鈴木商店と台湾開発-樟脳事業を中心に-
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(2) 目次 序論 第一節 問題の所在 第二節 先行研究 第三節 研究方法. 第一章 鈴木商店の来歴と台湾進出. 8. 第一節 時代区分 一一一一一一一…一一一一一一一一一…一一…一一一一一一一一一一…一一一一一一一一一……一. 8. 第二節 創業期〈明治10(1877)年∼明治28(1895)年〉 一一一一…一一一一一…一一一一. 10. (1)鈴木岩治郎 (2)柳田冨±松と糖業 (3)金子直吉と樟脳業 第三節 発展期〈明治28(1895)年∼大正3(1914)年〉. ……一一一一一一…一…. 19. (1)台湾進出と樟脳業の農閑. a 樟脳同業者との共同進出 b 樟脳専売制度と後藤新平. C 再製業参入 d 精製業参入 (2)糖業の展開 一北港製糖から東洋製糖へ一 a 株式会社大里製糖所 b 糖商鈴木商店の台湾進出 C 北港製糖株式会社 d 東洋製糖株式会社 (3)塩業の展開 一台湾塩業から大日本塩業へ一 a 台湾塩専売制度 b 台湾塩業株式会社 C 大日本塩業株式会社 (4)鈴木合名会社と事業の多角化 第四節 絶頂期〈大正3(1914)年∼大正11(1922)年〉 一一一一一一一一………一一. (1)世界的貿易商社への飛躍. a b C d. 大戦景気 民間外交 一目氷船鉄交換一 本店焼き討ち 戦後恐慌と100倍増資. (2)工業化の促進 (3)台湾での事業展開. a b C d. 台湾北部での糖業経営 一宜蘭殖産・大正製糖・日本拓殖一 石炭業への進出 一台湾炭業一 大製糖会社への資本参加 一林本源製糖・塩水港製糖一 重工業分野進出の抱負 一幻の「神戸製鋼所打狗分工場」土. 一 i. 46.
(3) 第五節 斜陽期〈大正11(1922)年∼昭和2(1927)年〉. 一一一一一一一一一一一一一一一一一一. @74. (1)鈴木商店の業績不振 (2)台湾銀行と鈴木商店. a 台銀の対鈴木商店貸出 b 台銀の鈴木商店整理と「鈴木合名・株式鈴木」 (3)鈴木商店の破綻. a 日粉問題 b 震災手形処理法案の審議 C 破綻. ’{■{. 男_早. 第一節 (1). a b. 鈴木商店と台湾樟脳専売制度 台湾における脳業政策の推移. 88. 一一一一一……一一一一一一一一一一…一一一一一一一一一…・88. 領台以前の脳業政策 明清代の台湾脳業政策と外商支配 陳方伯の専売制度と樟脳条約 劉銘伝の専売制度とその廃止. C (2). a b. C d (3). a b C 第二節. 領台以後の脳業政策. 樟脳業の取締 一r官有林野及樟脳製造業取締規則」一 樟脳・樟脳油に対する課税 一r樟脳税則」r樟脳油税則」一 専売制度施行前の樟脳官署 外商の樟脳利権とその回収 樟脳専売制の導入 台湾単独専売制 一「台湾樟脳及樟脳油専売規則」一 向台共通専売制 一r粗製樟脳・樟脳油専売法」一 樟脳専売官署と機構 鈴木商店と樟脳製造. …一一一一一一一…一一一一一一一一…一一一…一一一一一一一一一一一一一100. (1)製脳. a b C d. 製脳特許 原木払下 製脳組織 官打製脳. θ 官営製脳 一小松組から台湾製脳株式会社へ一一 f 鈴木商店の関与 (2)収納及び補償金 (3)運搬 一後藤回漕庄一. a 樟脳の台北輸送 b 樟脳の神戸輸送 C 樟脳油の運送 (4)調理. 五.
(4) 第三節 鈴木商店と樟脳販売. ………一一一一一一一一一一一一一一…一一…一…一…一一一一117. (1)欧米精製原料輸出重視期〈明治32(1899)年∼明治41(1908)年〉. a サミエル・サミエル商会への売渡販売請負 b 精製原料輸出重視政策からセルロイド原料輸出重視政策への転換 C 内台両専売局による直売制度への移行 d 三井物産合名会社の委託販売請負 (2)国内精製原料供給重視期〈明治41(1908)年∼大正7(1918)年〉. a 国内精製樟脳業の発達 b 国内精製業重視針への転換 C 精製業合同の気運 一台湾精製樟脳株式会社一 (3)国内精製及びセルロイド原料供給重視期〈大正7(1918)年∼昭和2(1927)年〉 a 専売樟脳の販売方針に関する閣議決定 b 日本樟脳株式会社の海外委託販売請負 C 合成樟脳との戦い 第四節 鈴木商店と樟脳精製. 一一一一一一一一一一一一………一一……一一一一一一一一一二一一一一136. (1)松田茂太郎と日本の樟脳精製業 (2)精製業合同 一目本樟脳株式会社一 第五節 鈴木商店と樟脳油再製. 一一…一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一…………一一140. (1)台湾単独専売制施行下の樟脳油再製く明治32(1899)年∼明治36(1903)年). a 台湾産 一r売下再製」からr請負再製」へ一 b 内地産 一「請負再製」の開始一 C 鈴木商店と三井物産の相克 (2)内台共通専売制施行下の樟脳油再製〈明治36(1903)年∼昭和2(1927)年〉. a 「官営再製」の導入 b 鈴木商店樟脳油売渡をめぐる内台専売局の応酬 C 再製業の合同 一再製樟脳株式会社一 (3)副産油販売. a 赤油1白油販売 b 藍油販売及ぴデシンフエクトール製造販売. C 芳油販売 第六節 鈴木商店と樟脳及樟脳油利用工業 ……一一…一一一一一一一一一一一一一一一一一一一…156. (1)セル国イド業. a セルロイドの発明と園内セルロイド産業の勃興 b セルロイド生地製造業の発展 C セルロイド生地製造業の合同 一大日本セルロイド株式会社一 (2)その他の工業. a 柳田龍脳製造所 b 東工業株式会社 結論. 163. 〈資料編〉. 描 一.
(5) 鈴木商店と台湾開発 一樟脳事業を中心に一 序論. 第一節 問題の所在 鈴木商店は、明治10(1877)年、砂糖を取引する鈴木岩治郎の個人商店として神戸弁天 浜に創業した。経営は1頃調に推移し、岩治郎の死後、店主鈴木よねのもと大番頭に金子直 吉、柳田冨士松の両名を据えると、新領土となった台湾にいち早く進出、民政長官後藤新 平の信頼を背景に、樟脳、砂糖などの事業で成功をおさめ、その後の飛躍をもたらす基礎 を築いた。そして第一次世界大戦の好景気に乗じて、三井・三菱をしのぐ世界的貿易会社 へと極めて短期間に成長したのである。またこの間、商業によって得た利益の多くを産業 部門に再投資し、最盛期には直系傍系合わせた事業会社60有余(1)を有する一大コンツェ. ルンを形成した。その中には神戸製鋼所、帝国人造絹糸(現帝人)、クロード式窒素工業 (三井東圧化学→現三井化学)、日本商業(日商岩井→現双目)などがあり、それらは日. 本の経済界をリードする企業としていまなお健在である。しかし、大戦後の反動恐慌や関 東大震災によって膨張した事業は大打撃を受け、昭和2(1927)年、台湾銀行からの融資が 打ち切られたことで事業継続を断念、昭和金融恐慌の引き金を引く形で破綻したのである。. 鈴木商店の約半世紀にわたる歴史にはおよそ3つの大きなステージがある。1つ目はス プリングボードとなった「台湾開発」、2つ目は世界へ雄飛した「大戦景気」、3つ目は自 らの幕引きとなった「金融恐慌」である。今目鈴木商店が最も知られるのは、3つ目の「金. 融恐慌」というステージにおいてであろう。我々が最初に鈴木商店に出会うのは、一般的 には高校「日本史」においてであり、その記述は例えば次のようなものになる。. 1927年、議会でこの震災手形の処理がはかられたが、そのさい、一部の銀行の不良 な経営状態があばかれ、ついに取り付け騒ぎがおこって銀行の休業が続出した(金融 恐慌)。ときの若槻礼次郎内閣は、大戦中に急成長した鈴木商店に対する巨額の不良 債権をかかえた台湾銀行を緊急勅令によって救済しようとしたが、枢密院の了承が得 られず、総辞職した。. (山川出版社『詳説日本史』平成20年度版). 砂糖などの台湾との取引で急成長した商社の鈴木商店が破産状態となり、これに巨額 の融資を行っていた台湾銀行も経営危機に陥った。. (三省堂『日本史B』平成20年度版) すなわち「日本史」における「鈴木商店」は、金融恐慌という昭和初期の一大経済事件 を説明する重要語句として登場するからである。したがって鈴木商店の歴史的意義の第一 は金融恐慌の発信源としてのそれであり、経済学とりわけ金融財政学的論考においては、. この金融恐慌にまつわる一素因としての鈴木商店が研究の第一義となっている。ではその 鈴木商店はいかに世界的商社となったのか、その急成長の要因は何か、反対に急速に事業 一1一.
(6) が悪化していったのはなぜか、現代の企業経営にとってその成功と失敗から何が学べるか といった関心が次にわき起こってくる。この分野は主に経営学の研究対象となるが、ここ に登場してくるのが大番頭金子直吉である。なぜなら鈴木商店はその飛躍から破綻まで] 賞して金子のワンマン体制で経営が行われたため、「鈴木の研究」は自然「金子の研究」. とオーバーラップせざるを得ないからである。金子の魅力は何といっても実業家、経営者 としてのそれである。したがってその研究は2つ目のステージ「大戦景気」における事業 拡大(あるいはその後の経営難)が対象とされるのである。. さて1つ目のステ』ジ「台湾開発」における鈴木研究である。鈴木商店にとってこのス テージはr大戦景気」r金融恐慌」といった大舞台に向かう前史に位置づけられるため、 通史的記述の必要上、多くの研究者は一通りの説明を施す。すなわち台湾進出の経緯、専 売事業の請負、製糖会社の設立などに言及し「スプリングボードとしての台湾」を確認す るのである。しかしそれはあくまで概略記述の域を出ない。一方台湾研究の立場からは、. 樟脳、砂糖といった個別産業の研究の中で鈴木商店の関与に言及するにとどまり、植民地 台湾の経済全体を鳥瞭するにおいても、鈴木が三井や三菱と並んで台湾経済を独占した内 地資本の」翼をになったとする大づかみな理解が一般的である。したがって、鈴木研究に. おいても、また台湾研究においてもr台湾における鈴木商店の事業展開」の具体の姿を描 き出す研究はいまだなされていないのである。鈴木商店は世界雄飛の基礎を「台湾」でっ くり、「台湾」を舞台として政界とのパイプを構築し、その没落の引導は「台湾」の中央. 銀行たる台湾銀行が渡したのであって、r台湾」というキーワードは常に鈴木商店の命運 とともにあったのである。にもかかわらず、鈴木商店の台湾での事業展開に?いては、そ ののちの華々しい世界雄飛と劇的な幕引きというドラマの蔭に隠れて光があてられること はなかった。本論文の着眼はそこにある。. 鈴木商店の台湾における事業展開は樟脳業への進出に始まり、その後糖業、塩業を加え、. その他製材、植林、土地開墾、農場経営、石炭業およびそれらに付随する商取引などに多 角化した。しかし主たる事業は樟脳業、糖業、塩業であり、したがって研究対象もこれら 三事業が中心となる。本論文ではこのうち樟脳業を取り上げ論考を加えたい。樟脳業を最. 初に取り上げる理由は以下の3点である。第一の理由は、樟脳業は糖業とともに草創期鈴 木商店の二大事業であり、台湾進出の動機はまさに樟脳業基盤の確立にあったからである。. 金子は民政局長(のち民政長官)として赴任した後藤新平と面会し、後藤の主張する樟脳 専売制導入にいち早く賛意を示すとともに、反対する数多の樟脳業関係者をとりまとめ専 売制導入を後押しした。その結果後藤との関係のみならず、後藤を通じて浜口雄幸をはじ め中央政界に強固な人脈を築きあげ、政商としての活動の場を開拓した。また台湾銀行と の関係も後藤の仲介によるものであり、台銀は資金面で鈴木商店を支え続けた。鈴木商店 の事業拡大を「扇」の広がりに例えるならば、樟脳業はその「要」に位置する事業といえ るのである。第二の理由は、樟脳業のもつ裾野の広さにある。専売制度導入までの樟脳業 は単に粗製樟脳を輸出するにとどまっていたが、専売制導入以降は、内地で粗製樟脳を精 製する事業が確立し、さらに樟脳を原料としたセルロイド、レザーなどの新産業が次々と 立ち上がった。また領今後にはそれまで廃棄されていた樟脳油から樟脳を取り出す再製業 も盛んとなり、同時に生成する副産油は香料や選鉱剤の原料として新たな起業機会を生み 出した。鈴木商店はこのような樟脳から派生する多くの産業分野をいち早く開拓して積極 一2一.
(7) 的に投資し、それぞれ日本を代表する産業に育てていったのである。鈴木商店はいわば樟 脳業の川上から川下にいたるまですべての過程に関与したのであり、樟脳業におけるこの ような存在は鈴木商店をおいて他にないといってよい。第三の理由は、樟脳専売が台湾統 治にもたらした効用にある。明治38(1905)年台湾財政はようやく本国財政からの独立を 果たすが、この年の台湾財政歳入項目の中で樟脳専売による収入はその筆頭となっており (2)、その後も台湾財政を支え続けた。また樟脳専売の成功は内地資本の台湾進出を誘発. し、糖業をはじめとする台湾産業の興隆を先導したのである。鈴木商店はこの樟脳専売に 最も深く関与した会社なのである。この意味においては、「鈴木にとっての台湾」の追求 を主たる目的とする本研究は、その過程において同時に「台湾にとっての鈴木」をも照射 し得るような内容をもつものとなり得ると考える。. 以上樟脳業を取り上げた理由を3点にわたって述べてきたが、その詳細は本論に譲らな ければならない。将来的には、研究対象を樟脳業から糖業、塩業へと広げ、台湾における 鈴木商店の事業展開の全容を明らかにすることが最終日標である。本論文における考察は その端緒と位置づけたい。. 第二節 先行研究 矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』(岩波書店、1929)は、日本統治下台湾の社会経済史 に関連する事象を論ずるにおいてまず踏まえるべき古典的名著といわれている。鈴木商店 と樟脳専売への論及も見られるが、矢内原は、鈴木を三井・三菱と同様の内地独占資本と 位置づけている。三井・三菱が内地での資本蓄積をもって台湾に進出したのに対し、鈴木 は台湾を出発点としたとして既存財閥との差異性を認めてはいるものの、複数の製糖会社 を傘下におさめ、専売樟脳をほぼ独占している状況をもって、鈴木は帝国的独占の一翼を 担う存在と結論づける。そしてこの「資本家的独占は政府の権力と政策によって創始」さ れたとして、植民地経済における国家権力の介在を強調している(3)。しかし、矢内原の 認識からもうかがえるが、鈴木は専売樟脳を請け負った時点ではまだ神戸の一中堅商社に 過ぎなかったのであり、三井・三菱との差異性はもっと重視されるべきである。また専売 制という非競争的市場の創設は樟脳の国際市場動向と密接に関連しているもののそれへの 言及は十分なされておらず、議論の余地を残している。. 鈴木商店の研究は桂芳男をもって第一人者とする。彼の「産業企業の育成と商社」(宮 本又次他編『総合商社の経営史』東洋経済新報杜、1976)、「財閥化の挫折一鈴木商店一」. (日本経営史講座第三巻『日本の財閥』日本経済新聞社、1976)は、鈴木の通史を詳細に. 描いた上で、「総合商社」「財閥」という切り口をもって分析を加えている。台湾進出に ついては樟脳業と関連させて論じており、鈴木の後身会社である太陽鉱工や日商が所蔵す る内部資料を豊富に用いた論考は説得力がある。『総合商社の源流 鈴木商店』(目’本経. 済新聞社、1977)はこれらの研究成果を一般向けに再構成したものである。また、鈴木の 樟脳業進出を「工業を土台とした商業の展開」の事例として取り上げたものとして、井上 忠勝「鈴木商店と金子直吉」(神戸開港百年史編纂委員会『神戸開港百年史(潜勢編)』 神戸市、1970−72)があるが、両者の研究はいずれも鈴木商店の全体像を描き出すことを 一3一.
(8) 目的としているため、樟脳専売と鈴木商店との関係を細部にわたって論ずるには及んでい ない。金融恐慌に関連した鈴木分析としては、高橋亀吉『大正昭和財界変動史』中(東洋 経済新報杜、1955)が代表的である。また経営組織論、経営者論、経営戦略論、経営管理 論など経営学的なアプローチを目的とした論考としては、井上忠勝「鈴木商店金子直吉に おける経営者機能と企業者機能」(高橋幸人郎編『日本近代化の研究』下 東大出版会、. 1972)、上月直人「鈴木商店の経営者層」(『経営史学』第25巻第1号、1990)、岩谷昌樹 「総合商社の成長要因」(『立命館経営学』第37巻第6号、1999)などがあげられる。 最後に樟脳専売に関する先行研究を見る。台湾樟脳政策に関する総合的な研究としては、. 程大学「台目樟脳政策史の研究」(大阪市立大学博士論文、一997)が突出している。程の研 究は樟脳の政策史的な変遷についての探求であるが、その対象は樟樹に関する古文献から現 代文献の洗い直し、樟樹の地理的分布、造林保続、含脳量、製月菌法、化学的性質、経済的価. 値効用、生産と販売、専売、合成樟脳など樟脳問題のほとんどを網羅している。しかし、樟 脳専売制の仕組みや運営について見れば、専売制度そのものが政策史の大きな流れの中の一 つとして位置付けられているため十分に論考されているとはいえない。平井寛一「日清目露 戦後の台湾植民地財政と専売事業一阿片と樟脳を中心に一」(『土地制度史学』第129号、1990). は阿片及び樟脳を事例として、専売の収支構造を台湾財政、日本財政との関わりの中で位置 づけようとする研究である。山元粗製脳業を対象とした研究としては、中村勝「日本資本主 義の樟脳政策と台湾高地先住民」(『名古屋学院大学紀要 社会科学編』第34巻第4号、1998). がある。マルクス主義的歴史観に立脚し、専売制によって山元粗製脳業が内地独占資本に合 同・集中されてゆくプロセスを分析する。内地独占資本が山元粗製脳業を管理下に置いたこ とで本島人による家内労働は苦役の場と化し、脳長や脳下は賃労働者へと転化していったと 見る。鈴木もまたその内地独占資本の一つとして登場する。黄紹恒「不平等条約下の台湾領 有」(『社会経済史学』67−4.2001)は、児玉・後藤体制以前の領台当初二年間の樟脳政策を 研究対象としている。「官有林野及樟脳製造業取締規則」「樟脳税則」が引き起こした英独と. の軋櫟の中で、不平等条約改正問題を抱える日本が、台湾樟脳をめぐり、現行対外条約を台 湾にいかに適用しようとしたかを究明するものである。外交史的論考が主であり、内地資本 の進出に対する詳しい分析は見られない。以上のように、総じて台湾樟脳研究においては、. 専売制度そのものや鈴木商店の事業に対する関心は高いとは言えず、その実態究明は今後の 研究を待たねばならない状態にある。. 第三節 研究方法 本稿が依拠した主な参考文献は以下の通りである。なおこれら参考文献には、史料に加 えて、前節で分析した先行研究のほか、論考に必要な各関連分野における先行研究をも含 めて提示している。いずれもそれらが史料として吟味すべき内容であったり、論考上必要 なデータを含有する文献であるとの理由による。. 【鈴木商店関連】. ・白石友治『金子直吉伝』(金子柳因両翁煩聴会、1950). 一4一.
(9) ・白石友治『柳田冨士松伝』(金子柳日ヨ両翁頒聴会、1950). ・日商株式会社『日商四十年の歩み』(1973). ・城山三郎『鼠鈴木商店焼討ち事件』(文春文庫、1975). ・桂芳雄「産業企業の育成と商社 一鈴木商店一」(宮本又次編『総合商社の経営史』東 洋経済新報杜 1976). ・桂芳雄「財閥化の挫折一鈴木商店一」(日本経営史講座第三巻『日本の財閥』日本経済 新聞社、1976). ・桂芳雄「総合商社の源流一鈴木商店一」(日本経済新聞社、1978). 【昭和金融恐慌関連】. ・高橋亀吉『大正昭和財界変動史』上巻・中巻(東洋経済新報杜、1954) ・大蔵省昭和財政史編集室編『昭和財政史』10巻(東洋経済新報杜、1955) ・台湾銀行史編纂室編『台湾銀行史』(台湾銀行史編纂室、1964) ・日本銀行編『日本銀行百年史』第三巻(1983) ・朝目新聞社編『昭和金融恐慌秘話』(朝日文庫、1999). 【樟脳業関連】. ・台湾総督府殖産局『台湾樟脳専売志』(1924). ・日本樟脳株式会社『精製樟脳史』(日本樟脳株式会社、1938) ・再製樟脳株式会社『再製樟脳縁起』(再製樟脳株式会社、1940) ・日本専売公社『樟脳専売史』(1956). ・三井文庫編『三井事業史』本編第1巻(1971). 【糖業関連】. ・台湾総督府殖産局特産課編『台湾糖業概観』(1927) ・水沢市立後藤新平記念館編『後藤新平文書』(1980) ・糖業協会編『近代日本糖業史』(上)(勤草書房、1962) ・樋口弘『日本糖業史』(内外経済杜、1956). 【塩業関連】. ・台湾総督府殖産局特産課編『台湾塩専売志』(1925) ・鶴見祐介『正伝後藤新平』(藤原書店、2005). 【台湾史関係】. ・伊能嘉矩『台湾文化志』(フ]江書院、1928). ・矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』(岩波書店、1929). ・若林正丈『矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読』(岩波文庫、1988) ・伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』(中公新書、1993). 一5一.
(10) 【新聞】. ・「台湾目目新報」「大阪朝日新聞」「東京日日新聞」「神戸又新新聞」「神戸新聞」「国民 新聞」. 【社史】. ・目高、神戸製鋼所、播磨造船所、帝人、川崎汽船、日本製粉、豊年製油、日本油脂、ダ イセル化学工業、目塩、後藤回漕店、日本銀行、台湾銀行、第一銀行、三井銀行 【営業報告書(考課状)1. 東洋製糖、塩水港製糖、林本源製糖、台南製糖、朝日製糖、宜蘭殖産、日本拓殖、大目 本塩業(東洋塩業、台湾塩業)、台湾製脳、日本樟脳、再製樟脳、太陽曹達、台湾炭業 *雄松堂『営業報告書集成』第一集∼第九集に収録. 研究は、まず鈴木商店関連、または樟脳業、糖業、塩業に関連する一次史料をもとに、 鈴木商店の具体的な事業所名、事業内容を検索して事業の概要を把握した。次に社史が現 存する場合はそれと比較考量し、さらに新聞、営業報告書など、当時の実態を直接表す動 態的史料で、鈴木商店としての行動、その事業、事業所への関与の度合いについて、裏付 けをとる手法を用いた。. 第一章「鈴木商店の来歴と台湾進出」では、まず鈴木商店の来歴を確認し、台湾との関. 係を樟脳業、糖業、塩業の3つの事業毎に把握することにつとめる。特に樟脳業について は、本論文の中心的論考となるため、ここでは台湾進出の状況について詳述し、樟脳業に おける企業活動の実態については第二章に振り分ける。糖業、塩業については本章で出来 うる限り詳述することを心がける。第二章「鈴木商店と台湾樟脳専売制度」では、鈴木商 店の樟脳事業を検討する前鐸として、まず台湾における樟脳政策の推移を、清朝末の陳方. 伯、劉銘伝の脳業政策、領台当初専売制施行までのr官有林野及樟脳製造業取締規則」に 基づく政策、そして台湾単独専売制、内台共通専売制の順に時系列でその導入の歴史的背 景や制度的な特徴を把握することにつとめる。その後、鈴木商店が樟脳専売にどのように 関与したかを[製脳コ日収納コ[運搬][販売コ[再製コ[精製コの各段階において、専売制. 度の運営の実態と鈴木商店の関与を分析する。この中には[運搬コのように鈴木商店がほ. とんど関与しない段階も見られるが、その請負主体がr後藤回漕店」という、台湾での鈴 木商店を考察する上で欠くこととのできない企業であるため、詳細に論じたものもある。. また専売制度の枠外になるが、鈴木商店が関与したセルロイド業、龍脳業、レザー業につ いても、樟脳の川下産業の広がりを示し、かつ鈴木商店の事業の特徴をより明示するため、. r樟脳及び樟脳油利用工業」の一節を設けてまとめることとした。このような分析の過程 を通じて、台湾における鈴木商店の事業展開がもつ歴史的意義を検証する。. 註 (1)鈴木商店の関連企業数は出典によってばらつきが生じている。桂芳男は『総合商社の源. 流鈴木商店』(日本経済新聞社、1978)において、大正12年から昭和2年までの関連金 一6一.
(11) 業分析を行っているが、参照している『帝国興信所神戸支所内報』『台銀中川頭取の稟請. 書』など8つの史料中最も少ないもので49社、最も多いもので65社をあげており、総 数を60杜台とする史料が最も多い。このため本稿では鈴木傘下の事業会社数を60余杜 と表現した。ばらつきの原因としては、調査年が異なること、直系傍系といった関連企業. の定義に若干の違いがあることが考えられるが、このほか桂は聯木商店は、金子の国策 商人的性格、国益志向的経営理念のために、関連企業の社名に財閥家族の姓を用いず、「帝. 国」とか「(大)日本」とかの名称を多用したため、関連企業の全貌のとらえ方に混乱が 生じている」(p.140)と指摘している。桂は8つの史料から延べ数で78社を引き出してい る。. (2)平井寛一「日清目露戦後の台湾植民地財政と専売事業一阿片と樟脳を中心に一」(『土. 地制度史学』第129号、1990)の計算によると、1905年の台湾歳入構造(決算)2,541 万円のうち官業収入が1,392万円で、そのうち樟脳収入は420万円となっている。 (3)若林正丈『矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読』(岩波書店、1988)pp.56−57. 一7一.
(12) 第一章. 鈴木商店の来歴と台湾進出. 第一節 時代区分 鈴木商店の来歴における「台湾」の存在は、「三井・三菱は内地において蓄積したる資 本をもって台湾に進出したものであるが、鈴木商店はこれに反し台湾を基礎とし出発点と してその巨大なる資本蓄積事業拡大を遂げた」(1)という矢内原忠雄の指摘が端的にその. 重要性を表している。台湾という舞台がなければ、鈴木商店は神戸という地方都市の一個 人商店として歴史に埋没していたかもしれない。本章では鈴木商店の創業から破綻までの 半世紀を概観しつつ、台湾との関係を抽出し検討する。検討の便宜上、鈴木商店の半世紀 を区分する必要がある。桂芳男は、その企業形態に着目し、. 第一期:明治10(1877)年∼明治35(1902)年 → 個人商店時代 第二期:明治35(1902)年∼大正12(1923)年 → 合名会社時代 第三期:大正12(1923)年∼昭和2(1927)年 → 鈴木合名・株式鈴木時代 という3つの時期に区分し分析を試みている(2)。経営史に軸足をおいた研究としては理 に適った時代区分であろう。しかし、台湾を切り口として鈴木商店をとらえようとする本 研究では、白ずと異なった時代区分を必要とする。それを考えるにあたっては鈴木商店と. 台湾との関係の有無、距離の遠近をIつの目安とするのが妥当であろう。そこで本章では 約半世紀にわたる鈴木商店の来歴を以下のように四期に区分し分析することとした。. 第一期:明治10(1877)年∼明治28(1895)年 → 草創期 第二期:明冶28(1895)年∼大正3(1914)年 → 発展期. 第三期:大正3(1914)年∼大正H(1922)年 → 絶頂期 第四期:大正11(1922)年∼昭和2(1927)年 → 斜陽期 まず1つ目の区切りを、明治28(1895)年の下関条約とそれに基づく領台においた。 鈴木商店(鈴木に限ったことではないが)と台湾との関係が無から有に劇的に変化した時 点だからである。またその前年には店主鈴木岩治郎の急逝を受けて、鈴木よねを店主とし、. 金子直吉、柳田冨士松を大番頭として両翼に据える、鈴木商店にとって不動の体制が整っ. ている。したがって、明治10(1877)年の創業から、神戸で糖商としての地盤を固めた この時点までを「草創期」と位置づける。そこから2つ目の区切りとなる大正3(1914) 年までを「発展期」と位置づけたい。鈴木商店にとって台湾との関係が最も濃密な時代で ある。すなわち樟脳業を足がかりに台湾に地盤を築き、「東洋製糖」の設立をもって製糖 業に進出し、また「台湾塩業」の設立をもって台湾塩の販売権を手中に収めるなど、台湾. における鈴木商店の事業の三本柱が形成されたのがこの時期である。しかし大正3年の第 一次世界大戦勃発は鈴木商店を世界に跳躍させることとなる。これ以降は、台湾での事業 は鈴木にとっては既存のもの、数ある事業の一部となり、世界を股にかけた華やかな商取 一8一.
(13) 引や内地での矢継ぎ早の起業が注目される時代となる。まさしく三井・三菱など既存財閥 と並び称せられる鈴木商店の「絶頂期」と位置づけてよいであろう。しかしその時代も長 くは続かない。反動恐慌を何とか凌いだ鈴木商店も、軍縮による神戸製鋼所の受注消滅、. 石井定七破綻事件との連想から手形決済が困難になるなど、大正11(1922)年を前後し て財政苦難の時代に突入する。この年には豊年製油が設立されているが、鈴木商店の新規. 起業、多角拡大化路線はこれを限りに終了している。したがってこの年をもって3つ目の 区切りとする。そしてこれ以降を「斜陽期」と位置づける。この時期は財政難を背景に鈴 木商店の台銀融資への依存度が急激に高まる。いわば金融面で再び台湾との関係が濃密と なった時代といえるのである。それに伴って、翌年には台銀主導のもと組織改革が行われ、 「合名鈴木」は、持株金杜の「鈴木合名」と貿易部門の「株式鈴木」に分離する。これ以 降台銀管理の下で破綻回避の模索が続くのである。. 註 (1)若林正丈『矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読』(岩波文庫、1988)p.56 (2)桂芳男「産業企業の育成と商社 一鈴木商店一」(宮本又次編『総合商社の経営史』 東洋経済新報杜、1976)p.177. 一g一.
(14) 第二節 草創期〈明治10(1877)年∼明治28(1895)年〉 台湾が日本に帰属する前のこの時期、あえて鈴木商店と台湾との接点を探るならば、そ れは台湾進出の直接の動機となった樟脳業について、またそれに続く製糖業進出にむけて、 どのような事業上の実績をあげてきたのか、資力を蓄積してきたのかということであろう。. 樟脳は専売であったから、総督府が実績のない企業に請け負わせることはない。また糖業 は専売ではなかったものの、「糖薬奨励規則」の趣旨に照らして考えるならば、事業進出 には実質的に総督府の承認が必要であり(1)、これもそれまでの実績がものをいうからで. ある。鈴木商店は、草創期にこれらの条件をすでに備えていたからこそ、領台というチャ ンスをものにできたのである。その意味では、草創期は台湾進出に向けての準備期間であ ったとの意義づけができよう。では準備はいかに行われたのか。鈴木商店をその創業から 眺めつつ検討したい。. (1)鈴木岩治郎. 創業者鈴木岩治郎の出自についての詳細は不明である。先行研究あるいは戦後になって 出版された鈴木商店関係の書籍、社史の多くは、大阪毎日新聞掲載記事「関東関西の財閥. 鳥蹴一貿易商社としての鈴木一」(大正12年5月4目∼26目)を引用し、彼の出自を説 明している(2)。これによると、岩治郎は武州川越藩の足軽徳治郎の次男として生まれ、. すぐ養子に出されたとある。明治27(1894)年に54才で亡くなった(3)ので、数え歳 で考えて天保12(1841)年の生まれとなる。菓子屋の丁稚となり、やがて江戸で駄菓子 屋を開いた。その後菓子作りの新しい知識を得るために長崎で修行し、帰途神戸に立ち寄. った時、店を開いたが失敗し、大阪の砂糖商辰巳屋(4)が神戸弁天浜に開いた出張所に 雇われた。岩治郎の長崎仕込みの砂糖の鑑別と商才は出張所を支店に昇格させるまでにな り、明治7(1874)年には主任となり(5)、明治10(1877)年、店主松原恒七が病気で事 業継続が困難となると、暖簾分けとして、残務整理の上神戸店を譲り受けた。商号は辰巳 屋を使用し、「神戸辰巳屋・カネ辰・鈴木商店」を名乗った。これが鈴木商店の創業であ る。なお大阪長堀本店は松原恒七の娘婿である藤田助七に引き継がれ、「大阪辰巳屋・カ ネ辰・藤岡商店」となり、以後鈴木商店とは同族的連携を保った(6)。また、この年には のちに女店主となるよねが岩治郎に嫁いでいる。. 明治期に入ってわが国の砂糖市場では、関税白主権のない中で、安価で良質の洋糖が急 激に流入し従来の和糖を駆逐していった。これに伴って、旧来の和糖流通組織は衰退し、. 和糖の全国的集散地であった大阪の地位は低下し、逆に輸入市場として神戸の地位が高ま った。岩治郎と洋糖との出会いは、辰巳屋神戸出張所時代が最初である。『柳田冨士松伝』. によれば、出張所で、岩治郎が煎餅を焼いて売っていると、毛唐人が現れ、買い季がつか ずもちあぐんでいたのか、ただ同様にして麻袋の砂糖をおいていった。それはジャワ糖で、. 和糖よりも甘いことに着目した岩治郎は、素早く毛唐船と直接交渉してジャワ糖を買い込 み、方々の菓子屋へ売り込んだ。このジャワ糖は香港集散裾物糖(中国本土、台湾、フィ リピン、ジャワなどから香港に集められる家内工場生産による白糖、赤糖)の一種である。. 後には香港車糖(機械製糖による精白糖)が進出し、次いで欧州甜菜糖がそれに取って代 一10一.
(15) わったが、岩治郎はこれら洋糖の取扱いを中心として事業を拡大していったのである。. 香港車糖は香港の中華火車糖局と東洋糖局が生産したが(7)、明治7,8年頃にまず中 華火車糖局糖が神戸の外国商館に輸入され、岩治郎は、同族の大阪辰巳屋藤田助七らとと. もに買い入れを行っている。明治17年頃より、東洋糖局糖が輸入され始めると、これも 鈴木・藤田の両辰巳屋らが主要な取引商となって販売を行った。この頃になると、香港車 糖間の競争や、洋糖取引商間の販売競争が激しくなり、鈴木・藤田は、その他主要取引商. 三者とともに、明治22年「無限責任洋糖商会」を結成した。これは香港車糖の取引を独 占するための販売カルテルで、明治24年にはこれを利益配分の上解散し、匿名組合であ る「丸五組合」に再編、関西における香港車糖の一手引受人となった。出資割合は.鈴木が26. %で、藤田の20%を合わせると、両辰巳屋で46垢を占めた。香港車糖のほか、香港集散 裾物糖、台湾赤糠、マニラ糖なども鈴木など5,6社の大手筋が取り扱った。また明治25,6 年頃より欧州甜菜糖が関西に出回り始めたが、ドイツ甜菜糖、ハンガリー甜菜糖は神戸の 鈴木・湯浅が、ロシア甜菜糖については神戸の鈴木、大阪の岩井商店が取引の首位を占め. た。鈴木商店が欧州甜菜糖を扱ったことで、明治28年頃より香港車糖はその地位を明け 渡すことになった(8)。. 当時外国商館との取引決済はすべて洋銀で行われたため、輸出商と輸入商との間に立っ て為替事務を行う両替商が必要で、岩治郎はこの両替商をも手がけていた。むしろ糖業よ りも両替商が先行していたとの指摘もある。. 輸入されていた砂糖は大阪の藤田助七、石田庄兵衛、伊藤茂七の三人が特定販売人と いった形で独占していた。そんなら鈴木は何をしていたかというと両替商をやってい たのである。・・(中略)・・砂糖は当時親類筋の藤田助七がやっていた関係上やれな. かったという理由もある。それで鈴木は前記三店への積出と決済事務を取り扱ってい たような訳である。・・(中略)・・両替屋の鈴木も全然砂糖を扱わなかった訳ではな. い。例の藤田から少しずつ分けて貰っては兵庫の間屋筋へ売って居ったには居ったが. それは殆というに足りないものであった。本当に手をつけ始めたのは明治21,2年の 頃でフィロンセー商会の主人に相談して香港市場で一千俵程買い入れたのが、日本に おける精糖の直輸入の初めである(9). これによると、独立前には辰巳屋の神戸支店、大阪支店として共同で洋糖買い出しをし ていたが、独立後しばらくは、鈴木商店は辰巳屋本店を継承する藤田商店の後塵を拝しな がら糖業を営んだようである。しかし洋糖商会を経て、丸五組合設立時には、出資額にお いて藤田商店を上回っていることから、この時期には関西洋糖市場における覇者となって いたことは間違いない。. 岩治郎は、このほか明治15(1882)年には共同会社神戸石油商会の設立に関与し、ま た明治17年1月、神戸港貿易の取り締まり機関である「貿易会所」の副頭取に就任し、 いよいよ神戸財界に登場することになる。次いで明治19年に神戸商法会議所復活発起人 となり、この年、資力三万円以上の「神戸有力八大貿易商」にランクされた。明治20(1887). 年には公式の株式取引所である「神戸区取引所」の設立発起人として活躍し、明治24年 神戸商業会議所第一期議員に選出されている(1O)。このように一経済人にとどまらず、 一11一.
(16) 公人としての足跡をも刻んだ岩治郎であったが、日清戦争勃発直前の明治27年6月、妻 よねと二児を残し急逝したのである。. 鈴木商店関係者には、あたかも航海中舵を失った船のごとく、大きな衝撃となった。今. 後の事業継続の是非についての協議が行われ、親戚筋からは、遺産9万円で親子3人楽に 暮らしてゆけるから商売を畳んではどうかという意見も出た。しかしよねは次のように述 べ、事業継続の意思を明らかにしている。. 折角主人が此処まで築き上げた身上であり、別に借金があると云う訳てばなし。店員 も皆よく働いて呉れる。殊に直吉は樟脳の方に慣れて来たし、冨士やんは子飼から砂 糖の方は手に入ったものだし、今の所別に欠損もなく儲けも相当にある。・・(中略). ・・妾はこの遺された仕事を継いていくことが亡き夫への務めではありますまいか。. (ll) 「妾も捧がけで店の人達と同様に働きます」というよねの決意に店員一同粉骨砕身を誓っ. たため、結局、よねの実兄西岡仲右衛門、同族の藤田助七の2名が後見人となることで事 業を継続することとなった。「直吉は樟脳の方に慣れてきたし、冨士やんは子飼から砂糖 の方は手に入ったものだし」とあるように、店主よねが、事業継続の要として全幅の信頼 を寄せたのが大番頭金子直吉、柳田冨士松の両名であった。鈴木商店は、砂糖部門を柳田 冨士松、新規事業として軌道に乗りつつあった樟脳部門を金子直吉に担当させ再出発した。. 店主よねを中心に両翼に金子、柳田を配置する鈴木商店の一貫した組織スタイルはこの時 始まったのである。この後鈴木商店が歴史に名を残す世界的総合商社となった原動力は、. 金子、柳田のそれぞれの才覚と両者の絶妙のコンビネーションであることを考えると、岩 治郎が、自分の事業を引き継げるまでに両名を鍛え上げたことの意義はまことに大きいも のがあると言えよう。. (2)柳田冨士松と糖業. 柳日ヨ富士松は慶応3(1867)年生まれ、辰巳屋店主松原恒七の実子である。母ハナは正 妻ではなかったが、正妻同様の待遇を受けていたという。小学校卒業後恒七の妹の嫁ぎ先 である藤商柳田卯兵衛の養子となったが、卯兵衛が相場に手を出し没落したため一旗揚げ. ようと出奔し、知人の伝手を頼りに神戸の鈴木商店に入店する。明治18(1885)年富士 松19才の時である。岩治郎はこの時「俺は若い時お前の親爺には随分世話になった。お 陰で今ではどうやら此の通り店をやって行ける様になった。俺も主人の恩返しのつもりで お前を一人前に仕立ててやるが、主人の子供だからと云って決して竹やかしたり特別にい たわったりはせんぞよ。他の奉公人並びに朝晩の勤めを怠ってはいかぬぞ」と冨士松を厳 しく戒めている(12)。岩治郎病没の折には、冨士松はよねに砂糖部を任されるまでに成長. していたが、糖業をいかに学んだかについて、史料は多くを語っていない。ただ、明治21. 年から23年の冨士松年譜には「頃年砂糖売り込みに寧日なかりき。徒歩にて東は京都、 西は明石姫路まで砂糖売り込みに歩き、又得意先を大いに奔走す」(13)とあり、岩治郎が. 商売のイロハを徹底的に教え込んだことがうかがえる。冨上松はこうして岩治郎が本業と した糖業を継承する実力を身につけ、岩治郎の時代には商館取引の域を出なかった糖業を、. 直接貿易する先鞭を付け鈴木商店を世界的砂糖商に仕上げた。その後の事業多角化の中に 一12一.
(17) あっても」賞して糖業の道を歩んだのである。「砂糖は柳田翁の一生の恋人であった。恐 らく寝ても覚めても翁は砂糖のことを忘れた目とてなかったであろう」というかつての部 下の回想はそれをよく物語っている。 柳田の人柄については、「温厚、淳和、純情、実直で人間味豊かな慈父の感じ」(14)、. 「頗る廉潔で酒も飲まず道楽もせず真面目」方で希に見る正直者で物にこだわらぬことは 君子人の風があった」(I5)という評価が代表的なものであろう。商売のやり方についても、. 「柳田さんは堅実主義で商売は地味な方であった。大きく儲けない代わりに損をしないと いう建前であった」(16)とあり、私生活、事業面ともに多くの人々の信頼を集めていた。. 事業面における柳岡の堅実主義は、鈴木商店を拡大路線に導いたもう一人の大番頭金子直. 吉と対極をなすものである。柳田は、1才年上ではあるが入店では後輩格になる金子の非 凡さをいち早く見抜き、白ら一歩引く形で終始金子の補佐役に徹した。長男柳田義一は「明. 治三舟のうち、高橋泥舟に心酔していました。自分は動かずに、人を動かすのが得意なん でしょう。自分もそれになり切ろうとしたフシがあります」(17)と述べている。日清戦争. 直後、先物取引の失敗などで収益が振るわない金子の樟脳部門を、堅実な商法で利益を上 げていた柳田の砂糖部門が大いに助けた(18)。大正9年の反動恐慌の折には、柳田主導で 世界市場における砂糖の大量買付そして売り捌きを行い、拡大路線で疲弊した鈴木の窮地 を凌いでいる。. 両人は丁度鳥の両翼の如く、車の両輪の如く、鈴木には全身も守備も能く完備して互 に励み、励ました。少しも反目敵視することなく、終生管飽の交をして長短賛譲した ればこそ、第一次欧州戦争以来貿易部の躍進となり、神戸製鋼所初め六七十工場の製 品を貿易に直結し、鈴木があれだけに大を成し遂げたのである。故に両人が鈴木に尽 くしたその功績も先ず五分五分と云ぶべきである(19)。. 「鈴木の金子」か「金子の鈴木」かと言われるほど、鈴木商店は金子直吉をもって語ら れるのが一般的であるが、その世界的雄飛は、金子の積極性に柳田の地道な行き方が充分 に加味され初めて実現したものと見てよいだろう。殊に台湾進出の観点から見た時、鈴木 商店の台湾における製糖業の展開は、糖業エキスパートたる柳田の眼力なくしては成立し 得ないものであった。. (3)金子直吉と樟脳業. 金子直吉は慶応2(1866)年土佐に生まれている。父を甚吉、母を民といった。『金子 直吉伝』によると、もともとは高知城下の富豪の家系であったが、甚吉の代にはその目の. 生活にも事欠く有様だったという。このため直吉は学校へもあがらす、11才の時に紙屑 拾いを始め、12才で長尾糖商店、13才で乾物屋野中幸右衛門の店に丁稚奉公し、15才で 再び長尾糖商店に戻った。その後すぐ質屋傍士久万次の店に移り、丁稚からやがて番頭に なった。ここで直吉は読書の機会に恵まれる。質物の軍学書、翻訳本など手当たり次第に 濫読し、独学勉強に励み、読み書きも一通りできるようなった。また当時の土佐は自由民 権の気風盛んなところで、直吉も青雲の志を抱き、天下国家に対する視座を身にづけると ともに、さらに政治や法律の本も読み進み、自分の学問に相当の自信をもつようになって 一13一.
(18) いった。明治16(1883)年に傍士は質屋を廃業し砂糖店を開いたが、商売一切を番頭の 直吉に任せたため、糖業に通ずる機会も得た。明治18年、主人が民事訴訟を抱えると、 自ら弁護を買って出て、二度法廷に立ち二度とも勝訴へと導いている。傍士の直吉への信 頼は並々ならぬものがあり、神戸に出て西洋人相手に商売がしたいという直吉の意思を汲 んで、彼を鈴木商店に推薦したのである。ちなみに後年直吉の妻となる徳子は傍士の娘で ある(20)。. 明治I9年、21才のとき直吉は鈴木商店に雇われた。しかし岩治郎の厳しい蟻に堪えか ねてわずか3ヶ月で土佐に逃げ帰った(21)。よねの取りなして神戸に戻ってきた直吉は、. 岩治郎に「何か商売をやりたいものがあったらやってみよ。何でもお前に任せるから」と 言われる。彼はようやく念願かない、早々内地の砂糖、鰹節、茶、肥料などを扱い、さら に岩治郎の命により樟脳売買を手がけるようになるのである。鈴木商店が外商相手に樟脳 取引を始めたのは明治23(1890)年である(22)。この年樟脳取引で先行していた同じ神 戸市内の中島商店から番頭谷禎蔵を引き抜きこれに当たらせている。すでに樟脳業界「間 屋側の代表的人物」として金子直吉の名が見えるところから、この年までに樟脳取引の地 盤を着々と築いてきたのであろう。. 再製樟脳について言えば、外国商館との取引は明治12(1879)年高知の大野和吉が、 神戸の貿易商中島保之助に託してドイツ商館に売り渡したのが最初である。神戸には中島 商店の他、割11米次郎、後藤勝造(23)などの貿易商があり、高知の再製業者は、この三者. を仲介して取引し、大阪の再製業者は、福永銀行を仲介者とした。明治22年神戸市の池 田勘兵衛が新たに樟脳売買に参入し、翌年鈴木商店が参入したことで、前の三者は廃業に 追い込まれ、また明治’28年に福永銀行が破綻すると、鈴木と池田の両商店は神戸、大阪 の再製樟脳を殆ど一手に握ることになった。再製業者は、当初製脳業の盛んな四国や九州 に勃興したが、鈴木商店が参入した頃にはおおむね大阪と神戸に参集していた。さらに、 外商の進出、海運の利便性から再製業の中心は鈴木商店の本拠地神戸が有利となっていた。. 再製業者は鈴木・池田の何れかから樟脳油の供給を受け再製作業の後、樟脳と副産油(赤 油・白油)を鈴木・池田に戻し入れ、鈴木・池田が外商と取引する、いわゆる委託請負制 であった。外商も信用本位の取引を旨とし、鈴木・池田以外とは取引はしなかった。商館 出入りを厳しく制限され、池口ヨ商店からは中居豊三郎ら2名、鈴木商店からは金子直吉I 名に限られた(24)。. 金子が樟脳取引の重要性を認識したのは、彼が樟脳産地土佐の出身であることと無関係 ではないだろう。土佐における製脳業の隆盛については、明治維新前後の製脳業の状況を 『樟脳専売史』が次のように記述している。. 高知藩においても安政年間に入ってから樟脳業製造が盛んとなり高岡郡の海岸近くで は至る処製脳場を見るようになった。・・(中略).・・当時は樟脳は殺虫剤として外国. 人に大に珍重されておったので取引は盛んであった。その後藩もその有利なことを認 め、製脳業を藩の直営事業となし、土佐の海岸至るところ樟脳製造の煙の上がらざる 処がない位の盛況となり、・・(中略)・・慶応年代には藩の長崎役場を設置し、藩直. 接にサラバ商会と取引し、その売掛金で軍艦数艘を買入れ、討幕の戦争に土佐の海軍 すなわち官軍側の海軍として華々しい活躍をした(25)。 一14一.
(19) 高知地方においては、御手先仕事と称し製脳は藩直営事業としたが、実際の製造は個 人の自由に任せ国益第一主義で極力製造を奨励したため、慶応年間に入っては土佐国 一円に製脳場が設けられ、高知の人岩崎彌太郎は三菱会社を起し留木制木の願下げを なし、大々的に製脳に従事した(26)。. 幕末から維新後にかけて、土佐は鹿児島とならんで樟脳の一大産地であった。明治I0 年頃に全国に普及した製脳法はその名も「土佐式製脳法」であり、旧来のものに土佐人が 改良を加えたものであった(27)。そればかりではなく、樟脳油から樟脳を抽出する再製樟. 脳の技術も、やはり土佐人の手によって開発・改良が行われたのである(28)。20才まで を土佐で過ごした金子が製脳業や輸出品としての樟脳の特性に早くから目をつけていたと 考えるのが自然であろう。のちに台湾樟脳専売制が施行されたとき、鈴木商店は樟脳油の. 65%の販売権を獲得するが、これが台湾開発に深く食い入るきっかけとなった。これは 従来廃棄していた樟脳油を重要産物化した功績によるもので、樟脳に対する土佐人ならで はの独特の感覚が功を奏したものであろう。. ところで、金子はこの樟脳取引で新体制で出発したばかりの鈴木商店を危機に陥れてし まうのである。当時樟脳は日本産と台湾産で世界の供給量の80−90%を占めていた。∵方 その需要は、医薬、防虫、防臭、防腐剤からセルロイド原料に至るまで広い用途をもって おり、庶民の必需品であった。このため投機の対象となりやすく値動きが激しかった。イ. ギリスの大相場師ノースは、明治28(1895)年目本領台によって樟脳が品薄になると読 んで、世界的な買い占めを行っていた。これを読めない金子は、高騰を続ける樟脳を上限 100斤40円と踏んで、外国商館へ「先物の売約」をした。ところが金子の予想に反して、. 樟脳は最高で95円の値を付け、現物引き渡しの要求に対するすべを失った金子は、懐中 に短刀をしのばせ、最大の売約先シモン・エバース商会に向かい、「ハラキリ」の覚悟で 誠意を示し、僅かの現物と4,OOOドルで合意、同じ手法でオット・ライマース商会とも手 打ちとなった。その一方で福永銀行とラスペ商会との仲裁に乗り出し、双方から謝礼6,000. 円を得てその後の事業資金すら確保するという剛胆さを示している(29)。当時の樟脳相 場の高騰と、樟脳商の損失の様子を『神戸又新日報』で確認したい。. 近頃樟脳相場の暴騰甚しく昨今當港に於ける責買相場は八十回以上に昂揚せり。斯る 高値は當港にて樟脳の輸出始まりし以来、多く聞かざる所なりと。暴騰の原因は品少 なの為めなるべしと云ふ 〈『神戸又新日報』(明治28年8月10目)「樟脳の暴騰一神戸港につき一」〉. 昨今當港に於ける上等枯物にて九十圓より九十五回なりと云 く『神戸又新日報』(明治28年8月11目)「樟脳暴騰一神戸港相場につき一」〉. 當港にては近来樟脳相場の暴騰の為内地売込商人より居留地外商館へ現品を引渡すに 就き非常に損失を為し、大手の商人中には数万国の損失を招きたるものあり。其の他 樟脳商とも損失を昭一かざるものは一人もなしとの毒なるが其原因を聞くに外商への売 一15一.
(20) 約を結び置きて後現品の売約を結びたるもの多し。其の都度七十圓にて売込み八十圓 にて買入るると云ぶが如く後上がりとなりたればなりと云ふ。三四ヶ月前より内地商 人が外商へ売込みたる樟脳の高は大客五六十万斤にして外商人中にも買約はなしたる ものの内地商人が果たして約束通り現品を渡し得るや否頗る気遣ひ居たる中なるに内 地商人が損失を顧みず契約の信用を重んじて悉く皆現品を引渡したるには外商人も大 いに感服し居れりと云ふ 〈神戸又新日報(明治28年9月21目)ギ樟脳商の損失」〉 樟脳相場は時々刻々と上昇を続け、また鈴木商店だけでなく樟脳商のほとんどが先物売 りで損失を被ったことがわかる。. 桂芳男は著書『総合商社の源流 鈴木商店』(日経新書、1977)の中で、イギリスの大 相場師ノースによる買い占めを、「台湾が日本領土となり、日本の混成第七旅団が樟脳生. 産者でもある島民の反乱討伐のために基隆に上陸(明治29年1月12日)したという電報 がロンドンにはいると、r樟脳の品薄必至」と読んでひそかに世界的なスケールで樟脳の 徹底的買い占めを断行していた」というように、明治29年の出来事と記述しているが明 らかな誤りである。上記新聞記事によってもわかるとおり、樟脳価格高騰は明治28年初 夏より明治29年春頃までのことで、その動きは【表1.2.1】が示すとおりである。 【表1−2.1】明治28・29年粗製樟脳相場表(lOO戸当、単位:円) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月. 明治28年38,442,949,151,372,677,276,879,690,799,284,685.3 明治29年80,681,182,268,752,041,544,250,950,952,456,148.1 註)欄外備考欄に、「明治二十八、九年に於ける価格の騰貴は日清戦争に乗じてノース氏の買占を. なしたるに依る」とある。 出所)台湾総督府『台湾樟脳専売志』附録p.60。. したがって、ノースを買い占めに走らせた情報は、明治28年4月17目の台湾割譲を内 容に含む下関条約の調印に関するものでなければならない。このような混乱は『金子直吉. 伝』の年代記述に一因があると考えられる。「… 事実明治廿九年八月頃は破算の外は ない運命にまで立ち至り… 」(同書p.55)、あるいは「彼が樟脳の思惑で失敗して苦し. んでいたころ、軍艦松島が神戸に入港した。明治二十九年頃日清の役に殊勲をたてた軍艦 だというので見物人が山の様に押しかけた」(同書p.59)などの記述はいずれも明治28年. てなければならない出来事である。特に後者は軍艦松島の神戸入港を明治29年としてし まっているところから、鈴木商店の台湾進出の時期を特定するのに大きな混乱を生じさせ いるのだが、これについては後述する。いずれにしても、この一連の事件の申で、店主よ ねの金子に対する信頼は微動だにしなかったという。その後の金子の奮起の源はここにあ ったのである。. 以上見てきたように、日本領台時において、鈴木商店は柳田の糖業、金子の樟脳業とい. う、事業における二大支柱を確立していた。一方台湾では、明治31(1898)年児玉源太 郎総督、後藤新平民政局長が赴任すると、すぐさま樟脳を一切官営とすることを布告して、. 翌32年には台湾樟脳局を設け、阿片、塩とともに専売制を布いた。台湾樟脳を重要産業 と位置づけ国家の独占としたのであ・る(30)。一方、台湾の殖産興業政策の柱に位置づけ 一16一.
(21) たのが糖業であった。後藤は新渡戸稲造に提出させた『糖業改良意見書』を実現すべく、. 明治35年に「糖業奨励規則」「同施行規則」を発布し、糖務局を設けて奨励策を実行に移 し始めたのである(31)。鈴木商店と台湾という、それまで何ら接点をもたなかった両者 の中で、相互にその存在と成長にとって必要とするファクターが、この時期偶然にも一致 を見たのである。. 註 (1)糖業協会編『近代目本糖業史』(動草書房1962年)p288.rこうした傾向は他の奨 励規則・補助事項についてもほぽ共通するところであって、総じて奨励規則のねらいが、 上述のような基準に適応しうる程の資力をそなえたものを中心にして、蕨園の拡充と新一 式製糖工場の設立を推進することにあったことは明かである」 (2)たとえば、白石友治『柳田冨士松伝』(金子柳田両翁頒聴会、1950)、日商株式会社 『日商四十年の歩み』(1968)、桂芳男「産業企業の育成と商社一鈴木商店一」(宮本文. 次編『総合商社の経営史』東洋経済新報杜、昭和51年11月)。 (3)白石友治『柳田冨士松伝』(金子柳田両翁頒聴会、1950)p.7. (4)白石、同上書p.17−18によると、当時の辰巳屋は「煙草入の商売だけでは飽きたら. ず、当時未だ鎖国の世であったがひそかに中国人と取引を始めて、砂糖、籠甲、象牙、 珊瑚類の貿易に手を伸ばした。・・(中略)・・鎖国が解けてから益々商売の規模を拡大 して、・・(中略)・・長堀の岸1壁に毎朝づらりとつく荷物船は殆ど辰巳屋の砂糖船で昼. 頃迄には大勢の手であの辺り一体の倉庫におさまってしまう状態で当時貿易商として名 声噴々たるものであった」とある。 (5)白石、同上書p.6 (6)桂芳男前掲論文p.183. (7)樋口弘『日本糖業史』(内外経済杜、1956年)p.438、中華火車箱局、東洋糖局とも. イギリス系資本。前者はジャーゲン・マジソン社の経営、後者はバターフィルド・エン ド・スワヤ社の経営である。 (8)樋口、同上書pp488−497. (9)神戸新聞「砂糖の巻 今昔物語」(大正12年7月7日∼8月4日連載) (10)桂芳男「産業企業の育成と商社 一鈴木商店一」では、神戸市『神戸市史本編各説 』(上)および神戸市『神戸開港三十年史』(坤)を引用しこの事実を確認している。 (11)白石、前掲書p.55 (12)白石『柳田冨士松伝』p.39 (13)白石、同上書p.7. (14)白石、同上書・感想文p.64、高橋手助(旧鈴木商店重役)「柳日]さんの想ひ出」よ り。. (15)白石、同上書p.71. (16)白石、同上書・感想文p.74、上村政吉(旧鈴木商店大阪支店長兼砂糖部長)「柳田 翁を偲ぶ」より。. (17)神戸新聞社編『海鳴りやまず(1)』(神戸新聞社、1977)p235. 一7一.
(22) (18)神戸新聞社編、同上書p.238 (19)白石、前掲書・感想文p.11O、高橋半助談。 (20)白石友治『金子直吉伝』pp.37−50. (21)白石、同上書pp.51−52。岩治郎にはいつも叱られており、鋏を研いだ時よく研げた. とほめられたのもっかの間、柄の錆が落ちていないとまた叱られたこと、失策を怒られ て算盤で頭を殴られて血を出しながら平身低頭謝ったこと、毎日精魂込めて働いたが、. やらせてもらえるのは砂糖と洋銀取引の貸金の取り立てで、貿易を見習う機会がまった くなかったことなどが紹介されている。岩治郎はかなり気性の激しい人だったようであ る。. (22)再製樟脳株式会社編『再製樟脳縁起』(再製樟脳株式会社、1940)p.51 (23)後藤回漕店『百年の歩み』(後藤回漕店、1983)によると後藤勝造は嘉永元(1848). 年長野県生まれ。佐久間象山の門弟となり、同門下から唯一実業界を志した。明治10 (1877)年後藤回漕店を開業、後藤新平の知遇を得て台湾に進出した。金子直吉が後藤 新平との関係を築けたのもそもそもは勝造の伸介による。 (24)再製樟脳株式会社編、前掲書pp.51−53 (25)日本専売公社『樟脳専売史』(正)(日本専売公社、1956)pp.25−26. (26)日本専売公社、同上書p.27. (27)再製樟脳株式会社編、前掲書p.165。万延元(1860)年高知中村の人飴屋与平氏の. 改良による。従来の小社式に比べ、操作簡単、作業能率増大、歩留向上、仕込原料は十 数倍の投入が可能となった。 (28)再製樟脳株式会社編、同上書p.343。「樟脳油再製の始祖としては高知の人画森拙三. 氏または中沢助次氏、町田實則氏等の名が挙げられ、これが根拠についてはそれぞれ首 肯せらるる点がないとはせぬが、.通説としては同地の大野和吉、小松駒太郎の両氏が有 力視されている」とある。 (29)白石友治『金子直吉伝』p.54−59. (30)鶴見祐輔『正伝後藤新平』(藤原書店、2005)p.328. (31)鶴見、同上書p346. 一18一.
(23) 第二節 発展期〈明治28(1895)年∼大正3(1914)年〉 領台から第一次世界大戦勃発に至る約19年間の鈴木商店は「台湾進出」と「事業の多 角化」という2つの点で特徴づけることができる。「台湾進出」は樟脳および樟脳油獲得 を目的として始まり、やがて糖業、塩業へと拡大する。樟脳業については明治36(1903). 年の樟脳内台共通専売制度までの動きを論考の主な対象としたい。樟脳専売制度と鈴木商. 店との関わりの詳細については章を改めて検討する。後者2事業については、それぞれの 中心会社である「東洋製糖」「大目本塩業」の設立に至る経緯を中心に考察し、鈴木商店 が台湾で展開した三大事業がどのように確立されたのかにっいて検討する。一方明治末年 前後に集中する「事業の多角化」については、そのシンボル的企業をいくつか取り上げ、 この時期の事業拡大の様子を概観する。. (1)台湾進出と樟脳業の展開. a 樟脳同業者との共同進出 桂芳男は、鈴木商店の台湾進出について、鈴木商店が明治40(1907)年に発行した『樟 脳二関スル履歴書』を引用しているが、これによると、. 明治二十九年ヨリ台湾台北大稲垣建昌街二丁目二於テ小松組脳行名義ノ下二樟脳及樟 脳油ノ買収二従事ス。此際マテ台湾二於テハ樟脳油二価値アルコトヲ知ラザリシ為メ、. 従テ製脳ノ際油ヲ採取スルコトヲナサザリシモ小松組二於テ店員ヲ諸方二派遣シ油ノ 有用ニシテ相当ノ価値アルコトヲ土人二説キ聞カシタル為メニ始メテ台湾ノ市場二樟 脳油ナル物産ヲ現出スルニ至レリ(1). とある。この史料はわずか1O年ほど前の出来事を他ならぬ鈴木商店自身が発行した文書 であるから、最も信頼に足るものである。これによると鈴木商店1ヰ、単独ではなく、市内. の同業者と共同で台湾に進出し、明治29年より小松組名義で大稲垣において樟脳及び樟 脳油の取り扱いを開始したのである。ここにみえる「小松組」とは、神戸市内の樟脳間屋 と再製業者でつくった同業組織であり、再製業者の代表的存在であった小松楠彌(2)の名 が付けられたものである(3)。. ところが『再製樟脳縁起』年表には、明治28年8月の出来事として「小松楠彌ハ鈴木 商店其他ノ人々ト渡蔓シ、盛二樟脳油採取方ヲ勧誘シ又台北二開店シア脳及油ノ買入ヲ為 ス」(4)とあり、『柳田冨士松伝』の冨上松年譜にも、明治28年の記述に「鈴木より店員 を台湾に派遣し樟脳及樟脳油の責買を為さしむ」(5)とあるのである。前掲『履歴書』と. の時期のずれはどこに原因があるのだろうか。この点を『金子直吉伝』の記述をもとに明 らかにしていきたい。. 『金子直吉伝』によると鈴木商店の台湾進出の第一歩は店員小松平太郎の派遣をもって 印された。「明治二十九年頃」「樟脳の思惑で失敗して苦しんでいたころ」の話として、 金子は、神戸に入港した軍艦松島に分隊長として乗り組んでいた、幼馴染みで先輩格の島 村速雄に会いに行った。これから日本の領土となった台湾を取りに行くと聞いた金子は是. 一19一.
(24) 非便乗させて欲しいと頼んだが、島村は無論取り合わない。その後、これも同郷で親友の. 肥岡県之が大工100人を台湾に送る命を受けていることを知り、その取締のような資格で 店員を潜り込ませることに成功した(6)とある。この店員が小松平太郎である。無事帰国 した小松より、台湾には樟脳が豊富にあり、かつ樟脳油は廃棄されるとの報告を金子は受 け取っているが、これらの情報は以前より得ていたようであり(7)、この時点では直属の 部下からの情報に基づく再確認ということになる。. 『金子直吉伝』のこの記述は時期の設定に明かな誤りが確認できる(8)。ここでは「明 治二十九年頃」の話として紹介されている一連の出来事ではあるが、実際は明治28(1895). 年のことと読み換えるべきだろう。なぜなら軍艦松島は連合艦隊の旗艦であり、これより. 台湾接収に赴く途上とあるからである。事実松島は明治28年5月神戸港に停泊し呉鎮守 府司令長官海軍中将有地品之允を迎えている(9)ことから時期的に一致する。一方松島の. 明治29年の入港は確認できないのである。また前節でも検証したが、樟脳の価格がこの 年の5月から急騰しており、金子が「樟脳の思惑で苦しんでいたころ」(正確には「苦し みはじめた頃」であろう)に一致するのである。. さて、鈴木商店の渡台の動きが明治28年に現れていたとして、小松平太郎は「大工に 紛れ込んで」この年のいつ頃渡台したのかである。この時期を推量できる史料が『神戸又 新日報』の記事に見いだせる。. 神戸樟脳商同盟曾にては近目台湾へ同地樟脳に係る實況取調として委員を渡航せしむ る由、尤も商人としては目下渡台を許されざるに就き職工渡台に就之れが頭領を兼ね 行くものなりと云う〈神戸又新日報(明治28年7月3目)「台湾へ委員を派遣せん」〉 この記事には『金子直吉伝』の記述と内容的に符合する表現が見て取れる。この時期、 神戸港より台湾に向けての軍夫派遣を「神戸又新日報」は幾度か報じている(10)。また肥 日ヨ景之は東京の銀行家であり、当時軍からの依頼を受け戦地に軍夫を派遣する事業を請け 負っていた人物として軍関係史料にもその名が登場する(l1)。金子は小松平太郎を単独で. このような職工の集団に潜り込ませたのではなく、視察団の一員として送り込んだのであ る。しかも新聞が報道するほどであるから、この便宜措置は半ば公的に認められていたと. 考えることができる。さらにこの報道は7月であり、「近目台湾へ委員を渡航せしむ」の であるから、8月に渡台・開業とする『再製樟脳縁起』の記述と時期がほぼ一致する。『柳 田冨士松伝』が台湾への進出を明治28年と記した理由もここにあったのである。 すなわち鈴木商店は市内の再製業者や樟脳間屋らとともに委員を選出し視察団を結成、. 明治28年8月台湾に派遣した。帰国した委員の報告に基づき進出の準備に取りかかり、 渡航禁止が解除されるのを待って、翌29年より小松組名義で大稲垣において樟脳及び樟 脳油の取り扱いを開始した。『履歴書』の記述は台湾における本格的営業開始の時期を示 したものと捉えてよいだろう。それにしても注目すべきは、金子の台湾進出の目論見は、. 自らの樟脳先物売り失敗で鈴木商店を窮地に陥いらせた、まさに同じ時期に進行していた ことである。鈴木商店を題材にした文献には、『金子直吉伝』も含め、先物売り失敗で傷 心し、なんとかその片を付けた金子が、心機一転台湾進出をはかったかのような描きぶり が目につくが(12)、実際の金子は損失処理の傍ら、着実に次の商機を窺う剛胆さと冷静さ 一20一.
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