• 検索結果がありません。

台湾における脳業政策の推移

ドキュメント内 鈴木商店と台湾開発-樟脳事業を中心に- (ページ 92-104)

第二章  鈴木商店と台湾樟脳専売制度

第一節  台湾における脳業政策の推移

(1)領台以前の脳業政策

a 明清代の台湾樟脳政策と外商支配

 『樟脳専売史』は「信掻するに足る文献はない」としながらも、対岸福建省地方は中国

一88一

における製脳業発祥の地として、最も古くから樟脳の製造が行われており、それが両岸交 通が盛んとなった明朝末から鄭氏時代(1661〜1683年)にかけて台湾に伝わったと推定

している(1)。

 清朝時代の記録では、康煕59(一720)年に禁令を犯して伐木製脳を行った百数十人が 処刑されたとする記述が最も古い。樟脳が造船用材として貴重視されたことと山地蕃族と の接触を厳禁していた理由によるものであるが、これは樟脳事業が当時既に相当有利な事 業となっていたことを裏付けている。擁正3(1725)年に、清国政府はクスの大木を伐採

し船材とするにあたって、その運搬費捻出の必要から製脳業を特許制にした。台湾におい て製脳業が正式に政府の許可事業となった最初の記録である(2)。

 西欧のアジア進出が始まった16世紀半ば以降、ポルトガル、スペイン、オランダ、イ ギリス、フランスなどの商人が中国本土や台湾に来航し貿易に従事した。これに伴って台 湾樟脳の輸出がこれら外商の手により漸次増加した。その一方で山地開発が進み、製脳は 開墾事業の副業として著しく発展し、19世紀の初めには、製脳業は台湾の主要産業と考 えられるようになった。外商は清国官吏と結ぶか、ときに武力をもって入港し樟脳の買い 付けに従事した。アロー号事件の処理のため、威豊8(1858)年に天津条約が締結される

と、これに基づいて淡水(1862年)、基隆(1863年)、続いて打狗、基隆(いずれも1864 年)が開港された。これによって樟脳貿易はいつモう活発となり、年間ほぼ1OO万斤内外 の輸出を見るようになったが、.同時に外商の支配が進行したのである(3)。

b 陳方伯の専売制度と樟脳条約

 このような状況の下、台湾道会陳方伯は同治2(1863)年空文となっていた樟脳の私製 禁令を復活し、政府資金をもって樟脳の買収を開始する措置をとった。これは不完全なが ら台湾における樟脳専売制度の創始といえる。収納業務を民間請負とし、請負業者から毎 年一定の金額を徴収すると共に、その収納製品を一手販売権を持つ外商に交付する方法を

とった。しかしこの制度に対しては外商より強い非難が続出した。また一方で密造や外商 に対する密売が相次ぎ、さらには外商が製脳地で密売を企てるケースも現れたほか、これ に憤慨した本島人が外人やその使用人を襲撃し貨物を掠奪する事件も相次いだ。このため 同治5(1866)年イギリス領事は専売制の廃止を求めたが、清国官吏はかえって外商への 樟脳販売を拒否する挙に出たのである(4)。

 ここに至って、日頃競合関係にあった外商らは協力体制をとり、共同で抗議を提出した が、この最中の同治7年清国官吏がイギリス商人の所有する6,000ドル相当の樟脳を押収

した事件を発端としてイギリスは海兵を上陸させ(5)、その結果イギリス政府と清国政 府の間に樟脳に関する条約が締結された。これが同治8年の樟脳条約で、これにより外商 は自由に奥地へ入って樟脳の買収輸送する権利を認められた。直接製脳業に従事する権利 を認められたものではなかったが、実際には清国官吏の怠慢と微力に乗じ、次第に禁を犯 して永住し、店舗または貨物集積所を設け、士民に資金を貸付けてその名義の下に製脳業 を営み、ついに台湾樟脳業の実権を掌握するに至ったのである(6)。

C 劉銘傳の専売制度とその廃止

光緒11(1885)年、清仏戦争敗北を受けて台湾の重要性を認識した清国政府は、劉銘       一89一

樽を巡撫に任命し台湾に派遣した。光緒13年、北京政府に樟脳と硫黄を官営とすること を建議し、台北に樟脳硫黄総局を置き、脳務総局を大嵩嵌及び彰化に設け、さらに分局を 南庄、三角湧、讐渓、単簡、塙里杜、集集に設置し、樟脳に関する事務を管掌させた。ま た別に宜蘭及び恒春に総局を置いて脳務の奨励にあたらせるとともに、兵勇を内山に駐屯 させて生蕃に備えた。これは同治時代に失敗した樟脳専売制度の復活を企図したものであ り、外商には買付を許可する一方、内商には製脳業を許可した。そして時には製造人に資 金貸付を行うなど樟脳業の振興を図った。樟脳生産は産地蕃人との抗争が激化し大いに減 産したときもあったが、その後次第に回復した。価格は当初100斤8ドルで買収し12ド ルで売り渡したが、光緒14、15年頃には12ドルで買収し30ドルで売渡し、1OO戸当た

り18ドルの専売収入を得た。この樟脳は上海で60ドル、香港では70ドルで取引された。

 しかしこの専売制度も、価格の高騰による密売の増加や外国領事館や外商からの樟脳条 約違反を理由とする撤廃要求により、光緒16年再び廃止となった。この年の5月、イギ

リス恰記洋行が集集より樟脳7万斤を購入して彰化県鹿港に運んだところ、巡察官吏に押 収された。さらに9月には5万4千金斤を同所で没収されたため、イギリス領事を通じ北 京総理衛門に提訴した。総理衙門は戸部に移牒したが、戸部は到が巨利を隠して奏明もな いことを眉にして、割の責任を弾劾奏請し、むしろ外商の立場に立って樟脳専売を論難し、

政府は課税にとどめるべきとし(7)、この結果11月に専売制は廃止に至ったのである。

 この後、翌17年脳硫総局は市政使司の下に置かれ、大樹嵌と彰化の脳務総局は脳務稽 査総局と改め、各分局の配置は従来通りとした。到は蕃界守備隊駐留費として100戸当た

り18元の課税を試みたが、外商の反対に遭い実行できなかった。そこで対抗手段として 内山より防蕃の軍隊を撤退させたところ、生蕃の出没激しく、脳下殺害、脳寮放火など暴 力の限りを尽くしたので、業者の請願を受け入れるかたちで軍隊駐留を再開し、製脳者か ら蕃地警備の費用にあてる「防費」を脳仕1扮(小鍋10個)当たり毎月金8ドルと100 戸当57セントの麓金税を徴収することとした。しかしこのような杜単位の課税は、生産 額の多少を無視しており、このため滞納脱税が横行し、光緒21(1895)年には輸出量100 戸当たり4ドルの駐防費を各地区の麓全局に納めさせた。この年輸出量は500万斤に達し た。また各脳務局の事務改革の企図があったものの、その実施を見ない間に、台湾は日本 の版図となったのである(8)。

(2) 領台直後の脳業政策

a 樟脳業の取締 一「官有林野及樟脳製造業取締規則」(9)一

 劉銘樽の専売制度が廃止されたのちの、台湾脳業のかかえる問題点を見ると次の4つに

集約できる。・

 ① 製脳から販売に至るまで樟脳事業の実権を外商に握られていたこと

 ② 山地の製脳技術は極めて幼稚で、単に生産数量の多いことのみを頼んで、濫伐濫造   の状態であったこと

 ③ 経済状態が劣悪で、品質改良、原料保続など到底期待できない実情であったこと  ④ 山地蕃人との間に製脳業が起因となってしばしば紛争が生じていたこと(10)

である。このような状況の中、いまだ匪賊の反乱が治まらない台湾に内地の製脳業者は続 々と渡航してきたのである。

      一gO一

  射倖の徒製脳業の有利なるに着目して続々と渡来し従来の實権者たる外商と侯に危険   を冒し競うて製脳地に入り島民を使嫉し蕃人を利誘し相共に濫伐粗製を事としたり斯   くの如くにして若し放任顧みざらむか弊根益牢く終に天興の富源を枯渇せしむるの虞

  あり (11)

 鈴木商店の参加する小松組の面々もこの中に数えられていたにちがいない。総督府は上 記4つの課題と日本人製脳家の進出の条件整備を目論んで、清朝時代の諸規則を精査した 上で、領台5ヶ月目の明治28年10月31目「官有林野及樟脳製造業取締規則」(律令第二 十六号)を制定して、樟脳業を正式に総督府の許可事業としたのである。その要旨は、

 ①所有権が不明確な山林原野をすべて官有とする(第1条)

 ②領台以前に清朝政府が許可した区域のみ林木伐採、林野開墾を認める。また領台以   前に清朝政府より許可証を受けている者にかぎり製脳を許可する(第2条)

 ③ 現に樟脳製造に従事する者は、期目内に清国政府許可証を添付し、許可願を提出す   る(第3条)

というもので、まず官有林と民有林を明確に峻別し、新規製脳者は一切これを認めない方 針をとった。清国人は28年5月以前より在台する者は台湾人とみなし、外国人の製脳に ついては清国政府が公式に認可したものではないため許可を与えなかった。また日本内地 人に対してもその製脳を認めず、本島人か清国人の権利を譲り受け、またはその名義をも って製脳することを認めるに限った(12)。現行製脳者については許可願を期日内に提出 しない場合、物件や生産品の差し押さえや没収を可能とした。民有木については明治29 年6月19日r樟脳製造業取締細則」(府令第13号)をもってその製脳を認めた。

b 樟脳・樟脳油に対する課税 一「樟脳税則」「樟脳油税則」(13)一

 当初総督府は清国政府の関税率を踏襲して樟脳百戸当1円50銭の輸出税を徴収してい たが、島内における歳入増加を図るため、台湾を代表する物産として樟脳と烏龍茶が課税 対象として選ばれた。そこで樟脳については明治29年3月5目樟脳税則(律令第12号)

を発布し、物品税としてlOO戸当10円を賦課し、一方輸出税は各国との条約により減額 し、1OO戸当たり56銭7厘としたので、樟脳100戸当たり税額は1O円56銭7厘となっ

た(14)。「樟脳税則」の要旨は、

 ① 樟脳営業者を樟脳製造人、樟脳仲買人、及び樟脳搬出人の三種とする(第1条)

 ②樟脳営業をする者は営業鑑札の下附を受けなければならない。営業に関しては「樟   脳製造業取締規則」の製造許可を受けた者に限る(第2条)

 ③ 樟脳製造人は樟脳100斤に付き樟脳製造税工0円を納めなければならない(第8条)

というもので、樟脳製造の取締を規定したr樟脳製造業取締規則」に対し、r樟脳税則」

は樟脳営業に関する取締対象を明確にした。また営業鑑札をもって樟脳営業者を限定し、

その営業者は「樟脳製造業取締規則」の製造許可を受けた本島人及び内地人に限定したこ とで、外国人の営業を全面的に禁止した(15)。r樟脳税則」の最大の狙いはここにあっ たのである。このため外商との関係がしばしば紛糾し国際間題を招来させることになった。

 一方樟脳油は、清朝時代には小仕法による製脳法であったため、油分の採取がなされて いなかった。しかし内地では阪神地方においてすでに再製法が発明され、樟脳油の価値も よく認められていたので、領台早々内地より買付のため多くの者が渡台した。それにつれ        一91一

ドキュメント内 鈴木商店と台湾開発-樟脳事業を中心に- (ページ 92-104)

関連したドキュメント