古賀 勝次郎
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(2) と共に'初版刊行時にはまだ十分でなかったところを補いへ﹃管子. 就而孝之︒. 以故写対刻校︒. 纂論考翁﹄を作った︒ 慶応二年のことである︒ (S) ﹁纂論考讃小引﹂に次のようにある︒ ﹁初三浦五輔之刻管子纂詰也︒ 予通達塙邑令︒‑‑事頗煩砕︒ 予亦免官臭︒有来質疑者︒ 乃命児益与諸子精対︒ 其解未尽者o亦隠見補正.. 管伸は優れた君主・桓公と出会. しかし︑孔子は管仲の人とな‑を敢えて非難することはなかっ た︒ たに ︒ 寧誌ろさ仁れのた人だと言っている︒ 同年四月. いへその覇業を遂げしめた︒ しかし︑管仲は周王室のために力を十. 分尽すことはなかっ そ︒ れは周室のためには残念なことだった︒ 専た 委︒ 門生. 孔子 あ有 っ前 た者 の未尽者︒ 誤が 脱管 居伸 半の ︒﹁器﹂を﹁小﹂としたのはうそうした意味で又. 作だ 管︑ 子と 纂岩 論陰 考は 詣いうのである︒ 宕陰のそうした孔子の管仲評は︑荻生. 唯有管仲之事巳︒. 刻既成而. 亦異. 故. 続いて岩陰は'﹃管子﹄の内容︑作者︑後世の注釈書について︑. 論じる︒. 然其時距文武五百. 則何止是哉︒. 開. 狙裸や息軒のそれと略々同じだといってよいO租裸は﹃論語徽﹄の (8) 当該箇処の注でこう言っている︒ ﹁孔子無尺土之有︒ 武若︒ 使孔子見用於世邪︒. 正天命当革之秋也︒ 使孔子居管仲之位︒. 四方君子︒ 多精語良猷︒. 択可. そこで息軒は'而 そ小其器︒蓋惜之也︒﹂息軒の孔子の管伸評については何れ詳し. そして'応宝時の﹁序﹂. 葛︒﹂慶応二年十月︑イギリスに留学する中村正直に托したのは︑ この慶応二年刊の﹃管子纂詰﹄であった︒ が息軒の許に届いたのが明治三年の一月だった︒ しかし︑この慶応二年刊の﹃管子纂詰﹄にも︑謬見や脱誤が多数 (S) 見つかった︒またへ応宝時からも質問があった︒ うした謬見や脱誤を訂正すると共に︑応宝時の質問にも答え︑明治 同改定版の﹁序﹂の終. ﹁至其書︒ 要亦可致其跡︒. そ尽 れ於 ぞ此 れ臭 手︒ 短に述べている︒ 庶幾其可読臭︒﹂大正五年刊の﹃漢 手者︒ 錐捧駁不一︒. ﹁予考正之力︒. 三年末に︑改定版﹃管子纂詰﹄を出版した︒ りで'息軒はこう書いている︒. 善読者︒. 加 伝. 官︒ 而匹孟萄葛︒. 幸助不達︒摘挟其鞍管子一書︒. 古書束諸高閣︒. 文大系﹄二十一巻に収録されたのは︑この改定版である︒. 写又多翁誤︒遂致使人不楽読葛︒﹂﹃管子﹄には意味深い言葉や優れ. 自科挙之学興︒. さて'塩谷宕陰の﹁叙﹂は'先ず︑孔子が管伸をどう評価してい. を究め 而る 其こ 致と 力は 王で 室き 者る ︒︒ 読者はそれらの言葉や考えをよ‑択んで︑. あ夫 っ子 て則 ︑未 議敢 論非 も之 複雑で統一を欠いているけれども︑その基本的思想 然我. た考えが多‑見られる︒ ところどころ管伸の門人が書いたところが. ‑‑仲逢英主相大国︒. 後儒以為聖賢所不取︒. たか︑そしてそれを岩陰自身どう理解しているかが述べられてい る︒ ﹁管子敬仲之為人︒ 也︒ 其謂之器小蓋惜之爾︒. する実を挙げ得よう︒ 科挙制度ができて︑そのための学問が興って. 為周室惜之也︒﹂管伸は王道を説か実際に応用すれば'﹃周官﹄と相侯って'﹃孟子﹄や﹃萄子﹄に匹敵. ず︑覇道を助けることに力を尽してきたので'聖賢はそうした管仲. からというもの︑﹃管子﹄などの古書は'高い棚の上に置かれて読. 未能十之半︒故夫子之論管伸︒. を高‑評価することはないだろう︑とその後の儒者たちは思ってき.
(3) 安井息軒の著作. そこで我が友・安井仲平が最も好むところの﹃管子﹄の注釈書. ことができなくなったのである︒. 違いが多‑なった︒ そのためとうとうへ人々は楽しんで古書を読む. まれな‑なった︒ その上︑旧注は粗雑で誤‑があ‑︑伝写の間に間. た﹃管子八十六篇﹄についてへそしてその後︑十篇が散逸して篇名. 安井息軒の﹁管子纂詰序﹂は'最初に'漠の劉向が収集し校定し. であった︒それから四十年後︑両者とも昌平聾儒員になっていた︒. 舎︒﹂宕陰が息軒と初めて会ったのは'文政七年へ昌平聾において. 漠. 終. 而其目猶 研存 錬︒ 数﹂ 年劉 ︒向が収集し校. 定︒ 著於班最 史好 ︒管子︒李唐至五季亡十篇︒. 太. 以校除復重四百八十四篇︒. 定. 太. 定した八十六篇についてへ劉向自らその﹁管子序録﹂の中で次のよ 1⁚ご うにいっている0 ﹁所校健中︒ 管子書三百八十九篇︒. ﹁管子八十六篇︒. のみが残ったことについて触れている︒. 其於諸子︒. ﹃管子纂請﹄を著し︑﹃管子﹄の文章が読めるようになったのだ0. 由此而昭臭︒﹂. ﹁飲肥安井仲平︒識高天下︒ 請一書︒管子之言︒ 必自孟子始︒﹂へと. 書二十七篇︒臣富参書四十一篇︒. 韓愈は﹁送王損序﹂の中で'﹁求観聖人之道︒ いっている︒聖人の道に行‑のに︑墨子や老子や仏陀の学問を通し. 六篇︒ 凡中外書五百六十四︒. 射声校尉立書十一篇︒. て行こうとしても無理で'必ず﹃孟子﹄から始めるのがよい︑と韓. 篇︒﹂と︒ 班園の﹃漢書﹄にも﹁莞(管)子八十六篇﹂と出ている︒. だが︑散逸はしたものの篇名 周だ 公け 善は. そしてへ唐の時代から五代に至るまでに︑十篇が散逸したので'現 唐虞夏行股の之よ制う作に︒七十六篇となった︒. 残 遡っ 其た 流︒ 而 例討 え其 ば源 '︒ 王言第二十一へ謀失第二十五︑正言第三十四など 審損益 蓋思過半臭︒﹂十 ︑篇 とが ︒それである︒. 更に. 愈はいう︒それと同じように︑唐虞三代の制作の意味を見ようとす る者は'必ず﹃管子﹄から始めるべきである︑と岩陰はいう︒. 管子又変而通之︒. 続けて日‑︑﹁善考制度者︒ 観意於法外︒ 酌而裁之︒周公之制作︒ 於治平之道︒. 次に息軒は'﹃管子﹄の作者について自説を述べる︒. 之故︒ 而知繁簡之宜︒. 仲平は'かつてへ﹃周官﹄や﹃儀礼﹄などの注釈書を著している︒. 論が複雑でまとま‑がな‑一貫していないので'既に宋の菓適が︑. ﹃管子﹄は議. 周公は﹁宜﹂によって制度を定め︑管伸は﹁時﹂に応じて制度を作. その﹃水心集﹄の中で'﹃管子﹄は一人の手によって書かれたもの. 確かに柔道のこの議論は正し. 呉王剣などに好意を寄せていることから推測すると'春秋時代末に. 周公之所裁宜︒ でも'一時代の事について書いたものでな 管‑ 子︑ 之同 所著 応が 時西 ︒施や毛姥や. ったけれども︑よ‑読めば両者に通底するものを必ず悟るだろう︒ ﹁仲平於周官儀礼等書︒亦嘗有撰述︒ 必有洞観而通悟︒﹂. できたものだろうへと言っている︒. そこで息軒はへその理題 由於 を著 こ渓 う之 説官 明する︒. いtと息軒はいう︒ 余 だ与 が仲 ︑平 何交 故四 そ十 う年 な︒ のか︑その理由については菓 元治紀元之秋適︒は理解していない︒. ﹁善観音︒ 其亦知所観蔦哉︒. 宕陰は最後に次のように書いて﹁序﹂を結んでいる︒. 乃不辞而序之︒. 観書而不観於書︒ 観此書者︒ 及書成︒属予一言︒.
(4) ﹁古人著書︒ 紹述師説︒. 率襲旧題︒. その例として息軒は︑. を著わし︑師の議論を継いで述べる時︑大体︑もとの題名をそのま ま襲って'書名を改めることなどないtと︒. 詳哉其言之也︒. 狩野は︑その﹃中. 謂之. 欲政. 各 有. 論其秩事︒﹂︑といっていると. 既見其著書︒. にあり︑また︑その最後に︑﹁吾読管子牧民・山高・乗馬・軽重・. ﹁管曇列伝﹂で︑司馬遷が管伸の語として掲げているのが﹁経言篇﹂. 言以下は彼の学を伝へるものの編述にかかるものとするを妥当と信 (24) ずる﹂へと言っ固 て失 い之 る︒ ︒ 狩野がその根拠としているのは︑﹃史記﹄. 国哲学史﹄の中で'﹁管子の中で経言九篇だけは彼の自撰とし︑外. たへと︒これと同じ考えを狩野直善もしている︒. ている‑︑外言以下は'管伸の学問・思想を継承した者が著述し. 不改名其の 書手 ︒に ﹂よ 即っ ちて ︑成 古っ 人た がも 書の 物で‑従ってへ経言という尊称が用いられ. そして︑. ﹃爾雅﹄︑﹃神農本草﹄へ﹃荘子﹄などの著書を挙げる︒ また︑伝わっ てはいないが︑﹃外孟子﹄も孟子の門から出たものである︒ ﹃管子﹄もそれと同じだtという︒ ﹁故謂之夷吾自著︒ 後人偽撰︒亦未為得也︒﹂これと同様の考えは'既に見たように︑ ﹃左伝輯釈﹄の息軒の﹁序﹂でも述べられていた︒. 九府︒ 及貴子春秋︒. 是以不論︒. ろである︒しかし︑﹁経言﹂にも'例えば﹁立政第四﹂に'﹁兼愛之. 其伝︒ 至其書世多有之︒. 説勝︑則士卒不戦︒﹂tといった文が混っていて'明らかに管仲時代. 古書と作者との関係についてのこのような考えは︑勿論へ息軒だ 8 けでなくへ既にへ清の孫星街や厳可均などもしていた︒. 孫星街は. ﹁貴子春秋序﹂の中で'﹁凡称子書︑多非自著﹂と言っているし︑厳. になかったことが記述されているので︑﹁経言﹂もそのすべてが︑. だが上の﹃史記﹄﹁管. って︑優れた篇もあれば'あま‑価値のない篇もあるへということ. たので︑思想や強調点が異なった‑︑文章まで違うということにな. しかし'管仲後の人々が議論の根拠としたものが同じではなかっ. 行のような﹃管子﹄となったといってよかろう︒. て'それが中核となって︑後世の人々が書き継ぐことによってへ現. る言葉が﹁経言﹂のものが多いということは︑先ず﹁経言﹂ができ. 曇列伝﹂にも見られるように前漠以前に書かれた諸書に引かれてい. 管伸の手によって成ったものとは言い難い︒. 可均も﹁書管子後﹂の中で︑﹁先秦諸子へ皆門弟子︑或賓客へ或子. 其. 孫︑撰定︑不必手著︒﹂へと言っている︒ またへ鳩友蘭もその﹃中国 哲学史﹄第一篇第二章(五)﹁古代著述体裁﹂において以下のよう に述べている︒ ﹁‑‑古人之歴史観念及﹃著作者﹄之観念不明︑故 現在所有題為̲撃個以前某某子之書︑非必謂係某某子所親手写成︒ 中﹃援述於前︑与附街於後者﹄へ在古国視為不必分へ在今別多似為. 先ず最初の. 如現在題目墨子荘子之書︑当視. 不能分︒故現在所有多数題為戦国以前某某子之書︑当視為某某子一 派之書へ不当視為某某子一人之書︒. 為懐学叢書及匿学叢書︑不当視為一人之著作o﹂︑と0 次に息軒は︑﹃管子﹄全体をいま少し細‑論ずる︒. になった︒ 概していえば︑管伸の故 時尊 代称 か経 ら言 遠︒ ‑なればなるほどへ議 蓋成於管敬仲之手臭︒. ﹁経言﹂はどうか︒﹁経言九篇︒. 論も浅薄になっているといえる︒. 息軒日‑'﹁某所本︒. 外言以下︒則承其学者述之︒﹂即ちへ﹁経言﹂九篇だけは︑管伸自身.
(5) 安井息軒の著作. 扱諸言︒以成篇者蔦︒. 有街其意︒ 最多篤論.. 以立言者葛︒ 次に息軒は︑孔子と史馬達の言葉を引有 く就 ︒事跡︒ 孔子は︑﹁微管伸︒. 被髪左社︒﹂(﹃而 論明 語法 ﹄l 憲篇 間︒ 第十四)と言っているが︑これは管仲の 功が而 大雑 き篇 い︒ ことを称えた言葉である0. 外言区言︒ 時有嘉意︒. 妾列伝﹂の中で 其︑ 言﹁ 益其 浅論 ︒卑而易行︒﹂︑﹁善因禍而為福︒転敗而為功︒﹂︑. 老若︒統而論之︒ 爽管子者所述︒ 内言短語︒ 相距益遠︒. ると︑一体に管仲の言行は一致していることが分かる0. と言っているが︑これも管伸を称讃したものである0. そのた. 現在︑西洋. ﹃管子﹄を見. また︑司馬遷も 則﹃ 弟史 子記 職﹄ ︒﹁管. 者也︒其余成於再伝若三四伝之後︒ 篇而極臭︒﹂ 旧注には房玄齢という. 列強が猛威を振っていて'天下多事︑内憂外患で日本は混乱してい. 息軒は次に︑旧注の作者を考証している︒ 署名がついているが︑その注は租雑で誤りが多‑'文章を理解でき. 息軒は最後で︑何故﹃管子纂詰﹄を著したのか︑その理由を述べ. び︑それを実際に応用すれば︑必ずや禍を福に転ずるであろう︒. るけれどもへ﹃管子﹄の教えの中から優れた時宜に適したものを択. しかし玄齢は帽の大儒・. 勿論︑人によっては政治に長じていて. る人の注とは思われない︒ も︑書物の理解には劣っている者もいる︒. そういう人であれば'自分の. る︒ そもそも﹃管子﹄は昔から余り読まれてこなかった︒. 王通に学んだ人でへその高弟である︒. 知力も自ら知るところであっただろうし︑また実際︑功名も挙げた. め︑﹃管子﹄には'誤字︑脱字が非常に多い︒. 読めるようになったと思っている︒. だから﹃管子﹄を読むことが難. その結果へ﹃管子﹄が一応. ﹁軽重﹂の諸篇は'議論が浅薄. 古訓に基づいて解釈することに努めた︒. し︑一字一句ないがしろにせず︑最も妥当な解釈を求めへとり分け. を顧みず'広‑諸本の異同を校健するとともに︑多‑の古書と照合. しかったのである︒ 自分はひそかにそれを残念に思い︑自らの能力. 明らかにすることができなかった︒. 多い︒ ダ知章は﹁随儒﹂で︑﹃管子﹄の文章に隠されている意味を. また︑古宇も仮借が. のである︒もしへ書物を解する能力が劣っていると自ら認識してい. かつて晃公武は︑﹃郡斎. ﹃旧唐音﹄へ﹃新唐書﹄にも︑玄齢が. るならばへ態々この書物に注を施して︑後世の人々から批判される ということをするであろうか︒ ﹃管子﹄の注を作ったことは載っていない︒. 但しへ﹁本. 読書誌﹄の中で'﹁声知章の託するところ﹂へと述べたことがある が︑これを﹁本伝﹂に徹してみても誤‑とはいえない︒. 伝﹂と﹁芸文誌﹂がともにへ声知章が﹃管子﹄の注釈をしたという 時は'同注釈書は'最初から名前を玄齢に仮託したというのではな. それ. ﹁纂詰﹂という書名. で読むに催いしないが'それでもその文章は古の文章である︒. で解釈を施すだけで論ずることはしていない︒. にしたのは'敢て臆断することをしなかっ至 た四 こ庫 と全 を書 示捻 すためであ る︒ 分従之︒﹂. 先儒多疑之︒. またへ﹁凡. ‑'﹁妄人﹂が権威を玄齢に仮りて︑﹃管子﹄を権威づけようとし て︑改めて玄齢と署名したに過ぎない︑と息軒はいう︒. 考証頗核︒. 例﹂にもこうある︒ ﹁旧本題房元齢注︒ 日提要︒定為声知章注︒. 又肴解o. 至軽重諸. 以 我. 蓋. 尤.
(6) 応宝時もまた﹁序﹂の中で以下のようにいう︒. ﹃管子﹄として流. 伝しているものに'脱字や誤写が多‑︑宋明後には'﹃管子﹄を学. 脱誤実多︒. ぶ者さえ少なくなりへそのため善本を手にすることができな‑な り︑残念であった︒ ﹁概以流伝既久︒. 心︑穏やかな気分で'多‑の説を挙げ︑互いに証拠を付きあわせ︑. また︑言葉を研究している人も︑規則や制度︑礼楽や兵法︑政事・. 刑罰や法律を研究してへその煩し‑乱雑なところは削‑'重要で核. 心的なものを取‑上げへ五経によ而 っ宋 て明 解以 釈来 し治 て管 孔書 子や孟子の教えに. 管書目可不. 照し合えば︑﹃管子﹄は世に稗益するところ非常に大きいであろう︒. 善用之︒. 棲挙衆説 互而. 毎以不得善本為恨︒﹂と‑わけ︑明人の. ﹁夫管子一書︒与周官相表裏︒. 平心私気︒. 者又少︒致令欲読管子書︒ 浅薄さへ妄謬は非道く'古書を刻成し刊行する際へ臆測に従って勝. 周官亦病民︒世有読仲平之注︒. 伝自. 接 両側. 手に改窺していて︑テキスト・クリティークというものを理解して. 臣浅鮮平︒﹂. 政刑法律︒. 以請求典章制度︒ 礼楽斡鈴︒ 経之以経︒緯之以孔孟之訓o其有祥子世 刊︒ 刻. 明治三年版の息軒の﹁序﹂によると'息軒は将 右何 の従 応而 宝時の﹁序﹂ ‑‑世有読管子書者︒. ﹁明人浅妄特甚︒. いない︒そのため︑﹃管子﹄を読もうとしても︑どの本に依って考 証してよいか分からないという始末である︒ 又不解讐校之学︒. を︑明年一月に受け取った︒ そして応宝時の過分の称講の言葉に自. 古書︒ 率臆窺改︒ 考証之与︒﹂. ら恥じ入ったという︒ 即ち︑﹁庚午正月清人応宝時纂話之序︒. 赦然自慰o﹂へと0いま少し細か‑いえば'応宝時. 以質仲平蔦︒﹂︑といっているように︑序中に︑﹃管子﹄﹁移摩篇﹂中. また応宝時は︑その﹁序﹂の最後で︑﹁以素所懐疑末釈者附書之︒. 外一知己へ‑‑︒﹂. 序中所論︑博証広引'整々乎 以言 応之 世︑ 之極 求其精核︑余服其学識へ以為海. 探‑敬服し︑ ‑海 今外 得に 仲知己を得たことを喜んだ︒ ﹁書応宝時管子纂請 (25) 令数千年低 序許 後讃 ﹂之 に書 こ︒ うある︒ ﹁明治庚午正月十八日へ此序伝自名 l倉 旦氏 昭︑ 若‑. の﹁安 序井 ﹂仲 は平 ︑者 当︒ 時上海にいた名倉栓窓によってへ明治三年一月十八 博学 日に︑ 撰息 管軒 子の 暴許 論に ︒届けられた︒ そして一読へ息軒は応宝時の学識 以に 衝始来語.. 上海. 過蒙称誉︒. ところで最近︑日本の昌平費儒貞の中村正直を介して︑同輩儒員. 組正其失︒ 尽大子要人之手︒. 而寛能麓正子東海之邦耶︒. 敵齢難読︒. ﹁日本昌平校儒員︒. の安井仲平の﹃管子纂詰﹄を受けとり読んだが︑何と素晴しい﹃管 子﹄の注釈書であることか︒ 多識人也︒欄管書奇字論文︒ ‑‑人人苦其彪雑無序之書︒ 平之注︒為之訓釈其義.. 発腰︒如金砂珠玉之蔵子深山大沢中︒ 者︒ 甚哉仲平之有功干此書也︒﹂. ところで︑﹃管子﹄と﹃周官﹄とは表裏一体のものである︒. だか. の疑問とする二十五条について︑息軒に質問しその是非を問うた0. ら︑﹃管子﹄をうまく活用すれば︑世の中をよく治めることができ る︒ ﹃管子﹄をうまく活用しなければ'﹃周官﹄も民を苦めることに. 息軒もこれに誠実にそして率直に答えた︒. 明治三年版の﹁序﹂に︑. なろう︒安井仲平の﹃管子纂詰﹄を読む人があれば︑落ち着いた.
(7) 安井息軒の著作. 而駁其非︒. 至易見者︒必標其名︒. 明示していることである︒. 蟻子亦悪 作抄 蛾人 子美 ︒也︒﹂へと﹁凡例﹂にある︒. ﹁凡書中脱誤疑義︒. を提示した‑疑問を投じた先人がいる場合︑息軒は必ずその作者を. 又十有人︒い ﹂ま へ一 とつ あは る' ︒ある文章を引用した‑'文章や語句につこいこてでへは新'説 是とするもの. ﹁応序所論︒取其是︒ 息軒が是と非とするものそれぞれ一つ示しておこう︒ 我字疑義之誤︒. 言偽而弁︒謂借明弁︒ 此以下即上文文裸礼義而居之者也︒. 以変乱人之辞︒. 礼王制篇︒. の議論や解釈が多‑引用されていることからも明らかである︒. 衝業O 息軒の﹃管子纂詰﹄が'いかに優れた注釈用 書其 で臣 あ者 る︒ かは︑現在の (﹂) 中国でも高‑評価されて若 いる郭沫若・聞l多・許経過﹃管子集校﹄へ (S) 馬非百﹃管子軽重篇新詮﹄︑黍期鳳﹃管子校注﹄などの中に︑息軒. の也 注︒ 釈書にいえることである︒ 集韻巧言. 非としているのは︑﹁う弁し以た弁ことは'﹃管子纂詰﹄に限ったことではなく︑息軒のすべて. 仁者人也︒. は例えば'﹁有雑礼我而居之﹂の条で︑﹁応宝時云︒ 春秋繁露︒. 応説拘是︒﹂へとある︒. 衡案O義我古同音︒ 者︒ 声之誤也︒. 六︒ 骨論人君所以駕御其臣︒ 応説未是︒﹂へとある︒. 辞﹂の条で'﹁応宝時云︒ 下弁字疑訓為変︒. 以為弁者之過︒文義不貰︒. ﹃管子集校﹄は︑四十二種にのぼる﹃管子﹄関連の研究書から'. 一つは'﹁物狙裸嘗著. 諸説を選択し集成して新しい解釈を施したものでへその四十二種の. ﹁凡例﹂については三点ほど述べておこう︒. 読智子︒﹂︑という箇所である︒言うまでもなくへ狙裸には﹃読韓非. 中に'日本人のでは︑猪飼敬所の﹃管子補正﹄と安井息軒の﹃管子. 同著﹁引用校釈書目提要﹂に'猪飼の. 説解簡要へ. 安井頗自負︑然較之猪飼彦博︑相懸遠甚︒﹂へと記. ﹃読書雑誌﹄(王引之との共著)がある︒. している︒洪は洪膜燈へ王は王孫念へ前者に﹃管子義証﹄へ後者に. 以漠文通体施注︒. 息軒の﹃纂詰﹄についてはへ﹁日本元治元年(清岡治三年)刊本へ. 頗多掲発︒此書刊行在憐圧諸家著述之前︑似為清代学者所見︒﹂へ. ﹃補正﹄について︑﹁日本寛政十年(活着慶三年)刊本︒. 纂話﹄の二冊が入っている︒. 子﹄へ﹃読萄子﹄︑﹃読呂氏春秋﹄といった著書がある︒ だが'果たし. 未其業ヲ卒へズ︒﹂とあ. 狙裸の﹃経子史要覧﹄﹁子要覧﹂. て狙棟に︑息軒がいうように'﹃読管子﹄という著作があったかど うかへ筆者は寡聞にして知らない︒ の﹁管子﹂のところに'﹁予管子考ヲ編ス︒. り︑﹃管子考﹄を編纂していたことは間違いないoしかし﹃管子考﹄. ﹁適用. 同文章に. が完成し刊行されたのかは分からないoしかし︑租裸は﹁朕管子﹂ という租棟の管子観を知る上で重要な文章を書いている︒ ついては何れ触れる機会があろう︒ 次は︑適用賢編﹃管韓合刻﹄についての息軒の評である︒. (七)に︑猪飼敬所と安井息軒それぞれの注釈書についてのより詳. 然の 参最 考初 其に 説' ︒郭沫若の﹁叙録﹂があるが︑その さて'﹃管子集校﹄ しい説明と評価がなされている︒. 正其脱誤幾為全書︒. 少所発明︒安知其誤改哉︒﹂このようにへ﹃管韓合刻﹄に対する息軒. 賢校管子︒自云所改三万余言︒. の評価は低い︒. 至. 此作勿. 先儒有弁識之者︒ 錐. 殊.
(8) ﹁日本学者猪飼敏彦博字文卿︑所為管子補正刊行於寛政十年へ即. 馬之数﹂へ此突言﹁策乗馬之数未尽也﹂へ於文失序︒. ﹄元材案‑安井. ﹁管子軽重十四﹂にある﹁其余言能外斬首者﹂の﹁外﹂について0. ‑‑﹂. 説是也︒張︑郭両氏説骨非︒. 説解離甚簡略へ而可取之処頗. 清嘉慶三年(公元一七九八年)︑較洪瞭燈︑王念孫諸氏著述之間世 為早へ善能掲発疑賓而予以慎重解答︒. ﹁安井云‑﹃外へ出列迫敵也︒ ﹄‑‑郭沫若云=﹁外﹂即﹁能﹂字草. 書之誤︒蓋原本作﹁能﹂︑別本誤為﹁外﹂︑校書者不察而並存之︒﹂. 以海外学者能探入. 独到'殊覚難能可責︒. 元材案‑安井説是︒﹂. 多︒ 王氏父子乃丁士滴之説毎有与之不約而同者︒. 猪飼之後安井衡字仲平者著管子纂話へ刊行於元治元年︑即清岡治. 目﹂にあるように︑日本人のものでは'猪飼の﹃補正﹄と安井の. が﹃管子集校﹄に多‑引用されているにも関らず︑必ずしも高‑な IS) い︒ だが︑馬非百の﹃管子軽重篇新詮﹄‑これもへその﹁参考書. このようにへ郭沫若の息軒の﹃管子纂詰﹄に対する評価は'同著. 問︒﹂. 早巳輸入中国︒ 猪飼之管子補正是非為清代学者所曽兄へ則頗為疑. 且有給芥遺珠之嫌︒ 安井説多為戴望管子校正所採録へ足徴纂詰一書. 井其識見有上下床之別︒ 安井書経亦徽引猪飼説へ但僅其一小部分︑. 居処有礼︑故長幼弁也︒ 以之開門有礼へ故三族和也︒﹂‑‑顔昌暁. 制度︒ 伊知章云⁚﹃三族へ謂農︑商へ工︒. について︒﹁安井衡云‑﹃三族﹄︑父族'己族へ子族也︒. 拠'何誤︒﹂. ついて︒﹁安井衡云‑﹃体﹄猶親也︒. ﹁管子埠吉第十二﹂にある﹁達者以礼へ近者以体︒﹂︑の﹁体﹂に. が多数見られる︒ その二二を示そう︒. の引用が多‑'しかも︑﹁安井説是﹂︑﹁安井之説有拠﹂へといった評. 費潮風の﹃管子校注﹄も'敬所の﹃補正﹄︑息軒の﹃纂請﹄から. ﹃纂詰﹄の二冊から多‑引用している‑には︑郭沫若説を非とし安. 云‑﹃三族﹄謂士与農与商工也︒﹂‑‑期鳳案⁚当時四民世代為恒. 然猪飼之与安. 井説を是とするところがいくつもあ‑︑ここにその二へ三を以下に. 産へ故民性因へ安井説是︒﹂. 三午(公元一八六四年)へ後於猪飼之書六十有六年︒. 示しておこう︒. 次に﹃戦国策補正﹄だが︑これについては簡単に見ることにす. る︒ ﹃戦国策補正﹄は'大正四年刊の﹃漢文大系﹄十九巻に収録さ. ﹃制﹄謂守. ﹄へ張侃給云‑‑⁚﹃以之. ﹁管子君臣上第三十﹂にある﹁民性因而三族制也︒﹂の﹁三族制﹂. 何如埠云‑‑‑0. ﹁管子軽重二にある﹁策乗馬之数求尽也﹂の条の﹁求﹂につい. れた横田惟孝の﹃戦国策正解﹄に附刻されている︒. ﹄張侃輪云⁚﹃此上菅. て︒ ﹁安井衡云‑﹃﹁求﹂当為﹁未﹂字之誤︒. はもと貴重烈本の篇次に従い摘解したものであったが︑横田の﹃正. 解﹄に附刻するためへ﹃正解﹄に従って﹁考異﹂の後に載せてある︒. ﹃戦国策補正﹄. 子未言策乗馬へ‑‑0 ﹄郭沫若云‑﹃自﹁桓公日善哉﹂以下至﹁高. 蓋下文始言﹁策乗. 下之策不得不然之理也﹂八十四字(﹁管子日﹂三字在内)へ当在本篇 之末へ承接﹁此有虞氏之葵乗馬也﹂へ錯簡於此︒. 安.
(9) 安井息軒の著作. ﹁東周﹂亦 ︑租 ﹁就 西緒 周︒ ﹂﹂ のへ 両と 篇あ かる ら二︑三を摘示しておこう︒. み取るという息軒の古書注釈の基本姿勢は貰かれている︒. 伝論語補疏︒以次上梓︒. ﹁相国将不欲﹂(﹁東周﹂)の条を'息軒は次のように注釈してい. 明治三年刊の改定版﹃管子纂詰﹄の﹁序﹂の中に'同年﹁至八月左. ので'同年末頃までにはう﹃戦国策補正﹄も︑大部分できていたか る︒ ﹁不欲︒. 而詩書周官国策之属︒. と思われる︒. 於王︒ 故之将不欲︒﹂因みにへ横田の﹃正解﹄では︑﹁将不将恐街﹂. いま'. ﹁言田文封. 心不欲往︒. ところでへ横田の﹃正解﹄は飽彪本に拠っているので︑﹁西周﹂. となっている︒. 必言将者︒. から始まっているが︑高誘本に拠っている息軒の﹁補正﹂は﹁東. ﹁産以盆強豪﹂(﹁東周﹂)の条は'こう注釈している︒. 足臭︒. 周﹂から始まる︒ しかし息軒は︑飽彪が﹁西周﹂を﹃戦国策﹄の最. 王憂之︒. 猶忘故主之恩︒﹂横田の﹃正解﹄では︑﹁産﹂は ﹁賛﹂の誤‑だとしている︒. されて称 い成 る周 ︒為 ﹁東 欲周 得︒ 周之待︒ 必 飽下 彪一 臨之 於字 王以 城間 之之 名︒ ︒浅之為丈夫︒. 欲得得周也︒. 為浅丈夫也︒. 以. 而敬王以. 成周周之﹁ 下秦 都欲 ︒持周之得︒ 必不攻貌﹂(﹁西周﹂)の条は︑以下のように注釈. 而其余党猶潜伏王城︒. 於藤︒ 其恩渥臭︒. 王子朝出奔楚︒. 初に持ってきたのを﹁大謬﹂であるとして︑以下のように批判す る︒ ﹁敬王四年︒. 故高誘本以東周為首︒. 称王城為西周︒. 晋城成周以徒︒ 詳見於昭二十三年及三十二年左伝︒ 在王城之東︒日周室分治︒ 下十五王︒皆居東周︒. 小人為国家也o此之謂O 今謂 従之 高也 本O ︒言 ﹂秦 こ待 こ得 か周 ら国O然後攻他国o未得. 乃大謬也︒. 西周為正統所在︒ 改以西周居臼︒. 訓為保︒. 周︒ 必不攻魂也︒. 出紀行文. に次いでへかなり多‑引用されている︒. 孝 国策 而の 今﹃ 猶戦 存国 之策 者正 ︒解﹄へ張文煙の﹃戦国策譜楯﹄︑戸埼允明の﹃戦 亦以便於質 考﹄へ関修齢の﹃戦国策高注補正﹄へ鈴木圧の﹃戦国策百一集﹄など. についてはへまだ詳し‑調べてはいないけれどもへ昭和三年刊の牧 (S) 野謙次郎の﹃戦国策国字解﹄には︑日本人のものとしては'横田惟 両地彪以西周為王︒. その後︑息軒の﹃戦国策補正﹄が︑どのように評価されてきたか. 飽改待為持︒. も︑息軒の注釈がいかに厳しいものであったかが分かろうというも. 非周王也︒. 即ち︑﹁戦. のである︒もっともこれについては︑横田惟孝も知っていたのであ. 国策正解凡例﹂に︑﹁東西周為列国︒. 呉師道弁之詳臭︒. るが︑﹁質訪﹂に便利にと︑飽彪に従ったといっている︒. 係之安王赦王︒謬臭︒. 訪若︒﹂︑とある︒ ﹃戦国策補正﹄には'飽注本の校正の誤りや誤脱 を指摘した箇処が多‑見られる︒. 違って︑語句の考証に徹していて︑自らの意見を述べるところは殆. 安井息軒の諸著作の中で︑古典の注釈書に次いで大きなウエイト. ﹃戦国策補正﹄は'﹃左伝輯釈﹄︑﹃論語集説﹄︑﹃管子纂請﹄などと. どない︒しかし︑同﹃補正﹄にも︑文章の流れを重視し'行間を読. 而今. 請. 凡古書当先而. 小便. 非.
(10) 於郡の古にし跡見てんと長月の晦日ばかり散はつる紅葉を幣と手向. それは息軒が︑生来'山野を. を占めているのが﹁紀行文﹂である︒. れている︒. 路の錦とはなしぬ︒﹂この後へ先輩や友人などの発句や漢詩が付さ. て立出けるを多の大人連詩発句もて馬の儀し玉ふをここに記して家. 息軒の学問的. 験渉し︑名勝・旧跡を訪れるのを好んでいたということもあるが' また︑息軒の学問観とも深く問っていたからである︒. 本文は息軒が作った漢詩へ和歌︑俳句から成っている︒. 立場は考証学ではあったけれどもへそれは単に読書のみで事足れり とするものではなくへ読書は現実によって確認され且つ裏づけられ. その中から'漢詩一︑和歌と俳句それぞれ二tを示しておこう︒. ここでは. るべきものだった︒ そして現実を知ることが︑今度は'読書を鋭 要する. 浮舟城. する︒ 現実の社会を広‑知るには'旅行するに如‑はない︒ に息軒にとっては'読書と旅行とは不可分・一体のものであった︒. 草木自相親. 即都於郡也吾藩世々所都也慶長年中移都鶴城之後小嶋津. 城頭懐旧日. 百年露独新. 多‑の優れた紀行文が︑息軒の筆から生まれたのはそのためであ. である︒以下では'同著を中心に︑息軒の紀行文を︑年代順に見る. 八陣雲空起. 社稜奈無人. 民有之故今為櫨余不欲顕言之故瞥之O. ことにしよう︒. 山川錐設険. 涙痕暗満巾. る︒ その中でも'東北を訪れた時の紀行文﹃読書余適﹄が最も有名. ﹃志濃武草﹄は︑文政三年九月末︑大阪の篠崎小竹への入門を前. 臣有悠然志. 常盤なる物とな云そ松か枝も過し昔の秋の色かハ. るを見て読りける. 三乗四葉二殿作せし跡とおもほゆるに桧のいと暗う生茂れ. にへ息軒が故郷の思い出にと︑飲肥の旧祉都於郡(現西都市)に旅 (8) 行した時の紀行文である︒ それは'清武中野を出発して源藤を通. はじめに'兄清. ‑'都於郡を訪れ︑夏口(高鍋町)まで行き︑戻ってきた二泊三日 の'短いが息軒の単著としては最初のものである︒. 渓の序文﹁懐旧志序﹂が載っているが'先ず最初のところを摘示し. 佐土原と財部かあわいの野を行に'犬鶏声絶て海の音折. ょう︒ ﹁今立庚辰之秋家弟正遊子都於郡子夏口其間所得詩歌若干首 名目懐旧志請題言簡端予乃謂之目名者実之標也名而違実不可以為名. く間へけれハ 秋の野や絶て又聞海の音. 也夫都於都者吾藩之櫨也而汝臣隷也臣隷而遊其櫨想旧事而視今日 ﹁文政 三年の思ひ出に都. 誰能不発桑槍之嘆哉︒﹂続いてへ﹃志濃武草﹄がこう始まる. 三といふ年都に物学にまからんと思ひ立事侍り︒.
(11) 安井息軒の著作. 逢ひけれハ. 狙公か昔Lに引かへて朝三暮四の飢を狙に助らるゝ男に行. しても知られ︑更にへ万葉集や古今集などを尊んだ文人であった︒. といってよかろう︒ 槍洲は'考証学に立つ儒者であ‑'また俳人と. つまり'槍洲の儒学は︑言葉︑詩︑従って情を重視する儒学だった. 是大ナル誤リナリ0聖人ノ. 秋風の吹日もあるそ猿まはし. ﹁詩作ハ無益ノ事ナリ上京フモノアリ︒. 今ノ詩ハ猶古ノ詩ノ如シ︒. のである︒ 槍洲はその﹁随筆﹂の中で以下のように言っている︒ 渚の活らなるに打出にたれハ被いとあれて風冷まし折しも. 教ニモ︑詩書トアル中ニモ詩ヲ首トス︒. 況'詩ヲ学ブモノバ︑自力ラ温. 且自. ﹂息軒はその後︑漢学へ. から受けた学問を通して継承したものだったのである︒. 息軒の儒. そしてこうした特徴は'息軒が幼少・青年時代︑父. ころにあった︒. ところにあるが'しかし他方では︑人間の禍福や感情を尊重すると. 学の特徴は︑後に詳し‑述べるように'何より法や制度を重視する. は'生涯︑息軒の思想の土台を規定していたのであった︒. 作るということは殆どな‑なったが︑父・槍洲のこのような考え. と‑分け経学に全力を傾注するようになるので︑和歌や俳句などを. ラ詩ヲ作ラズンバ'詩経ハ若ゾ解スベケン.. 柔敦厚こシテ言語都僅ナラズ'君子風雅ノ徳ヲ知ルニタレリ︒. レドモ︑情ヲノブル一ナルガ如シ︒. タトへバ日本ノ歌ノ万葉集ト古今集ナドト︑時こ随テ歌ノ風ハカバ. 古今ノ違ヒニテ詩ノ風ハ異ナリトイヘドモ'情ヲノブル事ハ同ジ'. 蓮の沖よりあま小舟の漕たるを見て読る 海人小舟八重の塩路をこき分て出来し神の昔おもほゆ. ﹃志濃武革﹄には︑後年の息軒の考証学者としての立場が既に見. その綾部氏に宛た書簡の冒頭. えている.息軒のこの旅行の目的のlつは'高鍋藩明倫堂教授の綾 部氏を訪れることだったといわれる︒. にこうある︒﹁僕清武之阿蒙聞足下大名欲l奉酒海者久夫今也偶道. ﹁一人夜灯の微なるに書. 貴国乃不措愚劣便某氏紹介庶幾一連素志軍‑‑︒﹂そして漢詩が続 きへその後︑息軒はこういう︒ ﹁財部藩学者卒唱朱学不解文章乃日 玩文喪志綾部氏頗脱其範囲者也故訪之︒﹂ ﹃志渡武草﹄は'次のように終っている︒. 読み居たるに家の大人来玉ひて更てたに悲しく衷なるは秋の日な りけり三年の夕暮れいかて忍んてそのたつきともならん物達てんや など打わらひ玉ひいれば此巻書て奉‑ぬ. 天保二年へ息軒は藩命を受け︑九州を回って'各地の風俗や政事 (S などを観察し'﹃親風抄﹄を著して︑藩主に提出した︒ ﹃観風抄﹄は. 故郷の蒼端に生てふ忍草夢やはかれん年はてぬとも︒﹂. 散逸して存在せず︑その草稿と覚しき﹃閲見録﹄のみが残ってい. る︒ ここでは︑その中から数節を拾っておこう︒. ﹃志濃武草﹄は小冊子ながらへ息軒の最初の単著でありへその意. そし. 味で息軒の学問の出発点を示している重要な著作といえる︒. てへ息軒のその出発点は'父・槍洲によって定められたものだった.
(12) o﹁高鍋は︑士人の頼母子を禁ず'廉恥を養の道也︒ 母子は'禁したき物也︑甚だ便利なるゆへへ其害亦甚し︒﹂. ‑‑総て頼. o﹁肥前へ筑前は'地勢甚だ相似た‑'風俗は甚だ殊なりへ肥前 の人は我慢にして'自ら高ぶりへ金銭を便ふこと︑芥の如し︑ ‑‑筑前の人は'織奇にして'倹約に務むう‑‑上向は至て柔順 なれ共︑底意の測り知‑がたきこと︑法に過ぎた‑︑是皆政事の 移す処なるべし︒﹂ o﹁子年の飢健に︑米の価次第に貴なる頃︑隣国は民の難義を慮 りて'米価を下たるに'久留米は殊更に高‑買ふ︑是に因て隣国 の売米みな久留米に集る'其後米益高直に成て一升百文以上に至 り︑隣国の民は大に苦みしか共へ久留米は始め米衆たるゆへ︑民 間頗る究た‑︒﹂. それ. 息軒は同紀行文の草稿(初稿. 略はいうまでもなく︑蘇子曙︑蘇東披︑蘇拭のことであるO (3 ﹃読書余適﹄は'既に述べたように'天保十三年の七・八月に' 東北旅行を行った時の紀行文である︒. 本﹃読書余適﹄)を書き終えた後へそれを友人の木下単相と塩谷岩. 陰に見せ批評を請うた︒ 辞村と岩陰が批評した箇所がかなり多かっ. たので'息軒も大部修正・加筆を施しへ笹底に入れておいた︒. が陽の目を見るのは︑それから五十八年後の明治三十三年で︑漠詩 集﹃睡余漫稿﹄と一緒に刊行された︒. さて'同著には'塩谷宕陰の﹁送安井仲平東涯序﹂と清人・黄違. 憲の﹁読書余適序﹂が付載されている︒ 岩陰の﹁送安井仲平東涯 (S) 序﹂は﹁生涯﹂のところで既に触れているので'ここでは︑息軒が. 最後にこうある︒ ﹁今立季夏︒. 即ちへ同序の. 総O瀞干水府︒観名公賢佐之所経絡︒. 歩いた地を点出しているところだけを引いておこう︒. 羽織︑小倉の単袴を著し'竹皮藁等の草履を繋ぐこと常な‑︒﹂. 洲・之勝与衣川エロ同館・之陳蹟︒ 壮其意気︒. 仲平欲済刀禰河︒. O﹁薩州は︑近来横政多し︑戸別銭︑人別銭︑牛馬へ鶏卵等に至. o﹁能本は︑士の風は祖豪なるを貴ぶ︑乱髪に汗臭き衣裳へ短き. る迄へ菅税あり︑又城下並に外城毎に︑第一富を始めし故へ民間. て日本に滞在︑その間へ日本の歴史や社会などを研究した︒. 日本関. 黄違憲は'日本滞在. ﹃日本名家経史論存﹄へ﹃日本文章規範﹄へ. 連の著作には﹃日本雑事詩﹄や﹃日本国志﹄などがあるが︑また︑ 日本人の漢文を編んだ︒. ﹃日本人大家文読本﹄などの評者もしている︒. 中へ日本の多くの政治家や知 想識 見人 其と 人交 ︒流を持ったが︑息軒の周辺で. は'中村正直︑亀谷省軒︑桧本豊多など為 と之 交浩 っ嘆 た︒ o﹂ ﹁子 読書余適序﹂ 而人与事相去天淵︒. 万里之外︒. 然後東大陸奥︒. ますく困窮す︒﹂. (8). 黄道憲は清末の外交家であと﹁詩界革命﹂を行った優れた詩人 1‑":i である︒明治十年から十五年まで︑駐日公使・何如埠の書記官とし. 天保九年六月︑妻子を連れて江戸に移住した時の﹃東行目抄﹄に. 寄文雅趣︒. ﹁‑・適憶子瞭赤. ついては既に上で触れたので'ここでは︑七月十六日の一節のみを. 壁之醇︒正是此夜︒. 或勝於彼︒. 引用し︑その全体を推論してもらうことにする︒. 在黄州︒水月之美︒. 登還. 縦. 以益為進学之資. 予此行猶東披.
(13) 安井息軒の著作 n. 学既深︒即随手技拾︒. 不必求工而書自足伝︒. にもあるように︑同序は粉本豊多の求めに応じて書かれたものであ. 師之道管棄履︒ 尚什龍珍蔵之不暇︒. 況於其書︒. る0 但しその序は︑﹁大清光緒七年﹂へ即ち明治十四年に書かれてい. 其宜也︒﹂黄違憲は︑息軒と松本豊多などの弟子たちを疎に浮べな. という︒しかし明治十年へ日本の東京にやってきた時には︑息軒は. 黄道憲は'中国にいた時既に安井息軒という名前は聞いていた︑. がら書いているのであろう︒. る0 松本が黄道憲に序を依頼したのは︑勿論︑黄道憲が息軒を読ん ﹃日. ﹁日本の漢学者﹂. でいて息軒を高‑評価していることを知っていたからである︒ 本雑事詩﹄にも'息軒の名前が数箇処で出ている︒ のところでは'息軒は古学派に属する漢学者と出ており︑息軒に'. 以発. 従って息軒に会うことはできな かった︒﹁余未渡東海︒. 亡っていて︑既に二年経っていた︒. ている︒ またへ﹁日本漢学者の文章﹂では︑荻生狙裸や頼山陽の名. 没既二年︒不及相見︒﹂息軒の著作を読むと'学問の骨格は大きく︑. ﹃左伝輯釈﹄や﹃論語集説﹄などの経書の注釈書があると紹介され. 前は中国人で知らない者はいないが'塩谷宕陰へ安井息軒︑斎藤拙. 思索は精級であって'殊の外清国の老儒たちの学風に似ていて︑本. 物茂卿頼子成輩︒. ﹁余読必 其著作︒. 既聞安井息軒先生之名︒. 堂へ古賀清里なども非常に優れた文章家で'それぞれ一家をなして. 当に安井息軒は日本の第一の儒者といってよ‑'多分へ荻生狙殊も 頼山陽も比肩できないであろう︒ 朝 又諸 往老 往之 綴風 為︒ 雑信 文為 ︒日本第一儒者︒. それ. 最近︑弟子の桧本豊多氏. がまたやってきて︑息軒の﹃読書余適﹄を出して示された︒. 息軒の書は世間で盛んに読まれている︒. は︑息軒が塩釜や桧島などに旅行した時の紀行文で︑同氏が手写し. ﹁従古碩学之士︒. いるtと述べている︒. 而出其余力︒. 黄道憲の﹁序﹂は︑最初にこう述べている︒ 有二三著述為生平精意所寄者︒. 揮事理︒考証古今︒﹂昔から︑碩学も﹁余力﹂から'日頃自分が関 心を持っていることを書いて'二︑三冊本を残している︒. 安井. 既風行於世︒. また. 保存していたものだ︒ ﹁先生之書︒. 時々へ事理を述べへ歴史を考証した‑﹁雑文﹂を作っている︒ 息軒もこうした碩学と同じように'﹃読書余適﹄を綴ったのだtと. 氏 然. 承 復学 挙之 其士 読︒ 書余適見示︒. 毎欲 蓋先生塩桧紀醇之作0両粉本氏手録而存. 黄違憲はいうのであろう︒ ﹁在作者戎不甚愛惜︒. 断非浅植者流所能也︒﹂しかしながら︑ 之者也︒﹂それを受けとって読んだが'事物の記述はまことに核心. を得たものになってお‑'言葉も必ず雅言が選ばれている︒. 為之永其伝︒誠以出自名儒︒. 作者としては︑そうしたものを︑非道く愛惜していた訳ではない︒. 誓えるならばへライオンが兎を捕えるようなもので︑﹁醇戯﹂だと. 龍に﹁ 誓蓋 え博 る雅 な君 ら子 ば︒ へ画筆の勢いがあま‑にも生き生きしており︑煙. またこれを画. これを. だが弟子たちは先生のそうしたものを永‑後世に伝えたいと望む︒. はいっても全力を尽さなければできないことである︒ また︑こうもいう︒. 従ってそうしたものは﹁名儒﹂から生まれるのであって︑決して浅 儒のなし得ることではない︒. 積. 至親所受業之人︒ 即. 其 固. 逮来江戸︒ 則. 体大恩精殊. 恐. 頃.
(14) I4. 節︒ 何其偉︒. 而彼則茅櫓不勢︒. や雲が変滅しているのでへその全体を見ることはできないが'鱗一. 此則金碧煤煙︒. 鼓腹以楽︒. 鳴 時. 亦 即. 廟庭遇丹伯. 山枚海陳︒. 錐日源戯︒. 昇平︒ 二百五十年︒. 可不恩其所自乎哉︒. 与余相識‑. つ甲一つながめるとそれが龍だと分かる︑といったようなものであ. 水以尽其性︒生響 今如 之獅 世子 者縛 ︒兎︒. 而一鱗一. 択言必雅︒. 瀞於嫌堂松崎先生之門︒. るO﹁余受而読之︒紀事必核︒. 弘越芝田人︒十 不七 得年 親前 其. 全体︒. 煙雲変滅︒. 未嘗不用全力︒又響之画龍者︒. 日光の東照宮と伊勢神宮の異同が筒潔に表現されていて興味深い0. 才能のある者も自ら掩い隠. 丹羽伯弘は新潟出身の桧崎懐堂の門生で'息軒に﹁丹羽伯弘墓場 (8)(Si 銘﹂︑﹁蚊丹羽伯弘上樫宇林祭酒書﹂がある︒ 同﹁墓褐銘﹂の中に. 今松本氏促余序此. 子. 甲︒ 亦望而知其為龍也︒﹂学問の道は︑もとよ‑その基盤がどうな っているかを見るだけだと言ってよい︒ すことはできないし︑才能のない者も︑不意に襲って奪うことはで. ておく︒﹁文政丙戊へ訪懐堂桧崎先生於羽皐之荘'有閑面巨限厳然. その冒不 頭能 の者 数亦 行を録し. 対巻者へ客至一拝復読'其容益粛︑異而間之へ先生日︑是為越人丹. 能者不能も 以へ 自日 擦光 ︒で会った時の事が回想されている︒. 不能以襲取︒信哉︒﹂. 固視其根底何如︒. 先年へ友人に﹃息軒遺稿﹄に﹁序﹂を書‑ようにと命ぜられた. 羽伯弘︑子求良友乃其人也へ時予学術未殖'不能究其所道へ但見年. きない︒﹁学問之道︒. が︑自らの才能の足らざるを深く悦じて︑筆を執れども進まず何度. 長気焔通人︑特貌敏之而巳へ越十七年へ北港於奥︑途拝日光廟︑適. 分かる︒. 遂取早路︒. 右寺. 呼変. 如菱裁 乃其 魂半 然︒ 一名布有. 丙濃 如而 合丁 符淡︒. 入門行杉l町余︒. 堂の人を見る目の確かさに'息軒がいかに尊敬へ敬服していたかが. 動︑始服先生知人之明也︑︒﹂丹羽伯弘の優れた人格へ桧崎懐. 伯弘登森へ而還見於廟席へ逐与倶行止者両昼夜へ聴其言談へ察其挙. も筆を潤いたO今回へ桧本氏に﹃読書余適﹄の﹁序﹂を促されたの で︑しばらく恐れおののいた後で筆を下した︒. 昔︑武王が孟説と重. い鼎を上げ競って'誤って鼎を落して膝蓋骨を折ったという故事の ﹁往蔵余友曽以息軒遺 執筆而復摘者再︒. ようにへこの﹁序﹂がならないかと恐れる︒ 文命余序︒余深悦才学不称︒. 瀞瑞巌寺︒ ﹁二十九日へ陰︒. 猶自覚有挙鼎絶勝之態也︒﹂黄違憲の﹁序﹂. 編︒ 憶憤然而後下筆︒. 六〇堂字壮麗︒ 檀彫棉丹.. 高‑. ‑‑桧島赴富舟. はここで終っている︒ 尚︑最後のところの故事は'﹃史記﹄の﹁秦. 是日陰︒慮蓬底無所見︒. 長者龍臥︒. 群島衆於下︒. 加味︒. 多名書画.. 本紀﹂に出ている0. 山宵︒入門南面︒. 如鏡 後︒ 負重山︒. 則甲滅而乙生︒. 行一里余︒. さて'ここでは﹃読書余適﹄の七月八日と同二十九日の記述から. 分. 状者︒既神 而聖 乍所 雨見 乍︒ 晴︒. 数枝︒水湾其間︒. ‑‑而山塀斗入於患者︒ 三面帯渓︒. 以為一巨島者︒ 換然四散0時為数島.. 熟考山河形勢︒. 拝烈視及献祖廟︒. 抄録しておこう︒ 彼は日光へ此は桧島の記述である︒ ﹁八日︒ 晴︒. 城也︒予嘗拝伊勢天祖廟︒.
(15) 安井息軒の著作 I〜. 湿雲離飛︒. 則全然復出︒ 桧ハ 島此 之ノ 勝如 ︒キソト︒ テハ餓死人アル﹁稀ナリ︒ 如何ナレハ奥州. 事ヲ考へシこ︒ 皆政事ト風俗ノ致ス所ナリ︒. 万状︒少葛風蓬然而起︒ 此臭︒雨之功亦偉哉︒﹂以上だけからもう息軒がいかに優れた文章. キ﹁土ノ如シ︒ 仙台侯国ノ度支ヲ助ケントテ︒. 冗テ.. 仙台ハ米国ニテ︒. 聞くところによ. だから体の病も善. 穿五大穴 いま. 只三町︒. ﹁晴︒. 許されたが'ついでに︑伊豆は. 奥力 州も養うことができ 読書する気. ‑凡. 大坂ノ豪商米屋ト云. 積り置キシ一年食ノ外こ余米ナケレ. 1倍l. 家であることが窺われる︒ 松島の千変万化する好景が実に活写され. ト分半ス︒仙台 既ハ 長夏 為物 微ナ 官シ 所︒ 馬︒ ハ撤 ︒ 暇別 一 米年 於ノ 盆磯 ︒僅こモ餓死多シ︒. ょう︒ そこで二路 十傍 日処 の処 暇二 を大 請ナ うた︒. ‑なろうLへ心も癒されるだろう︒. れば︑伊豆の風物は素晴し‑︑また温泉も多い︒. 鳴な 呼け 惇れ 臭ば ︒︑ ﹂世 こ間 の知 体ら 験ず にと よして人に笑れよう︒ 旅行し. 迫ってきた於 ︒歳 是月 比は 村路 建の 議往 ︒来のごと‑慌しく過ぎ去っていく︒. 以下のように言 此っ 至て 津い 頭る ︒︒ 先の東北旅行から五年余が経ち︑老いも. 息軒は弘化四年九月二十日から十月中旬まで︑伊豆地方を旅行し (8 た︒ 面 尾録 云の ︒冒頭で息軒は ﹃書 続仏 読語 書︒ 余適﹄はその時の記録である︒ 同記. あったことが改めて理解される︒. 今也天ニ幸ハ得︒ 餓 略死 窮ノ 其多 勝カ ︒リ ﹂シ 木モ 下尤ナリ︒ 磯僅ツツキテモ︒ ー.. ‑ニ 'ス ‑ル f法 しナキユヱナ 麦梁蕃薯又ハ稗等ノ夏物多ク︒ 米ヲ椎 ハ︒ リ︒﹂息軒の学問が︑﹁経済﹂(‑﹁経世済民﹂)を専らとするもので. マシテ申酉ト二年飢 東僅 為ツ 島, 形キ ︒タラン. ケ︒ 米屋二命シテ之ヲ江戸こ運漕セシメ.. 者二謀り︒国中ノ人口一年ノ食ヲ残シO其余ハ二石l両こ買ビア ﹁忽憶︒. ている︒. 未知能相肖否︒. 必終読之︒. 然少孤貧︒. 続けて'息軒は父拾洲のことを思い出し︑こう述べる︒ 先君子性好源.尤春巻於松島. 有事桧島者︒陣記俗乗︒ 此為某島︒此為某湾︒ 津村は︑このところに'﹁疾痛側但必呼父母楽之極亦然是至情. ﹁出官道︒. 也︒﹂︑﹁然別此源継述之道也︒﹂︑と評を加えているが︑蓋し適評で ある︒. 皆良民也︒. 亦皆気息掩掩︒. 壁額而答日︒. 高丈余︒. 七月二十九日の最後は︑悲惨な事実が記されている︒ 沿鳴瀬河而東︒ 多巨木塔︒ 一老父而間之日︒ 餓死如何︒ 日有倒戸三十五︒ 其存者︒ 而叢埋之︒穴二百五十八人︒. 仙台額こ入リシヨリ︒. るようにと命ぜられたtと︒辞こ尽シ難シ︒. 行倒レそ 十の 一命 人令 アに リ違 シわ ︒ず︑息軒は藩祖の事跡を残らず詳細に調査したよ. 如何程ノ飢嘩;う Uで テあ モる ︒︒例えば'九月二十九日の条にこうある︒ 西国こ. 其歳ノ難儀︒. ‑‑予途人二申藩 酉祖 ノの旧封であるからへその旧跡を詳し‑探訪しそれを記録して帰. ほど衝撃を受けたのであろうへ息軒は三十三年後も鮮明に記憶に留 涼I めていた︒ ﹃陸余漫筆﹄に以下のようにある︒ ﹁予三十三年前︒ 二遊フ︒是歳ハ子ノ歳ナリ︒. ル塔婆ヲ立テ︒申酉餓死ヲ弔スト云文字アリ︒ 飢僅ヲ間ヒシテ︒‑‑途人答テ云︒ 一朝此処ヲ通行セシこ︒ 此処ヨリ川端マテ︒ 此ヲ以テ察シ玉へ上京︒ 予大こ怪ミ︒. 熟ソ蓋. 其. 其. 日. 西. 為. 至. 我. 予.
(16) i6. 此地也︒特操旧病云爾︒. 無銘︒. 国史祐時公之襲封井賜葛美︒ (ママ) 荒廟廃寺︒破鏡折碑︒. 及与主人氏語︒ 則安祖宗之旧也︒ 無不根覚其所由来︒ 不可得而考︒. 始知臭 熱︒ 海 古之 人為 恨葛 有美 勝荘 情也 而︒ 無勝具︒. 予則無勝具得之︒. 按. 但興禅寺多. 不独塞翁 於馬 是也 尽︒ 心﹂ 探最 索後 ︒の文章には'息軒の人生観の一面がよ 俺︒ 而出 無て 有い 影る 響0 ︒. 骨刻. 況. 其. 老. 凡天下之事︒ 禍. 復旺. ﹁己未五月窃謂. 中不. 不知当時吊外唯有麻葛︒. ﹁今日崇倹之藩︒. その一つを摘示す. ﹃洗病自而 乗伊 ﹄豆 は山 病寺 気廟 療門 養楯 の屋 時瓦 の︒ 紀行文ではあるが︑学問と旅行を. 一体のものとする息軒の考えが随所に見られる︒. 古墓︒ 皆五輪塔︒ 九耀章︒与藩章同︒. ると︑八月十二日のところに︑以下のようにある︒. ‑‑﹂. ﹃続読書余適﹄は︑冒頭で述べられていたように'藩祖の旧跡の. 有五十辞表岳之令︒ 蓋用孟子之言也︒. 読書不通時勢︒. 川﹃ 沢江 天山 道余 .情﹄は'安政六年の七へ八月へ日光の川 人俣 難温 ︒泉に遊んだ. 此︒﹂ 請官以本年三月創築︒. 不能以築 禦石 寒堤 ︒於 故上 有流 五︒ 十非烏不暖之説︒. 探索と名勝の風景描写に多‑を費されているが'間々'儒者として. 鳴呼︒. ﹁渡迫門橋︒ I;・) 日野島民某好利︒. 合着十余歩︒異而間之︒ 将欲以塗上流︒為水田也︒ 則怒突衝激︒. の息軒の思想も漏らされている0 (!. 為此堤︒小媛其力O窄無所容.. 往々如此︒. 時の紀行文で 昭政 和利 十興 年於 に'漢文﹃睡余漫筆﹄とl緒に︑槍雲 求あ 其る 所︒ 往O (3) 堂から刊行され是 た亦 ︒不そ 可の 以冒 己頭 乎の ︒と ﹂こ 要ろ すに るこうある︒. 好民誤事︒. 此︒ 害必成於彼︒. 予性好江山而中年為俗官所覇不能窮其賞今老臭然余情未巳即宿疾不. 愈亦可以操吾心央乃決意上請賜五十日暇将以六月上旬発事故纏牽延. に︑事は目先の利益ではなく︑長期的展望に立って行うべきだtと いうのだろう︒. 至七月内外租安定以十八日発︒﹂この文章からへこの紀行文を﹃江 山余情﹄と称したその理由が分かる︒. 上文にあるように'息軒は七月十八日に家を出たのだがへその出. (S) ﹃洗痢自乗﹄は'安政三年八月十一日から'九月初めまで︑病気 江戸を出発し 療養のため伊加保温泉に遊んだ時の紀行文である︒ て︑蕨へ浦和へ王(大)宮へ揚(上)尾へ桶川︑鴻巣︑熊谷︑深. 遇田口文之自藤森大雅氏還也大雅触時詳下獄居六日発病請療於家得. 藤森弘庵は去年へ安政. 藤森大雅につ‑ い‑ て至 は六 へ月 永痛 井差 荷風. 允而独 其酷 事喜 末山 日水 可︒ 欄也︒﹂息軒の﹁遊従録﹂によると︑田口は'﹁処士 左膝名 蓋文 大之 痛︑ ︒字文蔵︑号江村﹂である︒. の﹃下質 谷之 叢話﹄二十八に'次のようにある︒. 五年﹁十月八日町奉於 行是 所往 に年 お個 い霞 て之 一気 道︒ の尋問を受け帰宅を許された. ‑. ﹁経湯島隊. 発日に︑偶然にも'田口文蔵と芳野金陵に会っている︒. 賜三十五日暇︒. さて冒. 谷︑本庄へ高崎を通‑伊香保に着いたのが八月十四日へそして九月. ﹁予性拙又少時好︒. 三日に江戸に戻る二十三日間のことが種々記録されている︒ 頭で息軒はこう言っている︒. 不允︒. 道過鮫橋︒ 将赴青山邸︒ 丙辰正月︒ 僅能行l里許O有言上州双岳温泉治痛如神者︒ 滅. 扶杖而歩. 諸友︒ 逐上書辞官︒.
(17) 安井息軒の著作 I7. ‑‑七月十三. 路奇険又為暴雨所洗殆無投足之地危而後能達但華厳港水勢浩大巌形. 奇怪勝於所聞達甚是足以償吾疲臭会大忍在坐日日光亦多寄境中禅寺. が︑今年に至って二月十三日に評定所に呼出された︒ 日二度日の呼出を受けた時には'駕龍に乗‑肩衣をその上に掛けて. 湖西一里有龍頭爆努巌一地数十丈怪巌直立支之裂為二港其一直下亦. 之港是為第一︒﹂. しかし同日の末尾の記述は'時代が激しく動いていることを垣間. 籍 此 可 知 ︑. 数十丈一別媛急従巌遼遠以下据巌頭而観之上下相承変態百出凡日光. 行った︒これは歩行することのできない病人が尋問を受ける時の礼 儀だといふことである︒﹂七月十三日から六日︑確かに十八日であ る︒ その日に弘庵は病気が再発したため許されて家に戻ったのであ ろう︒ 田口もその時手伝いか何かしたのであろうか︒. 見せている︒ ﹁来訪云廿七日得邸報魯夷軍艦七隻来泊横浜︒﹂. ﹁渡増穂又行田間道芳野叔. また同日︑芳野金陵とも偶然会った︒. 応 序 中 尚 提 及 一 人 へ 謂. 其 後 考 知 応 与 愈 同 年 成 進. ﹁ 安 井 衡 管 子 纂 詰. 惜しいことに﹃江山余情﹄は'八月一日で終っている︒. 応 序 之 代 筆 者 ︒ 是 則 剰 窺 諸 者 へ 如 非 応 宝 時 本 人 へ 則 必 為 此 ﹃ 同 学 生 ﹄ 也 ︒ ﹂ ( 同 へ 七 頁 ) 0 尚 へ 詳 し ‑ は ︑ 町 田 三 郎 ﹃ 江 戸 の 漠 学 者 た ち ﹄ ︑ 一 九 二 ‑ 三 頁 参 照 ︒ ( S )荻 生 狙 殊 ﹃ 論 語 徴 ﹄ ( ﹃ 日 本 名 家 四 書 註 釈 全 書 ﹄ へ 東 洋 国 書 刊 行 会 ) へ 六. 士 ︑ 且 同 籍 新 江 ︑ 而 同 治 上 海 県 志 即 同 治 五 年 応 任 兵 備 道 時 所 ﹃ 為 之 設 局 へ 延 礼 名 賢 へ 分 門 編 纂 ﹄ 而 成 者 ︑ 其 稔 纂 之 l 人 即 為 愈 梱 ︒ 応 ︑ 愈 関 係 密 切 ︑ 愈 書 稿 本 当 応 及 其 幕 僚 所 曽 見 ︒ ﹃ 嘗 挙 以 質 同 学 生 声 望 慈 ( 子 銘 ) へ 再 三 南 柏 へ 似 無 以 易 之 ﹄ ︑ 余 疑 ヂ 或 為. 後 附 有 応 宝 時 長 序 1 篇 ' 署 年 為 同 治 六 年 ( 公 元 一 八 六 七 年 ) ︑ 官 衝 為 ﹃ 江 蘇 蘇 桧 太 兵 備 道 ﹄ ︒ 序 中 於 管 子 書 有 所 論 列 ︑ 以 関 於 移 磨 篇 者 為 多 へ 然 其 所 言 与 愈 秘 説 全 同 ︑ 有 時 甚 且 l 字 不 具 o 考 愈 械 諸 子 平 議 姶 刻 於 同 治 六 年 ︑ 刻 成 於 同 治 九 年 ︑ 間 世 較 後 ︑ 初 頗 致 疑 ︒. 黒 江 一 郎 編 ﹃ 息 軒 先 生 還 文 集 ﹄ ︑ 六 六 1 七 頁 ︒ 応 宝 時 の 二 十 数 条 に 及 ぶ 質 問 は ︑ 実 は ' 清 未 の 著 名 な 考 証 学 者 ・ 愈 樋 の ﹃ 諸 子 平 議 ﹄ 巻 三 ﹁ 管 子 ﹂ の 項 へ ﹁ 修 摩 篇 ﹂ の 部 に あ る の と 殆 ど 同 じ で あ る た め へ 応 宝 時 が 愈 越 の を 盗 用 し た の で は な い か と い う 疑 い が あ る が ︑ 時 間 的 に 見 て へ 盗 用 は 不 可 能 で あ る か ら ︑ 応 宝 時 の ﹁ 序 ﹂ に 現 わ れ て い る ﹁ 声 望 惑 ﹂ が 盗 用 し た の で は な い か と も い わ れ る o ﹃ 管 子 集 校 ﹄ の ﹁ 叙 録 ﹂ の 中 で 郭 沫 若 は 以 下 の よ う に 述 べ て い る ︒. 果展墓於金原而還也手持傘足穿毒無借色目云天明発金原距此五里其 健可驚臭︒﹂芳野叔果は芳野金陵のことで︑文久二年︑息軒と塩谷. 間中は藤田. 岩陰と共に︑昌平華僑員になった儒者で'息軒が最も親しく交った 友人の一人である︒ 七月二十日には︑間中禎卿︑秋場士徳に会っている︒. 東湖に学んだ人物であ‑'秋場の父は藤森弘庵の弟子であった︒ ﹁間中禎卿秋場士徳来訪皆好学有才気禎卿本州岩井人十七年前嘗一 相見自云六月十日夢予訪其宅‑‑士徳之父為本邑長嘗賛於藤森弘庵 士徳亦襲其業︒﹂ 七月二十四日の条には︑終‑に小百と小休戸で作った詩が載って いる︒ ﹁水嶋岩答両鐸鐸一路秋光野草栄最善山霊多厚意南方雨北峯 晴馴蝣m 蝣H 闇雲掠戸去山東一渓鳴壁書溝渓響終宵洗旅情朋aJ 日光での旧跡︑風景の長い記述は名文であるので︑ここにその一 節を録してお‑0 ﹁廿九日晴源蔵醇中禅寺‑・・・源蔵自中禅寺帰日山.
(18) I8. 八頁︒ 劉向﹁管子序録﹂(﹃漢文大系﹄二十一巻所収)0 以下︑鳩友蘭﹃中国哲学史﹄(﹃民国叢書﹄一)参照︒ 狩野直喜﹃中国哲学史﹄(岩波書店へ昭和二十八年)︑二二八頁︒ 遠藤哲夫﹁管子解題﹂(﹃管子﹄上所収へ﹃新釈漢文大系﹄42へ明治書 院︑平成元年)参照︒ /'町 L 田O 三郎 ¥﹃江戸の漠学者たち﹄へ一九四頁︒ (2郭 6 沫) 若・聞l多・許経過﹃管子集校﹄(科学出版社へl九五六年)o (2黍 ) 期鳳﹃管子校注﹄(梁運華整理'中華書局出版へ二〇〇四年)0 /ooi 馬非百﹃管子軽重篇新詮﹄(中華書局出版へ二〇〇四年)0 (2牧 9 野) 謙次郎﹃戦国策国字解﹄(﹃漢籍国字解全書﹄収録へ早稲田大学出 版へ昭和三年)0 (ァ) 安井息軒﹃志濃武草﹄についてはへ田中司郎﹁安井息軒著﹁志濃武 草﹂の注釈(一)(二)﹂(﹃宮崎女子短期大学紀要﹄︑平成十七年三月︑ 同十八年三月号)参照︒. へ 3 3 ㌧. ( S ) ﹃観風抄﹄についてはへ若山甲蔵﹃安井息軒先生﹄︑二五‑三三頁参 照︒ (8) ﹃ 東行目抄﹄(﹃安井氏紀行集﹄所収)0 安井息軒﹃読書余適・睡余漫稿﹄(成草堂へ明治三十三年)0 ( S ) 塩谷宕陰﹁送安井仲平東瀞序﹂(﹃宕陰存稿﹄所収)0 /ion 黄道憲についてはへ島田久美子﹃黄道憲﹄(﹃中国詩人選集二集﹄15へ 岩波書店へ昭和三十八年)へ黄道憲﹃日本雑事詩﹄(実藤恵秀・豊田穣 訳へ﹃東洋文庫﹄111へ平凡社︑昭和四十三年)など参照︒. 安 井息軒﹁丹羽伯弘墓場銘﹂(﹃息軒遺稿﹄所収)0 ¥co ) 安井息軒﹁蚊丹羽伯弘上樫字林祭酒書﹂(黒江一郎偏﹃息軒先生遺文 (&) 集続編﹄所収)0 /ocA K m ) 安 井息軒﹃陸余漫筆﹄'前掲書所収︑五二‑三頁︒ (39 ) 安 井息軒﹃続読書余適﹄(黒江一郎編﹃安井氏紀行集﹄所収)0 (S) 安井息軒﹃洗病自乗﹄(黒江一郎編﹃息軒先生遺文集続編﹄所収)0 (3) ﹃江山余情﹄は'﹃息軒先生遺文集続編﹄にも収められている︒ 尚︑太田才次郎の﹃旧聞小録﹄(文興堂へ昭和十四年)には'以下の ように紹介されている︒ ﹁黄道憲o字公度︒. また. 清国嶺南嘉応人︒. 埠)公使而来︒ 平生深慨国人無記載我事者︒ 東醇以来o委心於此︒ 日本志十四巻︒ 分 為 天 文 志 地 理 志 へ 職 官 志 ︑ 食 貨 志 ︑ 刑 法 志 へ 鄭 交志︑ 文学志︑物産志等︒ 細述無遺︒ 又別挙雑事︒ 日日本雑事詩︒ 錐記事不無謬誤︒ 至所見之博︑所記之詳︒ 人之右者也︒﹂(巻下︑四四頁)0. 随何(如. 遂. 串之以詩 付命 無.
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