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古賀 勝次郎

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(1)

比較社会思想史研究︵二︶

一日本思想の原型としての本居宣長の思想口

︽目次︾総序

日本思想の原型としての本居宣長の思想

 はじめに

 日 丸山真男の宣長解釈

  ω  ﹃日本政治思想史研究﹄における解釈

  ㈲  ﹁歴史意識の﹃古層﹄﹂における解釈︵以上前号︶

 口 日本思想の原型と宣長の思想︵以下本号︶

  ω  ﹁神﹂の概念と﹁生成﹂の概念

  ω  ﹁自然﹂と﹁作為﹂

   ω  ﹁自然﹂の概念        −儒教と老荘思想との比較1

   @  ﹁作為﹂の概念      祖侠学とキリスト教の比較一

  価 宣長の歴史観

古賀 勝次郎

(2)

2

の 日本思想の原型と宣長の思想

 日本思想の原型としての本居宣長の思想を︑丸山真男の宣長解釈から始めたのば︑他でもない︑彼の﹃日本政治思

想史研究﹄が︑第二次大戦後の我が国の日本思想研究に甚大な影響を与えて来たという事実からである︒そのように

大きな影響を与え得た理由は︑ ﹃日本政治思想史研究﹄が︑普遍的︑合理的議論を展開している︑つまり︑日本思想

を西洋思想と同じカテゴリーで論じているからであろう︒ ﹁自然﹂と﹁作為﹂は︑西洋ではギリシア以来の認識論の

基礎的カテゴリーであったし︑また︑東洋においても︑例えば︑儒教や道教などはそういえる︒丸山は︑ ﹁自然﹂の

論理を朱子学によって︑ ﹁作為﹂の論理を租棟学によってそれぞれ代表させ︑そうして︑朱子学から祖忌学への転換

を︑西洋中世のゲマインシャフトから近代のゲゼルシャフトへの移行に対応するとして︑日本の近代化の問題を論じ

たのである︒

 丸山のかような議論は︑確かに極めて優れた着想を示すものといえるが︑しかしまた︑問題点も少なくない︒何よ

り︑儒教に余りに大ぎなウェイトが置れていることである︒確かに︑日本の近世︑即ち︑江戸時代︑少なくとも学問

界を支配していたのは儒教であった︒だが︑神道や仏教も決して無視できないのでありて︑とりわけ︑一般民衆レベ

ルでば︑儒教より神道や仏教の方がぽるかに影響力を有していた︒丸山ば神道︵ヨ学︶についてはがなり論じている

が︑仏教は全くといってよいほど扱っていない︒次に西洋の近代が︑ ﹁自然﹂と﹁作為﹂という二つの概念で︑果た

して理解できるか︑という問題がある︒ ﹁法の支配﹂や﹁自由経済﹂などの原則や制度は︑明らかに自然と作為とい

(3)

比較社会思想史研究(二)

う概念では理解できないのであって︑そこでは︑﹁生成﹂の概念を必要とする︒更に︑﹃日本政治思想史研究﹄におけ

る国学︵本居宣長の思想︶の解釈は誤っており︑丸山が﹁歴史意識の﹃古画﹄﹂を書かざるを得なかった所以である︒

 既に述べた如く︑﹃日本政摺思想史研究﹄と﹁歴史意識の﹃古層﹄﹂の間に︑論理的斉合性がないところに丸山の議

論の難点があった︒本居亘長︑或は日本思想の原型の理解︑解釈からすれば︑後者の論文の方がより真実に近いと言

える︒とすれぽ︑前者の中で︑宣長との関連で論じられていた組裸学や道教︵老荘思想︶の解釈も︑或は変わらざる

を得ないかと思われる︒だが︑残念ながら︑﹁歴史意識の﹃古層﹄﹂の中で︑祖裸身や道教は殆ど言及されていないの

である︒恐らく︑その論文の中の宣長解釈をより真実に近いものとすれば︑﹃日本政治思想史研究﹄における祖絶学︑

道教解釈は︑相当の︑しかも︑極めて重要な点において︑修正されなくてはならぬであろう︒﹁歴史意識の﹃古層﹄﹂

における本居宣長︑日本思想の原型に対する解釈と私の解釈との間にはそれ程の懸隔はない︒唯︑日本の﹁神﹂︑或

は宣長の﹁神﹂解釈が十分なされていない処が︑難点と言えばいえる︒

 上述した如く︑日本思想の原型︑そしてそれを明示化した宣長の思想の根底をなすのは︑ ﹁生成﹂というカテゴリ

ーである︒それは言う迄もなく︑日本の﹁神﹂の概念に由来するものであるから︑先ず我々は︑日本の﹁神﹂の概念

を明らかにすることから始める必要があろう︒またそれは︑勿論︑キリスト教における︽Oo自︾の概念との比較を要

請する︒日本思想の原型︑宣長の思想の根底をなすカテゴリーが﹁生成﹂であれば︑それと︑狙練直︑道教との関係

はどうあるのか︒多分︑ ﹃日本政治思想史研究﹄における理解とは︑かなり異なったものとなろう︒以下︑私は︑そ

ういうことを論ずることによって︑日本思想の原型としての本居宣長の思想を明らかにしたいと思う︒断る迄もない

が︑それは私個人の見解であって︑一つの仮説を出るものではない︒

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ω  ﹁神﹂の概念と﹁生成﹂の概念

 本居宣長の思想を以て日本思想の原型とするということは︑当然︑宣長の解釈した﹁神﹂を︑日本の﹁神﹂の原・

概念とすることである︒周知のように︑ ﹃古事記﹄が成った時には︑儒教や仏教などの外来思想が既に輸入されてい

て︑現実の上でも大きな影響力を振っていた︒ ﹃古事記﹄と錐も︑その影響力から免れていないことは︑その﹁序﹂

から明らかであり︑﹃日本書紀﹄ともなれぽ︑内容も外来思想の影響を強く受けている︒即ち︑日本の神道は︑﹃古事

記﹄の本文を除けば︑すべて外来思想の影響を受けている︑といってよいのである︒両部神道測り︑林羅山や藤原怪

窩などの神道説曲り︑垂加神道然りである︒だが︑それらの神道は︑宣長にあっては︑日本本来の神道ではない︒

﹁後世の神道と云て︑其者流の説くところは︑皆儒と仏とによりて造りたる物にて︑⁝⁝其説ところの趣は︑儒仏の       ︵8︶意に異なることな﹂し︑と宣長はいっている︒しかして︑宣長の目指したものは︑それらの外来思想から﹁真の神

道﹂を解放することであった︒つまり︑神道を純粋な形で掬い上げることであるが︑それは︑ ﹃古事記一の本文を元

の姿で再現させることであった︒﹃古事記伝﹄の完成こそ︑正に︑それが成就したことを証するものである︒それ故︑

我々は︑ ﹃古事記伝﹄における神解釈を以て︑日本の﹁神﹂の原・概念としてよいのである︒

      カ ミ     イニシヘノミフミドモ       モロモロ では直ちに︑宣長の﹁神﹂解釈を見ることにしよう︒宣長日く︑ ﹁凡て迦微とは︑古御品等に見えたる天地の諸の

        ソ   マッ      ミ タマ       トリケモノ       ソノホカナニ神たちを始めて︑其を祀れる社に坐ス御霊をも申し︑又人はさらにも云ハず︑鳥獣論意のたぐひ海山など︑其余何に

   ヨノツネ      コト       カシコ      カ ミ       タブト    ヨ        でサヲまれ︑尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏き物を豆単とは云なり︑︵すぐれたるとは︑尊きこと善きこと︑漏しき

      アシ       アヤ       カシコことなどの︑優れたるのみを云に非ず︑悪きもの奇しきものなども︑よにすぐれて可畏きをば︑神と云なり︑⁝⁝︶

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比較社会思想史研究(二)

 カ さ   カクノゴト クサグナ      ノヤシ        ツヨ       ヨワ      シワぜ      シタが抑迦微は如此く種々にて︑貴きもあり渇きもあり︑強きもあり弱きもありて︑心も行もそのさまみ\に随ひて︑とり       ヒト         イ       ︵9︶ぐにしあれば︑⁝⁝大かた一むきに定めては論ひがたき物になむありける︒L つまり神は︑多種多様なものである

から︑明確な定義を下すことはできないというのだが︑それは何故であるか︒恐らく次の宣長の文章がそれに対する        カミ      カミ      答えとなろう︒ ﹁迦微に神の字をあてたる︑よくあたれり︑但し迦微と云は体言なれば︑たゴに其物を指シて云のみ       カラクニにして︑其事其徳などをさして云ことは無ぎを︑漢国にて神とは︑物をさして云のみならず︑其事軽量などをさして      クニプミも云て︑体にも用ひたり︑たとへぼ彼の国書に神道と云るは︑測りがたくあやしき道と云ことにて︑其道のさまをさ      カミノミヂして神とは云るにて︑道の外に神と云っ物あるには非ず︑然るを皇国にて迦微之道と云へば︑神の始めたまひ行ひた       ︵01﹂︶まふ道︑と云ことにこそあれ︑其道のさまを迦微と云ことはなし﹂と宣長は言っている︒これは︑キリスト教におけ

る︽09︾を神と訳した時も︑それ以上に大きな問題を起すことになるが︒

 確かに日本の臆面と中国の神は︑色々の点で類似しているので︑ ﹁迦微﹂に﹁神﹂の字を当てるのは︑十分理由の      ︵11︶あることである︒だが宣長は︑両老の間に︑﹁合ハざる所のあることを︑よく心得分クべきなり﹂と注意を促す︒例え      ル ラレ ヲ       タル ヲ      マル ヲば︑﹃易経﹄にいう﹁陰陽不レ測 之謂レ神﹂︑或は︑﹁気曲事 三鼎レ神︑屈 者為レ鬼﹂などの神は︑日本の

﹁神﹂と異なるものだ︑と宣長はいう︒その理由を︑ ﹃鈴屋答問録﹄の中の文章で説明すると次のようになる︒これ

らの神は︑ ﹁神と云物の現にあるにはあらず︑不測なる所を指て云ひ︑気の屈伸せる所をさして尽るのみ也︒故に人      ︵12︶をほめて︑神聖など云ときの神ノ字も.たゴ神霊不測なると云るにてこそあれ︒其人を直ちに神と云にはあらず︒﹂従

って︑﹃易経﹄に﹁神道と回るも︑神霊不測なる道と金聾﹂である︒つまり︑それらの神は︑﹁用言﹂で言っているの

だ︑と宣長は説くのである︒勿論︑中国の神も︑﹁山川の神︑何ノ神︑何ノ神﹂と﹁体言﹂でいっているのも多いので

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あって︑それは日本の神と同じである︒即ち︑中国の神は︑ ﹁体言にも用言にも用る﹂のである︒ところが︑日本の

神は︑ ﹁体言にのみ用ひて︑用言に云ることな﹂し︑と宣長はいう︒

 要するに︑宣長によれば︑日本の神は︑﹁体言﹂にのみ用いるのである︒即ち︑=一古事記伝﹄の表現一先に引用した

      カ  ミーでいえば︑﹁迦微と云は体言なれば︑たyに其物を指シて云のみにして︑其事其徳などをさして云ことは無い﹂ので

あり︑﹃鈴屋答問録﹄の表現を青りれば︑﹁実物の称に巡るのみにて︑物なきに︑たゴ其理を指て諮ることはなき也︒﹂

      カ シ コ ネノヵミ      ヵ シコ        オソである︒具体的に言うと︑例えば︑﹁詞志古諺神﹂だが︑これは﹁可畏き﹂神︑﹁畏るべき﹂神というのであって︑       イザナ﹁神﹂という語には︑何らの徳も理もない︒﹁伊邪那岐神﹂は﹁誘ふ﹂男神であり︑﹁天照大御神﹂は﹁天照す﹂神の

ことである︒かくの如く︑日本の﹁神﹂の著しい特徴は︑ ﹁体言﹂にのみ用いるところにあって︑その点で︑中国の

﹁課し︑また︑後に触れるキリスト教の︽OoO︾と非常に異なる︒中国の﹁神道﹂を﹁多神教﹂とすれぽ︑日本のそれ

は︑ ﹁純粋な多神教﹂ということになろう︒従ってそれは︑キリスト教の二神教﹂と対極の位置にある︑といって

よい︒ 宣長の﹁神﹂解釈については以上で終わるとして︑次に︑日本の﹁神﹂を語る場合︑最も重要な﹁生成﹂の概念に

ついて述べることにする︒扱て︑宣長が窮めようとしたのは︑言う迄もなく︑﹃古事記﹄︑特にその本文に現われてい

る﹁神の道﹂であった︒勿論︑﹁神の道﹂という場合の神も︑﹁其道のさま﹂をいうのではない︒それは︑﹁神の始め

たまひ行ひたまふ道﹂である︒いま少し詳しくいえば︑ ﹁天地のおのつからなる道にもあらず︑人の作れる道にもあ

らず︑此道はしも︑可畏きや高御座鴬巣目の御霊によりて︑神祖暴論那岐大神伊邪那美大神の始めたまひて︑天照大       ︵13︶御神の受けたまひたもちたまひ︑伝へ賜ふ道である︒﹂また︑宣長は︑﹁此道はしも︑高御座沿海日の御霊によりて﹂

6

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比較社会思想史研究(ニニ)

の後に︑ ﹁世の中にあらゆる事も物も︑皆悉に此大神のみたまにより成れり﹂と注を付している︒

 ところで︑いま引用した︑ ﹁直地霊﹂に出てくる文章には︑いくつかの点で重要なことが言われている︒ 一つは︑

﹁神の道﹂を構成するカテゴリーの中で︑最もウェイトが大きいのぱ︑﹁生成﹂であって︑﹁自然﹂︑﹁作為﹂でばない

ということである︒﹁自然﹂︑﹁作為﹂︑﹁生成﹂は︑上の文章の﹁おのつから﹂︑﹁作れる﹂︑﹁成れり﹂にそれぞれ対応

するものと考えてよい︒しかし︑﹁神の道﹂は︑﹁天地のおのつからなる道﹂でもなく︑﹁人の作れる道﹂でもないが︑

その道から︑﹁作為﹂や﹁自然﹂が排除されている訳でばない︒唯︑それらは︑﹁生成﹂のカテゴリーよりもウェイト

が低いということである︒この問題は︑以下で詳しく取り扱う︒また︑留意したいのは︑上の文章の作為は﹁人間﹂

      カ  ミの作為ということで︑﹁迦微﹂の作為︑︽Ooα︾の作為ではないということである︒この間題をどう考えるべきか︑こ

れも極めて重要な問題であるが︑以下で扱うことにする︒

      ム ス ピノヵミ また︑上の文章において︑宣長が︑神々の中で︑﹁︵高御︶鰹鳥日神﹂に高い神格を認めていることも注目される︒       サこの点を少し詳しく考えてみよう︒既に述べたように︑日本の﹁神﹂は︑﹁体言﹂であって︑﹁其物を指シて云のみ﹂

であるから︑もし神々の間に神格の高低があるとすれぽ︑それは﹁其物﹂の内容に関わっていると考えられる︒宣長      ムス    ムス       ピ   クシピ    によれば︑﹁産巣日戸﹂の﹁産巣﹂とは﹁生﹂で﹁物の成出る﹂をいい︑﹁日﹂は﹁霊異﹂の意の﹁比﹂であり︑従っ       ナ    クシピ  ミタマ       モノ コト て︑この神は﹁凡て物を生成すことの霊異なる神霊﹂ということになる︒それ故︑﹁物議も事業も成るは︑みな此ノ神

 ムスビ ミメグミ   ︵4︶の産霊の御徳﹂とされる︒ つまり︑宣長が︑﹁産巣盟神﹂に高い神格を認めるのは︑その神が︑万物︵土・泥などの

国土︑或は男女の身体など︶の生成を活性させる霊力を持っているからだ︑と考えてよいだろう︒ ﹁産三日神﹂も他

の神々と同様︑ ﹁なる﹂神であって︑上記したように︑それは︑宣長が﹁なる﹂の第一の意味とした﹁点りし物の生

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り出した神である︒だがこの神は︑万物の生成を活性させるということで︑高い神格が与えられる︒

 しかし︑ ﹁産量日曜﹂が万物の生成を活性させる神だからといって︑それは︑この神が︑ ﹁生成﹂という概念から

ハミ出していることを示すものではない︒そこに︑或は︑ ﹁うむ﹂という概念が作用しているように思われるかもし

れないが︑だが︑それは飽く迄も︑﹁生成﹂の概念の内にあるものである︒つまり︑﹁なる﹂神である﹁導管日神﹂に

よって︑﹁世の中にあらゆる事も物も︑⁝⁝成﹂ることが可能なのである︒これは︑﹁なる﹂という概念が︑宣長の説

いているように︑色々の意味があり︑かなり広い意味をもっていることを示すものであろう︒しかし︑それより大き

な理由は︑日本の﹁神﹂が体言であることと関わっている︑ということではないかと思う︒即ち︑ ﹁神﹂が体言であ

るということは︑各々の神が︑或る程度の自律性︑独立性を有していることになろうからである︒ ﹁うむ﹂概念にお

いては︑うむものとうまれるものとの間は︑当然︑強い連続性が予想されるが︑ ﹁なる﹂概念においては︑連続性は

あっても︑それ程強いものではないであろう︒序だが 以下でも述べるが一︑ ﹁つくる﹂概念では︑つくるものとつ

くられるものとの間には︑非常に強い連続性があり︑つくるものばつくられるものに対し絶対的な支配力を有するの

であって︑キリスト教においてそういえる︒ところで︑﹃古事記﹄の中で︑﹁うむ﹂概念が最初に出てくるのは︑伊邪

那岐伊邪那美二神による﹁国生み﹂においてである︒だが︑丸山真男がいうように︑﹁﹃うむ﹄論理はズルズルと﹃な      ︵.⊃︶る﹁一 発想にひきづられてい﹂く︒要するに︑日本の﹁神の道﹂においてば︑ ﹁うむ﹂概念より﹁なる﹂概念の方が︑

明らかに優位だということである︒

 以上で︑﹁なる﹂概念の要点は述べたつもりである︒だが︑﹁なる﹂概念はもっと複雑に出来ている︒従って︑それ

をより明瞭ならしめるため︑﹁自然﹂の概念︑﹁作為﹂の概念と対比するがよいと思われるが︑それには︑老荘思想︑

8

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儒教︑キリスト教などと比較して論ずるに如くはないであろう︒

㈹  ﹁自然﹂と﹁作為﹂

 宣長の﹁神の道﹂を構成しているカテゴリーは︑﹁自然﹂︑﹁生成﹂︑﹁作為﹂の三つだが︑その中で最も大きなウェ

イトを有するのは︑﹁生成﹂である︒ここでは︑﹁生成﹂の概念を更に明らかにするため︑﹁自然﹂と﹁作為﹂の概念

との対比を試みたい︒

比較社会思想史研究(二)

         ω  ﹁自然﹂の概念

       i儒教と老荘思想との対比

 宣長の﹁神の道﹂が︑ ﹁天地のおのつからなる道にもあらず﹂ということは︑既に上に引いて触れておいたが︑こ      コ        ワキマの﹁直毘霊﹂に出てくる文章の後に︑実は次のような注が付されていた︒拙く︑ ﹁是をよく弁別へてかの高麗の老荘

   コ コロなどが見とひとつにな思ひまがへそ﹂と︒つまり宣長は︑自分の思想i或は日本思想の原型一が︑老荘思想と異なる

ものであることを強調しているのである︒勿論︑宣長の老荘の自然観批判は︑ここだけでなく︑色々の処に出てい

る︒問題は︑宣長が何故︑老荘の自然観を批判したかだが︑そこには次のようなことが考えられる︒即ちそれは︑国

学が︑儒教に対抗する形で回ったという︑国学の伝統と関係している︒上の﹁神の道﹂は︑ ﹁天地のおのつからなる

道にもあらず﹂に続く︑ ﹁人の作れる道にもあ・?丁﹂は︑儒教に対する批判なのである︒だが︑宣長の師である賀茂

真淵においては︑その儒教批判は︑老荘思想を擁護することになっている︒

 例えば賀茂真淵は次のように言っている︒ ﹁冷物は理にきとかかることは︑いは酒息にたるがごとし︒おのつから

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       ︵16︶の事こそ︑生きてはたらく物なれ︒しまた︑﹁人の心もて作れるものは違ふ事多ぞかし︑かしこに物しれる人の作れり       ︵17︶といふをみるに︑天地の心にばかなはねば︑其道用ひ侍る世ばなかりし也︒﹂と︑これらの文章から明らかなように︑

真淵は︑儒教はこれを激しく批判するが︑老荘思想には強い親近性を抱いている︒それ故︑真淵と宣長は︑その儒教

批判においては一致するが︑老荘思想に対しては異なった立場に立つ︒しかし︑厳密にいえば︑真淵と宣長の儒教批

判には多少相違が見られる︒即ち︑真淵は︑但疾駆をも含め儒教一般を批判するが︑宣長は︑少なくとも祖藩学の一

部はこれを認めている︒宣長と祖採学との関係は︑まとめて次の回で論ずることにして︑ここでは真淵と宣長の儒教

一般に対する批判を述べることにする︒

 儒教の思考様式を構成しているのは︑﹁自然﹂と﹁作為﹂の二つのカテゴリーである︒勿論︑﹁生成﹂もない訳では

ないが二上である︒この﹁自然﹂と﹁作為﹂をそれぞれ純粋化した理論が︑朱子学であり︑但南学といってよかろ

う︒しかして︑朱子学は﹁天地自然の理﹂を説き︑祖採学は﹁聖人の作為主義﹂を唱えた︒けれども︑いまここで問

題にしているのは︑そうした朱子学とか祖僚学ではなく︑儒教一般である︒朱子学や祖擁学ぱ︑自然と作為を純粋化

した結果︑そこに︑ ﹁天地﹂や﹁聖入﹂を付加したのである︒それ故︑ここで儒教一般というのば︑それら付加され

たものを取り去った︑ ﹁理﹂と﹁作為﹂を重んずるもの︑ということになろう︒勿論︑その主体は人間である︒とこ

ろで︑正に︑真淵や宣長が批判したのは︑さしあたりそのような﹁理﹂や﹁作為﹂であった︒

 真淵や宣長が︑﹁理﹂や人間の﹁作為﹂を批判するのは︑何より︑人間の﹁智﹂︵知力︶に限界を認めるからであ

る︒そして第二に︑﹁智﹂を用いて編み出した﹁理﹂に基づいて︑社会を﹁作為﹂した結果に対する不信からである︒

宣長日く︑﹁人の智はいかにかしこぎも限ありて︑小ぎ物にて︑その至る限の外はえしらぬものなり︒﹂︵﹃くず花﹄︶

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比較社会思想史研究(二)

﹁凡テ理ト云モノ卜定マラヌ物ニテ︑ナカ〜︑人ノ智ヲ以テ測り知ラル玉物ニアラス︒﹂︵﹃講後談b︶真二日く︑﹁人

はなまじひに智てふものありて︑おのがじし用ひ侍るより︑たがひの間にさまざまの悪き心の出来て︑終に世もみだ       ︵8︶      トワれ︑治れるといへど︑かたみに巧あざむきをなすそかし︒﹂また日く︑﹁見よ/\︑世の中のことは︑さる理りめきた      ︵D︶ることのみにては︑立ぬ物と見ゆる﹂と︒このように︑真淵や宣長は︑人間の﹁智﹂に限界を見るので︑﹁理﹂や人

間の﹁作為﹂に批判的だったのである︒しかも︑彼等の批判は決して観念的ではなかったのであり︑h理しに従って︑

人間の﹁作為﹂が齎した結果が︑﹁理﹂の説く通りとはなっていない現実を見逃してはいなかったのである︒また彼

等が︑﹁理﹂をすべて排除したのでないことは︑上の引用文からも窺い知れる︒しかし︑ ﹁作為﹂については︑両者

の間には︑かなりの隔りがあるように思える︒それが︑両者の老荘観の相違となっているといえる︒

 既述の如く︑儒教の思考様式を構成しているカテゴリーは︑ ﹁自然﹂と﹁作為﹂であるが︑その﹁自然﹂を﹁理﹂

によって純粋化したのが朱子学である︵﹁作為﹂の主体を聖人とすることによって︑﹁作為﹂の純粋化を行なったのが

狙商学である︶︒従って︑﹁理﹂に批判的な真淵や宣長が︑朱子学を激しく攻撃したのは︑当然のことであった︒例え       ︵20︶ぽ︑真淵は︑ ﹁宋てふ代ありて︑いと冥せばぎ儒の道を︑また/一狭く︑理りもて︑いひつのれる﹂といっている︒

また︑彼等は︑人間の﹁作為﹂についても批判的であった︒彼等を︑老荘思想に近づけたのば︑そうした理由からで

ある︒つまり︑自然尊重の念が︑老荘思想への親近観を齎したのである︒真淵は︑ ﹁から国ににては︑只老子のみぞ

    ︵21︶真の書なる﹂とまで言っている︒これに対し︑宣長は︑自然尊重の念極めて強かったにも拘らず︑老荘のいう﹁自然

は真の自然にあらず﹂として︑老荘流の自然を批判した︒即ち︑真淵と宣長は︑ ﹁自然﹂の考えが異なっているので

ある︒

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 結論を先にいえば︑次のようになろうか︒老荘の﹁自然﹂の概念は︑朱子学が︑ ﹁理﹂を以て﹁自然﹂を純粋化し

たのとは違って︑﹁自然﹂をいわば﹁自然﹂によって純粋化したものといえる︒ところが︑宣長の﹁神の道﹂は︑﹁生

成﹂のカテゴリーを中心とするものであって︑ ﹁自然﹂の概念もそれとの関連を有するものであった︒従って︑宣長

の﹁自然﹂は︑老荘の如く︑純粋化された﹁自然﹂ではなかったのである︒これに対し︑真淵には︑宣長のこのよう

にはっきりした考えはなかった︒しかし︑真淵の自然の概念を老荘のそれと全く同じだとするのも些か言い過ぎであ

ろう︒以下︑これらのことを真淵と宣長の文章に即していま少しく述べてみよう︒

 真淵が老子の思想に強い親近性を認めていたことは上の引用文からも十分窺えるが︑また次のようにもいってい

る︒﹁老子といふ人の天地のまにまにいはれしことこそ︑天が下の道にぱ叶ひ侍りめれ︒﹂と︒しかし︑真淵が︑老子

の思想を普遍的なものと見隠して︑特殊なものは全く無視したかというとそうではない︒また︑人間の作為も少しは       アリ認めている︒例えば︑ ﹁累世の中は︑あら山︑荒野の有が︑自ら道の出来るがごとく︑こ﹂も自ら︑神代の道のひろ      ︵22︶ごりて︑おのつから︑国につきたる道のさかえは︑皇いよくさかえまさんものを︑﹂といっているように︑世の中

の道が︑そしてその一部としての﹁定﹂︵上の引用文の少し後に出ている︒﹁定﹂は﹁仕来﹂のこと︶が︑自発的に形

成されたものであると主張していると共に︑その特殊性を認めている︒しかし︑真淵は︑その形成過程において︑

﹁心をつく︵す︶﹂こととか︑治者が﹁教へをたつべき﹂ことは︑決して除外している訳ではない︒そういう意味で︑

真淵の自然の概念ば︑老荘のそれより︑柔軟であったといってよかろう︒

 次に宣長であるが︑宣長も老荘流の自然概念との親近性を一応認める︒ ﹁かの老荘はおのつから神の道に似たる事       ︵23︶多し︑これかのさかしらを厭で自然を尊むが故なり﹂と宣.長はいっている︒しかし宣長は︑直ちに老荘の自然概念を

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比較社会思想史研究(二)

批判する︒ ﹁但しかれらが道は︑もとさかしらを厭ふから自然の道をしひて立んとする縦なる故に︑その自然は真の

自然にあらず﹂と︒丸山真男ば︑宣長︵国学︶が︑何故︑老荘の自然概念を批判したかの理由を︑老荘における﹁自

然﹂が﹁イズム﹂化して︑人聞の内的心情に﹁当為﹂として迫まるので︑その硬直化が避けられないからだと説明し

ている︒確かに︑この説明は当っている︒しかし︑それだけでは不十分であろう︒即ち︑私は︑次のように考える︒

既に述べたように︑老荘の自然概念は︑ ﹁自然﹂を﹁自然﹂によって純粋化したものといってよいのであるが︑その

場合の自然には︑その対立概念としては﹁作為﹂しがなかった︑ということである︒つまり老荘思想には︑ ﹁生成﹂

なるカテゴリーが儒教と同様︑殆どなかったということであって︑そのため︑老荘の自然観は︑宣長の自然観と対立

したのではないだろうか︒

 扱てでは︑宣長の﹁自然﹂の概念とはどのようなものであったか︑宣長は︑若い頃から1生来といってもよい一︑

自然尊重の念が強かった︒例えば︑二十八歳の時の作﹃排芦小船コの中で︑日本の和歌は︑﹁我邦自然の歌詠﹂であ

るから尊ぶべきだとした︒また﹃紫貝要領﹄の中でも︑ ﹁唐の書は︑その実の有のままの情をば隠くして︑つくろ

ひ嗜みたる⁝⁝︒すべて人の情の自然の実の有のままなるところは︑ぱなぱだ愚かなる物心︒それをつとめて直し       ︵4ワ﹂︶かざりつくろひて︑賢こげにするところは情を飾れる物にて本然の情にはあらず︒﹂と述べている︒また︑宣長が︑

如何に﹁作為﹂を排除したかは︑例えば︑ ﹃古事記﹄に出ている﹁作御歌﹂について︑次のような解釈を下している       もろこしところがらも窺える︒﹁作御歌﹂などというのは︑﹁唐に﹃作詩﹄といふにならひて書けるなり︒⁝⁝︒さて古言に

﹃歌を都久留﹄といふことは聞きつがねば︑右の﹁作﹂の字もみな﹁面面﹂と訓ずべきことなり︒⁝⁝すべて﹃甜盛

る      かたち留﹄といふ言は︑体のある物にいふ言なり︒歌は口にいひてその声のみありて︑形なき物なれぽ︑ ﹃都久留﹄とはい

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       ︵25︶ふべからずQ⁝⁝L

 しかし︑このような冒蔑の自然専重︑作為批判は︑真淵と同じであろうか︒真淵は︑﹁巧みでのみ歌をよむからに︑      あや       まこと皆そらごとと成ぬ﹂という︒これに対し宣長は︑ ﹁実情を云ふにも︑その文によりて実もあらはれ︑人も感ずるな

り︒・:・:その文と云ふは︑寒く声の﹃お&いお&い﹄と云ふに文あるなり︒これ巧みと云ふほどのことにはあらね

ど︑また自然のみにもあらず︒⁝⁝和歌も⁝:︑実情に文をなして云ふが歌なり︒しかる時ばまったく巧みなきには        ︵ゐ︶あらず︑上古なほ然り︒﹂このように︑宣長においては︑﹁巧﹂︑つまり︑﹁作為﹂は︑真淵ほど排除されてはいない︒

だが︑これは︑﹁歌の道﹂のことである︒﹁神の道﹂においてはどうか︒結論を先にいえば︑同じだということだ︑そ

の理由は以下で述べることにする︒

        回 ﹁作為﹂の概念

      −祖辣学︑キリスト教との比較i

 宣反が何故︑老荘の自然概念を批判したか︑これについての丸山真男の説明は上に述べた通りだが︑その結果とし

て︑宣旨がどのような立場をとらざるを得なくなったか︑丸山は次のようにいう︒ ﹁人間的作為に対して内的自然性

を優位せしめつつ︑しかも﹃自然﹄それ自体の観念日絶対化を避けるためには︑この内的自然そのものの背後に︑そ

      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ   も   ヘ   へれは根拠づけるところの︑超人聞的な絶対的人格を置く以外にない︒神の作為としての自然一・それが宣長の行きつい     ︵27︶た立場であった︒﹂そして丸山ば︑本居亘長の﹁神の作為﹂と荻生祖床の﹁聖人の作為﹂の類似性を指摘して︑﹁宣長

の神と祖徐の聖人との体系的地位の類似は飽ふべくもない︒﹂といっている︒かかる丸山の宣長解釈が︑誤りである

ことは既にθにおいて︑その結論部分に述べておいたが︑以下でその理由をいま少し詳しく論じてみよう︒

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比較社会思想史研究(二)

 丸山がそういった誤った議論をしたのは︑村岡半半や津田左右吉などによって指摘されていた︑但秣学と宣長との

類似性をあまりに突きつめ︑徹底したからであろう︒確かに︑文学観や言語観において︑宣長が︑祖稼から著しい影

響を受けたことは認められる︒また︑租辣の体系︑宣長の体系が︑共に彼等の文学観や言語観に︑強く影響を受けて

いることも言うを侯たない︒しかし︑祖裸の体系と宣長の体系は︑全く異なっているのである︒即ち︑祖稼の体系は

﹁作為﹂のそれであり︑宣長の体系は﹁生成﹂のそれである︒祖徐は︑儒教の思考様式を構成する﹁自然﹂と﹁作

為﹂の二つのカテゴリーのうち︑後者を純粋化することによって﹁作為の体系﹂を築いた︒〜方︑宣長は︑﹃古事記﹄

本文に盛られている世界観をそのまま受け容れた結果として︑ ﹁生成の体系﹂を説いたのである︒だが︑両者のそれ

ぞれの体系を導く媒介をなしたのは︑同じような言語観にあった︒問題のポイントは︑同じような言語観を有してい

ながら︑何故全く異なった体系となったかである︒そこで︑最初に︑宣長に大きな影響を与えた祖稼の言語観︑即ち

古文辞学から見るがよかろう︒

 祖秣の古文辞学は︑単なる言語字説ではなく︑それは思想であり︑歴史学であった︒つまり︑祖棟の朱子学批判の

行き着いた処で︑祖錬が唱えたものである︒それ故︑彼の古文辞学の主張は︑理論の上からすれば︑彼の朱子学批判

︵或は︑老荘批判︶と表裏の関係にあるといえる︒祖侠の﹁作為の体系﹂は︑彼の古文辞学を媒介して︑朱子学批判

が徹底された結果として築かれたのである︒では︑その古文辞学とはどのようなものか︒朱子学の﹁理﹂に相当する

位置を占めるのが︑祖練においては﹁物﹂である︒そして︑﹁物あれば名﹂があるが︑﹁名﹂とは︑具体的には︑﹁辞﹂

と﹁事﹂のことで︑前者は言語︑後老は礼楽刑政のことである︒古又辞学とは︑先ずは︑このような﹁辞﹂と﹁事﹂

を︑即ち﹁名﹂を尚ぶ学問のことをいう︒しかし︑学問も︑差し当りは︑古の学問のことであるから︑古の事も︑つ

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まるところ︑古の辞を通してしか知り得ない︒それ故︑ ﹁学問の道﹂からすれば︑辞が事を表現しているといえるの       ︵8.ム︶で︑辞が最も重要ということになる︒ところが︑辞は時代と共に変化する︑﹁序言は古言に非ず︑今文は古文に非ず﹂

である︒だから︑学問は︑古言を知らない蔭り明らかにさ︑やな︑︑ことになる︒従って︑﹁今の学者はまさに古言を識      ︵9︶るを以て要となすべし︒古言を識らんと欲せば︑古又辞な.一丁ぶに非ずんば能はざるなり︒﹂これが但裸の古文辞学の

      コトバ ワザ  ココロ主張の要点である︒そしてそれは︑宣長の次の文章と殆ど同じであることがわかる︒ ﹁言と事と心とば其さま相かな       ワザへるものなれば︑後世にして︑古の人の︑思へる心︑なせる事をしりて︑その世の有さまを︑まさしくしるべきこと         ︵30︶は︑古言古歌にある也︒﹂

 従って︑但彼の朱子学批判も︑先ず︑そうした古文辞学の立場からなされる︒祖秣日く︑ ﹁今文を以て古文を視︑

         くら       ︵qu︶しかうしてその物に昧く︑物と名と﹁離れ︑しかる後義理孤行ず︒﹂そのような朱子学における﹁理﹂の偏重は︑また︑       ばうばう﹁知﹂︵智︶の偏重から来ているという︒日く︑﹁  たる宇宙︑果して何ぞ窮極せん︒理はあに窮めてこれを尽すぺ

けんや︒その我ことごとくこれを知ると謂ふ者も︑また妄なるのみ︒﹂と︒かかる祖棟の朱子学批判ば︑宣長のと略

々同じであるといってよいのだが︑しかし祖秣と宣長の類似性は︑恐らくここ迄で︑これから先の議論は︑両者非常

に異なったものとなっている︒また︑狙棟は︑﹃劇道﹁コの中で次のようにいう︒﹁先王の道ば︑先王の造る所なり︒天

      えいち      いつ地自然の道に非ざるなり︒けだし先王︑聡明容知の徳を以て︑天命を受け︑天下に王たり︒その心は︑一に︑天下を       ぎわ安んずるを以て務めとなす︒ここを以てその心力を尽くし︑その知巧を極め︑この道を作為して︑天下後世の人をし       ︵32︶てこれに由りてこれを行はしむ︒﹂即ち︑祖徐は︑聖人作為主義を唱えるのである︒

 しかし︑宣長は︑この聖人作為主義にも反対する︵彼の一般的な人間の作為に対する批判は既に上で述べている︶︒

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比較社会思想史研究(二)

宣長は﹃くず花﹄の中で︑陰陽五行説などは︑﹁聖人共の己が卑湿をもて︑万の事を考へはかりて︑造り設たる物       ︵33︶にて︑その智は限有て及ばぬところ多﹂いと︑聖人にも﹁智の限界﹂を認め︑聖人作為主義を批判している︒これに

対し︑祖葎︑聖人の智に限界を認めない︒﹁聖人の智は・得て測るべからず・まみ得て学ぶべから塑﹂亟人の聡      へあ 明営営の徳は︑これを天に温く︒あに学んで至るぺけんや︒L即ち︑祖擦は︑﹁聖人﹂に絶対的な権威を認めるのであ

る︒そしてそれは︑次のような表現にまで高められる︒﹁学問の覆・聖人を信ずるを以て先とな菊﹂養老は釈迦       ︵37︶をば信仰不仕候︒聖人を信仰仕候︒しまた︑﹁愚老杯が心は只深く聖人を信じてたとひかく有間寄事と磁心には思ふと

も︑聖人の道なれぽ定めて悪敷事にてはあるまじと思ひ取りて是を行ふにて嘩﹂

 丸山真男は︑かかる祖棟の﹁聖人﹂を﹁殆ど宗教的絶対者﹂と呼んでよいものであると解釈している︒そして丸山       しわざは︑そのような租秣の﹁聖人﹂と宣長の﹁神﹂の類似性を指摘し︑ ﹁聖人の作為﹂と﹁神の所為﹂を同じカテゴリー

で考える︒即ち︑祖棟の聖人と宣長の神々の﹁体系的地位の類似﹂を主張するのである︒確かに宣長は︑到る処で︑

例えば次のような文章や歌からも窺えるように︑﹁神の所為﹂︵主神の作為︶を強調している︒﹁世中の有さまも人の

心もか腎ゆくは︑⁝重れみな神の御所為にして実ば自然の事にはあら輪四﹂﹁世のなかのよきもあしきもごとごと      ︵40︶に神のこころのしわざにぞある︒﹂しかし︑だからといって︑宣長のいう﹁神﹂を︑丸山のいう如く﹁絶対的人格﹂

としてはならないのであり︑従って︑また︑宣長の体系を﹁作為の体系﹂とするのは誤りといわねぽならない︒

 繰り返えし述べて来たように儒教の思考様式を構古しているカテゴリーは︑ ﹁自然﹂と﹁作為﹂である︒この内︑

﹁自然﹂を﹁理﹂によって純粋化したのが朱子学であった︒狙秣学は︑そのような﹁理﹂を偏重する朱子学批判から

始まるが︑古文辞学という方法論の確立は︑﹁作為﹂の﹁聖人﹂による純粋化へと向わせた︒﹁聖なる者は作者の称な

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り︒L従って︑﹁道と申候は︑⁝⁝聖人の建立被官仁道﹂ということになる︒要するに︑かような具合いにして︑無二

の儒教は﹁作為の体系﹂となったのである︒祖棟のいう﹁聖人﹂を﹁宗教同絶対者﹂と見倣すことは恐らく誤りと思

うが︑しかし彼が﹁聖人﹂に絶対的な権威を認めていにことは間違いない︒次に亘長であるが︑彼は︑祖裸の古文辞

学の方法を︑﹃古事記﹄に適用し︑日本の﹁神﹂が体言であることを明らかにした︒従って︑例えば︑上述の如く︑宣

長が︑多くの神々の中で︑重視した﹁産巣日々﹂の﹁生む﹂という働きも︑結局は︑ ﹁成る﹂の磁力に引き込まれる

ことになる︒ ﹁神の所為﹂ということも︑それと同じで︑神の﹁所為﹂も﹁成る﹂という内部での作用なのである︒

例えば︑﹁何事も皆︑神のしわざにて︑世運にわろきことyものあるも︑皆悪神のしわざに候﹂と亘長はいっている︒

ここで悪神とは︑﹁禍津日神﹂であるが︑この神も先ず﹁生販﹂神として規定されている︒そして次に︑﹁神﹂は体言

であるから︑この神は︑悪い事を行なう神として規定される︒従って︑﹁しわざ﹂といっても︑悪事を行なうことに

限定される︒つまり﹁しわざ﹂も﹁なる﹂の内部での作用なのである︒要するに︑宣長の体系︑それ故︑日本思想の

原型は︑﹁作為の体系﹂ではなく︑﹁生阪の体系﹂だということである︒

 丸山真男の﹃日本政治思想史出国﹄における宣長解釈が誤りであることは︑陰々以上の論述で明らかになったかと

思う︒そして私の結論が︑丸山の﹁歴葦舟誠の﹃古層一︹におげる議繭I−即ち︑日本思想の原型を﹁なる﹂というカ

テゴリーに求める一に極めて近いこどが了解さ荘たであろう.︑とこわで︑この後看の論文には︑但擁字については殆

ど触孔られておらず︑ ﹁年為の俸糸﹂は︑専り︑ユダマ.キリスト教三沌泌∂馳ている.即ち︑日本忌想の原型であ

る﹁生成の体系﹂に対置されているのは︑ユダヤーーキリスト教の﹁作為の体系﹂である.︑上の丸山の論罪において︑

ユダヤーーキリスト教が詳しく論じられている訳ではないが︑eにおいて触れておいたように1又︑以下でも︑少し扱

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比較社会思想史研究(二)

うと思うが−−︑その議論ぱ極めて的確である︒しかし︑﹁作為の体系﹂としてのキリスト教が︑﹁近代﹂と如何なる関

係を持つことになったかについては︑丸山は何も述べていない︒具体的には︑キリスト教と近代の社会科学との関

係︑或は︑キリスト教と近代自然科学との関係である︒そして︑現在︑私自身が強い関心をもっているのは︑実はそ

うした問題である︒確かに︑零れ迄も︑多くの人がこれ等の問題を扱っており︑それぞれ︑それなりの議論を展開し

ている︒だが︑それ等の問題を︑﹁自然﹂︑﹁生成﹂︑﹁作為﹂といったカテゴリーで論じた人を︑少なくとも︑私は知

らない︒ 現在︑私は︑それ等の問題を︑やはり︑ ハイエクの議論を一つの手懸りに︑考えている︒近代社会の形成を﹁自

然﹂︑﹁生成﹂︑﹁作為﹂の三つのカテゴリーで論じたのは︑ハイエクであって︑その議論は極めて説得的である︒だが

ハイエクも︑その議論の中で︑キリスト教を取り扱つかうことはしていない︒しかし彼は︑ 二神教しとしてのキリ

スト教について非常に重要な発言をしている︒即ち︑二神教Lは︑因果関係を︽50po︒雲ω巴︾とする︑即ち︑原       ︵41︶因と結果の関係を一義的に規定しようとする思考様式を採るものというのである︒そこで私は︑因果関係を︽Bo⇒o︐

o磐ω巴︾と捉えるような思考様式と﹁作為の体系﹂とは︑極めて密接な関係を有するのではないか︑と考︑兄たのであ

る︒そしてそのような考えに立って︑近代社会の形成に関する論文を二・三書いた︵勿論︑何れも仮説以上のもの

では鶴ψ・その要点は・次のようになろうか︒西洋近代の社会科学は︑大きく言ぞ︑二つの潮流があり︑一つが︑

イギリス経験論で︑いま一つが︑大陸合理論であるが︑両者の中世のキリスト教︵11神学︶に対する態度は著しく異

なるものであった︒イギリス経験論は︑キリスト教に対する信仰やその道徳観は尊重したが︑その︽50霞︒︒窪ω巴︾な

因果論はこれを排除した︒そうして︑﹁経験﹂を重視することによって︑それ迄の﹁自然﹂︑﹁作為﹂の二つのカテゴ

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リーの他に︑新しく﹁生成﹂のカテゴリーを発見し︑それを中心とした社会理論を確立した︒これに対し︑大陸合理

論は︑﹁人間理性﹂の絶対性を信じたので︑︽Boコ08二ω巴︾的因果論はこれを否定せず︑﹁人間理性の作為﹂を説い

た︒けれども︑キリスト教に対する信仰︑或はその道徳観にば︑批判的︑否定的態度を採った︒つまり︑︽OoO︾に代

え︑﹁人間理性﹂を置いたのが大陸合理論であった︒

 もし︑以上のような仮説が成り立つなら︑日本思想の原型との比較をすれば︑次のようにいえるかもしれない︒因

果論︑また︑思考様式からいっても︑日本思想の原型とキリスト教とは非常に異なる︒そして日本思想の原型は︑寧

ろ︑その因果論︑思考様式において︑イギリス経験論に近い︑ということである︒その理由は︑日本思想の原型は︑

﹁生成﹂を中心とするものであり︑また︑原因と結果の関係の︽D国O昌OO9信ωP一︾な捉え方を排除するからである︒後者

の点については︑次の㈹でも触れることにして︑ここでは︑それ故に︑キリスト教が如何に日本人にとって理解し難

いものであったかを述べることにする︒

 フランシスコ・ザビエルが︑キリスト教を日本に初めて伝えたのが一五四九年︑それから約九十年回︑謡本はキリ        ︵43︶スト教の影響を受けた︒だが︑不思議なことは︑現実の上では︑キリスト教の影響を受けた一例えば︑キリシタン大

名が出たり︑一般の人の信者もかなり多かった一にも拘らず︑日本において︑キリスト教というものが︑十分理解さ

れていたことを証するような事蹟が一つも残されていないということである︒そしてそのことは︑伝導老側も気付い

ていた︒キリスト教が理解できないということは︑要するに︑ ﹁作為の体系﹂の頂点に位置する﹁創造主﹂の観念が

わからないということである︒サビエルは︑日本人が︑他の国民よりも︑理性的で︑豊かな教養を具えた国民である

ことを認めていた︒だが彼は︑その日本人が︑世界や事物の﹁創造﹂に関する知識を欠いていることに︑そして︑霊

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比較社会思想史研究(二)

魂に﹁創造主﹂のあることを理解し得えないことに驚いたのである︒

 ﹃古事記﹄に出てくる神々には言う迄もなく︑伝統的神道思想の中に︑世界の﹁創造主﹂という観念がなかったこ

とは︑キリスト教に応接した近世の知識人達の言動にもはっきり言える︒そこで日本の知識人達が︑最も疑問とした

のは︑﹁創造主﹂自身の作者は誰か︑ということであった︒例えば︑林羅山は︑﹁天主天地万物を造ると云々︑天主を

造る者は誰そや﹂といっている︒また︑新井白石は︑江戸小石川のキリシタン屋敷で︑シドチを訊問した後︑ ﹁天地

万物自ら成る事なし︒必ずこれを造れるものありという説のごとき︑もし其説のごとくならむには︑デウス︑また何

ものN造るによりて︑天地はいまだあらざる時には生れめらむ︒デウス︑もしよく自ら生れたらむには︑などか天地

もまた自ら成らざらむ︒﹂と述べている︒また︑明治維新後も暫くの間︑︽Ooα︾が﹁天﹂と訳されていたことは︑

﹁創造主﹂という観念が︑日本人にとって︑如何に理解し難いものであったかを証するものだともいえる︒しかし︑

また︑日本の知識人達が︑ ﹁創造主﹂の観念を理解し得なかったということは︑中国思想の中にもそうした観念がな

かったことを示すものといえよう︒従って︑狙秣の﹁作為の体系﹂も︑キリスト教の﹁作為の体系﹂とは︑全く異な

るものであることを知らねばならない︒

 ところで︑宣長とキリスト教の関係はどうであったか︒宣長がキリスト教に関心を抱いていたことは︑彼の著作の

中に散見される︒しかし︑宣長が︑キリスト教の影響を受けたことを確証する如きものは何一つない︒ ﹃古事記﹄に

おける神の世界のみを信じた宣長にとって︑それば当然のことであろう︒我が国の国学史上︑キリスト教の影響が認

められるようになったのは︑平田篤胤からである︒この点に関する丸山真男の分析は見事である︒平田篤胤が︑ ﹁⁝

       ヘ       ヘ       ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ三記紀神話を一躍して︑﹃⁝⁝を生む﹄﹃⁝⁝を造る﹄の発想で再構成し︑しかも︑⁝⁝ごとごとに行為の目的意識性

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を打出しているのは﹃記﹄の忠実な解釈から遠いだけ︑それだけ﹃うむ﹄論理が﹁つくる﹂論理に牽引されたケース

を明瞭に示している︒物事の結果を︑はじめからの意図の実現のように解する思考法をぎびしく排した宣長と対照を        ︵44︶なす点の一つである︒﹂しかし︑篤胤が︑キリスト教からどれだけ影響を受けたかということになると︑必ずしも明

らかではない︒

㈹ 宣長の歴史観

 採て︑以上の論述も︑歴史観ということで纏められるかもしれない︒宣長の歴史観を儒教︑とりわけ祖下学︑老荘

思想︑キリスト教などのそれと比較しながら述べてみよう︒結論的にいえば︑神々も﹁成る﹂のであるから︑社会現

象や歴史的事象も︑﹁自然﹂の事でもなく︑﹁作為﹂の結果でもなく︑生成されたものである︒恐らくこれが宣長の考

えであった︒

 ﹁聴くしげ﹂の中で宣長は次のようにいう︒ ﹁此天地も諸神も万物も皆ことごとく其本は︑高専産霊神・倉皇産霊       ︵45︶神と申す二神の︑産霊のみたまと申す物によって︑成出来たる物﹂である︒また︑﹁世ノ中の有りさまも人の心もかは       シ ワザりゆくは︑自然の勢なりといふは︑普通の論なれども︑これみな神の御所為にして︑実は自然の事にはあらず︒さて       ︵46︶さやうに︑世中ありさまのうつりゆくも︑皆神の御所為なるからは︑人力の及ばざるところ﹂であると︒しかし︑誤

解のないよう一言付加しておきたい︒それは︑宣長は︑決して人間の作為というものをすべて排除したのではないと

いうことである︒ ﹁何事もたゴ︑神の御はからひにうちまかせて︑よくもあしくもなりゆくまΣに打捨おきて︑人は

すこしもこれをいろふまじきにや︑と思ふ人もあらんか︑これ又大なるひがことなり︒人も︑人の行ふべきかぎりを

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比較社会思想史研究(二)

ば︑行ふが人の道にして︑⁝⁝その行ふべきたけをも行はずして︑たゴなりゆくま鼠に打捨ておくは︑人の道にそむ

 ︵47︶けり︒﹂と︒

 以上のような宣長の基本的な歴史観から︑いくつかの特徴が窺われるが︑その一つは︑歴史を﹁連続的﹂に捉えて

いることである︒その点において︑宣長の歴史観は︑祖棟のそれと異なるといってよい︒野島は一方で︑歴史の不変       ︵48︶性を認め︑﹁教に古今なく︑道にも古今なく候︒⁝⁝古今通貫不レ申候ては︑古聖人の道とも忍辱不レ被レ申候︒﹂と説

いた︒しかし︑彼は他方で︑歴史の可変性を主張した︒ ﹁古今は殊なり︒何を以てかその殊なるを見ん︒ただそれ物      ︵49︶       ︵50︶なり︒物は世を以て殊なり︑世は物を以て殊なり︒﹂また︑﹁世は言を載せて以て遷り︑言は道を載せて以て遷る︒﹂こ

のように︑徊秣は︑歴史の不変性と可変性を認める訳だが︑それは︑彼の聖人作為主義の中で︑次のように関連づけ       ︵5︶られる︒﹁皆肥代其代の開祖の君の料簡にて世界全体の組立に替り有レ之候故︑制法替有レ之候︒﹂つまり︑豆類におい

ては︑歴史の不変性も可変性も︑すべて聖人の作為に帰されている︒そういう意味で︑但練は歴史を︑丸山のいう如

く︑聖人の作為を媒介とする﹁非連続的﹂なものとして捉えている︒その点で︑歴史を連続的に捉える宣長の歴史観

と異なる︒

 次の特徴として挙げられるのは︑宣長が歴史を﹁発展的﹂に捉えているということである︒その点で宣長の歴史観

は︑賀茂真淵や老荘思想とは異なるであろう︒賀茂真淵や老荘思想においては︑歴史は﹁連続的﹂には把捉されてい

るが︑﹁発展的﹂にぱ捉えられてはいない︒宣長によれば︑﹁世ノ中の道理は︑みな神代の趣に備は﹂っている︒しか

し︑世の中に﹁よろしからぬ事のあれぽとても︑俄に改め直すことのなりがたきすぢも多し︒然るを古ノの道による

       シモジモ      サカ乏して︑上の政も下々の行ひも︑撃て上古のごとくに︑これを立直さんとするとぎは︑神の当時の御はたらきに逆ひ

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      ︵52︶て︑返て道の旨にかなひがたし︒しまた︑﹁古よりも後世のまされること︑万の物にも事にもおほし⁝⁝或は古にはな

くて︑今はある物多く︑いにしへはわろくして︑今のはよきたぐひ多し︑これをもておもへぼ︑今より後も暑いかに       ︵53︶あらむ︑今に勝れる物おほく出来べし︒﹂と︑宣長は述べている︒ このように歴史を発卑湿に捉える視点は︑老荘思

想や真淵には殆ど見られない︒また︑但棟であるが︑彼は︑古代を絶対視していたが︑彼の非連続的聖人作為史観よ

りすれば︑理論的には︑歴史発展論の展開も可能である︒丸山の﹃日本政治思想史研究﹄における日本近代化論は︑

それを拠り処にしているのである︒

 第三の特徴は︑社会的︑歴史的事象における原因と結果の関係を谷︒ζ8⊆ω巴︾に捉えていることである︒ ﹁善し

と思ひて為ることも︑実には悪く︑悪しと思ひて禁ずる事も︑実に然らず︑或は今善き事も︑ゆくゆくのためあし

く︑今悪き事も︑後のために善き道理などもあるを︑人はえしらぬことも有て︑すべて人の料簡にはおよびがたき事

 ︵54︶おほ﹂し︑と宣長は述べている︒この文章は︑直接的には︑﹁理﹂や﹁作為﹂を説く儒教に対し放たれたものである︒

しかし︑この文章と対極に位置するのは︑恐らくキリスト教であろう︒上にも述べた如く︑キリスト教では︑社会

的︑歴史的事象における原因と結果の関係が︽808︒鍵ω巴︾に把捉される︒儒教−朱子学︑祖型学を含めて一におい

ては︑ここまでばいかない︒だが︑イギリス経験論は︑︽h昌O⇒OOP信ω簿一︾な因果論を排し︑近代社会に相応しい因果論

を展開した︒そして︑その因果論は︑谷︒ζ$二ω巴︾なそれに近いものであった︒また︑イギリス経験論は︑それと

共に︑歴史発展論を説いたのであり︑その点でも︑宣長のそれとに近いのである︒私が︑日本の近代化を︑日本思想

の原型︑本居宣長の思想から説き起そうとするのは︑実は︑そういう事情からである︒

 第四の特徴は︑ ﹁包容主義﹂である︒一般に︑宣長は︑儒教や仏教を激しく批判したので︑排他主義者のように見

24

(25)

比較社会思想史研究(二)

られているが︑それは誤りである︒宣長が明らかにしたがったのは︑ ﹃古事記﹄の世界に現われている日本思想の原

型であって︑そのためには︑儒教や仏教などの既成の思想から離れる必要があった︒そして︑既成の思想から離れた

からこそ︑﹃古事記﹄の世界を明めることができたのである︒確かに宣長は︑﹃古事記﹄の世界を信じた︒しかしそれ

は︑宣長が︑現実の世界においてもただそれだけでよいと考えていたことを示すものではない︒例えば︑宣長は次の

ように言っている︒ ﹁後世︑国天下を治むるにも︑まっは其時の世に平なきことには︑古へのやうを用ひて︑随分に

善神の御心にかなふやうに有べく︑彗星を以て治めざれぽ治まりがたきことあらぽ︑儒を以て治むべし︒仏にあらで

はかなはぬことあらば︑仏を以て治むべし︒是皆︑其時の神道なれば也︒然るにたゴ︑ひたすら上古のやうを以て︑

後世をも治むべぎもの鼠やうに思ふぱ︑人の力を以て︑神の力に勝むとする物にて︑あたはざるのみならず︑却て其         ︵蕊︶時の神道にそむく物也︒﹂もうこうなれば石田梅南や二宮尊徳などのような︑私のいうところの﹁日本思想の典型﹂

に後一歩のところ迄来ている︒日本思想は︑何故︑﹁原型﹂から﹁典型﹂へと行かざるを得なかったのか︑それが次

のテーマである︒

 以上︑私は︑宣長の歴史観として︑﹁連続的﹂︑﹁発展的﹂な歴史理解︑谷︒蔓8¢ω巴︾な困果論︑﹁包容主義﹂の四

つを挙げたが︑勿論これらば︑﹃古事記﹄の世界から出てくる特徴でもある︒

 注︵8︶

︵9︶︵10︶

︵11︶ 本居宣長﹃鈴屋答問録﹄︵﹃うひ山ふみ・鈴屋答問録﹄岩波文庫︶一二六頁本居宣長﹃古事記伝﹄︵﹃古居宣長全集﹄筑摩書房︶第九巻︑=一五1−六頁︒同右︑一二六頁︒同右︑一二六頁︒

(26)

ド﹃

(  (  (  (  (  (

34 33 32 31 30 29

)  )  )  )  )  )

        28 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15

) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) )

       

141312

)  )  )

本居宣長﹃鈴屋答問録﹄前掲書︑一〇四頁

本居宣長﹃古事記伝﹄﹁直毘霊﹂︵﹃全集﹄︶第九巻︑五七頁︒

同右︑ =二九頁︒

丸山真男﹁歴史恵識の﹃古言﹂﹂︵﹃日本の思想一6﹃歴史思想集﹄一九七二年︑筑摩書房︶一〇頁︒

賀茂真淵﹁国意考﹂︵﹃日本思想大系﹄39﹃近世神道論・前期国学﹄岩波書店︶三七七−八頁︒

賀茂具淵﹁題意有﹂前掲書︑三.八二頁︒以ド長尾龍一﹁﹃国意考ノート﹂︵﹃日本国家思想史研究﹄創文社︶

長尾龍一前掲書︑ 一六七.頁︒

賀茂真淵﹁国意考﹂前掲書︑三七四.頁︒

賀茂真淵﹁国意考﹂前掲書︑三八二頁︒

賀茂真淵﹁語意考﹂前掲書︑四一九頁︒

賀茂真淵﹁国意考﹂前掲書︑三七七頁︒

本居宣長﹃くず花﹄︵﹃全集﹄︶第八巻︑一六三頁︒

本居宣長﹃紫文要領﹄︵﹃新潮日本古典集成﹄﹃本居宣長集﹄︶︑二●四頁︒

本居宣長﹃石上私淑言﹄同右︑三三三頁︒

本居宣長﹃排芦小船﹄右同︑三〇八頁︒

丸山真男﹃日本政治思想史研究﹄東京大学出版︑二七〇頁︒

荻生祖徐﹃弁名﹄︵﹃日本思想大系﹄36﹃萩生祖裸﹄︶岩波書店︑四一週置

荻王但棟﹃弁道﹄前掲書︑三五頁︒

本居宣長﹃うひ山ふみ﹄前掲書四四頁︒

荻生祖裸﹃弁道﹄前掲書︑一一頁︒

同右︑一四頁︒

本居宣長﹃くず花﹄︵﹃全集﹄︶第八巻︑一五八頁︒

荻生祖律﹃弁名﹄前掲書︑五八頁︒ など参照︒

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(27)

比較社会思想史研究(二)

︵35︶ 同右︑六八頁︒

︵36︶ 同右︑一六九頁︒

︵37︶ 荻王祖擦﹃祖僚先生答達書﹄︵﹃日本古典文学大系﹄94﹃近世文学論集﹄岩波書店︶二〇一頁︒

︵38︶ 同右︑一二五頁︒

︵39︶ 本居宣長﹃玉くしげ﹄︵﹃日本古典文学大系﹄97﹃近世思想家文集﹄岩波書店︶︑三四三頁︒

︵40︶ 本居宣長﹃玉鉾百首﹄︵﹃ム八章﹄︶第十八巻︑三二四頁︒︵但し︑表現を仮名に変えている︶︒

︵41︶甲︷契︒ぎ国﹀こ..目冨菊三︒・・︒h三︒邑ξ震①Z9↓冨02一︒日量3ω︒門Oξ図窒ω9..し㊤︒︒ω・o・一

︵42︶ 拙稿﹁新しい人間学の確立と社会科学の在り方﹂︵﹃新しい社会科学を求めて﹄行人社︑昭和五十八年︶︑拙稿﹁東西両玄

  明の融合﹂︵﹃比較文化のすすめ﹄成文堂︑昭和五十九年︶等参照︒

︵43︶ 以下小堀桂一郎﹁鎖国の世界史悶意味﹂︵﹃季刊日本学﹄3︑名著刊行会︶︑吉田忠﹁自然と科学﹂︵﹃講座日本思想﹄1︑  東大出版︶︑﹃聖フランシスコ・サベリヨ書簡記﹄︵浅井虎八郎編︶︑新井白石﹃西洋紀聞﹄︵岩波文庫︶等参照︒

︵44︶ 丸山真男﹁歴史意識の﹃古層﹄﹂前掲書︑四三一四頁︒

︵45︶ 本居宣長﹁玉くしげ﹂前掲書︑三二三頁︒

︵46︶ 同右︑三四三頁︒

︵47︶ 同右︑三四〇頁︒

︵48︶ 荻生祖篠﹁祖棟先生答問書﹂前掲書︑一七五頁︒

︵49︶ 荻生祖秣﹃学則﹄前掲書︑一九三頁︒

︵50︶ 同右︑一九〇頁︒

︵51︶ 荻生祖棟﹁復棟先生答問書﹂前掲書︑二一九頁︒

︵52︶ 本居宣長﹁玉くしげ﹂前掲書︑三三九頁︒

︵53︶ 本居宣長﹃玉勝間﹄︵﹃日本思想大系﹄40﹃本居宣長﹄︶四六七一八頁︒

︵54︶ 本居宣長﹁玉くしげ﹂前掲書︑三四〇頁︒

︵55︶ 本居宣長﹃鈴屋答問録﹄前掲書︑九一一二頁︒

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