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鈴木商店と樟脳利用工業

ドキュメント内 鈴木商店と台湾開発-樟脳事業を中心に- (ページ 160-180)

帥、∴

第六節  鈴木商店と樟脳利用工業

(1)セルロイド工業

a セルロイドの発明と国内セルロイド産業の勃興

 セルロイドはニトロセルロースと樟脳で作られ、セルロイドにおける樟脳の割合は25

%である。セルロイドの製造はおよそ次の通りである(1)。

 ①木綿の屑やパルプを硝酸でニトロ化してニトロセルロースを作る。

 ② ニトロセルロースにエタノールあるいはアセトンに溶かした樟脳を反応させる。

 ③ 混合液体を板状、膜状にして乾燥させる。

こうして出来上がったセルロイド生地は透明のシートで、それを加工してさまざまの形に 作り上げることができる「成型材料」として用いられた。透明であったことから着色が容 易であり、製品に美しい色彩を施すことができたし、軽量であり、また清潔感があったこ とから、櫛や歯ブラシ、眼鏡、カフス、カラーなどの日用品、定規や分度器などの文房具、

がらがらやおしゃぶり、人形、水遊び道具など玩具の製造に利用されるなど(2)、生地 製造業の川下に多くの加工業が存在することとなった。また写真フィルムもセルロイドが その原料となっており、フィルム工業はセルロイド工業を親工業として出発している(3)。

しかし、主成分のニトロセルロースはその組成が爆薬に近く、したがってセルロイドも非 常に燃えやすいという弱点を抱えることになり、戦後は石油化学の発展によって出現した プラスチックに「成型材料」の主役の地位を譲り渡すこととなった。写真フィルムもまた 不燃性の「酢酸繊維素」にとって代わられた(4)。

 そもそもセルロイドは明治2(1869)年にアメリカの印刷業者ハイアット兄弟が、印刷 用ローラーやビリヤードの球などを人造品で製作できないかと研究していたところ、硝化 綿と樟脳と酒精とを混合溶解させたあと、酒精を蒸発させるときれいな弾力性のある固形 体を得られることを発見したのが始まりである。兄弟はこれをセルロイドと命名し、アメ リカ・セルロイド製造会社を創立した。一方これより少し前、イギリスのパークスは硝化 繊維素と樟脳との混合液から生成される固形体を発明し、サイロナイトと名付け、ブリテ

ィッシュ・サイロナイト会社を創立した。イギリスではこの1社にとどまったが、アメリ カではこの後多数のセルロイド会社が生まれ、フランス、ドイツ各国にこの工業が広まっ た(5)。日本では明治10年にドイツから神戸に見本が送られてきたのが始まりで、爾後 神戸、横浜、東京などで疑似珊瑚の玉に加工され、セルロイド加工が始まった。明治18 年になると、三井物産が色物や象牙生地を輸入して大量に販売したことから、加工業は本 格的に始まった。したがって、わが国のセルロイド工業は生地製造から起こったのではな く、まず加工業から起こったのである。その生地製造は明治3I年に三輪石鹸本舗丸見屋 の三輪善兵衛が透明セルロイドを製造したのが最初であり、工業的生産の開始はセルロイ ド技術者岡中敬信が生地製造工場を建設した明治38年を待たねばならなかった。これよ り先、明治20年頃からは、加工後の生地屑を回収し、アルコールを加えて練り返す再製 生地製造業が起こっていたが(6)、その品質や安定的な供給にはなお課題が多かった。

その一方で国内の加工業からの需要はますます旺盛になり、欧米からの輸入に頼らず、良 質で大量のセルロイド生地を確保するためには、再製生地製造より数歩進んで新製生地製

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造を国内で行う以外にはなかったのである。

b セルロイド生地製造業の発展

 この要請に応えるべく設立されたのが、三井合名の「堺セルロイド株式会社」(以下「堺 セルロイド」と称す)と三菱・岩井商店・鈴木商店共同出資の「日本セルロイド人造絹糸 株式会社」(以下「日本セルロイド人絹」と称す)であった。前者「堺セルロイド」は、

田中敬信の働きかけにより三井家が出資し、アメリカ人技師アクステルを顧問として、明 治41(1908)年7月に設立された。工場は大阪堺に明治43年に完成、翌44年には試製 品を出したが、技術未熟のため不良品が続出、その後はアクステルを解任し、日本人技師 のみで技術改良を加え、製造を軌道に乗せた。一方「日本セルロイド人絹」は元台湾専売 局樟脳課松田茂太郎の奔走により、上記3者が出資者となって明治41年3月に設立され た。将来は人造絹糸や火薬類まで製造する総合化学メーカーを目指したのが特徴である。

社長には三菱より近藤廉平が就任、イギリス人技師クリーンを顧問とし、外に5名の外国 人技師を招璃した。「堺セルロイド」と肩を並べるほどの最新鋭工場は兵庫県網干町に建 設され、明治44年8月より運転にはいったが、こちらも技術未熟のため不良品が続出、

日本人技師の手で問題を解決した。大正元年末には外国人技師を解任、三菱は経営から手 を引き、岩井商店代表岩井勝次郎が引き受けることになった(7)。

 このように同様の課題を克服した両社ではあったが、狭隆な国内市場をめぐって無理な 競争を続けた結果、価格が低下し、経営困難に陥った。その原因は両社とも世界市場に照 準を合わせて工場を建設したため、当時の国内需要量をはるかに上回る供給を行ったこと、

薄葉紙、酒精、諸薬品など生産に必要な原料が、国内化学工業の未熟さから欧米品と対抗 するだけの力を持ち合わせていなかったこと、そして「三国セルロイド」や「能登屋セノレ

ロイド」が台頭し、セルロイド生地販売を積極的に展開したことなどである(8)。

 しかし、大正3年に勃発した第一次世界大戦によってセルロイド業界は新たな局面を迎 える。「日本セルロイド人絹」は、ロシア、ルーマニアからの膨大な火薬の注文に応じる べく、工場設備を火薬製造に転用しやすい利点を生かし、翌4年3月よりより火薬製造を 開始した。同社はこれにより経営危機を脱したが、その代償として工場は陸軍軍人の管理 下に入り、このため岩井勝次郎が大正5年に取締役を辞任するなど、経営陣が入れ替わっ たほか、設立以来の技師の中には会社を去る者も出て、人材流出の痛手を被った。そして

この時点で会社経営は鈴木商店系に移ることになった。一方軍需品製造優先でセルロイド 製造が中断した欧州各国は大正4年になるとこぞってセルロイド生地および加工品をわが 国に注文した。「堺セルロイド」は一躍活気を取り戻し、翌5年には工場を拡張して対応 した。こうした状況に「日本セルロイド人絹」でも大正6年後半からセルロイド製造に立 ち戻りたが、この活況に新規参入者が相次いだ。「日本セルロイド人絹」を辞した岩井勝 次郎は、元網干コニ場の技師とともに大正5年に「大阪繊維工業株式会社」を設立すると、

翌6年には「堺セルロイド」を引責辞任した田中敬信を技師に迎えて「東京セルロイド株 式会社」が設立された。このほか大正初期には大阪地区で、東洋、十河、的場、西田、淀 川、筒中、小山、国際、中谷、大正の諸工場があり、東京地区にも東亜、東洋、青木、永 峰、千種、一城、秦、十全の諸工場が加工業の兼営で創設された(9)。日本のセルロイ

ド生産はここに大きな飛躍を遂げたのである。【表2.6.1】(資料編p.15に掲載)はセル        一57一

ロイド生地生産高の推移と、それに伴う生地、加工品の輸出入の推移を表している。これ によると、生地、加工品とも第一次世界大戦中に国内需要を満たし、輸出に転じているこ とが見て取れる。

 しかし、このような中小セルロイド業者の乱立は、やがて各業者に過当競争を強いるこ とになる。製品は低価にして粗製濫造を来たし、輸出商、外商に主導権を握られる事態を 招いたのである。また同時に樟脳供給の逼迫を引き起こし、樟樹の濫伐をもたらした。当 時のセルロイド原料用樟脳は、大正5年の内台局間の協定により、内地産は精製用に限定 販売され、台湾産の一部が国内セルロイド用に供給されはじめたばかりであった(【表2.

3.1】参照)。しかし、専売樟脳の主たる販売重点は国内精製業、および海外セルロイド 業であって(【表2.3.2】参照)、国内セルロイド業の急速な発展と原料需要増加に対す

る割り当ては困難な状態であった。ここに業界、専売当局双方に合同の必要を認識する素 地が生まれたのである。

C セルロイド生地製造業の合同 一大目本セルロイド株式会社一

 大正7年末より、台湾総督府専売局長賀来佐賀太郎が勧誘斡旋役となって、業界の大同 団結の協議が開始された。賀来局長は政府側の意向として有力なセルロイド会社の合同に よる新会社には新製生地用樟脳を独占的に供給し、他には少量の再製生地用樟脳を供給す るに止める方針を提示したため、合同の気運は一挙に高まったが、大戦中相当の基礎を積 み上げた堺・大目本両全社と、創立間もない他社との間には大きな意見の隔たりがあった。

このため協議は難航したが、翌8年9月8目、有力8大会社による合同が成立し、資本金 1,250万円(株式総数25万株)の「大目本セルロイド株式会社」が誕生した。合同に参加

した会社は【表2.6.2】のとおりである。

【表2.6.2】セルロイド製造業合同8社とその概要

会社名 資本金(万円) 年間生産能力(t) 所在地

堺セルロイド 200 1,868 大阪・堺

日本セルロイド人造絹糸 240 1,444 兵庫・網干

大阪繊維工業 200 971 兵庫・神崎

東京セルロイド 150 347 東京・小豆沢

三国セルロイド合資 10 375 大阪・十八条

能登屋セルロイド工場 20 133 兵庫・尼崎

十河セルロイド工場 8.8 107 大阪・神路

東洋セルロイド 20 136 大阪・吹田

 出所)『ダイセル化学工業60年史』p.9より作成。

 合同に際しては合同比率および幹部の人選に難航したが、結局、堺セルロイド48%、

日本セイルロイド人造絹糸21%、大阪繊維工業16%、東京セルロイド7%、その他4仕 合計を8%とし、取締役社長には森田茂吉(堺セルロイド)、専務取締役には島村足穂(日 本セルロイド人造絹糸)、常務取締役には西京茂二(大阪繊維工業)、浅野修一(堺セル

ロイド)が選任された。鈴木商店としては同年11月の臨時株主総会で、取締役、監査役 の増員枠にそれぞれ長崎英造、松岡茂太郎を送り込んでいる(lO)。鈴木商店の持ち株数 は、鈴木破綻時の昭和2年の段階で2万3,609株である(l1)。ただし、大目本セルロイ        一158一

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