D・ヒ ュームの経験論的人間学の研究︵十二︶
ーヒューム社会科学の基礎︵こ 古賀勝次郎
序文
第一章 ヒュームのキリスト教神学批判︵第四十一
第二章 ヒューム体系の哲学的基礎
第一節 ヒュームの知覚論︵第四十三号︶
第二節 ヒュームの因果論︵第四十四・五号︶
第三章 ヒュームの方法論
第一節
第二節
︵i︶
︵・11︶
︵⁝m︶
︵.W︶第四章晴念について
第一節 同↓性の関係
第二節 ﹁知覚の束﹂としての心︵第四十九号﹀ ・二号﹀
懐疑主義と自然主義︵第四十六号∀
ヒュームの道徳哲学方法論
近代自然科学の方法論
ヒュームの実験的・経験的方法論︵以上四十七号︶
ヒュームの歴史的方法論︵第四十八号︶
﹁存在﹂と﹁当為﹂の問題
早稲田社会科学研究 第52号 96(H.8).3 1
第三節 情念の分類
第四節 間接的情念と直接的情念
第五節 必然と自由について
︵i︶ 自由意志論争
︵・11︶両立説︵8ヨ冨§茜ω日﹀
︵⁝m︶ 必然と臼由と人間の責任
第六節 情念と理性
第五章ヒューム社会科学の基礎
第︸節
第二節
︵i︶
︵h︶
︵血︶
第六章
第七章
第八章
第九章
ω
㈲ ω
共感ヒュームの正義論
統治論近代の経済社会 ︵以上第五十号︶
ヒュームの先駆者達︵以上第五十︸号︶
ヒュームの道徳論
合理主義道徳理論批判
利己主義と利他主義︵以上本号︑以下続く︶
ヒュームの道徳感覚論
﹁自然﹂概念の転換
ヒュームの道徳感覚論
スミスの道徳感情論
︵亀ヨ℃p︒昏団︶について
第五章 ヒューム社会科学の基礎
第二節ヒュームの道徳論
D・ヒュームの経験論的入間学の研究(十二)
ω 合理主義道徳理論批判
﹃人性論﹄は第一篇﹁知性について﹂︑第二篇﹁情念について﹂に続いて︑第三篇﹁道徳について﹂となっていて︑
﹃人性論﹄は同三篇で終っている︒ヒュームは﹁第一篇及び第二篇に対する緒言﹂の中で︑﹁文芸批評﹂も﹃人性 ︵1>論﹄において検討すると予告していたが︑これは終に果たされず︑文芸批評はいくつかの論文・随想になって現わ
れ︑種々の﹃論文集﹄の中に収められた︒要するに﹃人性論﹄は︑第三篇﹁道徳について﹂で完結しているのであ
る︒ ところでヒュームは︑第三篇の﹁緒言﹂で︑第三篇は︑﹁孕る程度まで他の二巻︵即ち︑第一篇﹁知性について﹂︑ ︵2︶第二篇﹁情念について﹂1筆者注︶から独立してい﹂ると書いているが︑しかし第三篇の冒頭では︑﹁道徳に関
してこれから述べる論究がこれまで知性及び情念に関して言ってきたすべてのことをなお一そう確実にするであ
︵3︶ろう﹂と述べている︒これは第三篇が第一篇︑第二篇と連続していることを言っているのだが︑しかしその理由を ︵4︶﹁道徳性︹ないし道義︺は︑他のあらゆる主題に勝って我々の興味を引く主題﹂だと述べていることからも窺える
ように︑ヒュームの関心は中でも道徳にあった︒﹃入塾論﹄第三篇を書き直した﹃道徳原理研究﹄︵郎ミ 肉ミミ藁
零ミミミ鑓ミ鳴ミミミ翁島ミ︒ミ量嵩㎝じを︑ヒュームはその﹃自叙伝﹄ ︵き︑Oミ謡トミ︶の中で︑自分のあら つゆる著作の中で最善のものと評価しているが︑これもまた︑内容や文体だけでなく︑道徳に置かれている強い関心
が︑そうした評価をヒュームにさせたとも理解されてよいのである︒
ヒュームは﹃人性論﹄第三篇第一部﹁徳及び悪徳一般について﹂︵.︑Oh≦洋⊆Φ曽コ血≦o①冒OΦ昌Φ戦歴﹂において︑
道徳的区別の源泉と道徳的行為の起源について論じているが︑しかしその問題設定あるいは議論の方向性は既に第
二篇で示唆されていた︒既に第二篇第一部第七節﹁徳と悪徳について﹂︵.︑○断≦8帥巳≦﹁εΦ︑︑︶で︑﹁徳と悪徳と︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ヤ︑︑︑︑︑︑︑︑︑ ︑︑︑︑︑ ︵5︶の道徳的区別は自然的原生的原理を根抵とするか或は利害や教育の︹後天的原理︺から起るか﹂という問題が︑近
年大いに論争されているとし︑この問題は次篇︵第三篇︶で論じようといっている︒またヒュームは第二十年三
部で﹁情念と理性﹂について論じた際︑道徳的区別の源泉と道徳的行為の起源の議論の方向性に対しヒントを与え
ていたのである︒要するに﹃人性論﹄の第二篇と第三篇は連続しているのである︒
ヒュームが近年大いに論争されている道徳の問題というのは︑道徳的区別︑道徳的行為をめぐるものであって︑
その源泉や起源は︑理性あるいは知性にあるのか︑それとも感情︵ωΦ昌口日①簿︶あるいは感じ︵hΦΦ謡コσqVにあるの ︵6∀かという問題であった︒周知のように︑その源泉︑起源を理性や知性に求めたのが︑合理主義道徳理論を説いた
人々であり︑感情や感じに求めたのが道徳感覚学派の人々であった︒そして言うまでもなく︑ヒュームの道徳理論
は基本的には後者の道徳感覚学派に属すのであって︑ヒュームは合理主義道徳理論を徹底的に批判した︒﹃人性論﹄
第三篇第一部第一節﹁道徳的区別は理性から来ない﹂︵︑.ζo一望島ω江口︒口︒コωαΦ﹁ぞ.山マ︒ヨ﹁$ωo昌.︑︶は︑そのタイ
トルが示しているように︑道徳的区別を理性に求める合理主義道徳理論を取り上げ批判した節である︒特にヒュー
ムは︑ウォラストン︑カッドワース︑クラーク︑ロックなどの合理主義道徳理論を批判している︒そして同旨二節
﹁道徳的区別は道徳感から来る﹂︵.︑竃︒﹃巴臼ω鉱コ︒甑︒霧山①﹃坤く.ユ砕︒ヨ四ヨ○﹁巴ωΦロωΦ.︶でヒュームは︑道徳的区別
4
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十二)
が理性ではなく道徳感︵1一道徳感覚︶に由来すると説く︒それは明らかに︑シャフツベリ︑バトラi︑ハチソンな
どと同じく道徳感覚説に立つものであるが︑しかしいくつかの重要な点で彼等の道徳感覚説とは異なっていた︒
さてヒュームによれば︑道徳的区別の問題も︑心に現れるものはすべて知覚である︑とする彼の根本原理が適用
できる︒ある性格や行為を道徳的に賞讃したり︑他の性格や行為を誹誘するのは︑それぞれ異なった知覚の作用で
ある︒ところでその知覚は︑観念と印象の二つからなる︒従って道徳的区別の問題は︑﹁ある行為を以て誹誘すべ
きであるとか賞讃に値する之か宣言するのは︑我々の観念によってなすのか︑それとも印象によってなすのか
︵7︶と﹂︑いうことになる︒そしてヒュームは︑道徳的区別が観念に由らないことを先ず論証し︑消去法によって道徳
的区別は印象に由ると論ずるのである︒
合理主義道徳理論を説く人々は次のようにいう︒﹁徳は理性との適合に他ならない﹂︑﹁物事にはそれを考えるす
べての理性的存在に︹共通で︺同一な永遠の適合性︵11合目的性−筆者︶または不適性︵目非合目的性−筆者︶
︵①8遷巴律︒ΦωωΦω蝉巳⊆巳凶ぎΦωωΦω︶がある﹂︑あるいは︑﹁正邪の不易な尺度は人類に責務を課すだけでなく︑ ︹8︶.﹃神﹄自身にも責務を課す﹂⁝⁝と︒ヒュームによれば︑これらの議論は︑道徳が真理と同じく観念によってのみ
認識されるとする︑つまり道徳的区別は理性のみによってなされ得ると考える点では一致している︒しかし果たし
て道徳的区別は理性のみに基づいてできるのだろうか︒そこでヒュームは先ず理性の性質︑役割を復捺する︒﹁理
性は真偽の発見である︒ところで真偽は︑観念間に真に存する関係との一致不一致か︑真の存在ないし事実との一
致不一致か︑そのいずれかに存する︒かような一致不一致を許さないものはすべて︑真もしくは偽であることがで ︵9︶きなく︑従って理性の対象であることは決してできない﹂︒これに対して︑﹁我々の情念や意欲や行為はかような一
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致不︺致を些かも許さない︒何故なら︑それらは根源的事実ないし実在事であり︑それ自身で完全であり︑他の晴
念や意欲や行為との何らの関連も内含していないからである︒それゆえ︑情念や意欲や行為は真偽のいずれとも宣
言される・とができなま従・て・崔度対であることもこれに適Aロすることもできないので麺﹂と・
N・キャパルディも指摘するように︑ヒュームは道徳的区別の源泉と道徳的行為の起源とを︑互いに関連した問 ︵11︶題としながらも一貫して分けて議論した︒ヒュームが以上の議論に︑﹁二重の利益﹂があるというのはそのためで
︵12Vある︒上の議論は︑第一に直接以下のことを︑即ち︑行為の道徳的価値が理性との適合から引き出されることもな
いし︑行為の非難を理性との反対から引き出すこともないことを論証している︒そして第二に︑同じ真理を間接的
に︑即ち︑理性が行為に対し異議を唱えたり是認し行為を防止したり生み出したりすることは不可能で︑従ってそ
うすることが可能な道徳的善悪の源泉たることはできないことを明示することによって︑論証しているのである︒ ︵13︶ 以上の論証から︑﹁道徳的区別は理性の産物ではない﹂ことは明らかなのだが︑しかしそれでも例えばウォラス
トンのような議論もあって︑それが以上の論証の反論となるかもしれぬとして︑ヒュームは次にウォラストンの議
論を批判する︒さてそのウォラストンの議論というのは︑反道徳性の源泉は︑われわれがある行為をする時︑観察
者に誤った判断を生み出す傾向にある︑というものである︒既にヒュームは﹃人性論﹄第二篇第三部で︑情念は知
性あるいは理性によってなされる判断を惹き起こすと論じていた︒従って当然︑行為も知性︑理性によってなされ
る判断を惹き起・す︒こ・でヒュ去は再び理性が情念に及ぼす場合を繰り髄・①理性が本来の対象であるあ
る物の存在を知らせて情念を喚起する時であり︑②理性が原因結果の結合を発見して︑情念を働かせ手段を与え
る時である︒ヒュームによれば︑これら二つだけが︑行為に伴い得る判断︑行為を生じせしめ得る判断である︒そ
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十二)
してヒュームはこのような判断がしばしば錯誤であることを容認するが︑しかしこうした錯誤は事実の間違い以上 ︵15Vに出るものではない︑従って︑かような錯誤を反道徳性の源泉とすることはできない︑とヒュームはいう︒
次にヒュームは︑もし道徳的区別が判断の真偽に由来するとすれば︑判断がなされるところでは常に道徳的区別
が生じることになり︑問題がリンゴに関するものであれ王国に関するものであれ違いは少しもない︑という︒その
前提として︑道徳の本質は理性との一致不一致にあると仮定されているからである︒それ故に︑その他の事情は恣 ︵16︶意的であって︑それがある行為に有徳または悪徳の性格を与えたり奪ったりすることはできない︒
また︑行為の結果である判断が誤っている時︑その行為を真理に反すると唱える機会を与える判断について︑ヒ
ュームは次のようにいう︒われわれの行為が︑真なる判断にせよ︑誤った判断にせよ︑何らかの判断を生むのはわ ︵17︶れわれ自身の中にではなく他人に対してのみである︒そして多くの場合他人に対して誤った判断を生む︒そして行
為がこのような誤った判断を他人に生ぜしめることが当の行為に帰され反道徳性と主張される︒だがそれは誤りで
ある︑とヒュームはいう︒何故なら︑行為から誤った結論が引き出されるのは︑自然的原理の曖昧さ︵磐 ○びωo田
荘︽ohp簿霞巴只ヨ︒甘一Φω︶によるのであって︑そのため︑ある原因はそれとは反対の原因によってその作用が中
断され︑二つの事物間の結合が不確実で変化することになるのである︒ここにもヒュームの経験論的因果論が適用
されていることが分かる︒さて物理的事物においてすら︑原因に類似した不確実性と多様性が生じ︑われわれの判
断に類似した錯誤を生むのであるから︑もし錯誤を生む傾向が悪徳と反道徳性の本質とするならば︑生命のない事 ︵18︶物でさえ悪徳︑反道徳となって︑不合理な・王張といわざるを得ない︒
さてヒュームは以上のようにウォラストンを批判した後︑更に詳しく合理主義道徳説の根本的批判を行なう︒ヒ
ユームによれば︑合理主義道徳説の基本的考えは︑道徳性は論証可能であり︑そしてその道徳説は︑﹁幾何学や代 ︵19∀数学と等しい絶対確実性﹂を得ることができる︑というものである︒しかしこれには二つの異なった考えがある︒ ︵20V一つは︑本来の合理主義の立場から︑論証的・抽象的理性ア・プリオリな理性によって道徳性は論証可能である
とする考えであり︑いま一つは︑基本的には経験主義の立場にありながら道徳性の論証可能性を説くものである︒
カッドワースやクラークなどが前者に属し︑ロックが後者に属す︒だが何れにせよ︑徳や悪徳はある関係に存しな
ければならない︑というのは︑知性の作用が及ぶいま一つの領域である事実は論証され得ないからである︒そこで
先ず︑カッドワース︑クラーク︑そしてロックの合理主義道徳説を簡単に見て︑それからヒュームの合理主義道徳
説批判を述べることにしよう︒ ︵21︶ カッドワースは︑古代の原子論哲学と近代のデカルト主義の影響を強く受けた合理主義老であった︒カッドワー
スによれば︑感覚的経験は個別的事物についての知識を与え得ても︑物理的世界の知識を含む真の絶対確実な知識
を与えることはできない︒感覚は実践的知識であって知的能力ではないので︑ロックなどがいう所謂第二次性質の
観念である情念はこれを認識し得ても︑事物自体を明晰に認識することはできない︒知識は不変的で事物の本質に
関わるもので︑従って経験からは得られず経験に先行する概念・観念に依存する︒もし人間が原因や結果︑三角形
や相等︑実体や天体︑といった概念を生得的に持っているならば︑知恵︑愚かさ︑慎慮︑軽はずみ︑真︑偽︑徳︑
悪徳︑正義︑不正⁝⁝といった概念も生得的に持っているに違いない︒道徳的言明は物理学の言明と同じく︑実在
︵惹ミ誉︶に関わるもので︑その実在を反映し得ているか否かで真あるいは偽となる︒それ故︑道徳的知識は︑物
理学や数学と同様︑客観的︑不変的知識である︑とカッドワースは結論づける︒
8
D・ヒュームの経験論的入間学の研究(十二)
クラークは︑既に上で述べたように︑ニュートン主義者をもって自ら任じていたが︑基本的にはデカルト流の合 ︹22︶理主義者であった︒クラークによれば︑事物と事物との間には︑ちょうど円と四角形との間に見られるような一致
と不︸致とがある︒円と四角形は形においては一致していないにも拘らず︑二次元の図形である点では一致してい
る︒事物の一致・不一致から︑ある事物を他の事物に適用すると適合するが︑別の事物に適用すると適合しない︒
それは︑円と四角形の不一致から︑円のクギは四角形の穴には適合しないが︑まるい穴には適合するのと同じであ
る︒同様のことが︑人間の行為とそれが行われる環境・状況やそれによって影響を蒙る人々との間にもいえるので
あって︑両者の間には適合性11合目的性︑不適性11非合目的性が存在する︒例えば約束を守るという行為は︑その
約束が行われた状況に合目的に適用される︑何となればその行為とその状況との間には自然の一致が存するからで
ある︒クラークにとって正しい行為とは適合的・合目的行為ということであって︑それが道徳的行為なのである︒
従ってここから正しい行為は行われねばならないという議論が出てくるのだが︑これについては既に﹁﹃存在﹄と ︵23︶﹃当為﹄﹂のところで述べたので︑ここにば繰り返さない︒要するにクラークの道徳理論は︑数学においてなされる
ア・プリオリな推論が道徳の領域でも妥当する︑という考えに基づいて説かれているのである︒
ロックの体系について︑これまでその不斉合性がしばしば指摘されてきた︒ロックの立場は基本的には経験主義
であるが︑しかしそこに︑殆ど無意識的に︑キリスト教神学︑近代合理主義が侵入しているというのである︒そし
てロック体系の中でも︑その不斉合性が最も露骨な形で出ているのが道徳理論である︒もっともロックはまとまっ
た形で道徳論を展開してはいない︑しかしロックが生涯道徳の問題に強い関心を持ち続けていたことは間違いない︒
﹃人間知性論﹄に収められる筈だった﹁倫理学一般について﹂︵.︑O︷卑三〇ωぎ○窪Φ鐙一.︶において︑道徳は︑﹁人類
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の葵な仕事であ董蕎心事で墾﹂・述べているが・同様な文章が﹃人間裡論﹄の中にも見ら舞しかし・
﹃人間知性論﹄の最初のところで︑あらゆる知識は経験に由来すると宣言したロックは︑同著第三巻第十一章では︑ ︵26︶﹁私は大胆にも︑数学だけでなく︑道徳も論証できると考える﹂と書いているのである︒明らかにロックは合理主
義的な道徳論を説いているのである︒ロックにとっては︑倫理学も数学と同じく論証可能な科学なのである︒
ロックによれば︑直覚的知識︵ヨけ巳蠕くΦ吋8葦Φ叩けqΦ︶の次に絶対的確実性を持つ知識は︑論証によって得られ
る知識である︒二つの観念の一致不一致が直覚的に知覚されない時︑観念の直接比較によって︑一致あるいは不一
致を知覚するように︑他の観念の介在によって︑求める一致︑不一致を発見しようとする︒これが推理︵門$︒︒o亭
ぎ騎︶で︑この方法によって︑一致︑不一致が平明且つ明晰に知覚される場合︑論証と呼ばれる︒この論証は理性
の働きであり︑理性は論証という方法によって絶対確実な知識を獲得する︒論証によって得られる知識の典型が数
学である︒ところがロックは︑上述したように︑倫理学︑道徳理論も論証可能な科学というのである︒その理由を も の も のロックは︑﹁道徳のことばが表わす事物の精確な実在的事実は完全に知ることができ︑ひいては︑︹ことばと︺事物
自身の適合・不適合は絶対肇に発見できようし・ここに完全な知識は存するからで鶉﹂と・述べている・
ヒュームが問題とし批判しているのは以上までであるから︑ロックの道徳理論をこれ以上述べる必要はないかも
しれない︒しかし以上の議論は︑ロックが倫理学を論証可能な科学とする理由の半分でしかない︒簡単に言ってし
まえば︑神の権威が倫理学の論証可能性を保証している︑というのが残り半分の議論である︒例えばロックは︑
﹁道徳性の真の根底であることのできるのは・神なるものの意志と法だけ駆﹂る・と述べている・要するに︒ッ
クは︑道徳性の究極的源泉を神に求めているのであって︑実にここにロックとヒュームとの決定的ともいえる違い
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D・ヒュームの経験論的八間学の研究(十二)
が存するのだが︑これについては後に触れることにして︑先ずはカッドワース︑クラーク︑ロックなどの合理主義
道徳説に対するヒュームの批判を見ることにしよう︒
ヒュームによれば︑われわれの知性の作用は︑観念の比較と事実に関する推論の二つに分けられる︒それ故︑も
し知性のみで正︵ユひq寓︶と邪︵芝門ooひq︶が区別できるとすれば︑徳または悪徳は︑﹁事物問の或る関係﹂か﹁我々
が発見する事実﹂かに存することになる︒しかるに︑既に論じたように事実は論証され得ない︒とすると︑倫理学
は数学と同様に絶対確実性を持つ科学である︑と説く人々の議論は︑つまり徳および悪徳がある関係に存するとい \うことになる︒だが彼等はそこまでハッキリとは言わない︑ヒュームに言わしむれば︑彼等の議論は﹁混乱﹂して
いるのである︒﹁道徳性が論証できると主張する者も︑道徳性が関係に存し且つ関係は理性によって識別できる︑
とは言わない﹂︒彼等はただ︑﹁理性は︑かくかくの関係にあるかくかくの行為が有徳であって︑他のかくかくの関 ︵29V係にあるかくかくの行為は悪徳である︑と発見できる︑かように言うだけである﹂︒だがこれでは議論は明瞭でな
い︒ヒュームは次のように議論すべきだという︒論証的理性︵αΦヨ︒霧q簿寄Φ話pωo口︶は関係を発見するだけだが︑
しかし彼等に従うならば︑この理性が徳︑悪徳をも発見する︒だとすれば︑これらの道徳的性質は関係でなければ
ならない︑と︒そしてヒュームは︑理性がある行為を悪徳と宣言する時︑理性は関係それとも事実を発見するのか︑
この問いは決定的で回避する訳にはいかない︑という︒何故なら事実が論証され得ないことは明らかだからである︒
確かに︑合理主義道徳説を唱える人々の議論を徹底すれば︑ヒュームのこのような議論になるだろう︒
さてそういうことで︑徳と悪徳が論証を許す関係に存するならば︑その関係は︑類似︑反対︑質の程度︑量およ
び数の割合の四つに限られる︒ところでこれら四つの関係のどれも︑非理性的なものはもとより︑生命のない事物
11
にも適用できる︒従って︑このような生命のない事物も道徳的な価値があったりなかったりしなくてはならないこ
とになる︒というのは︑これら四つの関係はすべて︑人間の行為︑情念︑意欲に見られるのと同じく︑物質にも本
来的に見られるからである︒それ故道徳性はこれ等四つの関係の何れにも存しないことは明らかである︒しかし論
証的な関係が︑上記四つの他にもあると主張する者がいるかもしれない︒しかしヒュームは︑その詳しい関係が指
示されない限り答えようがないという︒まだ解明されたことのない体系を反駁することは不可能だからである︒ ︵30︶ そこでヒュームは︑合理主義道徳理論を説く者に対して以下の二つの条件を要求する︒
日 合理主義道徳説を唱える者は次のように考えなくてはならない︒即ち︑道徳的善悪は元来︑内的行為にのみ
属し且つ外的事物に関するわれわれの状況に由来するので︑道徳的区別を生じせしめる関係は︑ただ内的行為と外
的事物との間にのみ存在しなくてはならない︑と︒従って︑この関係を内的行為自体の間のみに︑また外的事物相
互の間のみに適用してはならない︒もし前者に適用するとすれば︑外的宇宙についてのわれわれの状況とは無関係
に道徳的罪悪を犯すということになろうし︑後者に適用するとすれば︑生命のないものにさえ道徳的美醜が許され
ることになり︑何れも道理に合わぬ結果になってしまう︒しかしどのような関係にせよ︑内的行為を外的事物と比
較してその間に見出される関係が︑内的行為自体の悶で比較した時︑あるいは外的事物自体の間で比較した時︑そ
の何れにも見られないと想像することは難しい︒従って第一の条件を満たすことはできない︒
口 合理主義道徳説は次のように想定されている︒即ち︑合理主義道徳説における関係は永遠不易であるので︑
どんな理性的生物がこれを考察する時も同じであるというばかりでなく︑関係の効果︑つまり意志への影響︑も必
然的に同じである︑と想定されている︒このように︑道徳的区別を知らしめる関係は︑単に理性的考察の範囲に止
12
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(・卜二)
まらないで︑道徳的意志的実践とも関連してくるのだが︑しかしこれら二つの点は明らかに別である︒即ち︑﹁徳
を知る﹂ことと﹁意志を徳に適合させる﹂こととは別なのである︒だから︑正邪の尺度が理性的な心に責務を課す
永遠の法則であることを証明するには︑関係と意志との間に必然的結合が存在することを示さねばならない︒これ
が第二の条件だが︑しかし既に因果論を論じたところがら明らかなように︑ヒュームは理性のみでは関係と意志と
の間に必然的結合を発見することはできない︑と主張する︒従って第二の条件を満たすことも不可能である︒
ヒュームは以上の一般的考察をより明晰且つ説得的たらしめるため二つの具体例を挙げる︒一つは︑忘恩 ︵31V︵置ひq鋸葺鼠①︶︑特に親殺し即ち尊属殺人︵唱母ユq仙Φ︶である︒これは人類が犯す最大の罪といわれている︒もし
この道徳的罪責が論証的推理によって発見できるとすれば︑その根拠は関係に存することになるが果たしてそうか︒
ヒュームはこれを検討するため生命のない樫や楡を選ぶ︒もしそれらの親木が種を落し︑その種が苗木となり︑そ
れが更に大きくなって親木を抜き︑とうとう親木を枯らしたとする︒そうすると尊属殺人のうちに発見される関係
でこの事例に欠けているものはない︒ある者は選択や意志が欠けているというかもしれない︒しかしこの事例と尊
属殺人とは原因が異なるだけで関係に違いはないので問題にはならない︒そして何れの場合も関係の発見に反道徳
性の念を伴わないのである︒次にヒュームは近親相姦の例を挙げる︒何故︑人間の近親相姦は罪であって動物のそ
れは罪ではないのか︒これに対して︑動物は近親相姦の背徳を発見するに十分な理性を持たないが︑人間は理性を
有しているからだ︑と答える者があるかもしれない︒しかしこれは明らかに循環論である︒というのは︑理性がこ
の背徳を看取し得る前に背徳が存在しなければならないからである︒背徳は人間の理性の決定から独立しているの
であって︑理性の決定の結果というより︑当決定の対象といった方がより適切なのである︒人間の優れた理性は徳
13
や悪徳の発見には役立つかもしれないが︑徳や悪徳は寧ろ意志や嗜欲に依存するのだ︑とヒュームはいう︒
以上でヒュームは︑道徳性が科学の対象たる関係に存しないということを証明し終る︒そこで次にヒュームは︑ ︵32V道徳性は知性の発見し得るいかなる事実︵ヨ騨什δΦ噌 ○︷ ︷動O汁︶にも存しないことを証明する︒以前ヒュームが因果論
を論じた時用いた手法がここでも使われている︒故意の殺入をその例として考えてみる︒この行為をあらゆる角度
から検討して︑悪徳と呼ばれる事実を見出そうとしよう︒しかしそこに見出されるのは︑若干の情念︑動機︑意欲︑
思惟のみで︑それら以外の事実はない︒われわれが対象を考察する限り︑悪徳は姿を現わすことはない︒考察を対
象から自己の内部へと向けると︑そこに故意の殺人という行為に対し非難の心持ちを見出すが︑その時にわれわれ
は悪徳を見出すのである︒つまり︑悪徳は考察者の心のうちにあって対象のうちにはないのである︒それは例えば︑
必然的結合が考察者の心のうちにあって対象のうちにないのと同じである︒またヒュームは︑徳と悪徳は︑近代哲
学のいう第二性質である心の知覚︑即ち音︑色︑熱︑寒などに類比し得るという︒
ヒュームの合理主義道徳説に対する批判は大体以上の通りである︒
㈹ 利己主義と利他主義
ヒュームは﹃人性論﹄第三篇第一部第一節で︑道徳的区別が理性に由来しないことを明らかにした後︑続く同第
二節において︑まさにその表題が示すように︑道徳区別は道徳感覚︵ヨ︒同巴ω①霧①︶に由来すると論ずる︒この考
えが︸般に道徳感覚説といわれるもので︑はじめシャフツベリによって説かれ︑その後︑ハチソンやバトラーなど
によって展開された︒ヒュームの道徳理論もこれを継承したものである︒しかしヒュームの道徳理論とハチソンな
どのそれとの間にはかなりの距りがあり︑従って正確には︑ヒュームの道徳理論はハチソンなどの道徳感覚説を批
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十二〉
判的に発展させたものというべきである︒
ところで道徳感覚説は︑当時流行していた二つの道徳理論を批判することによって登場した︒一つは合理主義道
徳説であり︑いま一つは利己主義道徳説である︒そしてシャフッベリやハチソンなどの前者の合理主義道徳説に対
する批判は︑議論の精粗を別とすれば︑ヒュームの合理主義道徳説批判と略々同じであった︒だが︑利己主義道徳
説批判においては︑両者の間にはかなりの違いが見られる︒言うまでもなく近代初期において︑利己主義道徳理論
を説いたのは︑ホッブズとマンドゥヴィルであった︒ ︵33︶ ホッブズは︑唯物主義︑原子論的個人主義に立つ合理主義者であったが︑その人間性︵ぎ§§§ミ邑の分析
には︑経験主義的な鋭い洞察が見られ︑しかも徹底した利己主義が説かれている︒人間は実に多くの行為を営むが︑
しかしそれらの行為は全て利己的動機から出ている︒ホッブズによれば︑善や悪も︑事物と行為者の欲望との関係
を表現するものに過ぎない︒従って︑善︑悪についての一般的な共通の規則・法則といったものはない︒ホッブズ
は﹃リヴァイアサン﹄︵卜鴨ミミぎ§H①目︶の中で次のように述べている︒﹁各人の欲求および欲望の対象がなんで
あろうとも︑その人にとってはこれこそが﹃善﹄であり︑また憎悪︑嫌悪の対象となるものが﹃悪﹄と呼ばれる﹂︒
そして善︑悪といった言葉は︑﹁つねに︑それを用いる人間との関連において用いられるものであり︑⁝⁝善悪の ︵34︶一般的な法則もない﹂︒人間は生まれつき利己的であるから︑不可避的に争いが起こる︒ホッブズは︑その争いの
原因として︑競争心︵oO日℃①蜂δコ︶︑不信︵9霞αΦp∩Φ︶︑名誉心︵ぴqδ蔓︶を挙げる︒しかも入間は生まれつきの
強さにおいて殆ど変らない︒従って︑人間の﹁自然状態﹂においては︑万人の万人に対する争いが不可避となる︒
その結果︑人間は絶えざる恐怖と暴力による死の危険の中で生きなくてはならず︑人間の生活は︑﹁孤独で貧しく︑
!5
︵35︶きたならしく︑残忍で︑しかも短い﹂ものとならざるを得ない︒このような自然状態では悪はなく︑また︑誰も他
人を助ける義務はない︒要するに道徳原理なるものは存在しないのである︒ホッブズのこれから先の議論︑その政
治哲学の議論は後に譲るけれども︑以上のように︑ホッブズの道徳理論は徹底した利己主義であった︒
ホッブズは基本的に合理主義者であったが︑マンドゥヴィルは基本的には経験主義者だった︒マンドゥヴィルの
思想は︑主著﹃蜂の寓話﹄︵停泊隷ミ帖ミミ鴨園題り℃鋤隣磨μ砂絵矯℃凶昌芦嵩b︒︒︒︶によって畳々窺える︒そしてそ
の内容は︑手短かに言えば︑その副題﹁私悪すなわち公益﹂︵聖§紺ミ融勲聖§志し口§§騎︶が示すように︑
個々入の悪徳が社会に利益をもたちすということだが︑何故そうなるかについては︑後に述べるように︑そう簡単
ではない︒また︑マンドゥヴィルの道徳論も利己主義が基調となっているが︑しかしその根底にリゴリズムが横た
わっていたことは見逃すべきではない︒
マンドゥヴィルはキリスト教を否定することはなかったが︑その説く禁欲主義的道徳の裏にはびこつている偽善
を鋭く暴き︑まだキリスト教が近代社会において持つ有用性に疑問をもった︒この意味でマンドゥヴィルは明らか
に近代の思想家だった︒しかしマンドゥヴィルは合理主義者ではなかった︒P・ベールの影響を受けたマンドゥヴ
ィルは︑理性の力に懐疑的で︑人間の思考や行為は︑理性ではなく情念によって支配されると説いた︒しかも情念 ︵36︶は根本的に利己的である︒﹁どんな情念も自愛心︵ωΦ界δく①︶に中心がある﹂︑とマンドゥヴィルはいう︒自愛心は
人間が生まれつき持っている欲望︵OΦωマ①ω︶である︒そして﹁人間は欲望によって奮起させられるとき以外︑け ︵37Vっして努力しない﹂︒欲望は︑放蕩︑薯修︑自負︑羨望︑虚栄︑気まぐれ等の様相をとりつつ︑精励を促し︑社会 ︵38︶に利益をもたらす︒欲望のより強いのが強欲︵鋤く輿旨Φ︶である︒マンドゥヴィルは次のように詠ずる︒
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D・ヒュームの経験論的入間学の研究(十二)
あの呪わしく意地悪く有害な悪徳で
悪の根源をなす強欲が︑
奴隷としてつかえた相手は放蕩であり
あの気高い罪であった︒
他方奢修は貧乏人を百万も雇い
いとわしい自負はもう百万雇った︒
羨望そのものや虚栄は
精励の召使いであった︒
彼らお気に入りの愚かさは
あの奇妙でばかげた悪徳の
食べ物や家具や衣服の気まぐれで
これは商売を動かす車輪になった︒
このようにマンドゥヴィルの道徳論は人間の欲望の解放を是認する利己主義的なものであったが︑しかし他方︑
その根底にリゴリズムが横たわっていたことを見逃すべきではない︒例えばマンドゥヴィルは︑﹁公共のことは考
えずに︑なんであれ自分の欲望だけを満たすために行なわれること﹂をすべて悪徳と呼び︑﹁入間がその本性の衝
動に逆らい︑有徳の士になろうという理性的な野心から︑ほかの人々の利益なり自分の情念の克服のために努力す ︵39︶る行為﹂をすべて徳と呼んでいるが︑そこには明らかにリゴリズムが見られる︒そのリゴリズムがどこに由来する
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かについては色々説があるけれども︑そのリゴリズムがマンドゥヴィルの道徳論において極めて大きな役割を果た
している・というJ●ヴ・イナあ継には傾聴すべきものがある・しかしそのリゴリズムは専ら﹁行為の動機﹂
に関わって癒・全体的にいえば・マンド・ヴ・ルの道徳論は利己主義的色彩の濃いものであることは疑いを容れ
ない︒ 当時の道徳理論には︑以上のようなホッブズやマンドゥヴィルなどの利己主義道徳説の他に︑シャフツベリやハ
チソンなどによって説かれた利他主義道徳説があった︒そして後者の道徳説は︑ホッブズなどの利己主義道徳説に
対抗する形で唱えられたもので道徳感覚︵ヨ︒轟一ωΦpωΦ︶をその理論の根底に置くことから﹁般に道徳感覚説とい
われる︒ 周知のように︑中世においては哲学は神学に仕える脾︵き︒已騨9①oδσq富Φ︶であった︒従って神学においては︑
宗教が道徳の真の基礎であると考えられていた︒しかしシャフツベリはこれに異を唱え︑道徳の真の基礎は自然
︵葛9H①︶であるとした︒歴史の示すところによれば︑キリスト教はこれまでしばしば︑道徳の衰退︑腐敗をもた
らす要因となってきた︒その理由の一つとして︑キリスト教神学のドグマ主義︑不寛容性が挙げられる︒そのドグ
マ主義︑不寛容主義が︑論争︑対立︑熱狂︑異端者に対する弾圧︑などを惹起し︑それが道徳の衰退︑腐敗を導い ︵42︶た︒キリスト教神学はもともと宗教と哲学とが不自然に結合されて作られたものである︒それ故︑哲学︑従って道
徳哲学は神学から自由に打ち樹てられねばならない︑とシャフツベリは説いたのである︒
キリスト教の神は万物を無から創造する︵O﹃Φゆ什一〇Φ×づ一げ圃一〇︶︒従ってキリスト教神学においては︑自然は神の被
造物とされる︒しかしシャフツベリの自然はそうした自然ではなく︑万物の根源であり︑しかも万物に各々の本性
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十二)
︵43Vを与えるものである︒それはキリスト教の神のごとく超越的なものではなく︑内在的なものである︒この点でシャ
フツベリの自然は︑キリスト教神学から抜け切らなかったハチソンやスミスの自然よりも︑ヒュームの自然に近い
といえるかもしれない︒だがヒュームの自然の概念には︑シャフッベ臣が自然に与えたような絶対性といったもの
は認められない︒シャフツベリの自然の概念は古代ギリシアのそれに近いものであった︒これに対しヒュームの自
然は︑キリスト教神学の自然とは全く違うけれども︑古代ギリシアの自然とも異なる︒しかし自然の概念はすこぶ
る重要な問題であるから後にまとめて見ることにしよう︒
さてシャフッベリによれば︑人闇の行為はすべて感情︵p陳Φo甑○づω︶によって導かれるが︑その感情には三つの ︵44V種類がある︒ω自然的感情︵o跨霞巴 臥諭︒甑︒屋V︑㈹自︵利︶己的感情︵ωΦ一h−臥冷︒甑︒口ω︶︑㈲反自然的感情︵巷ー
コ道導巴四陳①o氏︒コω︶︑がそれである︒自然的感情とは︑人間の行為を人間の本性に︸致するように向ける感清のこ
とである︒それはまた公土樽的感情︵窟σ9四鎗Φo鉱︒霧︶とも呼ばれ︑公共的善あるいは公共的利益に向けられた感
情である︒自己的感情は私的感情︵画才跨Φp訟Φo江︒づω︶とも呼ばれ︑私的善あるいは私的利益に適した感情であ
る︒これに対して反自然的感情は︑公共的善︵利益︶にも︑私的善︵利益︶にも向けられていない感情で︑全く非
人間的︑破壊的な感情である︒ところで︑シャフツベリにおいては自然に絶対的価値が付与されているので︑上の ︵45︶三つの感情の中で︑自然的感情が道徳的な行為を導く感情として最も高い価値を持つ︒実はこの自然的感情が道徳
感覚のことである︒そしてこの道徳感覚は一もっともシャフツベリはそれ程明確には述べてはいないが一﹁正
と不正についての自然的で適正な感覚﹂︵⇒讐霞巴鋤⇔田無︒︒けω窪ω①o︷ユぴqぼ磐匹≦門︒コひq︶とされる︒それは明らかに
利他的感情であって︑ホッブズやマンドゥヴィルの利己主義とは明瞭に異なる︒しかし注意されるべきは︑シャフ
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ツベリは徹底した利他主義者ではなかったということである︒シャフツベリは︑自己感情が公共的善と鳩合する時 ︵46Vは善であり︑公共的善を促進するならば︑適度の自己感情も必要である︑ことを十分認めていたのである︒
またシャフツベリの自然的感情は生得観念である︒その意味で︑シャフツベリの道徳論は︑生得観念を否定する
ロックの道徳論とその出発点からひどく連っていた︒人間は︑学問をしていない者でさえも︑﹁自然という学校﹂
︵47︶において︑何が道徳的に善であるかについての基礎的考えを身につけることができる︒つまり人間は本能的に︑人
類にとって善となる行為を是認するのである︒従って︑そうした基礎的考えは︑入生の中にその不可避的な起源を
持っているという意味で︑また︑予言者によって啓示されたものでもなく政治家によって作為されたものでもない
という意味で︑生得的なのである︒ところが︑ロックは生得観念を否定し︑意志や立法の産物︑さもなければ単に
流行や慣習の問題とした︒またロックは入間のすべての行為を自愛心から説こうとしているが︑これも以上の議論
と同様︑結局は道徳の破壊へと導く︑とシャフツベリはいう︒しかもシャフツベリは︑このようなロックの道徳論 ︵48︶は︑道徳的懐疑主義を徹底したものだという︒即ち︑ホッブズも︑人間の行為を自愛心の原理によって説こうとし
た結果︑徳︑悪徳の区別が意味を失うという道徳的懐疑主義に陥った︑しかしそれは結局︑道徳的善といったもの
は存在しないという道徳否定論に行き着かざるを得ない︑とシャフツベリはいうのである︒
シャフツベリの道徳感覚論はその後ハチソンによって︑より一層の発展を見ることになるが︑その前に︑G・バ
ークリとJ・バトラーについて少し述べておこう︒バークリとバトラーがヒュームの人間学の形成に大きな影響を
与えたことは既に述べた通りである︒しかし︑シャフツベリの道徳感覚論に対しては両者は批判的︑否定的であっ
た︒そしてその違いは︑根本的には︑﹁自然﹂についての彼等の理解の違いからきている︒シャフツベリの自然は
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D・ヒュームの経験論的人問学の研究(十二)
上述したように︑内在的なものであったが︑バークリとバトラーの自然は︑キリスト教の神と不可分に結びついて
いた︒だがそれでもバークリとバトラーのシャフツベリの道徳感覚論に対する反応はかなり異なっていた︒
自然を内在的なものと捉えたシャフツベリは︑道徳をできるだけ神から切り離して論じようとした︒しかしバー
クリは︑このような道徳を神から切り離そうとする試み自体を否定する︒バークリにとっては︑神の意志が道徳の
源泉であった︒またシャフツベリの道徳論においては︑理性に対してそれに相応しい位置が与えられていなくて︑
しかも道徳的善と悪との区別は道徳感覚によってなされる︑と説かれている︒これに対してバークリは以下のよう
に反論する︒あらゆる価値は感覚によってではなく理性によって理解される︒道徳感覚を含めた感覚は人間の諸能
力の中でも最も低いものである︒従って道徳的区別がそうした感覚によってなされるというならば︑そこには価値 ︵49V相対主義が入り込んでいるということである︑と︒
バトラーの自然もバークリのそれと同じく︑キリスト教の神と切り離せないものであった︒しかしバトラーは︑
神から人間を見たバークリとは遠って︑神と自然を同次元に置いて︑人間の徳を論じた︒そしてバトラーは︑神と
自然に従うことは︑良心︵ooロ巳Φコ8︶に従って生きることである︑という原理を導き出したのである︒バトラー
の良心は︑シャフッベリの道徳論における道徳感覚と同じような地位を占めるものといってよいであろう︒さてバ
トラーは︑人類に共通な徳が仁愛︵びΦ︼PΦ︿O一ΦコOΦ︶だというが︑要するにそれは︑良心に導かれた徳である︒良心 ︵50︶とは︑バトラーによれば︑道徳的是認・否認を行う能力︑すべての人を自己自身の法とする能力︑のことである︒
従って︑良心は人間本性の他の様々な徳に優越した権威を持っている︑とバトラーはいう︒ところがシャフツベリ
には︑このような論理が欠如している︑とバトラーはシャフツベリを批判する︒もしシャフツベリのように︑良心
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の権威を考慮に入れず︑徳とは利益︑即ち自己の幸福であり︑悪徳とは悲惨であるとするならば︑人は邪まに行為
すべき義務の下にある︑といったことにもなりかねない︒というのは︑シャフツベリにあっては︑自己の幸福が明 ︵51︶臼な義務であるから︑良心の与えるような義務が存在しているなどとは考えないであろうからである︒
バークリやバトラーの道徳理論は︑以上述べたように︑シャフツベリのそれよりも神学的色彩の濃いものであっ
たが︑基本的には利他主義的な道徳理論だったといってよい︒ ︵52V ヒュームがハチソンの自然を﹁目的因﹂︵団コ巴︒自︒⊆ωΦω︶と言っているように︑ハチソンの自然はキリスト教の神
と不可分のものであった︒その意味で︑ハチソンの自然は︑バークリやバトラ:のそれと略々同じであり︑シャフ
ツベリのそれとはかなり違っていた︒シャフツベリは明らかに理神論の支持者であって︑そこでは︑キリスト教の
神は自然の中で啓示され︑道徳感覚も人間に生得的に備わっているものとされた︒これに対して︑ハチソンは︑啓
示宗教を信ずるカルヴィニストで︑自然は神の被造物であり︑道徳感覚も神から与えられたもの︑と考えていた︒ ︵53︶もっともハチソンのカルヴィニズムは伝統的なそれとはかなり距離があった︒例えば︑伝統的なカルヴィニズムは︑ ︵54︶人間の堕落を非常に強調するけれども︑ハチソンの神は仁愛に満ちたものであった︒
ハチソンの道徳感覚は︑上述のように神から賦与されたものであったが︑しかしそれは生得のものではなかった︒
そこに︑生得観念を否定したロックの影響があったであろうことは容易に想像できる︒だが︑神によって与えられ
たものという考え︵Oo午σqぞ⑦匿Φωω︶と︑生得のものではないという考え︵二三p葛8昌①ωω︶とは明らかに矛盾して
いる︒けれどもハチソンはそこのところを十分論じていない︒その点ではシャフツベリの議論の方が斉合的といわ
ねばならない︒それはシャフツベリが理神論の立場に立っていたからだが︑しかしそのためシャフツベリの思想は
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D・ヒュームの経験論的入間学の研究(卜二)
ひどくロマン主義的・理想主義的傾向を帯びることになった︒この点︑矛盾を含んでいるもののハチソンの思想の
方がより現実的であった︒シャフツベリの思想が抱えるそうした問題︑またハチソンの道徳感覚論に見られる上述
のような矛盾は︑ヒュームには存しない︒ヒュームにおいては︑人間本性︵プニヨ睾づ鉾震Φ1一人間の自然︶は歴史
的に与えられたものであったからである︒そこに自然の概念の大転換があった訳だが︑これについては以下で詳し
く述べる︒にも拘らず︑ハチソンの道徳感覚論は︑シャフツベリのそれを受け継ぎ︑より発展させたものであり︑
更にヒュームのそれを導く重要な役割を果たしたのである︒ハチソンの道徳感覚は神によって賦与されたものであ
ったが︑それを用いて道徳的判断を行うのは人間だったからである︒
ハチソンの道徳感覚論の立場は︑一七二五年に出版された著書のタイトルから窺い知ることができる︒少し長い
が同著書のフル・タイトルを示すと以下の通りである︒﹃美と徳の観念の起源に関する研究i研究は二篇からな
っており︑第一篇では︑故シャフツベリ伯の思想原理の解説及び擁護と︑﹁蜂の寓話﹂の著者の批判を行なう︑第
二篇では︑古代道徳研究者達の感情に従って道徳的善と悪の観念を確立し︑数学的計算を道徳上の主題に導入する
ことを試みる﹄︵工謡§qミ固きミ︑ぎO譜ミ◎︑庶◎ミ§蕊ミ切§ミ耐§叙峯ミミQ㍉§ぎOぎミ蹄鯵ミミミ魯
︑ミ︑ミミ蛍箋ミミ鳴§Q寒ミ黛糞︒・ミ遷ミ鴨鴨愚§謡.職§織織愚ミ魯匙§ミ・・こミ謡ミミ︒耳触︑ミ隷鋤貯ミ
ミ鳴し口禽負毎ミ織ミ鴨§蕊黛ミq§︑Ooミ§鶏肉ミミ鳴携ミミ脳怨︑概§8ミミ晦ミ︑曹⑦§牒§§尉ミ︑ミ§9§W
ミ◎ミ管財ミ篤ミ§冨〜聾§愚︑む§賢ミ§鴨轟ミミミミミ帖らミGミミミ職§ミQリミミ魯ミミ◎ミ︑魯︶︒要するにハチソ
ンは︑﹃蜂の寓話﹄の著者であるマンドゥヴィルなどの利己主義道徳理論を批判し︑古代の思想家であるプラトン
や近代の思想家であるシャフツベリなどの道徳理論を受け継ぐと共に更に発展させようというのである︒
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さてハチソンによれば︑道徳感覚を含むすべての感覚は神によって賦与されたものであるが︑その感覚には二種
類ある︒一つは︑視覚︑聴覚などの外的感覚︵Φ×8筥巴ωΦ昌ωΦω︶で︑われわれの意志に直接関わることなく︑快・
不快の知覚を決定する感覚︑いま一つは︑美の観念を知覚する能力としての感覚である︒美の中で最も優れた美が
﹁多様性の中の統一﹂︵鐸三ho鴇巨名簿旨δ2く鶏圃①蔓︶を例証する美で︑それは数学的に論証し得る︑とハチソンは
︵55∀いう︒道徳感覚は︑内的感覚に含まれる感覚である︒それ故に︑ハチソンにおいては美と善とは同意語である︒こ
の意味でハチソンの思想はプラトン︑そしてシャフツベリの思想に似ている︒しかし︑ハチソンの感覚︑従って道
徳感覚は生得的なものではないから︑プラトンやシャフツベリとは明らかに思想を異にする︒
ハチソンによれば︑道徳感覚は神が人間に賦与したものだが︑それは神が人間を幸福にするためであった︒幸福 ︵56︶とはどのようなものであれ快的な感覚︑あるいはそのような感覚が続いている状態︑のことである︒ところで快的
な感覚を与えるものはすべて善といい得るが︑この善には自然的善と道徳的善とがある︒前者の自然的善︵コ舞午
﹁巴帥qoo亀は自己愛によって得られ︑後者の道徳的善︵ヨ︒鐙一αqoo匹︶は道徳感覚によって判断される︒つまり︑
道徳感覚とは道徳的善・悪を判断する能力のことである︒従って道徳的善とは道徳感覚が快を感じて受け入れたも ︹57︶のということになる︒では道徳感覚はいかなるものを快として受け入れるのか︒ハチソンによれば︑それは︑人間
の行為の中で公共の利益を意図してなされた行為︑利他的意図をもってなされた行為である︒それ故︑そのような
行為は︑その結果がわれわれに利益をもたらすと否とに関わらず︑またその行為が自分だけでなく第三者に対して
なされた時でも︑道徳感覚はそうした行為から快を感じ︑その行為を道徳的に是認する︒そのような道徳感覚は生
得的なものではないが︑人間本陛に本来的に存している︑とハチソンはいう︒
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ところで︑このような道徳感覚によって何よりも是認されるのが仁愛である︒それは利他的行為の起因である感
情であって︑ハチソンはそれを徳の本質とする︒この仁愛の感情は︑自分の幸福ではなく他の人々の幸福を究極の
目的として望むものである︒親子の愛情︑恩人への感謝︑他人の不幸に対する三盛︑などが仁愛の例であるが︑し
かしそれはまた︑人類的感情でもあって︑地域や国家︑更には時代をも超えて存在する︒ハチソンの道徳理論はこ
のように利他主義的なものであったが︑しかしハチソンは︑自己愛や利己心をすべて排除したのではない︒ハチソ
ンは︑勤労︵ヨ創gω﹃︽︶を促すような自己愛︑利己心は︑全体の利益にとって必要であるとしてこれを認めた︒
D・ヒュームの経験論的入間学の研究(十二)
︵1V 霞¢ヨρ∪郎ぽ黛畿総庶ミ§賢幽きミ蚕唱.臥凶.・前掲邦訳O︑一八頁︒尚︑S・コプリやA・エドガーによれば︑ヒューム 注
のいう文芸批評は現代の美学に当たる︵Qo.Oo覚曙陣﹀﹁国ユぴq費..ぎ#&仁∩δδ乳.凶コO§ミミ§食の⑪§尉潮曇︒︒塁︒・曽O×︷oad三く・
勺吋Φ霧層一㊤㊤ω戸×<ご
︵2︶ 国億ヨΦ∪←きミ 前掲邦訳四︑九頁︒
︵3︶︵4︶ =麟∋ρU二きミやO﹂繍.前掲邦訳四︑九頁︒
︵5︶ 国ニョ①・U・きミ.植℃.卜︒㊤9 前掲邦訳口︑三九頁︒
︵6︶ ﹃道徳原理研究﹄では次のように言われている︒﹁︹道徳︺︵ζo︻境目の一般的基礎について最近始まった論争は︑大いに検討
に値するものである︒それは︑道徳が︹理性︺︵菊①¢︒ω○ロ︶から引き出されるのかそれとも︹感情︺︵ωΦ葺巨①コこからか︑我々
は一連の論議と帰納とによって道徳の知識に達するのかそれとも直接の感じ︵閃①①一ヨひQ︶および鋭敏な内部感覚︵営審∋巴
ωΦ話①︶によるのか︑真理︵宝冠げ︶と誤謬︵審﹃臥ooeに関するあらゆる健全な判断のように︑道徳はすべての理性的英知的
存在︵舜け凶︒轟=算巴貫Φ三σΦ凶コひq︶にとって同一であるのか︑それとも美醜の知覚のように︑それは人間という種族に独特な組
織と構造とに完全に基礎を置いているのか︑という論争である﹂︵∪.国¢ヨρ両ミミ識飛・・も.嵩ρ渡部峻明訳﹃道徳原理の研究﹄哲
霊旦房︶︑二頁︒
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またヒュームは︑この閏題の扱われ方が古代と近代とでは異なるという︒即ち︑古代においては︑徳︵二二仁①︶はしばしば理
性と︼致するものと説かれたが︑しかし一般的には︑道徳の起源は感情と趣味︵3簿Φ︶に由来すると考えられていた︒これに
対して近代では︑多くの場合︑道徳的区別を知性の最も抽象的な原理からの演繹によって説明しようとしてきた︒と︵U噛
説¢ヨρhミミ蔑塁薯.一¶O−ド前掲邦訳︑ニー三頁︶︒
︵7︶︵8︶国=ヨρUム謡ミ蹄鴨駄ミミ§さミ蕊も誌切①前掲邦訳四︑=一髪︒
︵9︶︵!0︶ =目ヨρU.一奪ミ㎏ロ.ホ︒︒.前掲邦訳四︑一五一一六頁︒
︵1/︶ O呂巴曾Z8プ︒δ︒︒二鳶裳噛ミ︑肋︑貯ミ§ミ︒ミNぎ§︒・魯電︑℃①け9ピきσqレリ︒︒㊤wO﹂ωメ
︵21﹀︵B> 国属ヨ①り︼︶二奪脳猟︾唱.戯靹OQ曜晶削掲邦訳四︑ 一←ハ頁︒
︵14︶ 雷⊆ヨρ∪こ奪ミ堕℃︒心$.前掲邦訳四︑一七頁︒
︵15V 寓ニヨρU.Nミ罫℃.象ρ前掲邦訳四︑一八頁︒
︵16︶ ヒュームは続けて次のようにいう︒﹁︹理性との︺一致不一致は程度︹の差を︺許さない︒從って︑一切の徳及び悪徳はもちろ
ん等しいであろう﹂︵∪邑出§ρρ奪ミ随℃.ら①9前掲邦訳四︑ 一九頁︶︒
︵17︶ この一例としてヒュームは次のような面白い例を挙げている︒﹁例えば︑私が隣家の妻に淫らな振舞に餓ているのを窓越しに
児る者は極めて単純に︑彼女が間違いなく私の妻であると想像しよう﹂︒しかし実は︑﹁私の色欲ないし情念を満足させるために
営﹂んでいるのである︒確かにこれは他人に誤った判断を起こしている︒だが︑﹁私が隣家の妻と戯れに耽るさい︑用心して窓
を閉じておいたとすれば︑私は反道徳性の罪を負うことがなかったであろう︒何故なら︑私の行動は完全に隠蔽され︑従って誤
つた判断を産む傾向を少しも持たないからである﹂と︵O■国二戸ρNミ猟いP幽曾曽コ一︒前掲邦訳四︑二〇1一頁︶︒
︵18︶ この議論に対しては︑﹁生命のない事物は自由と選択を持たずに行動する﹂という反論がなされるかもしれない︑しかしヒュ
ームは︑﹁もし錯誤を惹き起す傾向が反道徳性の起源であるとすれば︑この傾向と反道徳性とはいかなる場合にも分離できな
︹く︑従って自由や選択を云々する余地はな︺いであろう﹂︵∪.=筆工①︾まミ﹂Pまド5一.前掲邦訳四︑二一頁︶と再反論する︒
︵19︶ 顯=ヨρU﹂毎寄ミ職題ミミミ§さミ黍℃9心①︒︒.前掲邦訳⑳︑二四頁︒
︵20︶ O呂巴費Zご魯■ミこ燭℃.お山.
︵21︶ Zo詳︒ジU.閃.鴇§辱鼠計bO■
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D・ヒュームの経験論的入間学の研究(十二)
︵22︶ 拙著﹃ヒューム体系の哲学的基礎﹄二四九一五二頁︒また︑即竃.丙且負沁範翁§§賊Ooミ§ミ§ミミ軸︑恥寒騎欝魯O戸島﹂
O.カ¢ωω①=俸幻口沼巴﹄一ρP一㊤爵.参照︒
︵23︶ 拙著﹃ヒューム体系の哲学的基礎﹄第五章第四節︒
︵24V寄轟︑℃Φ8野§ミト欝駄\︒壽夕空◎簿鳴ミミ三味ミ§㌦ざ§ミのOミミ愚§職§8誉ミミ黛む§賊9ミ§o愚貯融し口8易く︒︸.卜︒︒
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︵25︶ Uo6げρ一こ︾ミ銅誘ミミミ聴§帖鑓韓馬§黛鳶§§義ミ§ミ謡鱗︑℃.①&.
︵26︶︵27︶ い8評ρ卸さミ㌧℃■切一①.前掲邦訳日︑二八五頁︒もっともロックは︑数学︑幾何学の論証の方が道徳的論証より次のよう
な点で利点のあることを認めている︒日数や図形を表わすために︑使用可能な可感的記号や形がある︑口道徳的観念の方が数や
図形の観念より複雑である︵一.ピoo評ρ奪ミb℃.誤O.前掲邦訳⑳︑五一頁︶︒ロックが論証可能な道徳の具体例として挙げている
のは︑所有権や統治の観念である︒ロックは前者について︑﹁﹃所有権のないところに不正義はない﹄は︑エウクレイデスの
︹﹃幾何学原本﹄の︺どの論証とも同じように絶対確実である﹂と︑また︑後者について︑﹁統治の観念は一定の規則ないし法に
もとつく社会の確立であり︑絶対の自由の観念はある人が自分の好きななんでもすることであるから︑私は︑数学のどの命題の
真理とも同じように︑この命題の真理を絶対確実とすることができる⁝⁝﹂︵旨ぴoo評ρきミ㌧署噛罐O凸O︒前掲邦訳働︑五〇頁︶︒
ロックの論証的道徳については多くの議論すべきことがあるが︑ここではとりあえず︑それが思考様式にも関係しているという
ことを指摘しておこう︒ロックによれば道徳的観念は混合様相︵巳×①αヨ︒αΦω︶i心が自分自身に寄ぜ集めたような観念集
成8︒ヨ烹轟鉱︒霧鼠己舞ω︶1である︒そしてロックは混A口様相について次のようにいう︒﹁混合様相は自然に作られるので
はなく︑人間が作る︵ζ︒︒暁ωコ類鉱ロひq︶のだから︑その名まえの精確な意昧表示︑あるいはまったく同じだが︑︹混合様相の︺
それぞれの種の実在的本質は知られるはずである﹂℃.竃9 ︵旨けoo犀ρ奪帆罫前掲邦訳日︑二八五頁︶︒これには︑入間が作った
ものであるから実在的本質までこ七ごとく知られ得るという考えが見られ︑ヒュームの考えとは著しく異なることが知られる︒
︵28︶ ぴ︒穿ρ﹄こ㌧ミ3ワ$.前掲邦訳e︑七六頁︒A・J・シモンズも述べているように︑道徳性の論証可能性は﹃自然法論﹄
︵勢硫遷勧︒試ミ鴨﹄爲ミ肯きミミVにも見られ︑しかもそれは神によって保証されていると論じられている︒シモンズはロックの
論証的道徳と神︵Ooα︶との関係を︑以下のようにまとめている︒ eわれわれの感覚と理性が神の存在を顕示する︒㊤われわ
れの感覚と理性が知的存在者としての人間の存在と入間が神によって創造されたものであることを顕示する︒㊤かかる神と人間
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