地動説が理に適っているかどう. 可。」. が、技術は西洋の方が進んでいるというのが、当時支配的な洋学観. 数字は、東洋と西洋の両学問に精通した象山を「鉦儒」として尊敬. 学的態度がよく現れていて興味深い。何故'西洋ではこのような説. 請挙其最易見者一以証之、即其全可類推蔦。」ここには、息軒の科. かを試みた。「予嘗試恩之、其言極近於理、而適見天動之可怪桑'. していた。実際、数字は元治元年'京都で象山に会見している。し. が出て'東洋には出なかったのか。それは、東洋の学問が'専ら. であった。そして'上に引用した「自叙千字文」にもあるように、. かしその後、刺客に会って、象山は道側に尖れた。自分も色々非難. 「数」を主としたものであるのに対し、西洋の学問は「理」を主と. しているからである。もっとも、東洋にも宋学のように「理」を中. されたが、どうにか災厄を免れることができた、と数字は言ってい る。.
(14) Ⅰ4. 軒はこの文章を結んでいる。. 難い。「若以而己奏'我寧従西説、是亦君子捨己従人之義也」、と息. 心としたものもある。しかし後備も'理を十分究めているとはいい. するには、少年書生では駄目で、儒学や宋学に通じた者でなくて. 自ずと日本の利益となると思われる。だが、西洋の形而上学を理解. 学を理解できる者が多‑なくては支障が出てくるだろうし、また'. 「留学奉願候存寄書付」を書いて、志願の意図を表明している。こ. した。敬字はこのイギリス留学に志願したのであるが、その時、. 留学生に選ばれたなら、これらの学問の研究に勤しみたい。「私義. し邪正利弊を探究いたし侯義ハ難成事卜奉存候。」それ故、自分が. 末流を汲み漆洛の遺風を慕ひ候ものこ無之而ハその是非善悪を熟察. は、その是非、得失を探求することはできない。「何レにも抹消の. の「書付」で注目されるのは、西洋学間についての理解と、その西. 此度留学の御人按に与‑候へバ不及ながら是等の学問を講究仕度所. 冒頭で述べたように、慶応二年十月、敬字はイギリス留学に出発. 洋の学問をどう評価していけばよいかについての考えである。前者. 存二御座候。」. (20). についてはこう書いている。「西洋開化の国にてハ凡ソ学問ヲ二項. 稼穏樹芸の学などから、それぞれ成っているという。このように'. 学、工匠機械の学、精煉点化の学、天文地理の学'本草薬性の学、. 詞楽律絵画離像の芸などから、後者は、物質の学で、万物窮理の. の学で、文法の学、論理の学、人倫の学、政事の学'律法の学'詩. 学の二つの学問から成っていると理解している。即ち、前者は性霊. かし、敬字は今や、洋学を客観的に捉えて、形而上の学と形而下の. るというのが、それまでの敬字の洋学理解であったはずである。し. 敬字の洋学理解は深まっていたのだろうか、洋学は形而下の学であ. 而下の学、と此二ツニ相分申侯。」イギリス留学を志願するまでに'. われる。だが、敬字は最後まで、儒教に依拠しながら、西洋の学問. いたに違いないが、次第にそれが無理なことを理解していったと思. た。初めは、儒学の中に、西洋の形而上学を包摂しょうと意図して. しかしイギリスで敬字が目にした西洋の学問は余りにも巨大であっ. 留学中も'日本に帰国してからも変らなかったのであるけれども'. ょうという考えを持っていた。そしてこのような意図は、イギリス. を、自らの奉ずる儒学によって解釈し'その是非得失を明らかにし. かし、上にも見たように、イギリスに到着するまでは'西洋の学問. は専ら西洋の学問について様々なことを思っていたに違いない。し. た﹃管子茶話﹄を、上海で清国の人に手渡したが'その後は、敬字. こうして敬字はイギリス留学に出発した。途中、息軒から托され. 洋学には二つの学問があるが、しかしそれまで発達してきたのは、. を理解しようとしたのであって、それがかえって、西洋の学問、広. ニ相分ケ申侯棟二承り申候、 性霊の学即形而上の学、物質の学即形. 形而下の学問の方で'形而上の学問はまだ十分発達していない。だ. ‑いえば西洋の文明を正確に理解せしめることを可能にしたのであ K ? ‑. が西洋でも、人倫の学、政事の学、律法の学などの形而上学の重要 性が増し、研究に力を入れてきているので、日本もそうした形而上.
(15) 安井息軒と中村敬字 IB. でも重要なのは次の三点である。一、西洋の文明・学問の中心にキ. であろう。そして敬字はそうしたGodが西洋文明の根本にあると認. した上帝であれば、儒学の宗教化された天とそれほどの距りはない. 道ノ昭然トシテ疑フベキ「ヲ窺ヒ知「ナリ」、となっている。こう. リスト教があること'二、西洋の道徳と東洋の道徳は一致している. 識したのであった。. 数字が西洋に留学し、西洋から学び知ったことは多いが、その中. ということ、三、西洋の政治は法によって支配されているというこ. 明治二十二年四月の講演「古今東西一致道徳の説」において'十分. (22). 故事が東洋の道徳と西洋の道徳とは一致しているという議論は、. に三つの領域、即ち'宗教、道徳'政治の領域に向けられていた。. 尽されている。その冒頭で、数字は次のように述べている。「昔し. と、である。ここからも分かるように、西洋の学問への関心は、特 そしてこれは、儒学は宗教、道徳、政治の分野からなっているとす. 陸象山の言に、東海有里人出鴬、此心同也、此理同也、西海有聖人. 出蔦、此心同也、此理同也tと日へ‑、象山の時ハ、儒教の外に'. る敬字の儒学理解に対応しているのである。 数字は洗礼を受けキリスト教徒となったが、その神理解は、儒学. のGodとは違うものであった。敬字も理神論をよ‑知っていた。敬. とは変っていたからである。例えば、近代の理神論のGodは、中世. Godを理解し得たのは、西洋においても、Godの概念が中世と近代. ても、それはキリスト教のGodには至らない。敬字が天を通して. も決して誤りではない。だが、儒学の天をどんなに宗教的に理解し. っている。敬字の天理解も、藤樹のそれの延長上にあったといって. 日本陽明学の祖・中江藤樹もそうであって、上帝とも皇上帝ともい. かった。儒学の天を宗教的に理解していたのは敬字だけではない。. の大なるもの」である。「良心及び愛情は、人性に根ざして生じ、. の本源こゝに在り、家国の基礎こゝに在り、これ古今東西道徳l敦. ことなり、この自由なるもの、実に修身即ち自治の根本なり、福禅. ︹天理︺主とな‑て自由を得るな‑、人心︹人欲︺ の奴隷とならぬ. 摘んでみよう。「西洋の自由の正義は、支那にて言へば、道 心. なところで一致しているというのである。同講演の中から、二・三. 論、細い点まで東西の道徳が一致しているというのではない。大き. 然るを信ずぺけれバ'この言や'千古の卓見と称すべきなり。」勿. 同也、此理同也tと断言したること、之を今日に験して、益々その. の天を通してなされ、キリスト教のGodと必ずしも同じものではな 仏教あるのみにして、未だ西洋の説、支那に入らず、然るに、此心. 字が ﹃同人社文学雑誌﹄ に載せた「上帝ノ必ズ有ル「ヲ論ズ」は、. 道徳の本源たることは、古今東西に通じて、大抵同一なるものゝ如. ラショナリティ. ロックの ﹃人間知性論﹄第四巻第十章「神なるものの存在につい. し。」良心は東洋では'孟子以来「本心」という意味で使われてき. (21). て」を翻案したものだが、ロックは理神論者だった。そこではGod. たが'これは西洋のmoralsenseと同じだというのである。そして. ( 8 ). は上帝と訳されている。同上文の最後は'「上帝既二心霊アル物ヲ. 造り玉フ、ソノ功用ノ跡ニヨリ、ソノ至大ノ智'至大ノ能、及ビ天 数字は'最後に次のように語って同講演を結んでいる。「リーベル.
(16) Ⅰ6. 象山の名前が出ているが、陽明学の影響は意外に大きかったのかも. ずして'豊能‑此の如‑ならんや。」 この講演の冒頭と最後に、陸. からずと云へ‑、拘とに陸象山の言へる如く、此心此理同じきに非. 人に施すべし、人よ‑施さるゝを欲せざる事は、我之を人に施すべ. 律法は、数語に帰す、日‑、人よ‑施さるゝを欲する事は、我之を. 冒‑'時の古今、地の遠近を論ぜず、道徳を実際に行ふことの要語. 1を翻案し、自らの解説と評を加えたものからである。原テキスト. 1853‑60) の第一巻所掲 DissertationFirst,Chap.I.Chap.II.‑Section. 接的というのは'同論が、TheEncyclopaediaBritanica(8thed.﹀. 斑」は'敬字が学んだ西洋の社会科学を間接的に教えてくれる。間. だかはよ‑分からないが、帰国後、﹃明六雑誌﹄ に載せた「西学一. としたものとは異っていた。敬字が西洋のどういう社会科学を学ん. である。それは、東洋の主流を形成してきた社会科学が政治を中心. ので'「酉学一斑」は敬字の関心に従って、選択要約されている。. { "‑. は、ルネサンス以降の西洋の形而上学・道徳思想史が記述されたも. (24). しれない。 敬字はヨーロッパ留学以前から、法や法制度に強い関心を持って いた。それは上述したように、「子産鋳刑書論」や「韓非論」を書. 石之罪。不在行新法。而在用小人。」「有治人。無治法。」といった. 着不改其所為。錐行周官之法度。必且乱天下。豊独新法罪哉。蓋安. 治人。無治法。山豆不信我。世督言安石行新法。乱天。殆非也。便安. 乱。錐申商之術。而以慈恵之心行之。民生未必不蒙福。古人云。有. 未必害民意国也。政経尭舜之法。而以刻薄之心行之。天下末必不. 奉行之人不善良。則未足以成治功也。法不良臭。奉行之人良書。則. えられていた。「王安石論」 の冒頭にも次のようにある。「法良奥。. て、法や法制度は、あ‑まで'儒教の徳治主義を補強するものと考. と法家思想を積極的に取り入れたのである。しかし、敬字にとっ. ノ律法ノ周備完密ナル「驚クベシ。」、とある。この辺りは、ヒユー. テ命令ヲ下ス「ナシ、管 疋ノ律法二由テ政治ヲ為セリ、而シテソ. 「今日二至リテハ諸邦ノ君主タトヒ聡明衆こ超タリトモ己ノ意ヲ以. 以テ統治ヲ為ス人ノ命令ヲ以テ統治ヲ為サズ。」と。そして続いて'. フベシ'昔シ民政ノ国に於テ言ル「アリ、民治ノ国ハ大公ノ律法ヲ. ノ国二於テハ君上アリテ国政ヲ為スモノ最モソノ政体備ハレリトイ. 種々ノ政体アリティズレモ日々月々こ完善二進ム「ナルガ就中開化. の学説について述べられている。ヒユームの学説に日く、「今天下. が注意を惹‑。その三には、マキヤヴエリを批判したD・ヒユーム. とで'ベーコン、ホップズ、ヒユームなどの法思想についての言及. いていることからも分かる。敬字は儒学をよ‑現実的たらしめよう注目されるのは、法・法制度に敬字の特別の関心が払われているこ. 古人とは苛子である。. あるが、しかしヒユーム社会科学の核心であるーそしてそれは西. ムの「市民的自由について」 ;"ofCivilLiberty") に出ている文章で. 洋の社会科学を学んだ際、大いに助けとなったのではないだろう. 洋社会科学の核心でもある‑ 「法の支配」が簡明に記述されてい. しかし、敬字が法や法制度に多大な関心を持っていたことは、西 か。何故なら'西洋の社会科学は、法を中心として成っていたから.
(17) 安井息軒と中村数字 Ⅰ7. る。勿論、数字が西洋の「法の支配」をどれほど理解していたかは. ノ時勢二随ヒ天然ノ服健二就テ次第ニコレヲ行へハ多年ノ後日ラ変. 変シテ人心和楽スルナリ、一旦ニコレヲ行ントシテ租歯ノ法ヲ立レ. 化スル「ナリ。」と。そして最後のところに以下のような割注が入. 「西学一斑」 の瓦と六では、ベーコンの科学論と立法論が述べら. ハ民心騒動スルノミニシテ風俗ツヒニ改変セズソノ目的達シガタ. 分からないけれども、この論考を読む限り'敬字が西洋社会科学の. れている。ここでも、ベーコンの立法論、特に新法論が注目され. シ」tと。ここで敬字は、ベーコンの「自然ノ時勢」の思考株式と. っている。「尭典所謂於変時薙ハ是ナリ、カクノ如クナレバ風俗改. る。ベーコンは新法論についてこう言う。「旧俗故俗二豚執スルト. ﹃書経﹄尭典に見られる思考株式が相似ていることを指摘している. 核心を的確に捉えていたことは確かである。. 新法ヲ以テ紛更スルトヒトシク皆邦国ヲ擾害スルナリ、旧ヲ改メ新. ことに注意すべきであろう。その思考様式とは即ち「生成」 であ. (cm). 二換ルモノハ時令節物二如クハナシ'然レトモ黙然トシテ声ナク人. に結び付いているのである。何れ詳し‑論じることになるが、息軒. ヲ シ テ 自 ニ コ レ ト 共 二 化 セ シ ム ル 「 ナ リ 」 、 と 。 そ し て こ の 後 に 、る。そして西洋の「法の.支配」は、「生成」という思考様式に密接 次のような無所争子の評が付されている。「王安石ノ如キモノ新法. 然権、社会契約説が正確に理解されている。. 「西学一斑」七では、ホップズが扱われているが、ホップズの自. 占めている。. ヲ行ヒ天下ヲシテ滴々トシテ騒動シコレヨリ禍乱日こ起り宋室終二 の経学においても、「生成」という思考様式が非常に重要な位置を 振ハサルニ至レリ、矧楓ノ所謂新法ヲ以テ紛更スルハ邦国ヲ擾害ス ルナリト云ルハ拘二千古不抜ノ論トイフベシ。」 これは、先に見た 「王安石論」 の議論とかなり異っている。「王安着論」では、安石の. ている。また、六の冒頭で次のように述べられている。「倍根英王. ノ情」を無視して行うところにある、とするベーコンの議論に与し. 新法の危険性は、「自然ノ時勢」、具体的には、「土地ノ俗」'「人氏. ノ好ミニ随テ為ル「ヲ得ベキノ権力ト云ガ如シ、スベテ大公ノ利共. レヲ自主之理卜訳シ執矧楓任意行為之権卜訳シタリ、蓋シ人民己レ. 語アリ、我邦ニモ支那ニモシカトコレニ当レル語アラス、馬礼遜コ. の以下の文章に要約されている。日‑、西語こリベルテイトイヘル. 「酉学1斑」における数字の考えは、その三に付されている訳者. 鍬楓第七ノ法度ヲ賛シテ王ノ立ル法度ハ深遠ニシテ租歯ナラズ旦別. 同ノ益トナル律法二遵フノ外更二他ノ圧制拘束ヲ受ケザル権ヲいけ悼. 新論の失敗は、君主や官吏の愚好にあるとしていたが、ここでは、. 急速ノ計ヲ為ズシテ後来民生ノ福ヲ謀レリトイヘリ'コノ深遠卜租. イルリベルテイト云フテ西国ニテハコレヲ開化治平ノ基トスル「ナ. モ リ ソ ン. 盛上二者ノ間ヲ識別セン「ヲ要ス、所謂深遠トハ立法者タシカニソ. リ。」ここには'近代西洋の社会科学の「法の下の自由」という根. ペ‑コン. ノ目的ヲ達シ十全ノ功ヲ遂ン「ヲ期スレドモソノ時代マデ久シク慣. 本原理が簡潔に記述されていて'数字が西洋社会科学をかな‑正確. ヘンリ‑. 安スル「ヲ一旦ニコレヲ改メ民ノ耳目ヲ驚ス「ヲ為サズ、特二自然.
(18) Ⅰ8. は違った思想、風土を持っている東洋・日本に持ち込むには、どう. 以上発展させることはなかった。況んや、こうした議論を、西洋と. に理解していたかが窺われる。しかし、敬字はこうした議論をこれ. ない。ここに、安井息軒を研究する非常に大きな意義があるといえ. で、﹃管子﹄ に最も精通していたのは'安井息軒を除いて他にはい. の思想が殆ど唯一のものであり、そして、近代以前の東洋・日本. 宗教と道徳に向かっていき、宗教と政治'道徳と政治については論. は、終に踏み込むことはなかった。その後の敬字の関心はますます. からであると論じた。恐ら‑'法学の発達が遅れたことが、中世末. は、儒家と法家とが激し‑対立し、道徳と法とが切‑離されてきた. 繰り返すが、穂積陳重は、東洋において法学が発達しなかったの. い う よ う に 考 え 、 ど う い う こ と を す れ ば よ い の か と い っ た 問 題 に る。. じても'宗教、道徳と法については殆ど述べることはなかったので. 期以降'東洋が西洋に大き‑遅れをとることになる一大原因であっ. '‑‑,1. ある。. よかろう。福沢がより多‑議論したのは、政治であり経済であり法. andCausesoftheWealthofNations,1776) の中で、次のように述べ. けではない。A・スミスは、﹃国富論﹄ (AnlnquiryintotheNature. ただろう。しかしこうしたことを指摘していたのは、何も東洋人だ. であった。恐ら‑、幕末から明治初期にかけて活躍した啓蒙思想家. ていた。「シナは'長いあいだ世界で最も富んだ、すなわち最も肥. この点で敬字は'福沢諭吉とはかなり違った道を辿ったといって. の中で、西洋の社会科学を最も正確に理解していたのは福沢であっ. 沃で、最もよ‑耕作され、最も勤勉で、そして最も人口の多い国の. 蝣. ただろう。しかしその福沢にしても、西洋の法学に対する理解は必. 一つであった。けれども、この国は長いあいだ停滞的状態にあっ. *. ずしも十分であったとはいい難い。だがそれは、西洋の法学という. たようだ。」 「シナは長いあいだ停滞的状態にあったようにみえる. c. 個別分野の学問についての知識が不十分だったということではな. が、たぶんずっと前に、その国の法律および制度の性質に適合した. ( 8 ). い。それは、西洋社会科学の「構造」 の把接が十分でなかったこと. 現在のものとは別の法律と制度をもってした場合に、この国の地. に由るのである。そしてこのことは、福沢だけでな‑中村について 富の全量を獲得してしまったのであろう。だが、この富の全量は、 もいえるのである。つまり、西洋の社会科学の「構造」が理解でき. 味、気候'位置の性質上、可能と思われる富の大きさにくらべる. f ^ ;. るには'理解者側 (中村や福沢、広‑いえば、東洋・日本人) に、. を持つ東洋の思想に精通している者のみが持ち得る。東洋の思想. あるまいか。そして、そうした素地は、西洋の社会科学に似た構造. ﹃管子﹄以外には見当らない。安井息軒は、﹃管子﹄ の思想を構造的. 西洋の伝統的な社会科学の構造に似たものを東洋に求めるならば'. 近代的ではあったが、その構造は西洋の伝統的なものだった。その. それを理解する素地が予めあってはじめて容易に理解できるのでは と、はるかに少ないかもしれないのである。」 スミスの社会科学は. で、西洋の社会科学の構造と似た構造を持っているのは、﹃管子﹄.
(19) 安井息軒と中村故事 19. 'flI. に的確に捉え得た殆ど唯一の儒者であった。息軒が、儒家思想と法 家思想とを架橋し得た所以である。. (13)安井息軒﹃左伝輯釈﹄(広文書局、中華民国五十六年)、下巻十九、十 五。. の中で阻棟はこう言っている.「管子而後O世之狗功利者。何建一夷吾. (t <‑ Oh ¥I萩原隆﹃中村敬字と明治啓蒙思想﹄(早稲田大学出版部、昭和五十九 v 年)、二八‑九頁。荻生狙殊にも、「駿管子」という短い文章がある。そ 注. LL'‑,:.・.‑・.2'・.;'・・.T.HJ.I 中村数字「留学奉覇侯存寄書付」﹃明治啓蒙思想集﹄所収'二七九頁' 編」﹄(名古屋大学出版会'平成十八年)も参照O. また'平川祐弘﹃天ハ自ラ助クルモノヲ助クー中村正直と「西国立志. 岩波書店'昭和六十三年)、三‑六貫。. (18)中村数字「洋学論」(﹃学問と知識﹄所収、﹃日本近代思想大系﹄1. 論客である。. 益するところなきを悲しむのみ。」(同上)。尚、蘇秦'張儀は縦横家の. ず、其学問を当時の政治に施さんとして、却て世間の職を取‑、後世に. に左視して孔孟を掻斥するに非ずと雄ども、唯此二大家が時勢を知ら. 「孟子の言を閉て仁政を施せば政と共に身を危ふするの恐あり、即ち膝 は斎 き輩に介ま‑て孟子に銘策なかりLも其1証な‑.余輩敢て管伸蘇張 の. 三十四年)'六一頁。福沢はこの文章に続けて以下のように言っているO. 書﹄巻六所収、同文館'昭和三十年) (」)福沢諭吉﹃文明論之概略﹄(﹃福沢諭吉全集﹄第四巻'岩波書店'昭和. 聖人ノ制こ非ル法律トイフモノヲ用ルハ'自然ノ勢也。」(﹃日本経済叢. 県ニスルコト、モト聖人ノ制二違ヘルコトナレバ'是ヲ治ムル道モ'亦. 預り知ル所二非ズ、‑‑郡県ノ政ニハ、律ヲ便利トスルナリ、天下ヲ郡. ノ国也、諸侯ノ国ハ'一国ヅツ其君ノ法ニテ治ムル故こ、天子ノ官人ノ. 以上ハ封建ナレバ、天子ノ地ハ僅二幾内千里ノミニテ'其外ハ大小諸侯. 都県ニナリテハ'律ヲ用ヒズシテハ叶ハザル道理モアリ、其子細ハ三代. ニテ、仁恕二違ヒ、先王ノ道ヲ去ルコト遠シ'然レドモ秦漠以後'天下. 刑トイブ定法ヲ以テ刑ヲ当ツル也。‑‑是別法二任セテ人二任セザル政. 卜刑名トヲ定置テ'其名目ニサヘ合へバ、何ノ料簡モナク、此罪ニハ此. 八「法令」の中で以下のように論じている。「後世ハ法律ヲ立テ'罪名. 巻十五所収'博文館、明治三十六年)。また、太宰春台は'﹃経済録﹄巻. ∵川⁚‑ *‑**>%‑ *∵∴.‑I.'' .'. 0 応宝時「管予審話序」 (﹃管予算請﹄ ﹃漢文大系﹄ 二十1所収、冨山房、 大正五年 初版発行) m 安井息軒「序」 (﹃管子婁話﹄所収) (3) 中村数字﹃敬字文集﹄ (吉川弘文館'明治三十六年)、数字の文献は、 特記しない限‑すべてこれによる。 (4) 塩谷宕陰「管子英誌序」 (﹃管子素話﹄所収) (5) 穂積陳重 ﹃祭紀及礼と法律﹄ (岩波番店'昭和五年)、二五四‑五頁。 (6) 中村数字「自叙千字文」 (﹃明治啓蒙思想集﹄ ﹃明治文学全集﹄ 3所収' 筑摩書房、昭和四十二年)、三四三‑四頁。 (7) ﹃中庸﹄ (﹃新釈漢文大系﹄ 2所収、明治書院、昭和四十二年) ( 8 ) 安井息軒﹃中庸説﹄ (﹃漢文大系﹄一所収'冨山房、明治四十二年) ( 9 ) 安井息軒買翌相集説﹄、同右所収O ( S ) この辺‑は、拙稿「安井息軒における道徳と法」 (冒;:屋佳男先生古稀 記念 比較文化の可能性警成文堂'平成十九年)参照。 ォ) 「沼山対話」 (﹃日本思想大系﹄55所収、岩波書店、昭和四十六年)'四 九七f5iJ 姐順四 島田慶次 ﹃王陽明集﹄ (﹃中国文明避﹄ 6、朝日新開社'昭和五十年)、 二1人‑九貫o (^A 「沼山閑話」 (﹃日本思想大系﹄55所収)、五二二頁。 ( 3 ) m石陰遺稿﹄ (山城屋政吉、明治三年) 所収。諸葛亮と韓非についてだ が、森鴎外の ﹃伊浮蘭軒﹄ (その百六) に以下のような興味深いところ がある。「蘭軒はかう云つてゐる。﹃素間者論医之源。其道也大。可以比 老子O伸貴著定医之法。其言也正O可以比孔子O金張従正者究医之術0 其説也権。可以比韓非桑。﹄従正の素間を引いたのは、韓非の老子を引 まは いたのと似てゐるO姦吏法を舞し、狩民令を欺‑時代には、韓非の番も 済世の用をなす。諸葛亮が萄の後の後主に勧めてこれを読ましめた所以 である。」. 0、.
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