比較社会思想史研究︵五︶
i日本思想の典型外来思想受容のパターンロー
古賀 勝次郎
目次はじめに
日 外来思想受容の特徴−問題の所在
口 ﹁憲法十七条﹂と﹃神皇正統記﹄︵以上前号︶
日 日本思想の典型一石田梅岩と二宮尊徳︵以下本号︶
Gの 日本思想の典型としての梅岩と尊徳の思想
ω 三教一致の論理構造
㈹ 易思想・朱子学と日本思想
㈲ 梅岩と尊徳の三教一致論
ω 外来思想受容と﹁作為﹂の問題
むすびにかえて
早稲田社会科学研究 第34号(S62.3)
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日 日本思想の典型−石田梅岩と二宮尊徳
ω 日本思想の典型としての梅岩と尊徳の思想
カキ ニ宮尊徳のよく知られた歌に︑﹁古道に積る木の葉を掻分けて天照す神の足跡を見む﹂というのがある︒古道とは︑
日本固有の思想︑即ち神道のことであり︑積る木の葉とは︑儒教︑仏教をはじめ諸子百家の思想のことである︒とこ ︵1︶ろで︑尊徳の意図とは離れるが︑この歌から我々は︑日本思想史の一つの特徴を読みとることができる︒つまり︑こ
こにいう道を日本思想史とすれば︑日本の思想史は︑日本固有の思想が分からなくなる程︑外来思想によって満たさ
れ︑形成されている︑というようにである︒
確かに日本思想史は︑外来思想に満たされており︑事実︑日本思想の主流を形成し︑日本の思想界を支配してぎた
のは︑外来思想であった︒既に上に見たように︑日本最初の思想家である聖徳太子においても︑その思想の主要部分
は︑外来思想である儒教︑仏教︑法家の思想などによって構成されていた︒そして︑聖徳太子におけるこのような思
想の在り方は︑その後の我が国の思想の原型となり︑江戸時代の若干の国学老を除いて︑我が国の思想家の殆どがそ
れから免れなかった︒しかしこのことは︑後者に属す日本の思想家が︑日本固有の思想の影響を受けなかったという
ことでは勿論ないし︑また︑外来思想の受容の仕方が全く受け身的だった訳でもなかった︒上述したように︑聖徳太
子の思想には︑我が国固有の思想が深く浸透しており︑また︑その外来思想の受容は主体的であった︒しかもこのよ
うなことは︑程度の差はあれ︑我が国の多くの思想家に見られたのである︒そして︑日本における外来思想の受容の
比較社会思想史研究(五)
仕方に︑搾るパターンのあることが看取されるのである︒しかし︑そのパターンを明示的に示した思想家は極く少数
であった︒その中で︑最も明瞭にまた体系的に示したのが︑ここで扱う石田梅醤と二宮尊徳である︒
目でも述べたように︑北畠親房は︑歴史の発展に伴い神道では十分でなく︑儒教や仏教などの外来思想が必要とな
ったと考えていた︒しかし彼は︑その理由について明示的に述べてはいないし︑従って︑﹃神皇正統記﹄から我が国に
おける外来思想受容のパターンを細い出すことは難しい︒これに対して︑我々が石田梅岩と二宮尊徳を取り挙げるの
は︑彼等の思想から日本における外来思想受容のパターンを窺うことができるからである︒もっとも彼等も︑外来思
想を何故必要としたかについて︑必ずしも正面から論じている訳ではないが︑しかし︑我々はそのことを彼等の思想
から間接的に︑だが十分に︑知ることができる︒そうして︑このように︑ロ本における外来思想受容のパターンを黒
い出せるという意味で︑石田梅岩と二宮尊徳の思想を日本思想の典型と呼ぶのである︒
しかしこのことは︑悔言や尊徳のような思想が我が国の思想史に多く粗い出せるとか︑況んや支配的であった︑と
いうことでは無論ない︒電器や尊徳の思想ですらその時代にあっては︑少数派であり傍流であって︑中央の学問界で
問題にされることは殆どなかった︒では何故︑梅見や尊徳の思想に日本思想史の中で大きな位置を与えようとするの
かというと︑それは次のような理由からである︒即ち︑確かに日本の思想界を支配してきた思想家の中心部分は外来
思想によって構成されていた︒しかしだからといって彼等が日本固有の思想と無関係であったということはできな
い︑いや外来思想のみで成っているかに見える思想でも実は日本固有の思想から陰に陽に影響を受けていたのであっ
ヘ ヘ ヘ ヘ へて︑従って︑たとえそれが梅毒や尊徳の思想と著しく異なっていても︑それは本質的な差異ではなく︑程度の相違に
過ぎない︑と考えることができるからである︒
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ところで︑梅岩や尊徳の中に︑日本における外来思想受容に或るパターンを振い出せるということは︑そこに日本
固有の思想と外来の諸思想との間の︑更に︑外来の諸思想の間の︑位置関係が明示されているということである︒し
かし︑このような考え方は︑日本思想雑居説を採る丸山には受け容れ難い議論となる︒例えば︑丸山は﹃日本政治思
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ想史研究﹄の中で石田梅岩の心学に言及し︑それは﹁内容そのものに雑多な思想系統が流入帰陣してゐ﹂て︑﹁原理的
一貫性を欠﹂如しているので︑﹁通俗道徳としての普及性をいかに誇らうとも︑理論的価値においては︑折衷考証学派 ︵2︶の上にすらも出るものではなかった﹂と述べている︒丸山が現在も︑梅岩の思想に対しこのような考えを持っている
かどうか分からない︒それはとも角︑果たしてこのような考えは正しいであろうか︒少なくとも本稿以下の議論は︑
このような考えを明らかに反証している︒
本居宣長を論じたところでも述べたように︑宣長は﹃古事記﹄の世界をそのまま信じたが︑しかし現実の世界もた
だ神道のみで十分であるとは考えていなかった︒﹁世中の有さまも人の心もかはりゆくは︑⁝⁝これみな神の御所為﹂
であるが︑しかし︑﹁後世︑国天下を治むるにも︑⁝⁝儒を以て治めざれぽ治まりがたぎことあらぽ︑儒を以て治むべ ︵3︶し︒仏にあらではかなはぬことあらぽ︑仏を以て治むべし︒是皆︑其時の神道なれぽ也﹂︒また︑北畠親房も︑﹃野薄
正統記﹄において︑日本固有の神道と外来の諸思想との共存的発展の事実を歴史的に叙述し︑その必要性を認めてい
た︒実は︑以下に論ずる梅岩や尊徳の三教一致論は︑この宣長や親房の思想の延長上に位置すると考えてよいのであ
る︒但し︑両者の間には︑後者の思想体系が神道によって枠組を作っているのに対し︑前者においては儒教によって
作られている点で︑著しい相違がある︒梅忠や尊徳が儒教によって彼等の思想の枠組を作ったのは︑当時支学的であ
った思想が儒教であったからか︑或は︑神道よりも儒教の方により普遍性を認めたからか︑或はまた︑彼等が現実世
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界と密接な関わりを持ったことがそうしたのか︑恐らく何れでもあろう︒
㈹ 三教一致の論理構造
比較社会思想史研究(五)
聖徳太子以来︑我が国の思想界を支配してきた外来思想は︑仏教と儒教であるが︑江戸時代は儒教が仏教を抑え︑
圧倒的な勢力を持っていた︒それ故︑江戸時代の思想家たる石田輝岩︑二宮尊徳もそれから免れ得なかったのであっ
て︑彼等は︑儒教体系の中で︑自らの思想を練り上げたのである︒そして言うまでもなく︑その儒教体系の骨格を形作
っていたのは易の思想であった︒中でも︑﹃易経﹄繋辞上皮にある﹁易に太極あり︑これ両儀を生ず﹂︑浮図一陽︑こ
れを道と謂う﹂といった考えがその核をなしていた︒事実︑明治以前の1従って西洋哲学が輸入される以前の1
殆どの思想家の主題は︑このような易の思想をどのように解釈するかにあったのであって︑梅岩や尊徳も︑易の思想
をどう受けとめるかから出発しているのである︒だが彼等の易思想の解釈は︑易そのもの︑あるいは朱子などの解釈
とは︑かなりの張りがあった︒そして︑そのことが︑彼等の体系が儒教によって形成されているにも拘らず︑三教一
致へと導く重要な契機となったといってよいのである︒
㈹ 易思想・朱子学と日本思想
易思想の理解︑解釈において︑以下の議論との関連からも︑最も重要と思われるのは︑その流出論︑また︑二項
ヘ ヘ ヘ へ︵例えば陰と陽といった︶の関係程度である︒曽て田辺元は︑易の存在論をギリシア哲学やユダヤ.キリスト教のぞ ︵4︶れと比較して論じたことがある︒即ち︑﹁易の存在論に於ける終極的対立原理としての陰陽の対立﹂は︑﹁希臓的存在
論に於ける形相質料の如く論理的否定の矛盾的対立でなく︑又ヘブライ的存在論に於ける神と﹃悪﹄との如き争闘的
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実在的対立でもなく︑両者の中間に位するとも考へられるところの︑観念的反対対立に相当する﹂と︒田辺がこのよ
うな考えを明らかにしたのは六十年近くも前のことだが︑その基本的な考えは︑今日でも多分否定されていないであ
ろう︒ この田辺元の考えを本稿のコンテキストの中で言い変えるならば次のようになろう︒即ち︑易に見られる思考様式
は︑ギリシア哲学︑ユダヤ・キリスト教におけると同じく︑二分法的︵11二項対立的︶なそれであるが︑しかしその
ヘ へ程度は︑ユダヤ・キリスト教の流出論︑とギリシア哲学における関成論の中間に位置する︑と︒恐らくこう理解して
間違いないと思う︒例えば︑周蘇渓の﹁太極図説﹂に見られる思考様式は︑半ば流出論的であり︑半ば関野論的であ
る︒日く︑﹁無極にして太極︒太極動いて陽を生じ︑動くこと極まって静なり︒静にして陰を生じ︑直なること極まつ
まて復た動く︒一動一着︑互に其の根と為り︑陰に分れ陽に分れて両儀立つ︒陽変に陰合して水火木金野を生じ︑五年 こ順布し四時行はる︒五行は一陰陽也︒陰陽は一太極帯︒太極は本無極也︒⁝⁝無極の真と二五の精と差合して凝る︒ ︵5︶⁝⁝上気交感して万物を化生す︒万物は生生して変化窮まること無し﹂︒しかし︑朱子になるとやや流出論に近くな ゆゑんる︒例えば朱子は︑周忌渓の太極図説の○に注して﹁これは所謂無極にして太極也︒動いて陽︑静にして陰なる所以
︵6︶の本体也﹂と解釈している︒明らかにここでは︑太極は︑プロチノスの二者しに近いものとなっている︒
籾て︑このような易の思想は︑梅岩や尊徳には︑どのように受け継がれていたのか︒梅岩と尊徳の思想の出発が易
であったことは︑﹃都鄙問答﹄の冒頭が﹁大智乾元万物資︑︐テ始.︒乃チ統︒グレ天.︒⁝⁝﹂から始まり︑また︑﹃三才報徳 ︵7︶金毛録﹄が︑﹁大極之図︒万物の化生は︑大極を以って元とならざるはなし︒⁝⁝﹂から始まっていることからも明ら
かである︒梅岩も尊徳も易の思想をもって︑自らの思想体系の出発︑そして骨格とし︑また︑梅岩は朱子学を最も尊
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比較社会思想史研究(五)
重したのであるが︑しかし彼等の思想は易そのもの︑或は朱子学と同じものであったのだろうか︒結論を先に言えば︑
易︑或は朱子学と梅岩︑尊徳の間には︑かなりの相違が見られる︑もっと詳しく言えば︑梅岩や尊徳の思考様式は︑
二分法的であったが︑それは流出論というより関成論に近くそして発展︵進化︶論的色彩の濃いものであった︒つま
り︑そこには﹁生成﹂の概念の入る余地をかなり有していた︒この点で易︑或は朱子学と違っていたといえる︒彼等
の三教一致論が︑易の思想と対立・矛盾しなかったのは︑恐らくその・ためである︒
肇に梅岩は︑﹃都鄙問答﹄の中で︑朱子のように﹁太極トイフハ・天地人ノ体ナ厘と言ぞいるが・しかし・彼
にとって無極.太極の問題は︑理論のレベルの問題ではなく︑専ら実践体験の問題であった︒窪く︑﹁周子日︑五行一
一陰陽也︒陰陽二太極也︒太極本無極也︒此・無極三トヤイ9ニトヤイワソ・己一昊施セズバ何ヲ以テ道ヲ説.幽
と︒しかし︑朱子においては︑無極・太極は︑あくまで理論レベルの問題であった︒もっとも︑﹁太極本無極﹂という モト文言を﹁太極は無極に本つく﹂と読めば︑太極は老荘の無極に近いものとなる︒だがそう読めば︑恐らく易そのもの ︵10︶の思想からは些か離れることになろう︒しかし︑朱子と違って︑老荘思想を受け容れた梅岩が︑この文言を老荘的に
解釈したとしても決しておかしくはないのである︒ともかく︑老荘思想が︑梅岩の易解釈を柔軟にしたことは大いに
考えられる︒
しかもより重要なことは︑梅岩の思想の中に︑発展論的思想を尊い出すことがでぎるということである︒例えば︑
︐ヘ コγ キリ崎守は次のように言う︒﹁草木ノ生出ルヲ見レバ︑始ハ種土中二有テ渾ジテ分レズ︒ソレヨリ錐ノ先ノ如ク成ルハ︑自 アシガイノ然一陽ノ形ニシテ︑皆葦牙如クナリ︒二葉二分ル上平ニシテ陰ノ形ナリ︒⁝⁝易ノ上繋辞伝二︑﹃天一・地二・天運⁝
・ ︑ ・ ・ ︑ ・ ︵11︶⁝﹄ト読玉フ︒是ニテ陰陽陰陽ト生成シテ不止コトヲ知ルベシ﹂︵傍点筆者︶︒ここには︑易から流出論的性格が希薄に
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なり或は消滅した時︑易思想がどのようなものになるかが示されている︒即ちここには二分法的な発展論が示されて
いるのである︒また梅鉢は︑生物進化論的な考えさえ示している︒﹁天道ハ万物ヲ生ジテ其生ジタル者ヲ以テ野生ジタ ︵12︶ ウムトコ・スル物ヲ養︒其手ジタル物が蝉声ジタルヲ喰フ︒﹂︑﹁天地ノ間ハ自然二生殺トノニツ有コトヲ知ルベシ︒⁝⁝強者ハ勝︑ ︵13︶弱老ノ負ハ自然ノ理ナリ﹂︒以上の如き考えが︑易の思想︑朱子学から出てこないことは説明を要しないであろう︒
二宮尊徳も︑石田梅岩と略々同じ考えをしている︒尊徳の思想体系も梅岩と同様︑儒教︑特に易思想によって構成
されていた︒尊徳の理論的著作﹃三才報徳金毛録﹄は︑そのことをよく示しているが︑しかしまた同時に︑易の思想
とはかなり違った思想を展開している︒尊徳はその冒頭﹁大極之図﹂︵太でなく大となっているところにも注意︶にお
いて︑﹁万物の化生は︑大極を以って元とならざるはなし﹂と記しており︑そこには明らかに易の思想そのものが述べ
られている︒しかし尊徳は︑太極に関して︑既に朱子とかなり異なった解釈をしている︒例えば︑乱雲渓の太極・無
極について︑﹃語録﹄の中で尊徳は︑﹁周子のいはゆる太極無極は何ぞや︒思慮の及ぶところこれを太極といひ︑思慮
の及ばざるこれを無極といふ︒﹂︵﹃二宮先生語録﹄三〇四︶と言っている︒朱子においては︑太極と無極は同じ次元︑同 ︵14︶じものであったが︑尊徳は︑両者を思慮の書芸及で判然と区別している︒また︑五行についても︑尊徳と朱子とは違
っており︑後者の五行は︑木・火・土・金・水だが︑前者の五行は︑空・火・風・水・地であって︑そして﹁空﹂が
すべてを包括する中心に置かれている︒明らかに仏教の影響である︒﹁陰陽生剖歯応﹂においても︑陰と陽の間に﹁空﹂
が位置しており︑このように易の陰陽五行説は︑仏教によって修正されている︒
しかし実を言うと︑太極も尊徳と易とでは著しく異なっていたのである︒即ち︑尊徳のいう大極は︑究極の実体で
はなく︑根源的なものではあっても︑それは︑混沌の状態を現わすものであった︒尊徳はそれを二円﹂と表現した︒
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比較社会思想史研究(五)
白く︑﹁それ本は一円大極なり︒﹂︵﹃三才報徳金毛録﹄﹁大極之解﹂︶﹁それは元は一円混沌なり︒﹂︵同上﹁一元体気之解﹂︶こ
の混沌とした一円から万物が生じ︑そして発展していく︑というのが尊徳の根本思想である︒そこには︑流出論的思
考は殆ど見られない︒また︑尊徳における易の受容は﹂梅岩と比較しても︑その太極︑陰陽五行についての解釈にも
ヘ ヘ へ見られるように︑著しく相対化されている︒そして尊徳においても︑梅町と同じく︑発展論的思考が強いのである︒
例えば︑尊徳は︑﹃万物発言集﹄の中で次のように述べている︒﹁夫元一円混沌也︑混沌清濁して天地となる︒山月あ
らはれて昼夜をわかつ︑雲発て雨を降す︑風発て雲を散し︑しかふして無地開万歳︑天津神の御世ともいふなるべし︒
陽恵雨露のした鼠れにて︑初て地上に苔生じ︑秋風発て終に滅す︑静穏其潤に草生じ︑又秋風発て終に滅す︑而依嘱其
潤に一竹木生じ︑年歳落葉して消滅す︑記入其潤に一虫魚生じ︑草木の露を吸ひ︑花の潤を嘗︑終に消滅し︑而六二其潤
に一鳥獣生ず︑春は草木の芽立︑秋は果虫魚を喰ひ終に消滅す︑而依附議潤沢に一人間生ず︑⁝⁝水辺湿地を開き畔を ︵15︶立︑田と名付て稲を植︑芯地をひらき畠と名づけ諸草を植︑是則発田のはじめ︑法界の根元なり︑⁝⁝﹂
上述したように︑易思想は︑思考様式から見た場合︑流出論と関成論の中間に位置しているが︑しかし︑朱子の易
解釈はより流出論的なものとなっている︒だが︑流出論的傾向が強ければそれだけ︑その思想は︑他の思想との共存
・調和を困難にする︒朱子が︑その思想体系を形成していく過程で仏教など他の思想の影響を受けたにも拘らず︑そ
れ等の思想を自らの体系から排除したのも︑彼の易解釈がより流出論的であったことの論理的帰結であったと思われ
る︒この点において︑朱子と︑尊徳︑そして朱子学を受け容れた梅岩とも著しく異なるのである︒尊徳においては︑
易思想は明らかに相対化されており︑また梅岩の易解釈も朱子のそれとはかなり違って極めて柔軟なものであった︒
梅岩や尊徳には︑既述した如く︑流出説ではなく︑発展論的思想が強く見られるのである︒思うにそこに︑彼等の易
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理解が他の思想との共存・調和を可能ならしめる余地があったのではないだろうか︒しかも︑彼等の思想体系を構成
している諸思想の間には︑或るパターンが見い出せるのである︒
㈲ 梅岩と尊徳の三教一致論
石田梅岩︑二宮尊徳の思想体系の骨格は︑儒教︑特に︑易思想によって形作られているが︑易の解釈が極めて柔軟
であった︑或は︑易を相対化させて理解していたので︑それは︑他の諸思想との共存・調和が容易であった︒しかし
彼等は︑神道︑儒教︑仏教などの思想をただ雑然と取り入れたのではなかった︒その仕方には或るパターンが看取さ
れるのであって︑しかもそのパターンは独特だが︑しかし日本思想史の上に︑程度の差はあれ︑到るところに震い出
せるところがら︑彼等の思想を日本思想の典型と呼ぶのである︒先ずは︑梅岩と尊徳の三教一致説の中味を見ること
にしよう︒
梅岩の三教一致説の性格は︑次の二つの文章から窺い得るであろう︒﹁神儒仏トモニ悟ル心ハーナリ︒何レノ法ニテ ︵16︶ イユペキ ヤマ・イや得ルトモ︑皆三界ヲ得ルナリ︒﹂﹁名医調書ニチモ︑病ノ可レ愈モノヲ用ヒテ疾ヲ愈シ︑諸薬ヲ尽ク遣ヒ覚エテ療治スル
ヨカ イニ スツ ナズマコソ善ルベケレ︒古シヘヨリ薬種トテ出シ置ル・物干ゾ棄ルコトアラソヤ︒一モ舎ズ︑一二泥ズ︑能用ルハ名医ナル
︵17︶ベシ︒﹂
前の文章から基岩の唯心論的傾向を読みとることは易しいが︑しかし︑梅岩のいう﹁心﹂はそう簡単ではない︒あ
るところでは朱子学的であるが︑別の箇処では違った考えが示されているからである︒例えば梅岩は︑その﹃語録﹄
の中で︑次のように述べている︒﹁心トイヘバ性情ヲ兼ネ︑動静体用アリ︑性トイヘパ体ニテ静ナリ︑心ハ動イテ用ナ
リ︒︵中略︶三下気二日シ︑性山中二属ス︒﹂︵﹃梅岩先生語録﹄八一︶中略の前の部分は︑朱子の説と同じであるが︑後半
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比較社会思想史研究(五)
部分も同じであるかどうか判然としない︒朱子の理気二元論を性と心に援用していることは明らかだが︑次の文章を
見ると朱子とはかなりの距離がある︒﹁人ヨリ云トキハ潮岬先ニシテ性ハ後ナリ︒天地ノ理ヨリ云トキハ理アツテ後
二丈ヲ生ズ︒全体ヲ以テ云トキ逆理一物ナリ︒﹂︵同上︶天人一体といっても︑梅岩の場合︑流出論的色彩が希薄なこと
がこの文章からも知られる︒即ち︑そこには︑人と天地︑そして各々における陽気先後説が展開されているのである︒
このような議論は︑流出論的色彩の濃い朱子の思想からは出てこない︒従って︑心と性の関係は︑緒論の場合︑﹁心ヲ
尽シ性ヲ知り︑性二十﹂るということになる︒そうした心と性の関係の上に︑梅岩においては﹁性即理﹂が展開され
ている︒ しかし梅圃の場合︑その﹁性﹂︑従って︑﹁理﹂が極めて仏教的︑老荘的であったことは︑彼の﹁無極・太極﹂理解
コト ヲト カにおけると似ている︒﹁池心ハ︑性理ノ至極ノ所載至テハ︑上天ノ載田無レ声無レ臭ト説玉フ︒即チ易所謂窮レ理尽シレ性︐
ヵクノゴトク ヒヤウゼン以至ルニ於命﹂トノ玉フ所ニテ聖人ノ心ナリ︒如レ斯ハ昏昏トシテ主トスル所ナキニ似タリ︒﹂﹁性ハ無形無体ナリ︒蔓性 ︵18︶ヲ見ル時評仏衆生ノ隔ナク無心無念ノ真意二合フ︒﹂⁝⁝このように三二の議論は性・理においてもその理論枠組は
易・儒教で作られているが︑その内容は仏教的︑老荘的であった︒それ故︑彼の議論は直ちに次のように進む︒﹁我性
ヲ覚悟シテ見レバ神ラシキモノナク︑大極又借ラシキモノナシ︒因テ此性ヲ会得スレバ儒老荘仏︑百家衆望トイへ共︑
皆︑我神国ノ末社ニアラズト云コトナシ︒﹂︵﹃石田先生語録﹄八一︶
だが︑梅岩の議論はここで止まるのではない︒性︑或は理を知れば︑神・儒・仏の区別はなくなるが︑しかしそれ
等は︑それぞれ異なった独自の機能を持っている︒しかし︑独自の機能を持っているということは︑また同時に︑そ
の機能のみでは十分ではないこと つまり社会全体の観点から一も示している︒例えば︑儒教と仏教について︑
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クラク ナヅ梅岩は次のように述べている︒﹁天下国家ヲ治ルニ儒道ハ善トイフトモ︑心闇シテ泥ムコトアラバ必害アラン︒:::仏
法信仰スルハ・心ヲ悟ルタメナ絶﹂﹁世法ヲ治ル二聖人・道ニアラズシテ何・以テ治ソヤ︒﹂﹁儒・ハ仁義礼智信・
五常・君臣父子夫婦兄弟朋友ノ五璽とい・た世俗纏・道徳を立てるが︑﹁仏家ニハ五常五倫・道・不立︑紫・
ヲモムキ ヲナジクセズ帰ヲ不同︒﹂﹁悟レバ生死ノ迷ヒヲ離ル︒生死ノ迷ヒヲ離レ﹂れぽすべてがありのままに見・出てくる︒
では︑梅岩は神道についてはどう考えていただろうか︒これについては︑色々推論できるが︑その中で最も重要と
思われるのは︑神道は慣習として既に深く日本人の心の中に根づいており︑日本国の土台を作っているので︑すべて ︵21︶はそこから始められねばならない︑そういうところに神道の機能がある︒勿論これも︑仮説の域を出るものではない ミ スへが︑例えば︑次のような文章からそう推測するのである︒﹁我が朝ニハ︑太神宮ノ御末ヲ継ガセ玉ヒ︑勲位二立タセ玉 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘフ︒依ツテ天照皇太神宮ヲ宗廟トアガメ奉リ︑一天ノ君ノ御先祖ニテワタラ逸玉ヘバ︑下万民二至ルマデ︑参宮ト云 タスケ コノクニヒテ・.勢参詣スルナリ・﹂︵傍点筆者︶﹁儒道仏道老子荘子室ルマデ︑.尽グ欝ハ勲忍款量頚卜・可思︒ ヒトツコヘロ ノリ日本宗廟天照太神宮ヲ︑宗源ト貴ビ奉り︑皇大神宮御宝勅旧任セ︑万クダくシキヲ払ヒ舎テ一心ノ定レル法ヲ尋テ︑ カナ タラ ︵鎗︶天ノ神ノ命二合フ唯一ヲ相ルニ︑儒仏ノ法ヲ執り用ユベシ︒﹂︵傍点筆者︶
以上を要約すれば︑次のようになろうか︒神儒仏それぞれ﹁悟ル心ハ一﹂であるが︑それぞれが自らの本領を発揮
して機能するところは異なる︒儒教は︑天下国家を治めること︑また︑世俗倫理を説いていることにおいて優れてお
り︑そこに独自の機能がある︒仏教は︑悟りによって人間を迷から覚させるすべての物を偏見なくありのままに見る
ことを可能にさせる点で優れており︑そこに独自の機能がある︒神道は︑日本人の心の深層を形成し︑慣習として日
本社会の土台を作っており︑従ってすべてはそこから始められねばならない︑そこにその機能と意義がある︒神道の
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比較社会思想史研究(五)
機能について一言付け加えると1後でも詳しく触れるが−神道︑即ち日本思想の原型︑が生成のカテゴリーを中
心とする発展論的思考であることを考慮に入れなければ誤解を生むことになろう︑つまり︑神道が思考様式において
発展論的思考であることから︑梅岩が一そして後述するように尊徳もそうだが一神道に見た機能の重要性が理解
されるのである︒このように︑神儒仏は悟る心において同じであるが︑各々自ら本領を発揮する領域と機能を持って
いるので︑後は︑それ等を如何に有効に用いるかという問題が残るだけである︒そしてその要訣は︑上に引用した文
章から明らかなように︑﹁名医﹂のそれと同じであって︑﹁一モ舎ズ︑一二泥ズ︑能用ル﹂ということである︒
以上が︑梅岩における三教一致論の論理構造であるが︑尊徳においても略々同じ構造が見られる︒そして︑尊徳の
場合︑梅岩と違って︑易思想と三教一致論の間に︑朱子学が介在しないので︑直ちに三教一致論について見ることが
できる︒即ち︑既述したように︑﹁太極﹂或は﹁無極﹂を独自に﹁一円﹂と把捉した尊徳は︑その二円﹂の中に神・
儒.仏を押し入れたのである︒勿論︑神・儒・仏それぞれの長所︑短所を考量し︑各々の持つ独自の機能が最も有効
に作用するように︑である︒結論から先に示せば︑次のようになる︒尊徳日く︒﹁予久下考へて︑神道は何を道とし︑
何に長じ何に短なり︑儒道は何を教とし︑何に長じ何に短なり︑仏教は何を宗とし︑何に長じ何に短なり︑と考るに
モツバラ皆相互に長短あり︑⁝⁝勝て今道々の︑専とする処を云はゴ︑神道は開国の道なり︑儒学は治国の道なり︑仏教は治
心の道なり﹂︵﹃二宮翁夜話﹄ご三一︶と︒儒教と仏教に対する尊徳の理解に関しては付言の要もないであろうから一
梅岩と同じだから一︑神道についてもう少し述べることにしよう︒ ソレ 尊徳は神道が﹁開国の道﹂である所以を次のように言う︒﹁夫神道は︑開開の大道皇国本源の道なり⁝⁝︑我神道盛
んに行れてより後にこそ︑儒道も仏道も入り来たれるなれ⁝⁝︑我神道︑則ち開開の大道先ヅ行れ︑十分に事足るに
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シタが随ひてより後︑世上に六かしき事も︑其時にこそ︑儒も入用︑仏も入用なれ︑是誠に疑ひなき道理なれ︒﹂︵﹃二宮翁夜
話﹄六三二︶この引用文の前半に見られる神道に対する尊徳の考えが梅岩と全く同じであることは説明の必要はあるま
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へい︒注目したいのは︑﹁我神道︑則ち開講の大道先ヅ行れ﹂以後の文章である︒ここでは︑明らかに︑社会の発展に伴
い︑神道のみではこと足りなくなり︑外来思想である儒教︑仏教が入用になってきたということが説かれている︒問
題は二つあると思う︒一つは︑何故︑神道が社会の発展に伴い社会的機能を不十分にしか果たし得なくなったのか︑
ということ︑第二には︑それと丁度反対のことになるが︑何故︑儒教と仏教が社会の発展に対応し得るものとして我
が国に受容されるようになったのか︑ということである︒以下でこの二つの問題に答えることにしよう︒
㈲ 外来思想受容と﹁作為﹂の問題
この問題も︑結局は︑本居宣長の問題でもあった︒宣長の問題とは︑再引用になるが︑﹁立中の有さまも人の心もか
はりゆくは︑⁝⁝これみな神の御所為﹂であるが︑しかし︑﹁後世︑国天下を治むるにも︑⁝⁝儒を以て治めざれぽ治
まりがたきことあらぽ︑儒を以て治むべし︒仏にあらではかなはぬことあらぽ︑仏を以て治むべし︒﹂というが︑何故
そうなのかという問題である︒この宣長の問題こそ︑日本思想史における核心的問題である︒それが尊徳の思想の中
で︑改めて明瞭な形で提出されている︑といってよい︒
しかし︑上述した二つのうち︑第一の問題については推測の域を出るような実証は得られない︒その推測とは次の
ごとぎものである︒神道抽日本思想の原型に見られる思考様式は︑﹁生成﹂のカテゴリーを中心とする自然一生成−作
為からなる三分法である︑がその中で︑﹁作為﹂のウエイトが著しく小さい︑そのためそれが如何に発展論的思考をし
ているといっても︑社会が発展し複雑になってくるとどうしても﹁作為﹂が避けられなくなる︑だから﹁作為﹂のウ
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比較社会思想史研究(五)
エイトの小さい神道ではそれに十分対応できなくなった︑以上がその推測である︒だが︑この推測は第二の問題の解
答へと直ちに導く︒即ち︑我が国が︑外来思想を受容したのは︑神道において希薄な﹁作為﹂を補い︑強めるためで
あって︑そこにおいて最も大きな役割を果たしたのは儒教だが︑仏教もその受容初期においては︑そうした傾向が強
かった︵上述の﹁憲法十七条﹂や﹃神聖正統記﹄に見られる解釈参照︶︒勿論︑梅南や尊徳の仏教理解はそれと異な
り︑尊徳の用語を使えば︑﹁治心の道﹂ということになるが︒
上の第一の問題に関しては推論の域を出ない答えしか与えることはできないが︑第二の問題は︑尊徳の人道論︑即
ち作為論がこれに答えているといってよいのではなかろうか︒言うまでもなく︑人道論は︑尊徳思想体系の中で中心
的な位置を占める考えである︒尊徳の人道は︑天道に対置される概念で︑本研究で使っている作為と自然に対応する
ことは言うまでもない︒尊徳に見られる思想の特徴は︑自然一作為︵天道−人道︶という二分法的思考と︑発展論的
思考とが微妙に組み合わさっているところにある︒ ︵23︶ 尊徳は︑﹃報徳論﹄第一﹁天道ハ自然ニシテ人道ハ作為二三ツヲ論ス﹂の中で︑天道と人道について次のように説い
ている︒二元気流行し︑⁝⁝四時錯行し︑⁝⁝万歳ヲ互テ止マス変セサルモノ︑是レ天道自然ナリ︒﹂生活レベルが
低く︑社会が複雑でなかった時代はそれでよかった︒しかし社会が複雑になり︑生活レベルが高くなってくると︑人
間の欲望には︑人道を必要とするようになった︒﹁⁝⁝木ヲ伐り竹ヲ伐り以テ居室ヲ作為シ⁝⁝日用諸ノ器物ヲ製シ
生活ノ便トナシ︑⁝⁝然シテ⁝⁝教ナケレバ人皇限リナフシテ相奪ヒ半影シ︑⁝⁝鳥獣ト異ナラス︑是十二人倫五常
ノ道ヲ立テ︑法度ヲ定メ以テ導キ︑⁝⁝人畜ヲ制シ法度ヲ慎マシム︑⁝⁝神聖万民ノ難苦ヲ消シ永ク生養ヲ全フシ︑
相楽マシメソが為二作為シ立玉フ所ノ道﹂それが人道である︒人道について︑﹃夜話﹄の中では次のようにも言う︒
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タトヘ コシ﹁人道は讐ば料理物の如く︑歴代の聖主賢臣料理し塩梅して捲らへたる也や︑されぽ︑ともすれば破れんとす︑故に
マツリゴトタテ政を立︑教ヲ立︑刑法を定め︑礼法を制し︑やかましくうるさく︑世話をやぎて︑漸く人道は立なり﹂︵﹃二宮翁夜話﹄
二︶と︒ 尊徳の天道・入道論はしかしまた︑﹁悟道﹂に言及しなければ不十分である︒悟道とは︑天道自然の成り行ぎをあり
のまま見ることである︒天道︵自然︶と人道︑悟道の関係について尊徳は次のように言う︒﹁悟道は只︑自然の行く処
を観じて︑然して勤むる処は︑人道にあるなり︑夫人倫の道とする処は︑仏に所謂三界城裏の事なり︑十方空を踊る
時は︑人道は滅すべし︑⁝⁝迷ふが故に人倫は立なり︑故に悟道は人倫に益なし︑然といへども︑悟道にあらざれぽ︑
執着を脱する事能はず﹂︵﹃二宮翁夜話﹄七〇︶と︒ここで明らかなことは︑悟道が︑天道と人道を媒介するものと考え
られていることである︒そして︑悟道は︑人道︑つまり作為が誤って独り歩きをすることつまり偏向することを制約
すべく説かれている︒作為の主体たる人間が物事に執着した時独り歩ぎが起こる︒その執着から離れ作為の独り歩き
を止めるものこそ悟道なのである︒言うまでもなく︑われわれを悟道に導いてくれるものが﹁治心の道﹂としての仏
教であった︒しかし︑﹁勤むる処は︑人道にあるなり﹂と言っているところがらも窺えるように︑強調されているのは
人道11作為である︒
以上から次のことが明らかになるだろう︒社会がそれ程発達してなかった時代に在っては︑神道で十分であった︒
だが︑社会が発達し︑複雑になってくるとどうしても作為ということが必要になってくる︒しかし︑作為は常に偏向
を伴うので︑その抑制が要請される︒開国の道︑人道論︵治国の道︶︑悟道︵治心の道︶がそれぞれに対応しているこ
とは説明を要しないであろう︒只︑ここで言っておかねばならないのは︑開国の道︵神道︶と治国の道︵儒教︶の関
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比較社会思想史研究(五)
係である︒神道においては︑作為のウエイトが著しく小さいので︑作為のウエイトの大きい儒教が受容された︒だが
日本においては︑儒教は神道の上に連続的に接木された︒問題は何故両者が連続的に接木され得たかということであ
る︒思うに︑それは神道の﹁生成﹂のカテゴリーによりて可能だったのである︒尊徳が易を発展論的に解釈していた
ことは既に述べた︒そこには明らかに神道の思考様式が影響しているのだが︑それが人道論との結合を連続的にさせ
ているといってよいのである︒もしそれが連続的でなく︑非連続的結合であれば︑神道の持つ社会思想的意義は著し
く減少するであろう︒神道が儒︑仏と並んで三教一致の一角を占めているのは︑勿論そうした神道の社会思想的意義
も考慮されていると考えられねばならない︒
梅丘も尊徳と丁々同様な考えを持っていたと考えられるが︑梅岩は朱子学を受け容れた−勿論︑彼独自の仕方で
一ので︑作為という考えは前面には出てきていない︒梅岩の作為は専ら個人のレベルのものであり︑彼はそれを
︵24︶﹁我ヲ立ヨ﹂と表現した︒例えば梅岩は次のように言う︒﹁下ヲ恵ム八丁延喜帝︑無規二並ブベシト我ヲ立ヨ︒⁝⁝身
ヲ働クハ百足ヨリ勝ラント我ヲ立ヨ︒⁝⁝材︵財︶宝ヲ遣フハ君ヲ使フ如クニシテ使ヤウニト我ヲ立ヨ︒⁝⁝凡テ人
我ト三物ハ聖人仏祖諸道二王テ此ヲ嫌フ物ナレド︑我レハ我ヲ以テ忠ヲ守ル主トセソ︒⁝⁝﹂︵﹃石田先生語録﹄二四︶
このような梅岩の作為も︑また尊徳の悟道と同じように﹁世知﹂によって制御されるべきものであった︒
梅岩の作為はかように専ら個人のレベルのそれであったが︑しかしこれから︑彼が尊徳のいう意味での作為−即
ち︑社会的︑国家的レベルでのそれ一という考えを持たなかったと結論づけるのは早計であろう︒というのは︑自
然−作為という二分法的思考においては︑自然が作為に︑或は反対に作為が自然に何時でも転化し得るからである︒
キリスト教においては︑神︵Oo侮︶の作為は自然と考えられていた︒これと同様︑儒教においても︑聖人の作為は自
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然と考えられる︒華北は︑尊徳の表現を上りれば︑天道と人道を分離させた上で聖人の作為を説いたのでこの議論は
祖律には当て嵌らないが︑しかしこの意味では︑梅岩は尊徳と同じだったのである︒
また梅岩の思想の中に発展論的思考が見えることは既に述べた︒そこには︑明らかに神道の影響が見られるが︑彼 ︵25︶の末世思想批判もそこからきたといえるかもしれない︒
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むすびにかえて
以上の論述から明らかなように︑日本の外来思想の受容は︑決して無原則の﹁無限抱擁﹂ではなく︑その受容の仕
方には撲るパターンが見られる︒外来思想は︑日本固有の思想n神道に欠けていた作為の概念を補強すべく受け入れ
られたのである︒また︑外来思想と日本固有の思想も無原則に﹁雑居﹂していた訳ではない︒各々が全体においてそ
れぞれ果たす機能を持っていたのであって︑それを可能にしたのが︑日本固有の思想に特徴的に見られる﹁生成﹂を
中心とする思考︑即ち発展論的思考である︒このような外来思想受容のパターンを典型的に示しているのが︑石田梅
壷と二宮尊徳の思想であった︒確かに日本の多くの思想家の思想の枠組︑或は座標軸を作っているのは︑聖徳太子の
﹁憲法十七条﹂にも見られるように︑外来思想であった︒だが彼此の差は程度の問題であって︑その受容の仕方は︑
梅岩や尊徳のそれと基本的にはそれ程の距りはなかったと考えられる︒
このような外来思想の受容パターンは︑明治以後の西洋思想受容においても変らなかった︒儒教に西洋思想が取っ
て代ったとも言えるが︑西洋思想の受容速度は︑儒教よりも遙かに速かった︒恐らくそこには︑西洋近代思想︑特に
イギリス経験論に基づくそれ︑の思考様式が︑日本思想の典型に見られると同じ三分法的思考様式︑即ち︑自然︑生
成︑作為の三つのカテゴリーからなるものであったことと大きな関係を有していただろう︒それについての一端は本
研究日﹁穂積陳重と法律進化論﹂において論じている℃
比較社会思想史研究(五)
注︵1︶尊徳は次のように述べている︒﹁汝等落積りたる木の葉に目を付るは︑大なる聞違ひなり︑落積りたる木の葉掻分け捨て︑
大道を得る事を勤めよ︑然らざれば︑真の大道は︑決して得ることはならぬなり︒﹂︵﹃二宮翁夜話﹄六四︶
︵2︶ 丸山真男﹃日本政治思想史研究﹄一四六1七頁︒しかし丸山は尊徳については次のように言う︒﹁二宮尊徳のωロ一ぴqoロ︒ユω
な﹃作為﹄の思想は︑注目に値する﹂としながらも︑尊徳の﹁立場の本来的な私経済的自記性からして︑直接吾吾の考察に
は入って来ない﹂︵同︑三〇八一九頁︶と︒確かに尊徳の行為は︑専ら私経済︵農業︶に向けられたが︑彼の思想が狭阻だっ
た訳ではない︒
︵3︶ 本居宣長﹁鈴屋答問録﹂︵﹃うひ山ふみ・山屋答問録﹄岩波文庫︶九一−二頁︒
︵4︶ 田辺元﹁儒教的存在論に就いて﹂︵﹃田辺元全集﹄4筑摩書房︶二九七頁︒
︵5︶ 周濾渓﹁太極図説﹂︵﹃太極図説・通書・西銘・正蒙﹄岩波文庫︶一匹ー二頁︒
︵6︶ 朱子﹁太極図解﹂同右︑一八頁︒
︵7︶ 二宮尊徳コニ才報徳金毛録﹂︵﹃日本思想大系﹄52︑岩波書店︶一〇頁︒
︵8︶ 石田梅岩﹃都鄙問答﹄︵﹃石田梅岩全集﹄上巻︶ 一〇〇頁︒
︵9︶ 同右︑一〇一頁︒
︵10︶ 詳しくは竹中靖一﹃石門心学の経済思想﹄p︵増補版︑ミネルヴァ書房︑昭和四十七年︶ 一四七頁を参照︒また︑伊藤東涯
は︑太極と無極を二物とみて︑﹁太極は無極に四つく也﹂と訓じている︵﹃太極図説・通書・西銘・鋸挽﹄二二頁注︵3︶参
照︒
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︵11︶ 石田梅岩﹃都鄙問答﹄前掲書︑上巻︑一七九頁︒
︵12︶ 同右︑五四頁︒
︵13︶ 同右︑五ニー三頁︒
︵14︶ また︑下程勇吉著﹃二宮尊徳の人間学的研究﹄︵広池学園出版部︑昭和五十五年置四六七−七五頁参照︒
︵15︶ 二宮尊徳﹁万物発言集草稿﹂︵﹃二宮尊徳翁全集﹄生活原理編︶二五四頁︒
︵16︶ 石田梅岩﹃都鄙問答﹄前掲書︑上巻︑一二一頁︒
︵17︶ 同右︑二九一二〇頁︒
︵18︶ 同右︑一一七頁︒
︵19︶ 石田梅岩﹃都鄙問答﹄前掲書︑上巻︑一二〇頁︒
︵20︶ 同右︑一一六頁︒響岩の世俗倫理に関する議論は︑源了圓﹁石田梅岩魚﹂︵古田紹欽.今井淳編﹃石田巨岩の思想﹄ぺりか
ん社︑昭和五十四年︶九二一三頁参照︒
︵21︶ これに関連しては︑石川謙﹃石田梅岩と﹁都鄙問答﹂﹄︵岩波新書︶一四三1九頁を参照︒
︵22︶ 石田梅岩﹃都鄙問答﹄前掲書︑上巻︑一二四頁︒
︵23︶ 富田高慶編﹃報徳論﹄︵﹃二宮尊徳全集﹄第三十六週目二三頁以下参照︒
︵24︶ 梅岩の﹁我ヲ立ヨ﹂については源了圓﹁石田梅避雷﹂前掲書︑九六−八頁参照︒
︵25︶ 梅壷は﹃都鄙問答﹄の中で﹁聖人ノ教ハ古今二通ジテ変コトナシ︒今ト古トヲ分ルハ︑平氏ノ末世ナリ﹂︵前掲書︑上巻︑
九八頁︶と述べている︒これについては︑源了圓前掲論文参照︒
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