D・ヒュームの経験論的人間学の研究︵九︶
情念について︵一︶
古賀勝次郎
序文第一章 ヒュームのキリスト教神学批判︵第四卜.∴頁り︶
第..脱 ヒューム体系の哲学的基礎
第一節ヒュームの知覚論︵第四十三号︶
第二節ヒュームの因果論︵第四十四・侃号︶第三章ヒュームの方法論
第一碑即 陣隅疑・に櫨我レ一・目欽⁝・Eぬ我 ︵椿弟m四LILハUゲ︶
第二節ヒュームの道徳哲学方法論
︵・← 近代自然科学の方法論
︵H︶ ヒュームの実験的・経験的方法論︵第四十ヒ号︶
︵⁝川︶ ヒュームの歴史的方法論︵第四卜八号︶
︵.W︶ ﹁存在﹂と ﹁当為﹂の問.題 ︵以下太−目ゲ︶
第 川霊 ⁝旧念について
第一節 同一性の関係
第二節 ﹁知覚の束﹂としての心︵以.卜続く∀
㌔1・不臣i日】.宇ヒ }不こ長」」身行汗ラ巳ピ 重彩49.〜} 94(II.6).10 1
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第三章 ヒュームの方法論
㈹ ﹁存在﹂と﹁当為﹂の問題
﹁存在﹂︵あるいは﹁事実﹂︶と﹁当為﹂の問題は︑前世紀末から倫理学者や社会科学者の間でやかましく議論さ
れてきた︒その背景に︑政治的︑イデオロギー的対立︑世界観上の対立があったことはいうまでもないが︑しかし
また︑この問題が純粋に学問的問題として議論されてきたのも間違いないことであって︑特にそれは今世紀の英米
圏の倫理学において見られた︒そしてその際︑必ずといってよいほど引き合いに出されたのが︑ヒュームの議論で
あった︒だがこのヒュームの議論をめぐってはこれまで様々な解釈が行なわれてきた︒
今世紀半ばあたりまでは︑論理実証主義の影響もあって︑ヒュームの議論を﹁論理的真理﹂︵一〇ひq8巴賃⊆9︶を説い
たものとする解釈が支配的であった︒つまり︑どのような非道徳的 より一般的に言えば︑非価値的 前提も︑
道徳的︵価値的︶結論を含意することはできない︑という解釈である︒R・M・ヘア︑A・N・プライオア︑P.
H・ノウェルースミスなどがこのような解釈を行なっているが︑中でもヘアは︑この解釈を法則と見倣し︑﹁ヒュー ︵64︶ムの法則﹂︵二=日Φ︑ωい四≦︶とまで呼んでいる︒しかしこうした解釈に対してはその後︑A.C.マッキンタイヤー ︵65︶やG・ハンターなどが強く批判している︒例えばマッキンタイヤーは︑もしそのような解釈が正しいとすれば︑そ
の最初の違反者は外ならぬヒューム自身であったと論じている︒このように︑ヒュームの議論に対しては様々な解
釈がなされているわけだが︑ここではいま一度︑ヒュームの文章に立ち返り︑存在と当為についてのヒュームの議
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(九)
論を見てみよう︒
ヒュームが︑存在と当為について論じた問題の文章一所争心ω−o⊆ひq耳OpωωpひqΦ一は︑﹃人性論﹄第三篇第一部
第一節の最後に出ている︒﹁道義に関して私がこれまでに出会ったすべての体系において︑私は常に気がついて来た
のであるが︑それらの体系を説く者は︑始め暫くのあいだ通常の論究のし方で進んで行って︑神の下訳を確立し︑
或は人間界の諸事象に関するいろいろな考察を行う︒が︑そのとき突然︑私は見出して驚くが︑私の出会う命題は
すべて︑であるとかでないとかいう・命題を結ぶ・通常の蕪辞のかわりに︑べきである又はべきでないで結合され
て︑そうでない命題には何一つ出会わないのである︒この変化は︑これを看取する者がないとはいえ︑極度に重大
な事柄である︒何故なら︑このべきである或はべきでないは︑断言の或る新しい関係を表現している︒従って︑こ
れを観察して解明する必要がある︒また同時に︑いかにしてこの新しい関係がそれと全く異る他の︹でわを又はで
ないの︺関係から導き出されることができるか︑その理由を与える必要がある︒しかも︑この理由を与えることは
全く想いもっかないことのように思えるのである︒ところで︑道義の体系を説いた人々はこうした︹理由を与える
という︺用心をしないのが普通である︒それゆえ︑私は読者がこれをするように敢て勧めよう︒そして私は堅く信
ずるが︑この僅かな注意は道徳性に関する一切の通俗的体系を覆すであろう︒換言すれば︑徳と悪徳との区別は事
物の関係だけを根抵とするものでなく︑理性によって看取されるものでないこと︑この点を我々に判らせるであ
︵66︶ろう﹂︒
さて︑この問題の文章から︑少なくとも次の二点はヒュームの主張として疑いない︒一つは︑﹁であるとかでない﹂
︵貴僧巳二天ミ︶︑つまり﹁存在﹂と︑﹁べきである又はべきでない﹂︵騨コ◎蕊ミ︒﹁p口︒薦ミミミ︶︑つまり﹁当為﹂
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とは次元を異にする言表であるということである︒いま一つは︑ヒュームがここで取り上げ批判している﹁通俗的
体系﹂︵9①<三ひq費︒︒湊8∋ω︶︑つまり合理主義的倫理学に対する諸批判の一つとして持ち出されているということ
である︒ということは︑この主張をこれがなされているこの文章の中でのみ解釈することはできないということで
ある︒勿論︑第一の主張も第二の主張も︑上の同じ文章の中で行なわれているのであるから︑両者は決して別々の
主張ではないと考えられる︒従って︑第一の主張も︑第二の主張も︑この問題の文章を他から切り離しこの中だけ
で解釈するのは誤りであって︑その前後の文脈の中で解釈しなくてはならないことになる︒
暮露のように︑この文章が出ているのは︑﹃人性論﹄第三篇第一部第一節の最後のパラグラフである︒同製第三篇
第﹈部は﹁徳及び悪徳一般について﹂︵.︑○︷≦﹁εΦ簿⇒血≦oΦぎOΦ5Φ﹁巴..︶であって二節から成っており︑第一節が
﹁道徳的区別は理性から来ない﹂︵ζo﹁巴臼ω甑づ∩自︒コω8け匹Φ﹁ぞ.αヰ︒日お四ωo巳︑第二節が﹁道徳的区別は道徳感
から来る﹂︵ζO眉際一α一QD什一コO乱用○コω匹Φ噌一く導ハμh﹁○コP鋤5PO﹁四一QりΦコω①︶で︑問題の文章は︑その第一節の最後に︑しかも付記
という形で出ているのである︒ではこの文章はどのような文脈の中で出てきているのか︒それは︑道徳性に関する
当時支配的だった同文章中の言葉を使えば︑﹁通俗的体系﹂を批判する文脈の中で出ているのである︒同体系は︑﹁神
の存有﹂を確証したり︑﹁人間界の諸事象﹂について様々な考察をするのだが︑しかしそれを人間の理性にのみ基づ
いて行なう︒つまり︑同体系は︑人間の理性に最大の能力を認め︑それによって神とか人間とか社会とかの問題を
考察し解こうとするものである︒同第一部第一節はその標題からも窺えるように︑このような言わば合理主義的道
徳説の批判を行なっているのである︒具体的には︑S・クラーク︑R・カッドワース︑W・ウォラストンなどの道
徳説であるが︑ここでは特にクラークのそれを見ることにしよう︒
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(九)
︵67V クラークは明らかにデカルト流の合理主義者であったが︑自らはニュートン主義者をもって任じていた︒一七〇
六年にクラークは︑ニュートンの﹃光学﹄をラテ︑孟譜に翻訳し出版している︒さてクラrクは︑理陸を人間の最高
の能力とし︑感覚的経験を第二義的なものと見倣した︒後者が︑可変的・一時的なものしか捉え得ないのに対し︑
前者は︑不変的・永久的なものを把握することができるからだというのである︒そしてクラークは︑学問の範型を
デカルトと同じく数学に求めた︒理性が十全に作用すれば︑それは数学の形をとって現われる︒しかしそれはクラ
ークにとっては︑数学にのみ妥当するのではなく︑神学にもそして道徳哲学にも妥当するものであった︒
クラークはニュートンと同様︑キリスト教神学は近代の自然科学によってその土台をより強固にされるが︑同時
に︑それは自然科学の基盤を与えると信じていた︒クラrクは︑神の存在の設計論的証明のア・ポステリオリ的形
態を全く無視するということはなかったが︑神の存在の証明としてはそのア・プリオリ的方法の方がより優れてい
ると考えていた︒またクラークは︑目的論的性格をもつ世界秩序を説き︑設計への証明︵鷲ひq自8Φ馨ミ亀Φ︒︒齢昌︶を強
調した︒更にクラークは︑物質は死せるものであるから︑宇宙の秩序は無限の英知を持った神によってのみ説明さ
れ得ると主張した︒
このようにクラークの哲学あるいは形而上学は︑デカルトやニュートンの影響を受けているのである︒しかしデ
カルトやニュートンがその科学方法論を道徳哲学︑即ち今日の用語を使えば︑人文・社会科学の領域に適用するこ
とをしなかったのに対し︑クラークはその哲学・形而上学をそのまま人文・社会科学にも適用したのであった︒そ
してヒュームがいうように︑﹁そのとき突然﹂︑存在と当為の問題が起こるのである︒いまクラークの﹃自然宗教に
関する説教集﹄︵卜b§§謹9≧§ミさ︑喧§し刈Oα︶から少し抜き出してみよう︒
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﹁神の意志は︑事物を常にまた必然的に︑正義︑公平︑善︑そして真理の永遠の規則に恒常的に一致して活動す
るように自ら決定するが︑その事物についての同じ理性がまた︑神に従属するすべての合理的存在者達の意志を何
時も決定し︑彼らのすべての活動を支配しなければならない︒⁝⁝数学の問題にかかわっている人間が二×二は四
に等しくないと無知にも信じることが︑また︑強情にまた頑に︑自己の明確な知識に逆らって︑全体は部分の総和
に等しくないと主張することが︑何れも理不尽であり滑稽であるように︑怠惰にも明白な正と悪とを誤解すること︑
即ち道徳における事物の均衡を事物が現在存在していないように理解することは︑あるいは︑既知の正義や公平に
態と逆らって行動すること︑つまり︑事物を現在存在していないもののようにまたは存在し得ないように指示する
ことは︑理不尽であり非難に値する︒⁝⁝すべての合理的な被造物は︑自らの意志と行為が常に正と公平の永遠の
規則によって決定され支配されるよう注意しなくてはならないこと︑即ちそう注意する義務があることは︑事物の
抽象的・絶対的な理性と本性より明らかであるように︑その義務の確実性と普遍性はこの永遠の規則によって明瞭 ︵68∀に確認されるし︑また特にその拘束力は永遠の規則によって発見されそしてすべての人に適用されるのである﹂︒
存在と当為を論じた問題の文章で︑ヒュームが﹁通俗的体系﹂として批判したのは実に以上のような議論であっ
た︒ヒュームが批判する理由は︑これまで述べてきたところがら明白であるからここに詳述する必要はなかろう︒
要するに︑数学の領域においては必然的因果関係が明らかにされ得るのに対し︑道徳哲学の領域では︑蓋然的因果 ︵69∀関係しか示すことはできないということである︒必然的因果関係を﹁⁝⁝べきである﹂と表現することは︑その表
現こそ奇異であれ︑内容としては決して誤りとはいえない︒しかし蓋然的因果関係しか示され得ない道徳哲学の領
域において︑理性の名の下に﹁⁝⁝べきである﹂と主張された場合どうなるか︒この問題は何れ詳しく論ずること
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(九)
になるので︑ここでは次のヒュームの極めて衝撃的な文章を引いておくに止めよう︒﹁私の指一本を掻くことより全 ︵70︶世界の破壊を選んだとしても︑理性に反対ではない﹂︒これをクラークの次の文章と比較すると︑いかに対蹟的であ
るかが知られる︒﹁すべての入間が︑継続的にすべてのものの滅亡と破壊を図るよりも︑すべてのものの普遍的な善
と福利の促進に努力すべきであることは︑絶対的な意味において︑また事物自体の本性よりして︑より適合的であ ︵71︶ることは否定できないのである﹂︒ヒュームは︑人間の理性を絶対視する合理主義者達が︑楽観的にこのようなこと
を言うのを極度に恐れたのだった︒
以上のようにヒュームは︑クラークなどがその合理主義的方法︑より正確には形而上学的合理主義的方法を道徳
哲学の領域に適用する際︑議論を無反省的に存在から当為へと進めることを批判した︒つまり少なくともこの文脈
においてヒュームは︑存在と当為の峻別を要求している︒しかしヒュームは︑存在と当為の峻別をこの文脈以外に
おいても要求したのであろうか︒ ︵72V ヒュームによれば︑精神︵昏①臨巳︶の分析にも肉体︵曄Φげ︒身︶のそれと同様︑二つの方法がある︒一つは︑解剖
学者︵書士口9︒8巨︒り什︶の採る方法であり︑いま一つは画家︵鋤℃巴暮興︶の採る方法である︒前者は︑その最も奥にあっ
て見えない動機や原則の発見を狙い︑後者は︑その活動の優稚さや美しさを描写する︒そしてヒュームはこの二つ
の方法を一緒に用いることは不可能だという︒つまり︑道徳哲学の領域における事実の分析を行ない︑そしてそこ
から原則・理論を発見すること︵解剖学者の方法︶と︑当為の表明︵画家の方法︶とは︑次元を異にしているとい
うのである︒従ってヒュームは1少なくとも差し当たりは ︑道徳哲学者は解剖学者の仕事︑即ち事実の分析
とそれに基づく原則・理論の発見に徹すべきであると考える︒しかし事実の分析︑原則・理論の発見と当為の表明
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とは全く切断されているかというとそうではない︒前者は後者に役するところ大きいのである︒
ヒュームは﹃人性論﹄第三篇第三部室六節の最後︑つまり﹁人性論﹄全体の最後のところで次のように述べてい
る︒﹁解剖学者は画家と競うべきでない︒解剖学者がいかに人体の比較的小さな部分を的確に解剖し描出したにせ
よ︑これを以て人間の姿態に何らか優美な・心を惹きつける・態度や表現を与えたと称するわけにはいかない︒解
剖学者が表わす事物の視態には多少不気味なものがある︒少なくとも︑微に入り細を穿ったものがある︒︹それゆえ︑︺
事物を眼や想像が惹きつけられるものにするには︑これを繋る距離に置いて︑いくらか見えないように隠蔽する必
要がある︒︹かように︑解剖学者は直ちに画家ではない︒︺とはいえ︑解剖学者は画家に勧告するには至極適してい
る︒いや︑前者の扶助なしに後者の芸術で卓越することは実際上之可能でさえある︒︹人物像を︺多少とも優稚に或
は精確に構図できるには︑それに先立って︑人体諸部分について︑その位置や関連について︑正確な知識をもたな
ければならない︒これと同じく︑人性に関する最も抽象的な思弁も︑いかほど冷かで興趣ないにせよ︑実践道義
︵︑ミミらミミ◎ミNミ︶の補助となる︒換言すれば︑後者の学の訓則を更に精確にし︑その訓戒を更に説服力あるもの ︵鴇︶にすることができるのである﹂︒
このようにヒュームは︑存在と当為は次元を異にするけれども︑両者は完全に切断されているわけではなく︑後
者は前者の助けによって導かれると論じているのである︒ヒュームの道徳哲学は冨貝してそうした方法論に基づい
て論じられている︒ヒュームは先ず事実を正確に分析する︑そしてそこから一定の原則︑理論の発見に努める︑そ
してその後︑慎重に価値評価を表明する︒則ちヒュームの方法論は︑明らかに︑クラークなどのそれとも︑また今
世紀の論理実証主義者達が解釈するようなものとも違っているのである︒ヒュームは例えば正義を論じたところで
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次のように述べている︒﹁正義の一つ一つの単独なおこないは公共的利害もしくは私的利害に反対であるが︑それに
もかかわらず確かに︑︹正義の行ないの︺方式ないし方策の全体は︑社会の支持にも各個入の安寧にも甚だ有効であ ︵74︶る︒いや︑絶対に必須なのである﹂と︒
ではヒュームは何故︑そのような価値評価︑即ち当為の表明を可能だと考えるのか︒実はこの答えは既に述べて
いるのである︒ヒュームにおいては歴史︑即ち習慣や伝統は単に事実を与えるものではなく︑規範を与えるもので
もあったのである︒但しそれは絶対的なものではなかった︒
D・ヒュームの経験論的入間学の研究(九)
︵64︶ =費ρ即罎..ご三くΦ房po嵩σ⁝蔓冒.︑ヨ︑ミ融Qミ野鴨ミミ鴨︾蓋設︒鷺︑隷謡⑦ミ自重旨く一〇望−9G︒Oω9 注
︵65︶ ミミミ鴨㌧﹄Oミ穏ミミミ庶6誌︑時ミ穿砺S窟Φ価.σ賓<.OOゴ簿℃OΦFUo=σ︼Φ9︸・.ZΦ勇︽o葺LOO①.に収められている以下の論文
参照︒﹀.○ζ◎o一三旨ρ︑.==∋の︒コ.ぢ.四コ色.〇二鋤q算︑堕幻.男﹀樽三話︵︶P︑.==ヨ①o=.一ω︑mコ血.〇二ぴq葺︑一﹀閑①℃7εζ﹁.ζ①o一暮︸﹃¢︑︑
︾9霊①ヨ.︑○昌昏①一コ8琶掃8鉱︒コ︒噛=ロ∋Φ.げ︵︸.=⊆寒①ぴ︑.刃Φ毘︒︽8勺δ州Φのωo︻コΦ≦..−﹀■コΦ≦鴇..︑Zo肝℃No︿Φ箒︑−﹀肝ζ︷︶匂︒け.︑田≦∪.
==αωoP..雷¢ヨoo口﹀勉口α○鑓ミ.︑.なお邦文の文献としては︑渡部峻明﹃ヒューム社会哲学の構造﹄︵新評論∀第九章︑植木幹
雄﹁ヒュームの﹃である﹄と﹃すべきである﹄とについて﹂︵一︶︵二︶﹃学園論集﹄Zo.ω一−し︒ω︶等参照︒
︵66︶ =ニヨρO二卜寒ミき鼠亀黛§匙ミ≧ミミ魯℃℃.ま㊤謁P 前掲邦訳︵四︶︑三三−四頁︒
︵67︶ ヵ.=.=霞♂二丁=一ミミ露量竃ミ謡縞ミ翫ミ鳴b塾磁ミエミミミ§斜⊂三く.o頃Z①σ轟︒︒﹃曽勺﹁Φωω咽OO■も︒一−ω.
︵68︶ しq篭目Sミ︒ミ三門㍉N窃軌◎−NQOO全ω9①2①匹餌コ色閃α詳Φユ≦騨7Coヨ℃費偉︒二︿①Zo8ω蜂︒5α﹀=餌一二二〇巴ぎ匹①×σ︽O.∪・閃ゆ℃げ⇔ユ.
○×︷oa碧目ゴ①Ω節﹁①コαc昌℃﹁①ωμ一㊤①ρ℃O.一ε−卜Q8.
︵69︶ 例えばヒュームは次のように言っている︒﹁徳を知ることと徳に適合させることは別である︒それゆえ︑.正邪の尺度が︑一切の
理性的な心に責務を課する永遠な法則であること︑これを証明するには︑該法則の根抵である関係を明示するだけでは充分でな
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い︒関係と意志との結合もまた指摘しなければならないのである︒そしてそのうえ︑この結合は極めて必然的であって︑良い性
向の心には︑たとえ他の点で無量無限の相違があるにせよ︑悉くこの結合が存して影響力をもっている︑ということを証明しな
ければならないのである︒⁝⁝既に︹第一篇で︺知性を取扱ったさい明示しておいたように︑⁝⁝︹経験に頼らないで理性のみ
が発見できる︺原因結果の結合はないのである︒⁝⁝かくて⁝⁝正邪の⁝⁝区別の根底となり得る関係を発見することは不可能
である⁝⁝このような関係は︑たとえ真実に存在して看取されるとしても︑普遍的な強制力を有して︹意志に︺責務を課する︑
とは先天的に証明することはできない⁝⁝﹂︵∪.=仁安ρ卜↓蕊ミ冴鳴ミミミミ匙§≧町ミ糞℃℃眞①㌣ρ 前掲邦訳︵四︶︑二七−九頁︶︒
︵V =二目pρ︼Ψ﹂\一﹃︑鴨騎職¢鳴ミ凄ミミ曽犠誌﹀貯㌧ミ誌bロ.ら一① ﹄剛掲邦訳︵一二︶︑ ︸⁝○⊥触診︒
︵71︶ bロミ篤尋ミ︒ミ勢尉㌔N歌◎−NOQ◎9勺﹂㊤ω.
︵72︶国司ヨρP憲鳴トミ霧ミb籟嘘ミ聖ミ魯︒α.9旨ζ↓.?①凶ひqるく巳ω.040aΩ︒︒噌Φ巳8牢①︒・ωしOG︒N.<o一﹂もO■ωb︒山ω■
︵73︶ エg∋ρ∪二﹄ぎミ貯ミ畿ミミ§≧縞ミ謎bO戸①卜︒O山.前掲邦訳︵四︶︑二四八−九頁︒
︵74︶ 零﹂ヨρ∪二きミ随PおS 前掲邦訳︵四︶︑七三頁︒尚︑本節は既に今年六月に出した拙著﹃ヒューム体系の哲学的基礎﹄︵行人
社︶に入れてあるが︑本紀要の読者を考慮し︑今回収めることにした︒それ故︑同筆の構成に従えば︑以下が﹁ディヴィド・ヒ
ューム研究2﹂の﹁ヒュームの社会科学﹂となる︒
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第四章晴念について
人格の同一性と意志の自由
ヒュームの主著﹃人性論﹄は︑第一篇﹁知性について﹂︑第二篇﹁情念について﹂︑第三篇﹁道徳について﹂の三
篇から構成されている︒ヒュームは第一篇でその哲学的基礎を論じた後︑それを踏まえながら︑第二篇以下で︑道
徳哲学︵11今日の人文科学と社会科学の双方を含む︶を展開するのであるが︑しかし︑第一篇から第二篇以下への
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(九)
移行は無理なく行われている︒それが︑ヒュームの懐疑主義︑その裏返しである自然主義の性格に由来しているこ
とは容易に想像できる︒ヒュームの懐疑主義は︑知性の関わる領域には極めて厳しく適用されるが︑そうでない領
域にはかなり寛やかに適用され︑自然主義が頭をもたげてくる︒それを﹁二つの関係﹂の用語を使っていえば︑後
者の領域では︑観念の﹁哲学的関係﹂が﹁自然的関係﹂に吸収されるようになるということである︒ヒュームの因
果論は︑哲学的問題を扱った同著第一篇において︑こうした懐疑主義が最も大掛りに適用された例である︒
﹃人性論﹄第一篇から第二篇への移行︑即ち︑哲学から道徳哲学け人文・社会科学への移行は︑第一篇本文最後
の節︵第一篇第四部第六節︶で取り挙げられている﹁人格の同一性﹂の問題のヒューム的意味での懐疑主義的解決
を通して行われている︒従って︑その哲学から人文・社会科学への移行においては︑前者の領域での消極的・否定
的議論は︑後者の領域においては積極的・肯定的議論へと変っている︒このような移行は︑中世キリスト教神学に
はもとより︑近代の合理論的人間学︑更にはカント以後のドイツ観念論にも窺えない︑経験論的人間学に︑殊にヒ
ュームのそれに明瞭に︑見られる特徴といえよう︒キリスト教神学においては︑哲学も人文・社会理論も共に神学
に従属していて︑また公式には懐疑主義は認められていなかったのであるから︑そうした移行が起こり得なかった
のは当然であろう︒合理論的人間学においても︑その合理主義哲学がそのまま人文・社会科学の領域に適用された
ので︑その人文・社会科学は非道く窮屈で硬直したものになった︒また︑カント以後のドイツ観念論においても︑
その深遠な哲学にも拘らず︑それが直接︑入文・社会科学の領域に適用されたため︑その人文・社会科学︑特に社
会科学は︑理念的で現実から距たったものとなったのである︒
かような意味で︑つまり合理論的人間学やカント以後のドイツ観念論などとは違うという意味で︑ヒューム体系
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における哲学から道徳哲学への移行には︑格別の注意が向けられねばならないように思われる︒
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第一節同一性の関係
ヒュームは﹃人性論﹄第一篇本文最後の節﹁人格の同↓性について﹂において︑人格の同一性︵OΦ﹁ω○轟=匹①葺凶身︶
批判を行ない︑それを通して︑人格︑自我︑あるいは心︑精神に︑聖節で述べるような豊かな定義を与え︑第二篇
の情念︵o鋤ωω凶05ω︶の分析へと議論を進めていく︒同節でヒュームが批判している人格の同﹈性の議論は︑デカルトや
ロックなどのそれであって︑﹁我々がどんな瞬間にも謂わゆる﹃自我﹄を親しく意識して︑自我の存在並びに存在の ハ 継続を感じ︑自我の完全な同一性及び単純性を論証的確証︵9①ΦくごΦコ︒Φo︷鋤匹①∋o霧叶鑓口︒昌︶以上に確認する﹂と
いうものである︒しかし同一性の概念あるいは同一性というものがいかなる性質のものであるかについては︑既に
章節以前に詳しく論じられており︑同心はそれを同格あるいは自我と関係づけて論じているに過ぎないともいえる
ので︑先ずは︑同一性の概念を明らかにすることから本論を進めていこう︒
いま︑同一性の概念を明らかにしなくてはと述べたが︑実は同一性という用語は上の論述に既に出ているのであ ︵2︶る︒それは︑ヒュ;ムの知覚論の中の﹁二つの関係﹂を述べたところに出ている︒ヒュームによれば︑関係は実体
や様相と共に複雑観念であって︑それには︑哲学的関係と自然的関係の二つがある︒同一性は︑哲学的関係に含ま
れる七つのうちの一つであり︑残りの六つは︑類似︑空間と時間の関係︑量あるいは数︑程度︑反対︑因果関係で
ある︒ヒュームは︑同一性を﹁恒常不変な事物に当て嵌めた時の同一関係﹂と定義し︑それは﹁多少とも持続して ︵2︶存在するもののすべてに共通であるから﹂︑﹁あらゆる関係の中で最も普遍的な関係﹂であると述べている︒いま一
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(ノL)
つの関係である自然的関係には︑類似︑時間的・空間的接近︑因果性が入る︒さて︑ヒュームの哲学的議論は︑上
述したようにすべて︑哲学的関係が自然的関係に吸収されることによって︑その解決に導かれる︒同一性の関係︑
従って人格の同一性もそれから免れていないのである︒
また因果関係を論じたところ︵第一篇第三壁芯二節︶でも︑同一性について僅かながら言及されている︒ 一つは︑
同︺性の関係は︑因果性に影響を与えるかまたは影響を受けるか︑その何れかでなければ推理には用いられないと
いうことである︒またヒュームは︑対象に同一性が帰される理由について以下のように述べている︒﹁我々は︑或る
対象が幾度となく感官から姿を消しては顕れるに拘らず個物として引続き同じであると即座に思い倣す︒即ち︑絶
えず眼を対象に注ぎ或は手をその上に置いていたとすれば無変動且つ無中断な知覚を伝えたであろうと推断される へ3>とき︑我々は常に︑知覚が︹事実上︺中断されているにも拘らず︑対象に同一性を帰す﹂のである︑と︒
さて︑以上のような同︼性の関係が適用された具体的例は︑外的存在11物体の存在と人格ーー自我である︒﹃人性論﹄
第一篇第四部第二節と同第六節においてそれぞれ論じられている︒
ヒュームは﹃人性論﹄第一篇第四部第二節で︑外的存在11物体の存在の問題を取り挙げ︑その結論を導く過程で
同一性の関係を持ち込む︒勿論ヒュームは︑物体が存在するかしないかを問題にするのではない︒物体の存在はそ
の自然主義の立場から前提とされている︒ヒュームが問題とするのは︑﹁物体を信じさせる原因﹂であって︑具体的
には次の二つである︒︸つは︑﹁物体が感官に顕れていない時すら物体に﹃連続的﹄存在を帰﹂する理由は何かであ ︹4︶り︑いま一つは︑﹁物体を心や知覚から﹁別個﹄に存在すると思﹂う理由は何かということである︒このように問題
を設定した上でヒュームは︑では物体の存在を信じせしめるものは︑感官︵ω①房Φω︶︑理性︵お器8︶︑想像︵冒鋤ひqΦコ曽−
/3
叶δ口︶の何れであるかを問う︒先ず感官であるが︑感官はそれが作用する範囲を超えて作用し得ないので連続的存在
の念を与えない︑また︑感官は別個な存在を︑印象によって再現されたものとしても︑原生的なものとしてもひに
呈示できぬので︑心とは別個な存在の考えを生むことはない︒次に理性であるが︑物体の存在は因果関係によって
しか証明できないが︑知覚と対象とを同一視する時はもとより︑両者を区別した場合にも︑一方の存在から他方の
存在を推理できないので︑理性は物体の連続的存在の念も個別な存在の考えも与えることはできない︒このように
ヒュームは︑物体の存在を信じせしむるものは︑感官でも理性でもないとして︑最後に想像を検討する︒
さて︑ここでヒュームは︑﹁恒常性﹂︵8コω8昌︒︽︶と﹁斉合性﹂︵ooプΦ﹁①昌8︶という有名な二つの概念を持ってきて ︵5︶議論するのであるが︑ここでは極度に要約せざるを得ない︒この二つの概念は何れも印象のある特性である︒﹁見る
のを中断すればとて︑知覚するのを中断すればとて︑そのため変化することはない﹂のが恒常性である︑だが︑物
体はしばしば変化し︑知覚が中断すると当の物体を知ることが殆どできなくなる︒しかし物体がこのように変化す
るうちにも︑規則的な相互依存性が認められるのであって︑それが斉合性である︒いま少しくいえば︑この斉合性
には恣意的︵尊覧需品︽︶な仮定︑即ち諸対象の連続的存在という仮定がなされているのである︒だがそれがたとえ人
工的になされても︑それによって斉合性がより斉一的︵日○門Φ 億口凶噛O﹁ヨ︶となって︑想像もその道筋に添って働くの
で︑対象間により大きな規則性の念をわれわれに与えることになる︒このようにヒュームは︑恒常性と斉合性とい
う二つの概念を用いて︑物体の存在を信じさせる理由を巧みに論ずるのであるが︑しかしこのような議論を正当化 ︵6∀するには︑次のことが解明されねばならないという︒O 同一性の原理の解明︑口 中断する知覚の類似が何故知
覚に同一性を帰せしむるのかその理由︑口 この類似による同一性の錯覚が心に与える傾向︑四 この心の傾向か
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(九)
ら起こる想念の勢いと活気を解明すること︒ヒュームの同⁝性の関係はこれらの解明の中で詳細に論ぜられるので
ある︒ 先ず日の同一性の原理については︑ある対象が仮定された時間の変化を通じて無変動・無中断であり︑それによ
って︑心はその対象を様々な存在時期において追跡することができるものとされる︒
口についてはより詳しい説明が必要であろう︒われわれがある観念と他の観念とを極めて屡々間違うのは︑類似
によってである︒類似は観念の連合だけでなく心的性向の連合をも惹き起こす︒類似がこのような自然的関係に移
行した時︑ある対象の継起がその同一性と間違えられるのである︒自然的関係の本性は︑﹁観念相互を結合して︑一 ︵7︶つの観念の出現するとき相関観念への推移を促進する﹂ことにある︒だから︑自然的関係にある観念間の移行は極
めて容易で︑心に殆ど変化を生ぜしめず︑あたかも同じ活動の連続のように思われる︒それ故︑自然的関係にある
対象の継起に同一さ︵ω9ゴPΦ口Φωω︶が帰せられる︒もし想像がこの継起に沿って働く時︑われわれは継起を同一性と混
同するのである︒要するに︑﹁類似する知覚に沿う想像の円滑な移行が︑我々をしてこれらの観念に完全な同一性を
帰せしめる﹂のである︒
日について︒しかし知覚の出現の中断は非常に長く︑しかも︑心における知覚の出現と知覚の存在そのものとは
一見同じものと思われる︒だから︑知覚の出現の中断と存続の連続とは明らかに矛盾しているようだが︑われわれ
はこの矛盾に同意できるだろうか︒ここに次のような二つの疑問が起こり得る︒①どうずればわれわれは︑知覚が
消滅せずに心から姿を消すと仮定することに得心できるのか︑という疑問︒②どのようにしてわれわれは︑知覚が
新しく創り出されなくて︑しかも一たん姿を消した対象が再び心に現れるようになると思うのか︑また︑兄る
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︵ωΦ①ぎひq︶︑感じる︵︷ΦΦ一一ロひq︶︑知覚する︵090虫くぎひq︶とはいかなる意味か︑という疑問である︒
ところで注目されるべきは︑これらの疑問に回答を与えるに当って︑ヒュームがここで﹁心﹂︵∋一邑︶に定義を与
えていることである︒即ち︑ヒュームは︑﹁心とは︑一定の関係によって接合された・誤ってではあるが完全な単純 ︵8︶性と同一性とを賦与されていると想定される・種々な知覚の堆積ないし集合に過ぎない﹂と述べている︒心につい
てはこの後の第六節において︑﹁人格の同一性﹂批判を行なう過程で詳しく述べられるのであるが︑第六節でもここ
と転々同様の定義がなされている︒ヒュームのこのような心の理解は︑第一篇﹁知性について﹂におけるポジティ
ブな結論の一つで︑しかも第二篇以下の議論の前提であって極めて重要な議論であることに注意しなくてはならな
いが︑これについては後で詳しく述べることにする︒
ヒュームはしのように心の定義を行なった後で︑第一篇第一部以来繰り返されてきた原理あるいは命題をここで
また持ち出す︒即ち︑すべての知覚は他の知覚から区別でき︑だから知覚は分離して存在すると考えられ得る︑ま
たこの逆も真である︑と︒そして先の①の疑問に対しては前者によって︑②の疑問に対しては後者によってそれぞ
れ答える︒①に対しては次のように答えられる︒ある特殊な知覚を心から分離することは不合理ではない︑つまり︑ かたまり当の知覚が心を組成する知覚の結合された塊との関係を断つことは不合理ではない︑と︒②に対しては︑もし当の
知覚を心から分離することが不合理でないならば︑それを逆に考えて︑全く同一物を表す対象という名称が︑この
対象と心との連結を不可能とすることはできないから︑とヒュームは答えている︒また︑外的対象が見られ︑感じ
られ︑心に現れるということは︑外的対象が知覚の結合された堆積である心に対してある関係を獲得することであ
るという︒以上からヒュームは次のように結論する︒﹁諸知覚の正確な類似がそれら知覚に同一性を帰せしめる時
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D・ヒュームの経験論的入間学の研究(九)
は︑知覚の合間を満たし得る・そして知覚に対し完全且つ完壁な同一性を保存し得る・連続的なものを捏造して︑ ︵9︶よって以て外見上の中断を除去してよいのである﹂と︒ 四については簡単でよいだろう︒上のような類似による同一性の錯覚が心に与える傾向は︑心に現に現れている ︵記憶印象によって信念を惹き起こす︒何故なら︑以前の感覚を記憶していない限り︑物体の連続的存在についてど
のような信念も決してないからである︒
以上のように同一性の概念は︑物体の連続的存在の証明︑即ち物体の連続的存在を信じるのは何故かという問題
に用いられているのであるが︑要するにそれは想像の虚像であった︒その後同一性の概念は実体批判にも使われる
が︑これについては既に述べた通りである︵第二章第三節︶︒しかし︑人格の同一性を扱った﹁付録﹂︵>O℃Φ口島×︶ ︵紛︶で︑ヒュームは︑﹁自我は実体と同じであるか﹂といったことを問題にしており︑実体とまではいかなくともそれに
非道く近いものと認めていたことは闇違いない︒ヒュームが︑物体の存在の問題︑実体の問題に続いて︑同︼性の
概念を持ち出すのは人格︵冒Φ﹁ωo昌︶︑自我︵ω①5の問題においてである︒そしてここでも同一性の概念は︑物体の存在
や実体の問題においてと余り変らない形で適用されている︒しかるにここでは︑ネガティブな議論は豊かなポジテ
ィブな結論を導いており︑この点でこれまでの議論の展開とは些か異なっている︒そして︑そのポジティブな結論
が︑﹃人性論﹄第二篇以下の議論の前提となっているのである︒
ところでヒュームは︑人格の同一性の本性の解明に入る前に︑人格に帰せられる同一性と類似した例をいくつか
挙げている︒船︑動植物︑物音︑教会︑河などにおける同一性がそれだという︒
︵11︶ 先ず船であるが︑これには共通目的︵OO8ヨO昌Φ嵩亀︶があるため︑頻繁に修理が行われ部分が非道く変っても︑ま
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た材料が違っていても︑船に同一性を帰す妨げとはならない︒動植物の場合には︑船における共通目的の上に︑部
分相互の共感︵峻日訓電身︶一部分が互いにそのすべての活動︑作用に当って︑原因と結果の相反関係を持つこと
が加わっているので︑同一性を帰す妨げは︑船の場合よりはるかに小さい︒即ち︑動植物の場合その部分相互の
関係が︑船の場合よりもより強い関係になっている︒従ってその結果︑動植物が極めて短期の間に全く変化し︑形
態︑大きさ︑実質が変ったとしても︑われわれは動植物に同一性を帰すのである︒例えば︑小さな苗木から巨木に
なったとしても︑樫は同じ樫である︑それを構成している物質の分子やその部分の形状が同じでないにも拘らず︒
また︑幼児が大人になり︑ある時は肥えある時は痩せても︑同一人であることに何の変りもない︒
更にヒュームは︑次の二つの現象に対して同一性の概念を用いてもよいという︒一つは︑次のような場合である︒
われわれは数的同﹈と種的同=コニ∋①﹁一〇巴①ロ鳥ω℃Φ∩咤一〇己Φ昌昌けく︶とをかなり正確に区別し得るが︑思惟したり推理
したりする時︑種的同↓を数的同一と混同して使うことが屡々ある︒例えば︑ある人が頻りに中断しては新たに聞
える物音を耳にする時︑その物音は依然として同じであるという︒しかしこの場合︑正確にいえば種的同一即ち類
似があるのみである︒ところがわれわれはそれを数的同一をなしているとする︒また︑以前は煉瓦造りであった教
会が壊れて教区民が同じ教会を砂石造りで近代建築風に再建した︑といった場合もそれと同じである︒この場合︑
形も材料も違っていて︑二つの建物に共通なのは︑両者が教区の住民に対して持つ関係だけであるが︑これだけで
二つの建物を同じと呼ぶに足る︒第二の現象は河のようなものである︒この現象は本性上可変的で非恒常的である
ので︑他の場合であれば同一関係と矛盾するほどの急激な変化も許される︒確かに河は短時間のうちに変化するが︑
しかしこのことは河が数時代も続いて同じ河であることを妨げないのである︒というのは︑ある現象にとって自然
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(九)
的で本質的なものは︑ともかく期待されるからである︒
ヒュームは以上で︑船︑動植物など可変的事物に帰せちれる同一性の考察を終えたので︑次にいよいよ人格の同
一性の本性の解明に向かう︒そしてここでもこれまでの考察に用いられたのと同じ方法が採られる︒
ヒュームによれば︑人格︑即ち自我あるいは心は︑数多の知覚によって構成されている︒そしてその知覚は︑す
べて別個の存在であって︑従って︑他のすべての知覚−同時的なものであれ継起的なものであれ と異なって
おり︑区別でき︑分離できる︒しかるにわれわれは︑知覚の全系列が同一性によって結合されていると思いこむ︒
それ判ここに次のような疑問が︑即ち︑同一性なる関係は︑知覚を互いに真に結合するものであるのか︑それとも︑
想像によって単に知覚の観念を連合するに過ぎないものか︑という疑問が起こる︒だがこれについては既に論述し
たところがら明らかであって︑知性は対象間のどんな結合も決して観ないし︑また︑因果的接合すら習慣的連合以
上のものではない︒だから同一性は︑想像において知覚の観念が連合されるところがら知覚に帰される性質という
ことになろう︒
ところで︑想像において観念を連合できるのは︑類似︑接近︑因果性の三つの関係である︒同一性の関係はこれ
らのどれかに依存する︒そこで問題は︑人格の継起的存在を考察する時︑どのような関係によって円滑で無中断な
思惟の進行が生み出されるか︑ということになる︒ヒュームはそこで︑この問題に殆ど関係のない接近を外し︑考
察を類似と因果性に限定する︒
先ず類似からだが︑ヒュームは次のことを仮定する︒即ち︑われわれは︑他人の胸中をハッキリ見ることができ︑
心を組成する知覚の継起を観察し得る︑また︑その人は過去の知覚のうちその少なからぬ部分の記憶を有している
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とする︒その時明らかなのは︑知覚継起のあらゆる変動を通じて︑当の継起に関係を与えるのは差し当り記憶であ
る︒記憶は過去の知覚の心象︵一ヨゆひq①ω︶を再現させる機能であり︑心象は当然その対象に類似しており︑このような
類似した知覚が思想の連鎖の中に頻に出現すれば︑想像を類似する知覚のない時に較べ︑思想の環から環へと伝え︑
かくて︑全体は一対象の継続のように見えるに違いない︒このような意味で︑同一性を発見するのは記憶である︒
しかし同一性を真に産出するのは因果性︑因果関係である︒ヒュームによれば︑人間はどんなに変化を蒙ろうとも︑
当の人間の諸部分は因果性の関係で結合されている︒だが︑もし記憶がなければ︑われわれはどんな因果性の観念
も全く持たぬだろうし︑またひいては︑われわれの人格︑自我を組成する因果連鎖も決して有さないであろう︒従
って︑人格の同一性の起源は記憶である︒けれどもこうして︑記憶によって一度︑因果性の観念が得られてしまっ
た後は︑原因の同じ連鎖を︑つまり人格の同一性を︑われわれは記憶の届かぬところへ及ぼすことができるのであ
る︒ 従って︑デカルトなどのいう 本節冒頭に記した ような自我︑人格といったものは存在しないということ
になる︒
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第二節 ﹁知覚の束﹂としての心
以上のように同一性の関係は︑物体の存在︑実体︑人格︵11自我あるいは心︶などの問題に適用されている︒そ
してそれらは専ら哲学的問題として扱われているので︑当然ながら厳しい懐疑主義に晒され︑ネガティブな結論に
導かれることになる︒しかしヒュームにおいては︑哲学的問題にも自然主義が働いているのであって︑結論がすべ
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(九)
てネガティブに終るというのではない︒確かに実体の概念は全く否定されている︒恐らく実体は︑ヒュームが全的
に否定した唯一の概念であろう︒たとえ実体の概念に︑自然主義的解釈が施されても 多分それは不可能と思わ
れるが ︑ヒューム体系においてはその占めるところを有さないだろう︒しかし︑物体の連続的存在は肯定され
ている︒ただそこで使用されている同一性の概念が野鳥とされているだけである︒そこでは物体の存在は前提とさ
れているのである︒ヒュームが問題としたのは︑物体の存在を信じせしめるに与っているのは︑感官︑理性︑想像
の何れかということであって︑結論は既述の通り想像であった︒ここで特に重要なのは︑想像の働きが甚しく大き
いということなのである︒改めて言うまでもないが︑想像が大きな働きをするのはここだけでなく︑ヒューム体系
のあらゆるところで 従って実体批判においても ︑大きな働きをしている︒しかし︑以上の実体批判あるい
は物体の連続的存在の解明からは︑直接道徳哲学へ導く道は拓かれていない︒実体論批判は︑ヒューム体系形成の
いわば準備的作業だったが︑しかしその重要性はそれがなされなければ︑ヒューム体系はできなかったといってよ
い程のものであった︒また︑物体の連続的存在の解明は︑ヒューム体系の基礎を構成する諸概念の切れ味を試した
ものではなかったかと思われる︒そして事実鋭い切れ味を示したのであった︒だが何れも直接道徳哲学への道を用
意するものではなかった︒
ヒュームの哲学をその道徳哲学︵目人文・社会科学︶へ直接導く道となるのは︑﹃人性論﹄第一篇第四部第六節﹁入
魂の同一性について﹂の議論においてである︒同節に続く第七節は﹁本篇の結論﹂︵Oo口︒ピωδづoP三ωげoo評︶とな
っているので︑同六節﹁人格の同一性について﹂が第一篇の最後の節と見てよい訳である︒事実︑同意で扱ってい
るのは︑人格の同一性について議論されねばならない二つの場合︑即ち︑の 想像︵あるいは思惟︶に関する場合︑
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口 情念︵Bωωδ器︶即ち自己自身について持つ関心に関する場合︑のうち日だけであって︑口は﹃人性論﹄第二篇﹁情
念について﹂に回されているのである︒このことからも︑同六節が第一篇と第二篇とを繋ぐ重要な節であることが
窺えると思う︒では何が第一篇と第二篇とを繋いでいるのかというと︑それは︑人格口自我11心ロ精神についての
概念である︒ヒュームの心に関する考えは︑同仁﹁人格の同一性について﹂において最も明瞭に論じられている︒
しかしヒュームの心についての表明は︑人格の同﹈性を解明する過程であるいはその結果としてなされたとも言
い得るが︑しかし上述した物体の存在の議論の中にも︑人格の同一性を論じた節に出てくる心の定義と全く同様の
ものが見られることからも窺えるように︑ヒュームは﹃人性論﹄第一篇を書き始める時には既に心について確かな
考えを持っていたと思われる︒蓋し︑ネガティブな議論も︑ポジティブな脱果をある程度見通しておいてこそ︑は
じめて大胆にそして自信を持って︑前へ押し進むことができるのである︒
さて︑議論を元に戻すが︑上述したようにヒュームはデカルト流の自我の観念を否定した︒しかしこれはヒュー
ムが自我一般を否定したということではない︒デカルト流の自我観念はある混同をしているというのである︒即ち
﹁同一性﹂の観念と﹁多様性﹂︵臼く①﹁ω一q︶の観念とを混同しているというのである︒繰り返すことになるが︑同一
性の観念は︑﹁無変動且つ無中断な事物を考察する﹂時︑想像が作る観念である︒これに対し多様性の観念は︑﹁継
起的に存在し且つ緊密な関係によって結合する若干の異なる事物について﹂省察する時︑想像が作る観念である︒
明らかにこの二つの観念は異なっており︑いや反対とさえいえるのだが︑普通の考え方では混同される︒ヒューム
はその理由を次のように説明する︒﹁無変動且つ無中断な事物を考察する時の想像の活動と︑関係ある事物の継起を
省察する時の想像の活動とは感じの上で殆ど同じであって︑関係ある事物の場合に要する思惟の努力も︑無変動な
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D・ヒュームの経験論的入間学の研究(九)
事物の場合に比してさほど多くはないのである︒関係は︑一つの事物から他の事物への心の推移を促進して︑恰も
連続した一事物を熟視した時と同様に移行を円滑にする︒この︹心的活動の︺類似こそ︑混乱と間違いの原因で︑
関係ある事物の念の代りに同一性の念を以てさせるのである︒⁝⁝継起に応ずるものは明らかに多様性の観念であ ︵12︶る︒それ故︑我々は間違いによってのみ継起に同一性を帰することができるのである︒﹂
ところでここで注目されねばならないことは︑心あるいは自我が︑﹁多様性﹂という概念で説かれていることであ
る︒ただ継起︵ω二〇6Φωω一〇コ︶ということであれば︑それは物体の連続的存在についての議論においても用いられてい
る︒物体の存在における議論と人格の同︸性における議論は極めて似た構成をしているが︑しかし前者の議論にお
いては多様性なる概念は出てこない︑同皿性の概念だけで議論は十分だった訳である︒明らかにヒュームにおいて
は︑物体と心の間に質的違いが認められるのであって︑﹁多様性﹂の概念が人格の同一性についての議論の中で用い
られているのはそのことを示す証左と思われる︒もとより多様性と複雑性とは同じ概念ではない︑が︑両者に重な
る部分があることは認められねばならない︒重要なことは︑心が物体と違ってより複雑であるということ︑そして
その点に両者の質的相違があるということである︒ヒュームは物体すら合理主義者より︑より複雑なものと捉えて
いた︒ヒュームが物的実体を批判し︑必然的因果の成立を数学の領域の外では認めなかったのも︑物体の第一性質
と第二性質の区別を解消したのも︑簡単にいってしまえば︑物体もそう単純なものでないということを説くためで
あったのである︒既にヒュームは︑人格の同一性を語る前に︑心的実体はこれを却けていた︒そして﹃人性論﹄第
一篇本論の最終節﹁人格の同一性について﹂では︑人格の同﹈性は人格の多様性と混同するものだと結論するので
あった︒しかしその多様性は︑人格即ち心を構成している知覚がバラバラに存しているという意味のそれではなく︑
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ある関係をもって継起しているという意味のそれである︒それ故それは︑無き複雑性とは違うけれども︑複雑性の
概念と重なる部分を持つものであることは疑いを容れない︒
以Lを簡単にまとめると次のように言えるだろう︒心は知覚の複雑な構成からなるが︑しかしそれでもそこには︑
ある一定の関係が見出せる︑しかるに人々はその関係︵11多様性︶を同一性と混同する︑その典型がデカルト流の
自我の概念である︒ではヒュームは心をどのように捉えているのであろうか︒だがヒュームは﹁人格の同一性につ
いて﹂において心について詳しく論じている訳ではないし︑また﹃人性論﹄第二篇においても︑議論は直ちに具体
的な情念に入っており︑心の構成全体についての議論は殆ど見られない︒しかし︑﹁人格の同一性について﹂の中で
簡潔に書かれている心に関する記述と︑それを説明するための例は︑たとえその議論は僅かであっても︑ヒューム
体系の最も重要な位置を占めるものであることを忘れてはならない︒それは﹃人性論﹄第一篇のネガティブな哲学
的論議の結果導かれたポジティブな議論とも言い得るものであるし︑また︑同平心一篇と第二篇とを繋ぐ重要な議
論ともなっているし︑更には︑第二篇そして第三篇全体の前提の議論ともなっているのである︒
ヒュームは﹁人格の同一性について﹂において︑心を↓種の劇場あるいは共和国に見えている︒心を劇場と讐え
るところの直ぐ前でヒュームは心を次のように簡潔に記す︒即ち︑心とは︑﹁想いも及ばない迅さで次々に継起する・
久遠の流転と動きとの裡にある・さまざまな知覚の束ないし集合︵鋤ぴ口づ臼①o﹁oo=Φ〇二〇コ○︷&睦①掃三〇Φ﹁08江︒づω︶ ︵13∀に過ぎない﹂と︒そしてこのような心を一種目劇場︵↓ゴΦ∋貯匹田ω曽三&Oh壁①9︒爲Φ■︶に延え︑次のように言う︒
﹁そこでは︑いくつもの知覚が次々に出現する︒そしてそれらは通り過ぎ︑舞い戻り︑︑﹂り去り︑更にまた清悪し ︵14︶て無限に多様な情勢及び状況を作り出す︒﹂いかにわれわれが心の単純性と同一性とを想像する傾向を自然に持って
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(几)
いるとはいえ︑ある一時における単純性も壮時における同↓性も心にはない︒しかしヒュームは︑心を劇場と比較
する際︑次のことに迷わされてはならないという︒﹁蓋し心を組成するものは︑継起する知覚だけである︒︹劇場の
ように︺数々の場面が演じられる場所の念或はその場所を構成する道具の念は︑どんなに朧気であろうとないので
︵15︺ある︒﹂要するに︑知覚は常に変化し︑同じ状態に止まることはないというのである︒
次に︑心を共和国︵あるいは民主国鋤﹃Φ℃⊆σ浮︒﹁ooヨ∋oコ≦窪一けび︶に警えているところの前では︑ヒュームは
以下のように述べる︒即ち︑心とは︑﹁因果関係によって繋がれ且つ相互に産み・減し・影響し・変容し合う様々な ︵16︶知覚ないし実在の体系︵斡紹ω8∋o︷臼頃Φ﹃①葺℃①需Φ営一〇房自9躁Φお葺①×一ω8poΦω︶﹂であると︒この記述は︑同一
性の関係を真に生み出すとされる因果性の議論の最初のところに出ている︒そして心が︑以下のように共和国︵あ
るいは民主国︶と比較される︒﹁蓋し共和国或は民主国では︑︹恰も心と同じく︺若干の成員が支配と隷属との交互
的な絆によって接合されているし︑また部分の絶え間ない変化のうちに同じ共和国を次代へ伝える人々を生むので
ある︒且つまた︑共和国はその成員だけでなしに︑その諸法律及び諸組織まで変化して︑猶且つ同一共和国である
ことができる︒それと同じく人間に於ても︑同じ人物が同一性を失わずして印象や観念のみならず性格及び性向ま ︵17︶で模様替えできる︒どんな変化を受けようと︑該人物の諸部分はやはり因果性の関係で結合されている︒﹂
確かに︑劇においては場面と場面の問にはハッキリ断絶があるし︑また一つの場面を作っている様々な用具や装
置は︑場面が次の場面に移らない限りそれ程変ることはない︒だが︑共和国あるいは民主国においては︑その国家
を構成している国民の一人一人は︑社会の一つ一つはそれこそ一刻一刻変化するのであるが︑その共和国︑民主国
家が同一の国家であることに変りはないのである︒人間の心も︑そうした共和国︑民主国と全く同じ性格をしてい
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る︑とヒュームはいうのである︒以上でヒュームは︑﹁人格の同一性について﹂の節で論ずべきだった想像に関する
同一性の問題を解明し終えた︒これでヒュームは︑議論を﹃人性論﹄第二篇﹁情念について﹂に移す準備ができた︒
上の引用文に続いてヒュームは次のように述べている︒﹁そしてこの点で︑情念に関する同一性は︑料った知覚を影
響させ合って︑過去或は未来の快苦に対する関心を現在に於て抱かせ︑よって以て︑想像に関する同一性に力を貸 ︵18︶す役に立つのである﹂と︒ ︵19︶ これでわれわれはヒュームの情念論に進むことができるようになったのである︒
26
︵1︶ =¢∋ρO■−﹄寒ミ帖誕ミミ§§≧Nミ黍○義oa讐90Ω費①邑8牢①︒・︒︒も卜︒切ピ ヒューム﹃入性論﹄口︵大槻春彦訳︑岩 注
波文庫︶一〇一頁︒人格の同一性の問題は︑ヒュームも言うように︑﹁近年︑哲学の大問題﹂︵∪.==∋ρ㌧ミ9℃﹄㎝¢.前掲邦訳
﹃入性論﹄〇一二頁︶となったものだが︑特にJ・ロックの議論が有名である︒ロックはその﹃人間知性論﹄︵﹄.ピoo﹃ρムミ穿¢ミ
竃ミ鳴ミ§三二§§q誌譜ミ織罷職§恥O×♂aC明く.勺﹁Φのω■ ロック﹃人間知性論﹄大槻春彦訳︑岩波文庫︶第二巻毫髪ヒ章﹁同
一性と差異性について﹂の中で次のように述べている︒ロックによれば︑人格とは︑﹁理性と省察とをもち︑自分自身を自分自身
も の も の と考えることのできる︑思考する知能ある照準者︑違う時間と場所で同じな思考する事物であり︑こうしたことは⁝⁝意識によ
ってだけなされる︒﹂︵﹄・﹇oo﹃ρきミも.ωG・9 前掲邦訳口三一二頁︶また︑﹁ある入間をその人自身にとってその八自身とさせる
ものは同じ意識だから︑入格同一性はこの意識だけに基づ﹂︵旨い06評ρNミ9Pし︒し︒①.前掲邦訳口三一四頁︶く︒またロックは同
著第四巻第一〇章において︑﹁人間が自分自身の存有の明晰な知覚をもつこと︑これは疑問の余地がない︒人間は自分が存在し︑ も の ある事物であると︑絶対確実に知る﹂︵旨い06評ρ㌧ミ猟P曾㊤.前掲邦訳四一七五頁︶と述べている︒しかし人格同一性論でのロ
ックの意図とヒュームのそれとが違うことは本稿の述べる通りである︒
︵2︶ =二∋ρ∪.−きミ冒℃.一幽.前掲邦訳日四四頁︒
D・ヒュームの経.験論的人間学の研究(九)
︵3︶=口∋Pu.丸ミ黛℃・冒.前掲邦訳日∵⁝ヒ頁︒
︵4︶ =ニヨρ∪こNミ猟℃﹂︒︒︒︒−㊤.前掲邦訳口一六頁︒
︵5︶ 国書ヨρ∪こきミもP一㊤やP 前掲邦訳口二五−三〇頁︒尚︑ヒュームの外的存在11物体の存在に関する議論の最も優れた注釈書
にして︑更にヒュームの議論を発展させたものが有名な国.=.℃二6①SミミQ嫁§§越ミ導鴨津貯ミミきミ90×︷oad三く.
で﹁霧︒・﹂逡O.である︒また︑﹀.﹄・﹀<①﹁噛專§食○×︷oad三く.勺﹁①︒︒ω■∩プ騨℃.G︒.参照︒
︵6︶ 同一性の原理はスコラ哲学では個体化の原理︵三脚コ∩一ロごヨヨ巳︿一9﹂鉾一〇三︒︒∀といわれていた︒︵前掲邦訳口一六二頁︑訳者注二
五頁参照︶
︵7︶ =ニヨPOこきミ戸NO蒔 前掲邦訳口三八頁︒
︵8︶=ニヨρ∪■﹂ぴミも.ぎ刈■前掲邦訳口四二頁︒
︵9︶=ニヨρU二きミも.8︒︒.前掲邦訳口四二頁︒
︵10︶ =二∋ρ∪こきミも.①ω伊 前掲邦訳口一四八頁︒
︵11︶ 船の前にヒュームは物質の塊︵ヨ霧︒・9∋二審この例を挙げている︒︵O.=ニヨρきミ︑℃℃.卜︒毅−①.前掲邦訳口一〇七−八頁︶こ
の物質の塊は部分が互いに隣接し且つ結合している︒さてこの物質の塊に︑全体に対し変化した部分の割合︵℃﹁oロ︒﹁ユ︒巳の大小に
よって同一性を帰したりそうでなかったりする︒大きい場合は同一性は破棄され︑小さい場合には同﹁性が帰される︒また変化
の緩急によっても異なる︒即ち変化が急な場合には同一性は帰されず︑緩やかな場合帰される︒
︵12︶ =二∋ρ∪.\ミ猟戸旨9 前掲邦訳口一〇六頁︒
︵13︶ 国二∋ρO.きミPN認■前掲邦訳口﹁〇三頁︒
︵14︶ =二BρU;﹂ミ猟ロ.卜︒切︒︒.前掲邦訳口一〇三−四頁︒
︵/5︶ =c∋ρ∪.曽きミ魑P霧︒︒・前掲邦訳口一〇四頁︒
︵16>︵17︶︵18> 鵠¢竃Puきミマま一.前掲邦訳口=四頁︒
︵19︶ 私には︑﹁人格の同一性について﹂の節でのヒュームの以上のような議論に︑それ程問題になるようなところは見出せないので
あるが︑ヒューム自身はかなり不満だったようで︑﹁付録﹂で次のように書いている︒﹁人格同一性の節を更に厳格に吟卜すると
き︑私は甚しい迷路︵餌δ9鼠⇒昏︶に捲き込まれていることを知る︒そしてそのため︑私は︑前説を訂正する術も理路を整然とさ
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せる術も知らない︑と告白しなければならない﹂︵∪.=⊆ヨρきミも.①ωし︒.前掲邦訳口一四六頁︶と︒そうして︑ヒュームは︑人
格の同一性の否定的証明と肯定的証明を呈示している︒一体ヒュームの不満はどこにあったのか︒﹁付録﹂でなされている議論を
見るに︑本文﹁人格の同一性について﹂の節での議論と対立︑矛盾するようなのは一つもない︒ただ強いて挙げれば︑本文では︑
人格︑自我が実体との関係で論じられていないのに対し︑﹁付録﹂では実体との関係で︑あるいは実体と 緒に論じられている︒
思うに︑﹁人格の同一性について﹂の節での議論が︑その前の節︵﹁精神の非物質性について﹂︒同節で︑実体批判が展開されてい
る︶との繋がりにやや欠けるところがあったところにヒュームの不満の一つがあったのかもしれない︒しかしそれは些細な問題
であろう︒やはりヒュームの批判は上の引用文の直前に述べられているように︑﹁人格の同一性について﹂を書く前に抱いていた
希望が必ずしも叶えられなかったところにあったかと思われる︒﹁私はこれまで或る希望を抱いていた︒即ち︑叡知界︵9Φヨ博①=①∩−
ε巴甫○﹃︼eに関する我々の理論はどんなに欠陥があるにせよ︑物質界︵9①B碧Φユ巴≦o﹁匡︶に就いて入間理性が言え得る一切の
關明に伴うと思われる矛盾と不合理からは免れているであろうという希望を抱いていた︒﹂︵09=ニヨρきミP①ωω■前掲邦訳口
一四六頁︶︒そして常格同一性の否定的証明と肯定的証明とを行なった後︑ヒュームは︑﹁とはいえ私が︑継起する知覚を思想な
いし意識に嘗て接合する原理を解明しようとするとき︑一切の希望は消える︒蓋し︑私はこの項目に就いて私を得心させるどん
な理論も発見できないからである﹂︵∪.=仁∋やきミ℃℃.①ω㎝−O.前掲邦訳口一四九−五〇頁︶と書いている︒要するにこういうこ
とであろう︒即ち︑﹁人格の同一性について﹂書くまでは物体の存在などにおいて展開した議論を人格︑白我︑あるいは心にその
まま適用してよいと考えていたが︑前者と後者との間には質的な相違がある︑つまり後者は前者に較べ︑かなり複雑な対象であ
る︑従って前者において用いた議論では後者の解明には不十分であると︒私はこうしたことも考慮に入れ本章第一節第二節を論
じたつもりである︒
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