︻書 評︼
J・グレイの﹃ハイエクの自由論﹄
冒げpO雷ざ国自ヒ罫§卜導ミ耐鴇切鋤ω出しd訂︒吋≦①戸お躍.
古賀勝次郎
はじめに
ハイエクはいま︑自由主義体系の完成に向けて︑最後の知力を注いでいる︒﹃致命的思い上がり﹄︵笥ミミO§8δ
全三巻の刊行も本年予定されていて︑ハイエクはその校正に余念がないと伝えられる︒ハイエク︑は︑今年八十七歳に
なる︒二十歳後半にデビューして︑学者としての経歴は︑既に六十年に垂んとする︒驚くべきエネルギーである︒恐
るべき執念である︒
ハイエクをかくも駆り立てているものは一体何か︒それは明らかに彼の信念から来ている︒即ち︑現在および将来
の人類の生存は︑自由主義をおいて他にはないという信念である︒それ故︑彼の知的営為は︑すべて︑古典自由主義
を現在および将来に相応しい︑あるいは適用可能な体系に発展させることに向けられる︒そしてその体系−新自由
早稲田社会科学研究 第32号(S61.3)
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主義と呼んでもよい一の完成は︑もう手の届くところまで来たのである︒
しかし︑ハイエクがここに来るまでの道程は決して平坦なものではなかった︒︵古典︶自由主義が︑知的信頼を得
ていたのは︑彼の三十歳頃までで︑それ以後は︑修正自由主義︑社会主義が支配するようになった︒ハイエクがケイ
ンズと併称されたのも極く短い期聞であって︑自由主義の衰退に伴い︑彼の名声も次第に色槌せするようになってい
った︒それから︑六〇年代後半までの約三十年間が︑グレイもいうように﹁冷遇の期間﹂であり︑彼の名は﹁忘却の
彼方﹂に追いやられた︒だが︑注意されるべきは︑ハイエクは︑この﹁冷遇の期間﹂に︑大きく成長したということ
である︒即ち︑彼の新自由主義の骨格がこの期間に形作られたのだ︒具体的には︑一九六〇年の﹃自由の基本原理﹄
︵↓書9蕊ミミ︑§旦卜§︑耐︶となって現われた︒彼が八十歳の時完結した﹃法・立法・自由﹄︵卜職ミ卜轟ミミ焼§
§犠潮汁ミ耐︶三巻も︑そして今年から刊行が始まる﹃致命的な思い上がり﹄三巻も︑﹃自由の基本原理﹄の部分的
修正︑またその一部−それは極めて重要な部分であるが一を発展させたものといっても強ち言い過ぎではな
い︒ だが︑それにしても︑﹁冷遇の期間﹂は余りに長かった︒ハイエクの業績が見直されるようになったのは︑漸く七
〇年代になってからである︒一九七四年に︑ノーベル経済学賞を受賞したことは︑それに弾みをつけたかもしれな
い︒しかし︑ハイエクの業績全体に関心が持たれるようになるのは︑﹃法・立法・自由﹄完結後である︒ハイエク体
系を最初に取り上げたのは︑恐らくN・P・パリーであろう︵﹃ハイエクの社会・経済哲学﹄︑矢島鈎下訳︑春秋
社﹄︶︒その後︑E・パトラー︑C・M・ホイ︑J・シアマーなどが次々に現われ︑ハイエク体系を論じた︒また︑ h司オルドー﹄の﹁ハイエク特集﹂︵O需bP切碧傷ωρH零O︶やハイエク記念論文集﹃自由の政治経済学﹄︵↓ミき﹄ミ魯
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J・グレイのrハイエクの自由論』
肉ミ謹ミヒミ︑詰恥§糞HO︒︒ら︶などは︑それぞれの専門分野から︑ハイエク体系に迫ろうとしたものである︒
グレイの﹃ハイエクの自由論﹄︵照屋・古賀訳︑行人社︑昭和六十年︶も︑このように七〇年代末から見られるよ
うになった︑ハイエク体系への関心︑見直しといった流れの中で現われたのである︒ところで︑グレイのこの著作
は︑ハイエク研究史の上で︑一時期を画するもの︑ということができる︒即ち︑一言でいえば︑ハイエクを近代ヨー
戸ッパ思想史の中で︑はじめて﹁正当に﹂位置づけたことである︒中でも︑特に注目されるのは︑ハイエク思想の起
源を︑D・ヒュームと並んで︑いやそれ以上に︑1・カントに求めていること︑また︑ハイエクの方法論を現代科学
論の中で位置づけていること︑の二点である︒このことは︑今後︑ハイエク研究の飛躍的発展を予想せしめるに十分
である︒というのは︑これまでのハイエク研究は︑経済学︑せいぜい政治学の分野に限られていた︒しかし︑現在わ
れわれが直面している最大の問題は︑個別科学の問題ではなく︑近代の科学−社会科学︑自然科学を含めて一そ
のものにあるからだ︒このような問題には︑思想史的検討︑方法論の再吟味︑といったことが︑必要欠くべからざる
ものだからである︒従って︑私は︑以下において︑上述の諸点に特に重点をおきながら︑この著作を解読していきた
いと思っている︒
扱て︑著者のJ・グレイは︑一九四八年生まれ︑オクスフォード大学エクセタi学寮卒業︑現在︑同大学イエズス
学寮政治学特別研究員兼チューターである︒グレイの処女作は︑﹃ミルの自由論﹄︵ミミ§忠Oミ嘗一H㊤︒︒ω︶︑本書は
第二作である︒多数の論文の他︑編著として︑﹃政治哲学における自由の概念﹄︵O︒§魯怖ご蕊亀卜㍉簿ミ謝儀ミ℃︒ミ苛ミ
㌔ミN8︒導8お︒︒鮮︶などがある︒目下︑イギリスにおいて最も精力的に活躍している新進気鋭の政治哲学者である︒
以上のグレイの著書︑あるいは編著のタイトルからも窺えるように︑彼は一貫して︑﹁自由﹂の問題を扱ってきた︒
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読老のために︑一応︑本書の目次を記しておく︒
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第一章 ハイエクの思想体系1その源泉の範囲 序
一 ハイエクの思想体系の統一性とその哲学的特質
2 ハイエクの哲学一般iカントから受け継いだもの
3 ハイエクの懐疑論的カント主義への四つの影響ーマッハ︑ポパー︑ウィトゲンシュタイン︑ポラニi
4 オーストリア経済学派とハイエクとの関係︑および社会科学の方法論に関するハイエクの論述
5 ハイエクの知識論および知性論一社会理論に対してもつ意味合い
第二章 自発的社会秩序の観念
1 自発的秩序対設計主義的謬見
2 自発的秩序の中心的概念および物理的社会的現象へのそれの適用例
3 自発的秩序の経済生活への適用ーカタラクシi
4 文化の発展と伝統の自然選択
第三章 自由の法
1 法の起源と本質
2 法の支配下における個人の自由
J・グレイの『ハイエクの自由論』
3 法の支配と社会正義という神話
4 自発的社会秩序の法律上の枠組
第四章経済理論と公共政策
1 社会科学と公共政策
2 新古典派的均衡︑資本理論および景気変動の性格
3 ハイエク対ケインズ︑フリードマン現実経済における貨幣の役割をめぐって
4 シャックルのハイエク批判
第五章 若干の対比と比較
1J●S二︑︑レ ノ
2 ハーバート・スペソサ・1
3 カール・ポパー
第六章 評価と批判
一 ハイエク思想体系の統一性
2 自発的社会秩序論の位置と内容
3 ハイエクの自由の政体−若干の批判者の検討
4 ハイエクの社会哲学における保守主義と急進主義
5 ハイエク的研究計画と社会哲学の展望
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尚︑邦訳書の巻末には︑照屋佳男氏の論稿﹁ハイエクとオーウェルー自由の条件﹂が付載されている︒
とオーウェルを対比論じたものとしては恐らく最初のものである︒ ハイエク
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一 ハイエク体系の起源
本書の貢献の先ず第一に挙げられるべきは︑既に述べたように︑ハイエク体系の起源を︑D・ヒュームと共に︑1
・カントに求めていることである︒従来の議論では︑イギリスの古典自由主義者達︑就中︑ヒュームが︑ハイエク体
系の起源だといわれていた︒これは勿論その通りであるし︑それを実証することはハイエクの諸著作から容易にでき
る︒また︑ハイエク自身のヒューム論︵﹁D・ヒュームの法哲学及び政治哲学﹂︶は︑彼の体系の中で︑極めて重要な
位置を占めている︒これに対して︑カントについては︑ハイエクはこれまで余り言及することがなかった︒もっと
も︑余りなかったということであって︑全くなかった訳ではなく︑そして︑言及される場合には︑常に肯定的であっ
たことは確かである︒だが︑カントの言及される頻度は︑もとより︑ヒュームに比し得るものではなかった︒
しかし︑グレイの次のような記述には︑ハイエクの著作に慣れ親しんで来た者にも︑圧倒的な印象を刻み込まずに
はおかないものがある︒﹁ハイエクの著作全体1わけても︑認識論︑心理学︑倫理学︑法理論を扱った著書1は︑
際立ってカント的な方法に充たされている﹂︵邦訳一七頁︒以下すべて邦訳からの引用︶︒また︑﹁ハイエクの政治哲
学の最も興味ある特徴の一つは︑ヒュームの正義論とカントの正義論の中間物︵肺ミミミミミ︶を編み出そうとする
点である﹂︵ニニ頁︶︑とグレイはいう︒この部分を読んだ時︑筆者は︑驚くと同時に︑新鮮さを感じた︒そして︑本
J・グレイの『ハイェクの自由論』
書を読み進んでいくうちに︑このグレイの主張が︑極めて説得力のあることが分か♂︑て来た︑グレイは.ハイエクの
中に見られるカント的なものを︑﹁カントの遺産﹂と呼んでいる︒
カントの遺産
グレイが︑そのカントの遺産として第一に指摘しているのは︑懐疑論的カント主義︵ωooづ江09内ρづユρ三ωヨ︶1
そうグレイは呼んでいる一である︒カント哲学は︑一般に撹判哲学と呼ばれるが︑その基本的考えは︑﹁人間の思
想を論ずるに際して︑人間の経験や関心に全く汚染されていないような世界観を産出し得る外在的︑あるいは超越的
な観点に達するのは不可能﹂︵︸七頁︶だ︑というところにある︒このようなカント的考えは︑﹁われわれは事物をそ
のあるがままの姿において知ることなどできない︒.⁝⁝われわれの経験︵われわれの感覚上の経験をも含めて︶に見
出される秩序は︑世界からわれわれに与えられた実在といった風のものではなくて︑われわれの知性の創造的活動の
産物であると主張する﹂︵同︶ハイエクと殆ど変わるところがない︒
グレイの鋭さは︑そうしたハイエクの懐疑論的カント主義が︑既に︑﹃感覚秩序﹄︵↓譜⑦§8こOミミH㊤齢︶の
中に強く見られることを指摘したところにも現われている︒周知のように︑.﹃感覚秩序﹄の基本的考えは︑ハイエク
が既に二十歳前半に達していたものである︒その中で︑ハイエクは︑﹁世界において事物は実際にはいかなるもので
あるか﹂というようなことに関わることをハッキリ拒否し︑﹁﹃Xとは何か﹄というような疑問は︑与えられた秩序の
中でしか意味を持ち得ないし︑そして⁝⁝この限界内において︑この種の疑問は︑同一の秩序に属するある特定の事
象と他の諸事象との関係に論及するところがなけれぽならない﹂︵一八−一九頁︶と主張している︒特に︑仮象 鵬︵曽O℃①簿﹃poづOΦ︶と﹁実在﹂︵﹁窪一一昌︶の間の違いが︑精神的あるいは感覚秩序と物理的あるいは物質的秩序の間の相
違と同一されてはならない︒つまりだから︑科学的探求の目的は︑仮象のヴェールの背後にある﹁事物の本性あるい
は本質自体﹂︵一九頁︶を発見することではないというのがハイエクの考えである︒このように︑﹁本質とか絶対的実
在﹂︵同︶といったような考えは︑科学や哲学には無用のものとするハイエクの考えは︑明らかに︑アリストテレス
的本質論を拒否するものであり︑カントに与している︒また︑他方︑ハイエクが︑素朴な経験論︑即ち︑﹁概念的思
考に汚されていない︑感覚上の基本的な印象という基底︑しかもわれわれの認識という家屋の基礎として役立ち得る
そういう基底が︑われわれの手の届くところにある﹂︵二〇頁︶︑という考えも批判しているが︑この点でも︑彼は︑
カントに連なっているのである︒
以上から︑次の諸点が明らかになる︒カントにとってもハイエクにとっても︑一︑哲学の任務は︑形而上学的な体
系を構築することではなく︑理性の限界を見極めること︑即ち︑設計主義的な探求ではなく︑内省的な探求にあると
いうこと︑二︑科学の目的は︑カテゴリーや原則の体系を拡張することであり︑それは究極的には︑全く演繹的に組
み立てられる︑三︑われわれの世界像は︑純粋な感覚データを重要な点では基礎にしていず︑常に抽象的にしか表現
されない︒
グレイは︑このようにハイエクとカントの認識論における類似性を指摘したが︑次に︑彼は︑両者の正義論の類似
性を主張する︒先ずグレイは︑ハイエクの正義論がいまだ十分に理解されていない理由を述べている︒即ち︑今日︑
正義論としては︑J・ロールズに見られるような﹁類型﹂を通して正義を説明する方法と︑R・ノジックの人権に基
づく正義論︑の二つ以外にはあり得ないと思い富まされている︑という理由である︒そして︑グレイは︑ハイエクの
正義論が理解されるには︑﹁カントの実践理性における格率の普遍妥当性という要求と︑正義の規範の内容と基礎を
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J。グレイの『ハイエクの自由論』
めぐってのデーヴィド・ヒュームの説明との統合L︵二二頁︶という視点が必要だ︑という︒
正義論におけるカントとヒュームの影響
ハイエクの正義論へのヒュームの影響については︑これまでも︑多くの人が指摘して来たところであるが︑グレイ
はここでも︑ヒュームと並んで︑あるいはそれ以上に︑カントの影響が見られると説く︒
﹁人間の置かれた窮境のしからむる若干の一般的な事実のおかげで︑人間の間に自発的に生ずる道徳的仕来たり
は︑悉く︑いくつかの共通の特色を持っている﹂︵一一二頁︶と仮定している点で︑ハイエクはヒュームの考えを継
承している︒その一般的な事実とは︑ヒュームがその﹃人性論﹄︵↓ミミ画鷲︶の中で挙げているような︑一︑人間の
寛容には限りがある︑二︑人間の知性は不完全である︒三︑人間の欲求を充足させる手段が稀少である︑ということ
である︒具体的には︑﹁財産の安定性﹂︑﹁同意を通じての財産の譲渡﹂︑﹁約束の履行﹂である︒以上のごときものが︑
ヒュームの具体的な規範であるが︑ここで注意しておくべきは︑それらの規範が︑﹁人間の福利を増進するための不
可欠の条件﹂︵一=二頁︶だということ︑従って︑そうした考えの中に︑功利主義的な傾向がある︑ということであ
る︒もっとも︑ヒューム︑そしてハイエクの功利主義は︑間接的なそれ︑即ち︑実際的な問題の解決には︑原則主義
の原則は援用することはできない︑﹁功利性の本来の役割は︑⁝⁝規範や慣習のシステム全体を評価するのに必要な
基準﹂︵一一四頁︶︑といったものである︒要するに︑正義の規範は︑福利一般を実現するための不可欠の条件だ︑と
いうことだ︒ハイエクはそうした考えをヒュームから受け継いだのだった︒
かようなことは︑既に多くの人の指摘するところでもあり︑またハイエク自身の著作に徴してもハッキリしてい
る︒だが︑グレイは︑そこに止まることに満足せず︑それを更に進め︑次のような重大な発言をする︒﹁ハイエクに
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とって︑正義の要請や福利一般の要求は︑カントの思想︑即ち普遍的に妥当する行為の格率への同意を意味する実践 撚理性の思想から導出され得るものであった﹂︵同上︶と︒そして︑重要なことは︑正義の要請と福利一般の要求の両
者が同時にかなえられるのは︑法の支配の下での自由という枠組の中においてだ︑とハイエクが主張していることで
ある︒ ところで︑ここで重要なことは︑ハイエクの正義論において︑﹁カントの普遍妥当性がどのような性質を帯び︑ど
のような役割を演じているか﹂ということである︒しか庵︑﹁普遍妥当性﹂という考えには︑ これまでも︑様々な批
判や誤解があったので︑そういうことも考慮に入れ︑このことを考えなけれぽならない︒その批判というのは︑例え
ば︑普遍妥当性は︑﹁純粋に形式的な規準﹂であるから︑﹁法治国家﹂︵11﹁法の支配﹂︶といった枠組と結びつけるこ
とは無理である︑といったものだ︒しかし︑グレイは︑そのような類の批判は︑明らかに誤解に基づくものである︑
と論駁する︒
例えば︑グレイは︑ ハイエクの次の文章を︑それを証左するものとして引用する︒﹁時折︑カントは彼の定言的命
法の概念を公共の問題に適用することによってその法治国家︵肉ミミ物詣§牒︶の理論を生み出したのだと言われたりす
る︒十中八九これは逆だったのであって︑カントは既に出来上っていた︵ヒュームの著作において︶法の支配の概念
を道徳に適用することによって定言的命法の理論を生み出したのである﹂︵一一九頁︶︒グレイは︑ この文章を︑﹁法
秩序を作り上げる格率にカントの謂う普遍妥当性を適用することが︑とりもなおさず︑万人に能う限り平等に自由を
付与するような自由な正義の原則を産出することに繋がる﹂︵一一九1=一〇頁︶と︑ハイエクは主張しているのだ︑
と解している︒つまり︑グレイがいいたいのは︑﹁普遍妥当性の基準﹂は︑特定の個人や特定の集団に関わることを
拒否するだけでなく︑その他にも︑極めて広い適用範囲を有している︑ということである︒
それについて︑グレイは︑﹁普遍妥当性の基準﹂の三つの要素︑あるいは︑三つの段階に注意を促している︒普遍
妥当性の基準の第一の段階は︑同じような事例の間に︑﹁整合性﹂︵8蕊ミ§亀︶の存すべぎことを要求する段階︑そ
してその意味で非差別という純粋に形式的な要求をつきつける段階︒第二の段階は︑行為者の間に﹁公平無私﹂
︵§嘗ミミミ︶の関係を要求する段階である︒そして第三段階が︑﹁道徳的中立性﹂︵ミミミミミミ舞電︶の要求され
る段階だ︒普遍妥当性の基準がこのような内容をもつとすれば︑それは︑明らかに︑﹁法治国家﹂︑﹁法の支配﹂と密
接な関係をもつことになる︑こうグレイはいうのである︒
以上から明らかなことは︑要するに︑ハイエクの正義論は︑ヒュームとカントの中間物だ︑ということである︒
ニ ハイエクの方法論と現代科学論
J・グレイのrハイエクの自由論』
しかし︑ハイエク体系への影響は︑カントその人からだけではなく︑カントの批判哲学に繋がるハイエクと同時代
の人々の影響もあった︒グレイは︑そうした人々として︑特に︑E・マッハ︑K・ポパー︑L.J.J.ウィトゲン
シュタイン︑そしてM・ポラニ!の四人を挙げる︒即ち︑カントとヒュームから受け継いだ遺産は︑これら同時代の
人々の成果を受け入れることによって︑ハイエク体系は︑精緻で整合的な︑そして︑現代および将来に耐え得るもの
となった︑とグレイは主張するのである︒ここにおいても︑グレイの貢献は︑極めて大であって︑これまでのハイエ
ク研究を大きく前進させた︵ついでながら︑これまで︑ハイエクの方法論を現代科学論の中で位置づけた者として︑
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W・B・ヴァイマァーがいる︒評者も以前︑彼の議論によりながらこの問題を扱ったことがある︒拙著﹃ハイエクと 30三唱由主義﹄第十一章参照︒無論︑本書におけるグレイの議論は︑その質量において︑ヴァイマァーをはるかに難い 一
でいる︶︒
マッハ︑ウィトゲンシュタイン︑ポラニー
先ず︑ハイエクへのマッハの影響である︒周知の通り︑マッハは実証主義者であって︑後のウィーン学団に強い影
響を与えた︒ところで︑グレイは︑ハイエクへのマッハの影響について︑﹁ハイエクがマッハに負うところは︑認識
論に見出されるというよりは寧ろ︑旧来の幾つかの形而上学的問題に対して両者が取る見方に見出される﹂︵二四頁︶
と述べている︒マッハの人間認識は︑素朴な経験論と同じく︑感覚上の基本的な印象に基づいて再構成できる︑とい
うものであるから︑当然ハイエクはこれに与しない︒しかし︑ハイエクは︑これまでの形而上学的問題の多くは︑
﹁見せかけの問題﹂︵ピ冨三〇ヨ壱δ窪①Bω.︶を表明しているに過ぎないという考えを述べているが︑そうした考えにマ
ッハ的な実証主義の影響を見てとれる︑とグレイはいうのである︒
続いてグレイは︑ポパーに向かうのだが︑ポパーについては︑ポパー以後の科学論と一緒に後で述べることにす
る︒ ハイエクの従兄であるウィトゲンシュタインは︑ハイエクの知識論︑知性論に独特の影響を与えた︒言葉や言語に
対するハイェクの関心は極めて早く︑実際︑ウィトゲンシュタインの著作に先立つのであるが︑それでも︑﹁言語の
研究は人間の思想を研究する際に必要な前提条件であり︑知性の主たる混乱を防ぐ上で不可欠の予防薬﹂︵三二頁︶
だとするハイニクの確信に︑ウィトゲンシュタインの影響があったことは疑いない︒事実︑ハイエクは︑政治思想に
J・グレイのrハイエクの自由論』
おける言語の混乱についての注目すべき重要な研究を行っている︵例えば.︑門けΦOo曵¢巴︒コohピきσq轟αq⑦即日︒憂8番
目︸5轟巨︑︶︒またグレイは︑ ハイエクの﹃感覚秩序﹄とウィトゲンシュタインの﹃論理哲学論考﹄︵↓ミ職ミ§︶の論
述の仕方に類似点があると指摘しているが︑面白い︒
ところで︑グレイは︑ウィトゲンシュタインのハイエクへの影響として︑﹁経験的知識が伝達される際に社会規範
が演ずる役割﹂の強調もあったといっているが︑もしこれがそうであれば︑それは︑M・ポラニーのハイエクへの影
響と直ちに繋がりを持つことになる︒そしてここでもグレイは︑重要な発言をしている︒即ち︑ポラニーの影響は︑
﹁ハイエクのカント主義を更に修正し︑そこからカシト自身それと認め得なかったであろうようなものが創り出され
る︒少なくとも一九五〇年代からハイエクの著作に入ってくるポラニー的要素は︑何よりも先ず︑知識は根底におい
て︵§誉ミ︶経験的であるとするポラニーの知識論を洗練した点に存する﹂︵三六頁︶と︒この点をい窪少しく述べ
れば以下のようになろう︒
カントは︑知識は一つの特殊な能力である判断力︵q︑ミ㌃奪ミ哩︶を必要とすると考えた︒それ故︑判断力はわれ
われの知識の根底に存する機能であり︑従って︑規則を適用する場合にも︑この能力を働かせる必要がある︒しか
し︑ハイエクの関心は︑﹁判断に継起するという規則の究極的な依存性に向けられてはいないi後期のウィトゲン
シュタインは︑恐らくカントに倣ってこの依存性を強調するのだが1寧ろ︑あらゆる種類の知識︑しかし特に社会
知識が規則に体現されるその仕方﹂︵三三頁︶に向けられる︒ここに︑ポラニーの考えが︑ハイエクの中に入ってく
る︒即ち︑われわれの知識はすべて︑その根底においては︑経験知︑即ち︑﹁暗黙知﹂︵けPO一け 犀コ○妻一ΦααqΦ︶だという 皿ことである︒そして︑ この考えを受け入れることによって︑ ハイエクは︑﹁無知からの自由を唱える議論に全く新し
い観点﹂︵三六頁︶を与えることになる︒即ち︑﹁自由の体制のみが明示的に論述されない知識︑われわれの知識の大
部分を成すそういう知識を十分に利用し得る﹂︵三六一三七頁︶といった観点である︒ ハイエクが︑社会主義社会に
対する自由主義社会の優位性を説く論拠−最も大きい論拠iとしているのは︑実はここにある︒
ハイエクとポパー︑ポパー以後
グレイが︑上述の四人の中で︑最も紙数を費し︑ハイエクと対比させて論じているのはポパーである︒更にグレイ
は︑ポパー以後の展開も扱い︑それとハイエクとの位置関係をも論じている︒そして何れの点においても︑グレイの
見解は注目に値する︒
ハイエクとポパーの類似性については︑これまでも︑例えば︑ハイエクは︑ポパーの﹁反証可能性﹂︵h巴ω一斗p︒げ崔蔓︶
の基準を受け入れたとか︑ハイエクの﹁発展的合理主義﹂︵o<oピニ︒手躍轟二8巴尻8︶とポパーの ﹁批判的合理主
義﹂︵O同一一一〇9一 同曽一一〇⇔鋤一一ωdP︶とは同じものだ︑といったことが言われてきた︒しかし︑この面でのグレイの関心は︑
認識論における両者の類似性に向けられる︒そして︑ここでもグレイの指摘は︑意表をつくような印象を与える︒日
く︑﹁ポパーの後期の見方と︑﹃感覚秩序﹄でハイエクが説いている見方との間の︑顕著な類似は︑ポパーが認識論上
の進化論的観点を知覚の理論に適用する時に明示される﹂︵二八頁︶と︒しかし︑この指摘は実際正しいのであって︑
発展論的︵進化論的︶な認識論は︑ハイエクがその最初期から持っていた考えであった︒ポパーの﹁知識の成長﹂と
いう考えは︑その後︑彼の﹁三重の世界﹂︵9 けげ居OΦ1↓一①同Φα 甫O同一α︶と結びついて行く訳だが︑ハイエク自身︑その
﹁第三世界﹂が﹁伝統を知識と価値の運び手﹂︵三〇頁︶とする彼自身の考えとの間に重要な類似性を認めているそ
うである︵グレイの注によれば︑ハイエクは︑近刊予定の﹃致命的な思い上がり﹄の第一巻でそのことを認めてい
132
J・グレイのrハイエクの自由論』
る︑ということである︶︒
だが︑グレイのハイエクとポパーの対比は︑両者の相違の方により多くの注意が向けられている︒
一般に︑ハイエクは︑上にも述べたように︑ポパーの﹁反証可能性﹂の基準を受け入れたといわれるが︑しかしこ
れについてもグレイは批判的に対比している︒また︑グレイは︑ハイエクの思想においては︑﹁批判的合理主義﹂の
危険性の方が効用よりもより強く強調されている︑という︒更に︑ポパーの﹁事実と決断の批判的二元論﹂︵︒葺ざ巴
曾巴一ωヨoh貯9ωp昌田儀①〇一巴8ω︶や﹁継ぎはぎ的社会工学﹂︵且①oΦヨ①巴ω09巴①旨σq一昌ΦΦHぎαq︶などの主張も︑ ハイ
エクの考えと相当の距離がある︑とグレイはいう︒
先ず︑反証可能性の基準に関してだが︑確かにハイ.エクはそれを受け入れた︒しかし︑その理由は次のようなもの
であった︒即ち︑ハイエクは︑彼が影響を受けたオーストリア学派の﹁自然科学と社会科学との間に根本的な二元論
が存する﹂︵四三頁︶という考え︑特に︑自然科学に対する考えが︑硬直的︑固定的であった︑また︑自然科学︑社
会科学を問わず科学一般に統一的な方法の必要性を認めた︑といった理由で︑ポパーの基準を受け入れたのである︒
しかしにも拘らず︑ハイエクは︑自然科学と社会科学との間に共約し難い質的な差を認め︑﹁方法論的二元論﹂を放
棄することはなかった︒だが︑ポパーの反証可能性の基準に異を唱えた1以上のような意味で一のはハイエクば
かりではなく︑ポパーの弟子達の中からも︑同基準の重要性はこれを認めながらも︑それを修正する考えが出て来
た︒例えば︑イムリ・ラカトシュの﹁洗練された反証主義﹂︵あるいは︑﹁科学的研究計画の方法論﹂ともいわれる︶
がそれである︒それによれば︑科学的研究計画は︑﹁中核層﹂︵﹁堅固な核﹂11これは科学的方法で反証不可能なとこ 塒ろ︶と﹁保護帯﹂︵冒︒↓Φ︒二く①σΦ犀U観察可能な仮説と初期条件から成っていて反証可能な領域︶を持っている︒そ
してこれに関し︑グレイは︑ ハイエクはラカトシュに先んじていたという︒﹁理論科学の仮説︑⁝⁝考察中の現象の
理解を促進する点では価値のある仮説︑けれどもテストや反論︵8ω二昌σqきαお旨三江︒昌︶ に著しく抵抗しもする仮
説の﹃中核層﹄︵げ帥H偶 OO﹃Φ︾︶を包含しているかも知れぬと見抜く点で︑ ハイエクはラカトシュを予示しているので
ある﹂︵四三−四頁︶とグレイはいう︒
また︑W・W・バートレイ三世も︑ポパーの流れから出てきて︑彼の方法論の修正を試みる一人である︒一般に︑
バートレイ三世の立場は︑﹁汎批判的合理主義﹂︵冨〒臼銭︒巴轟江︒§房ヨ︶と呼ばれている︒バートレイ三世の方
法論は︑ポパーの科学と非科学︵形而上学︶との区画基準の検討から始まる︒そしてそこに区別されるべき二種類の
区画の問題が混在されているという︒即ち一つは︑反証可能性の基準による経験的と非経験的という区画︑いま一つ
は︑合理的と非合理的という区画であるが︑バートレイ三世は前言より後者の方を重要だと反側す︒しかし彼は他
方︑﹁正当化主義﹂︵甘ω無ざp︒二〇三ωヨすべての批判は︑批判し得ない公準︑あるいは仮定を前提とすべきだとする考
え︑二〇五頁参照︶を批判する︒掬てでは︑かかる﹁汎批判的合理主義﹂とハイエクのいう﹁発展的合理主義﹂はど
ういう関係を持つのだろうか︒結論を先取りするようだが︑ハイエクの文化発展論︑中でもグレイのいうそこに見ら
れる急進主義−即ち︑今日の道徳的感情や習慣の多くが自由社会の安定的成長に有害だとするハイエクの考え一
を知っている人であれば︑次のグレイの文章は必ずしも奇異に聞こえない筈である︒﹁現代文明に対するハイエクの
批判に見られるこの急進主義は︑⁝⁝正当化主義説にしばしば示される彼の賛意に対する裏切りのようにも思え︑ポ
パーの弟子達の何人かによって展開されている汎批判的合理主義の理論に彼を近づけているように見える﹂︵二〇五
一二〇六頁︶︒
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J・グレイのrハイエクの自由論』
ハイエクとバートレイ三世との方法論的親近性を説くのはグレイだけではない︒ヴァイマァーもそうである︒しか
し議論の説得力は︑グレイの方が上だ︒ポパーよりもハイエクの方が﹁理性﹂のもつ危険性を強調していること︑ハ
イエクが︑ポラニー︑ウィトゲンシュタイン︑M・オークショットと同様に︑正当化主義を一応認めていること︑に
も拘らずハイエクは︑上述のごとき急進主義の考えを持っていること︑これ等は︑明らかに汎批判的合理主義の理論
に近いことを示している︒
次に︑ポパーの﹁事実と決断の批判的二元論﹂と﹁継ぎはぎ的社会工学﹂についてだが︑簡単に見ておこう︒実は
両老は︑グレイによれば︑密接な関連を持っている︒即ち︑前者は︑﹁ハイエクが嘆くまさしくあの自然一作為二分
法︵轟ε目甲8昌く窪江8象魯08ヨ図︶を体現している︒更に︑それは︑彼︵ポパー︶を導いて︑社会諸制度をあたか
も人間の諸目的達成のための制度に過ぎないかのように扱うに至らしめている︒社会制度に対するこの道具主義的︑
あるいは︑外形主義的アプローチ・⁝−が︑今度は︑ポパーの継ぎはぎ的社会工学の主張を支持する﹂︵二〇二i二Ω二
頁︶ことになるのだと︒従って︑後者の考えは︑介入主義的社会工学であり︑﹁社会の中に︑政治権力を持つ者と持
たざる他の者という二重構造を持ち込む﹂︵同︶考えだ︑というのである︒ こうした議論ができるということは︑グ
レイが︑余程︑ハイエクとポパーに精通していることを窺わせるに十分である︒
三 自発的秩序論と文化発展論
鵬以上︑本書の中で特に注目すべぎグレイの二つの貢献︑即ち︑eハイエク体系の起源としてカントに着目したこ
と︑ロハイエクの方法論を現代科学論の中で位置づけたこと︑について述べたが︑もとより︑本書におけるグレイの
貢献はこの二つに止まるものではない︒その他の多くの議論においても︑グレイの洞察は冴えを見せており︑今後の
ハイエク研究にも少なからざる影響を与えるものと思われる︒そこで先ず︑ハイエクの自発的秩序論と文化発展論に
施しているグレイの鋭い洞察あるいは解釈を見ることにしよう︒
自発的秩序論の三つの要素
自発的秩序論がハイエク体系の中心をなす考えであることは︑これまでも多くの人が指摘してきたところである
が︑しかし肝心のその内容になると︑必ずしも明瞭ではなかった︒この点でもグレイの解釈はすこぶる示唆的であ
る︒即ち︑彼は︑ハイエクの自発的秩序の概念は︑三つの要素から成っている︑というのである︒即ち︑一︑見えざ
る手の命題︵けプΦ 一昌く一ω一び一①1げ9目O けゴΦω一ω︶︑二︑暗黙知あるいは経験知の優位性の命題︵暮①誓ΦωδOh夢O嘆ぎ㊤畠
︒剛S9け霞嘆碧鼠︒巴写O≦δ畠σqΦ︶︑三︑諸伝統間の自然選択の命題︵島Φ90ω一ωOh昌鉾霞巴ωo一Φ︒鉱80h霞P&菖O窃︶︑
の三つがそれである︵六八1六九頁︑二=二頁︶︒
それ等の要素の詳しいことは本書を読んで戴くとして︑グレイの議論で注目されるのは︑そうした内容を持つ自発
的秩序の概念と個人的自由擁護論との関係を従来より明確に論じていることである︒自発的秩序に対しては︑これま
でも︑同じ陣営内から−例えば︑J・ブキャナンやM・ロスバートなど一の批判があったので︑グレイの議論は
重要性を持つ︒グレイによると︑自発的秩序の考えは次の三点で︑自由擁護論を強化する︵二一九−二二三頁︶︒一︑
社会主義︵設計主義の典型︶に対する批判︑即ち︑社会主義はその社会生活において自由主義には及ばない︒二︑自
分の持っている知識を自分の目的のために自由に使用してよいならば︑われわれは︑人々の諸行為と諸計画の最も正
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J・グレイのrハイエクの自由論』
確で鋭敏な調整を期待することができる︒三︑法の下での自由に関する法律的枠組が確立されれば︑ブキャナンのい
うようなホッブズ的囚人のディレンマは避けられる︒
また︑自発的秩序の概念と対立する設計主義︵OO一Pωけ同信Oけ <一ωヨ︶の理解においても︑例えば︑次のようなグレイの
文章は︑われわれに強い関心を喚起させるに十分である︒設計主義である﹁デカルト流合理主義の中心的誤謬は︑神
人同形同性論を奉じて知性のカテゴリーを社会過程に転位させるところにある﹂︵五八頁︶︒﹁設計主義の見方を論駁
する点でハイエクの自発的秩序の概念は︑西洋文化を支配しているプラトン主義の伝統やキリスト教の伝統の本質に
鋭く対立する洞察を体現するものとなる﹂︵六二頁︶︒評者は︑これらの文章に見られるグレイの解釈を正しいと思う
のであるが︑このようにハッキリと論じているのはグレイ以外には見られない︒しかし︑これは極めて重大な問題を
含んでいるので︑今後︑慎重な検討を要するであろう︒
社会的ダーウィニズムと文化発展論
ハイエクの文化発展論の全貌は︑﹃致命的な思い上がり﹄において展開されることになっているので︑それを現時
点で誤り無く論ずることはできない︒しかし︑部分的には︑既に刊行されている著作や論文によって表明されている
ので︑その内容はある程度窺うことはできる︒また︑グレイは︑ハイエクから﹃致命的な思い上がり﹄の草稿を見せ
てもらっているようだから︑グレイの理解は︑われわれより︑確かであろう︒
先ず︑ハイエクの文化発展論に対するグレイの論述で︑従来の理解を一歩進めているのは︑ダーウィンの生物進化
論とH・スペンサーの社会ダーウィニズムとハイエクの文化発展論とを比較検討しているところである︒ハイエクも
説くように︑近代社会の理解にとって最も重要な概念は﹁発展﹂11﹁進化﹂︵oく︒ξ江8︶1いま一つは﹁自発的秩
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序し︵ωOo暮⇔口①〇二ωo乙巽︶一である︒この﹁発展﹂なる概念は︑はじめ︑社会科学の中に現われ︑後︑ダーウィン
がそれを生物学の分野に適用した︒その生物学における進化論を︑再び社会現象に適用したのがスペンサーであっ
た︒ハイエクの文化発展論は︑以上三種類の﹁発展﹂︵進化︶論を踏まえ︑その上に︑現代の諸成果を取り入れ成った
ものである︒
ところで︑本書において︑グレイが特に紙数を費して論じているのは︑スペンサーの社会ダーウィニズムとの比較
である︒その比較は細心の注意が払われている︒そこには︑両者の類似点と相違点が明瞭に示されている︒両者が最
も類似している点は︑その道徳理論において見られ︑両者とも一種の間接的功利主義︵上述のような︶の立場に立っ
ている︒即ち︑﹁人間の固有な無知が︑自由主義的正義の自己否定的仕来たりを効用の促進に有効な手段として正当
化する﹂︵一九三頁︶というのが両者の道徳理論の核心だというのである︒しかし︑スペンサーの社会的ダーウィニ
ズムは︑﹁社会発展に対し︑首肯できるメカニズムを明示していない﹂︵一九五頁︶ところに最大の欠陥を持つ︒そう
した欠陥は︑グレイによれぽ︑スペンサーが生物進化論と文化発展論の区別をしなかったところがら来ている︒この
点︑ハイエクの文化発展論は︑両者の区別を明確にした上で展開されている︒グレイは次のようにいう︒ハイエクの
文化発展論の概念は︑﹁十九世紀の社会ダーウィン主義の概念⁝⁝とは異なるのである︒なぜならハイエクの概念に
示されている自然選択は︑個人に係わるものではなく︑集団あるいは全人口に係わるものであり︑それは諸集団の慣
習及び制度︑行為及び知覚の規則が︑集団員の寿命の延長に影響を与えるということを介して行われる﹂︵六七頁︶
からである︒
ハイエクの文化発展論について︑グレイがそこに見られる﹁保守主義と急進主義﹂︵二三〇一二三八頁︶を問題に
138
J・グレイのrハイエクの自由論』
しているところも面白い︒そして︑実に最近のハイエク批判はこの点に集中して向けられているという︒即ち︑ハイ
エクは︑一方では︑伝統の社会的継承の知恵と効能を強く肯定している︵11保守主義︶が︑他方では︑既存の道徳や
制度に対する批判やラディカルな改革を要求している︵n急進主義︶︑がそこには矛盾はないか︑というのである︒グ
レイの整理によれば︑これに関してのハイエク批判は︑一︑自由主義的個人主義と文化的伝統主義という矛盾した言
明が含まれている︒二︑ハイエクの道徳観には対立する要素がある︑の二つがある︒第二番目の批判は︑新保守主義
からの批判と︑急進主義からの議論があるという︒この問題は︑非常に重要で︑興味をそそる問題であるのだが︑グ
レイの議論もここでは︑やや説得力を欠いているコこの問題は︑多分︑﹃致命的な思い上がり﹄が刊行されるまでは
結着はつかないであろう︒従って︑この問題に対する次のような結論も︑暫定的なものとしておいた方がよいかもし
れない︒﹁急進主義と保守主義は︑知的及び道徳的生活において必ずしも対立しないかもしれない︑⁝:・もし︑市場
秩序の安定に絶対必要な種類の道徳に関する彼の議論が健全であれば︑それは︑私有財産と個人的自由を尊重する現
代の保守主義者が知的及び道徳的急進主義老であることを避け得ない︑という逆説的な結論を持つことになる﹂︵二
三八頁︶︒
四 ハイエク対ケインズーーフリードマン
最近︑経済学界の中に︑反ケインズ主義の大きな動きがある︒その中でも︑ケインズ経済学と対比され︑最も多く
論じられているのがM・フリードマンを領袖とする所謂マネタリズムである︒ところで︑ハイエクがマネタリストで
139
あるかのような議論が屡々見うけられるが︑これは全くの誤解といわねぽならない︒これについては︑評者も既に︑
﹃ハイエクと新自由主義﹄の第四章第二ケ日で扱ったことがあるが︑本書もまた︑この問題を極めて適切に論じてい
る︒そこで︑最後に︑この問題を︑以下簡単に見ておこう︒
周知のように︑ハイエクの﹁貨幣数量説﹂に対する基本的考えは︑彼の最初期の二つの著作︑即ち︑﹃景気と貨幣﹄
︵O恥ミさsミ§織きミ§ミミ︑ミ︒ミロ㊤8︶と﹃価格と生産﹄︵︑識ら霧§匙︑︑ミ§嵩§︾H⑩ω目︶の中で︑既に明確に
論じられていた︒それをグレイは次のように要約している︒﹁ハイエクは実際︑正統派貨幣数量説からのケインズの
最初の離反を承認した︒そして他方︑彼は︑粗雑ではあるが貨幣数量説の考えが公共の信条から失われるならば︑そ
れは大災難であると︑繰り返し主張してきた﹂︵=ハ三頁︶︒これからも明らかなように︑ハイエクの立場は︑最初か
ら︑ケインズやフリードマンの立場とは異なっていたのである︒いや︑ハイエクに対しては︑ケインズとフリードマ
ンは︑同じ側に立っているのだ︒即ち︑ケインズもフリードマンも︑方法論的に︑また理論的には︑同じ立場︑即ち
﹁集計的アプローチ﹂︵pσqσqおσq鉾ぞΦ巷震︒碧げ︶に立っている︒もう少し詳しくいえば︑両君とも︑﹁質的なまた構造
的な経済的不調整は︑統計的集計値や平均値に影響を及ぼす政策によって克服されるかもしれない︑と仮定してい
る﹂︵同上︶が︑まさしくそこに誤りがあるとハイエクはいうのである︒
このように︑ケインズ経済学もマネタリズムも方法論的に誤っているので︑それ等が指向する﹁政策﹂も当然︑社
会を誤って導かないではおかない︒先ず何より︑危険なのは︑政策立案者が︑一種の概念的実在論の虚偽︵貯一歳︒団
ohoo旨︒①bε巴お巴δヨ︶を犯かすことを不可避とすることであろう︵これは︑ケイソジアソばかりでなく︑マネタ
リストにも当てはまるであろう︶︒統計的加工品︑あるいは論理的虚構には︑現実の経済を構成している質的な関係
140
J・グレイの『ハイエクの自由論』
が見落されている︒しかし︑そうしたこととは別に︑問題はもっと深いところにあるのであって︑次のグレイの指摘
は実に的確である︒﹁ハイエクのケインズ政策批判が︑彼の抽象的なるものの優位性の強調︑また︑社会生活の秩序
ある行動のためには慣習が不可欠である︑という洞察と同種のものだ︑ということである︒マクロ経済的需要管理政
策は︑経済を支配している現実の諸関係に関する具体的な知識について︑恐らく︑行政官が獲得でぎる以上のものを
要求する﹂︵=ハニ頁︶︒
﹁貨幣供給量を固定したルールによって制限すべきだ﹂︵同上︶というのが︑フリードマンの新貨幣数量説から導
かれる政策提言である︒この政策提言からも分かるように︑﹁貨幣﹂の概念からして︑ハイエクとフリードマンの間
には︑非常に大きな違いが見られる︒フリードマゾにおいては︑﹁貨幣﹂は明示的に定義され得るもので︑従って︑
われわれは︑貨幣量をコントロールでぎるという議論になる︒これに対し︑ ハイエクの﹁貨幣﹂の概念は︑﹁無限に
多くのそれぞれ異なった手段にも適用できる﹂︵一六五頁︶ものであるから︑貨幣の厳密な定義は不可能であり︑そ
れ故︑貨幣量をコントロールすることはできない︑ということになる︒ ︵勿論︑因果関係の視点も重要なのである
が︑ここでは省く︶
ハイエクの以上のようなケイソズーーフリードマソ批判が︑一九七六年の﹁競争的複数通貨制度﹂︵b§ミごミ駐ミ昔蕊
ミ§嵩§H㊤﹃①︶という構想となって現われることになったのである︒この構想は︑現在︑大論争の中にあり︑賛否
両論が激しく戦わされている︵例えば︑Oミ︑§遷Ooミ㌧ミミ§§職ミ§ミミヒ$馬§Φαげ団℃●ω巴一P竃錠けぎ口ω
Zごゲ︒臨℃昌一一ωゴ巽ρHO︒︒幽︶︒また︑ハイエク自身も︑この構想を一層現実的なものにするため︑様々な検討を加えて
おり︑この構想をめぐる論争は︑これから益々活発になっていくであろう︒
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これに関連したことを一つ付け加えておこう︒それは︑﹁シャックルのハイエク批判﹂に︑グレイが反論した最後
のところに出てくる問題である︒G・L・S・シャックルをはじめ︑多くの経済学者のハイエクに対する批判の一つ
は︑﹁政府の貨幣供給を急激に︑また徹底的に抑制すれば︑第二次的デフレーションを誘発し︑従って︑不況を深化
させるであろう﹂︵一七〇頁︶という点にある︒これに対し︑グレイは︑そのような批判は︑競争的複数通貨制度に
よって反駁されるとし︑次のように述べている︒﹁徹底的な政府貨幣の縮小を説くハイエクの処方箋に︑現実的な危
険があるとしても︑それは︑民間による貨幣発行を自由化すべきだという彼の補完的な提案によって調節される﹂
︵一七一頁︶と︒これば︑スタグフレーション対策を考える上で︑極めて重要なことである︒マネタリズムの漸進
主義は︑確かに或る程度インフレ対策には有効であるが︑失業には殆ど対処し得ない︒何故なら︑それでは︑﹁賃金
構造﹂の歪みを是正できないからである︒これに対し︑ハイエクの処方箋は︑急激な政府貨幣の縮小によって︑賃金
ヘ ヘ へ構造自体の変更を迫まるので︑インフレだけでなく︑失業問題に対しても有効に機能する可能性がある︒これは︑現
在のヨーロッパの失業問題を考える上で最も重要な視点ではないかと思われる︒
142
む す び
以上︑本書で特に注目すべきグレイの議論を中心に述べてきたが︑その他にも言及すべきであった箇処も多い︒例
えば︑第五章における︑J・S・ミルとの対比︑更に︑第六章5の﹁ハイエク的研究計画と社会哲学の展望﹂などが
それである︒ここでは紙幅の都合もあって割愛した︒
J・グレイの『ハイエクの自由論』
﹁はじめ﹂のところでも述べたように︑本書はハイエク研究史上に一時期を画すごときものとして大いに注目して
よい︒自由主義復興のうねりの中で︑今後︑ハイエクに関する研究書も次々に現われてくるであろうが︑本書がこれ
からのハイエク研究に大きなインパクトを与えることは間違いあるまい︒そうした意味でも本書は︑極めて重要な位
置を占めているといわねばならない︒
本書を読了後︑評者は次の二冊のハイエク研究書を手にした︒一つは︑ミミミ§ミ乾馬蝿譜↓ミ︒試鳴§概ミ恥O︑㌣
蕊§領置ミO$乳跨さミメく︒昌園︒ぎげp︒aN貯二一H㊤Q︒ω.で︑いま一つは︑の寒ミミ恥き︑ミ鳶︒き肉︒ミ鷺ミ馬竃O鴨ミ︒ミ苧
§鴫§︽ミ§富逡ミ亀売券b恥§oミミ紬︾噂く︒搾出9コω1出Φ﹃一σΦ答∪①ユ×HOQ︒切・である︒前者は︑ブキャナンとハイェク
の方法論︑社会理論を比較論じたもの︑後者は︑経済問題と政治制度の関係をハイエク体系を手懸りに論じたもので
ある︒ 最後になるが︑現在︑アメリカと日本で︑﹃ハイエク全集﹄が企画され︑日本では今年の五月から︑アメリカでも
本年中には︑刊行が始まるとのことである︒日本とアメリカで﹃ハイエク全集﹄が刊行されることになれぽ︑ハイエ
ク研究は飛躍的に進むことになろう︒
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